コーラルリーフ

若生竜夜

コーラルリーフ

 走っていた。走っていた。プナは全力で走っていた。

 行ってしまう。マヌが行ってしまう。早く早く。急がなければ。

 焦燥のままに砂利道を走る。風のように。風になったように。桟橋へと続く道を走っていく。

 スカートのすそがはためく。道の脇に咲くオヒア・レフアやアワプヒの赤い花が、風にゆらぎザワザワさわいだ。

 はいていたサンダルはいつのまにか脱げてしまっている。土を踏む裸足の足裏には、すでに砂利がくいこんで血が滲んでいる。だがプナは止まらない。時間がないのだ。止まっている時間などないのだ。行ってしまう。マヌが行ってしまう。コーラルリーフを越えて。この南の島を捨てて。遠く遠く濃い青の海の向こうへ。行ってしまう、本物のマヌのように海の向こうの国へ。たったひとり、行ってしまう。


 プナは島の娘だ。島の男ウアと島の女アイナとの間に生まれた娘だ。彼女はヘキリ山マウナ・ヘキリのふもと、青々としげる椰子ニウの木に囲まれた村で椰子ニウの実の汁を飲んで大きくなった。

 マヌは半分だけ島の息子だ。島の女ナニを、島の外からやってきた肌の白い男が、気まぐれに愛して生まれた息子だ。プナより数日早く生まれた彼は、プナと同じように椰子ニウの実の汁を飲み、時に島の外から届くアイスクリームを舐めて、村で大きくなった。

 マヌの肌はプナたちの肌よりずっと色が薄く、マヌひとり村の中で目立ったが、ふたりとも同じように村の他の子供たちとコロコロと村の広場でころがり遊んでいた。


 やがてプナの胸がふくらみ始めるころには、将来プナとマヌをいっしょにするのがよかろうと、おとなたちの間から洩れ聞こえるようになった。歳も同じ。気性も合っている。となれば、これ以上似合いの相手も互いにいないだろうと。

 それは背の伸びたマヌが、プナのためにプアカラウヌの花を採ってくるようになったからだった。


 プナはずっと信じていたのだ。島の他の女たちと同じように、漁をする男を待ち、母から継いだ畑を耕して、やってくる観光客に売るちいさなみやげ物を作りながら、男――マヌと暮らしていくのだと。いく人もの子を産み育て、腰が曲がり互いの顔に深くしわが刻まれるまで、マヌといっしょに島で生きていくのだと。信じていたのだ。信じたのだ、プナは。

 マヌは一度もそれを嫌だとは言わなかった。いつだって笑って、プナの好きにすればいいと言っていたから。そうするのがいいのだ、いちばんの幸せだと島の女たちに言われるまま、プナは自分に言い聞かせ、教えられる生き方を信じていた。いつか花嫁となる日のため、ロレに刺繍しながら。

 ほんの昨日まで。


 ペンキのはげかけた桟橋は、濃い日差しを受けてにぶく光っている。プナの踵が桟橋の板を踏んだ。鉄でできた桟橋は陽に焼かれきって、裸足の足裏にはひどく熱い。

 船は既に桟橋を離れ、白い泡の軌跡を残してリーフの切れ目へと遠ざかりつつあった。併走する見送りのちいさな舟が、徐々に離れ遅れていく。

 遠ざかる船からじっと目を逸らさないまま、プナは桟橋の端までたどり着いた。足の下の桟橋は火の上で踊るような熱さだ。プナは耐えられずその場で足踏みをする。

 プナが風でなくなるのを待っていたように、どっと汗が噴き出してきた。ふいごのように動く肺が、ピリピリと焼けつく痛みを訴えてくる。プナはゼイゼイと息を吐く。ゼイゼイ。ゼイゼイ。

 マヌの乗っている船が遠ざかる。泡の軌跡を残して遠ざかっていく。

 逡巡は長く続かなかった。

 タン、と水面へプナは身を躍らせた。どぷり。澄んだあおの水が体をつつむ。足裏の傷に塩がしみて、ピリピリと痛んだ。

 プナは船を追って泳ぎだした。両腕で交互に抜き手を切り、疲れた足をけんめいにばたつかせて前へ進む。まとわりつく水が重い。早く。早く。急がなければ。ああ、この身が魚なら。魚ならきっと追いつけるのに。

 見送りの小舟が見かねて寄ってきた。

 乗れ、と差し出された櫂に腕を巻きつける。プナはそのまま舟へ引き寄せられた。

 舟べりに手をかけ体を押し上げれば、まといついていた水がザアと滝のように流れ落ちていく。

 笑う膝を叱咤し、舟の上に立った。

「マヌ!」

 プナは叫んだ。塩辛い喉を振り絞って。

「マァァァヌッッ!」

 届くだろうか。

 デッキにいた人影のうち、白いTシャツを着たひとつが、手を振ったように見えた。プナは苛立ち目をぬぐう。張り付いた髪からぼたぼたと伝い落ちてくる海の水が邪魔だ。

「戻ってきて! 戻ってきて!!」

 口に両手を添えて精一杯に叫ぶプナへ、けれどすぐに白いTシャツは背中を向けた。聞かない、と。拒絶するその背中は、日差しに陰る船の内へ入ってしまった。

 ああ……。と、膝を支えていた力が抜ける。届かないのだ……。

 プナはへたへたとそのまま座り込んだ。

 ダンッ。プナはこぶしで船底を叩く。船板がびりりと震える。ダンッ、と、もう一度。

 ――悔しい。

 濡れた船底につっぷして、プナは肩をふるわせる。

 どうしてマヌは行ってしまう。わたしを置いて行ってしまう。ずっといっしょだと思ったのに。いっしょにいると思っていたのに。

 嗚咽が喉をすべり出た。海鳥のしゃがれ声のように。ざらざらとした啼き声のように。

 悔しい。

 悔しい。

 ずるい。

 悔しい。

 わたしだって、いっしょに行きたかった。

 島の外へ。

 島の外へ。

 くりかえしを逃れて、島の外へ。

 わたしだって、いっしょに出て行きたかった。


 マヌのように、出て行きたいのに……。


 海と同じ塩味が、頬を伝っていく。


 マヌは言った。島の外へ出て、父親の元へ行くと。父の元へ行き、島の外の広い世界を見て回ったあと、いずれ必ずプナの元へ帰ってくると。

 だがきっと、マヌは戻ってこないだろう。プナにはわかる。わかっている。渡りをするマヌのようには、マヌは島へ戻ってこない。マヌの半分は島の外の血でできている。マヌに流れる外の血と外の生活は、マヌにこの常夏の島を忘れさせるだろう。ちょうどマヌの母ナニを愛した男のように。ナニを置いて島の外へ帰っていった、マヌの父である男のように。

 マヌはプナについて来いとは言わなかった。プナの血が全て島のものだからだ。プナは全部島の娘だからだ。

 プナは島しか知らない。これまでずっと。これからもずっと。プナも島の他の女たちと同じく、島を出ることを許されない。他の女たちと同じく、島を出てはならないと禁じられている。

 それは神々の定めたことだ。はるかはるか昔、プナたちの先祖にヘキリ山マウナ・ヘキリアクアが娘を与えた時から決められた約束事だ。

 やぶればきっとヘキリの音絶えぬマウナが、島の上に高く火を噴くだろう。押し寄せる火と熱く熔けた岩が、村も人も呑みこんで、ジュウジュウと海の水を沸き立たせるだろう。

 だからマヌの母ナニも島を出なかった。島の外へ帰っていった男に狂いそうなほど焦がれても、決して出ることがかなわなかった。島を捨てることができなかった。

 プナも同じだ。島の外にあこがれても、マヌとともに船に乗りたいと焦がれても、島を囲むコーラルリーフの外へは行けない。島に縛られた彼女は、まるで潮溜まりプールに閉じ込められた魚のように、せいぜいリーフの中をぐるぐると巡るしかない。

 プナは顔を上げる。船影は遠く遠く、コーラルリーフの境を越え、外の海へ行ってしまった。濃い青の海へ行ってしまった。

 プナはきりりと唇をかみしめる。コーラルリーフの切れ目を睨む。

 囚われつづけるなら、一生を島に閉じ込められるなら、せめて。


 ひと目、だけでも。


 プナは大きく息を吸い込む。どぷり。制止の声をふり切って、再び海へ飛び込んだ。

 ひと目だけでも見てやろう。島の外を。マヌが行きたがった島の外を。リーフの外の濃い青の海を、一度でいい見てやろう。

 プナは必死に水をかき、足をばたつかせる。まとわりつく水が重い。波に押し返されて、一向に体が進まない。だが、負けるものか。負けるものか。ひと目でいい、島の外を見るのだ。

 プナは行く手を睨む。コーラルリーフの外、濃い青の広い海を。島の外の広い広い海。ひと目でいい。外を見るのだ。

 足裏の傷がひりひりと痛む。滲んでいた血は、もう止まっただろうか。


                *


 外の海から、三角の背びれがリーフの切れ目を越えて、波を蹴立てやってくる。

 島の外を目指し泳ぐプナの目は、まだそれに気づかない。

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コーラルリーフ 若生竜夜 @kusfune

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