前夜(三)

 「怖くて、すぐに引っ越した。連絡先も消した。でも追いかけてくるんじゃないかと思って。ずっと怖くて」

 彼女はまた泣いていた。向かい合う都は、どんな顔をすればいいかわからなかった。自分と出会う前、彼女に恋人がいたのは過去にも聞かされていたけれど、それ以上の話をしたがらないので、あまりいい別れ方をしなかったのだろうとも思っていた。これほどまでだなんて、予想もしなかったのだ。誰が予想できる?

 「あったの。それまで。――彼と、したこと」

 訊いてしまってから、意味のない質問だ、と都は悔いた。しかし真名子は誠実に答えてしまう。

 「ない。彼はずっと、したがってたけど。したら、いけない気がして」

 二年以上の交際の中でも、安易に肉体関係に及ばなかったのは、結果論だが賢明だったかもしれない。改めて、正面の真名子を見る。毛先をゆるく巻いた、艶やかな栗色のショートヘア。髪に隠れて見えないけれど、少しだけえらの張っている色白の丸顔。皮を剥いだ若木みたいな、しなやかな首。薄い肩は小刻みに揺れていた。

 都の視線はふたたび顔まで上がる。なにより印象的なのは両目だ。奥二重だがとても形が良く、瞳も他人より大きく見える。ただ今は、その美しい眼は潤み、赤く腫れている。あの眼球の外側は涙で満ち、そして内側は、膜一枚隔てた下はルビーの色の血が充満しているのだ。堪えることの出来ない何らかの感情によって。泣いていても綺麗だった。こんな子、確かに自分のものにしたかったはずだ。だとしても到底許される話ではないが。

 次第に胸の奥が熱くなって、耳鳴りがしてきた。カフェオレをいくら飲んでも冷めてくれない。この熱を形容しようとしても、憤怒、混乱、憎悪、憐憫、どんな言葉も相応しく思えなかった。こんな時、避けようのない呪いを受ける時、どんな慰めも相手を癒やすものではない。都は自分の経験からそう信じるようになった。だからこそ、何も出来ないのがつらい。

 出来るなら、真名子の眼球に歯を立てたかった。そこから溢れる血と一緒に涙を、痛みや苦しみを、忌まわしい記憶を吸い出せるなら、迷わずそうしたかった。

 巨大な心のうねりを抑え込み、都がようやく言えたのは、

 「明日、休みだよね。私、いちにち家にいるから。講義無いから。もしアレだったら警察行こ。付いてくから。大丈夫」

 そんな胡乱な台詞だけ。それでも真名子は少し笑ってくれた。ありがと、みゃこちゃん、と。

 真名子は鼻をチンとかんで、泣き笑いの顔でティッシュを丸め、離れた壁際のゴミ箱へ投げた。スリーポイントシュートは弧を描き、大きく外れた。今度は都も笑えた。

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