咲くは裂く時に割くりて

久麗ひらる

昨日のない世界で然り


「ねぇ、これって何だっけ?」

 ポニーテールがトレードマークな頭髪を揺らして私に語り掛けたのは、新卒入社して早三年目の同期だった。

「――どれ?」と、私はモニターを眺めていた視線を外し、パソコン入力の手を止めながら差し出された書類の中身を覗き込む。すると瞬時に、昨日行ったやり取りが呼び起された。

「あぁ――これ。昨日のやつでしょ?」

 すると同期は、長い付けまつげをパチパチと瞬かせながら目を丸めた。

「え、何?」


 本気でそう聞き返すものだから、私は彼女を見つめていた視線を外し、斜めに傾けていた姿勢も正した。

「何――ってやだ。昨日のこと覚えてないの?」

 社内の事務的作業の凡ミスが発覚したところで、所属部長からもこっぴどく叱られ、特大の雷が落ちたというのに。彼女は不思議そうに首を傾げている。

「覚えてなくはないけど……?」

 語尾を弱めては「それが何か?」と、私に差し出して確認した手元の資料をまじまじと眺めた。

 私は呆れ半分、冗談も半分にした笑みを引きつらせて言葉を返した。

「ちょっと、昨日の事なのにしっかりしてよー?」

 どうしたのかと訊ねるよりも先に、彼女は資料に落としていた視線を私に向かって投げ寄越す。

「だーかーら。さっきから昨日昨日って言うけど。昨日って何なの?」

 今度は私が息を呑む番だった。


 昨日は昨日だ。昨日以外の何ものでもないだろうに。

「え……だって、昨日の事――だよね?」

 何を言っているの、この人は――。

 そう思ったのは私だけではなかったらしく。同期は助け舟の如くの同意を求めるが為に、デスクを向かい合わせにしている向こう岸へと声を荒げていた。

「ねぇねぇ、さっちん? 昨日って知ってる?」

 いきなり何を言い出すのかと、さぞや後輩は不思議に思ったことだろう。問いかけられた彼女もまた首を傾げ、眉を潜めながら困惑顔で応じていた。

「……昨日、ですか? 何ですか、それ?」


 私の中で時が止まった。――何を言っているの、この人たちは。昨日を知らないとは、どうかしてしまったのではないだろうか。

 それとも単に、からかわれているだけなのか――。

 私は思わず集計作業の手を止め。『昨日』という項目を文字にしてインターネットの検索バーに打ち込もうとした。

「何よこれ……」

 きのう、と打てば一発で変換されようものも。昨、日と分けて変換しなければならない事態に遭遇し、困惑が優先されても先を急ぐ。

「何なの? もう!」

 この時は事の次第をまだ把握しきれていなかった。検索の結果がまさかのゼロ件であるとも予想だにせず。

「……どういう事?」

 インターネットの世界にも。『昨日』という単語の記述も、項目も何一つ存在していなかった事態を受けて、血の気が引いた。

 昨日は昨日であるのに、突然、存在しなくなる事など――あるものか。


 東に陽が昇り、西への日暮れで夜を迎える。そんな一日が過ぎた証しの昨日があるからこそ、今日という日を迎えているのに。――私が間違っている?

「……そうだ! ニュース!」

 報道は起きた事案を情報として流すもの。ニュースなら「昨日に起きた事件の続報です」なんてものも日常のはず――、と考えた私は。ニュース記事を求めてインターネットの波に乗った。

 しかしながら報道は、どこもこれからの予定を含む、未来の展望を予測するものや、予報を知らせるものばかりであふれていた。

「……」

 マウスを握っていた手が。キーボードに触れていた指が震え出した。


 ――何よこれ。昨日がないなんて何で? 何で! どうして? 

 昨日があっての今日ではないの!?

 一瞬、呼吸の仕方を忘れて息詰まった。


 当たり前にあると思っていた『昨日』と言う名の過去が、何一つとして。今、この現在に存在せずとした世界で私は一人。ざわめく日常音に取り囲まれた箱の中で、呆然と虚ろになっていた。


 己の中には昨日という枠や尺、言葉や意味も記憶もあるのに。それが間違っているのだと気づいてから――しばらく。

 私は心を落ち着かせるためにデスクを離れ、休憩所で温かい飲み物を手にしていた。

 落ちつけ――。少し混乱しているだけだ。


 そもそも昨日がなければ今日はない。今日がなければ明日もないのに。

 大体、昨日までの積み重ねなくして、どうやって物事が成り立ってきたのか――誰も気づかないの?

「休んでるところで、悪いんだがな?」

 部長の声がして私は、飲み物の表面を見つめていた顔を上げた。独特のヤニ臭さが漂い、彼もまた一服した後だと察する。

「結果報告書、まだ上げられんのか?」

「私の集計と分析作業は終わっているのですが……」

 同期のまとめ作業が遅すぎて、の言い訳は口にしない。

「昨日の事でしたら――」

「言い訳はいい。だいたい何だその、昨日って。もっとマシな言い訳はできんのか?」

「ですが昨日、部長がちゃんと精査しないからと――」

「おいおい……」

 部長は眼鏡を取って、哀れむような目で私を見下げた。デスクに戻れば、腰かけた椅子の背がギシシと軋む恰幅の良い体格で威圧もしてくる。

「昨日なんてものはない。どうした? しっかりしろ!」


 そうとは言われても。昨日がないだなんて事態に、ある日に突然気づき。はいそうですかと容易く受け入れられるものか。

「お前どうしたよ? 急に。何かあったか?」

 部長はパンツポケットから取り出したハンカチで、眼鏡についた汚れをふき取った。けれど、それでガラスが綺麗になったとは思えない。

「いえ……何も」

「昨日なんてものより、しっかり前をみろ。過ぎたことを悔やんでも何にもならんぞ?」

「そんなことないと思います。過去に学ばなければ成長もしないし、過去があるからこそ、今があるんですよね?」

 眼鏡をかけ直した部長はやはり、歪んだ小さな目で私を見据えた。

「大事なのはこれからなんだ。終わったことよりも先のことを考えろ」

「でも。反省や失敗を生かすからこそ――」

 すると部長は、憐れむ視線で威圧を掛けた。

「お前、ちょっと休め……」


 最後まで、部長どころか周囲の人たちと会話が噛み合わず。私はこの日、自ら早退を申し出た。

 部長が欲しがっている書類は、仕上げに手惑う同期に念だけを押して、そのまま社を後にした。


 雑踏の街中を縫うように進み、真っ直ぐ家へ帰ろうとするその途中で。スマホやタブレットでも『昨日』を検索してみた。

 電車を待つ間にも駅のベンチへ腰掛け、何度も昨日を探った。

 結果は先と同じで何も出ず、昨日に関するニュースも歴史も何もなかった。


 ――そんなはずは。

 焦燥に駆られた私は、それでも諦めきれずに検索し続けた。

 明日の予報や未来の予測や展望があるのに、過ぎゆく過去が存在しないだなんて。そんなのおかしい。


 過ぎた過去や、昨日がなかったら良いのにと思うことは誰にでもあるだろう。

 それでも、過ぎたものがあるからこそ今があり。今あるものと、これからの全てが正解でなくとも。過去の過ちを正せるのは、失敗と経験があってこそ。でなければ、成長も進歩も進化もない。

 歴史を積み重ねる事なく、今がいきなり、現代がぱっと出現して始まる訳もない。


 ――何なのこれ、世の中全員でエイプリルフール?


 あるはずの昨日が全くない。

 なくなっていることを気にする人が、誰一人としていない。

 ――世界に一人、私だけ?

 そんなはずはない。


 端末から顔を上げ、茫然した視線をどことなく漂わせていると。一つの花に視線が釘づけになった。

 コンクリートに囲まれた、ひび割れの中より逞しく。風にでも乗って運ばれてきたのだろう、種が発芽し花を咲かせている。

 咲かせた花が大きすぎて、細い茎だけでは支えきれずにしな垂れてはいるけれど。

 ――そうだ。花とていきなりこの世に誕生しない。

 種が根づき芽を出し、つぼみを経て開花するその一生は。しおれ朽ち果てるまでを、たったの一日で成し遂げ終えるものではない。


 そう考えた私は、ふと自分の両手に視線を戻した。

 そうだ。昨日がないのなら、自分が生まれた事実は? 誕生日は?


 その誕生日を、手の平を見つめながら考えた。

 日にちは覚えている。西暦は千九百、いや二千年だったか。


 自分の中で、沸々と沸き起こる不安のざわめきが血の気を引かす。

 ――消えていっている! 普段、想起しない過去が、想像を絶するよりも速足で消去されていっている。


 焦った私は、鞄の中から手帳を出し。紙にペンを走らせ、必至に覚えている過去を文字にして残そうと書きなぐった。

 忘れる。忘れてしまう! 大事な思い出が! 二度とはない貴重な過去が――。


 風圧を連れた電車が到着し、発車を知らせる大きな音で、私ははっと我に返った。

 手元の手帳に走らせていたボールペンを持つ手が震える。

「――な、んで?」


 意味もなく震えだした狼狽に、私は絶望していた。

 だって、書き留められないほどの記憶が滾々と鮮明に湧き出るものだから――。


 私は確かに覚えていた。

 昨日までの事と、つい今しがたまで起こった物事を。

 それが当然だと思っていたのに。


 昨日という教訓がなければ、今日もまた、同じ過ちを繰り返すだけなのに。

 そう考えたところで、私は自然と泣いていることにも気が付いた。

 どうして次々に涙が出て頬を濡らすのか。

 

 忘れるのが怖いのか。

 昨日などないとする、現実が怖いのか。

 昨日など気にせず、疑問にさえ思わない人々の群れが怖いのか。

 訳も分からない不安と畏怖に陥り、足元もガクガクと揺らして震えた。


 項垂れ、ハンカチをぐしょ濡れにする私の頭上から声がした。

「――だから。人は結局、争いを繰り返す」

「……?」

 誰とも知れない、初めて聞く声色に反応した私は。濡れる眼を上げた。

「きみは、惑わされず。芯を強く持っていた。それだけさ」

 ――あなた、誰。

 訊ねようとする思考がまとまり、声を出す前に。黒のスーツで身を包んだ成年は言った。

「きみは、選ばなければならない」

「……何を、ですか?」

「選ばなければ。きみは、きみ自身ではいられなくなるから」


 何を選ぶというのか――。

 私自身でいられなくなるという意味すら呑み込めない。

「……それって、昨日と、何か関係があるんですか?」

 混乱する中でも、ようやくそれだけを訊き返す。

「そうだね。どちらを選ぶ? 進めない過去か。明日のない今日で妥協するか」

「……それって――」


 どちらを選んでも、先ある明日は選べない、と言う事ではないだろうか。

 

 過去に捕らわれ続けるのなら。せめて、展望が見えなくとも。今日を選んだほうがずっと良いのでは――。

 私は、妥協という言葉に違和感を覚えながらも。昨日はなくてはならないもの、を根底に考え選択していた。

「それなら……過去を振り返らず、今日を選ぶべきだと思います」


 男は私を見下ろし、淡々と「そうですか」と告げた。

 そして、左の耳に装着していたインカムに手を当て、「リセット要請ナンバー、ワンオーシックスエヌ、ヒトフタまるまるセブンフォーオーナイン」羅列した数字を述べる声がした途中で、急激に私の意識は遠のいた。


『――要請ナンバー確認。受理されました』

 機械的な応答を受けた男は、ベンチで意識を失った女性を悲しげに見下ろしていた。

「……開くと思ったのにな」

 コンクリートの縁でしな垂れた花も眺めてから、男の姿はふつと消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

咲くは裂く時に割くりて 久麗ひらる @kureru11

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ