7月26日「歩幅」


七日目







 志乃の不機嫌な顔をうかがうように、陽一郎はその後をついて歩く。


 志乃はそれを無視して、つかつかと歩いていった。


 陽一郎は何度か、志乃に言葉をかけたが、それを全部無視した。頭の中では陽一郎は悪くないのは分かっているが、それを納得てきないでいる。昨日、夏目家に出向いたら、陽一郎はバイトに行っていなかった。ただそれだけのはずなのに。別に怒る必要なんてないはずなのに。


 自分でもそれは分かっているのだが、たまらなく悔しい。そんな感情が胸の中で渦巻いていた。


 一昨日までは、志乃が陽一郎を起こしていた。

 夏休みにはいってまだ間もないのに、それが志乃の夏目家での一つのリズムだった。


 それが昨日、突然、崩れた。 もうすでに陽一郎はバイトに出かけていた後だった。


 些細なこと。それは分かっている。

 仕方のないこと。それも分かっている。

 大人げない、と自分でも思う。


 でも、それを許容できない自分がいる。


 夏目家長女の美香が申し訳なさそうに言うと、志乃は笑顔で気にしないで、と言った。それだけだし、別になんとも思っていない。そう思えば思うほど、心の中にわだかまりが生れていくような、そんな気持ちになる。


 志乃はちらりと後ろを見た。陽一郎が、何度もごめん、と謝っていた。


 我が侭なんだ、と自分でも思う。


 朝、いつものように起きた陽一郎に志乃は声をかけなかった。


 怪訝な顔で起きてきた陽一郎が、志乃の感情に気付いたのはついさっきの事である。すぐに自分の気持ちが分かってくれない陽一郎の鈍感さが腹にたった。


 でも、それが陽一郎なんだともいうのも分かっている。


 些細なことなのに。それを許せない自分がいる。そんな自分が嫌だと思ったが、それでも自分の感情を抑えることができなかった。


 と後ろを見る。


 陽一郎の姿が見えない。


「陽ちゃん?」


 どこにもいない。


 志乃は街の喧騒の中、取り残された子供のように、心細そうにきょろきょろとあたりを見回す。


 いない。いない。いない。


 どこにも、陽一郎がいない。


 志乃は慌てて陽一郎を探した。いつも陽一郎がバイトの無い時間に、買い物をする商店街。学校に行く時だって歩いているし、たいていの店の店主とも顔見知りだ。だけど、突然、陽一郎がいなくなると、まるで自分が知らない街に放り出されたような錯覚に陥る。


 必死に探す。


 分かっていた。陽一郎のことを嫌いになったわけでは無い事は。好きだから、我が侭が言いたいから。それだけだって事は。志乃にとっては、幼い時の我が侭の延長線だった。


 喧嘩をして、大抵怒るのが志乃で、謝るのが陽一郎だった。普段はその逆で、ぴったりと陽一郎の背中にくっつくように歩いていたのに。


 その関係が全て瓦解していくのを感じた。


 陽一郎は怒ってしまったのだ。志乃は泣きたかった。やっと正直になれたと思ったのに、自分の我が侭で全てをふにしてしまった。私の馬鹿、思わず口から言葉が漏れる。


「志乃」


 と声が聞こえた。探していた声が、胸の奥底に突き刺さるように届く。振り向くと、陽一郎がソフトクリームを二人分もって、立っていた。


「陽ちゃん?」


「これで機嫌なおしてくれないか?」


 と情けない声で言う。志乃はぽかんとした顔で、陽一郎を見て、クスリと笑った。陽一郎なりに一生懸命、思案していたらしい。志乃の胸でひっかかっていた、わだかまりが氷解していくのを感じた。


 どうでもいいことで、怒ったり。嬉しくなったり。


 そんな自分が子供だな、と思う反面、陽一郎の前では子供のように甘えたいとも思う。でもあまり甘えてばかりだと陽一郎の負担になる。それだけは絶対、嫌だと心の中で呟く。でも今は甘えたいかも、と思った。子供の時も、こうやって陽一郎に甘えていたんだ、と思う。


 志乃は陽一郎からソフトクリームを受け取る。


 真夏の温度に溶け始めている。志乃は少しだけ意識して、陽一郎との距離をいつもより近づけた。肩と肩がピッタリと寄り添う。ソフトクリームを舐めながら、陽一郎を見上げる。陽一郎はほっとした顔で、歩き出す。志乃は慌てて、陽一郎の歩幅に、足を合わせた。気をぬくと、陽一郎の方が足が長いので、半歩ほど遅れてしまう。だから、少しだけ足を早める。すると、陽一郎はそれに気付き、歩くペースを緩める。毎回、そんな事を繰り返している。


 距離が縮まらない。それが歯がゆくなる時がある。


 でも志乃は陽一郎に自分の気持ちを気付いてもらうために、一生懸命、背伸びをする。


 そしてその距離は二人が気付いていないだけで、確かに縮まっている。


 時々、陽一郎が志乃に目をむけて、優しく微笑んでいるのがその証拠だ。がお互い、それに気付くにはまだ青すぎた。






































「あの二人がねぇ」


 と魚屋が言った。二人の後ろ姿を見て、ニヤニヤしている。女房が夫の足を踏んづけた。


「そっとしといてやんなよ。こっちが口をはさむと、上手くいくものもいかなくなるんだからね」


「分かってるよ」


 と痛みに顔をしかめる。


「昔は兄妹みたいだったのに、ああやって並んでみると若夫婦だな」


「 男と女はどうなるか分からないものだよ」


「確かに。昔は美人だったのに、今じゃ大根ババァだしな、お前は」


「あれ、今でも美人でしょ?」


 と女房は包丁をちらつかせて、笑む。──その目は笑っていないが。


「お互いの気持ちに気付かないのは、若い証拠だよ」


 と女房は包丁で、イカを捌き始めた。


「私達にもそういう時があったでしょ?」


 と微笑む。夫は素知らぬ顔で、伝票に目を通していた。もう一度彼女は微笑む。


 涼しい風が街中を通り抜けていった。


 

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