名前はいらない

香枝ゆき

第1話 ホテルに誘われる程度の関係

「ちょっと付き合ってくれない?」

「どこまで?」

「ラブホ」

「ぶっ……ぐぁっは!」

 ドーナツチェーンで頼んだコーラをこれでもかというほど飲み込んでしまう。

 正面に座った24才女性は、口をつけていない水のコップを差し出した。

 器官を落ち着けてから、彼女はなおも聞いてくる。

「今そっち系の研究してるんだっけ?にしても相手は選んで」

「彼氏はいないしこういうの頼める人広瀬しか思いつかなかったし」

「これは光栄に思うべきなのか教えてくれない?」

「ノーコメント」

「でしょうね!」

 二人がけの席で相対している八城奏多は僕と同い年。

 違っているのは性別と、職業的身分だけだ。社会の歯車として働く僕とは対照的に、相手は大学院生、博士課程在籍中。

「え、ごめん、ラブホの研究してる訳じゃないんだ?」

「うん。先輩の研究テーマ。さすがに今から研究対象変える勇気はないわ」

「変えたらすごいよ」

 奏多とは小学校が一緒で、大学で偶然再開した。それ以来、卒業までの6年は数ヶ月に一度のペースでダベることが習慣のようになっていた。

「卒業してからは会わないと思ってたのにな」

「まさか八城もこっちにいるとは思わないよ」

「広瀬こそ」

 僕たちは二人とも関西の出身だ。僕は就職後、いきなり東海の支店への配属が決まった。奏多は博士過程から東海の院へ移ったらしい。

 同期は同じ研究室・支店にいない。先輩と年も離れている。友達は気軽に会いに行ける距離とは言えない。

 僕らの境遇は似ていた。

 今さら学生時代に戻りたい訳じゃない。ただ、スイッチを切り替えたいとき、ふと息をつきたいときはこうやってリアルに会うようにしている。

「で、ラブホ、どうよ」

 そらしたと思っていたら、まだ続いていたらしい。

 リラックスした様子から、自分はからかわれているのか、それとも考えなしなのか。

「いや、なんで行きたいん?」

「行ったことないから、知識として」

「……はあ?」

 高校で一人、大学学部生時代に一人。奏多には交際経験がある。どちらも期間は2年くらいだから、おかしくはないと思う。なにとは言わないが、そういう経験があっても。

 ただ、シティホテルとか相手の家とか、いろんな場所があるわけで、だったら行ったことがないというのもうなずける。

「それは他の人と行った方がいいよ。その、ほら、研究してる先輩とか」

 もしくは将来の彼氏や結婚相手とか。

 単なる知識欲だとしても。

 食い下がることもなく、彼女は笑みを浮かべた。

「せやね」

 トレーを戻し、すっかり人が入れ替わった店を横切りながら、僕たちは店を出た。

連れだって駐車場へと歩きながら、僕は小柄な相手に目を向ける。

 真っ黒のショートカットは昔から変わらない。

「八城、運転できる?」

 自分の車を光らせながら、聞くだけ聞いてみる。

「死ぬから無理」

「やっぱり?」

 助手席に乗り込んだ奏多は、手早くシートベルトを閉めた。

 免許を取った時期は変わらないが、あちらはペーパーだ。

 学生時代は物損事故を二回やらかしている。

「フィールドワークとかあるんじゃないっけ?」

「電車と歩き」

「地方はどうすんの」

「タクシー拾う。でも不便」

「練習あるのみやね」

「ですよねー」

 信号が赤に変わる。エンジンブレーキで減速し、ゆっくりと止めた。外は暗い。今にも雨が降りそうだ。

 FMラジオから流れてくるJ-POPを耳にいれていると、息を吸い込む音がした。

「優しいね、ヒロは」

「なにが?」

 うつむきがちな奏多は、次の瞬間にっこりとこちらを見る。

「車の運転。性格出るっていうやんか?だからヒロは優しいんやと思う」

 もう何十回と言われた言葉を体に染み込ませ、笑みを浮かべる。

「ありがとう」

 信号が青になった。



 僕は自分が特別優しいとは思わない。人並みに好き嫌いはあるし、全てを許せる菩薩でもない。けれどもまわりはそうは思ってくれないようで、いつの頃からか、優しい人ポジションに収まっていた。もう何年も動く気配はない。

 初めてできた彼女とは、自分が修士課程に進むタイミングで別れた。

 彼女は就職したし、自分にこだわる必要がなかったのだ。

「やっぱ将来性とか金か」

「この年になってくると、浮わついた話だけじゃだめで、地に足ついた話が多くなってくるからな」

 慰めるでもなく、奏多はただ冷静に現状を分析した。

「うん。女子的にどうなん、文系の院生」

「人による、としか言えんよ。あえて一般論言うなら、理系に比べて就職はどうなん?なんで行ったの?って感じかな」

「なんで社会学いったのかなあ」

「知らねえよ」

 梅酒を飲んで赤くなった奏多は、塩のきいたねぎまを頬張った。

 さっぱりとした性格の、数少ない院の同級生を羨ましく思う。

 ゆっくりと咀嚼している姿を目にしながら、ふと口をついてでた。

「なんで八城は院に進んだん?」

「仮面就留?」

 さらりと言ってのけたが、後期の大学院入試二ヶ月前まで、奏多は就職活動を続けていた。

 卒業ぎりぎりまで就活をすると思ったら、院試に切り替え、彼女はトップ合格を果たした。入学金・授業料免除は確定。研究計画書は10年に一度レベルらしい。

「すごいなあ、八城は」

「私に言わせてみたら、広瀬がなんで受かってた大手蹴って院に行ったのか分かんないけどね」

「言えてる」

場酔いしたのか、笑いが止まらなかった。


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