お姉ちゃんはコスプレイヤー

等々力渓谷

第1話

 うららかな土曜日の昼過ぎ。電子レンジの温めタイマーは残り1分を切っていた。

 ターンテーブルの上では498円の鳥の南蛮揚げ弁当がゆっくり回っている。忙しい母親が土日分の食事をまとめ買いして、冷蔵庫に突っ込んでいったものだ。

「賞味期限は見なかったことにするとしても、野菜が足りないよな……」

 春原サンゴはそうつぶやくと、冷蔵庫の野菜室を開けた。一品作るほどマメではないが、トマトかキュウリ、せめてキャベツがあればいい。

だがしかし、36Lの野菜室の引き出しの中はまっ黄色だった。大玉のグレープフルーツが18個、みっちりと敷き詰められている。

「……………………………………」

 サンゴはため息を吐く気力も吸い取られて、引き出しを閉めた。

 消えている。この中に入れてあったはずの野菜が消えている。 そして代わりに入っているグレープフルーツの群れ。

 家族共用の空間である冷蔵庫をここまで堂々と占拠する人間は、この家には一人しかいない。 

 せめて消えた野菜の代用を探そうと、サンゴは冷蔵室を開けた。物色した末、ブリックパックの野菜ジュースを取り出した。これ一個に一日分の野菜が入っているという売りの商品だ。いかにもウソくさい。そして味もマズい。なにより気に入らないのは、高一男子のサンゴにとっては量が少なすぎる点だ。

 が、家族にこの手の飲み物をやたら好む人間がいて、冷蔵庫のドアポケットはほぼこの種のドリンクに占領されている。

 犯人は、野菜室の不法占拠犯と同一人物だ。

「あー、牛乳を心ゆくまで一気飲みしてぇ」

 サンゴはしみじみとつぶやいた。

 この家の中で2Lの牛乳パックを最後に見たのはいつのことだろう。3年前、いやもっと前だっけ。

 サンゴが記憶をたどるその背後で、電子レンジはカウントを刻んでいた。

20,19,18,17,16…………

 15秒になったところで、白くて細い指が電子レンジの扉にかかり、カチャと開いた。

 ピピピ、と扉が開いたことを知らせる警告の電子音が鳴る。

 サンゴが振り向くと、温めていた弁当がちょうどレンジから出されるところだった。

「鳥の南蛮……やだぁ、カロリー高ぁい」

 勝手に弁当を取り出した長い黒髪の痩身の美女――春原真珠、サンゴの姉――は、パッケージの表示を読むと、くるりと振り向き、笑顔で

「サンゴ、これ半分あげる」

「半分もなにも、最初から全部オレのだから」

「なんでよぅ。どこにも名前書いてないわよ。名前書いてないものは誰が食べてもいいのが我が家のルールよ?」

「常識に照らし合わせて考えよっか。オレが温めたんだから、オレが食べるに決まってるだろ」

「やぁん、ケチ」

「ケチでもなんでもない」

 サンゴはバタンと冷蔵庫を閉めると、メンズTシャツにショーパンというゆるめの格好の姉に歩み寄って弁当を取り上げた。

「あン」 

「何か食べたきゃ冷蔵庫にあるから自分で温めろ」

「今食べたいと思うこの気持ちを大事にしたいの」

「せんでいい。そんなもん」

 姉に背中を向けてダイニングの椅子に座ると、裸足のつまさきにひやりと触れるものかあった。サンゴは、反射的にそれを足で蹴飛ばした。ひやりとしたものが転がって離れた気配がしたので、サンゴは弁当のフタを開けた。まずは腹ごしらえである。

 鳥の南蛮揚げを箸でつまみ上げる。一枚肉をそのまま唐揚げにして、甘辛いたれをからめてマヨネーズをかけてある。箸では切れないのでそのままかぶりつくと、口の中に濃厚なマヨネーズの味とみりんの利いたしょうゆだれ、そして鶏胸肉の風味が広がった。体に悪そうな、けれど食欲をそそる味だ。

「口の周りにマヨネーズついてるわよ」

 サンゴの背後から真珠が言った。

「見えないくせに断言するな」

「見なくたってわかりますぅ。あーあ、お姉ちゃんも鳥の南蛮揚げ食べたぁい。一口だけでいいのになぁ」

 と言うくせに、真珠は冷蔵庫を開けて弁当を確かめようともしない。単にサンゴが食べてるものが欲しいだけなのだ。その証拠に、他人が近くにいる時はここまで露骨なわがままは言わない。例え姿が見えなくても、気配で察する。真珠いわく『サンゴとお姉ちゃんのふたりっきり空間センサー』が働くのだそうだ。

 無駄な方向に第六感を発達させやがって、と思いながら鶏肉を飲みこんだ後、ふとサンゴは気になっていたことを尋ねてみる気になった。

「……そうだ。野菜室の中、あれ何」

「サンゴ、あの黄色い果物の名前はグレープフルーツって言うの」

「グレープフルーツは見りゃわかる。どうして野菜室にグレープフルーツを入れたんだって聞いてるんだ」

「それはね? うちの野菜室はLEDライトのおかげでビタミンが収穫時より増えるからよ?」

「そうじゃなくてだな……」

 ワザと焦点をずらしているのだとわかってはいたが、サンゴは突っ込まずにはいられなかった。

「なんでグレープフルーツしか入ってないんだよ。中に入ってた他の野菜は!」

「出した」

「どこに」

「テーブルの下」

 思わずサンゴは目を剥いた。あわててテーブルの下を覗き込む。

 サンゴのつまさきの5センチ先にトマトが転がっていた。

「おいコラ、オレにトマトでサッカーさせてどうする」

「外国にそんなお祭りなかったっけ」

「トマトをぶつけあう祭りならスペインな」

「そうそれ。ねぇねぇ、リコピンって直接お肌に乗せても利くの?」

「話をそらさない。あのな真珠、タイミングずれたら踏んでたからな。だいたい、口に入れるものを床に転がすなよ」

「ちゃんといらないチラシの上に置いといたもん」

 言われてみれば、積み上げたトマトの山に隠れた大根やキャベツの下に何か敷いてある。サンゴはテーブルの下にしゃがみこんでチラシの詳細を確かめた。チェーン系ヘアサロンの新規オープンのお知らせだ。

「……これ、母さんに見せた方がいいヤツじゃないのか」

「どうせお店で取ってる新聞にも入ってるわよ」

 サンゴと真珠の母親はいくつかヘアサロンを経営している。職人気質が抜けないらしく、今でも週に半分は現場に立っている。「どうしても自分の髪のを任せるのは店長さんじゃないとイヤ」というお客も多いらしい。

 まだ二人が子供の頃は仕事場と自宅が一緒だったので、美容師たちがしょっちゅう家にも出入りしていた。華やかな顔立ちの子供たちは綺麗なものが大好きな大人たちに猫可愛がりされ甘やかされ、ヘアセットやメイクを施され時にはお姫様のような七五三のコスチュームまで着せられて可愛い可愛いとちやほやされ――サンゴはその体験に全く影響されなかったのに対して、真珠の方はこんな人格が形成された。世界で一番お姫さま、そういうあざとさを心得てしまったのだ。

(ちなみに父親は普通のサラリーマンだが、立身出世のしすぎが祟って海外の支店長として1年前から単身赴任中である。年に2回は帰ってくるが、それが子供達の休みと重なる時期とは限らない)

「……まぁ、いいけどさ」

 とにかく、野菜室を追われた野菜たちの安住の地を見つけなければ、そう考えながらテーブルの下から這い出たサンゴが見たものは、鳥の南蛮揚げの最後の一口が真珠の口の中に消えてゆく光景だった。

「ごちそうさまでした」

「……………………口の周りにマヨネーズ付いてるぞ」

「見なくたってわかりますぅ」

 マヨネーズのヒゲを生やしながらドヤ顔をする姉にかける言葉が見当たらず、サンゴはガックリと椅子につっぷした。

「……なぜだ、なぜこんな目に遭う……天よ、オレはただ昼飯を食いたいだけで艱難辛苦は求めちゃいません……」

「大丈夫よサンゴ、お昼ごはんはちゃんと食べられるわ。だってキンピラゴボウとひじきの五目煮とキュウリの漬け物があるの。おかずが三品もあるのよ? すごくない?」

「……肉を喰わせろ……」

「まぁぁ、サンゴったら肉食系男子なの? お姉ちゃんサンゴをそんな風に育てた覚えはないわよ?」

「お前に育てられた覚えはねぇ……ええと……そう、野菜だ。野菜をどこかに移さないと……」

 うわごとのように呟くと、サンゴは立ち上がった。よろよろとした足取りで冷蔵庫に近づき、野菜野菜と言っていたせいでつい反射的に野菜室の引き出しを開いてしまう。

 LEDを受けた一面のグレープフルーツの黄色が鮮やかだった。

「……………………」

 引き出しを閉めることも忘れて固まっているサンゴに、真珠が声をかけた。

「もしかして、それ、食べたかったの?」



「ねぇサンゴ、お姉ちゃんお願いがあるんだけど」

「聞かずに断る」

 テーブルの上では、半分に切ったグレープフルーツ2つ、カフェオレボウルの中でさわやかな柑橘系の香りを放っていた。

 サンゴは弁当の上に割り入れた生卵にしょう油を垂らしてせっせとかき回していた。

 真珠はといえば、どうやらあれで満足したらしく、サンゴの向かいに座ってグレープフルーツをつついている。

「あのね、グレープフルーツの香りには痩身効果があるの。だからいくら食べても太らないのよ?」

「へー(棒)」

 スプーンが刺さるたびに果汁の小さなしぶきが飛ぶ。

 あたりに広がる柑橘系の香りが一層増した。

「テーブル、ちゃんとふいとけよ」

「はぁい」

 返事は良いが何もしないのは経験でわかっている。どうせ自分が片づけることになるのだろう。

「あのね、新しいコスチュームが出来あがったの」

「良かったな。オレには関係ないけどな」

「大変だったのよ。仮縫いを2回もやったんだから」

「大変だな。主にコスを作った方が」

「のんちゃん妥協ってものを知らないもんねぇ」

 『のんちゃん』(希遠、と書いてのんと読ませる。なかなか縁起の悪い字面だ)とは、二人の幼なじみだ。手先が器用な上細かい作業を厭わない性格で、家にこもってあらゆる創作活動に手を染めている。

 真珠とは様々な方面で趣味が合うらしく、真珠は着る人、のんが作る人で二人して高校の頃からコスプレにはまっている。真珠のスレンダーな肢体とのんの緻密な衣装のおかげで、コスプレイヤーとしてはそれなりの存在らしい。FBでに写真をあげると『いいね』の数が3万を下回ったことはないのだとか。

「でね、最後の仮縫いの時にお願いしといたのよ。ウェストがきついからもう少し出しといてって」

「そうか」

「そしたらね? 出来上がったコスがね? なんとね?」

「さらにウェストが詰められていたのか」

 真珠は両手の指先を口元に当てて、目をまん丸にした

「やだサンゴ、なんでわかったの? お姉ちゃんの心を読んだの? 以心伝心なの? 魂の片割れなの? ねぇいっそ結婚しちゃお?」

「しねーから」

 たまごかけご飯にした弁当の飯はどうも食べづらく、サンゴは弁当を口元まで持ち上げてかっこむことにした。箸をせっせと動かしながら解説する。

「望み通りの方向にウェスト周りが調整してあるなら、オレに頼みごとがある訳ないだろ。のんはなんて?」

「『原作のシルエットを忠実に再現したらこうなった。三次元が来い』だって」

「……妥協ってもんを知らないな」

「ねぇ」

たまごかけ弁当を平らげてテーブルの上に置いてから、サンゴは話の矛盾に気付いた。

「キツいウェストをさらに詰めた服を無理矢理着たら、それこそシルエットが崩れないか? というより着れないだろう、最悪」

「そこはのんちゃん、抜かりなく対策も準備してくれたわ」

「対策ってどんな」

「コルセット」

「コルセットって?」

 ついついサンゴがオウム返しに尋ねると、真珠は立ち上がっていきなりTシャツをまくりあげた。

「うひゃあ?!」

「なによぅ、嬉しくなさそうな声出して」

「嬉しくないに決まってるだろ! なにを見せる気だよ弟に!」

「コルセットを見せたげるんじゃない」

 こう言われて、サンゴはそろそろと固く閉じていた目を開いた。

 Tシャツは、胸部の下ギリギリの絶妙な位置で止まっており、そこから上のお色気エリア――要するにブラ――は見えてない。そして腹部は真っ白な光沢のある生地で覆われていた。縦に何本か縫い目が入っているのは、補強のワイヤーを縫い込んで止めているのだろう。

 見るからに窮屈そうで、こんなものを付けて苦しくないのだろうか、とサンゴが考えていると、真珠は何を勘違いしたのか

「触りたいなら触っててもいいのよ?」

「いや全然」

 サンゴの同情心は一気に霧散した。

「でね、後ろの方がね」

 真珠はそのままくるりと後ろを振り向いた。Tシャツの背中をまくり上げながら、髪を掻きあげて首の横に流す。隠れていたほの白いうなじが露わになり、艶めく黒い髪と匂い立つようなコントラストを見せている。

 いつもの姉とは違う雰囲気にサンゴが魅入られかかった所へ、

「触りたいなら触ってもいいのよ? ホラホラ遠慮しないでいらっしゃい? お姉ちゃんとサンゴの間柄でしょ? おフロも一緒に入った仲じゃない?」

 再び、何かを勘違いした真珠の声が飛んできた。

「何年前の話をしてるんだよ」

 サンゴはぴしゃりとはねつけると、テーブルに手をついて身を乗り出した。一体何を見せたいというのだろう。

 コルセットの後ろは、前と違ってかなり複雑な作りになっていた。10個以上の金属製の丸いハトメが等間隔に並び、その間を細い紐が互い違いに行き来している。

「……これ、どうやって脱ぐんだ」

「いやぁんサンゴったらお姉ちゃんを脱がせたいのね? でも、それはあ・と・で」

「いいから早く用件を言え」

 こちらから『お願い』を催促していることに、サンゴは我ながら呆れた。

 こうなることは判っていたとはいえ、自分は可能な限り抗い、拒絶の返事をしたはずだ。それなのに気が付けば真珠の思い通りになっている。

 自分がどうしようもない程カモなのか、真珠がよほどの手練れなのか。

「そのコルセットのヒモを締めてほしいのよ。ぎゅーっとおもいっきり、力強く」

「もう少し具体的に要望を出せ。こいつで何センチくらいウェストを細くすればいいんだ」

「……15センチ」

「15センチぃ?!」

 思わずサンゴは大声を上げた。

 確かハガキの縦の長さが14.8センチのはずだ。

 サンゴはそのまま視線を自分の腰のあたりに落とした。しま×らで値引きになっていたからと母親が買ってきたチノパンは、股下の長さもウェストもサンゴには大きすぎ、裾を折り返してベルトを使って穿いている。

 このベルトの長さをハガキ一枚分縮めるとしたら……。

 サンゴは動かすべきベルトの穴の数を数えた。

「無理だろ」

 あっさりサンゴは結論を出した。

「無理ですハイ無理。のんと話し合え。でないと真珠、お前死ぬぞ。死ななくてもどっか体悪くすんぞ」

「へーき、一日だけだから」

「いつだよ、一日って」

「明日」

「明日ぁ?!」

 サンゴはもう一度声を張り上げてしまった。

「やぁん、大声出さないでぇ」

「明日って! なんでまた!」

「明日のイベント合わせなんだもん」

 おおかた、どこかでゲームやアニメ関連のイベントか同人誌の即売会があって、そこに同好の士が集まるとかそういう流れなのだろう。

「……それじゃもう絶対間に合わないだろ。作り直すの……」

「だから、サンゴにお願いしたいの。お姉ちゃんは」

 ふと、サンゴの脳裏に疑問と疑念が浮かんだ。

「ちょいとうかがいますけどね、このコスが届いたのはいつごろ?」

「え~~? いつだっけなぁ」

「とぼけてないでとっとと吐け」

「……月曜日」

「ギリ直す時間はあったじゃねーかよ! なんだって今頃になって……」

 サンゴはやれやれと首を振ると腰を下ろした。

 真珠はこちらに背中を向けたままうなだれて

「だってぇ、のんちゃんのコスすっごく完璧だったし、ウェスト絞った方がイメージ近くなるのも確かだし……それに……」

「それに?」

「このコス着たあたし、すっごく可愛いだろうなって思っちゃったんだもん……」 

 これだ、とサンゴは思う。この底なしの『可愛い』への餓え。容姿を、自己を肯定されることへの飽くなき執着。

 同じ親から生まれ、同じ環境で育てられたはずなのに、なぜ真珠はこうなってしまったのだろうとサンゴは時々考える。もちろん答えは出ない。真珠は3才年上だ。自分の記憶がない時期になにかきっかけがあるのかもしれない。

 ただ一つ確実なのは、この承認欲求モンスターの叫び声には誰一人抗えないということだ。サンゴものんも、そして真珠自身も。

「……本当、お前って面倒くさいわ」

 サンゴは深々とため息を吐いた。

「え? サンゴ今お姉ちゃんのこと面倒くさいって言った?」

「うん言った。それにすっげぇ重い」

「重い?! 体重が?! ひどい! 確かに47キロだけど身長は170センチよ?!」

「身長を体重の言い訳にすんな」

「言い訳?!」

 ガーン、と叫んで涙目になる真珠を眺めながら、サンゴは立ち上がるとゆっくりテーブルを回り込んで真珠に近づいた。

 剥き出しの白いコルセットの腰に手を伸ばしながら、観念したような低い声でささやく。

「しょーがねーからオレが面倒見てやるよ」

 

 

 どんなことであれ、安請け合いはするものではない。

 サンゴはすぐに自分の発言を後悔することになった。

「……ううっ……」

「ね、ねぇサンゴ……サンゴってば……」

「……ぐうっ……」

「サンゴったら……痛っ……もっと優しくしてぇ……」

 ギリギリ締め上げられるコルセットの紐が切れる前に、サンゴの堪忍袋の緒が切れた。

「お約束な悲鳴上げるなっ! 優しくしてたらいつまでたっても終わんないんだろーがっ!」

 ウェストを人工的にマイナス15センチすることの無謀さを、サンゴはつくづく思い知らされていた。10センチまでは比較的簡単に縮められたが、あと5センチがどうにも進まないのだ。

「こんのっ……こうなったら……!」

 サンゴはコルセットの紐に両手にしたまま、Tシャツの裾を絞ってお色気ゾーンをカバーしてある真珠の背中に足をかけた。

「あん、家庭内暴力っ」

「これが一番、力の入る体勢なんだよっ!」

「男の人に足蹴にされたっ、お姉ちゃん、キズものになったっ」

「この程度でキズモノなら、運動会の騎馬戦はどうすりゃいいんだよっ!」

「サンゴ、責任取ってお姉ちゃんと結婚しなさいっ」

 テーブルに両手をついて、腰を突き出したままで真珠が声を上げる。

 サンゴは真珠の背中を足で押しやりながら、コルセットの紐を必死に引っ張った。

「その、なにかにつけ結婚を迫るくせ、いい加減にどうにかしろっ、だいたい、姉弟は結婚できないだろうがっ」

「……できるもん……民法734条1項だもん……」

「あ? なんだって?」

「なんでもなぁいっ!」

 真珠が腹の底から大声を出したので、コルセットがぎゅっと膨らんだ。

「わっ、声出すなっ、せっかく締めたヒモがまたゆるむっ」

「サンゴがちゃんと引っ張ってないのがいけないのよっ」

 どうにも埒が明かないな、とサンゴは考えた。

「よし真珠、息を全部吐けっ。吐いたまま二度と吸うなっ!」

「なにそれ、呼吸するなってこと?」

「そうとも言う!」

「ひどい! サンゴがお姉ちゃんに死ねって言った!」

「少しの間息を止めろって言ってんだよ! いくぞっ!」

 文句を言いつつ、真珠は言われた通りに息を吐き出す。

 その吐息が途切れる瞬間を見計らって、サンゴはコルセットの紐を思いきり締め上げた。

「……はぁっ……ああっ……!」

 真珠の喉から、絞り出されるような吐息が漏れた。

 サンゴの額から、汗がしたたり落ちて床にしみを作った。

「よし、そのまま!」

 極限まで引き絞ったコルセットの紐に、サンゴは素早く結び目を作った。

「おし、もう息していいぞ」

 サンゴが紐から手を離すのと同時に、真珠が大きく息を吸った。ギチギチとコルセットから軋む音がする。

「……息ができない……お姉ちゃん死ぬ、死んじゃうぅ……パパ、ママ、先立つ不幸をお許し下さい、犯人はヤスじゃなくてサンゴです。でも許してあげて……」

「誰が何の犯人だ。まぁ、苦しいのは本当だろうけど。それより、ほら」

 サンゴはテーブルの上に投げ出してあったメジャーを取り上げ、真珠に渡した。

「計ってみれば。目標値クリア、したはず」

「サンゴが計ってぇ……」

「どんだけ他力本願だよ」

「他人じゃないもん、弟だもん」

 文句を言いつつ言われつつ、それでもサンゴは真珠の腰にメジャーを巻く。

 メジャーは、あらかじめマジックで赤く塗ってあった目標値の場所でぴったり交差した。

「ほら、完璧じゃね、オレの仕事」

「そうね、あたし頑張った……!」

 サンゴと真珠は微妙に噛み合わない達成感にそれぞれ浸ったが

「あっ、そうだ」

 真珠はポンと手を叩くと、パタパタと勢い良くダイニングを飛び出していった。

「……で、誰が息が出来なくて死ぬって?」

 気まぐれ心変わりはいつものことなので、サンゴは真珠の言動を気に留めなかった。メジャーをくるくると巻き直すと、テーブルの上を見やる。キュウリの漬け物だけが残った弁当の空き容器、食べ散らかされたグレープフルーツと、まだ手つかずの残り半分。

「……食べよっか、グレープフルーツ」

 改めて椅子に座り直し、添えられていたスプーンを手に取ったところで、バタンとダイニングの扉が開いた。

「どうサンゴ、お姉ちゃん可愛い? 可愛いでしょ?」

 サンゴの手からポトリとスプーンが落ちた。

「な……!」

 真珠のコスチュームの元となったゲームは、アメリカの南北戦争を背景にした吸血鬼ものものだ。吸血鬼ハンターとして北軍に与するか吸血鬼となって南軍で退廃した生活を楽しむか。衣装が豪華なのは南軍側であり、真珠のコスチュームも当然ながら南軍側なのだが……

「夫を亡くして喪に服してる時に見初められて吸血鬼の仲間入りをしたって設定なの。名前はヴィヴィアンで、ウェストは49センチが公式設定なんだって」

 さすがにそこまでは無理だったけど、でもいいカンジでしょ? とくるりと回って見せるその姿は、黒のレザーと黒いレースで惜しみなく彩ったボンテージスーツだった。ピッタリ張り付いて足のラインを露わにしたレザーパンツ、申し訳程度にヒップを隠すスカート、極端にくびれた腰、豊満な胸元……

「……っておい、その上げ底しまくりの胸はなんだ。肉まんでも入れたのか」

「やぁん、それは女の子のヒミツ」

 そして噛み跡を隠す設定のチョーカーが、首周りの白い肌に映えていた。 

「でも、いいカンジでしょ? 可愛いよね?」

 同意を求める真珠に、なんと答えるべきかとサンゴは迷った。これは『可愛い』というカテゴリーではない。『妖艶』とか『蠱惑的』とか、そういう類のものだ。

 だが……

「なーによう、なんで素直に可愛いって言わないの?」

 反応を返さないサンゴに、不満そうに口を尖らせるその様子は……

「ソーデスネー、可愛いデスネー」

「なに、その棒読み!」

「あー、グレープフルーツうめー。これは痩せるわー確実だわー」

「色気より食い気?」

 実際は味が判るどころの騒ぎではなかった。至近距離のボンテージスーツは刺激が強い。口の中がカラカラだ。

「……ま、ウェスト締め上げてあるのは事実だから、明日の合わせはあんまはしゃぎすぎるなよ」

「そうね、もしお姉ちゃんが倒れたらサンゴが介抱するのよ?」

 ダイニングを一瞬、静寂が支配した。

 時計の秒針がかっきり一回りした後

「……………………は?」

 ようやくサンゴは声を出すことができた。

 真珠は、いつもマイペースだった。

「イベントの入場開始は10時からだけど、コスプレの受付が始まるのは9時から。だから7時には出発ね」

「行ってらっしゃい」

「サンゴも一緒にいらっしゃい」

「はぁぁぁぁ?!」

 今日一番のつっこみどころは今この瞬間しかないとサンゴは確信した。

「こら待て! なんでオレが付き合う流れになってんだよ!」

「え? だってコルセットのヒモを締めてくれる人が要るでしょ?」

「家から着てけばいいいだろ!」

「いやん、お姉ちゃん息ができなくて死んじゃう」

「そうか、じゃあ死ね!」

「ひどーい、サンゴの嘘つき、無責任、約束破り!」

「いつオレが明日付いてくなんて約束をしたよ!」

「『しょーがねーからオレが面倒見てやる』って言った!」

 うぐっとサンゴが言葉に詰まる。

 うふふ、と真珠が笑った。

「大丈夫、のんちゃんが車で迎えに来てくれるから。そうだ、せっかくだから帰りにエクスピアリ寄ってこ? 花火見ようよ!」

「思いつきでものを言うな。日曜の舞浜周辺の混雑度を甘く見るんじゃない」

「じゃあ決まりね。花火の時間調べとかなきゃ」

「待て真珠。ちゃんと話を聞け? いや会話をしよっか頼むから」

「してるじゃない、会話」

「会話というのはキャッチボールだ! さっきからビーンボールばっか投げやがって!」

「いけない、のんちゃんに一人増えるって連絡しなきゃ」

「言ってる側からそれかい!」

 サンゴは慌てた。せっかくの日曜日がどうしてこうなる。いや、どうしてこうなった。

 どこで選択を間違えたのだろう。昼食に鳥の南蛮揚げ弁当を選んだ時からか?

 ……いや、きっとこれは間違いではなく、多分オレは生まれたその時から……

「やーねぇ、サンゴったら難しい顔しちゃって。大丈夫、きっと楽しい一日になるわよ?」

 そう言うと、黒いボンテージスーツを着た美しい姉は、揺りかごを覗き込む3才の幼女のように笑った。



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お姉ちゃんはコスプレイヤー 等々力渓谷 @todoluckyvalley

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