9月1日「始業式」



始業式






 何が変わるわけでもなく、夏目家は騒々しい。


 陽一郎が寝坊するのはいつもの事で、美樹は低血圧で朝に弱い。一方、次兄と末っ子の二人組は相も変わらず早起きで、これまた夏休みが終わっても何も変わらず、夏目家にご飯を作りに来てる志乃の手伝いをしてる。


 陽大は新聞配達のバイトも終わり、呑気に新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。


 弥生が見たら、委員長はおじさん臭いぞ、と笑うかも知れない。


 実際、志乃もそう思う。


 大人になったもんだ。しみじみと。


 あの甘えん坊の陽大が。でも、長兄への依存は変わらず、と言うか。陽一郎の件となると、冷徹怜悧なまでに障害を排除する様はさすがだなぁ、とは思う。


 美樹がやっと起きてきた。まだ、もじゃもじゃの髪をかきながら。


「誠さんが見たら嘆くだろうなぁ」


 とは晃の弁。志乃はそうは思わない。誠ならきっと、ありのままの美樹が好きだ、と言うに違いない。


 男の子を泣かせるような猛々しさは昔からあった。ただ誠の前では女の子になるし、誠はそんな天真爛漫な美樹だから良い、と言う。陽一郎が聞いたら増長するからやめてくれ、と悲鳴をあげるに違いない。ていのいい第一犠牲者である晃も又然り。


 と、そろそろ陽一郎を起こさないと。


「志乃ちゃん」


 陽大が声を掛けた。


「ん?」


 振り返る。


「学校始まっても来てくれるの? 大変じゃない?」


 陽大は無理はしなくて良いよ、と言ってくれている。多く言葉にはしないが。兄の世話ぐらい、次男が引き受ける。陽大が言いたいのはそういう事らしい。まぁ実際、父も呆れ気味ではあるが。諦め気味でもあるし、満足気味でもある。大人と言うのはこういう時本当に勝手だと思うが、だからってこの役を他人にお願いしたいなんて思わない。


「陽大君」


「何?」


「私の最大の楽しみって知ってる?」


「え?」


「陽ちゃんを一番に起こすこと」


 志乃は満面の笑みで言ってのける。陽大は唖然として、小さく吐息程の微苦笑を浮かべた。紺のブレザースカートを翻して、志乃は陽一郎の居る二階へと小さな足音をたてて、駆け上がっていった。


 陽大はコーヒーをすする。


 晃はご飯をおかわりし、亜香里は牛乳を飲み干して。ちょっとだけ視線を見合わせて。


「秋だね」


 晃が言った。風の冷たさを肌で体感できる。


「来年の夏まで待たなくても、正月には夏目に行くらしいから、志保ちゃんに会えるね」


 と陽大は何気ない口調で、ぼそりと言う。


 晃は目を丸くした。亜香里はへー、と隣でニヤニヤ笑っている。


「なんだよ?」


「晃、口元がにやついているっ」


「に、にやついてなんか無い!」


 とそっぽ向く。騒がしき騒がしき、夏目家の朝。陽大はコーヒーをすする。弟と妹のやりとりを見ながら、いつもの日常に微笑みながら。夏休み気分はここでお終いだ。ここから、またいつもの忙しい学校生活が戻ってくる。受験生はそうでなくても、大変なのだ。──と言う振りだけはしておけと、弥生に言われたから、せめて振りだけはしている。


 別に高校受験が失敗しても、死ぬわけでもない。


 もう少しで、季節はずれになる風鈴の音と──ようやく起きてきた、次女の欠伸が重なった。











 ノックをする。返事は無い。いつも通りだ。


「陽ちゃん」


 声を掛ける。返事はない。それでやっとドアを開ける。陽一郎は寝癖をつけたまま、体を起こしてぼーっとさせていた。朝が弱い癖にバイト生活に身を投じている。まだ、起きようと努力している当たり、今日は奇跡かもしれない。


「おはよう、陽ちゃん」


「ん……おはよ……」


 この鈍い反応もいつも通り。志乃は陽一郎の近くに座る。そして、ゆっくりと頬に唇を寄せる。


「志乃?」


「おはよう」


「あ、うん。おはよう」


 顔を真っ赤にしながら、ようやく思考は覚醒したらしい。八月に入ってから毎日のようにしているのに、陽一郎はその度に赤面している。志乃だって恥ずかしいが、最早慣れとでも言うか、むしろもっと陽一郎に触れたいと思うときがある。


 近くて、遠くて。だから近づきたくて。


「顔を洗って、ご飯食べて着替えないと遅刻するよ?」


「うん……」


「どうしたの?」


「考え事」


「何を?」


「他の女の子の事──」


 志乃が陽一郎に乗りかかる。陽一郎はベットに無抵抗のまま、体を沈められた。


「し、志乃っ」


 志乃の両膝が腹部を直撃して、呼吸困難一歩手前である。


「嘘だって、冗談っ、冗談っ! 苦しい! 苦しい!」


「そんな嘘はイヤだ。聞きたくない」


「分かった、分かった!」


「私、とことん我が侭になる。もう陽ちゃんに遠慮しないもん」


「ぐ、ぐるしいっ」


「陽ちゃんは私がどれだけ陽ちゃんの事好きか知らないんだ。だから、そんな事言って意地悪する」


「だから、ゴメンって! ゴメン!!」


「許さない。簡単には許さない」


「志乃、制服皺になるだろ!」


「なってもいい」


「志乃ー」


「陽ちゃんは自覚が足りない。私をこんなに好きにさせたんだもん。不安要素は全部、排除するんだから」


「ごめん、ごめんて!」


 ひょいと跳ねるように志乃は体を浮かせて、陽一郎に抱きついた。陽一郎は抵抗する余裕もなく、むせこんでいる。


「恐れ入ったか、陽ちゃん」


「恐れ入った」


 二人の距離はとても近い。


 最近は、これが当たり前と言えばいいのか、この距離感がとても心地の良いモノになってきている。照れは勿論、ある。でも、それ以上に距離が誰よりも近いのが嬉しい。


「遅刻しちゃうよー」


「起きないとな」


「でも、起こしたくないなぁ」


 さらっと言ってのける。


「は? 志乃は俺を起こしに来たんだろ?」


「だって、学校、別々だもの。一緒にいられないんだもん」


「仕方ないな」


「むー」


「不満?」


「不満だよ。陽ちゃんは一緒にいたいって思わないの?」


 めいっぱい、志乃は頬を膨らませている。それが可笑しくも愛しいな、と陽一郎は思う。


「そりゃ思うよ」


「心がこもってないっ!」


 志乃の抗議を陽一郎は、優しく抱き締めて塞ぐ。


「夏休みみたいだろ?」


「え?」


「離れているから、より相手を大切に思えるし当たり前のように思わなくなる。夏休みは特別だから。特別が日常になってしまったら、つまらなくなるし。特に今年はそう思うよ」


「私は陽ちゃんとずっと一緒にいたいもんっ」


 志乃はより強く、陽一郎を抱き締める。


「遅刻するだろ、このままじゃ」


 いつの間にか立場は逆転している。それに気付いて、二人は顔を見合わせて吹き出した。


「陽ちゃん、起きよう」


「うん」


 とゆっくりと体を起こす。


「あのさ志乃?」


「なに?」


「こっち向いて」


「え?」


 陽一郎はゆっくりと息を吐いて、志乃へと屈み込んだ。カーテンを揺らす秋風。まだ暑さは残るけど、それもじきに消える。が、二人の温もりも鼓動も消えない。二人の存在が温度を通して繋がっていく。同じく、得た想い出は何一つ消えない。カメラの中にすべて納めてあるから。


 ちりん。風鈴か。帰ってきたら外さないとな。


 唇の塞がっている陽一郎はぼーっと、そんな事を考えていた。











 陽一郎は志乃を自転車の後ろに乗せて疾走していく。朝食を食べる余裕すら無かった。時間的にギリギリである。始業式の日から遅刻なんて、話にならない。少なくとも、美樹に一ヶ月はからかわれ続けることは必至だ。と言う事は誠にからかわれるのと同類項である。それだけは避けたい。なんとしても避けたいところだ。


 志乃の高校へ行き、それから陽一郎の高校へ。それほど、遠回りでないのが救いとも言える。


「えへへ」


 と志乃が笑った。さも、嬉しそうに。


「どうしたんだよ?」


「すごく嬉しいー」


「なんで?」


「こうやって登校してみたかったの」


「はいはい」


 苦笑する。そんな悠長な事を言ってる場合でも無いのだが。


 吹き抜ける秋風、疾走していく二人。こんなスピードで夏休みは終わった。物寂しさ以上に今日という日への期待が大きい。日常は何も変わらない。何かが変わる。ただ、一人で歩いてるわけではないから。それは後ろでしがみつく、小さな女の子が教えてくれた。


 色々な事があって。


 記憶は少しずつ、色褪せて。


 夏の初めに、雨に打たれて泣いた記憶だけがあって。


 向日葵が揺れていて、揺れていて。


 志乃が複雑そうな顔で、でも笑顔を向けてくれて


 色褪せた記憶を、写真は補完してくれる。


 少しのすれ違いと、その軌道修正で、たくさんの事を知った。一人じゃないと知った。


 命が消えることの重さも、その前で何も出来ない自分の無力さも。


 それでも、前進していくしかない自分の選択肢も。


 記憶は少しずつ、色褪せて。


 でも、忘れはしない。忘れない。忘れたくない。


 それでも記憶はいつかモノクロームから単色の黒へ沈殿していく。


 温度も冷たさも怒りも嘆きも幸せも微笑みも。


 忘れたくないんだ、何もかも。


 陽一郎は自転車を加速させる。下り坂で、志乃は悲鳴を嬉しそうに上げた。


 吹き抜ける秋風、疾走していく二人、色褪せない夏休み、小さな向日葵が道端で、まるで何処かの二人と同じように、寄り添うように揺れていたのが、視界の端に映り、そしてすぐに消えた。

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夏休み 尾岡れき@猫部 @okazakireo

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