8月11日「カメラとフィルムの関係」


二十三日目






 陽一郎は暗室にこもって、真剣な表情で現像作業に集中していた。今年は写真を撮りすぎていると思う。薬液を調整しつつ思う。独特の空気が、鼻孔を刺激してくれる。


「夏目先輩?」


「ん」


 顔をあげる。が、目は作業から一切離さない。アシスタントを務める一年生の桐島隆も作業からは目を離さず、集中している。時間配分に気を配る。現像は時間との戦いでもある。


 デジタルカメラの流行のせいか、現像を必要とする銀塩カメラは売り上げ的にも落ち込みがちだ。事実、携帯電話にカメラ付きが内蔵されてから、いわゆるカメラ屋と言われる現像プリント店は窮地に追い込まれている。地方では撤退を余儀なくされる店も少なくはない。


 だが、と陽一郎は思う。表現力という意味では、デジタルはアナログに遙かに及ばないと思っている。我ながら頑固だと思うが。


 現在、デジタルカメラが主流だ。性能が上がり、銀塩一眼レフカメラとデジタル一眼レフカメラの遜色はなくなってきていると言っていい。だが、と陽一郎は思う。光の微妙な調整がモノを言う銀塩カメラの世界にこそ、一瞬を閉じ込める刹那の世界が待っている。


 そもそもカメラの構造は人間の目の構造と似ている。それはデジタルでも変わらないが、二次的にフィルムに視覚の映像を焼きつけていたものを、さらにデジタル画像に変換するのだ。その目で見たモノと、デジタルの画像との劣化はいなめない。


 自分の撮った写真を自分の手で現像する。それで初めて、自分の写真と言える。頑固だな、と思う。アナログだ、と思う。それでもそれでも、だ。


 陽一郎が撮った志乃だからなおさら。これを誰かの手に委ねたいとは思わない。


「先輩がこんなに大量に写真を撮るなんて珍しいですね」


「そうだね」


 小さく微笑んだ。陽一郎は気付いていないが、この微笑がひそかに女子の間では人気がある。優しいし、親切だし、何より頭がいい。それでいて写真のセンスは誰が見ても明らかなくらい、腕がいい。が、だからと言って写真を多く撮りたがらない。撮ってと頼んでくる生徒や教師は多いが、陽一郎は「ごめんなさい」の一言で断る。その断り方が柔和で、また悪意が無い。それでも写真部員を通して、また親友の長谷川誠を通して、撮影依頼の声は消えない。


 かと思えば、何気ない瞬間を撮って惜しげもなく、その写真をプレゼントする。文化祭や体育祭でいつのまに、と思う写真がいくつもある。準備作業する実行委員の真剣な表情だったり、全力疾走する陸上部だったり、応援する女の子達だったり、演劇部の公演だったり、模擬店の風景だったり。本当にいつのまに撮ったの? と思わせる一瞬の──でも、最高にドキドキする瞬間をフィルムに収めてくれる。


 桐島が写真部に入部して、最初に衝撃を受けたのが、陽一郎の写真だった。桐島は中学の頃から写真をやっていたし、愛用の機材を使ってそれなりにコンクールで優秀賞をもらっていた。だから自信はあった、自分の写真には。


 だが陽一郎の写真を見て、息を止められた。


 写真って、こんなに綺麗なの?


 第一声はそれだった。その写真は公園で休んでいるお爺ちゃんを撮った写真だったが、カメラに向けて本当に底から笑う笑顔を見せていた。カメラという「目」を前にして、こんなに純真に笑える人を桐島は知らない。カメラを意識したり、恥ずかしがったり、「目」を意識してしまうのが人間なのだが、陽一郎の写真にはその「目」を意識させるモノがない。本当に自然な瞬間を撮るのが上手い。──と言うよりも、職人技と言ってもいい。陽一郎は記念写真は絶対に撮らない。ただ、その人が息をする瞬間を撮る。呼吸や息吹が、見る者に伝わってくるのだ。それは風景写真にしてもそうだが、陽一郎の良さを知るのは人物写真が一番だと思う。人柄が滲みでているんじゃないか、と思う。優しくて、包容力のあるその人柄が──。


 出来上がっていく写真の一枚一枚に目を配る。桐島はその一人の女の子の微笑に、時間を止められた気がした。全て一人の女の子をとっている。そのどの表情が、満面──そんな言葉じゃ足りない。幸せそうな微笑みを浮かべている。そして浮かべている相手、話しかけている相手、見ている相手は一目瞭然だ。カメラの向こうの夏目陽一郎へ、だ。


「先輩の彼女ですか?」


「……桐島、現像はまだ終わってないんだ、私語はつつしめ」


 照れている。桐島はそんな先輩を見上げ、小さく笑った。陽一郎は現像作業のアシスタントに男子を選ぶ事が多い。本来なら一人で可能だが、後輩への指導のつもりもあるらしい。女子からは羨望の声だが、陽一郎の性格だ、暗室で女の子と二人きりというのは気まずいに違いない。まして、こんな可愛い彼女がいたとなっては、なおさらだ。


「そうですね、女子が騒げば大変です」


 わざと言う。


「なんで女子が騒ぐんだ?」


 分からない、という顔をする。桐島はまた小さく笑った。


「長谷川先輩は助言をくれないんですか?」


「誠が?」


「夏目先輩は、先輩が思っている以上に女子に人気あるんですよ」


「冗談よせよ」


 と渋い顔で言う。桐島は苦笑する。どこまでも鈍い。鈍いからこそ、余計に人気が出るのかもしれないが。が、陽一郎が考えていたのは別の事らしい。


「頼むから変な噂作るな。志乃がまた気を回すから」


 独り言のように呟く。


「先輩の彼女、志乃さんって言うんですか?」


「……桐島、お前は俺をいじめたいのか?」


「そうじゃないですよ」


 とにっこりと笑って言う。無邪気な子どものように笑ってごまかすのは、桐島のお得意の表情だ。童顔だから、相手も怒るに怒れない。それを見越してのポーズなだけに、自分でもタチが悪いとは思うが。


「ただ」


「ただ?」


「先輩を支えた女性と言うだけで気になるじゃないですか」


「………」


 陽一郎はあえて否定しなかった。夏目家の事情については、写真部の部員もよく知っている。陽一郎は家族と生活の為にバイトにはげみほとんど顔を出さなくなったし、部員も陽一郎に声をかけるにかけれなかった。教師にすら頼ろうとしなかったあの時の陽一郎の顔は、まるで野良犬のようだったと思う。特に何が変わったわけじゃない。少し笑わなくなって、少し話さなくなった。そして人をよせつけなくなった。救いと思われる全ての手も言葉も拒んでいた。


 夏休みに入って、表情に陽一郎らしさが戻ったのを知り、部員みんなで胸を撫で下ろしたのをおぼえている。結局、何もできなかったけど、それでも陽一郎が元気な姿を見せてくれたのが嬉しい。


「コンクールにこの写真を出すんですか?」


「ああ。志乃には内緒にしてるんだけどな」


 とその名前をだした途端に、唇の端が嬉しそうに緩む。やれやれ、と肩をすくめた。夏目先輩、私語は慎めはどうなったんですか? と言う反論はしない事にした。こんな幸せそうな陽一郎を見ると、そんな言葉も無意味だ。きっと今の陽一郎には、この写真の女の子一人しか視界に入っていないに違いない。


「どういう人なんですか?」


「んー、どうだろうな。お転婆だし、泣き虫だし、甘えん坊だし、昔からちっとも変わらないなぁ、そういう所は。でも、いてくれないと困る。でないと俺は、誰にも笑えない」


 なにげにストレートに、すごい台詞を吐く。桐島は目を丸くした。絶大の信頼と愛情がその言葉には含まれていた。それと同じくらいの微笑を、写真の志乃という女の子は浮かべている。桐島は誰かにむかって無防備に、こんな微笑を浮かべることはできない、と思う。誰だってできないと思う。でも、陽一郎は志乃に負けず、そんな微笑を浮かべていた。


「魚には海が必要だろ?」


「はぁ」


「で、鳥には空が必要で」


「空ですか」


「カメラにはフィルムが必要で」


「すごい例えですよ、それ」


 桐島は吹き出した。


「笑うなよ。そーだな、俺がカメラなら志乃はフィルムなんだ、うん」


 一人納得して、頷く。作業の手は休めずにだ。桐島は苦笑を浮かべた。


「フィルムがなくなったら、新しいのに交換しちゃうんですか?」


 少し意地悪な質問をする。陽一郎は桐島の顔を見た。そして首を傾げる。


「桐島、このフィルムに代用品は無いんだ」


「でも無くなったら、カメラ、使えないじゃないですか」


「そう」


「そうって、先輩?」


「なくなったら使えない。俺の価値はその程度」


「先輩?」


「人間が本当に心から残したいと思う写真なんて限られているんだよ、実はね」


「え?」


「一枚撮れたら、万歳三唱。あ、これはうちの親父の口癖だったんだけどな」


 なくなった父の事を、何でもない想い出のように言う。それほどまで陽一郎は立ち直った、という証拠だ。それほどまでに、志乃という女の子の存在は、陽一郎の中では大きいということか。


「俺は志乃と、限られた枚数の写真を一つ一つ撮っていきたい。それ以上はいらない。写真家はカメラで写真を撮る事だけが仕事じゃない。そのネガを現像して、一つの写真にするのに多分ね」


 言葉を切る。薬液がちゃぷ、と音をたてる。暗室の中を照らすのは、暗室ランプの弱い灯りのみだが、その光だけでも陽一郎が照れているのが分かる。


「一生分の仕事だと思う。二人で現像するのに、一人のフィルムでも大変だと思うよ。とことんまで、素敵な二人の写真にしたいと思ったら」


 一生懸命、言葉を選びつつ言う陽一郎が、何だかとても眩しいと思う。代用品は無いと言い切る陽一郎が、すごいと正直思った。はっきり言って、その年でそこまで想いを通わせる人なんていない。そこまで言い切れる相手と出会える自信は、桐島には無い。


「もしもフィルムを他の誰かに奪われたらどうします?」


「奪わせない」


 機械的に作業を繰り返す。一方、桐島は引き伸ばし機で、プリン作業にうつっている。


「……もしもフィルムが他のカメラに浮気したら?」


「それは志乃の気持ちになるけど、でも諦めないと思うな。どうしても気持ちが変わらなかったら、それは諦めるしかないけど。それでも諦めないと思う」


「どっちですか?」


 桐島は笑う。が、陽一郎の表情は笑っていなかった。


「だから、フィルムの無いカメラは役に立たない。それだけだよ」


 多分、と完成した写真を薄明かりの中で見て思う。フィルムも同じ事を考えているのかもれない。この子の笑顔は、そう思えるほどたった一人に笑いかけている。他のカメラに収まる気なんか、さらさら無い。


 ちゃぷ。ちゃぷ。薬液の臭いが鼻につく。

 魔法の儀式のように、陽一郎は自分の写真を現像していく。


 自分の写真と言い切れるモノを撮れてない桐島には、その姿が眩しい。


 (この人には叶わない──)


 だから、この人のような写真を撮りたい。正直、心の底から桐島はそんな事を思った。


 


 


 


「ただいま」


 と家に戻ってくると、志乃が半泣きで玄関に出てきた。その目が怒っている。


「し、志乃?」


「どこに行ってたのっ!」


 きっと睨む。写真部にちらっと顔出してくるよ、昼前には戻るから。そう言って家を出たのに、帰ってきたのは午後の三時を回っている。居間から、陽大と美樹がちらっと顔を出して、様子を窺っている。陽大は小さく笑みを浮かべていた──見学してないで、助けろ薄情者。


「写真部に本当に行ってきたの?」


 じろっとさらに睨む。その目に嫉妬の色合いが含まれている。朝、写真部に女子部員も増えた、という事を何気なく話題として出したのだが、それがどうやら尾を引いているらしい。やっぱり、あれは地雷だったか。


「だから暗室で現像してきたんだよ」


「女の子と二人きりで?」


 何で、そうなるんだ? と、ちらっと奥の二人を見やる。もしかすると、弟と妹が何か吹き込んだのかもしれない。それは充分にありえる。あの陽大の悪戯めかした微笑を見ると。勘弁しろよ、と青くなる。志乃は怒らせると、手がつけられなくなるのに。ため息だ。


「男の後輩だよ、残念ながら」


「残念だったの? やっぱりそういう下心があったんだ!」


「無いって」


 と陽一郎はむくれている志乃を抱きしめた。志乃はジタバタと抵抗する。


「イヤ、イヤ! 陽ちゃんなんか大嫌いっ!」


「おーい、志乃」


「誠君、言ってたもん。陽ちゃん、女の子にもてるって。夏休み終わったら、他の子と浮気しちゃうんだ、陽ちゃんは。私と陽ちゃん、学校違うから!」


「そんな事ない!」


「美樹ちゃんも言ってたもん!」


「…………」


「陽大君は陽ちゃんの事、浮気性だって言ったよ」


「…………」


 おぼえてろ、お前ら。


「黙るって事は図星なの?」


「違う」


 と渋い顔するが、今の志乃には何を言っても駄目らしい。


「何が、じゃあ違うの?」


 もう今にも大泣きしそうだ。陽一郎は小さくため息をついた。まるで保育園の頃に幼児退行したようだ。陽一郎はそんな志乃をさらに引き寄せた。


「志乃はね、俺のフィルムだから」


「え?」


 桐島に話したのと同じ話をする。志乃は抱きしめられたまま、じっと陽一郎の言葉を聞いている。ただ上目遣いで、陽一郎の目を見つめながら。


「志乃以外のフィルムをいれるつもりはないんだよ」


「いれたら、怒る」


 胸に顔を埋めて、志乃はきゅっと陽一郎のシャツを握った。離さない、と言わんばかりに。


「もう怒ってるだろ」


「それは陽ちゃんが悪いんだもん」


「はいはい、時間を忘れていた俺が悪かったよ」


「そのまま、私の事も忘れてたんだ」


 悔しそうに唇を噛む。


「志乃の写真を現像していたのに、忘れるわけないだろ」


 優しく笑む。それでも志乃は納得しない。どんな言葉をかけても今の志乃は納得してくれない。しかし言葉をかけないと、もっとひどい事になる。陽一郎はめげずに、志乃に言葉をかける。こう見えて頑固なんだ、志乃は。だから、本音をゆっくりゆっくり志乃に囁く。志乃の怒りを溶かしてあげるように。


 そっと髪を撫でる。


「絶対にイヤだよ」


「ん?」


「他の子に笑う陽ちゃんは、私見たくない」


「無茶苦茶言うなぁ」


「だってイヤだもん」


「はいはい」


 陽一郎は小さく笑った。今日一日はきっとこうだろう。志乃はもう陽一郎に気持ちを隠さない。隠す必要はない。だから自分の思っていることや、不安や、ヤキモチも、全てストレートにぶつけてくる。それと同じくらいに嬉しいこと、楽しいこと、何より一番愛情をぶつけてくる。


 だから陽一郎も志乃の気持ちを全力で受け止めるし、全力でぶつける。もう二人に遠慮は無い。


 カメラにはフィルムが必要で、フィルムにもカメラは必要で。


 でもこの方程式は、どんなカメラでも──どんなフィルムでも言い訳じゃなくて──


 陽一郎というカメラと、志乃というフィルムでしか成立しない。それ以外を成立させる気もない。


 カメラにはフィルムが必要で、フィルムにもカメラは必要で。


 陽一郎に志乃が必要で、志乃にも陽一郎は必要で。


 だから陽一郎は力一杯、志乃を抱きしめる。だから志乃も力一杯、陽一郎を抱きしめる。


 カメラとフィルム。

 まだ二人で写した写真は少なすぎるけど──。

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