7月31日「差」


十二日目






 僕はコーヒーサーバーからコーヒーを注ぐ。相変わらず、閑散とした店内の中で、彼女はいつにもましてお喋りを続けている。僕は苦笑しつつ、ミルクと砂糖をたっぷりと入れて、彼女にすすめる。彼女は顔を上げて、嬉しそうに笑った。それが、最近、とてもまぶしく感じる時がある。


「マコちゃん、どうしたの?」


「何でもないよ」


 と僕は何でもないことのように、美樹の目の前に座る。


 普段は勝ち気な夏目家の長女も、僕といる時は少し顔付きが違う。幼い頃の記憶と重ねると、大人な表情になったな、と実感する。その理由も僕自身は気付いてはいるのだが、あえて知らないふりを決め込んでいた。その方が彼女のむきになって可愛い。


 喫茶長谷川の店内は、がらんとしたものだ。いつだって客が多い時は無い。たいていは、無口な客が無口に自分の時間を味わって、静かに帰る。そういう需要と供給で成立している店だ。だから親友のバイトのたしとなるわけもなく、僕の両親も陽一郎に声をかけれずにいた。


 ──と言うよりも、僕と同じ感覚を舐めていたのかもしれない。何を言っても偽善になるって。


 だが、美樹は違った。


 ストレートにアルバイトをさせてくれ、と店のドアを叩いてやてきた。まだ中学二年生の美樹を雇ってくれる店なんて無い。長兄の負担軽くするためにと、次男の陽大が何とか新聞配達をしている状況しかも、長兄には内緒で雇ってくれ、と美樹は言う。


 陽一郎のことだ、余計な事はしなくていい、と渋い顔をするのは目に見えている。美樹も兄の前ではなかなか素直になれず口喧嘩が絶えないが、内心は兄の事を心配しているし、気遣っている。それはうちの家族も理解していた。だから即答したのだ。給料は低いが、と苦笑しつつ。


 美樹は一生懸命働いている。たまに手伝いに来る僕なんか不要なくらい。親父にも


『お前は今日はいらないぞ』


 と言われて、笑うしかない日もある。


 夏目家の家計は次男の陽大がほぼ管理しているので、多少収入が多くなってもごまかす事は可能だ。兄に疑惑を感じさせることもない。陽一郎本人が知ったらさぞかし怒るだろうが、彼等の真摯な気持ちを受け止めれないような器の小さな人間じゃない。


 ばれたらばれたで、僕がフォローにまわるだけの事だ。


 最近、店には顔を出さず天体観測の事で頭が一杯だったので、客がいない事をチャンスとばかりに、美樹のマシンガントークを聞かされる羽目となったのだ。話題は陽一郎と志乃のことだ。初日から昨日のことまで、順を追って話していく。昨日の話になると、美樹の表情が少し陰る。でも言葉をとめることはしなかった。最後まで話してね小さく息をついた。


「マコちゃんはどう思う?」


「何が?」


 僕は知らないふりを決め込んだ。陽一郎と志乃が昔のように一緒に肩を並べて歩く事のできる関係に修復できた事はとうに知っている。でも、これは第三者が軽はずみに言っていいレベルのものじゃない。


「わざと言ってる」


 とふくれる。いつもの勝ち気な少女じゃない美樹というのも新鮮だが、それが自分のせいだというのにも自覚があるため、照れがある。油断していると唇の端が笑んでしまうので、ぐっと引き締める。そうでないと他の客が来た時に変な目で見られる事は必至だ。それを両親に見られた日には、家出するしかない。


「じゃ言うけど、僕が何か言って解決するの?」


「それは……」


 口ごもる。きっと陽大に言われたんだろう。余計なお節介はするな、と。冷静的確な正論だ。実際、陽一郎を救えたのは志乃だけだったように、志乃を癒してあげれるのは陽一郎だけだ、と思う。他の第三者じゃない。お互いがお互いを必要としているのだ。ただ、必要としているのに、お互いを求める事はできない。いつまでも幼い頃の延長戦のまま。それでは結局、何も変わらない。


「陽一郎は怖いんだろうね」


 と僕は言った。昨日、結局志乃は何も喋らなかったと美樹は言う。陽一郎と目を合わせる事もなかったと。


「幼い頃のままじゃないのが?」


「違うよ。志乃ちゃんを好きになるのが、じゃないかな」


「え?」


「好きになるって理屈じゃないからね。嫌いな点も見えてくるし、受け入れたくない場所も見えてくる。誰かを好きになるということは、何かを妥協するということじゃないかな?」


「私はマコちゃんが好きだけど、嫌いな事なんか無いよ」


 まっすぐな目で直球で言われると、僕は言葉につまる。真剣な眼差しで美樹は僕を見る。あの日──夏目家の両親がなく亡くなってから、美樹の僕への視線が変わった。単なる近所の兄さんでなくなった。僕も単なる親友の妹とは見れなくなっていった。せめてこの子だけは救いたい。偽らわざる僕の本心だ。


 僕は小さく微笑み、美樹を見る。中学生と高校生。それだけの差しかない。もっと年が離れている気がするのに、美樹はあっという間に、僕に追い付いてきている。恋に恋しているのならいいが、美樹の目は真剣そのものだ。志乃の、陽一郎を見る目と似ている。だから、無下に言葉を吐けない。でも、僕の中では美樹に対する気持ちは決まっている。


 そっと、美樹に囁くふりをして、その頬に唇を当てる。一瞬、たったの一瞬。けど僕の心臓は、破裂させんばかりに、暴れている。美樹は頬を赤くして俯く。勝ち気な美樹じゃない。女の子の美樹がいる。


「いいチャンスなんだよ、陽一郎には」


「え?」


「大人になるチャンスなんだ」


 美樹に言うわけでなく呟く。小学校の時、いつも陽一郎の隣にいた志乃と、その背中を追いかけていた美樹。二人は遊にび夢中になって気付かず、半べそをかく美樹をあやすのが僕の仕事だった。それは今も変わらないのかもしれない。ただ、美樹は陽一郎と志乃を追いかける事はなくなった。


 何かがあると、即、僕の所へ来る。そして溜めていた物を吐き出していく。僕はそれを聞くのが仕事で、美樹はすっかり出してしまうと、いつも後悔の色を表情に滲ませる。それすら全部受け止めてあげたいと思う。


 妹はもう大人の入り口を叩いている。


 誰かを好きだと言うことは勇気がいるけど、こんなに簡単な事なんだ。


 (迷うな、陽一郎)


 誰もいない喫茶店で、もう一度素早く、美樹の唇に自分の唇を重ねながら、僕自身の気持ちを確かめた。


 ──僕も美樹が好きだけど、嫌いなことなんて無いから。


 迷うな。


 

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