8月1日「1回だけ言うから」


十三日目






 陽一郎は玄関の鍵をあけた。もう深夜十二時を過ぎている。今日も劇場でのアルバイトだった。アマチュア劇団の千秋楽で、撤去作業だ。設営作業に比べると、撤去作業は早い。毎回、今日は早く帰るぞ、と思うのだが、その都度、打ち上げに引き込まれて行く。


 一つの物を作り上げた喜びをいつも感じる。陽一郎はアルバイトしてこの仕事に関わっているにすぎないが、いつも舞台を終えた人たちの顔は眩しい。その人達の表情を見ているうちに、いつの間にか写真を撮影している自分がいる。最近はそういう舞台写真も多い。一部の劇場社員はその写真を見ており、陽一郎に写真家になることを毎度のようにすすめてくる。勿論、陽一郎にその気がないわけじゃないが、だからって簡単になれるとは思っていない。今の陽一郎には自分の生活で精一杯だ。


 でも、だ。


 今日は陽一郎の頭から志乃の顔が離れなかった。誰もがいい顔をしていたが、今日はその顔にファインダーを向ける気にはなれない。打ち上げで出された、ご馳走にもジュースにも、たまに大人達がすすめてくる酒も飲む気にはなれず、乗り切れない自分がいる。


 ただ瞼の裏に、一昨日の志乃の泣き顔が浮かんでくる。


 志乃はあれから、何でも無い事のように振舞っていたが、それが無理しているのは陽一郎にはすぐに分かる。


(だからって、どうすればいい?)


 そんな疑問が独り言のように出ていた。それを兄弟達に聞かれていたのは不覚だったが、弟の陽大は苦笑し、妹の美樹は呆れた目でため息をつく。


(じゃあ、どうすればいい?)


 答えなんか分かっている。ただ、その答えに踏み込めないだけ。自分が弱い、と思う。でも、その弱さから抜け出せない。じゃあ、どうすればいい? ──それが分かれば苦労なんかしていない。


 陽一郎は居間に入って、唖然とした。ソファーにもたれかかって、志乃が眠っている。陽大は本に読みふけり、美樹はテレビを見ていた。ちらりと、陽一郎を見るが、また視線を元に戻す。


「お、おい……」


 と唖然として言う。陽大は顔を上げた。


「兄さん、お帰り」


「あ、ただいま──じゃないだろ、志乃が何でこの時間までいるんだ、おい?」


「寝ちゃったんだよ。起こすのは気の毒でさ」


「そういう問題か! 今、何時だと思ってるんだ?」


「そう思うなら、陽アニが送って行けば?」


「は?」


「だって志乃ちゃん、陽兄をずっと待っていたんだよ。最近、陽兄は志乃ちゃんに甘えすぎだと思う」


「美樹?」


「志乃ちゃんが待っているの知ってて、わざと遅く帰ってくるの?」


「美樹!」


 と陽大が止める。美樹は肩をすくめた。陽一郎はため息をついた。美樹の言い分は分かる。最近、本当に忙しいわけじゃない。だって志乃が家に来て、家事をほとんどやってくれる。陽大も美樹も晃も亜香理も夏休みで、家事を分担している。忙しいだなんて、所詮は言い訳でしかない。それも分かっている。弱い自分を呪いたい。ストレートに言葉に出せたら、どんなにいいか。出た言葉を飲み込む自分がどんなに情けないか。弟や妹の言いたい事は分かる。ただ、怖い。本気で怖い。志乃の気持ちを真正面から受け止めるのが。


 受け止めたら、もう二人は昔の二人じゃいられなくなる気がして。


 陽一郎は志乃を見つめた。無防備に寝息をたてている。帰る気力がなくなるほど、志乃は疲れていたのだ。


 誰が悪いわけじゃない。


 吉崎は北村の事を考えていた。吉崎からしてみれば、志乃を北村から奪ったのは、陽一郎だ。


 北村は志乃の気持ちを知っていた。それが痛い。それを知ってなお、自分は志乃と真正面から向かい合う事ができない。


 それが情けない。


 志乃は陽一郎に、今まで以上に素直に、その気持ちを投げかけてきた。その意味を陽一郎は曖昧な笑みで濁していた。そんな自分が卑怯なんだ、と思う。


 陽一郎は志乃を軽く抱き上げ、背負う。体の小さい志乃は陽一郎かしてらしてみると、とても軽いが、それでもと思う。やっぱり、重くなったな、といのも実感。こんな台詞を吐けば、志乃はまたいじけるだろうし、美樹にはデリカシーが無いと言われるのがオチな気がするので、口には出さないが。


 美樹は目を丸くして、そんな陽一郎を見た。


「ちょっと送ってくる」


 と言って、陽一郎はまた玄関へと出て行く。

 二人は視線をあわせて、小さく笑んだ。


「志乃ちゃんを起こさなかったのは、わざとなんだけどね」


「でも待っていたのは事実だもん。私は志乃ちゃんを帰すことなんか、てきないよ」


「美樹らしいね」


「大兄だって起こさなかったでしょ!」


「志乃ちゃんに手を触れて、兄さんの逆鱗にふれたくないじゃないか」


 とイタズラめかして笑う。美樹もまた苦笑した。


「でも、陽兄にはあれくらいしないと駄目だと、私は思うよ」


 陽大は小さく笑う。そして少し、厳しく美樹を見た。


「分かってる、二人のことは二人に任せろ、って言うんでしょ!」


「ご名答」


「だから口出しはしてないじゃない」


「あれで?」


 と陽大は笑みを漏らす。まぁ、妹の気性だ、本当なら『情けない!』と怒鳴ってやりたかったところに違いない。でも、陽大は何度も『二人の問題は二人でしか解決できない』と釘をさしてきた。美樹もその言い付けは忠実に守っている。他人が口に出しても、結局は二人の気持ちは二人だけのものだから。陽一郎が前に踏み込めないのであれば、誰が何と言おうと二人は前進できないから。


 その二人がようやく前進しようとしている。ゆっくり、ゆっくり。自分から見たら歯がゆいほどゆっくり、ゆっくり。どんなに時間をかけてもいい、と陽大は思う。二人の関係を幼い頃から見てきた陽大だからこそ思うのだ。二人の関係は、そんな些細な問題で揺らぐほど軟弱じゃない。それは陽大が確証をもって言える事だが、あえて言おうとは思わない。


 それは志乃のことを好きだった幼心のせめての抵抗だったのかもしれない。


 陽大はもう一度、小さく微笑んだ。


 





 

「陽ちゃん」


 背中から声がする。起きたかな? と思ったが、またすやすやと寝息をたてる。陽一郎は苦笑した。


 寝言だ。志乃はどんな夢を見ているんだろう、と思う。幼稚園の頃、遊び疲れて二人で昼寝をした記憶がある。びったりと寄り添って。志乃はどんな夢を見てるんだろう、と思いながら陽一郎も眠りにつく。そして──いつも、陽一郎を起こすのは志乃だった。先に起きて、おやつの時間だよ、とお姉さんぶって呼びにくる。誕生日が三か月違うだけなのにな、と陽一郎は今さらながら笑いが込み上げてくる。陽一郎の両親も志乃の両親も、そんな二人を見てクスクス笑ったものだ。


「陽ちゃん」


 志乃がもう一度、呟いた。


「何?」


 微笑して、わざと聞く。起きていないのが分かっていても、陽一郎は昔からそう聞いてしまう。


「陽ちゃんは私のこと嫌いなの?」


 笑みが止まる。呼吸も止まりそうになった。


「陽ちゃんは私のことが嫌い?」


「嫌いなわけないだろ」


 寝言に真剣に答えるのが自分でも変だと思う。でも、志乃の無邪気な声を笑い飛ばせなかった。それは否定できない志乃への気持ちだから。それもとっくの昔にわかっている。


「やっぱりただの幼なじみ?」


「………」


「私は陽ちゃんの何なの?」


 痛い言葉だ。もごもごと呟く、その無邪気な言葉が陽一郎の胸に突き刺さる。


「志乃……」


「私は陽ちゃんには必要ないの?」


「志乃?」


「私は陽ちゃんの役にたってないの?」


「志乃?」


「私はいらないのかな?」


 陽一郎は息を吸った。そして吐く。小さく微笑む。言っても志乃は聞いていないし、単なる独り言にしかならないのも分かっていながら、陽一郎ははっきりと志乃に向けて言った。


「志乃は志乃だよ。俺にとっては一番大切な人だし、志乃が俺には必要だし、役にたつとか立たないとかそういう物じゃないし。志乃が傍にいてくれたおかげで、頑張れるから。志乃が俺には必要なんだ。志乃が傍にいてくれたから、それだけで幸せって思えるから」


「…………」


 ぽたっ、と首筋が冷たい。ぽたっ、と水滴が落ちる。


「え?」


 驚く。志乃の手が、陽一郎の肩をぎゅっと、強く抱きしめる。


「志乃?」


「ごめん、陽ちゃん。私、起きてた」


 ぽと。ぽと。ぽと。と、雫が首筋に滴る。陽一郎は顔が熱くなるのを感じた。が、志乃の体温と、首筋を伝わる冷たさが、陽一郎の幼さを消して行く。何を迷ていたのかも分からない。陽一郎は足を止めた。


 陽一郎は志乃をそっと降ろす。志乃のその顔が、少し脅えていた。


「ごめんね、陽ちゃん。私やっぱり卑怯だよね──」


 と俯く志乃を陽一郎は、力一杯抱きしめる。


「陽ちゃん?」


「その『卑怯』って言うのはやめろよ」


「え?」


「志乃は卑怯じゃない。誰も卑怯じゃない。ただ、俺がずるかっただけだ」


「陽ちゃん……?」


「一回しか言わないから、よく聞けよ」


「え?」


「俺は志乃のことが好きだ。今までずっと好きだった。でも怖くて言えなかった。言ったら二度と、志乃と一緒に笑うことができなくなる気がして。父さんと母さんがいなくなったのに、志乃まで失うのが嫌だった。自分の嫌なところを志乃に見せるのが嫌だった。でも、やっぱり俺は志乃が好きだ。一番、一番、志乃が好きなんだ」


 一気に言って、頭の中が真っ白になる。志乃を見た。陽一郎の胸に顔を埋めて、無言でその言葉を聞いている。


「一回じゃイヤだよ」


「は?」


「何回も聞きたいよ」


「一回しか言わない、って言ったろ」


「私は何回でも言うよ」


 顔を上げた志乃が、笑顔を見せる。今までにないくらい、嬉しそうに心の底から笑う笑顔を。陽一郎は吸い込まれるように、その笑顔を見た。


「私も陽ちゃんが好き。大好き。今まで自分の気持ちが分からなかった自分が馬鹿みたいに悔しい。でも、誰になんと言われてもいいの。私、陽ちゃんが好き。陽ちゃんが一番好き。誰よりも好き。一番、一番、陽ちゃんが好き。大好き」


 面とむかって言われて、陽一郎は赤面する。が、それは志乃も同じだった。ただ、夜という時間が二人を隠してくれる。今、素直にならなければ、いつまでたっても素直になれない。それが分かっているから、お互いがお互い、心の底に隠していた言葉を、剥き出しにしていく。何度も何度も志乃は同じ言葉を繰り返す。陽一郎もその度に同じ言葉を繰り返した。


 志乃はもう一度、陽一郎の顔に胸を埋めた。そのまま、何分も何分も二人は動かない。


 時が、ゆっくりと流れたのか──止まったのか── 麻痺したのか。

 ただ陽一郎は、志乃の存在を確かめるように抱き締める。


 幼いままの行為ではなくて。

 誰よりも大切で大切なたった一人の存在として。


 そのまま──志乃の寝息が、また陽一郎の胸元で聞こえてきた。安心して、今度こそ無防備に志乃は眠る。陽一郎は苦笑しながら、志乃を背負った。


 今までの迷いが嘘のように、志乃の気持ちを素直に受け止める事ができた。


 こんなに簡単なことなのに、迷っていた自分が本当に馬鹿みたいだ。一回しか言わないといいながら、何回も何回も陽一郎はその言葉を呟いていた。今も心の中で何回も何回も何回も。


 こんなに言葉にすれば簡単なことだったなんて。


 陽一郎は笑った。嬉しくて嬉しくて嬉しくて。


 もう一度、その言葉を呟く。声に出して。照れて、何度も何度も言う。


 何度も。何度も。

 

 

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