俺たちの大好きな戦争

アドリアーナ

全文

1.

目の前で女がよがり声を出している。

 男は女に覆いかぶさり、息を切らせながら、女の表情を凝視している。

 すぐに扉を閉めて、その場を立ち去らなければいけない。

 それはわかっている。

わかっているが、そこにはちょっとした間があった。

だいたい五秒くらい。

興奮したとか、そんなんじゃなくて。

自分の中になにかが入ってきて、それが頭を真っ白にして動かせなくしてる。

そんな感じ。

扉を閉めた。あわてて、

「す、すみません!」

と、どもるフリをつけて。

閉めた扉の前に立ち尽くして、ほんの少しぼーっとしてた。

「八島くん!」

廊下の奥から、男の声が聴こえた。振り向くとハートがあしらわれたエプロン姿を身に着けた体格のいい男が立っていた。

「あ、店長」

「どうしたの?」

 やばいな。

「あの、その、えー」

 急に話しかけられたのもあるが、なんて言い訳したものかと言葉を探った。

「あ、見ちゃった?」

「あの、その、すみません……」

「うーん、クレームくるかなあ」

 店長は眉をしかめて表情を濁らせた。

「で、でも、どうして鍵締めておかないんですかね……それにほら、部屋のマークも空き室になってるし」

「そういうプレイだったのかな?」

「と、言いますと?」

「いつ人が入ってくるかわからないなかで楽しむわけ」

「はあ」

「ほら、君も覚えがあるだろう。部屋で一人やってるときに、母ちゃんがいまにも入ってくるかこないかというスリルを、さ」

「そんな具体的に話さないでくださいよ」

苦笑いをして返した。

「まあ、鍵をかけてなかったお客さんもお客さんだし、そんなに気にしなくていいよ」

「了解っす」

「ところで、きょう八島くんは何時上がり?」

「三時です」

腕のデジタル時計を確認した。日を跨いで十二時ちょうどだった。

「どう? 後で呑みに行かない? どうせ終電まで、時間潰さないといけないでしょ」

「いいっすけど、どこで呑みます?」

「うーん、このあたり意外と深夜まで開いてる呑み屋ないんだよねえ」

「そうですねえ」

「しょうがないね、マスターのところにしようか」

「オーケイです」

「うん、じゃあ残りも頑張ろう! 空き部屋の清掃終わったら、休憩してくれていいから」

 店長はそう言って、廊下の奥に消えていった。

 店長の背中を見送ると、もう一度、中で絡まり合っている男と女がいる扉に目をやった。

 入ったときに視界に飛び込んできた女の表情が頭に浮かぶ。

 笑ってたな。

 女の表情を振り払って仕事に戻った。

 

 ✽                ✽                  ✽


モップとバケツを抱えて空き室に入った。

こんどはちゃんと誰もいない文字通りの空き室だった。

行為のあとの抜け殻と汚れ具合をを確認して、とくに念入りに掃除をするポイントのあたりをつける。

しかし、一瞥して変だなと感じた。

部屋が妙にきれいだ。

インターフォンでフロントに確認する。

「お疲れさまです。301ってお客さん使われましたか」

 フロントを担当してる久田卓が答える。

「使ってましたよお。さっきまで鍵出ていってましたし。へっ!」

 久田はいつも話していて、口の中からくちゅくちゅ唾を弄ぶ音をさせている。

「そうですか」

「どうしたんですかあ、なにかありましたかあ」

「いや、部屋を使った跡がないんで」

 部屋には使用済みのコンドームなどの性用品はおろか、ベッドすら乱れていなかった。

「そうですかあ、なにをやってたんでしょうねえ。そういえば、その部屋は可愛い女の子が使ってましたねえ。へっ!」

「え、どうしてわかるんですか」

 多分どこのホテルでも同じだと思うが、うちのラブホテルのフロントでは客の顔がわからないように手元で、部屋の鍵だけを渡すようにしている。そういえば、久田はその受け渡しのときに見える手でどんな人か想像するのが楽しいと、以前言っていたことがある。

「おっと、おっと、うっかりですう。へっ!」

 なにが、うっかりなのかわからなかったが、久田は続けた。

「休憩のとき、駐車場で見たんですよお。モスグリーンのスカートを履いた女の子でしたあ。へっ! もしかしたら、女の子一人でオナニーしてたのかなあ。きゃあん」

 久田が意味の分からない嬌声をあげる。俺はそれに反応せず、

「わかりました」

 と返す。インターフォンを切ろうとすると、

「あ、あ、あ、あ、そういえばエアコンのフィルターの掃除ですけどお、やらなくて良いですよお。ぼくがあとでやっときますから」

「え、いいんですか?」

「いいんですう。とにかくエアコンはそっとしておいてくださいぃ。ね、ね、ね、ね」

 どうしていいのか聞こうとしたら、ブチッとインターフォンが切れた。

結局、その部屋ではとくに掃除をする必要がなかったので、申し訳程度にモップで床を拭いた。

久田が言ったとおり客がいたのは確かなようだ。ベッドの横のラックに茶封筒が置かれていた。

恐らく、忘れ物だろう。俺は茶封筒を持ってフロントに戻った。

フロントの奥のスタッフルームに裏から入ると、久田が洗濯物を整理していた。久田は身体の大きな男だ。というか、身に着けているシャツはいつもはち切れそうなくらいの肥満体型だ。その巨躯を見るたびに、久田が歩く地面にかかる圧力はどの程度のものなのだろうと俺は疑問に思う。

「おつかれさまですう。エアコンはいじってませんねえ? へっ!」

「ええ、いじってませんよ」

「そうですかあ。それじゃあ、このタオルを畳むのを手伝って下さいぃ。へっ!」

黙って久田の隣に座る。

正直、久田が苦手だった。だから、てきとうに別の作業をしようと思っていたのだが、直接言われては断る術もない。

 タオルを畳んでいるその頭上では、天井から吊られたテレビがニュースを伝えていた。

 ニュースによると、近年、我が国では、暴行事件が増加しているらしい。なかでも、婦女暴行の割合がここ十年で三倍に増加しているらしい。

「ここ十年。というと、ちょうど戦争が起きた年からですねえ。物騒ですねえ。へっ!」

 久田はなにがおかしいのか、二タァと笑っている。

「そういえば、増えてるそうですよお」

「なにが?」

「結婚率ですう。それと、出生率」

「そうなんですか」

「ええ。戦争が起こると人間エロくなるんですよお。やっぱり、人間、死を意識するとそうなるんですよお。ベビーブームってやつですねえ」

「まあ戦争が終わると、復員で人が増えますからね」

 それに、政府自ら子作りを奨励している。生後三年までの新生児を持つ家庭はたしか補助の対象だったはずだ。それと、もちろん戦地から帰ってきた帰還兵たちにも。

戦争はきっちりと社会に還元されている。

「そうじゃないんですよお。戦争が人をエロくするんですよお。戦争っていう極限状況そのものが子供を産むんですう。へっ!」

「……そうですか」

 必要以上に答えないことにした。

「いやあ、ラッキーですねえ。まさか生きてるうちにベビーブームがやってくるなんて。今なら女の子、やぁらしいから、ヤり放題ですよ。いい時代だなあ」

「久田さんだけは誰とも寝てくれませんよ。押し潰されたらかないませんからね」

 俺は軽口に聞こえるように気を遣いながら嫌味を言った。

「そんなあ。いいですよお、ぼくにはこいつがいますからあ」

 そういって、久田は自分のスマートフォンを取りだして、アニメのキャラクターがプリントされた保護カバーを見せてきた。アニメのキャラクターはスカートをたくし上げて、自らパンツを晒していた。

「でも、そういう類いも規制されるそうですね」

「うぐ! うぐうぐうぐ。そうなんですよお。僕は、絶対反対ですよお。ええ、それはもう。断固もう。だいたい二次元がなにをするんですか。いいですかあ、二次元の女の子は存在しないんです。存在しないんだから、さっきのニュースの輩たちみたいにならないんです! 彼女たちは、僕たちの妄想なんです! どうして妄想まで規制されなきゃいけないんですか!」

 へえ、と俺は言った。興味ないからどうでもいや。

「国家がエロを支配するなんてほんと嫌な時代ですう。へっ!」

「さっき、いい時代って言ってたじゃないですか……」

 俺は呆れて話を打ち切り、さっき301を掃除したときに置かれていた茶封筒をエプロンから取りだした。

「なんですかあ、それ」

 久田は俺の手からそれを素早く奪い取ると、封筒を開け中身を確認した。勝手に見てよいのだろうか?

「データディスクですね。うへー、うへー、うへー、エロいやつだあ」

 久田が嬉しそうに言って机の上のデスクトップにディスクを挿入しようとする。俺は慌てて久田から、円盤を奪い返した。

「あ、なにするんですかあ!」

「ダメです、久田さん。こういうのは勝手に見ちゃ」

「ええ、そんなあ。かてぇことを言いなさんな。だんなあ、こんな楽しみもなければやっとられませんぜえ」

 久田はふざけた口調で誤魔化したが、断固主張した。

「ダメです!」

「いやあ、そこをなんとか。最近は行政指導の規制やら何のせいやら知りませんがエロビデオ自体が減ってきて、しかも素人モノを素人が撮ったものとかマジで良い値段がするんですよお」

「久田さんは、二次元でいいんでしょう?」

「だから、高く売れるんですよお」

「非合法ですよ、それは」

「だから、高く売れる」

 そういえば、以前から疑問に思っていたが、久田はアニメのグッズやら、パソコンのパーツやらを随分持っているそうだがその資金はどこから出てくるのだろう。久田がここ以外で働いているという話も聞かない。やはり非合法のDVDを売っているのか。

「貸してください。あとで、原本はあげますから!」

 コピーするつもりらしい。

「ダメです! ぜーったいダメ!」

 俺はそういってディスクを自分の鞄にしまった。あとで、店長と呑みに行くときに渡そう。

「もういいですう! 腹立ったからそこらへんの女の子を襲ってやるんです!」

 ほんとに最低だ、こいつは、と俺は思った。


✽                ✽                   ✽

 

三時になった。勤務交代で代わりの人間がやって来た。

 退勤のカードをきって、店長を待っていようと思ったが、店長は書類の作成があまり進んでいないみたいで、先に行っておいて、と俺に言った。久田といっしょに居るのも嫌なのでお言葉に甘えて、さきにマスターの店に行っておくことにする。

うちのホテルから、マスターの店までだいたい十分ほどだろうか。

夜道を歩く。

街燈の灯りはきれかけていて、ときおり、ばちっ……ばち……と音を立てている。

久田と見たニュースが何気なく思い出された。

婦女暴行。

こんな暗い道だと確かに危ないよな。

戦争が人をエロくする。

戦争っていう極限状況そのものが子供を産む。

どういう意味なんだろ。

ぼんやり歩いていたら、いつの間にかマスターの店にたどり着いた。入り口の扉にネオンで彩られた《FRIEDEN》という文字が目に入った。

「いらっしゃい」

 バーカウンターのなかに立つ、タキシードにブラックタイを身に着けた壮年の男性が声をかけてくれる。

マスターだ。

「八島じゃないか。まだ学校は始まってなかったのかい」

「うん。ちょうど来週の月曜からだよ」

 俺はそう答えながらカウンターに腰をおろした。

「あとで、店長も来るって」

「そうかい」

 マスターは口許の笑みを緩めず答えた。

 マスターはいまでこそこんな風にのんびりとバーをやっているけど、十年前のあの戦争、つまり南方諸島独立紛争に従軍したこともある元自衛官だ。髪の毛が白髪で、随分と老けて見えるけど、じつはまだ四十代らしい。肉体の方もいまだ衰えていないらしく、そのタキシードに隠れて見えないけど、実はその下の身体は相当な筋肉質だ。以前、酔っぱらって態度が悪くなった客を追い払うところを見たことがあるが、文字通り背広の首根っこを捕まえてつまみ出してしまった。それになにより、その鍛えられた肉体というか、やはり元軍人という来歴からくるのかわからないが、なんというか全身に迫力があるのである。

「きょうはあんまりお客さんいないね」

 というか、《FRIEDEN》にはいつもそんなに人がいない気がする。経営は大丈夫なんだろうか、勝手ながら心配してしまう。

「生憎だね。それより、ちゃんと言われたやつはこなしてるかい」

「やってる、やってる」

 俺が二年前に進学のために家を出てまだこの街の右も左もわからない頃、なれない一人暮らしを世話してくれたのはマスターだった。もっと率直に言うと、この街にきた頃は――いまでもそうかもしれないが――田舎者でなかなか大学にも生活にもなじめなかった。その頃ずっとここ《FRIEDEN》に通ってマスターには相手をしてもらっていたのだ。進学したばかりの頃はまだお酒も飲めなかったけど、いまではこうしてビールの泡を口ひげにしてふざけられるようになった。マスターは大学に入学した俺にいつも「頭だけじゃなくて身体も使って考えろ」と「練習問題」を出してくれた。というか半強制的に厳命された。「練習問題」というのは、要は、肉体鍛錬のための筋トレメニューなのだけど、元自衛隊仕込みのそれは確かに効き目があったみたいで、高校時代とくにこれといって運動もしてなかったひょろひょろの俺も少しずつ鍛えられていった。それでとくに自信がついたとか、友だちが特別できるようになったとかいうわけではないけれど、少なくともオドオドすることはなくなったように思う。

 扉のベルが揺れ、金属性の涼しい音が響いた。お客が一人入ってきたようだ。

「まだやってますか?」

 店長かな、と思って俺は入ってきた男を見たが、違った。

 優しくて柔和そうな男だった。男は清涼感のある感じに微笑みながら、俺とマスターに目をやった。髪をセンターでわけて、襟足をきっちり整えている。どことなく品のよさそうな感じがしたが、着ているものもパリッとしていて質の良い印象を受ける。首に着けているネクタイも嫌味な感じではない。なんというかモテそうだな、と俺は思った。

「やってるよ。だいたい始発が出るまでかな」

 マスターが答える。

「そうですか。それじゃあ一杯貰おうかな」

 男は言った。しかし男の懐から電子音が鳴った。着信音だな、と俺はすぐに気づく。彼は取りだして画面を一瞥した。彼は画面を見て、笑った。

爽やかな男の表情が歪んでほんの少し醜く見えた。

「いや、ごめんなさい。やっぱり行くところができたので失礼します」

 そういって男はまたベルを揺らして出ていった。

 男の背中を見送ると、俺はマスターに向き直って、

「初めてのお客さん?」

 と訊くと、マスターは、

「いや、あの人はもっと早い時間にたまに来るよ。でも、こんな夜遅くは珍しいね」

 と言った。

「ふーん」


✽                 ✽                  ✽


 針が回転する。そのたびに時計は一定のリズムのもと時間の流れを知らせてくる。

四時を回った。

 店長が来たらもう少し賑やかに呑めるのだけど、生憎、店長はまだ来ていなかった。俺とマスターはとくに話さずにいた。俺はお酒を転がして、マスターはなんどもなんどもグラスを拭いていた。

静かな夜だった。

少なくとも、いまここは。

「ねえ、マスター」

 唐突に話しかけた。

「なんだい?」

「『戦争っていう極限状況そのものが子供を産む』って言葉の意味わかる?」

 ときどきこうしてマスターに戦争のことについて訊く。

 でも、マスターはけっしてなにも応えてくれない。

戦争そのものに対する一般論も、自分の従軍経験も。

ただ、いつも黙って俺の目を見つめてくる。

 マスターは言った。

「お母さんの墓参りは夏休み行ってきた?」

 マスターのその質問に間を置く。

手元のグラスに目を落とす。

そして、マスターのほうに顔を向けて、

「うん、行ってきたよ」

 と告げる。

「そうか。それはよかった」

 マスターは満足そうに笑うと、最後に一言付け加えた。

「戦争は良くないとか仕方ないとかいろいろあるけど、わかりゃしないよ。戦争は行ってみなきゃわからない」



2.

 結局、店長は来なかった。始発の時間になったので、マスターにまた来るよ、と言って、店を出て電車に乗り帰宅した。アパートの部屋の扉の鍵を回して、自分の部屋に戻った。ばたっと、ベッドに倒れ込んだ。

結局店長にお客の忘れ物渡しそびれたな。起き上がって、鞄からディスクを取りだしてみた。

 ディスクを眺めた。

表面には、なにも印字されておらず、傷もなく綺麗なディスクだった。

 昨晩うっかり入ってしまったホテルの男女を思い出す。

 女の汗ばんだ笑顔が思い浮かぶ。

 ディスクを再び見つめる。

 俺は身体の、とくに下腹部が火照ってくるのを感じ、疎ましく思う。

 いや、ダメダメ。さすがにそれはダメだ。と、ディスクに対する気持ちを振り切った。ディスクを机に置くと、再びベッドに倒れ込み眠った。


✽                  ✽                 ✽


「透、透、ねえ起きて、透、たのしいことしよ?」

 俺はなにやら音がしそうな勢いで瞼を開ける。目前に幼い表情があった。

「なんだ、春希か」

 壁の時計を見て時刻を確認して、再び目を閉じた。

「入ってくるなら、ノックしてくれよ」

「不用心。ちゃんと、鍵をかけない透が悪いでーす。ほんと、最近物騒なんだから用心しなきゃダメ!」

 少女は指でめっとバッテンを作った。

 大学の後輩の井戸川春希だった。

「おまえこそ、気をつけろよ。そんな幼稚園みたいなちみっこいのがうろちょろしてたら、人さらいにあっちゃうぞ。いや、幼稚園児だから、補導されるかもしれん」

 俺はベッドにうつ伏せになりながら、答える。

「むう。なにその言いかたー。あっ、人さらいって、透の気持ちに可愛いあたしをさらいたい気持ちがあるのね。やだ、不審者」

「煮て食っちまうぞ」

「ああ、そんな。ごめんなさい、あたしには、優しい優しいボーイフレンドがいるのでした。残念でした」

「はいはい。仲睦まじきは良き哉、実篤。だよ。それでそんな素敵なボーイフレンドがいる幼稚園児が不審者の家に何のようだ?」

「DVD! 貸してくれるんでしょ! 今日の夜に菊亜と観るんだから!」

 キンキンとうるさいやつだ。枕をひっかぶって防音する。

「んー、机にあるだろ」

「どれ?」

「だから、机」

「ああ、これね。ちゃんと録画しておいてくれたんでしょうね。『解決、怪傑、魁傑』」

「録っといたよ。ていうか自分の家で録れよ」

 そもそも、その『解決、怪傑、魁傑』ってなに映画だ? ミステリー? ホラー? アクション? わからん。

「レコーダー壊れてんの!」

 だったら、観れないんじゃ……。

「もうイイです。あたしはお昼まで寝てるような社会生活不適合者はほっといて、優しい彼氏のところに戻ります」

「はいはい、バイバイ」

 枕を被ったまますげなく手を振ると、春希は、

「むー」

 と不満げな声を出した。

「なんだよ?」

「べつに?」

 そうして、ふん、と言って、部屋から出ていった。

 やっとうるさいのが去った。俺は再び惰眠の世界に戻ろうとする。

 しかし、またバタンと音がして、目をやると春希が立っていた。

「なんだよ、忘れ物か? 幼稚園児」

「大学、来週からだからね!」

「知ってるよ」

 わざわざそれを言いに戻ってきたのか、暇なやつだ。

「ちゃんと来るのよ!」

 そう怒鳴って、今度こそ出ていった。

 まったく。

 しかし、またバタンっと音がした。

 おい、なんだよ。ほんとに、ひねりのない嫌がらせだな。

「なんだ?」

「戸締り!」

 そういって、乱暴に三度扉を閉めた。

 こんど入って来たら、水鉄砲を撃ってやろう、と俺は洗面台から透明なプラスチックの銃を取りだした。そういや、これは春希から貰ったんだったな。誕生日プレゼントとか言ってたな……。

百円かよ。

水をためて、ベッドの前で銃撃体制を取っていたが春希は戻ってこなかった。

十分くらいじーっと扉を見つめていたら虚しくなってきた。ちょっと寂しい。

 俺はベッドにまた倒れ込んだ。


✽                  ✽                  ✽


 あ、あ、ああああ! 失策に気づいたのは再び起き出した夜だった。

 俺は目の前の事実を受け入れたくなくて頭を抱えて机の上から目をそらそうとした。

 しかし、机の引き出しには、『解決、怪傑、魁傑』とマジックで俺が大書したDVDが無造作に置かれていた。

 あの、あほ! 間違えてもっていきやがったああああ。

 どうやら、春希は俺が録画した映画ではなく、きのうホテルで俺が拾ったディスクをもっていってしまったらしい。

 俺の頭に久田のいやらしい下品な笑顔が浮かぶ。

ディスクの中身は確認してないが、ラブホテルに置いてあった代物だ。

そんなもの……。

そんなもの十中八九あの幼稚園児がボーイフレンドといっしょに観て良いもののはずがない!

あああああ、しまったあああああ。

俺は慌てて春希にメールを送る。

「『おい、幼稚園児! いま、どこにいる?』」

 すぐに返事が返ってきた。

「『家だよ~。菊亜、コンビニ行ってるから、帰って来たらDVD観るよん』」

 修羅場。

俺には付き合いたての幸せいっぱいのカップルが、誤ってどこかの淫靡なおっさんとおばさんが妖艶に睦みあっているDVDを見て気まずくなる光景がすぐに思い浮かんだ。

 それは良くない。大変よろしくない。

 あの幼稚園児と人畜無害でいつもいつもヘラヘラしているボーイフレンドのほのぼのカップルがそんな闇に触れちゃダメなんだ! 

どうしよう、どうしよう!

 また、メールが来た。

「『やっぱりなんか、DVD観れない』」

 そうだ! 確か春希の家のレコーダーは壊れている。

俺はすぐさまカーテンを開いて夜空の星に感謝した。

「『あ、菊亜帰ってきた~。素敵なボーイフレンドに直してもらいます(笑)』」

(驚)。

 俺はカーテンをすぐに閉めて、煌めく星々を呪った。

 菊亜は大学でも首席を取るくらいの男だ。日ごろ大学には通ってんのか、実験器具を壊しに行ってるのかわからないような俺や幼稚園児と違って、なんだかよくわからないマシーンをガリガリ使って、おまけに直して、そのうえ、新しいマシーンまで開発して、あまつさえ特許さえとって研究に打ち込んでしまう博学多才なハイスペックマシーン野郎だ。

 おまけに、情に篤く、優しくて人畜無害ときてる。そんな奴だ。

 やつなら……。菊亜なら……。

 直してしまう。レコーダーなど……。すぐに!

それもちょちょいのちょいと!

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。

 俺は再び頭を抱えた。どうしよう!

 しかし、そこはそれ。俺はすぐさま、立ち上がり決意した。

 取り返すのだ!

ラブホテル従業員としての責務、そしてこの世の優しいほわほわの象徴である幼稚園児と人畜無害のハイスペックマシーンのカップルの平和、俺は守ってみせる! 

ディスクを取りかえすのだ!

 俺はスマートフォンを手に取ると、煌めく夜空の星の下(嘘。ほんとうは星なんて全然見えない)全力で走った。

 待ってろ! お前たちの愛は俺が守る!


✽                  ✽                 ✽


「DVD? うん、観てみたよ。ていうか、なにそんなに焦ってるの?」

 汗だくになって、はあはあ言いながら玄関に立つ俺を見て春希はしれっと言った。

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。

 俺は膝から崩れ落ちた。ああ、観てしまわれたか……。

「てゆうか、映ってなかったじゃん。録画できてないし! 楽しみにしてたのにー」

 そういって、春希は頬を膨らませ、ポコポコと殴りつけてくる。

「え、映ってなかった?」

「うん、なにも。そもそもこれ民生用のDVD-Rじゃないね。専門のプロテクトもかけてあるし、容量も馬鹿みたいに大きいから、これは専門の人が使う業務用だね」

 奥から声がした。菊亜の声だった。

 俺はとくに了承も得ずに、春希の部屋にあがりこんだ。

 奥にブルゾンのセーターを着た男がパソコンの前のアームチェアにもたれていた。

 男はメタルフレームの眼鏡を持ち上げて俺を見上げた。よう。と俺に手を挙げた。

彼こそが、井戸川春希こと幼稚園児の心優しきボーイフレンド菊亜安秀だった。


✽                 ✽                  ✽


 菊亜と俺は学部の最初の一年が終わるころに知り合った。菊亜は大学に入学した当初から俺と違って有名人だった。それは菊亜がなによりハンサムで恐ろしいくらいに勉学に励み、その知的なる剛腕を振るっていたというだけでなく、こいつの苗字もまたとりもなおさずその理由に一躍買っていた。

 株式会社立菊亜日光大学生体情報学部神経生理学科理工学域三年菊亜安秀。

 俺たちが通う菊亜日光大学は世界でも有数のコングロマリットである菊亜日光グループが経営する学校法人だ。近年では大企業が自社の人材の育成、確保を目的として大学を経営することが増えてきており、たいして珍しいことではないが、とはいえ菊亜日光大学は、そんな株式会社立という収まりの悪い言葉が頭につく大学としては我が国では二校目という比較的に株式会社立大学のなかでは古参に位置する方だった。

 そもそも菊亜日光グループはもともと国内では戦前から続く老舗の医薬品メーカーとして有名だったが、国際的な立ち位置としてはさほど知名度はなかった。それが二〇一五年ほどよりの世界的な関税障壁取り払いの動きとその五年後に起きた南方諸島独立紛争での医薬品特需と国際的なスポーツ大会での最大のスポンサーとしての資金提供により一躍資本と知名度を同時に得て急成長。紛争そのものは比較的短期間で終結したが、菊亜日光グループはこれを見越して、医薬品事業からさらなる事業展開を起こし、これに成功。紛争以後の十年に至る現在までに、医薬品はもちろんのこと食品、エネルギー、果ては軍需品にまで事業を拡げまさしく破竹の勢いでの急成長を遂げた。今となっては世界に冠する大企業として君臨するに至っており、なかでもスポーツドリンクを始めとする菊亜ブランドのドリンク商品は世界中の人が愛飲しているという。戦争とスポーツ大会が同時に行われた2020年は我が国では陰に菊亜日光の年とも言われている。

 ちなみに、これはしばしば囁かれることだが、そもそも紛争そのものがじつは菊亜日光の多大な意向のもと行われたのではないかという噂もある。ことの真偽は定かではないが、戦争とスポーツ大会以後のあまりの菊亜日光グループの躍進をみればその噂もむべなるかなというところは確かにあるのである。

 で、この菊亜安秀という男はその菊亜日光医薬品を菊亜日光グループとして一代で大躍進させた菊亜日光グループ最高経営者の息子なのである。

「これは映像データじゃなくて、アプリケーションソフトが入ってるね」

 菊亜はデスクトップで開いたディスクのファイルを見ながら言った。

 ちなみにさっき言っていた専門のプロテクトとやらは、専門の菊亜くんがパスワードを迂回してさっさと突破してしまった。恐ろしいね、ハイスペックマシーン、菊亜くん。超字余り。

「しかも、これ普通の人が使うようなアプリケーションじゃないよ。医療用の神経電位パターンを読み取る装置とセットにして使うやつだ」

「へえ」

 まあラブホテルなんて誰が使っても良いが、そんなお客がいたのかと俺は単純に関心する。

「うちの大学にある装置でも起動できるやつがあったはずだけど……」

「だけど?」

「なんか普通のやつと違うみたいだね。プログラムのデータフローが市場に出回ってる業務用電位測定ソフトとちょっと違う」

「つまり?」

 菊亜は答えずに、モニターから目線を外し俺の方へ体を向ける。

「来週学校始まったら、うちの研究室に来いよ、試してみよう」

 俺は勝手にお客のものをいじってもよいものなのかと自問したが、まあしかし、久田が考えていたような下世話なものではないようだ。

「わかった」

 俺は菊亜の提案にのった。

「で、このあとどうするの? 」

 うしろから春希が言った。DVDも観れないし、とまた膨れた。

「じゃあ、これ観るか」

 と、菊亜はもう一枚違うDVDを取りだした。

「なにそれ」

「『解決、怪傑、魁傑 解決篇 エピソード零』だ」

 俺が感じた、なにそれ、という疑問のことばは微塵も解決しなかった。

「わあい。やったあ」

 幼稚園児は飛び跳ねた。

「透も観るだろ? 人数も増えたし、もう一回コンビニ行って酒を買ってくるよ」

「あ、あたしもいくー」

「あ、じゃあ俺も……」

「ダメです! 透はお留守番」

「なんで?」

「あたし達、ラブラブだからですー」

 なにそれ……。

春希は、「ねー」と菊亜に笑いかけた。菊亜も「ねー」と返した。そして二人は俺を見て少しだけ、フッて感じに笑った。フッて感じに。なんだよそれ。

 結局、そのあと俺たちはDVDを朝まで観た。

DVDは『解決、怪傑、魁傑 解決篇 エピソードマイナス一』『解決、怪傑、魁傑 解決篇 エピソードマイナス二』まであった。



  3.

 その日、アルバイトの休憩時間にホテルを抜けだして、近くの公園に行っていた。

何の気もない、いつものようにただ外の空気を吸いたくて出たのだった。

 その日は公園に先客が一人いた。

 綺麗な女の子だった。

その女の子は暗い深夜の公園の街燈の下で夜空を見上げていた。

何を見ているのだろうと思い、その女の子の目線を追って真上を見上げる。

星でも探しているのだろうか。

しかし、生憎こんな都会では夜の星は街の光のせいで見ることは叶わなかった。

色の白い女の子だった。

街燈に照らされてその女の子の白さは暗闇の中でもとくに際立って見えた。

邪魔しちゃ悪いと思い公園から立ち去ろうと思った。しかし、

「あの……」

 と、女の子は声をかけてきた。どうやら、一方的に眺めていたつもりが向こうはそれに気づいていたらしい。

 気まずさをどう隠したらいいものかと考えてなにも返せずにいると、女の子は、

「これ、飲んでくれませんか」

 と、手持ちの缶の烏龍茶を目前に掲げて笑った。

急な申し出に戸惑い、受け取るか短い間迷ったが、結局礼を言って缶を受け取った。

 手近なブランコに腰かけると缶のプルタブを引き起こした。

一口くちをつけると、息を吐いて一息ついた。

烏龍茶の冷たさが心地よかった。

 女の子は隣のブランコに腰かけるとそんなこちらを見て満足気だった。

「あの……」

 と、声をかけようとすると、女の子は、

「間違えて買っちゃたんです。烏龍茶苦手なのに」

「あ、そうですか」

 しばし沈黙。

相変わらず彼女は黙って缶を飲む俺を見つめていた。

ポケットから煙草を一本取りだして吸う。

独特のじんわりとした感覚が血液に流れる。

気まずさに耐えかねて口を開く。

「あの、バイトの休憩中とかですか」

「あなたみたいに?」

 彼女は髪をかき分けながら言った。

白い耳元があらわれて俺は少し胸を弾ませてしまった。

「どうしてわかるんですか」

「何を?」

「いや、俺がアルバイト中だって」

「あら、違ったかしら。もしかして、深夜に女の子を悪戯しちゃう悪い人かしら」

「いや、正解です。もちろんアルバイト中です」

 彼女はなにがおかしいのか楽しそうに笑った。

「そうね。テレパシーかな?」

 彼女はお道化てそう言ったが、すぐに合点がいった。

そういえば、制服を着替えてなかったじゃないか。

アルバイト中なんて服を見れば一発でわかる。

対称に俺は彼女の服装を確認した。

彼女はブルーのデニムジャケットに、スカートといういでたちだった。デニムの襟元からは白いシルクのシャツが見えた。そのシルクのシャツが彼女に対してちょっとした上品さをもたらしていた。

 再び沈黙。

また黙って缶の烏龍茶をひたすら飲む。

いったい何を話せばよいやら……。頭の中であーだこーだしてるうちに時間切れとなった。時計の針はそろそろ休憩時間の終わりをつげようとしていた。

立ち上がって、お茶のお礼を言うと俺は彼女を見つめた。決心した。

一つだけどうしても聞いておかなければならないことがある。

「あの……。良かったらメールアドレスを教えてくれませんか」

 俺はこのときどんな表情をしていたろう。真っ赤な顔ならまだいいが、いやらしいおっさんみたいな顔をしてなかったろうか。

 彼女は呆気にとられたように真顔で俺の表情をまじまじ見つめ、そのあとまた再び笑った。

その表情を見て安堵した。嘲笑や侮蔑の笑いではないと思った。

「大丈夫、また逢えるよ」

 彼女は言った。

 どういう意味だろう。彼女は毎日この公園に来ているのだろうか。

「だから、メールアドレスはまた今度ね」

 いや、どうやらやんわり断れてしまったらしい。それもそうか。深夜に出会った不審なアルバイトの休憩中の男にメールアドレスなんて、こんな物騒な時代に教えるわけがない。

 ちょっぴりしょんぼりして顔を俯けると、ふいに口をふさがれた。

 何が起こったのかよくわからなかった。

 それはあまりに突然でその感覚を憶えておくことすら許されないほど短い時間だった。

 いや、あまりのことに頭が麻痺してしまったのかもしれない。

 彼女は目を閉じて口許に自分の口を合わせていた。

 そして、口を離すと、それじゃあね、と言って笑って手を振った。

 何も言えず、ただ固まって前を見つめていた。

 彼女が公園を出ていく間際になってようやく声が戻ってきて、

「あの! せめて名前だけでも」

 西部劇かよ。自分でもなんだかばかばかしく思えたセリフだった。

 そのときになって、ようやく彼女はずっと笑っていた表情に変化を見せた。

 それは、先ほどまでと打って変わってどこか寂しさを感じさせる表情だった。深く深く海の底に沈んでいってしまいそうな表情だった。

「いまはまだ名前は無いわ」

 そう言って、また無理にさっきまでの笑顔に戻して、公園を去っていた。

 一人になった公園で立ちすくむ。

狐につままれたような気分だった。

これは俺が見ているあほな夢なんじゃないかって気がしていた。

しかし、口許に触れると、それを認めたくないような気がしてきた。

ポケットの中のスマートフォンを握り締めた。

 


  4.

 夏休みが明けた。

初日の授業を早速サボって、菊亜の所属する研究室を訪ねていた。

「へええ。なんというか不思議なこともあるもんだな」

 菊亜は心底関心したように俺の話を聞いた。もちろん、先日の深夜に公園で出会った女の子についてである。

「で、その子とはまだあってないのか」

「うん。やっぱり体良く断られたんだろうな」

 学校が始まるまでに何度かあの公園を訪れてみたが、彼女の姿はなかった。

「まあ、そう落ち込むなって。少なくとも、キスできたんだからいいじゃないか」

 ちなみにこのことは春希には話していない。そんな話をしたら、あの幼稚園児はキモイ! と一言切り捨てるだろう。

「彼女がそんな欲しいなら……。そうだ、久々に《TACTIQUE》に行ってみるか」

《TACTIQUE》とは、大学から一駅離れたところにあるクラブである。今日は夏休み明けということもあり、お客は多そうだなと思った。

「マスターのところは?」

 何の気なしに、もう一つ対案を出してみる。しかし、菊亜は、

「いや、マスターのところは夏休み結構通ったから……」

 と退ける。

「へえ、そうなのか」

 菊亜がマスターのところに行くときは、だいたい、いつも俺といっしょだった。しかし、俺が夏休みに帰省している間にそんなにも通っていたなんて思いもよらなかった。

「そうだな、今日は学校も始まったし《TACTIQUE》に遊びにいくか」

「大学始まったから、遊びに行くってのも変な話だけど」

 と、菊亜はぼそっと呟いた。俺はそれに対して、そこはそれ、これはこれは、と言ってとぼけた。

「それで、これなんだけど」

 菊亜は俺が訪ねてきた要件を切りだす。

 菊亜は俺に向かって先日よりのデータディスクを示す。結局、ディスクを回収してから一週間、持ち主から店に連絡はなかった。まあ、ラブホテルでの忘れ物なんて確かに名乗りにくいのかもしれない。久田のように、いかがわしい想像もする奴もいることだし。もっとも、菊亜によればこのディスクの内容はそのような猥雑なものではないらしい。

「前にも言ったけど、これは医療用のソフトウェアだ。そこにある生体情報検査装置を使うときに用いるんだ」

 菊亜は丁度真横にある装置を指して言った。装置はちょっとした作業机のようなもので、丁度、健康診断のときにみかけるような(というかそれに類するたぐいのものだろう)ものだった。台の上にのせられたモニターの横にはちょっとしたラジオのような機器がありそこから横に頭部に装着するためのヘッドギアへとケーブルが伸びていた。

「生体情報検査装置ってことは人体を調べるのか?」

「そう。これは主に脳波を測定するためのものだ。お前も知っていると思うけど、人間の人体はちょっとした通電メディアだ。人体を構成する細胞間では、イオンチャンネルに基づいた細胞間物質の交換が常時行われている。この細胞間物質の交換を幇助するイオンには陽イオンと陰イオンがあってだいたい人体においては陰イオンが基本状態だ。ここに人体に対し何らかの刺激が与えられ陽イオンが発生する。その陽イオンがある一定の閾値を超えると人体の静止電位と反応し脱分極がおこり活動電位になる。ここまでは知ってるな」

「うん」

 もちろん、知らない。

「この人体の通電としての仕組みをもっとも利用しているのが、ある意味では電流回路の集積ともいえる神経組織の塊である中枢神経系の脳だ。脳を構成する神経細胞は樹状突起と軸索から構成されているがこの神経細胞同士の間には僅かに間隙がありシナプスと呼ばれる。そのシナプス間を神経伝達物質が移動しタンパク質をレセプターに届け化学反応を起こす。このときに発生するのがさっき話したイオン反応で、シナプス前細胞とシナプス後細胞の間によるトランスポータータンパク質が……」

 おかしいな、俺と菊亜は同じ学域のはずなのだが。俺は一体どうやって入学したんだろう。いや、そもそも俺と菊亜は恐らく運命的に……。運命とは……。果たして俺の人生とは……。菊亜との学力の差を感じ、俺が真剣に人生について考察しているなか菊亜は講釈を続ける。

――ちなみにだが、神経伝達物質の実験においては毒性物質が使われることが多い。というのも、神経伝達のメカニズムを解明する試薬として用いられてきた生理活性物質として例が多いのが毒性物質で、有名なのがカンナビナノド類やアフラトキシン等で……

 俺は存在とはなにかにまで思索を深めつつあった。

「そして、当然だが人間が感じる感覚あるいは情動といったものもこの神経電位による作用と言っても良いのかもしれない。お前が見るもの、聞くもの、触るもの、嗅ぐもの、味わうもの、それらの化学情報が一種の電流の信号に変換され脳器官を刺激し、お前の世界を形作る。いや、それだけではない。お前が考えることやお前が日々話す言葉、それらですら神経の集積たる脳器官という電流回路が発生させる電気反応だ。そうだ、人間とは電気回路を所有し、その装置が作動するひとつの化学反応として発生した電流反応なのだ。そうすると、俺たちの存在とは……」

 そこまで行って菊亜は急に黙りこくった。

 なにやら、菊亜まで思索にふけりはじめたようだ。

 二人で思索に耽っていると、菊亜は俺の真剣な表情に気づき、

「つまり、脳には電流が流れていて、これはそれを測定するための装置です」

 恐ろしくあほなまとめ方をされてスタート地点まで戻ってきた。ごめんね、菊亜くん。今度の試験も頼むよ……。ちなみに菊亜の思索は知らないが、俺の思索は今日の昼に摂取すべきは如何なる存在物かという地点にまで到達していた。

「あとでカレーでも食べに行くか……」

 菊亜は悲しい表情で(というか情けない表情で)俺に言った。どうやら俺の思索は菊亜と同調したらしい。

「まあ、だからこのディスクにはその脳波測定のためのアプリケーションが入っているんだけど、ちょっと他とは違うようだ」

「と、言いますと?」

「測定の精度が流通しているものより明らかに高い。それにデータ構造もおかしいし、なによりもファイルサイズが嘘みたいに大きい。こんなの構造として実装されているのは普通アプリケーションを構成するプログラミング言語くらいでせいぜい500キロバイトも有れば十分だ。でも、このディスクはそんなもんじゃない。もっと馬鹿みたいに大きい」

「ふむ」

「どうも、プログラミング構造のなかにアプリケーションソフトを構成する以外にもっと違うなんらかのデータ構造が隠されてるみたいなんだけど、生憎プログラムは文字なんでね。実際に出力してみないとわからない」

「で、出力は?」

 オウムみたいに返してる自分の悲しさをグッとこらえて訊く。

「出てこない。まあ、基本が脳波測定プログラムだから当然だけど、画像でも、映像でも、音声でも出てこない」

 菊亜はその後、キーボードをガチャガチャ操作し、画面にならぶ文字列に対して操作を加えた。

「やっぱり、このデータ構造はソフトウェアの起動とともに現れるようにセットされてる。でも、なんでわざわざ脳波測定を併せて行う必要があるんだ?」

 菊亜はそのあともぶつぶつと独り言を続けた。そして、シートに深くもたれ込み、

「ああ、もうわからんな。いいや、試してみるか」

 と、俺にヘッドギアを渡した。

「え、大丈夫かよ」

 俺は訝しんで菊亜の表情を伺った。

「まあ、脳波測定だから。健康診断と思って……」

 ヘッドギアを見てしばし躊躇ったが、もとはといえば俺が持ち込んだものだ、ここは一つ試してみるか、とヘッドギアを受け取り頭に被った。

「それじゃあ、行くぞ」

 ヘッドギアを被り終えると、菊亜はアプリケーションソフトを立ち上げた。

 菊亜の前のデスクトップのモニターには、数値と折れ線グラフが現れた。

「ほおお、健康だな」

 菊亜は言った。遅れて暗いサブ画面に、真っ白な線が飛び交う球体が映された。球体の中の線はしばし光が飛び交っていた。どうやら俺の脳器官らしい。

「……」

 直接自分の脳を見て、なんだか何も言えなくなってしまった。しかし菊亜はのんびりと、

「ふーむ、これがお前の世界であり、お前自身なわけだ」

 と言った。俺はサブ画面のなかで発光する球体の光を見つめた。動いたり、菊亜の声を聴くたびごとに球体の発行する部位は変化した。

これが俺の世界で、俺自身か。

なんだか、とても奇妙な気分だった。自分が今まのあたりにしている目前の研究室の空間すら、ただ無数の光が飛び交う空間のように思えてきた。

いや。

思えてきた、というか。

実際に、目の前の光景が光で溢れて瞬いている。

真っ白い閃光、じょじょに物が輪郭を喪って、光の玉が視界を埋め尽くしていく。足元が不安で、立っているのかどうかわからなくなる。立っているのか。モニターに映された俺の脳器官、電流の煌めきの前に現れる俺自身。電流の煌めき、人間とは、巨大な電流反応の集積。無数の魂が嗤うように踊って。ザー。空間と時間の混在。ザー。意識の混在。歴史の物語と物語の歴史の混在。ザー。ザー。ザー。ノイズ。ザー。ブラウン管テレビのようなノイズ。ザー。もっとも大きな集合的無意識。光の発する音が心地よく響き、ぱーじりじりじじりいいりじり、ぽんぽん、ぱーじじじりいりりじ、ぽんぽん。ぽんぽん、と心地よいリズムが形象化していく。音、聴いたことがあるような初めての懐かしい音。銃声。破裂音。銃声。波の音。視界に現れる、無数の光、兵士の姿を象っている。匂い。甘い。パパパパパン。パパパパパン。また、銃声。海岸にいる。いや、海岸が見える。木々の向こうには青い。海。高揚する。僅かな恐れが、俺を興奮させ、目の前の少女に絡みつく。少女が着ているスカートの襞に触れ、雨に濡れた土ごとそれを持ち上げる。手を太ももに這わせて、唇をむさぼる。恐れと快感がないまぜになった少女の表情。公園の少女。甘い烏龍茶の匂い。目の前の男は少女に覆いかぶさり、俺は少女の秘部に到達する。湿った大地に少女の頬が触れ、土で汚れる。冷たい雨に濡れた大地と暖かな少女の皮膚の対比。憤り。目の前の俺が少女を犯している。怒り、不安、混乱。それが楽しい。絡み合う俺たちを見下ろす俺。銃口が向けられる。少女のなかで果てると同時に少女に絡みつく俺を撃つ。パパパパパン。溢れる血の混じった脳漿を舐めて、眠たい快感にさらに堕ちていく。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖恐怖・恐怖・恐怖・恐怖・恐怖・砲弾が飛び交う。銃声から放たれる光。この戦場に満ち溢れている暴力という官能。俺は無数の死体が転がり朽ち果てていく海岸が見えるジャングルで少女と乱暴な性交をし果てていた。


…………サンテン……………サンテン…………サンテン……………サンテン…………


✽                   ✽                ✽


気がついた。

椅子の上でもたれ込んでいる。

電灯が眩しい。

「おい」

 わかるか?

 菊亜の声。

「何本だ」

 何が?

 三本。

 菊亜が示す指の本数を数える。

 三本。

 八島透だ。

「大丈夫。大丈夫」

 心配する菊亜に興奮気味に返事をする。


✽                 ✽                  ✽


 菊亜の話によると、アプリケーションを立ち上げて俺の脳波の計測を始めてだいたい十分くらいはとくに何もなかったそうだ。俺も確かにヘッドギアを頭に嵌めるまでは憶えていた。

「で、しばらくするとモニターがおかしくなって。具体的にいうと視床下部のあたりがもう真っ赤になっちゃったわけ。いや、焦ったマジで。お前、脳溢血でも起こしちゃったのかと思ってさ。それで救急車を呼ぼうと思ったんだけど、お前が呼ぶなって大声で怒鳴るから。いや、一度やっぱり病院に行った方がいいな、うん。うちの系列の病院予約しといてやるよ」

 菊亜にしては珍しく興奮気味に話していた。俺はさっきの後遺症なのか気分の谷間を昇り降りするように興奮とぼんやりを繰り返していた。

「それで、データが何かわかったのか?」

 ヘッドギアを着ける前の菊亜の話だと、俺たちが試したディスクは脳波測定時にデータが出てくるようセットされてるとのことだった。

「うーん。ログを漁ってみたけど、出てたには出てたみたいけど、やっぱりモニターにはプログラミング言語としてしか表示されてないな」

 考えがまとまらないまま話した。

「なんつーか、ジャングルにいてさ、雨が降ってて、そこから海岸が見えるんだけど、そこでいっぱい人が死んでんの。背中にはみんなライフルを抱えててさ。なんか軍服とかは着てなかったから兵士かどうかわかんないけど。そこで横には若い男が立っていてさ。目の前で現地の女の子が犯されんのぼーっとみてた。なんか、甘い匂いがして、それで銃声とか砲弾の音が聴こえてきたから、たぶんあそこは戦場だったんだと思う」

 ってなんじゃこりゃ。

言ってて自分でも意味がわからなかった。そもそも俺は戦場にいったこともないし、銃声も砲弾の音も聴いたことはない。言葉が意識するより先に口をついて出ていた。

 しかし、菊亜は真剣な表情をした。目の前のカレーに手を付けずしきりに何かを考え込むように口許に手を当てていた。

「ふむ」

 俺もそんな菊亜に話しかけられずに黙ってカレーを食べた。

「さっきもちょっと話したけど、人間が見ているイメージや音、匂い等の五感は、なんらかの外的な刺激に神経細胞が反応した結果の電気的な作用だ」

「ふむ」

「コンピュータとかさ、原理的にはあれと同じなんだ。脳っていうハードになんらかの刺激を与えると、つまり光や音という物質を与えるとそれが神経系で機械的な電気信号に変換されて、その電気信号が見えるとか聴こえるとかいうことで、一種の離散的な現実として表す。コンピュータにおいては、コンパイルされているプログラミングが逆にもとの機械語として逆コンパイルされてバイナリデータに戻される。そしてそのバイナリデータの演算が行われて、最終的に出た0と1の演算結果がやはり物質たる半導体の集積回路の入力と出力のパターンとなり、コンピュータにフィードバックされて、それがコンピュータの出力つまり映像やら音やらになるわけだが、あのディスクに記録されているプログラムはデータ構造としてのプログラム自体を逆コンパイルしてそれを集積回路への電気信号に変換する過程において、生体電位と同期するものを実装しているのかもしれない。そして、それを実際脳器官に伝達させ神経系を反応させることで疑似的な経験を与えるものなのかもしれない」

「はあ」

 一気にまくしたてられた。ようやくはっきりしてきた思考が再び霞のなかに溶けていく気分を俺は味わった。

「だとすると、お前が見たっていう。というか経験したその体験はそのディスクに収められたプログラムコードに基づいた電気信号だったわけだ」

「はあ、じゃあ、現実じゃなかったっていうことか」

「ちょっと違う。何度もいうがそもそも俺たちがいま感じて存在すると思っているこの感覚だって、このカレーだって、俺たちの神経細胞が受け取った電気信号の塊だ。人間の創造性や記憶も原理的には変わらない。つまり、創造性や記憶なんてのは、人間が自らの神経細胞における電位パターンの組み合わせに過ぎない。だから現実じゃないっていうか……」

「現実じゃないっていうか……?」

 菊亜の言葉をオウムのように返した。菊亜は黙って思索に耽りははじめた。そして、

「わからん」

 うむ、俺もわからん。

「まあ、いずれにせよ。意味がわからんものだな。ラブホテルなんかにひょいとおいて置かれていていいものじゃないぞ」

「確かに」

 菊亜の話は正直よくわからないが、あのディスクがなんだか途方もないものであることはわかった。菊亜に言わせれば、あの経験はディスクに内蔵されたプログラミングだがデータだかのようだが、誰がいったい何のためにあんなものを作ったのやら。

 食堂に据え付けられたTVモニターはお昼のワイドショーを映していた。

 先日のニュース報道でも取り上げられていた婦女暴行の増加を評論家は憤懣やるかたないという調子で論評し、また今月になっても頻発している婦女暴行に憤っていた。

 婦女暴行か。頭では先ほどのディスクの経験が微かに蘇った。

 戦場の最中で犯される少女。それを見つめる兵士の自分。だがその少女を犯しているのもまた自分だった。目の前で少女を犯し続けている自分を見つめる自分。さきほどより視線を落として考え込んでいる菊亜にそのことについて話しをするべきかどうか迷った。

 戦争っていう極限状態そのものが子供を産む。久田の言葉が思い出された。

 ふいに、先日の公園で出会った例の少女のことを思い起こした。深夜の公園で見ず知らずの男にいきなりキスをする少女。正体不明の名前のない少女。そして、その少女とさっきの疑似的な戦場で出会った少女を思い浮かべた。仮装の戦場で犯され、蹂躙される少女。 

寒気がした。

 菊亜のスマートフォンが鳴った。

 菊亜はつまらなさそうに画面を確認する。

「あ、えーと、誰から? 春希から?」

 俺は続きを話すことがなんとなく怖くなり、また話題を変えた。

「いや。違う人。ふん、まいったな」

「どうしたんだ」

「いや、お前が来る前、後期に外部研修生としてうちの研究室に来る人に会ったんだけどさ。その人から連絡先を渡されてさ。それで今晩食事に行こうって誘われて」

 もともと菊亜日光グループの系列であるうちの大学では産業界との連携も非常に強い。外部研修制度というのは、菊亜日光グループが経営するシンクタンクを始めとする外部の研究機関からの人材の受け入れだった。

「へえ、相変わらずモテることで」

 俺は会話をそちらの方にもっていこうとした。

 菊亜はうんざりしたような眼を見せて、ため息を吐いた。

 おっと、この軽口は叩くべきではなかったな、と俺は自分のミスを確認する。

「どうせまた……」

 と、菊亜は言った。菊亜はたぶん、菊亜の名前と顔くらいにしか興味を抱かないような連中を指して言ったのだろう。

「そうだ、お前も一緒に会ってくれないか。そうすれば、変な感じにもならない。ついでに春希も呼ぼう」

「いいよ」

まあ、基本的に女の人と浮いた話は俺にはない。女の人と食事ができる機会なんてめったにないし断る理由はなかった。

「でも、春希を呼んでいいのか。そんな女の人と会うのに」

「逆だろ。女の人と会うから呼ばなきゃいけないだろ」

 まあ、そうかもしれない。

「彼女に黙って、他の女と遊べますか」

 菊亜の目は純粋そのものだった。



5.

 店に先に着いたのは俺たちのほうだったらしい。菊亜が予約していた旨を告げると奥の席に通された。座席にはまだ菊亜を誘った女の人も春希も座っていなかった。俺たちは先に食事をしてよいものかと僅かに議論したが、結局そんなに大仰な席でもなかろうという結論に達し唐揚げや枝豆などのつまみとビールを頼み先に始めておくことにした。

 ビールが来ると俺と菊亜はとくに杯をぶつけることもなく呑み始めた。とくに深い意味はないが乾杯とかそういうのはしないのである。

「そういえば、透、夏休みの間に南平台ビルで幽霊が出たって話を知ってるか?」

 特に話題もなかったので菊亜が話し始めた。

 南平台ビルは丁度マスターの店からバスで一つ停留所を進めたところにあるテナントビルなのだが、今は肝心のそのテナントがおらず廃ビル同然になっているらしい。なんでも、実はそのビルはかつてヤクザの組が事務所に使っていたらしく、今でも中にはその抗争による弾丸の跡なんかが残されてるらしい。

「幽霊ってヤクザの幽霊か」

「いやあ、知らないんだけど、聞いた人の話によると、撃たれたあ、撃たれたあ、痛い痛いってうめき声が夏休みの間ときおり聴こえたんだと」

「やっぱりヤクザの幽霊じゃねえか」

 いったい、ヤクザと幽霊はどっちが恐ろしくて、むしろそれが合わさるとむしろお互いの怖さを半減しあってしまうのではないか、などと話していると、待ち人が来た。

「ごめんなさい。わたしから誘ったのに」

 春希ではないようだった、おそらく菊亜を誘ったという女の方だろう。部屋ののれんを潜って女は顔を見せた。

 まだ残暑が残る季節だというのに少し早い秋のための恰好を女はしていた。スーツの下に赤いセーターを着こみ、下にキュロットスカートといういでたちだった。菊亜の話によれば女は外部研修生ですでに立派な社会人として企業に勤めており俺たちより年上であるとのことだった。だが、その表情は随分幼く俺たちよりも幾分か年下に下手をすれば未だ高校生といっても通じるのではないかという気にさせた。

菊亜は女に先に飲み始めてしまったことを謝っていたが、女は手を振り、気にする必要はないと言った。菊亜は俺の方に手をやって、俺を女に紹介した。

「同じ学域の八島透君です」

 それで、こちらの方が……。と、女の名前を示そうとしたが、女は自分から名乗った。俺は目を大きく見広げあほみたいにポカンと口を開けたままその名前を聞いた。

「小川純です」

 そして、俺は深夜の公園の少女の名前を知るところとなったのである。

 小川純は俺を見て笑った。

 

✽                  ✽                 ✽


 春希は未だ店に現れてなかった。

「そうなんです。それで実は大学は向こうの方で済ませちゃって、院に残って研究しようかとも思ったんですけど、民間のシンクタンクなら研究しながらお給料もいただけますし、最近だと大学に残って研究するのも民間で研究するのもそんなに変わらないですしね」

「へえ、そうなんですか。それじゃあ普段は我が国にいるってこともあまりなかったんですか」

「そうですね。私の父がわりと海外で働くことが多くて、それについて行ってましたから。だからもう大変。引っ越すたびに言葉を覚えないといけないし、友だちはあまりできないし、でも、もうそういう人生なんだって諦めてます」

「へえ、海外かあ。俺も子どものころは親父にいろいろ連れて行かれたなあ」

 菊亜は俺に肘でつついてくる。さっきから黙ってばかりいる俺になんか言えということらしい。

「あー、いや、でも、なんか羨ましいですよ、二人は。俺は二人と違って生まれてこの方ずっとこの国で暮らしてきましたから。そういう海外経験とかしてみたいなあ」

「ほんとですか。それじゃあ、こんどどこか行きましょうよ」

 小川純は軽い調子で海外旅行をもち出した。なんだか育ちの違いをつとに感じた。

「えっと、それでご専門はなんでしたっけ」

「バイオインフォマティクスです」

「と、言いますと?」

 菊亜は俺の質問に対して唖然とした表情を見せた。

 え、なんか、俺、変なこと言った?

「お前、自分が何の学部に通ってるか知ってる?」

 菊亜が訊く。

 純がおかしそうに笑う。そして、そうですねえ、とすこし思案した顔をして、

「人間っていうのはある種の情報なんですよ。それは、例えばあなたが今現在の状況を説明するとしたら、あなたはいまある特定の大学に通い、特定の場所に住んで、特定の名前を持って、自分はこれこれの人間ですって名乗り、きょうの昼にはこれこれのものを食べましたって感じで話すでしょ。つまり、あなたの通う大学が、あなたの住む場所が、あなたをあらわす記号が、あなたの食べたものが、あなたっていう存在をあらわす情報になるでしょ」

「きょうの昼に俺はカレーを食べましたよ」

「そうです。でも、もし仮にあなたがお昼におでんを食べたなら、それはあなたと言えるでしょうか」

「言えないの?」

 思い余って言葉が崩れる。

「いま、ここにいるあなたは、きょうの昼にカレーを食べたあなたなんです。きょうの昼に冷やし中華を食べたあなたと情報的には等価にならないでしょ」

「うーん」

「もちろん、きょうの昼に冷やし中華を食べたあなたも、お蕎麦を食べたあなたも可能性としてはありえます。しかし、あなたが事実として選んで今いるのはカレーライスを食べたあなたです」

「うーん。わかるようなわからないような……」

 なんだか、適当にからかわれている気がする。

「生命情報も似たようなものです。人間の細胞のなかにある核に絡みつくDNA情報っていうのはようするに、各塩基の配列によるタンパク質のパターンなんです。つまり、あなたを構成する人体でさえも、ある特定の決められた四つの文字ATGCがどういった連なりをしているかという情報によって個として特定することができます」

「アデニン、チミン、グアニン、シトシン」

 知っている単語を並べてみた。

 なんだか、お昼の菊亜と同じような話をしている気がする。塩基配列のパターン、神経電位のパターン、人間の行動パターン。パターンってなんなんだろ。

いや、ほんとなんなんだろね。

「やっほー」

 助かった。馬鹿がまた一人増えて二人になった。一人目はもちろん俺だが。

俺たちが声で振り返ると小川純よりもさらに幼い顔が現れた。

 春希は俺たちを一瞥するとすぐに小川純に気づいて、

「あ、純さん!」

「あれ、二人とも、もう知り合いなの」

 菊亜が驚いたように言う。

「うん。夏休みに学校に行ったときに会ったの。ねー」

小川純は春希の何も考えてなさそうな、実際に何も考えてない相槌に、ねー、と返す。

「夏休み前にどんな学校かちょっと見学に行ってたんですけど、そのときに話しかけられて、そのまま食堂でお話ししたんです。それでじつはお二人のこともお聞きして学校が始まってお会いできるのを楽しみにしていたんです」

なんで、わざわざ話すことになったのかは尋ねないことした。どうせ、春希がいつもみたいに誰かれかまわず話しかけていたんだろう。

ほんと、最近は物騒なんだからそういうのやめなさいって。

ほんと煮て食われちまうよ、幼稚園児さん。

しかし、それで合点がいった。

「ああ、それで……」

俺のことを知っていたんですね。

しかし、続けていう言葉に詰まった。公園でのことを話そうと思ったのだが、さすがに、それでなんでいきなり俺にキスしたんですか、とは訊けない。

「え、それで、なんなの」

しかし、菊亜は言葉を拾い、促してきた。

「え、いやあ、前に公園で俺も会ってね」

「ああ、公園であった可愛い女の子って小川さんのことだったのか」

 菊亜は、ははーんって感じで腕を組んだ。ありがたいことに、それ以上は掘り下げようとはしないでくれた。

「可愛い女の子なんですね」

小川純は忍ぶように笑った。俺はその笑顔にこんどは不敵なものを感じた。

魔性の女。

つまり、ちょっと魅力的に感じてしまった。ううむ。

「でも、よく俺がわかりましたね」

 俺は取り繕うように言う。

「写真見せたんだよ」

なるほど、犯人は幼稚園児か。

春希はスマートフォンを取り出して、ほらこれ、と見せてきた。春休みに三人でいった旅行の写真だった。地獄で有名な温泉街だ。

春希は画面をスライドさせて、小川純に他の写真を見せている。

「ほんと三人は仲が良いんですね。あれ、これは?」

「これは、透が小学生のときのやつ。私たち小学生からずっと中学、高校いっしょなの」

「へえ、それじゃあこの人は」

「うん、透のお母さん」

春希はすこし申し訳なさそうに俺を見る。

気にするな、と俺は手を振る。

「綺麗な人ですね」

「もういませんけどね」

え、と小川純は予想外の返答だったのか、息をもらす。

ほんとにどう話したものか、いつもほんの少しだけ迷う。

「死んだんですよ。事故で」

とりあえず当たり障りなく答えておく。

「そうだったんですか。ごめんなさい」

「いえいえ、もう九年も前のことですから」

なんとなく、気を遣わせてしまった。

まいったな。

ほんの少しだけ場の空気が重くなったのを感じた。

そう感じたのはもしかしたら、俺だけなのかもしれないけど。

「でも」

と、春希は口を開いた。

愛おしそうに、写真を撫でて言葉を続ける。

「このころの透はほんとうにかわいいよね」

母が死んで、もちろん悲しかった。

でも、たぶんやっぱりそのころは無理をしていたと思う。

何に対して強がって、何に対して涙をみせないようにしていたのか、もう忘れてしまったけど、そのころやっぱりずっと我慢していたと思う。

父親はいなかった。だから、母親と祖父母の家で暮らしていた。祖父母とはべつに仲が悪いわけではないけど、やっぱり母親が一番頼りになって、祖父母にはすこしだけ遠慮していた。母親が死んで、ずっとテレビのニュースを見ていた。母親が死んだ理由をその箱の中に探していたからなのかもしれない。俺はあまり外に出なくなっていた。祖父母は気を紛らわしてくれようと遊園地や水族館とかいろいろ連れて行ってくれたけど、正直、そのころは家にいたかった。

春希はそのころにちょうどよく来てくれた。もともと小学校が一緒で、ときどき遊んだり、下校を共にしていたりしたが、母親の葬儀からしばらくしてなんとなく友達と遊ぶことが少なくなった俺に、春希はよく変なタイトルの映画のDVDを持ってきてくれた。春希は励ますでもなく、無理矢理外に連れだすでもなく、ただニュースの代わりにそれを一緒に観ようと言ってくれた。DVDを観ている間、何を話しただろう。たぶん、何も話さなかったと思う。憶えているのはただ、ときどき映画に出てくる変なシーンに春希が笑って、ねー、と相槌を求めてきたということくらいだ。そうしてしばらくがたち、変なDVDをたくさん観ているうちに俺たちは中学生になって、高校生になって、そして今になっている。

春希がいたから、救われた。

とかは別に思わない。ただ、母親が死んでからも春希はそれまでと変わらずに傍にいてくれて、そしてきょうまでずっとそうして時間が流れてきた。

恋心とかそんなものはない。たぶん。

ただ、俺たちは互いがよくわからない関係でいることによって、自分たちの位置を確かめ続けることができた。

春希がいたから、俺は救われた。

そう言えるかどうかは分からないけれど、変わらずにいることはできたのかもしれない。

「ねえ、ほら、かわいいって。ねー、かわいいー。なーんで、いまはこんなになっちゃったんだろ。ああ、なんだか時の流れは悲しいねえ。ほらほら、見てよ、安秀、こんなにかわいいのに」

「前に見せてもらったよ」

 菊亜は苦笑いしながら応える。

「ねえ、ほら、透も自分で確認してみなよ、ぜんぜん違うから、ねえ、あんたもしかして宇宙人じゃない? どこかですり替えられたのかも」

 まったく、人の感傷もなにも知らず、この幼稚園児は。

「はいはい、終了、終了。毎日、毎日、幼稚園児の世話をしてるとボクも気苦労が絶えないんデス」

「あたしのせいなの」

「他に、誰がいるって言うんデスカ」

 心にもないこと言った。

「むう」

 春希は春希で、能天気な素振りをし続ける。

「あ、それじゃあ、中学のころの幼稚園児を皆さんにお見せしようか」

「それだけは止めてください。どうか。どうか、お大臣様……」

 春希はかしこまって土下座をした。俺はふざけてスマートフォンを印籠のようにかざして、ひかえい、と見得を切った。

 俺も俺で、脳的な素振りをし続ける。

 これからも?

 それはわからないけど。

「可愛らしいお二人ですね」

 小川純は菊亜に話しかけた。

「ええ、まあ」

「菊亜くん、こんなに楽しい友達がいて羨ましいです」

「そうですね」

 菊亜はいつものように苦笑いを見せた。だが、俺はその時菊亜がその表情のなかに苦笑いよりも複雑な何かをしのばせたのを見逃さなかった。怪訝に感じたが、尋ねるより先に菊亜が俺を遮った。

「あ、そろそろ場所変えませんか。食事も粗方したでしょうし」

「いいよ、どこにする」

 菊亜の提案に春希が賛意を示す。

「うーん。そういえば、きょうもともと、透と《TACTIQUE》に行く予定だったんだよね」

「《TACTIQUE》ってなんですか」

 小川純が訊く。

「クラブです。ドリンクが安くてたまに行くんです」

「へえ、クラブ。行ったことないなあ」

 菊亜が俺に向けて視線を遣る。小川純を誘ってもよいのか迷っているのだろう。確かに女の人をクラブに誘うというのはその気がなくとも何となく勇気がいるものである。

「じゃあ、純さんも行こうよ」

 しかし、春希がなんらの躊躇いもなく小川純に飛びついて誘った。

「いいんですか」

 小川純は躊躇いがちに俺たちの表情を窺った。

 菊亜はむしろ誘いを切りだす手間が省けてほっとしたといった表情を見せて、

「もちろん」と返した。

「じゃあ、決まりね。大丈夫、純さん。クラブって言っても《TACTIQUE》は静かな曲もあるんだよ」

「そうなんですか」

「まあ、日によりますけどね。きょうはどうなんだろう、透」

 わからん、と首を振ると、また幼稚園児が、あ、とかんだかい声を出した。

「私、DVDの録画予約忘れてた。安秀、予約してない?」

「あ、ごめん、俺も忘れてた」

「というか、うちのレコーダー壊れてるから、もともと安秀に頼んでたんじゃん」

「そうだったっけ、ごめん、ごめん」

 もー、と春希が膨れる。

 また、映画か、タイトルは訊かないでおこう。

「どうしようかな」

「それじゃあ、春希さんは行きませんか」

「ううん。いったん家に戻って観る。それから行く」

「それじゃあ、俺たちは先に行ってるよ」

 菊亜が言う。

「うん。着いたら、また連絡するから」

「そんなに観たいの、それ? あとでレンタルとかでいいじゃん」

 俺が春希に言う。

「あの超絶ドマイナーな『ご老人五郎ご苦労様です』を地上波でやるのよ。それはテレビで観てリアタイで盛り上がらなきゃ。トラーイ。あ、これ映画の決めゼリフね」

 確かに、タイトルからドマイナー感が溢れている。そんな映画を地上波でやるのは奇跡だ。リアルタイムで鑑賞したくなるのもわからなくもない。トラーイ。いや、やはりわからない。

「ほんとに後で来れるのかよ」

「大丈夫。大事なのは最初の三十分のトラーイだから。それ見たら途中で行く」

 ますますわからん映画だ。トラーイ。

「それじゃあ。できるだけ、早く来いよ。トラーイ」

 菊亜くん、染ってるよ。トラーイ、が。

「どんな映画なんだろ、『ご老人五郎ご苦労さま』か。トラーイ」

 良かった。小川さんは俺と同じ感性らしい。でも、やっぱり染ってる。

「じゃあ、またあとでな。トラーイ」

 俺たちは座敷を出ていく春希に手を振った。


✽                 ✽                  ✽


 春希が出ていって五分もたたないうちに、菊亜は店の会計を済まし、俺たちは《TACTIQUE》に向かった。

道中何故だか気になる決めゼリフ、トラーイ、を三人で言わないように苦労した。

《TACTIQUE》に着くと、生憎今日は人が多かった。音楽とダンスも今日は激しい調子だった。俺たちはとりあえず見学と、ダンスフロアから離れた二階に上がってテーブルに座った。菊亜はドリンクを買いに一階のフロアまでまた降りて行った。

 フロアの奥で演奏しているバンドは、大学の軽音サークルの連中だった。彼らはひたすら学校が始まったという事実を確認し、それをネタに客を煽っていた。やはり、フロアで踊っているのは同じように授業が始まった大学生が多いのだろうと俺は推測した。バンドの曲は日々の生活を戦争と形容し、出会った男女がその暮らしのなかで愛を喪っていくという歌だった。

ちょっと陳腐だな、と少し毒づきたくなった。

 小川さんはフロアで熱狂する人々を興味深げに見下ろしていた。

案外、ああいうことが好きなのだろうか、それとも物珍しいのだろうか。

「踊りますか」

 俺は訊いた。

「大丈夫。それと、そんなに丁寧に話さないで。私のことも純って呼んで」

 そう言われたものの、戸惑った。小川さんは確かに顔は幼いが年上だった。

「せめて二人のときは。ね」

 二人のときは。

俺は小川さん……いや、純のことを掴みかねていた。純の表情は読み切れなかった。一見すると、菊亜のように本音を見せず、ただ相手を傷つけないように、自分を守るように微笑んでいるようだが、時に春希のように幼く相手に対し壁を作らず接しているかのような表情を作る。どちらが彼女の本当の表情なのか、どちらが彼女が本当だと相手に思ってほしい表情なのか俺は決めかねていた。

「ねえ、さっきの話どう思ったかな」

「さっきの話って何?」

「遺伝子の話。私たちはみんなパターンだっていう話」

 どうと言われても……。正直に言うと難しくてよくわからない。もし、仮に俺たち自身が確かに遺伝子、というかそのDNAを構成するタンパク質の並びなり神経の電流の並びだとしても、それじゃあなぜ、その並び方がまさにいまその俺に「俺」という感覚を与えているのかわからない。仮に俺が(テキトーに)Aだったとしても、じゃあなんでAが俺なのだという理由はわからない。菊亜安秀がTだったとしても、井戸川春希がGだったとしても、そしてこの小川純がCだったとしても、それはそのはずだ。

「遺伝子がどう並んでいようが自分は自分だよ」

 彼女は俺の返事を訊くとまた表情を変えた。

「そうね。確かにその通りだわ。自分に与えられたAだとかCだとか、名前とか、そんな記号単体には意味はない。それは誰かがその記号を読み取ることによって、RNAが転写して一つのタンパク質に翻訳されることによって意味を持つ。呼びかけられない名前に意味はないわ」

 でも……。と、純は続ける。

「自分は自分だ、そんなセリフを言えるなんてあなたはそうとう恵まれているのよ」

 そうかもしれない。俺は今ここにいて名前をくれた人がいて、その名前を呼んでくれる人たちがいる。Aは他のTやGやCがいて初めてAであるのかもしれない。八島透は菊亜安秀がいて、井戸川春希がいて、八島透であるのかもしれない。

 小川純にはそういう人たちがいなかったのだろうか。

「友達とかいないんですか。家族とか」

 考えてみたら、とても失礼な質問だが、俺は思わずこの室内の喧騒のなか訊いてしまった。純は怒らずに答えてくれた。

「ほら、私、さっきも言ったけど、移動が多い人生だったから、友達とかなかなか出来なかったの」

「家族は?」

「家族は……。そうね、そんな移動し続けるような仕事の人たちだからあまり家に居なくて、引っ越した先で海外出張なんてよくわからない感じだったし、帰って来たらまた引っ越しでのんびりしている暇もなかったわね」

「そうなんだ」

「だから、あなたたち三人を見てると本当に羨ましいわ。あなたたちずっと仲良いんでしょう?」

「菊亜と俺は大学に入ってからですよ。まあ、春希とは長いけど」

 いつの間にか、また少し丁寧な口調が戻っていた。

「あなたと春希ちゃんは付き合ってるの?」

「まさか。春希は菊亜とだよ」

 菊亜が春希と付き合いだしたのは、ちょうど今年の春の終わりくらいからだ。まだ学校が始まっていない春休みの日にマスターの店に一人で行ってきた菊亜が酔っぱらってうちのアパートまで来て、ご丁寧にも報告してくれたのだ。透、俺は春希に言うぞ、って。俺はもちろん祝福した。なんというか、菊亜のいつもの遠慮がちで申し訳なさそうな表情は春希のあの屈託のないようにみえる朗らかな表情を求めているように俺には思えたからだ。しかし、その旨を珍しく酔っぱらいの菊亜に伝えると、ばかやろー、と殴られた。菊亜なりに思うところがあるのかなんだかよくはわからないが、それじゃあダメなんだよー、なんとかしてくれよー、と俺が敷いた布団の上でうわ言を菊亜は言っていた。

まったく青春の一ページである。

 身を乗り出して下のフロアを覗き込むと、三つドリンクを載せたトレイをテーブルに置き、座っている菊亜が見えた。さっさと上がってくればいいのにと思ったが、菊亜は俯いてスマートフォンを弄っていた。春希からの連絡だろうか。

「ねえ、今週の土曜日なにか予定ある?」

 純が尋ねてきた。

「いや、特にないね」

「それじゃあ、デートしましょ」

「え?」

 呆気に取られて、気の抜けた声を出す。

「ダメ?」

 純がすこし上目遣いに不安気な表情で覗き込む。

 いいけど、いや、もちろんこんなに可愛い女の子とデートできるのはぜんぜんかまわない。けど、どうして? この間の公園での不意のキスを思い出す。

 どうして、この人はこんなにも、なんというか、その、積極的なんだろうか。

直截に尋ねるのが俺には躊躇われて、

「俺で良いの。その、菊亜じゃなくて」

 純は、なんだそんなこと気にしてたのね、と安堵の微笑みを見せる。

「あなたとっても素敵よ」

 謙遜でもなんでもなく、俺は菊亜と違って何のとりえもなく、まして大企業の御曹司でもない平凡な大学生だ。それなのになんで俺なんか。

「理由なんか必要ないわ」

 純はそう言って、俺の手を取った。その手は冷たくはなかった、といっても殊更温かいわけでもなかった。バンドの演奏はやがて激しいロックの調子からスローな曲へと変わっていた。下のフロアの菊亜をもう一度見る。しかし、ドリンクだけテーブルに置いたまま菊亜はいなくなっていた。

「踊りましょう」

 純は俺を連れてダンスフロアまで降りた。

 話しているうちに時間が過ぎたのか、さっきまでの喧騒から少し人が減っていた。

 俺は純の手を取って、ただ右に左に軽く揺れた。純はずっと俯いて、足元を確認していた。なにか考えごとをしているのか、なにも話しかけてこなかった。下を向く純の睫毛がときどき瞬きで揺れた。

 純は探しているのかもしれない。

ぼんやりと、そんなことを思った。

なにを?

自分という存在に意味を与えて、成り立たせてくれる何かを。

なら、俺はそれを与えてやりたいと思った。

純がときおり見せる表情は、菊亜にも、春希にも似ていた。

けれど、もう一人懐かしい表情を俺に思い出させた。

「逃がさないわよ」

 スローな曲のなかで純の声がぽつりと聴こえた。

 俺は聞き覚えのあるこのスローな曲のタイトルを探した。



  6.

 翌日授業が終わって午後、菊亜の忠告にしたがって病院に来ていた。ここも菊亜日光グループの系列病院で菊亜が話をつけておいてくれたのか、とくに予約もしていなかったが待たされることもなく検査を受けられた。驚いたことに、代金も必要ないと受付で言われた。流石にそれは申し訳ないと思い固辞しようとしたが、どうも不可能なようだった。

 脳検査でCTをやらされ、必要があるのかそもそも疑問な胃カメラまで飲まされた。心電図を取られ、適当に問診もされ、ついには残すところ血液検査だけとなった。俺は待合室で待機するように言われた。

 ぼんやりと病院にやって来ている人たちを眺めた。平日の午後だが人はそんなに少ないというわけでもなく、主に高齢者ではあるが人で賑わっていた。俺と同じように若い人間は二三人といったところだろうか。一人はマスクをしていて見るからに風邪といった感じだが、もう一人はさわやかにネクタイを締めて、何か楽しそうに口角を上げて、手元でくるくると指を弄んでいた。男は横で立っている老人に気づくともたれていた待合用ソファの座を老人に譲った。

 ほほお、殊勝なやつですなあ。と、俺が感心していると、その男に見覚えがあることに気がづいた。そういえば、あの兄ちゃんはスターのところのお客さんだ。珍しいこともあるもんだ、と俺はその男の観察を続けた。男のもとに診察室から看護師が近づいてくる。看護師は男の姿を認めると嬉しそうに手を振った。どうやら、男は今日初めて外来したというわけではなさそうだ。見る限り元気そうで、一体どこが悪いんだろう。悔しいことに顔は悪くなさそうだ。爽やかな青年と話せてうれしそうなその中年の看護師のようすからそう思った。

耳をすませば、二人の会話が聞こえてくる。男が言う。

「いやあ、ご無沙汰しています。入院のときはお世話になりました」

「いいえ、ぜんぜん、こちらもご協力いただいて感謝してますの。どうもやっぱりイメージが悪くてねえ、最近はマシになってきたけどやっぱり人がまだまだ少なくて。こちらこそどうもありがとうございました」

「いえいえ、ちゃんと貰うものももらえましたからね」

「結構、儲かるでしょ」

「いやあ、はは、そうですねえ」

「それで予後は大丈夫ですの?」

「ええ、ぜんぜん、今日はその最後の検査ですよ」

「そう。それじゃあ、しばらく会えなくなるわね。寂しいわ」

「まあ、その方がいいんですけどね。またやりますよ、半年でしたっけ、間隔は」

「四カ月よ」

「そうですか。それじゃあ、その頃には有給とってまた稼ぎに来ますよ」

「待ってるわ」

 ふむ。俺は二人の会話のなから与えられた情報を精査しキーワードを抽出する。幾つもの論理と可能性の束を広げ、一つずつ推論を織り上げていく。そうか。わかったぞ。真実はつまり……。というのは、冗談で、俺は自分の横に貼られているポスターを見て二人の会話がなんなのか大体察しがついていた。

 治験だ。

あのお兄さんは治験入院していて、看護師さんとはその間に仲良くなったんだろう。俺はもう一度横のポスターを一瞥する。ポスターには、治験の、つまり医薬品開発の被検体ボランティアの募集とその謳い文句が書かれていた。

 治験とは、新薬開発のその製薬過程において動物実験を経ての製品化の段階へのための人間への投薬による試験だ。要は医薬品が製品として売られる前に、どのような薬効、副作用、あるいはまたべつの作用があるかを確認するために被験者に試飲させる人体実験だ。もちろん、人体実験というからにマッドな感じのお医者に、マッドな感じのベッドで、マッドな感じに薬漬けにされるようなもの……ではなく、そこはきちんと厚生労働省あたりがきちんと管理監督し、製薬会社も病院も不正を行わないようにしていることになっている。身売りをする(なーんて)側のボランティアにもあらかじめこれこれの検査目的のための臨床であり、しかじかの薬効及び副作用が予見されるという情報が与えられ、本人の意に望まぬのならいつでも臨床試験を中止、辞退できる権利があるということが伝えられる(インフォームドコンセントというやつだ)。治験はその性質上アルバイトなどの業務ではなく、ボランティアという扱いになるのだが、バイト料の代わりにきちんと謝礼はでる。その謝礼の額というのも、別に臓器を売るだとかそんなブラックな話ではないので、ふつうにアルバイトと変わらずに一時間拘束で八百円とかが相場らしい。

え、じゃあ普通のバイトと変わらないじゃん。

そうお思いのあなた。それはちょっと、違う。というのも、治験とは、医薬品の人体への影響を調べるための検査入院なのだ。この入院というのがミソだ。治験中の入院期間つまり拘束期間は医薬品によってさまざまだが、だいたい二三日~、長いもので二週間~、もしくは一ヶ月~、くらいらしい。で、この期間はずっと病院で入院患者と同じように過ごすのだが、それは検査の間はもちろん、退屈でゲームやらお勉強をして過ごす昼間も、のんびり健康に早寝をして翌朝まで(早朝に検査があるので昼まで寝てるとかはできないらしいが)寝てる時間も、期間中の時間すべてに時給が発生するのである。もし仮に、二日間の治験だったとしよう。つまり、四十八時間×八百円ということで、謝礼は三万八千四百円である。しかもその間ほとんどずっとベッドでゴロゴロしてるだけ。ううむ、案外案外、なかなかにおいしいではないか。まあ、実際は、事前検査で自分の体が臨床試験で使えなかったり(なかなか厳しい健康基準らしい)、やたら検査させられて面倒だったり、食事は一切指定で辛かったりといろいろあるにあるらしいのだが、とにかく人体実験と聞いて頭に浮かぶなにやらいかがわしいマッドなものとは、違うのである。一概には言えないが、製薬のための医薬品も、鼻炎のためのものや市販のビタミン剤などのわりとおだやかーな風のものが大概らしい。

 なんで、俺がこんなに詳しいかというと、実は大学の同級生に治験に参加している奴がいて、そいつからいろいろと教えてもらったのだ。そいつは殊勝なやつで、病気で苦しむ人のために少しでも自分が役に立てばいいと無償でボランティアをしているらしい。 

というのは冗談なのかわからないが、菊亜は一応そう言っていた。まあ、菊亜としても家の稼業を手伝っているというような感覚なのだろうか。ちなみに、俺もじつは参加のための事前検査を一度だけ受けたが、不摂生が祟って本検査はさせてもらえなかった。ううむ、儲け損なった(とはいうものの事前検査だけでも協力費五千円はいただいた)。やはり、煙草がよくないのだろうか。

 などと一人で頭の中で長々と、説明しよう、をやっていると診察室から俺の名前が呼ばれた。さっきの男と看護師もいなくなってる。俺は立ち上がって、診察室に入った。

 診察が終わると、検査結果はまたしばらくしてから後日病院で書面を渡すから、と言われた。どうやら、また来ないといけないらしい。面倒だなとちょっとうんざりして、またさっきと同じ待合用のソファに座った。待合室のメンバーは、さっきからいる爺さん婆さんと相変わらずだったが、また一人見た目には若そうなスーツを着た女性が増えていた。女の人はスーツの下にすらっとした長い脚をキュロットスカートからのぞかせていて、足先にはきれいな形のパンプスを履いていた。長くて真っ直ぐな黒い髪を時々払いながら手元のノートパソコンを操作していた。いかにもキャリアウーマンと言った感じだが、とくに不健康そうには見えない。隣の爺さんもそう思ったのか、それともきれいな脚に鼻の下を伸ばしたのか、キャリアウーマンのお姉さんに話しかける。

「あんた、どこか悪いんかね」

 お姉さんは爺さんに気づき、顔をあげる。お姉さんはいやな顔を特にせず答える。

「あ、いえ、仕事で来たんです。ちょっと、ここの先生に用事があって待ってるんです」

「ほうか、ほうか」

「お爺さんは?」

「わしは息子の付き添いでのう」

「息子さん、どうされたの?」

「頭をの。戦争でやられてもうたみたいじゃ。ちょうどいま上の心療内科で見てもらっておる」

戦争という単語を聞いて、俺は身体を動かせなくなった。まるで、不意に、それこそピストルの発砲音か手榴弾の爆発でも聴いたかのように固まってしまった。うなじにジトリと汗を感じた。

 しかし、爺さんの話を聞く女性は身じろぎもせずじっと爺さんを見つめてる。

「もう帰ってきて、結構経つのになかなかようなりゃせん。どうなってもうたんかねえ」

「息子さんも、南方で?」

「そうじゃ。ただ聞いた話じゃとそんなにひどい目におうた人たちはいないみたいじゃねえ。わしの息子は仕方ないとはいえやりきれんね」

「ちゃんと、役所に手続きして補償は毎月貰ってる? もし貰ってないなら、私、手伝いますよ」

「ありがとう。でも、ちゃんと貰ってるよ。復員兵の人たちで互助会みたいなのがあってね」

「南方諸島紛争退役軍人会」

 その女性は爺さんに確かめるように言った。

「そう。そこでなんとか息子とわしの面倒をみてもろうてる」

「そうなんだ。大変だね」

 女性の声は淡々としていた。けれど、決しててきとうに答えたとかではなく、その女性の強い信念を俺に感じさせた。

 奥の診察室から、医師がやってきた。東藤さん、と女性に声をかけた。

 東藤と呼ばれたその女性は医師に向かって頭を下げた。

「それじゃあ、私、行くわ。お爺さん、私こう見えて公務員なの、もし困ったことがあったら力になれるかもしれない。何かあったら連絡してね」

 そう言って、爺さんに名刺を渡した。

 爺さんは女性にありがとうと微笑んで頭を下げた。

 女性は爺さんのそんな姿を見ると微笑みを返し、医師と話しながら、俺の横を通り過ぎていった。

 ―――河野先生、いつもお世話になっております。それで結果は……。

―――やはり、クロだね。これでこのグループも四人目だよ。

すれ違う瞬間、俺は彼女と目があった気がした。

だが、俺は冷や汗を止めるのに夢中で彼女がどんな表情を見せたか判断できなかった。


 ✽               ✽                   ✽


金曜日。俺は菊亜と食堂で会った。

「どう、学校始まって?」

「どうって、別に特に何もないよ」

 俺はまた生協のカレーライスを掬いながら答える。

「そういえば、菊亜、お前このTACTIQUE行ったときどうしていなくなっちゃったんだよ」

 菊亜と俺とそして小川純を連れて三人で行ったあの日、菊亜は結局TACTIQUEからいなくなり、俺と小川純二人で始発が出るまでいることになった。

「ごめん。ごめん。春希がなかなか来なくてさ、もしかしたら迷子になってるのかと思って、様子見に行ったんだよ」

 確かにその日は結局春希は来なかった。

「でも、あいつ別に初めてじゃないだろ。何度か三人で行ったじゃないか」

「確かに変だよな。結局家に行ってもいなかったし」

「え、じゃあ、何してたんだ?」

「わからん。後で、訊いてもぜんぜん答えてくれないし」

 そういえば、ここ二三日春希を見ていない。いつもなら、どこにいても向こうから見つけてうるさく近づいてくるのに。

「なんか、元気ないんだよな」

「結局、楽しみにしてた映画観れなかったんじゃないか」

 俺は少し茶化したが、菊亜はそれにのらず、

「うーん。どうしたんだろう。なにかあったのかな」

 菊亜は、額に手を当て、手元に握ったスマートフォンに目をやった。恐らく、彼氏らしく、なにかメールでも送ってるんだろう。だが、様子から察するに、あまり芳しい返事でないらしい。

「悪いんだけど、透も今度、顔を見に行ってやってくれないか」

 もちろんそれはお安い御用だった。あの幼稚園児に元気が無いとは、いったい何があったのやら。でも、案外ほんとうにしょうもない理由だったりして。なんかそんな気がする。

「でも、一応、お前が彼氏なんだから、お前が頑張ってやれよ」

 いや、もちろん、菊亜は頑張っているに違いない。だが、俺は何となくそう軽く檄を飛ばさずには入れなかった。というのも、菊亜の表情が俺と出会う前の、弱気で周囲に対して壁を作っていた頃の表情にまた戻りそうだったからだ。

「そうだね。ありがとう」

「ほら。俺はこのまえの小川さんと仲良くしなきゃいけないからさ」

 すこし、偉そうだったかもしれない。俺は茶化して誤魔化そうとした。

「小川さんとうまくいきそうなのか」

 菊亜は随分と真剣な調子で尋ねてきた。

「はっは、今度の休みにデートなのだ。まいったか」

「いやあ、大したもんだ。透は良いやつなんだから、機会さえあればモテると思ってたんだ」

 俺の茶化しに、菊亜は真面目に乗ってきた。俺はなんだか、菊亜の素直な優しさに逆に調子を狂わされそうになった。

「おいおい、からかいなさんなよ。俺はお前とは違うんだ」

 珍しく、俺の方が菊亜に対して苦笑いをした。

「そんなことないよ。透は男らしくて結構格好いいし、気の良い奴だ。みんなからも好かれてるよ」

 俺はまたまた苦笑いをした。もしかして、担がれてるのか。

 菊亜はぼんやりと俺を見つめて、それからまた口を開いた。

「透、俺さ、お前と会えて良かったと思うよ」

「はあ、急に何言ってんだよ」

 俺と菊亜がこうして話すようになったのは、一年生の終わり頃だ。その頃の菊亜は、もちろんその頃からハイスペックで優しくて人畜無害だったのだが、どこか人と距離を取るようなところがあった。なんといっても世界に影響力を及ぼす菊亜日光グループの跡取りなのである。ましてや、その菊亜日光グループは、第二次世界大戦後以来我が国に起こった最大のトピックであるあの戦争に関与を疑われていると噂されているのだ。菊亜には疑惑と懐疑が向けられたのだろう。もちろん、それは菊亜当人というよりも大会社の息子という存在に対してのものだったのだろうが、菊亜にしても思うところがあったのだろう。もしかしたら、戦争で儲けた会社の息子、なんていうわけのわからない言葉を投げつけられたこともあるのかもしれない。裏返すように菊亜に近づくやつも多かったのかもしれない。誰と話しても、人は皆、菊亜の話ではなく、彼の会社や彼の裕福な生活について聞きたがり、興味を抱いているのだ。どれほど、人に好かれようと菊亜にとってそれもまた、疑惑と懐疑とさしてかわらなかったのかもしれない。

しかし、そんなもの菊亜にどうすることができたというのだろう。菊亜の人畜無害さというのはそんな周囲に対する彼なりの対処だったのかもしれない。

菊亜と俺はそんな状況のなかで出会った。きっかけは覚えてないが、たぶん実習のグループで一緒になったとかそんな些細なことだったと思う。俺はハイスペックで、優しくて、そして人畜無害な菊亜を見て、なんだか座りの悪いものを覚えた。ある種の申し訳なさみたいなものを感じたような気がする。いや、なんというか放っておけなかったのだ。その理由はよくわからないが、俺は菊亜と出会うとすぐにマスターのところに連れていった。迷ったときはマスターのところだ。マスターは具体的な解決策を教えてくれるわけではないが、少なくともその人の立場とか権威だとかで人を判断しない人だ。たとえそれが自分の従軍した戦争と関わりのある企業の御曹司だとしてもだ。

俺は菊亜とマスターが話すときには席を外すようにした。もちろん、俺が聞いてやればよかったのかもしれない。だが、菊亜にはそれができないようだった。誰が言いだしたのか知らないが「重荷があるなら二人で持てばいい」なんてヒューマニスティックな言葉は、ときには自分の重荷を他人に背負わせることそれ自体が重荷になる人だっているのだ。そして菊亜はそういう人間だ。菊亜が俺に話してくれないこと、俺はそのことに腹を立てたりはしない。いつか話してくれるのを俺は待つ。だから俺は少なくともそれまでは菊亜の傍にいようと思っていた。

「俺、確かにさ、親父の会社があんなんだから、何となく周りのやつらがちゃんと接してくれないように思ってたんだけどさ、でも、やっぱ違うんだ。俺、戦争が始まって親父の会社がそれと関わるようになる前から、なんかこんなふうっていうか、こんな感じであんまり上手に人と話せなくて、たぶん、俺をちゃんと見ずに俺のまわりばっかり見るやつらが悪いんじゃなくて、たぶん、俺のほうもまわりをそんなふうにしか見れてなかったんだと思う」

 俺は口を挟まなかった。

「で、まあ、透や春希と話してると何だか、それに気づけたというか、俺のほうも変わらなきゃダメなんだなって思えるようになったんだ。それはまあ、わりと自信をもって良いことなんじゃないかって言えるから、まあ」

「まあ?」

「ありがとう」

 少し恥ずかしかったのか、菊亜は俺から目を逸らしていたが、最後に、それを隠すように俺を見つめて無理矢理ニヤリと笑った。

「相変わらず、深刻なやつだな。お前は」

 と、俺は言った。



  7.

 戦闘ヘリがジャングルを行く。

銃座に取りつけられた観測器から覗くと、赤外線センサーが、地上の戦闘地域を綺麗に色分けているのがわかる。冷たい青は海。その青い海外線を境にして緑の森が広がる。その中に赤い体温を持った標的がまるで抽象絵画のように点てんと動きまわる。プログラムはその対象めがけて作動する。放たれる自動斉射。リズム良い銃声が地上を制圧していく。ときおり、空に昇っていく白煙が揺れる縦の線をつくり、それが俺たちの時代のピクチャレスクになる。操縦席には、誰もおらずただ無人の機内で操縦桿だけが縦に横に倒れる。放たれる本物のミサイルと攪乱の拡張ミサイル、その爆発の炎は圧倒的な火薬とCGで作りだされる本物と偽物の乱舞。いや、もはやどれが本物でどれが偽物という区分はとっくに意味をなしていない。そうだ、そんなことはあの戦争が始まる前からとっくにそうだった。美しい戦場の混乱はもはや統制され、制御された美しい映像美になるように予め設計されている。


歴史は二度といわず何度も繰り返される。


ただし今回は映画のように繰り返された。

 

エンドロールが終わるまで俺たちは律儀にソファに座り続けた。

出ましょう。

純がそう言って立ち上がると、俺たちはスクリーンから抜け出した。


✽                  ✽                ✽


俺は純に誘われて、映画に来ていた。

公園で待ち合わせて、会うとすぐに純はどこに行きたいか尋ねてきた。俺はせっかくのデートだというのに特に答えも用意をしていなくて、口ごもったが、純、それなら映画にしようと提案してきた。純は裏通りにあるミニシアターを観に行こうと最初言っていたが、歩いてるうちに気が変わったらしく、表通りのショッピングモールの中にあるシネマコンプレックスでハリウッド映画を観ようと言った。

「もっとベタなデートが良かった?」

「ベタなデートって?」

 スクリーンからフロントに出て、俺のほうを向くなり純は言った。

「遊園地とか」

「映画も結構ベタだと思うよ」

「あら、ごめんなさい」

「いや、ぜんぜんいいよ。面白かったしね」

 幸いにも、純の映画の趣味は春希の趣味とは遠くへだたったところにあるらしく、俺と近しいところにあった。戦争映画は正直苦手だったので、言われて少しドキリとしたが、案外観てみればふつうに楽しめた。

「私、友達とあんまり遊んだりしたこと無いから、こういうときにどこに行けば良いのかわからないのよね。日本なら、どこが格好の場所とかもわからないし、インターネットで調べて行ってもなんか如何にも感じがして嫌だし」

「そうか、それじゃあ、むしろ俺がいろいろリードすべきだったのかな」

「あら、リードしてくれるの」

「うん。まあ、それでもたぶん映画になったと思うけどね」

「なあんだ」

 純は笑った。

 俺たちはシネマコンプレックスが併設されているフロアから一階に降りてフードコートのマクドナルドで昼食を済ませることにした。店内は土曜の昼間ということもあって混んでいた。俺は純と二人分セットを適当に買うと、フードコートの椅子に座った。喫煙席に座ろうと思ったが、純もいるので禁煙席にしておいた。

席に付くなり、純は言う。

「ほんとに楽しかった? 気を遣ってくれてない? 私、さっきも言ったけど、あんまり普段遊んだりしなくて、引っ越し先でもずっと家でパソコン開いて動画サービスで映画みるばっかりだったの。遊びって意外と国ごとに文化が出るものなの。だから、いつも余所者の私にはなかなか馴染めなくって」

 純は積極的なように見えた案外インドア派らしい。なら、俺と趣味が合う。

まあ、俺の場合はどっちかというと引きこもり派って感じだけど。

「でもほら、最近の映画って、とくにハリウッド映画とかだと、どこの国でもやってるじゃない。だから、ああいうのだとわりとどこの国でも同じように楽しむことができるの」

「映画は万国共通だね。映画言語というやつだ」

「そう。そんな感じ。ジガ・ヴェルトフね」

 純はなかなか詳しいじゃない、という感じでニヤリと笑った。俺が調子にのって、いややはりゴダールと比較して、アランレネやアニエスヴァルダの左岸派はだな、とか言うと、純は、私、ゴダールって苦手で『映画史』以外面白いと思うものがないの、あ、でも『中国女』は好きよ。あなたは? と言ってきた。俺は三秒間、マクドの店員の笑顔を見つめて、物思いにふけると、やっぱり、『勝手にしやがれ』、かな、ラストシーンが印象的だね、と言った。ふーん、私、あの最後にジャンピエールレオが海岸に行くラストシーンの意味がまだわからないの。あれはね、過ちは海に辿りつくっていう意味なのだと思うよ。ほんとに? 確信は無いけどね、でも俺の映画への想いがそう感じさせるんだ。私が言ってる映画はトリュフォーの『大人は判かってくれない』、なんだけど。ええと、飲み物はなにしようかな。ふふ、引っかかったな。

 テーブルに着くと隣の緑のセーターを着た小学生が、連れのママ友たちの会話を聴くのに飽きて、俺たちを見つめていた。純は小学生に気づくと、笑って手を振った。小学生は、驚いて俺たちから顔を逸らした。

「悪かったよ。映画なんてTSUTAYAで、ジブリをたまに借りてみるくらいなんだ」

 それか、春希の持ってくる変なタイトルの映画くらいだ。おのれ、春希め、こんなときに役に立つ映画をなぜ俺に観せておかなかったのだ。

「変な映画か。『エル・トポ』とか?」

「あ、それTSUTAYAで特集してたから観た」

「TSUTAYA……」

「瞬間移動のシーンは好きだよ」

「そんなシーンあった?」

「ほら、最後にカメラが引いて実は映画の撮影でしたっていうオチのやつ」

「『ホーリー・マウンテン』じゃない」

「うーむ」

「でも、私も『ホーリー・マウンテン』は好きよ。なるほど、瞬間移動のシーンか。確かにあそこは私も好きかも」

「良かった」

「こんどから、みっちり教育してあげるわ」

「え」

「映画のね。本物の映画狂は怖いわよ」

「そういえば、純はいま、どのあたりに住んでるの?」

「あなたのすぐ近く」

「え」

「ウソ。冗談よ。内緒。でも、こんどあなたの家に行って映画勉強しましょ」

「うちなんてボロくて汚いだけだよ」

「大丈夫。どんな家なのかもう知ってるから」

「え」

「うふふ」

「純ってときどき、怖いこと言うよね」

 しかし、純はそんな俺の言葉を気にも留めず、立ち上がり、また一本映画に俺を連れ出した。こんどはSF映画だった。古いSF小説をそのまま映画にしたらしい。映画を見終えると、またさっきのフードコートに戻って話した。しかし、悲しいかな、俺には女の人と二人きりで話すにはあまりに経験値が足りなかった。まるで、尋問のような会話に俺たちは終始した。もっとも、それでも、純は楽しそうにしてくれた。

「歳は?」

「やーね、女の子に訊くこと?」

「俺とそんなに変わらない気がする。でも、たぶん年上」

「失礼、失礼」

「いや、顔は幼い」

「やっぱり、失礼」

 やめよう。やはり、女の人と年齢というのは相性が悪いという俗説は真実らしい。

「趣味は?」

「映画」

「だね」

 それはきょう一日でなんとなくわかった。

「じゃあ、普段は何してるの」

「研究よ」

「バイオインフォマティクス」

「そう。もっと詳しく言うと、私が研究してるのは遺伝子コードをコンピューティングに応用させるDNAコンピューティングよ。だから、菊亜くんの研究室に来たわけ。菊亜くんの研究室の先生ってポスト・コンピューティングが専門でしょ。菊亜くんも確か神経系の構造を利用したニューロコンピューティングの解析とかやってたりするでしょ。すごいわよね、まだ学部生なのに学会でもう注目されてる」

 やばい、この会話は地雷だ。ついていけないかも。

「いや、ほんとに菊亜くんは凄いわよ。菊亜くんニューロンコンピューティングとかやってるけど、専門はまた別にあるみたいだし。ええと、専門は確か……」

「毒」

 俺はそこでやっと口を挟んだ。菊亜の研究は昔本人から聞いたことがある。

「そう。毒性物質における神経系及び情動ソマティックマーカーに対する情報理論」

「平たく言えば、コンピュータウィルスが人体にどう影響するかって話だって言ってたね」

 いや、まったくよくわからん。そもそもコンピュータウィルスって、コンピュータの病気だろ、なんでそんな機械の話が人間に関わるのやら。でも、そういえば、この前、なにか言ってたな。ええと、確か、人間が見ているイメージや音、匂い等の五感は、なんらかの外的な刺激に神経細胞が反応した結果の電気的な作用とかなんとか。

「人間もコンピュータもある意味で電気で動く機械という側面では一致している」

いや、やっぱわからん。俺は神妙な顔をして誤魔化した。

「多分、菊亜くんがやってるのは、コンピュータウィルスが人間の人体に生理学的に直接影響を与えるとか、だからまあ例えばコンピュータウィルスが人間に風邪をひかせるとかそんなんじゃないわよ。つまり、人間に取って毒性作用をもたらす生理活性物質とコンピュータウィルスの両者における情報構造の類似を研究しているのよ。ある意味では、人間に作用をもたらす化学物質だって情報という観点からみれば人間にとってなんらかの制御をもたらすプログラムコードとも言えるしね。塩基配列と同じ」

「天才の発想はよくわかりませんなあ」

 俺は諦めて神妙な顔を止めた。

「でも、毒って化学にとってはとても基本的な視座なのよ。人間の物質に対する興味はそれが自身に取って害をもたらすかそうでないか。つまり食べられるか食べられないかってところが出発点だからね。そもそも、毒は神経化学にとってはとても重要な試薬でもある。生命現象の解明するその第一歩として生体構造やその機能を明らかにするためには、人体にある物質がどのように反応するかを観測することが重要なのは間違いないわ。ちゃんと勉強しなきゃダメよ、お兄さん」

 また、さっきの映画の話のときのように笑われた。

うむむ、屈辱。

しかし、俺はべつに取り立てて落ちこぼれ学生というわけでは実はない。ただ、この目の前の小川純や菊亜たちのような生粋の科学者の卵ではなく、ボンクラな学生と言うだけだ。そういえば、ボンクラ度合いで言えば、春希も負けていない。たしか、春希は一度レポートで、実験ラットにおける正しい飼育方法という題のものを書いたことがあるらしい。

いや、わりと真面目にやったらしいが。

「私がやっているDNAコンピューティングっていうと、つまり、この前話した遺伝子コードであるATGCの塩基を遺伝的なアルゴリズムとしてコンピューティングに応用するのだけど、そうすることで一般的なコンピューティングつまりノイマン型のコンピュータにおけるシリコン・チップを半導体素子として用いた集積回路よりも多数の並列性が得られるのね。まあ、簡単に言っちゃえば、コンピュータのなかで計算をする役割を持つ存在が増えるのよ。だからより計算手順をたくさん必要とする問題、例えばNP問題とか巡回セールスマン問題とかに対して有効なの」

 おお、まだ終わってなかった。誰か、助けてください。ヘルプミー。いや、トラーイ。

「まあ、私も正直数理的な側面はよくわからないの。わりと受け売りなところってのが正直な話。私は特にDNAコンピューティングでも、より生体、医療的側面が強い超微小装置の生体反応を研究してるの」

「ははあ、ナノテクノロジーってやつだ」

「そうよ。でも、ナノテクノロジーって、べつに生体分子とかそう言うバイオ関連だけじゃなくて、量子とかそういう物理側面からの量子力学的なものももちろんあるのよ」

「でも、どうして、そんな研究をしてるの?」

「もちろん、こういったコンピューティングの応用可能性は広いわよ……まず速度が……」

「いや、そうじゃなくて。なんで、DNAコンピュータっていうか。科学者になろうって思ったの」

 俺はなんとか話を自分の頭でついて行けるとこに持っていこうと試みた。

「じつは、子どもの頃から顕微鏡を覗くのが好きで」

「ベタだね」

「ウソ。ほんとは違う」

「じゃあ、なんで?」

「うーん、なんでだろ。わりといろんなタイプの人に会うことがこれまで多い人生だったから、なんというか気になったのかな。その人というかその存在というか、そういう個を成り立たせる遺伝子という物質がね。もちろん、遺伝子に優劣なんてないんだけどね。でも、私たちは明確に違うでしょ」

「ほんとうに、遺伝子とかそんなので個性なんて決まるもんなのかね」

「そうね。あなたの言った通り、遺伝子について、私たち個人個人の設計図を調べていけばいくほど、そんな個性なんてものの存在が疑わしくなるわ。確かに、個人個人の塩基配列は違う。でも、それはただのパターンなのよ。基本から少しだけずれて間違っているだけの偏差にすぎないのよ、私たち」

「うーん、やっぱり俺にはよくわからないね。俺は俺だよ。今この場にいて君といる俺以外でもない。DNAにどう設定されようと俺はきょう君に会いたくてここに来たのさ」

「そう言えるのは、幸せね。でも、それすらも遺伝子にコントロールされてたりして、あるいは……」

「さっきの映画みたいだね」

「あなたのDNAには、すでに他人のものが刻み込まれて、ある側面においてはあなたはすでに最初に初期設定がなされて、そこから常にコントロールされていると言えるのかもしれない。もし、DNAによって人間が動かされているなら、それってお父さんとお母さんから受け継いだものってことよね。だから、ある意味で、子どもはお父さんとお母さんによってどのような人生の可能性をおくるか設定されて、その設定のもと作動させられているとも言えるのかもしれない」

「二人の男女によって動かされている」

「そう。だから、人間は外面上は矛盾しているように見えるけど、化学的な即物的観点からみれば全く矛盾してないのよ。そういえば、ルイセンコ主義って知ってる? 昔のある科学者の理論なんだけどね。要はある個体が持っている遺伝的形質はその個体の生後の外的努力によって変化するというものなの。例えば、あなたが生まれつき筋肉がつきにくい遺伝的形質を持っていたとする。でももし仮に頑張って毎日筋トレをすれば、筋肉がつきやすい遺伝的形質に変化するのよ」

「努力すれば報われるってことか」

「そういうこと」

「でも、残念ながら、それはまだ証明されてないわ。もちろん頑張ればあなたにも筋肉はつくでしょうけど、それがあなたのもつ筋肉のつきにくさ、という形質を変えることはできないわ。あなたの子孫は恒久的に筋肉がつきにくい家系ってことになるわ。結局、遺伝子っていう予めの設定プログラムはちょっとやそっとじゃ変わらないのね」

「うーん。俺も遺伝子操作で変えてもらおうかな」

「ふふ、そういうふうに考える人が出てくるから。逆に人は遺伝子などによらない行動によるのであるとか、そんな自由意志を称揚する非決定論がイデオロギーとして必要とされるのかもね」

「確かに、努力が無駄とか言われたら頑張る気なくなるもんな」

「さあ、そろそろ行きましょうか」

 俺たちはシネマコンプレックスがあるショッピングモールを出た。


 ✽               ✽                   ✽


俺たちは夕飯を食べようと、適当に駅前でレストランを探したが、どこも混んでたり、いまいちしっくりくる店が無くて、表通りからまた待ち合わせた裏通りを探していた。この街の裏通りは表通りと違って、全く異なる様相を見せる。表通りでは、駅やらショッピングモールのウィンドウに飾られた瀟洒な飾りが街を華やかに彩り、行き交う人も家族連れやカップルで、とても素敵な感じなのだが、裏通りになると、反対に看板のネオがどきつく、○○分~○○円といった感じの文字が躍るのだ。純がこっちは『ブレードランナー』だと言った。言い得て妙だ。

 異変を感じたのは、純にやはり表通りで店を探そうと提案しようとして振り向いたときのことだ。

いや、嘘だ。

ほんとは異変なんてちっとも感じてなかった。

俺はなんの前触れもなく後ろから殴られた。

 重たい、なにかそれなりに重量があるものが後ろからのしかかってきたようだった。俺の首の筋肉はそれに抗することができず前方に折れ曲がる。そして、あとを追うように、体がそれについて行った。

俺は固いアスファルトの上に前のめりに倒れ込んだ。

アスファルトに強打した頬の痛みを感じながら、俺は目をぱちりと開いた。

なんだ、石にでも蹴躓いたのか。

純が慌てて駆け寄って、俺を起こす。

 振り返ると長身の人影が見えた。上から顔を隠すために白いパーカーのフードファスナーを全て上げ切った奇妙な恰好をした姿が威圧感を持って俺たちの前に立ち塞がっていた。パーカーの裾からは黒いスーツ姿とパンツスーツが伸びて、その姿の異様さに一役買っていた。フードには、無造作に二つのぞき孔が空けられており、その奥の眼がぎょろりと俺たちを見据えていた。そいつは左手に短い棒を持っていて、俺は最初折り畳み傘か何かかと思ったが、きょうは雨など一時も降っていなかった。

それはある種の警棒に類するものだった。

つまり、人に暴力を振るうための凶器。

 相手を呑気に観察していると、白いフードの人影は一歩一歩近づいてきた。慌てて立ち上がって、抗議の声を上げようとしたが、左頬を殴打され、そのままテナントビルの壁際まで殴り飛ばされてしまった。そいつは警棒で殴って来ずに、右手で殴ってきた。 

再び倒れ後頭部を強かに打ち付けた。もう一度、そいつの姿を一瞥した。こんどは近づいて来ずに、睨み付ける俺を睨み返していた。

急いで状況認識を切り替えた。つまり、この状況は何らかの日常の状況ではなく、ある種の異常な状況に巻き込まれたということだ。あまりに唐突だが、異常な状況とはえてしてそういうものだろう。

 この異常な状況に対応するべき俺はマスターの言葉を思い返す。

この状況は暴力が発生した状況だ。

マスターは暴力に巻き込まれたときのことについて俺に言った。

――いいか、透、闘いには何段階かの段階という種類がある。その種類の状況に応じて、行動することが重要だ。まず最初の段階は、その闘いがどういった種類のものか見極めろ。諍いから生じた突発的なものや相手がただの馬鹿なら、簡単だ。最初の段階を冷静に認識するだけでイニシアティブを取れる。そういうやつらはただ闇雲にぶつかってくるだけで、その闇雲さには種類がない。一直線の暴力は簡単に手なずけることができる。

俺は暴漢の姿を見つめた。どう考えても、そこらのチンピラではない気がする。もちろん、諍いなんて前触れもない。この状況は突発的なものではない。

やつは、何らかの意図をもって、予め準備をして俺たちを襲っている。

――相手がそれなりの準備をして闘いに身を投じているなら、気をつけろ。それはもう喧嘩じゃなくて戦闘という段階に入っている。

俺は状況を戦闘として認識した。

――そして、戦闘であるならば、次に二つの段階を意識しろ。まずは、最初の一手目だ。相手のどこを攻撃するかを考えるんだ。この段階では必ず、相手の攻撃範囲に入るな。先手を取られる。そして、相手を攻撃するという明確な意思を持て。それが無ければ、お前の攻撃はブレて計算が狂っていく。戦闘というのは肉体を用いた高度な将棋みたいなもんだ。自分が、あるいは相手がこのように行動するからその反応として行動が生まれる。その行動を読み切り肉体を十分に反応させることができれば、安全に闘える。いいか、相手と自分の入出力を考えろ、そしてその度に遷移する状況の中で最適な動作を行え。

徐々に近づいてくるそいつが俺の射程に入ってきたその瞬間に俺は行動を起こした。左で顔にフェイントをかけて、右の拳をそいつの身体の正面に叩きつけた。

一瞬、むにっ、というある種のゆで卵のような弾力が拳に伝わる。奇妙な膨らみと柔らかさがあった。

こいつ女か。

しかし、俺は怯まずに伸ばした腕を折り畳みそのまま肘を相手の顔にぶつけた。

だが、相手は俺の肘をくらっても一切ひるまずただジッと俺を数秒見据えたままだった。

――そして、最後に重要なことを教えてやる。

マスターの声が頭に響いた。

――今言ったことは、全てゲームなら通用する。格ゲーだな。現実の戦闘で、重要なのは……。


――体の堅さだ。


こんどは警棒を持った方の手で殴られた。

三度、女に吹っ飛ばされた。

そして、俺は顔をあげて女を見上げる気力も一緒に吹き飛ばされた。

ぼんやりと、薄目を空けるのが精いっぱいだった。

ダメだ。勝てない。

こんどこそ意識が朦朧としてくるのを感じた。

朦朧としてきているのに、頭だけがジンジン、ジンジンと脈打つようにはっきりと痛みを感じているのを不思議に思った。

こめかみのあたりからほお骨を伝って顎に何かが伝うのを感じた。頬を拭うと色の濃い血が掌にかすれた。

女がまた一歩一歩近づいてきて、やがて屈み込み俺の顔を覗き込むと乱暴に俺の髪を掴んだ。磁石で引っ張られるみたいに、顔を上げさせられる。

霞む目をなんとかこらして、フードに隠れた女の表情を読み取ろうとする。

しかし、女はフードの奥から俺を真っ直ぐ見返すだけだった。

 女はまた片手で俺を殴りつけた。

そして、横たわる俺の鳩尾に向かって足の甲を入れてきた。

 思わず痛みに呻いた。

目の端から涙が零れた。

鼻水もたれ、顔はぐちゃぐちゃになった。

息もだんだん切れてきた。

何度も、何度も蹴られると気分が悪くなってきて、胃の中でまだ未消化のマクドナルドを吐き出した。

胃液が涙と鼻水と混ざりまた頬が濡れた。

胃液には微かだが血も混じっていた。

久田の言葉を思い出した。

戦争と言う極限状況が子供を産む。

極限状況かも。


 はあ、ああ、ああ、痛い。

痛い。

痛い。

ああ。

痛い。

痛い。

はあ。

痛い。

ああ、痛い。

はあ。

ああ、はあ、痛い。

痛い。

ああ。

痛い。

ああ、はあ、痛い。

痛い。

痛い。

ああ。


女は短いナイフをフードから取り出すと俺の頬に当てた。そして、女はナイフを俺の顔から下げ、頸動脈に当てた。

女の表情からは躊躇いも、恐怖も、そして喜びも伺えなかった。ただ、淡々と事務的にゆっくりとナイフを動かしていた。その確実である意味緩慢な動作がまた恐怖を感じさせる。

 

怖い。

嫌だな、死にたくないな。

なんだって、こんなにも、殴られてたり蹴られたりしなきゃいけねぇんだよ。

痛い。

怖い。

痛い。

怖い。

痛い。

怖い。


ああ、やばい、もう何も考えられない。

貧血かな。

目前がだんだんとスパークしてくる。

ああ、パチパチする。


パチパチ。


菊亜との実験で見た戦場を思い出す。

雨が降って、純とそっくりの少女を泥まみれになって犯していた。

そういや、純はどうしたんだ。

甘い匂いはせずに、今は血の匂いがする。

死にたくねえ。

怖い。

涙と鼻血と胃液まみれ。

地面に血の雫が溜ってる。

母さんのときもこんな感じだったけ。

ちくしょう、なんで、ここで死ななきゃいけないんだ。

こいつなんなんだよ。

あー腹立ってきた。

ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、なんなんだよ、こいつ、ぶっ殺してやる。

死にたくねえ。

生きたい。

こいつ、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

あ、頭の中で、菊亜の顔が浮かぶ。

ちくしょうあいつのせいだ、あいつも殺してやる。

殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

生き残らなきゃ。

生き残らなきゃ。

生き残らなきゃ。

生き残らなきゃ。

生き残らなきゃ。

殺す。

生きるために殺さなきゃ。

殺す。

 

俺は素手でナイフの刃を掴んだ。


とにかく、いまは殺すことだけを考えなくちゃ。


そうしなきゃ、死んじゃうから。
















 

「目覚めたね」



















殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す         殺す殺す殺す殺す

殺す殺す殺す殺す

殺す殺す              殺す殺す

殺す殺す              殺す殺す

殺す殺す殺す殺す

殺す殺す                         殺す殺す

殺す殺す殺す                   殺す

殺す殺す殺す殺す

殺す殺す殺す          殺す

殺す                       殺す殺す殺す

殺す殺す       殺す殺す

殺す殺す                          殺す殺す

殺す殺す      殺す殺す殺す殺す            殺す殺す

殺す              殺す殺す殺す殺す殺す殺す

殺す殺す殺す殺す

殺す殺す                         殺す殺す

殺す殺す殺す殺す

殺す殺す殺す殺す

殺す殺す殺す殺す

殺す殺す殺す殺す

殺す殺す殺す殺す                 殺す殺す殺す殺す

殺す   殺す殺す殺す

殺す殺す殺す 殺す

殺す殺す              殺す殺す

殺す殺す          殺す殺す

殺す殺す                        殺す殺す 殺す殺す

殺す                       殺す

殺す殺す       殺す殺す              殺す殺す

       殺す            殺す

殺す殺す           殺す殺す

殺す殺す殺す殺す

殺す殺す               殺す殺す

殺す殺す         殺す殺す

殺す殺す                        殺す殺す

殺す殺す殺す殺す

殺す殺す       殺す殺す

殺す                 殺す殺す殺す

殺す殺す           殺す殺す

殺す殺す                  殺す殺す殺す殺す殺す殺す

殺す殺す殺す殺す

 


























 フードの女が倒れ込んでいる俺を覗き込んで言った。

 女はナイフを引っ込めて立ち上がり、俺を見下ろした。

女はもうそれ以上、俺を蹴りつけてこなかった。

だが、俺は警戒を解かず、不意をついてナイフを奪い、どうやって女に突き立てようかという算段を立て始めた。

そして、俺は笑った。


✽                  ✽                 ✽


 目を開けると、逆さにした椅子がテーブルに乗っているのが目についた。まだ、開店前なのか、それとも逆に閉店前なのか、よくわからないので、俺は時計で確認する。八時半ごろだった。だとしたら、開店前でも閉店前でもない。椅子とテーブルには見覚えがあった。俺はソファの上で体を起こした。なんだか、関節がとても痛い。膝もとに頭に載せられていた濡れタオルが落ちた。

《FRIEDEN》だった。



  8.

 後から聞いた純の話で、俺が憶えていたのは、ここまでだった。つまり、俺があのフードの女に意識を失いかけるまで何度も執拗に蹴られ、そのうち急に頭に血が昇って逆上し(いや、どう考えても逆上でも何でもない。正当防衛だ)、女に襲いかかろうとしたら、純に手を引かれてなんとか逃げ果せた、というところである。正直に言うと、やたらめったに蹴られて内臓破裂寸前のところからもう記憶は危うい。もう、逃げてる最中は無我夢中で全く覚えてない。

「ほんと、びっくりしたよ。今日は退役軍人会の集まりがあるから、店を閉めて出ようとしたら、ちょうど、身体じゅうぼこぼこで、もういまにも倒れそうなって、しかも女の子を連れた透が現れたんだからな。しかも、ほんとにそのまま店の前で力尽きるし」

 マスターが俺に水を渡しながら言う。

 大丈夫? と純が俺を覗き込む、手元には汚れたタオルがあった。どうやら、顔の汚れは拭いてくれたらしい。ありがたい。

「それにしても、怖いねえ。やっぱり、最近流行りの暴行犯かい」

 マスターにしては珍しく声が弾んで興奮していた。

「いや、女だった」

「へえ、随分強い女がいるもんだ。もう、男だとか女だとか関係なくみんな暴力だ」

 思いたって慌ててズボンのポケットを確認してみる。きっちりと、財布は入っていた。

「なんだよ、物盗りでもねぇんだな。それじゃあ、ぶん殴りたいからぶん殴られたってわけか。ますます怖いな。不気味だな」

 俺はまた、ソファに寝転がった。背中を曲げると関節が否応なしに反応して痛んだ。頭もまだはっきりとしない。

 俺は頭を手でおさえた。

「ごめんね。私が誰かすぐに呼びに行けば良かったんだけど……。怖くてしばらく動けなかった」

 純は手に持っていた汚れた布巾を強く握った。

「いや、あんな状況になったら誰でもそうだって」

 あれはまったく唐突で不条理な異常な状況だった。ただでさえ、逃げ出さずに留まらずにいただけでも純はたいしたものだと思う。ましてや、パニックになりながらもなんとか助けてくれたのだ。 

それに……。

俺はいまも痛む頭のなかに微かに残っているあのときの感覚を思い出した。 

もし、あのままあの場にいたら、俺は勢い余ってあの女を殺してたんじゃないだろうか。

なんとなくそんな気がする。

記憶はあいまいだが、俺は自分のなかで芽生えた明確な感覚そのものは、はっきりと覚えていた。いま思い返しても、自分のなかにあんなに激しい感覚があるとは信じられなかった。その感覚はきわめて奇妙なものとしていまも俺のなかに残っていた。

殺意?

その言葉がいちばん近いように思われたが、なにかがそれを俺にそう名付けさせることを躊躇させていた。そう名づけて片づけてしまうと決定的になにか本質を誤らせてしまうように思える。そんな感覚だった。

では、それはなんなのか。

俺はもう一度頭をおさえた。

頭痛がさっきよりまたひどくなっていた。どうも、熱まで持ち始めてるようだった。

痛む頭を堪えて、俺は懸命にその感覚に相応しい言葉を探す。

恐怖。不安。怒り。興奮。懐かしさ。快感。楽しさ。

そうだ。

恐怖や怒りだけではなく、そこには快感や楽しさといったものまで含まれていた。

快感? 楽しさ? それに懐かしさ? あの状況でなぜ?

俺はさらに自問を進めようとしたが、ここで純が声をかけてきた。

「ほんとに良かったあ。殺されちゃうかと思った」

純がもう一枚タオルを絞ってくれた。俺は受け取ろうとしたが、純は渡してくれず、代わりに思いっきり抱き付いてきた。

 ここで遂に純の緊張が解けたのか。純はほろほろと泣きだしてしまった。俺は肩に温かい純の涙を感じた。俺は抱き付いている純を無理矢理離そうとはせず、そのまま後ろから頭を撫でてやった。

「怖かったあ」

マスターはそんな俺たちをみて、微笑んだ。

俺は少し恥ずかしかったが、純が離れるまでは自分から離そうとは思わなかった。

「それじゃあ、俺は行くよ。今日はちょっと大事な会なんでな」

 マスターは立ち上がって俺たちに言った。恐らく、当初の予定を済ませに行くのだろう。

「透、今日はうちの店に泊まっていきな、まだ、あんまり動かないほうがいいだろ。純も泊まっていきな。なんなら、透をみておいてやってくれ」

「いいんですか」

「もちろん。暴漢が出るんだ。一人で帰っちゃ危ないだろ」

 女だったけどな。俺は声に出さずに頭の中で訂正する。

「ありがとうございます」

「いいってことさ。たぶん、俺は会のあと、そのまま帰って来ないよ。戸締りはしっかりな。朝になったら、また鍵締めて勝手に出て行ってくれていいから……。透、鍵の場所は知ってるな。飯も食いたきゃ勝手に店のもんつまんでくれていいぞ」

 そういって、マスターは出て行った。

「もしかして」

 純は言った。

「私たちに気を遣ってくれたのかしら。いい人ね」

「いや、たぶんほんとに大事な会なんだよ。マスターは退役軍人会のけっこう偉い人らしいんだ」

「退役軍人会? それじゃあ……」

「そう。マスターは元自衛官なんだ」

「へえ」

「それにしても、よくここがわかったね。ひょっとして、前にも来たことあるとか」

 そういえば、さっきマスターは彼女のことを純と親しく呼んでいた。じつは結構な常連なのだろうか。

「え、ああ、あなた、走りながらこのお店のことをうわ言みたいに言ってたから」

 なんだ、そういうことか。

「それにしては、マスターと知らない感じではなさそうだったけど」

「あなたが寝てる間にあなたのことをほんの少し教えてもらったのよ」

 え、余計なことを言ってないかな。

「ふふ」

 純は笑った。

「でも、マスターさん、あなたのことを随分大事に思ってるのね。まるで、自分の息子の話をするみたいだったわよ」

「菊亜と同じだよ。腐れ縁みたいなもんだよ」

 純は椅子からたち上がって、わざわざ俺のソファの横に座った。そして、包帯が巻かれた俺の掌を握って、

「あなたは素敵な友達がたくさんいて、幸運ね」

「そうかな」

「そうよ」

 俺はちょっと恥ずかしくなって黙った。

何となくバツが悪いのを誤魔化そうとしてテレビをつけた。

 きょうは婦女暴行事件の特集はやってないみたいだった。

俺は少々拍子抜けした。もしかしたら、俺たちを襲った奴のことがすぐにでもわかるかもしれないと思ったが、そんなことはないようだ。

まあ確かに、あの女が犯人とは限らないだろうけど。

そういえば、今回の件は警察に行った方がいいんだろうな。

俺は何となくめんどくささを感じて苦い顔をした。

 報道は代わりに先週の南方諸島独立紛争戦没記念式典の様子をやっていた。

もしかしたら、マスターの用事とは、これと何か関連してるのだろうか。

 マスターの話によると、南方諸島独立紛争退役軍人会はその名の通り南方諸島独立紛争に従軍した帰還兵から構成される退役軍人会だ。主に傷痍軍人となって帰ってきた兵士及び戦死した兵士の遺族に対する経済的な面を主としてその他様々に至るまでの援助組織ということらしい。マスター曰く、そういう人たちにはもちろん国から補償金やらなんやらがあるそうだが、やはり全然それではうまくいってないらしい。そこで実際に戦地に行った仲間同士で互助することを目的に立ち上がったのが南方諸島独立紛争退役軍人会らしい。会には我が国の最重要課題であった戦争に直接かかわった軍人、そして行政の省庁のそれもかなり上の役職の人たちに容易にアクセスできるくらいの官僚もいるらしい。現在に至っては表立ってはあまり出てこないが、退役軍人会はちょっとした政治団体の様相も見せ始めているとのことである。そういえば最近、退役軍人会が青年海外協力隊などの国際協力機構や海外のNGOと連携して国際的な平和活動も行っているというニュースを見たような気がする。そしてマスターはなんとそこの副理事だったりするらしい。なんだか、ちらっときくだけで結構すごそうなのだが、なぜそんなおじさんがバーのマスターをやっているのだろうか。これはちょっとしたミステリーである。まあ、本人によると副理事と言っても自分は事務仕事が大嫌いだから、どこかの若い官僚に代行してもらっていると言っていたが。

「そういえば、うちの母も南方諸島独立紛争に行ってたんだよ」

 俺は純と二人でテレビの方を向きながらふと洩らした。

「え」

 純がテレビから振り返って困惑した表情を俺に見せた。

「ほら、前に少し話したろ」

 少し、ぶっきらぼうな口調になった自分を意識する。

「でも、亡くなったって……」

「あ、でも、べつに戦死したわけじゃないんだ。うちの母は、つまり陸上自衛隊衛生科東部方面衛生隊所属普通陸上部隊陸曹長殿は、――女の人でも殿でいいのかな――立派に戦地での任務を全うして帰還してきたよ」

「じゃあ、どうして」

「ほんと、どうしてなんだろうね」

 正直に言うと、俺は今でも母がなんで死んだのか明確にはわからない。

 いや。

 そうではないのかもしれない。

 母の死はとても明確だった。ある意味では分かりやすすぎるくらいだとも言えた。けれど、それがわかってしまうことがなにやら好ましくないことのように俺は思っているのかもしれない。

なぜか。

たぶん、母の死、それに明確ではっきりした言葉が与えられてしまうと、その明確ではっきりしたそれを俺は受け入れなくてはいけないような気にさせられるからだ。

「母は……」

 そうだ。

わからないわけはない。

母の死はこれほどまでにないくらい明確だ。

「母は自殺したんだ。帰還してしばらく経った日にね」

 女性自衛官というのは確かに今でも案外珍しいのかもしれない。もちろん、冷静に考えればちっとも変じゃないし、とくになんということでもない。ただ、その存在を示されると、あっ、と思うくらいだ。まるで何か忘れ物を思い出したみたいに。

そういえば、いてもおかしくないよな、と。

 俺は純に母のことを話し始めた。なぜだろうか。

「うちの母は明るい人だった。紛争が始まるまでは、訓練が多かったけど、そのせいか仕事と生活のリズムが規則正しいみたいで家にもちゃんといるときにはいた。もちろん、二三日帰って来れない日もあったけど、俺も子ども心にちゃんと理解していた。母が家にいるときは家事をいっしょにしたし、遊んでもくれた。キャッチボールこそしなかったけど、よくバトミントンはしたよ。紛争が起こって出征するって決まったときそりゃちょっと嫌だったけど、母は衛生兵だったからね、すくなくとも一般の戦闘員よりかは危険は少なかったと思う。母は俺にちょっとした出張みたいなもんだって言ってた」

 衛生兵は一般的にはジュネーブ条約で保護され戦闘においてもその攻撃対象に置かないようにされている。ただ、もちろん、それは一般的には、という話で戦略上重要な地位を占める衛生兵に対する非公式な攻撃はあるのだと言う。そもそも、南方諸島独立紛争においては、国家間による紛争ではなくむしろ内戦という向きが強い。そのため、自衛隊が相手とするところも独立民族戦線であり、民兵であった。そのためジュネーブ条約などはもとより国際法や従来の規定などはあまり力を持たなかったろう。

「俺が小学五年生くらいのころに紛争は終わった。母はきちんと帰ってきたよ。表面上は従軍前と何ら変わらないように見えた。母は帰還と同時に退役したけど、その代わりにすぐに近くの病院で非常勤の看護師として働くことになった。むしろ、仕事は自衛官だったころより忙しくてより充実してそうだった。学校から帰ると、夜勤明けで眠っている母を見た。よく眠っていて、俺は戦地がどんなものか知らないけど、毎晩うなされて目が覚めるとかそんなのは、なかった。ただ、前より少し潔癖になっていたような気がする。それから風呂にもよく入るようになったし、食べる量も増やしたみたいだった」

 俺は純に話しながら自問する。

本当に俺は母の異変に、その死の兆候に気づいていなかったのだろうか。

もしかしたら、俺は気づいていたのかもしれない。

そして、気づかないふりをしていたのか。

それとも、母が死んでから、気づいてなかったことにしているのかもしれない。

今となってはもうわからない。

確認することができない。

だから、俺は純に事実だけを伝える。

「前触れなんてちっともなかったよ。ただ、母が帰ってきて一ヶ月もたたないある日に母は俺の部屋で首をつっていた。いちばん最初に見つけたのは俺だった。そのことはよく憶えてるよ。学校から帰ってきたらさ、チャイムを鳴らしても誰も出ないんだ。それで、鍵で開けようとしたんだけど、すでに空いてたんだ。誰かいるのかなって思って家に上がるんだけど、電気は一つもついてない。俺はちょっと不気味になってそーっと自分の部屋に鞄を置きに行くと、足元が床から五十センチも浮いてる母とご対面ってわけだ。右に左に母は規則正しく、まるでフーコーの振り子が回るみたいに回転していた。苦しんだんだろうな、口からは涎たらして、顎には掻き毟ったあとがあった。首つりをやると眼圧っていうのが上がって、眼がこうぎょろって感じで出てくるんだ。だから、死んでるのに、こっちをずっと睨んでいるみたいでそれが一番怖かった。でも、いちばんよく憶えてるのは、母の股の間からずーと血が垂れて、下で血溜まりができていたってこと。母の遺体を解剖した監察医がわざわざうちにきて祖父母と話しをしていたのを覚えている。そのときは訊かされなかったけど、後から聞いたら、母はしばらく前に誰かと性的交渉をした痕跡があったらしい。たぶん、妊娠してたんだろうな。母が子を宿したのは、どうも従軍して南方に行っていたあいだみたいなんだね。それはちょっとびっくりしたかな」

 そこまで話すと水を飲んだ。いざ話すとなぜこんなに冗長になるんだろう。

「母は衛生兵だったから、別に戦場で人を殺したりとかそんなのはなかったと思うんだ。もしかしたら、前線に出ることもなかったのかもしれない。でも、母はそこで戦争からなにかを貰ってきてしまったように思う。うまくいえないんだけど。それは……」

 それはなんなんだろう。続く言葉を探す。

「それは母が自ら死を選ぶことによって、この世に産まれることはなかったものなんだ。きっとね」

 いや、結局この言葉は逃げだ。探しきれていない。

母が宿したその子供はなんだったんだろう。その答えになっていない。

 俺にはわからなかった。

母が流産したそれはなんだったんだろう。

少なくともいま、俺が語れるのはここまでだった。

 純は俺を見つめていた。

話しているあいだ俺はまっすぐ、どこともなく純に左側を見せ続けていたようだった。俺はただのピクリとも動かず、とにかく、勢いをつけて途中で止まることのないように一気にただ口だけを動かしていたようだった。

「それで、透はお母さんが死んでどう思ったの」

 純は訊く。

 聞きようによっては、ひどくナンセンスな質問なように思える。

身内が戦争に行って、それから帰ってきて、自殺して、あなたはどう思いますか、なんて。

悲しかった。

当然だ。

家族を亡くすのはきっと誰だって辛い。

だけど、純が俺から聞きたいのはそんなセリフではないのだろう。

それはわかっている。

悲しかった。

そんなあたりまえのことを、だけど、俺個人の口からどんな風に唯一のものとして話しうるのか。

たぶん、純が訊きたいのはそういうことなんだと思う。

俺は母が死んで何を思ったろうか。

どんな風に悲しく思ったろうか。

「それを訊いてどうするの」

 しばらく答えるための時間稼ぎがしたくて、訊きかえした。しかし、

「知りたいの」

 と、純は間もなく答え、俺に考えさせる時間を与えなかった。

仕方ないので、つまりながら答えを探す。

「俺は……、俺は……。そのとき……」

 参った。

ほんとうに言葉が出てこない。

俺は。俺は。と、意味もなく、主語だけを繰り返した。

 わからない。

話せない。

なぜだろう。

 俺は純の方を向いた。

 そして、俺は大きく息をつくと、辛うじて純に言葉を遣った。

「……、わからない。その……、ただ……、」

 ただ? 純は続きを促す。

 俺は答えるか迷った。

 短い沈黙。

 なんだか無性に煙草が吸いたくなっていた。

 俺は答える。

「君は俺の母に似ている気がする」

 答えになってない言葉を発する。

 まるでちぐはぐな答え。

俺はどうして、そんなことを口にしたんだろうか。

もちろん、容姿の話じゃない。純と生前の母の年齢は離れている。顔なんて似ても似つかない。だとしたら、性格。いや、それも違う。純と母は似ていない。少なくとも表面上は。内面とか性格とかそんな簡単に言葉にできる部分が似ているというわけではなかった。

ただ、俺がいま口にした言葉は俺にとっては事実だった。

 純は一瞬だけ俺から視線を外し、そう、とだけ漏らした。

そしてテーブルの上の水を一口だけ飲んで俺に向き直ると、俺の口を一気に塞いだ。

飲み干したグラスの氷が音を鳴らした。

冷水の冷たさを俺は純の口から感じた。

 俺は純の頬を両手で乱暴に掴んで繋がっている唇をさらに自分の内側に押し込んだ。

純もそれに応えるように、舌を喉の奥に差し入れてくる。

冷たさが少し温い微温に変化した。

俺たちは長く互いの唇を求めあうと、息を吐いて、額をあわせた。

「愛してる」

 純はすこしも笑わずに、むしろ侮蔑さえ含んでいるような表情で言った。

俺はもう一度、純の唇に絡みついた。

互いに抱きしめた両手が、蛇のようにうなって互いを弄りあった。

外からは雨音が聴こえる。

雨に反射した街燈の光が拡散している。

スカートを持ち上げて、その下のショーツをズラす。

純が後ろに倒れ込み、俺がそこに被さる。

純が両手を伸ばし、俺のベルトを外す。

ベルトの金属音が妙に大きく聴こえた。

純は両手を移動させて、俺の首に這わせる。

俺の首をきつく締めた。

俺はその間にシャツの下から手を入れ、補正下着をずらし、乳房を直接掴んだ。

首を締めていた手がさらにきつくなる。

純はクっと声をあげるのを堪える。

その顔に俺はいつか見た恋人を貪る女の嗤いを重ねる。

戦争。

雨の音はさっきよりももっとずっと強くなって迫ってきた。

俺はショーツを完全に脱がせ、触れる。

堪え切れずに大きく息を吐く純の口をまた塞ぐ。

生暖かい呼気が俺の肺に逆流する。

準備も戯れもなかった。

俺たちは性急に繋がった。

口を解放すると、純はもうなにも遠慮せずに、大きな声を出す。

何度も、何度も。

俺は揺れるたびに、目の前がまた弾けるのを感じる。

さっき、女から殴られてたときのように。

感覚が全身を埋め尽していく。

そして、母が流産した何かを感じとる。

全身の感覚器に耐えきれないほどに注ぎ込まれて、俺はすでに溢れそうだった。

声をあげ続けている純の顔に近づいて、何が聴こえる、と尋ねた。

銃声。

純は途切れながら応えた。

泥まみれの木々が生い茂る浜辺が見えるジャングルに俺たちはいた。

うって。うって。と、純はなんども懇願する。

 うって。

うって。

うって。

銃声。爆発。断末魔。そして、血が流れる。

うって。

うって。

うって。

俺たちは戦場にいた。


✽                ✽                   ✽


「やっと、逢えたね」

「また、戦場で待ってる」



9.

翌朝になってだいぶよくなった。少なくとも頭の熱はすっかりひいているようだった。俺はもう一度、純に傷口の絆創膏やら消毒をやり直してもらった。意外なことに包帯はもう取ることができた。ひととおり終えると店を出た。鍵はマスターの言った通りいつものところにあった。俺と純は駅まで一緒に向かうと、そこで分かれた。

俺はなんとか電車のなかで眠気を堪えて、乗り過ごさないように気をつけて、電車を降りた。渇いたアスファルトを踏みしめて、アパートに辿り着くと、ベッドに倒れ込んだ。

ただのデートのわりにいくつか重要なことが起こった。

ベッドに顔を埋めながら考える。

暴漢、というか女に襲われて、殺されかける。

純に母のことを話した。

純と……。いや、これについては濁してもよかろう。もごもご。

そういえば、最初は何をしに行く予定だったんだっけ、ぼんやり思いかえす。ああ、そうだ映画を観に行くつもりだったんだ。それで適当にご飯食べて帰るはずだったのに。 

行為を終えたあとの純の表情を思いかえす。

やっと、逢えたね。

純は行為を終えたあとぽつりと言った。

俺はときおり見えるイメージについて考えた。

あの、泥にまみれて、銃声がして、砲弾が飛び交う、浜辺の見えるジャングル。

純はあの光景を見たのだろうか

やっと、逢えたね、か。俺はいちばん最初に出会った純を思い出す。

大丈夫、また逢える。

いまはまだ名前がない。

テレパシー。

見えているのかもしれない。

そして純は何かを知っているのかもしれない。

たしかに根拠はない。だが、純はまたこうも言った。

また、戦場で待ってる、と。

また、ってなんだ。俺は再び考え直す。

俺はあの光景を頭の中でさらってみる。あの感覚のときほど、鮮明には浮かばない。だが、それでも覚えていることはある。例えば……。例えば、蹂躙している少女の表情。純とまったく同じ顔をした恍惚と恐怖の坩堝のなかにいる少女。あれは、純なのだろうか。だとしたら、あれは純が経験したことなのだろうか。懸命に、そしてときどき呆れたりからかったりしながら、幼い頃の話、遺伝子や神経の科学、そして映画について話す純と、あの極限状況にいる少女、二人は同じ一つの像で結ばれるべきなのだろうか。

これ以上考えても何ひとつわかりそうになかった。

こんどは自分に起きた変化について考えてみる。

俺の身に起きた変化、ときおり繰り返し現れる光景、そして付随する感覚、暴力女。

とりあえず、暴力女の件に関しては警察に行かなきゃな、と思う。物盗りでは無いみたいだが、ではなにが目的だったのだろう。女は暴力を振るってきた。俺は繰り返し事実を確認する。ナイフを持っていたことを考えると、いつでも俺を殺せたのだろう。俺はその事実にゾッとするが、とりあえずその恐怖をなんとか振り払う。しかし、改めて思いかえせば、あの時の女には殺意はなかったように思えた。ナイフを取りだしたときは恐怖でいっぱいになったが案外むこうにはそれで刺してくる気は無かったのかもしれない。

だって向こうはいつでも殺せたんだから。

あの女はひたすらに何かを確かめるような、何かを待っているようだった。では、何を。もう一度、思いかえす。

頸動脈にあてられたもののいっこうにひかれないナイフ。

そして、そのときに感じた宙づりにされる死の恐怖、そして怒り、というかとにかく生き延びようとする感覚。

そうだ、女はきっと俺のなかのその感覚を待っていたのだ。

そして、その感覚はいつもあの光景と結びついている。

純と共に感じたあの光景と。

女は言っていた。

目覚めたね、と。

わからないことは増えて行くばかりだった。だが、理解できないことは理解できないことどうしで繋がった。そう、あのジャングルの光景に繋がる。

俺はあの光景とそれに結びついている感覚について考えてみる。

あのジャングルは何なのだろう。俺はどうしてあのジャングルに既視感があるのか。

そこで俺は思い至る。

いちばん最初にあのジャングルをみたのは、菊亜と一緒にディスクの実験を……。

しかし、雑念が入る。

そういえば、春希を最近見ていなかった。

元気が無いから見てやってくれ、菊亜の困惑した表情が思い出される。

そうだ、様子を見に行ってやらなきゃ。

俺はうつ伏せになったベッドのなかで目を強く瞑る。

一休みしたら、今日は菊亜を誘って、春希の様子を見にいこう。そして、そのときにもう一度、菊亜にあのホテルの忘れ物だったディスクを調べてみるように頼んでみよう。ここまで考えて俺は力尽きた。

俺はそのままうつ伏せのまま眠った。


✽                ✽                   ✽


ノックの音で目が覚めた。時刻を見ると、丁度三時を過ぎた頃だった。この前みたいに春希が来たのだろうか。また、鍵を閉めていないから勝手に入ってくるだろう。俺は立ち上がらずに来るに任せた。しかし、来客者はもう一度ノックをした。俺は妙に感じて、ベッドからしぶしぶ起き上がった。春希じゃないとすれば、菊亜か、と俺は思った。丁度いい、こちらから会う手間が省けた。いや、もしかしたら、マスターか純かもしれない。暴漢まがいの女に襲われたのがきのうの今日だから様子を見に来てくれたのかもしれない。

俺はアパートの扉を開けた。

春希でも、菊亜でもなかった。ましてや、マスターでも純でもなかった。

アパートの大家さんだった。

しかし、俺に用事があるのは明らかにその背後にいるスーツ及び制服を着た大男たちだと思われた。

いちばん小奇麗なスーツに身を包んだ男が、俺に自らの身分を示し、要件を伝えた。

――警視庁より来ました者です。我々はあなたに我々が現在捜査している複数の強姦事件に対する嫌疑をかけています。つきましては、あなたを被疑者として、あなたとあなたの本宅であるこの部屋に対して捜査を行いたいと思います。あなたはまず、私たちとともにあなたの部屋の家宅捜索に同行していただきます。その後私たちとともに××署まで同行願います。その後あなたは所内で調書作成及び取り調べを受けていただきます。以上のことは、××裁判所による令状発布のうえ行われている正当な捜査活動です。よって、あなたには我々の指示にしたがっていただく必要があり、法の下で保護、適用される事由以外に関して拒否する権能はありません。どうぞ、よろしくお願いします。また、我々はあなたに対して、規定の四十八時間をこえる長期の取り調べが必要であろうと判断しています。そのため、検察によって送検手続きを取り拘留請求を行ってもらうつもりです。ですので、当座の着替えをご用意ください。それでは、先ほどの説明の通り家宅捜索より始めさせていただきます。着替えの準備がありますから、まずはクローゼットから始めましょうか。



Ex.

 薄暗い通りをぬけ、光る看板を見つけ扉を開けると、純は店のなかに入った。

 すれ違いざまに、若い質の良いスーツを着た男が横を抜けていった。純は慌てて、わきに避ける。男は避けた純に軽く会釈して、それから扉の前に立つと店内に振り向いて、

「それじゃあね、マスター、また話きかせてよ」

 カウンターのなかに立つマスターは、おう、と返事して快活そうに頷いた。

 純はそのマスターの表情に違和感を感じる。

 男が店を出て行った。純は適当にカウンターに座る。店内は空いており、ほかに客はラフなパーカーを着た若い男が一人いるくらいだった。純はマスターに話しかけた。

「いまのも、被験者の一人ね」

 マスターは手拭ををカウンター越しに純に渡しながら応える。

「そうだよ。あいつは、うちの会で雑務をやってくれている官僚の後輩でね。いまはちょうど東大の四年だそうだ」

「へえ、まだ学生なのにスーツなんて着ちゃって……。仲良いの?」

「よく来るんだよ。そんで来るたびに、戦争の話をせがんできやがる。俺はまあ、戦争経験を語り継ぐおじいちゃんってところだな」

「あなたは、まだ40代でしょう」

 純は若いという意味で、口ではそう言ったが、それは実際に純がマスターから感じる印象とかけ離れた言葉だった。

 純はこれまで仕事の関係でさまざまな「職業人」たちとあってきたが、マスターはそのなかでも、特異な印象を純に与えた。純はマスターから老いを感じる。それは、彼女が出会ってきた「職業人」たちのなかでもごく少数の者たちだけから感じるものだった。

「処方箋はいただいているんだがな」

 マスターは純ではなく、奥に座るパーカーの男にまるで諧謔であるかのように笑いかけた。

 男はなにも答えを返さなかった。

「単なる後遺症ってだけでもなそうね」

「いや、後遺症さ。戦争のね」

 純は黙った。そして、再び口を開く。

「八島透が拘束されたわ」

「早いな」

 マスターは表情を変えずに言った。

「白々しい。最初からこうなることはわかっていたんでしょう。そもそも、透は今回の件には、なんら関わる予定は無かった。グループから入手したリストには彼の名前はなかった」

 純は「仕事中」の言葉のなかで、彼のことを透と呼んでいることを苦く感じた。彼は純にとって単なる「仕事相手」だ。それはこれまで彼女が生きて接してきたすべての人間と同じ種類の人間のはずた。

 いや、と純は思った。

 冷静に考え直した方がいいのかもしれない。自分はすでに、八島透に関してなんらかの特異なものを抱きつつある。それは認めた方が良い。認めて、隠してしまえばかえってこれからの行動を見誤ることになる。抑圧ではなく認知すること。それが自己を制御するのに肝心なことだ、純はそう教えられていた。

「透のこと、随分気にいったみたいだな」

 マスターは口の端を歪めた。

 純はマスターを睨み付けた。恐らく、いま状況のイニシアティブを握っているのはこの男なのだろう。たしかに、透は今回の件にそもそも一切かかわる必要はなかった。しかし、いまや彼もまたファクターの一つとして、状況を動かす歯車の一つとして、機能している。そして、そうした状況に彼を置いたのは、なによりも目の前の男このだ。

「どうして、彼を巻き込むの」

「べつに意図してたわけじゃない。俺はディスクを置き忘れてしまっただけさ」

 嘘もいいところだ。あれほど、重要なものをうっかりラブホテルに忘れ物するなんてことがあるわけがない。

「それに、お前だって積極的に止めようとしなかったじゃないか。被験者が一人増えようが、減ろうが些末なことだと」

 それは確かにそうだった。純はいまになって、判断を誤ったことを悔いる。問題があればインストール前に、そう、あの深夜の公園で奪い返せば良かっただけの話だ。それを自分でも柄にもなく状況のままにまかせてしまった。純自身、マスターがこだわる男に興味が湧いたのだった。

そう。最初はたんなる好奇心。それがいまでは。

純は後ろの席のソファをじっと見つめる。

「あなたは、どうして彼にこだわるの?」

「べつにこだわっちゃいないさ。しいて言いうなら、この街に来て世話を焼くうちに情が湧いたんだよ」

 純はけっきょく、マスターの真意を測り損ねて、また話題を仕切りなおす。

「それで、これからどうするの」

「どうも、こうもしない。放っておいても、あいつはすぐ出てこれる」

 それに関しては、純も同意見だった。八島透は重大で変更不可能な証拠を握っている。いや、むしろ透自身が重大で変更不可能な証拠そのものといえるようなものだった。だが、今回の件に関して言えば、それは今の警察組織のやり方ではなんらの意味ある成果として扱うことはできないだろう。 「公安部が動いている。しかも、動いているのは外事二課よ。ということは、私から辿られているということね」

 純は苦い表情をする。

 しかし、マスターは依然慌てた様子は見せない。

「大丈夫だ。心配ない。想定されてしかるべき事態だ」

「それでも、あんなに荒っぽく対面するとは思ってなかったわ」

「もともと粗っぽい連中を相手にしてるやつらだからな」

 純はまた、マスターがなにかはぐらかした様に感じた。

 あの襲ってきた女。あの女もまた、計画に関して掴んでいる。それがどの程度のものなのかわからないが、女もまた状況の変数たるプレイヤーには違いなかった。

「あなたはこうなることを予想していたのね」

「それは暴漢のことか、それとも、お前たちの関係のことか」

 マスターは相変わらず嗤ったままだ。

「どちらも」

 純は怒りを隠すように声を抑えた。

「俺はもう甘酸っぱいロマンスなんて年齢じゃないからね」

 マスターは笑って、純の問いに明確に答えなかった。代わりに背を向けてグラス棚から小ぶりのものを取りだし、酒を注いだ。透明な液体が満たされる。マスターは純の席の前に忠誠を示すように些か大仰に置いた。

「裏切ったりはしないさ」

 この「仕事」に裏切りという概念はありえない。そもそも、なんらかの信頼を前提に手を打っていくのはありえない。相手が「裏切り」を行ったとしても、それは裏切られた方が相手の行動を読み切れなかったというだけ、場の力学を把握しきれていなかった、という無能さを示すだけだ。

 いま、状況をより高次に把握しているのはこの男だ。純は敗北を認め、苦々しく思った。

 純は口をつけると言った。

「それで、あなたはどうするの」

 純は奥に座りじっとうつ伏せ、二人の話に聴き耳を立てていた男に問いかけた。

 パーカーの若い男は応えた。

「俺は国にも、グループにもましてやあんたたちの目的にも加担する気はない」

 あんたたち、と言ったのは、純とマスター二人ではなく、純の組織のことを指して言ったのだろうと純は推測する。

「それじゃあなぜ、私たちに関わるの。なぜ、私たちの計画に協力するの」

 この、私たち、とは純とマスターのことだ。

 しかし、男は何も答えなかった。

 男は都合が悪くなると、いつも話し過ぎるか口を閉ざす。

純はこれまでの「仕事仲間」として関わってきた男たちを思いかえした。

 そして、軽蔑を飲み下した。



  10.

「お食事はもうお済になりましたか」

 俺は黙って頷いた。部屋に通される前に弁当が出されたので、それを食べた。もう二三日は経つのに、毎度同じ弁当でほとほとうんざりしていた。

 取調室は想像していたのとは少し違っていた。刑事ドラマでよくあるみたいに、暗い室内にスタンドライトでも立っているかと思ったが、実際はちょっと洒落たベンチャー企業の会議室かなにかみたいなところで、意外なほどに息苦しさは無かった。俺はいちばん最初の取り調べで入ったときに、この空間独特の空気感に覚えがあるような気がしたが、それは小学校のときに入った校長室と似ていると感じたのだった。

「そうですか。それでは、取り調べを始めさせていただきますね」

 俺は刑事のことばに反応を見せず、後ろのマジックミラーに写る自分を睨み付けた。

 俺を取り調べる刑事は何人か複数で担当しているようだが、俺の部屋に来たときに令状を見せたこの菊池という男は、その中でも比較的に丁寧に対応しているようだった。なかには、怒鳴りこそしないものの、一切愛想など見せず、冷たくただ俺に対して詰問してくるだけの者もいた。だが、俺はこの菊池という捜査官と話すときがもっとも疲弊させられた。菊池はいやらしい男だった。質問におけるタイミング、聞き方、推測、それらがいちいちこちらを消耗させる。菊池は俺にバイト先の久田を思い出させた。菊池は久田のように、舌を鳴らしたりはしないが、話をしていると久田の、へっ!という喉の音とあの粘着質な話し声を思い出させた。

「繰り返しになりますが、あなたには複数の強姦罪の容疑で嫌疑がかけられています。期間としては、主にここ二〇二七年四月から今に至るまでに発生したケースです。ですので、ここ二三年のあなたの生活について伺わせていただきたい」

 馬鹿げてる。ほんとうに馬鹿げてる。大学に通ってそのあいだずっと、俺が裏でこそこそ女の人に乱暴狼藉をはたらいたなんて。意味がわからない。

もちろん、俺は最初から全否認をしていた。

「大学に入られたのは、二〇二六年で、あなたがお生まれになった地にある高校から、この街に進学してこられた。アパートで独り暮らし、実家からの仕送りもとくにないとのことですね。アルバイトはアパートの近くの『ビアンカ・ナイト』というレジャーホテル。いわゆるラブホテルというやつですな。ここには、どうして?」

「昼間は大学がありますから、深夜の仕事が良かったんです」

 知人に紹介してもらって、と言いかけてやめた。なにも、わざわざ訊かれてないことまで話す気は無い。ちなみに、ホテルのバイトを紹介してくれたのはマスターだ。

「そうですか」

 ここ二三年の俺の行動と言われたが、初回から聞かれることは、俺の地元での暮らしや、人間関係ばかりだった。一体そんなことが事件の何に関係しているのだろう。

 カチャカチャカチャカチャ。

菊池の横に座る係官がパソコンにキーボードを打ち込んで音をたてた。

唐突な家宅捜索から今までの型どおりの手続きの説明だけで、他に一切事件に関する説明もなにもされなかった。こちらが情報を与えるばかりで、向こうからは何もなかった。いくら、捜査のためとはいえ、俺はそのことに不誠実さを感じて、その情報の不均衡に苛立っていた。

これでは俺としても何に関して、潔白を訴えればいいのかまるで見当がつかない。

事件に関する質問だって、答えようがない。だが奇妙なことに、いまだに事件に関しては警察からの具体的な質問はなかった。

「入学したころは、あまりご友人もおられなかったようですな。交際関係のある女性なども?」

「いません」

 カチャカチャカチャカチャ。

 余計なお世話だ。

「では、いまも?」

 純の顔が浮かんだ。だが、

「いません。友人は何人か出来ましたが」

 と答えた。

「菊亜安秀さんですね。たいそうな友人をお持ちだ。なんでも、菊亜日光グループの跡取りなのだとか」

「そんなこと知りませんよ」

 質問にはこんな風に菊亜のことや春希のことも訊かれた。しかし、そんなこと俺がどう答えればいいというのか。

「いい加減、事件のことについて訊いてくださいよ」

 俺はしびれを切らして言った。

「もう少しだけ」

 苛立った様子を見せて応える気は無いという俺の意思表示に、菊池は口の端を歪めて応えた。

「あなたは実家ではお母様のご両親と暮らしておられますね。お父様はあなたが生まれて間もなく亡くなった。それはなぜですか」

「母からは事故と聞いていますが」

「そのようですね」

 菊池は自前と思われるノートパソコンをクリックしながら言った。

「そして、あなたが小学生の頃にお母さまも亡くなられた。死因は?」

 もちろん、菊池は知っているだろう。その上で訊いているのだ。

「自殺です。俺が帰ったら首を吊っていました」

 俺は菊池の期待に応えないように、さもなんでもないことのように答えた。

 カチャカチャカチャカチャ。

「ほう、そうですか。それはお辛い体験ですな」

 菊池はまた口の端を歪めた。

「お母さまはなぜ死を選ばれたと思いますか」

「死んでいった人間の気持ちなんて知りませんよ」

「推測で結構です」

 ほんとうに何でこんなことを訊かれるんだ。

 俺はわざと少し間をおいて、

「母の死を担当した警察の方によると、母は子供を身籠っていたそうです。母は南方諸島独立紛争に軍人として参加していましたが、そのころに宿したそうです。それは望んだものかそうでないのかはわかりませんが、いや、」

 俺はまた間をおいた。

「いや、恐らくそれは望まない結果だったのだと思います。母は帰還後、部屋の掃除を以前よりも丹念にするようになっていました。なんというか、身の回りを清潔にすることに異常に執着していたように思います。一日の間に一時間おきにシャワーを浴びることが何度もありました」

「身を汚された女性は何度もシャワーを浴びる。身を清めるためにね」

 安直だ。とでもいうように菊池は嗤って言う。続けて、

「つまり、あなたはお母さまが任務中に望まない性交渉をして、子どもを宿し、それについて悩んでいらしたと思っているわけですね」

 俺は頷いた。

「お母さまがじつは妊娠なさっていたと聞かされたのはいつですか」

「高校一年のときです。祖父母から聞かされました」

「そうですか。ですが、私どもに収められたデータを調べたところによると、そのような事実はないんですよ」

「え」

 菊池の思わぬ一言に、一瞬だけ苛立ちがどこかに行った。

「確かです。お母さまの帰還後の身体検査、それから自殺後の行政解剖に至るまで、お母さまが胎児を宿されたというような記録はありませんでした」

 では、母は紛争の間に乱暴されたということは事実ではなかったのだろうか。

「しかし、性交渉の痕跡は帰還後の身体検査では確かに認められているようです。しょうしょう突飛な考えかもしれませんが、恐らく行政解剖をした係官が、その事実だけを祖父母のお二人に伝えたのでしょう。あなたがいま思っているように強姦の疑いがあるとね。もちろん、性交渉を行っても必ず妊娠するわけではありませんから、自然なことです。これはあまり報じられていない事実ではありますが、確かにあの南方諸島独立紛争では女性の性に対する被害は多かったようです。ですが、お母さまに関しては私はもう一つの可能性が思い浮かびます」

 菊池は机の上で手を組みそこに顎を載せて身を乗り出した。

「お母さまはきちんとした避妊を行った。つまり、合意の上のたんなるありふれた性交渉だったのではないかということです」

「それじゃあ……」

 それじゃあ、俺はどうして母が妊娠していたなんて思いこんでいたんだ。

 俺は暗闇のなかで、こちらを睨みつける母の死相と、その宙に浮いた母の股の下から垂れる血の雫を思い出す。あれは、なんだったんだろう。

 俺はしばらく黙った。

 カチャカチャカチャカチャ、と、キーボードの音が響く。

 自然と声が大きくなるのを抑えられなかった。

「そうだとして、それがなんなんですか! そんなこと、いまの事件と関係ないでしょ……」

「八島さん。私たちはあなたに強姦罪の嫌疑をかけているのです。ですので、もちろん、事件前後のあなたの行動を詳しく把握しておく必要がある。そして、もちろん、あなたの周囲の人に対する態度や、性に対する意識を知っておく必要がある。これはあなたの潔白を証明するために必要なことなのです。しょうしょうプライベートな話に及ぶことはどうかご容赦願いたい」


✽                 ✽                 ✽

 

その日は、留置場に戻される前に、きょうから面会が可能だと言われ、面会室に連れられた。早速、誰か来てくれたらしい。もっとも、わざわざ来てくれるようなやつといえば、そう心当たりはなかったが。

 なかに入ると、パイプ椅子に見慣れた顔が座っていた。

「大丈夫か」

 菊亜が俺の顔を見るなり、笑って声をかけてきた。

 俺は三日ぶりに息苦しさが緩和されるのに、救われる思いだった。

「なにがどうなってんだか、ぜんぜんわかんねえよ」

 俺はおどけて首をすくめた。

「さしもの透も参ってるみたいだな」

「お前も入ってみりゃわかるさ」

「大丈夫だ。すぐに出してやる。親父の秘書にたのんで弁護士を手配してもらった。費用も気にするな」

 まるで暴力団の顧問弁護士みたいな口ぶりだった。

「すまない」

 俺は菊亜に頭を下げた。

ここに連れてこられたその日の遅くに俺は刑事に話して、当番弁護士と接見していた。だが、その弁護士はどうも信用ならなかった。その男は市の弁護士会から派遣されたようだったが、俺のいうことをとりあわず、これからの事務的な手続きをひとしきり説明すると、もし犯行を認めるならすぐ連絡してくれとだけ言い残して帰っていった。接見室の外では、何やら刑事連中と談笑してるさまが聴こえてきて、俺はその男が警察と懇意なことをすぐに確信して、それから呼ぶ気が失せるのを感じた。

「裁判になったら、ちゃんと証言してくれよ」

 俺は疲弊している素振りを見せないように笑った。

 菊亜はそうだな、と笑いかえすだけで何も言わず黙っていた。

「他の連中は俺が捕まってるって知ってるのか。もし知らないようなら、伝えるかどうかはお前に任せるよ。マスターとかさ」

 わかったと、菊亜は答えた。

「あ、でも、春希には知らせなくていいぞ」

いまのこの状況を幼稚園児に知らせたら、卒倒してしまいそうだ。ましてや、強姦罪の容疑なんて、ますます春希の耳には入れたくない。

 菊亜はなにも言わなかった。

「おいおい、もしかして、お前まで俺を疑ってんのかよ」

 ほんとになぜ俺はいまこんなところにいるんだろう。俺は気鬱に思った。

「そうじゃない」

 菊亜は答えた。そして、いままでずっと、俯いて手元を睨み付けていた視線をあげて、まっすぐに俺を見据えた。

「すまない。そうだな、時間ないんだよな。黙ってるわけにもいかないな」

 俺は菊亜の真剣な表情に面くらった。どうやら、また話すべき悪いことがあるらしい。これ以上悪いことがあるなんて、ほんとうに俺の日常はどうしちまったんだろう。

 落ち着いて聞いてくれ。菊亜はそう前置いて言った。

「春希は入院している。自分で手首を切ったんだ。一命は取り留めたが、まだ意識は戻っていない」

 俺は全身から汗が噴き出すのを自分で感じ取った。そして、自分がいま置かれている状況すら忘れそうになった。

「どういうことだよ! なんで、そんなことになってんだよ」

まったく意味のない言葉を菊亜にぶつけた。恐らく、菊亜自身だってわかってないだろ

う。しかし、菊亜は冷静に返してくれた。

「前から、なんだか元気がなかったんだが――学校にも珍しく来なくなってたろ――それで心配だから一昨日アパートに行ったんだ。そしたら、ちょうど、倒れてるのを見つけて」

「なんでだよ」

「わからない。まだ、本人の口から訊くこともできない」

 菊亜は感情を見せずに淡々と伝えてきた。そして、冷静に事実から推論できることを話す。菊亜はさらに情報を追加する。

「ただいつもより、必要以上に部屋が綺麗に整理されていた。掃除も念入りにやったみたいだった。春希はべつにそのあたり無精ってわけでもなかったけど、べつに綺麗好きってわけでもなかったよな。だから、その、それは身の回りの整理だったのかもしれない。だから、計画的にやったことなのかもしれない。でも遺書は無かった。だから、突発的にやったとも考えられる」

 それから、と菊亜はもう一つ付け加えた。

「下着も含めて、衣類だけが全て捨てられていた」

 俺はついさっきの菊池との取り調べを思い出した。必要以上に身の回りを綺麗にする。身を清める。

「もしかして……」

 俺は思わず口にしていた。

 菊亜も同じ考えらしい。

「そうだ。それで、医者が言うには、春希には、ここしばらくの間で性的交渉の跡がみられるって。その、俺と春希はまだそう言う段階じゃなかった。だから、俺とじゃない」

 浮気? 幼稚園児に限って、そんな馬鹿なことがあるわけない。

 俺は今自分が置かれている状況とその奇妙な一致に寒気がした。

 ただの偶然だ。だが、それは不気味な偶然だった。

「犯されたのか」

「恐らくな」

 俺は全身に不快感を感じていた。面会室のなかはべつだん暑くも寒くもなかったがさっきから汗が止まらなかった。

「犯人は」

「まだわからない」

「そうか」

 俺はこの三日のあいだでいまほど、この馬鹿げた状況に苛立ちを感じたときはなかったと思った。こんなところで、くだらないことをしてる場合ではない。いますぐ、春希の傍にいてやりたいと強く思った。

「お前、強姦罪で捕まってるらしいな」

 菊亜はさきほどまでの真顔で一切変えることのなかった表情を僅かに歪ませた。

「俺、お前のアパートに昨日行ったんだよ。そしたら、大家さんが、警察がお前の部屋に来たって教えてくれて、それで逮捕のときも立ち会ったっていうからすこし教えてもらった」

 そういえば、俺は逮捕の経緯についてまだ菊亜に何も話をしていなかった。

「お前、ほんとうに逮捕に身に覚えはないんだな」

 心なしか、菊亜の声は俺がいままで付き合ってきたなかでいちばん冷たく響いた。

「ないって言ってんだろ」

 俺は菊亜を睨み付けた。もしかして、菊亜は春希の件に関して、俺を疑っているんだろうか。菊亜の不信に反応して溢れてきた怒りを必死に抑え付けて、俺は言う。

「そもそも、お前は自分の恋人が襲われたって言うのになんでそんなに冷静なんだよ。お前こそなにか心当たりがあるんじゃないか」

 しかし、言い終わらないうちに、菊亜は俺に言いかえした。

「俺が冷静でいられるわけがないだろ……」

 菊亜は震えていた。

そこで、俺はようやく冷静さを取り戻して、菊亜の動揺に気が付いた。

菊亜の膝に置かれた手の血管が浮き上がっていた。

こんなに激しい感情に囚われて、制御できずに苦しんでいる菊亜を俺は、はじめて見た。菊亜はどんなときでも、困ったように微笑み、その困った表情のまま人を完璧に助けて、なのに誰にも寄り付かず避けてしまうような人畜無害な存在であろうとするのに。しかし、いまはそんな自分を見失うまでに菊亜は乱れている。当然だ。恋人が襲われて、しかも友人が強姦罪で拘留されているんだ。冷静でいられるわけがない。俺や春希と同じで菊亜もまたある意味では不安の当事者なのだ。

「すまない」

 俺は素直に反省した。

「いや、こっちこそすまない。繰り返すが、疑ってるわけじゃない」

 俺たちは意味こそ違えど、互いが共有して大切にする存在を傷つけられた。そして守り切れなかった。そのことに対して怒りと無力感を感じて苛立っていた。だからこそ、冷静にならなくてはならなかった。俺たちまで、互いを罵って、争うのはあまりにもこれからのことに対して愚策だ。

 菊亜は気を取りなおすように大きくため息をついて、両手を合わせ目を閉じた。

「たのむからはやく出てきてくれよ。お前は変なことしてないんだからさ」

 そうだ、今はなによりも早く疑いを晴らして、ここから出ること、それが先決だ。

 

✽                 ✽                  ✽


 しかし、俺の思いとは裏腹に拘留は長引いた。

 俺を取り調べる捜査官は何人も立ち代わり、俺はその度になんども一から同じ質問をされた。ある日、俺はその日の担当だった菊池に対して前回一度答えた質問とまったく同じ質問を最初から最後まで答えさせられた。俺はなんの必要があるのか、と問うたが、黙って答えるように言われるだけだった。俺は仕方なく、答え始めたが、途中で前回の答えと微妙に違うと指摘された。

「ありのままをお答えください。そうでなくては、我々としては虚偽を疑わざるえません」

「そんなこと言ったって、前回の答えなんていちいち細かく覚えてないんですよ」

「事実をお話下されば一致するはずですがね」

「一年や二年も前のことなんて細かいところは自信がないんですよ」

「おや、そうですか」

 もしかしたら、失言したのかもしれない。俺は慌てて弁解した。

「俺だって、あなたたちに事実だと信じてもらえるように話したいんですよ」

「そうですか。そう言ってもらえれば、私たちとしてもありがたいですな」

 菊池は横でキーボードを操作する部下に、

「おい、八島さんの同意を得られたようだ。《画像》の手配をして来い」

 と、指示した。

 しばらく、待たされた後、俺は部屋を移動させられた。部屋には大きな医療用装置があった。俺がなかに入ると、起動準備が始められ、低く唸るような音をたてた。そして、内側から寝台が伸びてきて、俺をその内側に呼びつけていた。いつもなら、ただの検査機なのに、いまこの場で菊池と共に見るとまるで地獄にあるそら恐ろしい拷問具に見えてくる。前後に伸びる寝台が棺桶に思え、俺を地獄まで連れて行くかのようだ。

「たんなるfMRIですよ。そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ、八島さん」

 菊池は笑って、話した。

「あの、これで何をするんですか」

「もちろん、取り調べの続きです。近年では、人間が嘘をつくときに脳内の活動がどのようなものか明らかにされつつありましてね、主に人間の虚偽の言動に関わる脳部位は、視覚においては両側腹外側前頭前野及び内側運動前野、つまり頭の前方から中央にかけて、そして聴覚的には,左外側運動前野、左下頭頂小葉、そして人間の顔貌に関する嘘は頭の後方の大脳脳回内側楔前部だそうです」

 菊池はそう言って、俺の額を人差し指で触り、線を引くようになぞっていった。

「そして、自分に益するような嘘をつくときは側坐核が活性化することが知られています。ここは脳内において報酬を司る部分でしてね。そうですな、チョコレートなんかを食べたときにも活発になるそうですよ」

 MRIは起動準備が整ったのか、あの独特なガンガンと石を打ち鳴らすような音をたてた。

「あの、ポリグラフ検査とかじゃないんですか」

 俺はそう言うと、菊池は胸を反らして、あっははは、と声をたてて笑った。

「八島さん、あんなインチキをいまだに信じているのですか。まあ、もっとも考え方はあまり変わりませんがね。ポリグラフ検査というのは、要するにあなたがなんらかの虚偽と疑われる発言をするときとそうでない発言をするときに有意な差異として現れる、脈拍、呼吸、皮膚電位の乱れを計測して判断するものですが、言ってしまえば、それは熟年の取り調べ官が対象者を観察して判断する、焦りや乱れといった現れを精緻に科学的に採取、判断したものです。そういう意味では、このfMRIによる検知も変わりません。私たちはあなたの脳に直接語りかけ、答えてもらうのです。八島さん、あなたがあなた自身に関して本当のことを言うか嘘を言うか決めるのではありません。あなたの脳の電位が、血流量が、あなたの発言の真実性を決めるのです」

 菊池は手を広げて、さも自慢の息子を語るように愛おしそうに話した。

「しかし、こんなにうるさいと質問もなにもありませんよ」

「御心配なく、イヤホンとマイクはもちろん用意しています。まあ、私のほうもこいつの音であなたの声が聴こえづらいですが、私はこの子の声が大好きでしてね」

 菊池は愛おしそうに検査機を撫でた。

 俺はその菊池の検査機への愛撫の仕方に彼の性癖の一端を見た気がした。

 俺は寝台に固定されて棺桶のなかに入っていった。

「八島さん、聴こえますか。始めますよ」

ガンガン、ガンガンと原子核が回転し磁場が発生する音が聴こえる。



  11.

それから何日かは、MRIでの取り調べが続いた。毎日、毎日、検査室に連れて行かれ、話をさせられていると、俺はだんだん警察に取り調べをされているのか病院に健康診断を受けに来ているのかわからず、混乱した。菊池には、留置所に入る前に受けた身体検査の結果と合わせて、後で検査結果を送ってやる、と冗談を言われた。菊池のいやらしい取り調べと検査の緊張も相まって、留置場の日々は辛さが増していった。明日も、同じようなことをさせられるのかと思うと夜寝るのも億劫になった。

その日の取り調べは菊池ではなく、女性の捜査官だった。俺が女性の捜査官から取り調べを受けるのは初めてだった。

「東藤理恵子と申します。本日はどうぞよろしくお願いします」

 菊池と同じく、比較的丁寧に対応するタイプの捜査官らしい。俺はこの東藤という捜査官にどこか見覚えがあった。

「きょうは主に事件に直接かかわることを訊かせてもらいます」

「最初からそれだけにしてくださいよ」

 俺は募る苛立ちが少しでも伝わるように言う。もっとも、俺は事件に、直接かかわること、という言葉を全く信用していなかった。捜査官は、俺が話すことすべてが事件に関わることのように思ってる。だから、結局全てのことが事件に直接かかわることになるのだ。

「菊池のことですね。立ち入ったことを訊いたようで申し訳ありません。ただ、事件の捜査というのは集団でおこなうものですが、推理という側面では結局のところやはり個人個人のプレーになりがちなんです。だから、各捜査官で取り調べることが違うというのはママあることなんです。菊池はそのなかでも、ああいうタイプでして」

 東藤捜査官は申し訳なさそうな表情を見せた。俺はその表情に人間らしい親しみを少しだけ思い出した。

「じつは、菊池は私の直属の上司なんですよ。私も部下としてときおり苦労するんです」

 あ、そうだ。と、俺は東藤について思い出していた。たしか、菊亜に勧められた病院で待ってるとき、東藤を見かけたんだった。俺は南方諸島独立紛争に派兵されたという息子の付き添いで来た爺さんと話す女性を思い出した。妙に芯が強そうな女性公務員さんだなと印象深く思ったのを覚えてる。

「八島さん、あなたを以前菊亜系列の病院でお見かけしました」

 どうやら、東藤も俺のことを覚えていたらしい。

 しかし、俺たちは病院で出会ったと言っても、挨拶はおろか、話すらしなかった。出会ったなんて、とても言えたものじゃなかった。俺も俺だが、お互いよく覚えていたものだ。

「仕事の都合で、その場にいる人の顔はよく覚えるんですよ。それに、あなた、なんだか印象的なんですよ」

 東藤はニッコリ笑うと、よろしくお願いしますね、と改めて礼を述べた。

俺は東藤のこれまでの捜査官と落差のある物腰の柔らかな態度に困惑した。

いったい、なにが狙い何だろうか。

 さてと、と東藤は仕切り直し、俺に対する取り調べを始めた。

「改めてお伺いしますが、お生まれはどちらですか」

 東藤もまた、俺の生い立ちから今に至るまでのことを丹念に尋ねていった。俺は質問に答えられる範囲で答えていった。昔のことなんて失念していたが、それでも東藤は覚えている範囲で構わないと言った。俺は自分の他愛もない短いこれまでの暮らしについて話した。幼い頃に母と暮らしていたこと。母が死んだこと。春希と遊んだこと。そのまま、春希と共に中学、高校と共に進学して同じ部活動に所属したこと。大学に進学するためにこの街に来たこと。菊亜と出会ったこと。菊亜と春希三人で過ごしたこと。

俺は話しをしているうちに、いま外で事件に巻き込まれた二人が思われて胸が痛んだ。早く、外に出て二人に会いたい。俺は東藤の質問にいつの間にか訊かれるままに素直に答えていた。

質問は俺がこの街に来て直後のころのものだった。

「この街に来て親しくしていた人は大学のご友人以外はおられませんか」

 俺はホテルの店長とマスターの名前を挙げた。

 東藤はとくに、マスターの名前に食いついた。そして、マスターとどのように親しくなった細かく話すように求めた。

「この街に出てくるころ、住むところを探していたんですけど、そのときにたまたま出会って、それからバイト先を紹介してもらったり、よく食事に連れて行ってもらいました。恥ずかしい話ですけど、お金がないときは少し貸してくれたりもしました」

「不動産屋の名前は?」

 俺は不動産屋の名前を答えた。

「どうしてそこまで良くしていただけたと思いますか」

「わかりません。ただ、『ツラが気にいった』と言ってました」

「『ツラが気にいった』ですか」

 確かに、マスターはなぜか俺に対して理由もなく良くしてくれる。まあ、マスターはもともと世話好きで、自衛隊にいたころもよく年下隊員の面倒をみていたと話をしていたが。

「そのマスターという方は、かつては自衛官だったというのは知っていますか」

「ええ、訊いたことがあります」

 むしろ、いま東藤が知っていたことに俺は驚いた。

「いまでは、退役なさっていますが、ちょっとした活動に関わっているようですね。南方諸島独立紛争退役軍人会というのは御存知ですか」

「ええ、マスターは確か役員かなにかだと」

「そうです。そのことで何か話されたり、例えば、活動のボランティアの手伝いとかはされたりはなかったですか」

「いえ、とくに」

 退役軍人会では、ときおり一般向けに交流会や催し物があるらしい。だが、俺がそれに呼ばれたことはなかった。

「そうですか」

 東藤はそこでマスターに関する質問を打ち切った。

「さて、それでは今期の学校が始まってからの行動について訊かせてください」

「今期も、生活自体はそれまでと変わりませんよ。普通にバイトに行って、学校に通ってました」

「何も特別なことはなかった」

 東藤はここでようやく捜査官らしく鋭い表情を見せた。

「いえ、実はここに来る前日暴漢に襲われました」

「おひとりのときですか」

「いえ、大学で知り合った小川純さんといっしょでした」

「警察に相談はなさらなかったんですか」

「しようと思いました。起きて、警察に行こうとしたら」

「我々が捜査に来たと」

「とんだ偶然だ」

「偶然ではないかもしれませんね」

 東藤はぽつりと言った。俺はどういう意味か問いただそうとしたが、東藤の方が先に口を開いた。

「確認しますが、そのときは小川純さんという女性と一緒だったんですね」

「ええ」

「小川純さんとはどういうご縁でお知り合いになられたんですか」

「さっきも言いましたけど、大学の友人が所属する研究室に外部研修生として来られたんです」

「外部研修生というと、菊亜日光グループ系列の企業から来られたんですね」

「そうだと思います」

「そして、その方と暴漢に襲われたと」

「ええ、もしかしたら、そいつが犯人なんじゃないですか。いや、というより俺を疑うよりもまずそっちを調べるのが筋なんじゃないんですかね」

 このことはだいぶ前から、俺を取り調べる捜査官何人か何度か伝えてあった。不思議なことに、捜査官たちは暴漢の話に興味を見せはするのだが、犯人なのではないか、という俺が示す可能性を微塵も推量する気は無いようだった。これほど執拗に俺に対して疑い質問をしてくるのに、これは奇妙なことだった。暴漢に関しては、正直東藤の反応も他の捜査官と変わりなかった。東藤は俺に向かって、苦笑いをした。それは菊池が俺に向けて見せる嫌な笑いといっしょだった。俺は東藤の印象をすこし下方修正した。

「その暴漢、女性だったんですよね」

「ええ」

「我が国の法律だと、強姦罪の主体は必ず男性です。女性が強姦罪として捕まることはありえません。もし捕まえるなら、暴行罪でしょう」

「そんなことは関係ないでしょう」

 それとも、そいつが犯人だったら強姦として罪に問えないから、追わないということだろうか。女性だから強姦はしていないと。襲ったのが女なら、強姦にならないから強姦してないと。屁理屈だ。たとえそうでも事件に何らかの関わりがあるかもしれない。

そうだ、もしかしたら警察はもうあの暴漢について何か把握しているのかもしれない。

 そんな風に考えていくと、俺は自分が関わって犯したとされる事件について、いまのいままで何らの説明もないことに改めて腹が立った。

「どうして、あなたたちは事件について俺になにも教えてくれないんですか」

「私たちが被疑者に情報を与えると、被疑者は事件を歪めてしまうかもしれない。それに、あなたが犯人なら事実は全て知っているはずです」

「俺が犯人ならね。でも、俺はやってないんだ」

 俺はまた冷静さを欠いて、怒鳴った。

「お願いします。事件について教えてください。別に俺は何も隠す気は無いんだ。ただ、もう、わけもわからず質問に答えさせられるのはうんざりだ」

 東藤は質問を中断して、俺の目を覗き込んだ。俺は残った気力をなんとか振り絞って、その目を見つめ返した。

 俺は東藤の返事次第では、もう今後警察の質問には一切答えずに黙秘しようと、いまさらながら決意した。俺だけ一方的に喋らされるなんて公平(フェア)じゃない。

取調室に沈黙が流れた。俺も東藤もしばらく何も話さなかった。

「わかりました。こちらからも少しお話しましょう」

 東藤は以外にもあっさり了承した。

「しかし、最後にその暴漢の件に関して一つだけお答えください」

 東藤はとりあえずこれで暴漢の話は切り上げるつもりらしい。

「あなたは襲われたときどのように感じましたか」

「そんなもの、怖くて……」

 俺は答えかけて躊躇う。

「どうしましたか」

 俺はあのときの奇妙な感覚をどう口にするべきか迷った。

恐怖と怒りがないまぜになった殺意。だが、実はそこには、それだけでは言い切れない感覚があった。あえて言うなら、楽しさ。生存のために自らが自らに対して暴力を解放することを許可するときの解放感があった。

「いや、どこか……」

 なんといったら、いいのだろうか。だが、俺はすでにその答えを手にしているような気もした。

「性的な快楽のような、懐かしさ、というか」

 いや、何を言ってるんだ俺は。

これでは、強姦をしてその暴力に酔いしれるやつと変わらない。

これじゃあ、俺が本当に犯人みたいじゃないか。

俺はとてつもなく羞恥心を感じて、俺は俯いて東藤から表情を隠した。だが、東藤はこんどばかりは一切嗤いもせず、ただ、そうですか、と真顔で俺を観察するばかりだった。

そして、東藤は真顔のまま俺の手を握った。

「申し訳ありません」

 東藤は俺に謝罪した。俺はその謝罪の意味がわからなくて、反応できなかった。結局俺は困惑して、さらに恥ずかしくなり顔を真っ赤にして俯いた。

「どうしてあなたが謝るんですか」

 東藤は目を細めた。

「いえ、これまでの取り調べで私たちは、あなたにすこし無理をさせていました」

 どうやら、謝罪はこれまでの取り調べに対するもののようだった。

「それでは、お約束通り、あなたが関与を疑われている事件についてお話ししましょう。ですが、その前に」

 東藤はまた当初の笑顔に表情を戻した。

「休憩にしましょう。お昼ご飯を食べたあとに再開しましょう」

 俺は東藤に対して不満を示した。また、はぐらかされるのか。しかし、東藤は、

「大丈夫です。必ず、お話しますよ。今日のお昼ご飯はいつものお弁当じゃなくて、温かい出前をとっています。ほんとはこういうことは許されないのですが、八島さんの捜査への協力として、こちらでもちます」

 奢りということらしい。

「なら、せっかくだし警察らしくカツ丼にしよう」

 俺は言った。

「ふふ、どうぞ」

 東藤は笑った。その表情は俺がここに来て最もリラックスさせられた表情だった。刑事でも、取り調べ担当でもなく、純粋に東藤自身の笑顔だと俺はわかった。そして、一言だけだがようやく、いつものように軽口が口をついてでた自分に俺は安堵した。

「そうそう。今日は面会がありますよ。そうですね、お昼ご飯を済まされたら、お会いになってください。取り調べの続きはその後にしましょう」



  12.

 面会ということは弁護士ではないのだろう。菊亜はいま、病院で春希に付きっきりで、あまり来られないようだった。だとすると、誰だろう。マスターだろうか。

 面会人は通話孔が開いた面接室のガラスの前でパイプ椅子に鎮座して、真っ直ぐに前を見据え、俺を待っていた。係官に連れられて、入ってきた俺に気づくと、顔をこちらに向けたものの一切表情は変えなかった。

 俺は席に着くと話し始めた。

「もしかして、菊亜から事情は聞いている?」

「ええ、それから春希さんのことも」

 純は真顔で答えた。

 面会人は純だった。

「私はあなたが罪を犯したなんて、ましてや強姦なんてこれっぽちも信じてない」

 純はとにかく、そのことをまず伝えたかったようで、俺に向けてすぐに言い切った。

「ありがとう」

 俺は礼を言った。

「毎日、毎日、同じことばかり確かめさせられるんだ。少し疲れたよ」

「それが、警察のやり方よ。過去のことを明白に、そして自信をもって答えられることなんて、案外そうそうないわ。そして、繰り返し本当かと尋ねられる度に、次第に自分は思い違いをしていたんじゃないかと疑い始める。そして、いつのまにか犯してもいない罪を自供させられる。お願い、必ず自信を持って。やってないことはやってないと言い通して。一言でも、やったかもしれないと言おうものならそれが命取りになるわ」

 純は諭すように言った。

「大丈夫。取り調べは原則三日までで、延長もされるけど、それも法律で期限が決められている。それも逮捕から二三日までよ。もう、じきにあなたは出られる。だからもう少しだけ頑張って」

 俺は頷いた。そのことは菊亜が寄越してくれた弁護士から聞かされていた。俺がここへ来てもう三週間は過ぎたと思う。俺は期限まで一切罪を認める気は無かった。

「でも、確かにやってないのにやったような気がしてくるというか……。やってはいないはずなのにその感覚は覚えているような気がするんだ」

 これが純が言うように取り調べの手管なのだろうか。

 東藤についさっき話した、懐かしいような性的快楽。純と二人でいて襲われたときに感じたあの感覚。そして、ディスクの実験のときの感覚。それらはみな同一の感覚だった。そしてそれは、《FRIEDEN》の店のなかで純と二人で繋がったときの感覚と強く結びついていた。俺はその感覚をいつもどこか深いところで実はずっと飼っていたんじゃないかという気がしていた。いままでは気づかなかったけど、それはとき折り生活に紛れていて、実はこれまで単に上の方にあがってこなかっただけ、ただそれだけのような気が俺にはしているのだ。

「だめよ。弱気になっちゃダメ。あなたが誰かを襲ったなんてそんなことあるわけないじゃない」

 確かに、そうだ。

俺は平凡な暮らしを送るだけで、暴力なんかに巻き込まれず、せいぜいがちっぽけな喧嘩で暴れたくらいの記憶しかない。

目の前の彼女が言うとおりだった。

それは事実だった。

だがでは、記憶ではなく、いま感じているこの感覚はなんなのだろう。

やはり、執拗な取り調べから生じた暗示なのか。

だが、俺はまた自分で認めたがっていた。

あの感覚が真正で確かなものだと認めたいという思いもまた生じていた。

恐ろしく、身の毛のよだつ感覚なのに、どこかでそれを歓迎していた。

なぜなんだろう。

「ねえ、やっぱりあの襲ってきた暴漢が怪しいと思うわ。私、調べてみるわ」

「だめだよ。危ないし、それに襲ってきたのは女なんだよ」

 女に強姦罪は適用されない。女に強姦はできない。

しかし純の言うとおり、確かにいまのところ自分たちで辿れる線はあの暴漢女しかなかった。

「大丈夫。海外にいたころ護身術はならったし、私もいまのご時世それなりに備えもしている」

 しかし、それでも危険すぎる。俺は女の力強い拳を思い出した。女には殺意こそなかったが、暴力を振るうことに躊躇いもなかった。ただ、淡々と俺に暴力をむけてきた。それ、日常的に訓練された、暴力というものに対してある種の慣れを持って恒常的に使用されているもののように俺には感じられた。

「私、あなたの力になりたいの。まだ出会って全然間もないけど、私はあなたのことを大切に思っているわ。あなたを離したくないし、傍にいたいのよ」

 純は対面のガラスに手をおいた。

 出会ったその日から何かを求める彼女。

公園で出会った不思議な深夜の事。

飲み会や喫茶店で話した遺伝子研究の話。

人間の体内にある個を特定するパターンの話。

そして、映画の話。

純の印象はその度毎に変わっていた。

ときに菊亜のように優しく、困惑した表情を見せ、時に春希のように無邪気で爛漫に悪戯っぽく笑う表情、そして母のように感じた瞬間。

俺はときどきそのどれの表情が純の本当の表情なのか迷った。

しかし、そのどれもが彼女の表情であり、彼女自身でもあるのだと判断した。

そして、いま真剣な表情を見せている彼女もまたそうなのだろう。

俺は言った。

「ありがとう。でも、そう思うなら、俺がここを出るまで待っていてほしい」

 もっと深く知って、また違う純の表情を見たいと俺は思った。

そして、また映画に行きたいとも思った。

「わかったわ」

 純は了承した。

「大丈夫だって。もうすぐ期限切れですぐ出られるんだろ。何も心配いらないさ」

 俺は逆に励ますように言った。


✽                  ✽                 ✽

 

午後、再び取調室に連れられて東藤と会う。

先に席についていた東藤は扉の前で立っている俺を見上げて言う。

「きょう来られた方が小川純さんですね」

 面会はやはり監視されているらしかった。まあ、いつも後ろで記録を録られているから報告くらいはされているだろうと思ったが、どこかにカメラか覗き孔があったんだろうか。いや、覗き孔はないか。

「我々は井戸川春希さんの状況も把握しています。親告がない以上告訴はできませんが、捜査自体は行っています」

 強姦罪は親告罪だ。つまり、実際に被害に遭った女性が警察に被害届を出さなければ、犯人を逮捕して裁判とかそういうことにはならない。これは被害者自らのプライバシーに対する意思を尊重するためらしい。だが、東藤の話しぶりによると、警察はすでに捜査をおこなっているらしい。

「本件は複数犯による集団強姦罪の疑いもあります。そうであれば、もちろん非親告罪ですから。我々は堂々と捜査ができます」

ここ十年で婦女暴行は三倍近くに増加。近年になってようやく認知されてきたが、我が国の犯罪率は一貫して下がり続けている。数字上では、我が国はまだまだ安全で治安も十分に守られている。だが、メディアが凶悪な事件に限って繰り返し強調して報道するためか、俺たちの実感としての治安の向上はない。むしろ、悪化しているという印象ばかり付きまとう。俺たちの社会を覆う空気はやはりなんだか薄気味悪くて、不気味で、それはなかなか晴れていかない。依然として、俺たちは、俺たちの「悪い部分」が濃くなったように思えてならない。俺たちの気分はいつも「悪化」していた。

「捜査官のなかには、井戸川春希さんを襲ったのは、あなたではないかと疑っている者もいます」

 やはり、そうなのだろう。予想はしていたが、実際に言われると、腹が立った。

「馬鹿なこと言わないでください。俺と春希は、小学校からずっと一緒なんです」

「だからこそ、拗れたりしたのかもしれません。八島さん、強姦事件の裁判で一番多い争点は合意の上の行為かそうでないかという点です。男性が合意だと思っても、女性がそうでなかったなんて掃いて捨てるほどあるケースです」

「そもそも、やってないんだ。合意も何もない」

「しかし、身体検査の結果では、ここ最近であなたは性交渉をなさったようですね」

「なっ」

 俺は、言葉に詰まった。俺は強姦の疑いで拘留されている。そうであるならば、このような話の流れになっても当然おかしくはない。現に菊池などの捜査官とさんざんに極私的で、屈辱的な質問もされた。いまさら、その程度のことで戸惑うのはおかしな話なのかもしれない。俺は午前中よりの東藤との取り調べで、この女性捜査官にすこし心やすさ感じていたが、それは愚かなことだったと思いなおした。そうだ、この人は捜査官で俺は被疑者だ。そのことを忘れてはいけない。

「春希とではありません」

「では、誰と?」

 俺は黙った。

「これは、答えないと不利ですよ」

 東藤は唇を噛んで言う。

「小川純さんとです」

「そうですか。恋人なんですね」

 俺はまた黙った。

しかし、東藤はそれ以上追及してこなかった。

その代りに、立ち上がってわざわざ俺が座る椅子を引いた。

「お座りください。お約束のとおり、こちらからも少し事件のことについてお話しましょう」


✽                ✽                   ✽


「あらためて、一からお話しようというものの、じつは事件自体はこれといって、特別なことはなく、こういってはなんですが、一般的な暴行事件なんです」

 一般的な強姦事件。

俺はなんとなく飲み込めず、東藤の言葉を繰り返した。

「ここ十年で、婦女暴行が頻発してる」

「そうです。正確に言えば、ここ二年です。ここ二年で、かなりの増加傾向にあります。それ以前も、南方諸島独立紛争以来、緩やかな増加傾向にありましたが、ここ二年はかなり顕著なんです。それは明らかに何らかの有意な原因があると認められるほどです」

 有意な原因があると認められる。それはつまり、曖昧さを抜きにした明確で、明らかな人を性的な暴力に向かわせるなにかがあるということだ。

東藤たちはそれを追っている。

「私たち警察はもちろん、法務省、統計局、それから社会学的なシンクタンクなどを交えた有識者の間で調査会が立てられました。調査会は現在、様々な方面で事態の改善にあたっています。ちなみに、その調査会の社会学部門では、私たちのここ十年ないし、二年での社会的に特異な変異現象と事件との相関関係を調べています。人口変動から経済的な変動あるいは気候変動まで多岐にわたる現象を様々な社会階層ごとに振り分け探っています」

「気候変動ですか」

 俺は訝しんで言った。

「あら、あまり信じていないようですね。気候変動が人間の行動にもたらす影響はきちんと学的な検討がなされているのですよ。あなたも聞いたことがあるでしょう。暖かい地域より寒い地域の方が人はより自死を選ぶ。そんなに大きな話でなくても、すこし暑ければイライラもするし、寒ければ心細くなる。そんなことあなたにもあるでしょう」

季節が変われば、人の気持ちも変わるとでも言うかのようだ。今日は曇りで気分が悪いから犯罪でも犯そう。そんなことがあるのだろうか。そういえば、昔、殺人の理由を太陽のせいと言ってのけた犯罪者がいるらしいが。

「まあ、もちろん気候の変動と人間の行動の相関は諸説あります。そもそも、気候の変動が経済に影響をもたらし、それが結果的に影響を与えているという二次的な要因とも考えられます。ただ、例えそうであっても、現在のプレ量子コンピューティングやプレ生体コンピューティングによる複雑系分析の方法を使えば、それでもそれなりの結果がわかるんです。ようはどこに足掛かりを置くかという話ですね」

「それで、結局事件と……」

「おっと、失礼しました。話が少しそれてしまいました。いまの話は調査会でも社会学部門が行っている分析です。私たち警察が行っている調査はもっとも原始的で普遍的な方法です。つまり、より人的な要因に焦点をあてて暴行事件の頻発を調査してるわけです」

 まあ、警察なのでだいたい推測はつく。

「端的に言ってしまえば、事件増加に繋がる犯罪組織、集団犯罪のケースを想定して調査しているわけです」

 人口変動や経済的な変動、それに気候変動なんかも確かに人間の行動になんらかの影響を与えているのかもしれない。だが、結局行為するのは人だ。結局それはさっきいったように人の行動に対して二次的な要因としかならないだろう。そういう意味では、東藤たち警察がやっているという調査は確かにもっとも原始的で、普遍的だと言える。

「残念ながら、当初調査会は、とくに警察部門は大した成果は上げられませんでした。発生した暴行事件をケース毎にプロファイリングして、統計局と協力して分類していきましたが、せいぜいが、事件を起こす犯罪主体は主に男性であること、そして僅かに若年層が多いという程度のものでした」

 そもそも、調査の発端は暴行事件、なかでも婦女暴行の頻発ということだった。若い男が暴行を多発させているという結果では同語反復。まぬけな結果と言われてもしかたないだろう。

「ですが、ここ二年で重大な変化がおきました。いや、変化というか、はっきりいって不可解と言えるケースが突発的に現れたんです」

「不可解なケース」

「そうです。その不可解なケースをお話する前に、八島さん、これらの男たちの顔に見覚えありませんか」

 東藤は自前のノートパソコンのモニターをこちらに向けて示した。リストはこれといって変わったところのない一般男性の顔が写った画像ファイルがいくつかのグループに分類されて並んでいた。グループはおおよそ、三十グループより少し少ないくらいだった。一グループにだいたい四から六人と言ったところだ。多くても、八人くらいまでだった。リスト全体においても、各グループ同士でも、そして、グループ内でも、いかなる点においても共通点が、少なくともその顔貌から推測できなかった。それくらい、なんてことのないそこらへんにいる男を適当に集め無作為にグループにわけただけのリストにしか感じられなかった。事実そうなのだろうと俺は思う。

 実は、このリストは俺が取り調べの最中に何度も見せられていた。この中に知人はいないか。過去に話したことのあるものはいないか。あるいは、親、兄弟、親戚――そんなこととっくに警察自身の手で調べられているだろうが――とにかく、血縁者はいないか、と訊かれた。俺はその度にその全ての質問にノーと言うしかなかった。俺はこのリストの男たちのなかに全く知り合いはいなかった。むしろ、それがゆえに、どこかそのへんですれ違ったような気さえしてきた。ショッピングモールで、駅で、公園で、学校で、あらゆるところにこのリストの男たちはいる、そんな存在であろうと俺には思われた。

「なんども答えましたよ。そのなかの男で俺が知ってることはありませんよ」

「本当ですか。申し訳ありませんが、もう一度見てください」

 俺はしぶしぶもう何度も確認した男たちの表情を確認した。だが、やはり結果は同じだった。

「やっぱりこんな男の人たち知りませんよ」

「そうですか」

「この人たちがなにか関係しているんですか」

「暴行事件の増加の要因を調べてる調査会の我々警察部門は主に犯罪組織、集団犯罪に焦点をあてているとさっき言いましたよね」

 もしかして、このリストの男たちがそうなのだろうか。このなんてことのない平凡そうな男たちが組織だって女性を犯しているのか。だとすれば、このグループの組織の男たちと俺はどんな関係があるのだろうか。

「違います。このリストの男たち全員が暴行を行った犯人というわけではありません。ましてや、この男たちが群れて何らかの組織を作っているという事実もありません」

 東藤は俺の考えを読んだように言った。そして、言葉の最後に、

「いまのところは」

 と付け足した。俺はどういうことなのか尋ねた。

東藤は答えた。

「いまのところ、このリストは暴行犯のリストというわけではありません。なかには、現行犯で押さえたものもいますが、それでも、まだ起訴にはなっていません。現在も起訴猶予か、あるいは嫌疑不十分になっているはずです」

「まだ、ということは?」

「察しが良いですね。これから起訴される可能性は十分にあります。先ほども言いましたが、私たちは暴行事件に関わる、犯罪組織、集団犯罪を調べていました。しかし、幸か不幸かこのリストの男たちには特になんらかの組織の成員であったり、集団ということはありませんでした。私たちはこのリストの男たちのあらゆる点における共通点をあぶりだそうと試みました。出身や職業はもちろん、年収、生活環境、思想あるいは行動パターンなどです。しかし、残念ながら共通点はなにひとつありませんでした。ただ一点だけを除いてですが」

 ずいぶん、もったいぶった言いかたをするな、と俺は思った。

東藤は一つ一つ俺に情報を与えるたびに、俺をじっと見つめた。

どうやら、反応を伺っているらしい。

「その共通点はこれまで発生してきたいくつかの暴行事件のケースにおいて、現場に残された物証と極めて明確な関係をもっていました。いえ、はっきり言いましょう。その現場に残された物証とは被害者の体内、つまり男性器を挿入された女性器、膣内において遺された精液あるいは陰毛のDNAと一致したのです」

 俺は顔をしかめた。一瞬どういうことか把握できなかった。

「つまり、複数の強姦のケースにおいて、被害者女性の身体に残された精液が全て同じDNAを持っていたのです。そして、そのDNAがこのリストの男性のものと一致しているということです」

 俺はまだわからなかった。

複数の強姦事件の被害者の女性に残された男の精液が複数の男のものと一致している。

「正確に言うと、おおよそ200件を超える強姦事件のケースに対して、わずか三十グループ弱です。つまり、もし仮に強姦被害者女性の数が一ケース一人としたら、200人、それに対して、採取された精液のバリエーションが30しかないんです。単純計算で、一グループあたり6.6人。つまり、だいたい7人の女性が一人の男性の精液をその身に受け止めたことになります。逆を言えば」

 俺はようやく、事態がわかりはじめてきた。東藤の言葉を引きとった。

「一人の男が平均7人の女性を襲っている。それが、30ケースも」

「そうです」

 それは、たしかに、いくらなんでも……。

「異常だ」

 俺は思わず声を漏らした。

「そうです。この統計値は異常です。しかも、これはいまのところ組織犯罪でも、集団犯罪でもないんですよ。こんないいかたはよくないかもしれないですが、普通のなんてことのない平凡な一人の強姦犯罪者が7人も襲うようになってきているなんて」

「ちょっと待ってください。でも、三十ってそれは三十「人」なんじゃなくて三十「グループ」何ですよね」

「そうです。それがまた不可解な点です。警察は複数の被害者女性から共通して検出された精液のDNAと一致する男性を探しました。それがこの結果です」

 俺は改めてモニターのリストを見た。グループの名前は各フォルダごとにSTR分析○○型と名付けられていた。恐らく、このフォルダ名が一致したDNAの名称なのだろう。

「残されたDNA型と一致する人間が複数人現れたんです」

 また、DNAか。俺は純が話してくれたことを思い出す。

 純は言っていた。

人間というのは、結局のところ物質という基体を持った情報にすぎないのだという。そして、ATGCという四つの存在が差異を生み出す究極のところ何の意味もなく個人に割り当てられたその並びのパターンでしかない。けれども、DNAというそのパターンとして刻まれているATGC各塩基の配列こそが何の意味もなく俺たちを規定し、特定するのだ、と。

「DNA鑑定って具体的にどういうものか知っていますか? 個人個人がそれぞれ異なるDNA情報をもっていることはよく知られていますが。実際のところ、あまり詳しくは知られていないでしょう。遺伝子とDNAは混同されるけど、すこし違う概念だし染色体とも違う。まあ、私も専門家ではないから取り立てて詳しいわけではないんですけどね」

 東藤は説明する。

「大雑把に言ってしまえばDNAというのは、30億もの塩基が一列に並んだその並びから構成される化学物質の事ですが、この具体的な30億個全体の並びのことをゲノムといい、これが人それぞれ違うわけですね。DNA鑑定っていうのは、その並びの一部を比較して、対象のゲノムと同質かどうかを判断するわけです。もっとも、ヒトという種族においてはヒトゲノムとして共通する部分がほとんどで、人間各個体がそれぞれ差異として持ちうるのは――つまり並びが異なっているのは――おおよそ0.1パーセントだと言われています。さて、その30億の塩基配列を調べるわけですが、さっきも言いましたが、すべてを調べることは現実的に不可能です。そこで、DNA多型という、塩基配列、ATGCが繰り返しになっている箇所を調べるんです。さらにこの繰り返しの中でも、繰り返し数が少ない部位、ミニサテライトに焦点を当てて調べます。この遺伝子座ならば、だいたい調べる塩基は数十から数百までと現実的な数字です」

DNAは個人個人がもっている魂とか人格とかそんなものではない。

DNAは単にそこにそうあるだけで、そこには何らの意味も意義も存在しないただの物質だ。

そう、俺たちは理科の実験で教え込まれる法則通りに反応する化学物質。

単にそれだけのものだ。

 俺はだんだんと話しのゴールが見えてきた。

そして、俺がなぜ今ここにいるのかもようやくわかってきたような気がしてきた。

「二人以上の人間の塩基配列が一致することは、はっきりいってありえません。もちろん、塩基配列は有限のパターンなので、原理的にありえます。ですが、やはりありえないと言い切っていいでしょう。確率は途方もないものです。ましてや、3人以上も、4人以上もなんて、ありえません。絶対にです」

 東藤は、絶対に、と強く強調した。

「でも、そのありえないことが起きている」

 東藤は言葉を奪っていった俺を真顔で見つめる。

「そうです。ありえないことが起きているんです。このリストの各グループの男性間でDNA多型が一致していることがわかったんです。しかも、それが何十グループも、です。この結果はそもそも現在の科学捜査の基礎となっているDNA鑑定の信頼性そのものを土台から崩すものです」

「藪をつついて蛇がでたわけだ」

 報道もされていないようだが、これは確かにおいそれと報道できるものではないだろう。こんなこと一般に知れ渡ったら、何件もの裁判がやり直しになり、進行中の捜査も停止するだろう。パニックになることは必至だ。

「他人事みたいに言ってるわけには行きませんよ」

 俺は頷いた。もう、なんとなくわかっていた。

「俺も一緒だったんですね」

「そうです」

「DNA鑑定の結果、あなたのDNA多型において、一連の強姦事件に残された生体試料との一致が見られました」


✽                  ✽                 ✽


 そもそも、俺は自分のDNA情報なんてどこぞの誰かに提供した覚えはなかった。いったい、いつの間に採られていたのやら。

 心あたりがあるとすれば前回菊亜に勧められて検査に行った病院だろうか。だが、なんとなく他にも心当たりがあるような気がして、確定するのは避けた。

 一体どこで採られたのやら。

いまはいつどこで自分のDNA情報が掠めとられていてもおかしくない。

これもある意味では情報流出か。

なんて、ぼんやりと変な評論家風情の一般論が思いついた。

 東藤はある程度説明が済むと、別の捜査官から呼ばれて、取調室から席を外していた。

俺は残された取調室で考えていた。

 頻発する婦女暴行、もとい強姦事件。

残された200人以上の被害者に残された精液の一致。

DNAの一致。

そして、それは俺のDNAとも一致するという。

 俺は改めて東藤が残して言ったモニターのリストを見た。

このリストは容疑者のリストというわけか。

俺はこの容疑者たちとDNA的には同じ存在ということらしい。

だから、俺も容疑者の一人。

もちろん、この中に、兄弟もましてや双子の兄とか弟がいるはずもなかった。

東藤によれば、嘘や間違いの可能性は何度か検証されたが考えにくいということだった。そして、このリストの容疑者は一部では俺のように否認している者もいるが、大半は200件のうちのどれかのケースの犯行を認めているのだという。

だとすれば、やはり暴行を実際に犯したやつの精液が被害者の体内にあるということになる。

 俺はため息を着いた。

混乱してきた。

このなかに真犯人がいる? あるいは、全員が? それとも、俺と同じように皆、ただDNAが一致したというだけでいわれなき疑いを受けているのだろうか。

 取調室のすぐ外で、東藤たちが話す声が漏れ聞こえてきた。声を聴く限り、東藤とそれから菊池、そしてもう一人若い捜査官が話しているようだった。容疑者が聴こえるくらい近くで話すなんて不用心だなと他人事に思ったが、内容を聞いている限り、警察の方も混乱しているらしい。

――東藤くん、これ以上の拘留は無理そうです。

――そうですか。証言も他に物証もありませんし、無理もありませんね。

――そんな! DNAでは一致しているんですよ。そもそも、強姦の捜査は目撃がないかぎり、鑑定を行うくらいでしか、立証できないじゃないですか。

――そうは言っても、その鑑定そのものの立証能力が崩れようとしているんですよ。

――また、釈放ですか。これで20件を越えましたよ。

――仕方ありません。これでは検察も起訴までもっていけないでしょう。

 東藤が部屋に戻ってきた。言い争いにすこし疲弊したのか暗い顔をしていた。

 しかし、無理に微笑んで、

「おめでとうございます。八島さん、きょうでとりあえずのところは我々として取り調べは完了したと見なします。本日でご自宅にお戻りください。ご協力ありがとうございました」

 さんざん、脅されたりなだめすかされたり、MRIを取られたりなんだりしたが、それもこれも協力というわけだったらしい。

「さっき、外で話してるの、聴こえてましたよ」

 俺は最後に東藤にどうしてもいっぱいくわせてやりたくて、言った。

「え、ああ、しまった。不用人だったなあ、もう、失敗した」

 東藤は予想以上に慌てて、それから額に手を押さえて言った。

 それが思った以上に可愛らしくて、俺は苦笑いをした。

全く出られると思うと、これだもん、俺も現金なやつだね。

東藤は自分の失敗を誤魔化すようにスーツのポケットから煙草を取りだして咥えた。

調書係の係官がゴホンとわざとらしく咳払いをする。禁煙らしい。

しかし、東藤は気にせず火を点けた。

「最近、この案件で仕事が本当に忙しいんですよ。調べなくちゃいけないことも、膨大にあるし、あいかわらず上司は嫌味だし」

 俺は東藤を労わるように微笑んだ。

「一本貰えますか」

「あら、あなたも吸うのね。どうぞ」

 俺は差し出された箱から一本抜き出す。東藤が近寄って火を点けてくれる。

「あーもう、疲れた! 疲れた! やだやだ! やだやだ! 辞めたいー!」

ほんとうに疲れてるんだなあ……。

俺はしみじみ思った。

調書係の男は苦笑いをした。

 東藤は気を取り直して、俺のほうへ向き直り、

「ほんとうに、すみませんでした。ご迷惑も失礼なこともあったでしょうけど、これも私たちの仕事ということで勘弁してください」

 と、頭を下げた。

 俺はまさか頭まで下げられるとは思ってなかったので、驚いて恐縮してしまった。

そして、東藤は俺の両肩を掴んで、撫でた。そこは、暴漢に襲われて殴られたところだった。

「ごめんなさいね。痛かったですよね」

 俺は東藤言葉の意味がわからず困惑した。

東藤は最後にニッコリとわざとらしく笑って、俺を送りだした。

「あ、でも、別に八島さんに対する捜査が終わったわけでもないので、くれぐれも悪いことはしないでくださいね」

 結局、警察を出るまでに、挨拶をしてくれたのは東藤だけだった。


✽                 ✽                  ✽


警察署を出て、俺はアパートに戻るまでに菊亜に連絡を入れ、通りがかりのファミレスで夕飯を食べた。それから、バイト先に電話を入れて無断欠勤を謝罪した。どう説明しようか、と困っていたら、マスターから連絡がいっていたみたいでお咎めはなかった。それどころか店長はむしろ心配していてくれたみたいで、しばらく休んで良いと言ってくれた。俺はその言葉に甘えて、今週だけ、休みをもらうことにした。

 俺はアパートに辿りつき、いつものようにベッドに倒れ込んだ。長い間触れてなかったベッドの感触に涙が出そうになった。

 ああ、帰ってきたよう。

警察なんてもうやだよう。

 こうして、警察の俺への取り調べは終わった。



  13.

 翌日、俺は朝から風呂に入り、外のファミレスで食事を済ませ、昼頃になると病院に向かった。

病院の駐車場を抜けて、正面の玄関に向かうと、菊亜が待っていた。

「よう」

 と声をかけてくるので、こちらも、よう、と返す。

「結局、拘留期限ギリギリまで引っ張られたな」

 警察は被疑者に対して、例外もあるが、逮捕日数も含めて二十三日までしか拘留できないことになっている。俺は結局三週間以上拘留されていたので、事実上警察の方としては時間切れだったのだろう。俺はこれらのことを菊亜が寄越してくれた弁護士から聞いていた。

「それで、春希は?」

「だいぶ、良くなったみたいだ」

 俺はあらかじめ、きのうの電話で、菊亜から春希の様子を聞いていた。

 春希は俺が逮捕されたのと殆ど同じくらいのタイミングで病院に運ばれた。春希は料理をしないので、包丁は持っていなかった。だから、アパートにあった鋏で自分の左手首を抉ったらしい。刃先はかなり深く到達したらしく、かなりの量の失血だったらしい。だが、幸いにも動脈には至らなかったらしく、死の淵をさまようような危篤状態は免れていた。意識が覚醒するまでもそんなに時間はかからなかったらしい。

「警察には行ったのか」

「いや、本人がまだだって言うから。早い方が良いのかもしれんが」

 俺は頷いた。そこは春希の気持ちを尊重すべきだろう。

菊亜の話を訊く限り無理に事件の話をすることは避けているらしい。

 俺は東藤が春希の身に起きたことを把握していると言っていたことを思い出したDNAの一致する強姦事件。春希のケースもそうなのだろうか。それとも、全く関係ないふつうの強姦事件なんだろうか。俺はなんとなく前者なんじゃないかという気がしていた。東藤の話によれば、春希のケースは、本人の意思如何に関わりなく捜査自体は進んでいるようだった。

そういえば、菊亜や春希自身が警察にまだ相談していないというのであれば、東藤たち警察は春希が襲われたことをどうやって知ったのだろう。

 俺は菊亜の表情を伺った。

もしかしたら、さっき菊亜はまだ警察に相談してないと言っていたが、本当はこっそりと一人で行ったのかもしれない。そもそも春希が襲われたということを知っている人間はほとんどおらず、こいつくらいのものなのだから。

俺は春希を襲った犯人について考えてみる。

もちろん俺の知っている限りの話ではあるのだが、春希が大学で仲の良い男というのは、俺と菊亜以外には特にいなかったような気がする。春希は誰にでも話しかけてすぐに仲良くなってしまうようなやつだったが、なぜか男友達は作っていないようだったし、そういう場にもあまり踏み入っていなかったように思う。もっとも、春希はあれでなかなか見た目は悪くない奴だから、本人のあずかり知らない所で結構人気があるという話は聞いたことがある。じつは俺も菊亜以外に何人かの男に春希に彼氏がいないかと相談されたこともあった。だとすると、大学で顔見知りくらいになった男がしつこく春希に付き纏って、無理矢理……ということもなくはないのだろうか。やはり、春希とは面識のある人物が犯人なのか。いや、もしそうなら、こんなことになる前に俺や菊亜に相談があってもおかしくない。だとすると、やはり、春希と面識のある人物ではないのか。しかし、だとしたら、考えようがない。春希は仕送りを貰ってるからバイトはしていない。だから、その線もなさそうだ……。

 俺は考えに行き詰ると視線を上げた。気づくとすでに病室の前までたどり着いたようだった。

「今は寝てるのか」

 俺は尋ねた。

「いや、起きてると思う。昼頃にお前と行くって伝えといたから」

 菊亜はそう言って、病室の扉を開けようとすると、菊亜が触れるよりはやく扉が開いた。中から、中年を少し過ぎたくらいの女性が現れた。女性は俺たちに気づくと軽く会釈した。俺たちも会釈した。

春希の母親だった。

「ご無沙汰してます」

「まあ、透君、久しぶりねえ。って、夏休みに帰ってきたときにあってるからそうでもないか」

「そうですね。いつも、祖父母がお世話になっております」

 春希の母親は、母が死んでから、近所に住む俺と祖父母とよく付き合ってくれた。俺の祖父母もここまで俺を育てて面倒を見てくれたが、さすがにそろそろ高齢になってきて、いろいろなことに不具合が出るようになってきた。春希の家は俺たちの地元ではちょっとしたまとめ役のようなところがあったが、これも近所づきあいなのか、そうしたまとめ役としての所以なのか、とにかく春希の家はうちにいつもよくしてくれていて、俺は毎度頭が上がらないのである。

「いえいえ、透君はしっかりやってるから」

 俺はいつも元気のいいおばさんが、珍しくどこか他人行儀でよそよそしいことに気づく。

だが、俺はそれもそうか、と思いなおす。

田舎を出て、一人暮らしをさせていた一人娘が、自らの手で、その手首に鋏を突き立てのだ。それも、無理矢理、暴行を受けて手籠めをかけられた疑いがあるのだ。動揺せずにいられるわけがない。俺はおばさんになんと声をかけたら良いのか、言葉に窮した。

「おばさん、なんか俺にできることありますか」

 結局そう言うことくらいしかできなかった。

 しかし、おばさんは無理に笑って、

「大丈夫。病院の手続きとか、いろいろと細かいことは菊亜くんがやってくれているから。ほんと、菊亜くんがいなければ、私たちもパニックで大変だったわ」

 おばさんは最後に茶化すように言った。

もちろん、俺たちを暗くさせないためだろう。

そんなところは春希といっしょだな、と俺は思った。

 菊亜はおばさんと目を合わせずに言った。

「他に何かあったら言ってください。俺でできることがあったら、何でもしますから」

 そんな菊亜の言葉におばさんは、

「うふふ、ありがとう。それじゃあ、私はちょっと主人と話してくるから、そのあいだ春希を見といてね。そうそう、それと純ちゃんが先に来てるわよ」

 俺はその言葉を聞いてすこし意外な気がしたが、飲み会で楽しげに話す二人を思い出した。

そうして、片手にスマートフォンを持って、去ろうとするおばさんだったが、最後に立ち止まって振り返った。

「透くん、春希の傍にいてあげてね。そうしてくれると春希も助かると思うの」

 俺はおばさんに訊いた。

「おじさんは?」

「仕事よ」

 おばさんはスマートフォンを持ち上げ、苦笑いしながら言った。


✽                  ✽                 ✽


 病室に入ると、春希はすぐに気がついて、透! と、笑顔で俺の名前を呼んだ。

 俺はその笑顔に安堵した。正直に言うと、俺はもっと俯いたり、春希が大きく変わってしまっているんじゃないかと内心ひやひやしていた。だが、少なくとも表情を見る限り、これまでと変わらず、あいかわらずの春希だった。

 もちろん、無理してるんだろうけど。

「もお、どうしてもっと早く来てくれなかったの! ああ、所詮あなたとわたしの付き合いなどその程度なのですネ!」

春希は大げさに、傍らでイスに座る純にしなだれかかった。

「ソウデス。私とあなたはその程度ナノデス。だから、早く退院しないと、あなたの分の授業のレジュメも捨ててしまうノデス」

 俺は、お道化る春希に応じる。実際のところは俺も授業に出ることはできていないので、レジュメはない。

「いいもん。菊亜にレポート書いてもらうもん」

 ねー、と菊亜に相槌を求めた。

「まあ、今回は仕方ないかな」

 と、菊亜は笑った。

「それは、停学ものデス」

「何よ、自分だって、何回かやってもらったことあるくせに」

「余計なお世話デス」

 菊亜は黙って座っていた純に話しかけた。

「小川さん、お昼ご飯はもう食べた?」

「いえ、まだです」

「透もまだだよな。なんか買ってこようか」

「あ、あたしも!」

「お前は病院食があるだろう」

 俺は言った。

「おいしくないんだもん」

「はいはい、わかった。春希の分も買ってくるよ」

「わーい、やったあ」

 菊亜はそう言って、病室から出ていこうとする。出ていきざまに、春希は菊亜に、

「あ、あたし二人とちょっと中庭に行ってるかも」

 と言った。

「え、外に出ていいのかよ」

「いいのです。むしろ、お医者さんに外の空気をいっぱい吸えって言われているのです」

 春希はなぜか勝ち誇るように胸を反らせた。

「ふーん」

「わかった。風邪ひかないようにしろよ」

 菊亜はそう言って出て行った。菊亜が部屋から出ていくのを見届けると俺は言った。

「さっき、おばさんと会ったよ」

「ああ、うん、来てくれてんの。やっぱり、入院は暇だからさあ。DVDとか持ってきてもらった」

「また、変な映画だろ」

 純がほうと興味深そうに言った。そういえば、純は大の映画ファンだった。シネフィルというやつか。

「変じゃないよ! むかし、透に教えてもらったやつとかさ。なんか、久々に見ようと思って」

「透くんが教えた映画、ね」

 純はあごに手をかけて、ふむと言った。

あ、やばい、品定めされそう。俺、しょうもないタイトル教えてないかな。

「いや、ちっちゃいころに教えてもらったやつだから、映画っていうか……」

 春希はそう言いながら、ベッドの隣の棚に手を伸ばす。

 何を教えたっけかな、と俺は春希を見ながら幼い記憶を探って思い出そうとするがその追憶はすぐに中断された。

 春希が手を伸ばすと、病院のガウンから、丁度丸っこくてどす黒い傷口が見えた。俺はそれに気づき、僅かのあいだだが、凝視してしまった。俺は慌てて目をそらしたが、それがかえって傷に対して見てはいけないものという感を際立たせてしまった。春希もそんな俺に気づき、あ、とすぐに左手をベッドの下に隠した。

 気まずい沈黙が病室に流れた。

俺はしまったと思った。

 春希は沈黙に耐えかねて、無理に微笑むと、

「痛そうでしょ」

 と言った。

「うん。痛そうだな」

「血もいっぱいでたよ」

「そうか」

 俺はなにか話を戻すための軽口を探したが、俺が見つけるよりも早く春希が口を開いた。

「大丈夫。何があったかちゃんと話すよ。透が来たら話そうって決めてたの」

「別に無理しなくても」

「ううん、聞いてほしいの」

 春希は左手をベッドから出して、その手で俺の袖を掴んだ。

「中庭に行きましょうか」

 純が春希をベッドから起こそうと立ち上がった。


✽                  ✽                 ✽


「もう、秋だねえ!」

 春希は大きく、伸びをして、息を大きく吸うと言った。

 病院の中庭では、植樹されたイチョウの木が黄色い葉を見せていた。九月までの夏休みが終わって一ヶ月近く立ち残暑はすっかり消え去り、ほんの少し冷たい風が吹いていた。

 中庭に据えられたため池の近くで、病院のガウンを着た少女二人が細長いラケットを持って遊んでいた。春希と同じでここの入院患者なのだろうかと俺は思った。春希はそんな二人を見て、

「いいなあ。バトミントンだ。私も退院したらしたいなあ」

 と言った。

俺はどうしてもさっき見た純の左腕のどす黒い傷口が頭から離れなかった。

俺は暗い表情をしていたのかもしれない。振り返って春希は俺を見て、笑った。

「大丈夫だよ。もう絶対こんなことはしない。今日、透の顔を見てさっき自分に誓ったよ」

 春希はまた、バトミントンをしてる二人の方を向いて、こちらを見ずに言った。

「ねえ、透がうちの隣に引っ越してきたときの頃のこと覚えてる?」

 春希は振り返らずそのまま、唐突に言った。

 俺と母親はもともと、いまの祖父母のところに越してくるまで違う土地に住んでいた。引っ越したのは俺が小学校に入る少しくらい前だった。

「透のお母さんが亡くなるまで、正直そんなにあたしたち仲良くなかったよね。私、あんまり身体強くなかったから、友達とも遊ばなかったし。私、なんとなく暗かったよね」

 そうだったっけかな、と俺は記憶を探る。引っ越してすぐの頃からなんとなく春希とは一緒にいたような気がしたが、思い返してみれば確かに小学校高学年くらいになるまで、春希は喘息でよく学校を休んでいた。中学に上がってからの春希の印象とまるで違っている。すっかり忘れていた。

そういえば、確かに春希はそんなに明るい奴じゃなかったな。

「一回、透と透のお母さんがバトミントンしてるときに私、一緒にいたよね。あれ、楽しかったなあ」

「よく覚えてるな」

 俺は幼年時代の春希をいまの春希の表情から読み取ろうとする。

「みんなが公園で遊んでいるなかで、ずっと座ってて、私が良いなあ、良いなあって思ってたら、透のお母さんが声かけてくれてさ。一緒にやらないかって誘ってくれたんだけど、私ができないって言ったら、透が『じゃあ、俺のライダー合掌捻りを見ておけ』ってラケットで変な打ち方してたでしょ」

「そんな変なことしてたっけ……」

ライダー合掌捻りってなんだろう……。

あ、思い出した。朝やってた『仮面力士マッスル』のやつだ。俺も子どもながらに変なヒーロー番組見てたんだなあ。俺は幼い自分にすこし困惑した。

純は春希の話を遮らないようにこっそり笑った。

「でも、楽しかったなあ。覚えてない? 私たちが話したのって、それが最初なんだよ。それから、お母さんが、透たちが隣に引っ越して来たのを教えてくれて。しばらくして、透がまた何回かうちまで遊びに誘ってくれたんだけど、あたしがあんまり外に出られないって言ったら、その変な特撮のDVDをたまに貸しに来てくれたんだよね」

 もしかしたら、春希の変なタイトルの映画を観る趣味はそのときの俺のせいなのだろうか。そんなところに昔の春希が残っていた事実に俺はなんだかくすぐったいような気がした。

「それから、まあ私も身体のほうはすこしづつ丈夫になっていったんだけどさ。でも、まあちょっぴり引っ込み思案なのは相変わらずで。そしたら、透のお母さんが亡くなって、透も家から出てこなくなって」

 俺は頷いた。それはよく覚えていた。もしかしたら、そのとき春希が変なタイトルの映画ばっかり持ってきてくれたのは必至で俺が好きそうなやつを選んできてくれたからなのかもしれない。

「私、透と一緒に映画見てて思った。もっと明るくなろうって。身体が丈夫になってきてたのものあるけど、お母さんが死んで元気失くしてた透を見て、私まで暗いままじゃダメだなって思った。なんていうか、私には透がいるけど、私も、透には私がいるってくらいにならなきゃダメだなって思ったの」

 そうか、それからなのか。春希が明るく振る舞うようになったのは。

俺の中でいまここにいる春希とその頃の春希が直線で繋がる。

俺と春希が出会って、今日まで俺たちには何もなかった。そう、別に変なことは何もなかった。でも、いつもずっと二人で軽口を言い合っていた。そのことがとても特別で、俺のなかで支えになっていた。やっぱりそういうものらしい。

「よく憶えてるな」

 俺は同じことをもう一度言って、後ろから春希の頭を軽く叩いて置いた。春希は、まあね、と笑って、俺のほうを振り向いた。

 きっとその何気なく軽口を言い合える関係というのは、春希にとっても悪くないものだったのだろう。俺はすこし主観が入っていることを認めながらもそう考えた。

「いまは菊亜もいるしな」

「純さんもいるしね」

 春希は純に笑いかけた。

「ありがとう」

 純は笑って礼を言った。

しかし、それはどこかぎこちなく、切なそうで、寂しそうで、距離を感じさせた。

純はほんの少し俺たちから距離を取り、木陰のほうに近づいた。

「みんないるよ」

春希はそんな純に近づいて手を取った。

そして、小声で、ねー、と呟くように相槌を求めた。

純はそれでも表情を変えることができなかった。

春希はそれに困ったような表情で応じると、純の手を離してバトミントンをやっている二人の方へ向き直った。

「あの日、三人はさきにお店から《TACTIQUE》に向かったよね」

 春希は俯いて、拳をぎゅっと握った。

 あの日とは、恐らく純と菊亜、それから春希と俺の四人で初めて食事にいった日のことだろう。あの日は確か、春希は見たいテレビがあると言って、いったんアパートに戻っていた。

「私、テレビが終わって、安秀に連絡を入れてから、お店に向かったの。襲ってきたのはぜんぜん知らない人だった。おじさんとかじゃなくて、たぶん若い人だったと思う。後ろから掴まれて、車の中にいきなり押し込まれたの。声を出そうと思ったけど、口を塞がれて。それから、暴れてるうちにスマートフォンを取られて、注射を打たれたの。そしたら気持ちよくなって力が入んなくなっちゃった。複数人じゃなかったと思う。一人だった。車の扉を閉められて、それからエンジンがかかって、ぼーとしちゃって。気を失いそうになるんだけど、怖いなって、ずっと思って、それで気を失えなかった。薬のせいかわかんないけど、ずっと涙が止まんないし、鼻水もズルズル垂れっぱなしだった。帰ってからわかったけど、おしっこも漏らしてた。

それで、しばらくしたら、どこかの駐車場で止められて、頭に袋を被せられた。それでまた車で走って、なんとなくだけど、あまり遠くじゃなったと思う、抱きかかえられたまま真っ暗な部屋に連れて行かれた。たぶん、エレベータに乗せられたからどこかのビルの中だったと思う。でも、部屋のなかは何もなかったから、廃ビルか何かなのかな。そのまま床に押し付けられて、袋を被せられたまま、服を脱がされた。

シャツとスカートを取られると、ブラとショーツも取られた。

アソコを舐められた。

しばらく、ずーっと、ずーっとアソコを舐められた。

それから、無理矢理口を開けさせられてキスされた。

正直もう、私、気持ちいいのか、怖いのか、恥ずかしいのかよくわかんなかった。

あぁ、あぁ、あぁん、って声も出た。そしたら、そいつ嬉しそうにして、入れてきた。

私、もっと声が出た。あぁ、あぁ、あぁんって、気持ち良いって言っちゃった気がする。

それを聞いてそいつ喜んで、胸を揉んできた。なんべんもなんべんも揉んできて、私、それでもっと気持ち良くなって声出しちゃった。

あぁ、あぁ、あぁん、気持ち良いよぉって。それで、またそいつ動いた。

よくわかんないけど、そいつ入れてるあいだずっと私の首に手をかけてた。強くじゃないよ。弱く、軽く置くくらいの感じで。でも、それがいつ締まるかわかんなかった。

そいつ、笑いながらずっとなんか言ってた。私、それどころじゃなくてなんて言ってたか聞き取れなかったけど。何回も何回も同じ言葉を繰り返してた」

 俺の頭の中に興奮で一杯のそいつの声が聞こえてくるようだった。

 考えると俺は身体が反応して、冷静でいられなくなるのを感じた。

この感覚は……。

「やられてる最中、確かに怖かったよ。首絞められていつ殺されるかわかんなかった。でも、そいつが入れたり出したりしてる間に、なんか変な感じになってきちゃった。私、すこし変なのかもしれない。それで、そいつの動きが激しくなってきて、あ、って思ったら、出る、出る、出る、ってなって、出たの。そしたらね、頭の中に変な感じのイメージが浮かんだの。ジャングルにいるみたいで、そこから海岸が見えるの。それで、ときどき、バババン、とか、ドーンって音が聴こえるの」

 俺は春希が最後になんていうかわかるような気がした。

汗が止まらない。

春希は振り返らない。

背中を見せたまま、言う。

俺は春希の向こうで打ち返されるバトミントンのシャフトを観ていた。

なぜか目が離せなかった。

シャフトは規則正しく宙を舞い横断していた。

「なんか、戦ってるみたい。まるで、今この部屋は戦場みたいだなって思ったの」

 シャフトが落ちた。

バトミントンをしてる女の子の片割れが落ちたシャフトの近くに笑いながらかけよる。

何がおかしいのか、大笑いだった。

笑い声が俺たちの間で深く響いた。

 やがて、純が春希の手を取った。

「もう、十分よ」

 春希はいっきに話をして、息を切らせていた。

 だが、息を切らせていたのは、春希だけではなかった。俺も純も息を切らせて、汗をかいていた。純は俺に顔を見せないようにしていた。だが、俺は自分のなかで再び立ちがってきたあの例の感覚に囚われて、何も言えなかった。

「ごめん」

 春希が謝った。

「なんで、お前が謝るんだよ」

 俺はようやく、息を整えて、やっと声を振り絞った。

「私、襲われてるあいだ怖かった。いきなり変な男にわけわかんないところ連れて行かれて、変なことされて、でも、もっと怖かったのは、その時の自分なの。怖くて、怖くて止めてほしかったけど、でも実はどこかで気持ち良くなっちゃって、受け入れている自分がいたの。終わったあとも、思い出すとその感覚がなんなのかわかんなくて、その怖いような気持ちいいような、でもそう感じてる自分がまた怖いようでべつに何かあるようで、わけかんなくなるの。ううん、やっぱり、私、気持ち良かったの。私どこかで男と繋がってるとき楽しかった。そう思うと、なんか今度は自分が嫌になって、気持ち悪くなって、なんか私って変なんだなって汚いなって思った。それで、私の外側とか内側にあるその気持ち良さを早くどこかにやりたいなって思って、それで痛くなろうと思ったの。でも、鋏で切ってるうちになんかまた気持ち良くなってきちゃって。だから、また痛くしようとして……」

 俺はもう聞いていられなくなった。

俺は春希を後ろから抱きしめようと思った。

だが、感覚とそれに対抗しようとする何かが拮抗して俺を待たせた。

その何かとは役に立たない理性だった。春希を抱きしめたいという気持ちが春希を励ますという気持ち以上の何かになりそうで、俺を怯えさせてかろうじて制止させていた。

動かないようにするのが精いっぱいだった。

俺は興奮していた。

俺はついに両手を春希の背中に伸ばそうとした。

「おい!」

 男の声が聴こえた。

 振り返ると、菊亜だった。

「どうしたんだよ……。飯でも食おう」

 なんとなく、場の異変に気づいた菊亜は誤魔化すように、買い物袋を高く持ち上げた。

 春希は菊亜に駆け寄って、菊亜の胸に顔を埋めると、泣きだした。菊亜は袋を地面に置くと、両手で春希の背中を軽く撫でた。俺はようやく、汗が止まると、ふーっと大きく息を吐いた。気づくと純が菊亜と同じように後ろから背中を撫でてくれていた。だが、純も顔を真っ赤にして汗をかいているようだった。俺たちは黙って、病室に戻った。


✽                   ✽                ✽


病室に戻ると、もうすでに二時を過ぎていた。おばさんも病室に戻っていたが、用事があると言ってまたすぐに病室から去った。俺たちに気を遣ってくれたのは明らかだった。俺はなんだか逆転したような気遣いに申し訳なく思ったが、おばさんは気にしていないようで安心した。菊亜はわざわざうまいものを買って来ようと車で買い物に行ってくれていたみたいだった。俺たちはそれから菊亜が買ってきたものを食べた。純は電話がかかってきたと言って、また中庭に戻っていった。春希はそのまま、菊亜がベッドに運んでからすぐずっと寝てしまっていた。もうすっかり冷めてしまった病院の食事は看護師さんに頼んで下げずに置いといてもらうように頼んだ。

「ほんと、よく寝てる。こうして見てたら、ほんと何もなかったみたいだよな」

 菊亜は微笑んで、春希のベッドに手をかけて、優しく撫でた。春希は寝息を立ててまったく目覚める気配がなかった。

「きょうみたいなことはこれまでもあったのか」

 俺は菊亜に訊いた。

「さっきみたいに泣きだしたりか? いや、きょうが始めてだ」

「そうか。俺、きょう来てよかったのかな」

「なに言ってるんだよ。春希はさっきみたいに泣くべきだよ。辛いことがあったんだから当たり前だ。それで少しずつ元気になればいい」

 菊亜はまた春希を撫でた。

「お前がきょうやっと来るって聞いて春希、昨日から喜んでたんだぞ」

 菊亜は俺を励ましてくれた。俺はそんな菊亜に、

「お前はすごいよなあ」

 と、ふとそう漏らしていた。

「べつにすごくないよ」

おばさんはことが起こったあと菊亜がいろいろと手筈を整えてくれたと言っていた。そういえば、警察にいるあいだに手続きをしてくれた弁護士も菊亜が用意してくれたのだった。菊亜は父親の会社の法務部の人に相談して紹介してもらっただけと言っていたが、そうとはいえ、やはりいろいろと地味な面倒事はすべて菊亜が手をつけてくれたのだろう。菊亜は多くは言わないが、俺が気づこうが気づくまいがいつもこんな風に裏で助けていてくれているのだ。

「最初に面会に来てくれたとき悪かったな」

 俺は面会のとき少し冷静さを欠いたことを謝った。あのとき、俺は急に自分が犯罪者、それも強姦事件の犯罪者扱いされて動揺していた。しかし、菊亜だって同じくらい動揺していたのは間違いない。俺は面会室で震えていた菊亜を思い出す。しかし、菊亜はそれでも俺たちに対して自分ができることを精いっぱいしてくれたし、今もしてくれている。彼女が男に暴行されて、死のうとして、しかも友人はまさにその暴行で捕まろうとしているなんて。よほどしっかりしてなければいけなかっただろう。

「お前の方がよっぽどすごいよ」

 菊亜は言った。そして、

「春希、話したか」

 と続けた。

「うん。事件のことを……少しな」

 俺は言った。

「そうか。恋人は俺なんだがなあ」

 菊亜はいつものように困ったように、しかし幾分か自嘲気味に言った。

「なあ、透」

 菊亜は言った。

「なんで、お前は俺と付き合ってくれてるんだ」

 俺は突然の菊亜の問いかけに真意を掴み損ねた。

なんで、ってそりゃ友達だからな、とは、おかげで俺は言いそびれた。

「俺さ。ほんとは春希、お前のことが好きだったんじゃないかって思う」

「おいおい、何言ってんだよ。弱気になるなよ」

「いや、真面目な話だよ。春ごろに俺たちで旅行にいったろ」

 俺は頷いた。あまり遠出ではなかったが、俺たちは近くの観光地に一泊旅館に泊まって温泉に入った。そういえば、菊亜が春希に告白したというのは、その旅行から帰ってきてすこししてからだった。

「旅館で、春希、お前の話ばっかりするんだもん。中学でこうだったとか、高校でこうだったとかさ。でも、そんときの春希ほんとに嬉しそうで、なんか羨ましかったよ」

 菊亜が告白する前の晩、菊亜と俺は二人で酒に酔って暴れた。

――なんで、俺が告白するんだよ、ふつーおまえがすんだろーが。

「お前さ、一年の終わりごろに俺に話しかけてきてくれたろ。でも、実は俺、お前のこと入学してからずっと気になってた。実験もレポートも全然できないくせに、なぜか人の手伝いを買ってでるし」

「それは、なんというか、むしろすこし迷惑なやつなのでは……」

 というか、無茶苦茶迷惑な気がする。

「まあ、もしかしたら、そうかもしれないけど、お前の周りには、なんというか俺とは違って、自然な人が集まった。俺の周りだって何人か集まったけど、みんな無理してどこか不自然な連中が多かった。そんで、俺らが二年の頃春希が入学してきて、ほんとお前ら仲良くてずっと二人で喋ってて、まあ確かに恋人同士っていうか、兄妹で漫才してるみたいだったけどな」

 菊亜は最後に少しだけ笑った。その笑いはいつもの困ったような笑いではなく、ほんとうに心底可笑しいとでもいうような笑いだった。

「ほんと、お前ら可笑しかったよ。でも、ほんと兄妹みたいだったなあ。だから、お前がちゃんと春希を紹介してくれたとき嬉しかったよ。なんか、二人の間に入れてくれたみたいでさ」

「二人の間とか、そんなのないよ」

「そうなんだろうな。でも、俺もお前らの兄っていうか弟っていうかどっちかわかんねえけど、そんな感じになれた気がして嬉しかった。でもさ」

 菊亜は続ける。

「ほんと、なんで俺にそんな良くしてくれるんだ」

 菊亜は俺が思っていた以上に追い目を感じているのだろうか。

 何に?

生まれた頃から大企業の息子で、それがゆえに人が集まってきて、それがゆえにそいつらが自分のなかに自分以外の何かを見出して、持ち上げてゆくことに。

そんななかで、菊亜は、自分は他人が思うほど、立派な人間じゃないと、大した人間じゃないという気持ちを育ててきたのだろうか。

それは謙遜とは違い菊亜のなかでは、もっと後ろ暗いなにかなのだろうか。

他人が菊亜を認めれば認めるほど、菊亜は菊亜自身から分離していって、自分を認められなくなって、蔑んでいっていたのかもしれない。

周りも自分も。

 俺は正直に答えようと思った。

俺は自分の中の言葉を探した。

 俺が菊亜に話しかけたのは、放っておけなかったから。

いや、違う。

菊亜の周りには人がたくさんいた。

だけどそれは菊亜が言うように、菊亜を見ていなかった。

俺はそのことに気がついていた。

だから、哀れだった。

いや、それも違う。

俺が菊亜に声をかけたのは、俺が菊亜を放っておけなかったのは、哀れだったというよりも、むしろ、どちらかというと……。

後ろめたかったからだ。

俺は自分のなかで掘り当てた言葉を反芻して困惑した。

なぜこんな言葉が出てきたんだろう。

俺は菊亜に対してなにか後ろめたさを感じていた。だから、放っておけなかった。

でも……。

なぜ? 

俺は結局菊亜の問いに答えられなかった。

「そうか。まあ、答えられないこともあるよな」

 何も答えなかった俺に菊亜はそう言った。

まるで、俺が答えなかったことも答えであるとでも言うように。

菊亜は俺の沈黙をどう解釈したのだろうか。

「それで、春希のことなんだけどさ……。犯人を捕まえるのに協力してくれないか」

「捕まえて、どうするんだ?」

「わからない。でも、どんなやつかこの目で確かめてみたいんだ」

 俺は春希を襲った奴が、俺を警察に拘束させる原因になった暴行事件と極めて近いところにいることに気がついていた。それははっきり言って直観としか言いようがない勘だったが、俺は何か全てそれらがそこに行きつくことになるのではないかと感じ取っていた。

 春希を襲った奴を捕まえるのは確かに何らかの事実を明らかに事態を打開するかもしれない。それはなによりも俺の潔白の証明になるかもしれない。そして、なによりも例のあの感覚が何なのか知ることに近づくだろう。これもまた勘に過ぎないが、俺としても何かの説明が欲しかった。それはなんだかんだでおかしくなり始めている俺の日常の変化の理由だ。

だが、一方で俺は怖いような気もしていた。取り調べのなか俺は自分が犯人であるような気にさせられた。だがそれは警察が自白を迫って、俺をそのように導いたという事実以上の何かがあるような気がしていた。

俺は目を閉じて自問する。

俺は怖い。

何かが変化している。

だが、それはなんだ。

俺の周囲。俺の日常。

そうだ。

そして、俺自身が何か内側から物理的に変化してきている。

俺はあの感覚が自分の皮膚の下ですぐ湧き上がるのを待って、いつでも現れそうなことが怖い。

そうだ。俺は認める。

俺はさっき春希の話を聴き、春希を襲いそうになっていたのだ。

何か恐ろしい感覚が、何か恐ろしいものが俺の身のうちに宿っている。

天井から首下でぶら下がり、股の下から流れる血。

生まれることのなかった母の子ども。

 宿ることのなかった子ども。

 俺はそれと向き合わなくてはならないのだろうか。

「なあ、旅館でさ、お前がどっかいってるあいだ、春希話してくれたよ。春希、高校も大学もお前がいるから決めたって。真面目な理由には聞こえないかもしれないけど、自分にはすごく大事なことなんだって」

 俺は春希の寝顔を見つめた。

 ――私には透がいるけど、透には私がいるってくらいじゃなきゃだめだなって思った。

 俺はさっきの春希の言葉を反芻した。

「そんなのこっちのセリフだよ」

 俺は言った。

「菊亜、お前は春希の傍にいろ」

 俺は菊亜の申し出を受け入れることにした。

「いや、俺も……」

「だめだ。どっちかのうち、片方が春希の傍にいてやらなきゃだめだろ」

 俺は強く言い切る。

「春希の恋人はお前だろ」

 ダメを押すように付け加えた。

「なら、お前が傍にいてやってくれ」

 菊亜は何か言いかえそうとしたが、

「わかったよ。でも、まあバックアップくらいはするよ」

 そう言って、微笑んだ。

「頼む」

 俺は菊亜の微笑みに自分も笑顔で応じる。

 母は死んだ。

母は戦争から帰ってきて死んだ。

 結局、妊娠してたのかしてなかったのかよくわからないけど、母は何かと共に死んだ。

 それがもう一度、産まれようとしている。

 ひどく抽象的だが、俺はそんなことを思った。

 俺は自分が感じるあの感覚を、母親が感じたかもしれない胎児の鼓動と重ねてみた。



  14.

 夕方になり、そろそろ面会時間も終わりかと思って帰る準備を始めようとしたが、この病院は夜の九時まで居てもいいらしい。だが、春希はずっと病院にいてても仕方なかろう、などと言って、気をつかってくれたのか俺たちに帰るように促した。それでも、菊亜はもう少し残りたいとのことだったので、結局、純と俺の二人が先に退出することになった。

 日はもうすっかり落ちているかと思ったが、案外しぶとく沈まずに残っていて、病院を出ると俺たちは陽光にすっかり包まれてしまった。

そして、俺たちは病院から最寄りの環状線に乗った。

「きょう、あなたのアパートに行ってもいい?」

 純が揺れる車内で、ぽつりと言った。

「どうして」

「久々に外で会えたんだから、もう少し話がしたい」

 純は帰路ずっと言葉数が少なかった。

俺が純の申し出を了承すると、それっきり会話は途絶えた。

外の景色と列車の揺れる音だけが流れて行った。

 アパートに着くと、さすがにもう日は落ちていた。俺たちは先に食事を済ませようという話になって、冷蔵庫からなにか取りだそうとしたが、何もなかった。仕方がないので、近くのスーパーで白菜と豚肉を買って、適当に鍋のようなものを拵えた。

 食べ終えて、煙草を吸いながら食器を片付けると、純が後ろから両手で抱き付いてきた。

俺は春希の話を聞いて顔を真っ赤にして、それを隠すようにしていた純を思い出す。

きっと、純もあの感覚を感じたんだ。

俺は根拠もなくそう思った。俺は訊いた。

「今日の話、怖かった?」

 純は答えずに、後ろから、俺にキスをした。俺は洗い物をしていた手を洗面台から出すと、俺の口を塞ぐ純の顔を持ち上げて引き寄せた。純の生ぬるい舌が俺の歯の裏を確認するように舐めていく。そして、俺も同じように返した。はぁ、はぁ、と息が漏れる音だけが響いた。そして、またあの感覚が強くなっていった。

 俺は鼓動を感じる。


✽                ✽                   ✽


「きょう、菊亜くんと二人で話してたこと聞いちゃった」

「電話してたんじゃないの?」

「戻ったら、なんだか二人ともすっごく真剣に話してるんだもん。部屋に入れなかった」

 扉の前でずっと聞いていたらしい。

「あなたたち、ほんとに兄弟みたいね」

「そうだね。どっちが弟で、どっちが兄かわからないけど」

「ほんとうに、あなたたち三人が羨ましい」

「どうして?」

「塩基配列みたいね。AはかならずTと、GはCと繋がる」

「三人じゃ余っちゃうよ」

「三つの並びで、一つのアミノ(コドン)酸を作るのよ」

「よくわかんない喩えだね。どうせなら、四人でATGCでいいじゃないか」

「AもTもGもCもそれだけでは、何の意味もなさない。お互いに反応しあう文字があるから自分を規定できる」

「なにそれ」

「あなたが言ったのよ。あなたたちはそんな感じ。お互いがお互いにとって意味を与えあっている」

「そんなこと言ったかな」

「でも、私は違う。私はたった一人の文字(コード)。だから、誰も読み取れない。それは言葉にならないただの文字。インクの染み」

「純……」

「その名前で呼ばないで!」

「……」

「私はどこにもいない」

「……」

「私は誰なの」

「……」

「私はどこにいるの」

「……」

「私ってなんなの」

「……」

「私は戦場にいる」



  15.

 一週間が経った。俺は久々にホテルのアルバイトに出勤していた。

 シフトに入る前日には、店長に長いこと無断欠勤していたことを電話で詫びたが、店長は問題ないと言ってくれた。どうやら、マスターの方から事情説明があったようだ。

「うひー、うひー、きょうもたくさん、あっちこっちでみんなパンパン、みんなパンパンですよお、ヘッ」

 俺は隣に座る久田の言葉に反応せずにいた。

「それにしても、八島さん、一ヶ月も無断欠勤なんて、どこで何してたんですかぁ、ヘッ。もしかして、八島さんも、パンパン、パンパン、ですかあ、ヘッ」

 春希の見舞いに行って、一週間、そして、俺が警察の拘留から帰ってきて一週間、しばらくは何もおきずに時間が流れていた。俺と菊亜は犯人を捕まえるとは言ったものの、具体的には、何の方策もなく、結局またいつもの大学生活に戻っていた。

 俺はあらためて考え直してみた。

 メディアで報道される暴行事件の頻発。その中に潜むDNAが同じで、大量に一致する容疑者たち。結局事件の共通点はそこにしかなく、繋ぎようがなかった。警察が捜査に手こずっているというのも当然だ。そもそも事件の捜査というのは、物証によるところが大きい。ことに、強姦事件とあっては、容疑者が否認してしまえば、犯罪の証拠とは、被害者の体内に残された犯罪の痕で判断するしかなくなる。しかし、その犯罪の痕跡は証拠能力が損なわれている。そもそも、俺だって、そのDNA鑑定の証拠能力の低下で起訴を免れたのだろう。逆を言えば、もしそうでなかったら、まだ警察のもとにいたのだと言える。

 そうだ、もし仮になんらかの手段で犯人を捕まえたとしても、否定されればそこまでだ。俺たちは警察でも検察でもないのだから、別に起訴などどうでもいい。

しかし、ではそもそも何のために犯人を捕まえるのだろう。

――どんなやつか、確かめてみたいんだ。

菊亜はそう言った。確かに、俺も春希をぐちゃぐちゃにして、乱暴したやつがどんなやつか確かめて、ぶん殴ってやりたい。だが菊亜が言うように、それ以上に確かめたいことがあった。何を? 俺の思考はそこで止まる。俺は再び自分の中の言葉を探る。俺が拘留されることとなった、そして春希を襲った暴行の犯人、そいつを見つけ出せば、あの例の感覚の正体に近づくことができるのではないか、そんな気が俺はしているのだ。

そんな気がするか。直感が多いなあ。まあ、いいけど。俺は考えを違う項目に移す。

東藤に見せられたファイルによると容疑者として一致するDNAの型は複数のグループに分けられるのだという。もし、一致する容疑者の各グループのなかに真犯人が各一人ずついたとして、運よく春希を襲ったDNAのタイプの容疑者を捕まえてなんとかしたとしても、他のDNAの型の犯人は残る。違うDNAの型の犯罪は続くだろう。結局、事件を止めることにはつながらない。いや、そもそも、暴行自体がなくなることはない。いや、考えが意味のない方向にズレている。もう一度……。

「聞いてないんですかあ! 八島さん! ひどいですよお!」

 俺は久田に大声を出されて、仕方なく応じる。

「え、だから、休んでたのは、大学の実験にかかりきりになっちゃって」

「そうじゃないです! ヘッ。時間ですよ。掃除の時間。部屋回ってください。それと、きょうもエアコンの掃除は良いですからねッ。ねッ!」

「掃除もなにも、もう秋だから使わないじゃないですか」

「念のためです」

 何の念押しなんだ……。

なーんて、実は俺は、久田が隠れてほんとのところ何をやってるか何となくわかっていた。

いつか警察に突き出してやろう。

俺は心に誓っていた。

 俺は部屋の掃除に回った。

 ゴム手袋をはめて、行為の後の消耗品をつまんで袋に入れていった。俺は先っぽで溜っている粘性のある液体を眺めて、このDNAはどうだろうか、などと考えた。DNA鑑定なんて、素人ができることじゃないが、大学の設備を使えば……。菊亜なら出来そうだ。優秀な菊亜のことだ、この精液のDNAの塩基配列くらいすぐに特定してしまうかもしれない。俺はすこし、嫌だなと思いつつ、コンドームの開口部を縛って、ポケットに入れた。

 入れたあとに、何とも言えない気分になって、しばらく立ち止った。

 俺は何をやってるんだか。これじゃあ、変態だ。久田と変わんないな、と苦く思った。

 俺は頭を振って、テーブルを布巾で拭いた。そういえば、データディスクを手に入れたのもこの部屋だったな。あのディスクはなんだったんだろう。警察から帰ったあと、俺はアパートの引き出しにしまっておいたディスクを探したが、見つからなかった。確かに、ちゃんとしまっておいたはずなのだが、無くなっていた。警察が家宅捜索のときに持っていたのだろうか。いや、違う。家宅捜索のときに押収されたものは俺が立ち会って確認している。押収目録も貰った。返却はしばらく先だと説明されたが、その目録のなかには書かれて無かった。警察はあのディスクを正式には俺から取り上げていない。なのに、なぜなくなっている? 俺が不在の間に泥棒が? いや、あんな得体の知れないものを盗むやつはいないだろう。それに、そのディスク以外になくなっているものは特にない。だとするならば、やはり警察が非公式に押収したのかもしれない。詳しくは知らないが警察にとって、それは重大な違反だろう。しかし、そんな違反をしてまで非公式として回収したかった、その意図は何だろう。俺は考えをさらに進める。

東藤が話してくれたこと、やはりあれは警察が握っている全てではないのかもしれない。

――暴漢に襲われたときどう感じましたか。そう訊いてきた東藤を俺は思い出す。

今度は菊亜と二人で確かめたディスクの実験のときのモニターを思い出す。

――視床下部がもう真っ赤になっちゃってさ。菊亜はそう言っていた。

そういえば、取り調べ中に菊池にMRIを受けさせられた。

あれは単なる嘘検知のためのものというだけではなかったのかもしれない。

容疑者に共通するのはDNAだけでなく、あの感覚もそうなのかもしれない。

MRI検査はそのためのものだったのだろうか。

つまり、ある特定の感覚時における脳の活性化度合いを調べるために。

どうやら、俺とリストの男たちはDNAだけでなく、脳という身体においても繋がっているらしい。

そして、それはあのディスクとも。

 俺は一人でぶつぶつ言いながら、また掃除から戻った。

「あ、八島さんお帰りですう。エプロンいったん全部洗濯機に回すんで、着替えてくださあい」

「え、あ、そうですか」

 やばいな。俺はさっき掃除して回った部屋で拾い集めてポケットに入れたコンドームをどうしようかと思った。

「大丈夫(ハート)。着替えも用意してますよ(ハート)」

 久田はそう言って、新しい制服をまるで着せ替え人形の服でも持つかのようにつまんだ。

「俺はこのままで良いですよ。回り損ねた部屋があるんでもう一回行って来なきゃ」

 そもそも、ポケットに入れたのが間違いだった。ゴミ袋を出すときに集めれば良かった。

「んんん」

 久田は、気持ち悪く口の中で音をたてた。

「なあんかあ、怪しいですねえ。あ、もしかしたら、もしかしたら、クーラーのなか見ましたかあ! ヘッ!」

「なんでそうなるんですか」

 久田は俺のエプロンのポケットを指さして、

「ううん、なに集めてるんですか! ダメですよ! ぼくのです! もしかして、店長にいうつもりじゃないでしょうねえ! 警察にもってこうってつもりじゃあないでしょうねえ! ヘッ! ヘッ! ヘッ!」

 久田は興奮して、ムキーと唸った。なんだか、いろいろと疚しいことをしてるのを自分から自白してるよな、この人。

それでも、一応隠そうとする久田の本心を掴みかねて、俺は困惑した。しかし、いま俺のエプロンのポケットに入っているのは久田が考えているような、機器の類ではなかった。もっともそれと同じくらいの変態性を疑われるような代物だが。

「あ、久田さん、事件です」

俺は何とかテレビに久田の注意を向けようとした。

「誤魔化さないで下さ……。あーっ! あ、あ、あん、あん、ぁあん」

「死体ですか。いや、物騒ですね。ほんと、しかも、これうちの街じゃないですか」

 しかし、その報道は図らずも俺の注意も奪っていった。

「うちの街って言うか、ほぼ近所ですね。こんなところで……」

 殺人なんて、と言おうとしたが、俺はその言葉を引っ込めた。

 俺の注意を奪ったのは殺人そのものではなく、キャスターが話すその詳細だった。

 キャスターによれば、その死体には性交の痕がみられるとのことだった。

 つまり、強姦致死。

また、強姦。

これもあの特殊な強姦なのだろうか。

天井から吊られたモニターには菊池捜査官が現場を指揮する様子が映っていた。

 俺は示し合わせたかのような事件に薄気味悪く思った。

 まるで、俺が望むと望まないと事件の方が勝手に向こうから歩み寄ってくるようだった。俺は自分の近くに暴力がひとつひとつ近づいてくる足音を聴いた気がした。

 春希を襲った奴のDNAと一致するだろうか。

 きっと一致する。

春希を襲った奴はこの近くにいるし、いまもいる。そして、暴行を重ねている。

キャスターは頻発する暴行事件との関連について二言三言コメントを述べて次のニュースに移った。

「これは、レアなのか、チャンスなのか、逆にウルトラ男なのか、逆に、逆に、逆に、逆に、逆じゃないし! ああ、でも絶対ばれちゃうよな、ばれちゃうよな。大丈夫、大丈夫、大丈夫、あんなところふつう見たりしないって、うひょお」

 ニュースから目を離すと、久田は一人でぶつぶつ言っているのが聞こえてきた。

「八島サンッ! 明日の夜勤お休みですかッ!」

 俺は急に話しかけられて驚いた。

「え、あ、はい」

「ぼくとッ! シフト変わってくれませんかッ!」

 俺は珍しく頭を下げる久田を見下ろした。俺はしばらく黙考して、

「いいですよ」

 と、了承した。

「ありがとうございますッ!」

 久田はまた、頭を下げて、それから汗を何度も拭きながら、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、ワタシはダイジョーブ博士、と何度も一人、呟いた。


✽                  ✽                 ✽


 翌日、俺は勤務を終えて、アパートに戻ると、そのままシャワーを浴びて、昼まで眠った。そして、なんとか気力で起き、学校に向かった。

 学校に着くと、俺は昼ご飯にサンドイッチを購入し、待ち合わせをしていた菊亜のところに向かった。菊亜の所属する研究室に入ると、菊亜がすでに待っていた。こうして研究室で白衣を着ているのを見ると、学部生というより、もう立派な研究者のように感じられ、改めて菊亜のハイスペックぶりを感じた。

菊亜は俺を研究室の椅子の一つに座らせると、紙束を俺に手渡した。

「これは?」

 俺は紙束を適当にめくりながら訊いた。だいたいは新聞のコピーだったが、なかにはインターネット上のニュースサイトのコピーや怪しげなウェブサイトのコピーもあった。

「ここ、一年で起きた暴行事件の情報、新聞とかウェブとかであたれるだけあたってみた。まずは、ここからだろ」

「ずいぶんあるな。一週間でよくこんなに調べたもんだ」

「小川さんにも手伝ってもらったんだ」

「純を巻き込むのか……」

 俺はすこし顔をしかめた。菊亜は、すこしバツが悪そうに目をそらした。

 俺たちがやってるのは、公的な捜査でもなんでもなく、私的な活動だ。もちろん、いまのところ法律の範囲内であり、犯罪を犯してまで情報を得たりはしていない。だが、いくら俺たちが被害者の知人だと言っても、あまりほめられたものではないだろう。我が国が法治国家である以上は、犯罪捜査は警察が行うのが筋なのだ。

 だから、正直、純はあまり巻き込みたくないのが本音だった。それは俺たちの調査が犯罪すれすれにもなりうるということもそうだったが、なによりもことは強姦事件だった。女性である純をあまり近づけたくないと思うのは当然だった。

「私も勝手に調べてたのよ。でも、あなたたちも調べてるんなら一緒にやった方が効率的でしょ」

 純が研究室の奥から顔を出した。

「私も仲間に入れてほしいのよ」

 菊亜は困ったように微笑む。

 そう言われては、何も言い返せなかった。

「それに、危ないやつがこの辺をうろついているなんて、怖いじゃない。ちゃんと知って、防犯しなきゃ」

 純は俺たちを見つめてそう言いきった。

 菊亜は、参ったね、と俺に目で訴え肩をすくめる。

「透、取り調べのことを話してくれ」

 俺は頷いた。

 そもそも、俺が嫌疑をかけられたのは、強姦事件のケースのなかで採取された精液と俺のDNAの型が一致していたことによる。警察の捜査というのは、現行犯でなければ、証言を取り、アリバイを潰し、そして、物証という証拠をあげてとどめを刺すというものだろう。そういう意味で言えば、確かに、まず証拠が先に一致している俺を疑うのは順序が逆とはいえ、至極当然のことと言える。だが、いま警察の捜査のなかでは問題が起きている。それは、採取するDNAの型が複数の人間のものと一致するという事態だ。通常DNAの型は双子でもない限り、一人の人間に一つのパターンしか存在しないはずだ。それがなぜか二人以上の人間と一致するということが起こっている。これでは、残されたDNAから、一致した二人以上の人間のどちらのDNAか判別がつかず特定ができない。

 俺も少しは調べていた。

ここ二三年で起きている婦女暴行事件のケースのなかに、DNAが一致して連続犯の可能性があるという報道はなかった。印象だが、ニュース報道で婦女暴行という言葉を聞くことは確かに増えていたような気がする。だが、俺たちは所詮自分には関係ないことだと片づけ、続報があろうがなかろうが、適当に解決しているものだと思っていた。だが実際は、報道される婦女暴行事件はほとんど解決されていなかった。警察のここ数年での検挙数の中でも、強姦事件の項目が、あきらかに激減していた。調べてみれば、異常なことがおこっているとすぐ気づけるが、調べてみなければ案外わからないものだ。東藤はいまのところ、残されたひとつのDNAが大量の人間と合致するという現象は強姦事件のケースだけでしか確認されていないと言っていたが、それだけでも公表されれば、そもそもDNA鑑定全体の信用が壊滅的なダメージを受けるだろう。結果的に、強姦事件だけでなく、殺人や強盗など、何でもいいが、そもそも警察の科学捜査という手法そのものが崩壊し、混乱は必至と推測されるのも無理からぬ話だと思った。どうりで、警察がこの強姦事件のDNAの件に関して隠匿するのもある意味では当然のように思えた。

 純は俺の話を聞いて、すこし憤慨すら入ったような語調で言った。

「大量の人間と一致するような鑑定結果をもったDNA? 何かの間違いよ。きっと鑑定の段階で何らかのミスが生じたのよ。そんなことが起こったのだとしたら、犯罪事件の捜査どころか、医療や様々な分野で前提にされていたことまで覆ってしまう」

「でも、その可能性は低いって」

「それは、その捜査官が言っていただけでしょう」

 純は俺にすぐに言いかえした。

 菊亜は苦笑いをした。

 自分の家の家業の心配をしたのだろうか。俺は邪推した。

 俺は純に改めて聞いてみた。

「二人以上のDNAが一致することは絶対にないの?」

「ないわ。ありえない。クローンでも双子でもない限りね。ましてや、あなたが見たファイルで一致していた人間は三人、四人と場合によってはもっといたんでしょ。ありえないわ。はっきりいって、それはいまこの瞬間火星人が攻めてくるくらいありえないわ」

 菊亜は黙って、じっと考え込んでいた。そして、口を開いた。

「火星人襲来くらいの確率か。それなら、ありえそうじゃないか」

 え……。俺と純は菊亜の言葉に固まった。

 菊亜は、あ、外した、という表情をして、赤面した。

 なんだ、冗談かよ。

 菊亜はコホンと咳払いをして、仕切り直した。

「しかし、同じDNAを持っている人間がありえないのだとすると、他にどんな可能性があるんだ?」

「採取されたDNAのデータが改竄された」

 純が言う。

「でも、何のために? わざわざ、自分たちの科学捜査の土台を根底から覆すようなことをしてまでなんのメリットがあるんだ」

「でも、それしか考えられないじゃない」

「うーん」

「そもそも警察はお前のDNAなんてどこで知ったんだ。なんか、あたりでもつけられるようなことでもしたのか」

「してるわけないじゃないか」

 だが、確かに菊亜の言う通り、俺のDNAがそもそもなぜ警察の知れるところとなったんだろうか。

DNA検査では、基本的には、口内の細胞か血液なんかで生体試料を採る。実は毛髪はDNA鑑定にはあまり向かない。俺が警察で受けたのは検査も兼ねて、血液で調べられたようだ。DNAというのは細胞核にあるから血液ではダメなような気もするが、赤血球も白血球も立派な細胞の一種なのである。

 警察に入るまでで俺がDNAを採られたような状況はない。唯一思い当たるのが、菊亜に勧められて受けた病院の検査だが、あそこは民間の病院だ。警察とは関係ないだろう。 

いや、と俺は思いかえす。そういえば、その病院で東藤とすれ違ったんだったな。もしかして、東藤はあのとき容疑者のDNA検査の結果を聞きに行っていたのだろうか。だとすれば、民間とは言え警察とまったく無関係とは言えないか。

だが、やはりまだ釈然としないものが残った。もし仮に、あの病院で俺のDNAが東藤のもとに流出したのだとしたら、そもそも東藤はなぜ俺のDNAの型なんて試してみる気になったのだろう。

偶然だろうか。

いや、やはり、ある程度、俺に対して当初からなんらかの疑いがあったに違いない。

その疑いとはなんだ?

「わからんな」

 さすがの菊亜もお手上げだった。そもそも、ことは警察が陰ながらとはいえ全力であたっている事態だ。一介の大学生の俺たちではやはり限界がある。

 俺はまた違う道筋から攻めてみることにした。

「昨日の報道見たか」

 俺は例の強姦致死事件について話題を変えてみる。

 二人は頷いた。

「あれも関係しているのかもしれない」

「まあ、正直今の状況じゃ、どんな暴行事件だって疑わしく思えるわね」

 銃は慎重に判断するようにいった。

確かに純の言うとおりだ。いまの状況では、犯人と犯罪行為の因果関係を結ぶ線が完全に壊されてズタズタになっている。いまは誰がやってあるいはどこまでやって、誰がやっていないのかが不明確になって混乱しているのだ。だからこそ、俺もまた拘留されたのだろう。だが、俺は昨日の報道に菊池が映っていた事実に注目していた。

「俺を取り調べた捜査官が映っていたんだ。だから、俺を疑ったケースと何か関連があるのかもしれないと思ったんだけど」

もしかしたら手当たり次第に、暴行事件全てにあたっているだけなのかもしれないけど。

俺は最後に自信がなくなり、俯いた。

「でも、いまはとにかく何でもいいから情報を集めた方がいいわね」

 

 ✽                ✽                  ✽


 俺は夜中にアパートを出ると、昨日報道があった現場に来ていた。ビルは南平台ビルといって、いまではテナントが入っていない廃ビルだった。

そういえば、菊亜がこのビルについて以前話していたことがあるな、と俺は思い出す。菊亜の話によれば、この廃ビルには、ヤクザの幽霊が出るとかいう噂が立っていてときおり、うめき声が聴こえるとのことだった。事件について調べているいまにして思えば、そのうめき声というのは、強姦を行っていた犯人あるいは被害者のよがり声だったのかもしれない。

俺は事件が、俺が巻き込まれる前から自分のすぐ近くでいくつもの兆しを見せながら進行していたのだと苦く思った。もし巻き込まれなければ、兆しを兆しとして気づくこともなかったのだろう。俺が巻き込まれたのは何らかの偶然なのだろうか。そうなのかもしれない。だが、俺はまた一方で偶然にしてはことが上手く流れすぎていることも引っかかっていた。まるで、堤防にせき止められていたいまにも溢れだしそうだった水の流れがその堰きを開き一気に流れ始めたようだった。

俺はビルの横の昇降口を上がり事件が起きた現場のフロアへ進んで行った。

 四階建てのこのビルのなかで、事件は三階で起きたようだ。念のため四階まで行き確認したが、黄色いテープに黒でわかりやすく「立ち入り禁止」と書かれた規制線が貼られているのは三階だけだった。恐らく、警察は昨日から今日にかけてあらかた現場検証を終えているのだろうが、一応まだ二日もたっていないので封鎖したままなのだろう。犯行現場が廃ビルなので、他に用がある一般人もいない。

 俺は張られた規制線の前に立つと、息を大きく吐いた。

俺はちょうど「立ち入り禁止」と書かれている文字の下を潜った。

フロアは暗かったが、月明かりで薄っすらと見通せた。

やはり現場検証はかなりの程度終わっているようだった。空きテナントなので、元からものがないのだろうが、それでも全体的に何か物が持ち去られたり、清掃をすでに完了したような跡が見られた。他の階と違って床は新たに磨かれたみたいだし、埃くささもなかった。

遺体が倒れていたと思われる場所には、未だにテープで人型が象られていた。下腹部から股間にかけてはいまだ血の跡が残されていた。フロアの他の場所が綺麗なだけにその人型の部分だけが異様さを放っていた。

 俺は暗いフロアで人の輪郭が見えたので、一瞬待ち人が先に来ていたのかと思ったが、想定していた待ち人と体格がまったく違っていた。

俺は焦って階段に引き返そうとしたが、その人影に声をかけられた。

「透」

 純だった。右手には、綿をつまんだピンセットを持っていた。

「何してるの」

 俺は驚いてまだ声が出せずにいた。

「びっくりした。ヤクザの幽霊かと思った」

 純はどこか気の抜けたことを言った。

「純、何してるの。ここは入っちゃダメなんだよ」

「あなたもでしょ」

 純は悪びれず、しれっと言った。

「言ったでしょ。私も協力するって」

 だからといって、こんな不気味な廃ビルの、しかも殺人現場に一人で来るなんて。

「あんまり危険なことしないでくれよ」

「大丈夫よ。さすがに、犯人も一度警察に目を付けられた場所には来ないでしょ」

 いや、証拠を隠滅に来るかもしれない。

「そしたら、ぶっ飛ばすわよ。私、結構強いから」

 俺は呆れてなにも返せなかった。

 しかし、純がこんなにも大胆な人間だとは予想外だった。確かに、純は俺と二人のときは――最近は慣れてきたのか、菊亜の前でも案外そうだが――どこか積極的だが、普段はあまり目立たないようにしている感じなのに。それが、夜中に警察の規制線を越えて、調べに来るなんて。

「何してるの」

「試料をね。採っておこうと思って」

 純は懐から液体が入った瓶を取りだして、ピンセットの先の綿に浸した。それから、ポンポンと人型のテープの囲いの中で染みついた血液を採取した。

 確かに、今回の件で重要なのは生体試料だ。事件の鍵を握っているのがDNAなのだから。だが、ここまでいくと恐らく犯罪だろう。規制線の中に入るくらいだと、まだ怒られるくらいでなんとか済むかもしれないが、純がやっているのは完全にそれ以上の科学捜査かなにかだ。証拠隠滅が何罪にあたるのか知らないが、捕まる可能性は高い。

 もしかしたら犯罪すれすれの調査になるかもしれないから、純を巻き込みたくないと思っていたが、まさかその線を軽く超えたのが当の本人とは……。

いや、ほんとうに凝り性だね、純は! 

俺は心のなかでやけくそになって叫んだ。

 純は小さいビニール袋のなかに、採取した血液が染み込んでいる綿を入れると、俺に、

「それで、透は何しに来たの? 見学」

 純のあまりの手際の良さに、嫌味を言われたのかと思ったが、そうでもないようだった。

「俺はちょっとね。犯罪者の顔を拝もうと思ってね」

 純が驚いた表情を見せて、俺にどういうことか尋ねようとしたら、丁度、エレベータが動く気配があった。

下に誰かを迎えに行ったのだ。

 どうやら、こんどこそ待ち人が来たようだった。

 俺はとりあえず後で説明しようと思って、純の手を取って、フロアに隠れるところを探した。しかし、見つからなかったので、非常階段のある外に出て、踊り場に潜むことにした。

 扉の隙間から、フロアを覗き込む。幸いにも、月は反対側にあり、月光の光が扉から漏れることはなかった。

 エレベータが到着した。エレベータの電灯で中にいる人物の顔はすっかり確認できた。

「ぼくは大丈夫。ぼくは大丈夫。ぼくは大丈夫。逃げちゃダメ、逃げちゃダメ、逃げちゃダメ。うおーし、辿りちぃたぜぇ!」

 そして、男は、最後にヘッ! と喉を鳴らした。

久田だ。

久田はいちおう彼なりにに変装したつもりらしく、ツナギの作業着を着て、ヘルメットを被り、肩には小ぶりな脚立を持っていた。

「うおー、やばいよやばいよ。モノホンの殺害現場ってやつだあ! 警察も実況見聞してるう! 大丈夫かな、大丈夫かな、持っていかれてないかな、持っていかれてないかな。大丈夫! 持っていかれても、ぼくだってわかるようなものではないはずう! へひゃ」

 久田は小声のつもりらしいが、外で覗き込んでいる俺たちに聴こえるほど、久田は興奮して声が大きくなっていた。

 久田は中央の人型まで来ると、

「ゴクリ。綺麗なかたちしてるだろ、死んでたんだぜ、そこで」

 と、ふざけた。

「ああん! 羨ましい。ぼくもいっぱいおさわりして、パンパンしてみたいい!」

 俺は思わず、扉を強く掴んだ。扉が僅かに動いて、軋んだ。

久田が巨体を震わせて物音に反応する。

しまった。

純が俺の手をぎゅっと握り、口パクで、ダメよ、と伝えてきた。

 純はなんとなく俺の目的を察したようだった。

そうだ、まだ出るときじゃない。

いま出て行っても久田は言い逃れできる。

「なに、いまの。誰かいるのか。おい」

 久田にしては、珍しく太い声だった。だが、また、

「やあだ。怖かった。ヤクザの幽霊かと思ッタ! ダメね、あたし、早く回収しないと」

 そう言って、フロアの一番隅にある、空調から、隠してあった工具を取りだしてきた。

そして、脚立を立てると、天井に顔をこすりつけた。

「ナイス孔! 愛してるよお! ぼくにレアで、超ド級のお宝Ⅴを見せてねん。ついでにいつかあの子の穴も見せてねん。ウフン」

 そして、工具で、嵌め込みパネルになっている天井の板を外した。

「ウフン。警察ちゃんもお前さんのこんなところまでは調べなかったろう。待ってろ、オラがいま助けてやるからなあ! 要救助者アリ!」

 そして、天井から隠していた機器を取りだした。

「親方あ! 空から、カメラちゃんが落ちてきたあ!」

 頃合いだな。

俺は、扉を一気に開け放して中に入った。

「久田さん」

 俺はあまり大きな声で呼びかけないようにしてやった。

 久田は俺に気がつくと、身体をびくっとこちらに向けて、静止した。

 なんか、貯金魚みたいな顔だなと、俺は思った。

 久田は、なおも俺を凝視しつづけ固まっていた。

「犯罪ですよ、たぶん」

 廃ビルに監視カメラを設置しておくのは何罪にあたるのだろうか。

迷惑防止条例とかかな。

 久田はじっと見つめていた。

 じっと、俺を見つめていた。

「……」

 沈黙が流れる。

 ……。

 うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。 

久田はトライをねらうラグビー選手のように、一目散に雄たけびをあげながら俺に突進してきた。俺は久田の思わぬ動きに、対処できず、弾き飛ばされた。

しまった。逃げられる。

 久田は非常階段のほうに走っていた。

 しかし、純が突っ込んでくる久田を見下ろすと、足を大きく振り上げタイミングよく蹴りつけた。

 キックはもろに顔面に入り、久田はそのまま横に吹っ飛んだ。

 見事な一撃だった。

 久田はすっかり逃げる気を失くして、

「痛いよお。痛いよお」

 と、泣いていた。

「大丈夫です。俺のいうことに従えば、警察に突き出すようなことはしません」

 断腸の思いではあるが、情報を引き出すために俺は言った。

 久田はすぐ泣き止んで、

「ほんと? さすが、マイベストフレンド、TOHRU! だぜ」

 と言った。

 久田が自らが勤務するホテルに隠しカメラを仕掛けているのは、じつはうすうすとは気づいていた。というか、久田は隠す気がないのか、露骨に俺に対してクーラーから遠ざけようとしていた。あんなにしつこく言われたら、何かあることくらい推測できる。それに久田はホテルのアルバイトしかしていないのに妙に羽振りがいい。どうやら、いろいろなグッズを買うために非合法DVDの販売にも手を染めているようだった。

 いつでも警察につきだしてもよかったのだが、本格的に確証を得たのが夏休みの終わり頃の勤務で、これから徐々にいびりながら改心させようと思っていたのだ。

 ほんというと関わるのがちょっとめんどくさかっただけなんだけどね。

 ここにも隠しカメラを仕込んでいたのは、昨日の晩、勤務中に二人でこのビルで起きた事件の報道を見ていたときの反応ですぐにわかった。たぶん、久田はホテルだけでなく、この街の男女が睦みあいそうな到る所にカメラを仕込んでいるのだろう。獲物が引っかからなければ、ただカメラを放置しているだけで虚しいが、久田の羽振りの良さからすると、なかなかどうして、豊作のようだ。いや、どっちかというと地引網みたいな感じだから、大漁か。いや、どっちでもいいか。

とにかく、俺は久田の慌てぶりを見て、すぐにここに回収にいくのだと察しがついた。わざわざ、俺にシフトを変わってくれというのも、警察の現場検証でカメラが見つからないうちにすぐに済ませるつもりだとふんだ。俺は久田にシフトを変わるのを了承したと言っておいて、こうして久田を捕まえるつもりだったのだ。ちなみに、シフトを変わるなんて店長に一言も言ってないから、無断欠勤でもない。無断欠勤は久田の方である。やーい。

「いやあ、ここ、前からヤクザの幽霊で噂になってたでしょ。だから、カメラ置いとけば、幽霊映るかなあと思ってさ」

「ウソつくんじゃねよ! てめぇが撮ってたのは幽霊じゃなくて盗撮ポルノだろうが!」

 純が怒鳴った。もう一度言う。俺ではなく怒鳴ったのは純さんである。

 あれ、純、本気で怒ってる? なんか、いつもと違う。ヤクザみたい……

 久田は純に蹴られた頬がまだ痛むのか、頬をおさえながらいつもの高音ではなく低い声で、すみません、と謝った。

「だって、だって、廃ビルに出る幽霊のうめき声なんて噂、夜な夜なお盛んな男女がやって来てセックスするときのよがり声だってお決まりじゃないですか。だから、ここに仕掛けとけば、商品が生産できるのは確実だなって」

「よく電池が持つわね」

 純は怒りのあまり的外れなことを聞いている。

「熱源センサーなんです。人が来たら自動で起動するようになってるの」

「それで、その熱源感知カメラで、昨日の事件も撮れた?」

 俺はなんとか、二人の間に入って、口を挟んだ。ついでに、純にならって久田に対する敬語も捨てた。

「ええ、確認してないけど、たぶんねえええええええ。殺すまでヤッちゃうなんて、すごいですねえ! これはレアですよえ! 大興奮ですよ。もしかしたら、ぼく超超超お金持ちになっちゃうかも」

 久田がまただらしない欲望を全開にしてにやけた。

 しかし、悲しいかな。確かに久田の言うとおりだろう。何となくだが、レイプもので殺しまであって、しかもヤラセ一切抜きときている。アングラマーケットで恐らく跳ぶように値段は吊り上がるだろう。

 俺もその映像に用があって、わざわざ来たのだった。

 強姦致死の瞬間が収められた超激レア裏ビデオ。

 俺は久田に手を差し出した。

 久田は起こしてくれるのか、と俺の手を掴もうとした。しかし、俺は振り払って、

「そのビデオ、俺にください」

 久田は両手で頬を抑えて、アッチョンプリケ、と言った。

「ひどいひどいひどいのなのよさ。あたしの大金獲得の機会を奪おうっていうのよさ」

「最初に言ったでしょ。俺のいうことに従えば、警察には突き出さないって」

「やだやだやだやだやだやだやだやだやだ」

「俺たちも金が無いんだ」

 もちろん、俺にはビデオを売る気は無かったが、めんどくさいので久田にはそう言っておくことにした。

 ドンッという音がした。

 俺と久田は音がしたほうを見た。いつの間にか純が久田から取り上げた工具を床にたたきつけていた。床に工具が深く刺さっていた。

 あーあ、こりゃ、明日来た警察に侵入したことがばれるな。絶対に物証残さないようにしなきゃ。

「いいから、はやくわたせっていってんだよ、殺すぞ」

 久田がポンと、俺の手にカメラを置いた。

俺はカメラのスライドを開けて、メモリー媒体を取りだして、窓の外の月にかざした。

 しかし、こうもあっさり犯人に近づけるとは思ってもみなかった。

 カメラに映っているのが、春希を襲った奴なのかはまだ確証はないし、一連の事件と関わりがあるのかどうかも言えないが、やはりそれでも、これは大きな前進になるだろうという気が俺にはした。DNAという物証がなんの役にもたたない状況となっては、もはや実際に行為の瞬間を押さえるしかない。そういう意味でも、これは最強のカードだ。

 俺はメモリー媒体をまたカメラに戻した。

 そのときまた非常口の扉が開いた。

 俺はさっき純に心のなかで呟いたことが、もう一度頭に浮かぶ。

誰が言いだしたのか知らないが、放火魔は自分が放火した犯行現場に戻って来るとはよく聞くことだ。

もしかして、強姦魔が再び自らの犯行現場に戻ってきたのだろうか。

なんのために?

決まってる。証拠隠滅だ。

犯人は現場に残された何らかの痕跡を消しに来たのだ。

扉が軋む。

いま、この場にいるのは、俺を含めて三人だ。そのうち、久田は頼れないから、結局、強姦魔に対処することになるのは、俺と純。だが、純は女の子だ。やはり、俺が対処しなければいけないだろう。俺は身構える。大丈夫だ。必ず、純を守って、強姦魔を捕まえてみせる。もう一度言おう。俺が、純を守る。

俺の視界に、さっきからめり込んでいる工具が目に入る。

あれ、純がいれば大丈夫なんじゃね。

背の高い人影が扉から現れた。

一歩一歩近づいてくる。そして、俺たち三人の前でそびえ立つと、懐から長い筒を取りだした。

ナイフか。

そして、人影は筒のスイッチを入れた。

「べろべろばあ!」

 人影はだらしなく舌を伸ばし、白目をむいてお決まりのお化けの表情をした。

 え、幼稚……。

こんな、幼稚なことをする人がまだいるとは。

だが、俺はその幼稚さへの驚きで、本当に驚くべきことに対して反応が遅れた。おかげで、幼稚な人影に先手を取られた。

「コラ! なにやってるんですか! ここは、警察が指定した立ち入り禁止区域ですよ」

 俺はその幼稚なお化けに見覚えがあった。ヤクザの幽霊……。ではなく、俺を最後の日に取り調べた女捜査官、東藤理恵子だった。

「って、あれあれあれ、あなたは八島透さんじゃないんですか」

 東藤はわざとらしく、大げさに俺を認識した。

「なにをやってるんですか」

 俺は東藤にそう聞かれ、この状況をどう説明したものか苦慮した。

「え、ええと……、そうですね……。東藤さんこそ、何やっているんですか」

 結局、うまい答えが出てこなかったので、逆に訊きかえすことにした。

「私ですか。私は警察です。まだ検証途中の犯行現場にいても別に不思議はないでしょう」

 東藤は俺の質問にそのように答えを返した。しかし、純が、

「こんな夜中に、一人で?」

 と、鋭く睨み付けて、付け足した。まだ、怒ってるんだろうか。

「昼間の検証中に、忘れ物をしたんですよ」

 見え透いた嘘だった。

「あなた、本当に警察の方なんですか」

「それはもちろん。ねー、八島さん」

 なんだが、取り調べのときと東藤は感じが違っていた。だが、もしかしたら、こちらが案外、東藤の素、なのかもしれない。取り調べのいちばん最後に、連日の激務に対して子どもみたいにわめいていた姿を思い出す。

 東藤はポケットから警察手帳を取りだして、純に身分を示した。暗くて全然見えないのを東藤はわざわざ自分の手元の懐中電灯で照らした。確かに、東藤の顔写真と名前、それから、階級が示してあった。警部補らしい。偉そうな気はするが、どれくらい偉いのか俺にはわからなかった。

「所属は?」

 純は未だに警戒心を解かずに言った。

 東藤は答えなかった。

 暗かったので俺の勘違いかもしれないが、東藤はどこか挑むような表情で嗤った気がした。

「あなたは小川純さんですね。以前、八島さんの面会にいらしていましたね。菊亜インターナショナルバイオケミカルから、現在株式会社立菊亜日光大学生体情報学部神経生理学科理工学域谷口研究室に外部研修生として所属している」

 東藤は威圧するように、わざわざ委細漏らさずに言った。

「光栄ですね。私のこともわざわざ調べてくださっているんですね」

「ええ、八島さんの周りはとくに。関係者を調べるのは捜査の基本ですから」

 なんだか、心なしか二人の間に険悪な空気が漂っている気がするが、それも暗くて表情が読み取れないので俺が勝手にそう思っているだけだろうか。

「あなたとは、一度直接会ってお話してみたかったんですよ」

 東藤が言う。やはり、気のせいではないような気がする。

「その必要はなかったと思います。私には疑われるようなことはなにもありませんから」

「別に、あなたを疑っているとは一言も言っていないですよ」

 純が工具を握り締める手をさらに強める。怖いな。ヤクザの幽霊より怖い。

「そうそう、小川さん、このあいだ面会にいらしたとき、忘れ物をなさっていましたよ。こんど、署の方まで取りに来てくださいませんか」

「いえ、そんな覚えはありません」

「そうですか。では、私どもの勘違いですね」

 純は東藤を睨み付ける。

 東藤は嗤ってそれに応える。

 俺はあまりの気まずさに、この瞬間が永遠に続くのではないかと心配した。

「ところで、八島さん」

 東藤はこんどは俺に話しかけた。声のトーンが純と話したときの冷ややかな感じのままだったので、俺は震えた。

 もしかして、また拘留されるのだろうか。

「いや、どうもわざわざ捜査協力とは、頭が下がります。やはり、あなたは犯罪者ではなく善良な市民に違いありませんね。遠からず、疑いは完璧に晴れるでしょう」

 東藤はまたお道化た調子で、最後はまるで明日のお天気の報告でもするかのように言った。

 俺は東藤の言葉の狙いがわからず、なにも返さなかった。

「それ、私が昼に忘れて行ったんですよ。いやあ、助かりました。大事な、大事な証拠品を現場に忘れたとあっては、菊池さんに怒られるどころのはなしではありませんでした」

 そういって、東藤は俺から、久田のカメラを取り上げた。

 そうか、東藤の狙いはカメラか。

 俺はせっかく手に入れたカメラを取りあげられたらかなわないと、抗議しようとした、だが、俺が口を開くよりも早く東藤は言った。

「いや、最初に八島さんを見たときは正直ショックでしたよ。なにしろ、あなたはいま強姦事件で一度は拘留措置もされた容疑者ですからね。ああ、やっぱりあなたが犯人だったのか、現場に証拠隠滅を図りにきたのかと、たいへん残念な気持ちだったのですが、いや、わざわざ証拠品を届けてくれようとしてたんですね」

「いくらなんでも、無茶苦茶ですよ」

「フフ……」

 こんどは、東藤が笑ったのが確実に聴こえた。つまり、これは東藤なりの取引なのだ。もし、俺たちがカメラを渡さなければ、勝手に捜査現場を荒らした咎で俺たちをしょっぴくのだろう。罪状はまあ適当に公務執行妨害とかそんなところだろうか。さっきまで、純が薬品で血痕の生体試料まで採取していたのだから。あながち、そう主張されても無理なところはないだろう。カメラを渡させば見逃してやる、と東藤はここでそう言っているのだ。まあどっちにしろ、抵抗してもしょっ引かれてもカメラは没収されるのだろうが。ここは渡すしかなった。

 俺は反論をあきらめた。

「お礼と言っては何ですが、というか、警察を出られるときに渡しそびれたんですが、これをあげます」

 俺は東藤から、紙片を受け取った。暗くて、何が書いてあるか見えない。

「これは?」

「私の携帯番号です。なにかあったら、いつでもどうぞ、暴漢に襲われたり、火星人がやってきたときはいつでも。私は善良な市民の味方。全体の奉仕者たる公務員ですから。そうそう、自首したくなったときでも、遠慮なく女刑事さんにどうぞお電話を」

 最後は冗談のつもりだろうか。

「それでは、出ましょうか。なんだが、工具で現場の床がへこんでいるような気がしますが、暗いので目の錯覚でしょう」

 もしかして東藤は最初から全て見ていたのかもしれない。俺に対する言葉や、純に対する口ぶりから、どうやら東藤は俺に対する疑いを解いていないようだ。だとすれば、俺はもしかしたら、日ごろ警察の監視のなかにあるのかもしれない。そうでなければ、東藤がこんなタイミングよく現れるわけがない。

それと関連してるのかしていないのかよくわからないが、久田のカメラも警察の巧緻のような気がする。つまり、犯人、あるいは何らかの関係者が来るのを待つためのいわば、おとりとして、見落とされていた。警察は現場検証の段階でカメラをすでに見つけていた。

いや、考え過ぎか。

もしそんなことをするにしても、貴重な証拠品をそのまま置いておくことはせず、少なくともダミーくらいには、すり替えておくか。俺は邪推を捨てた。

ただ、東藤がタイミングよく現れたのは、やはり偶然ではない気がした。

 俺たちは東藤に付き従って、ビルを出た。

 

 ✽                ✽                  ✽


ビルを出ると、東藤は他に行くところがあるのか、すぐに去っていった。

俺はアパートに帰ろうかと思ったが、そういえば警察を出てまだ一度もマスターのところに俺は行っていないのを思い出した。《FRIEDEN》はここから、バスで一区間くらいの距離だったはず。十分歩いていけると判断して向かうことにした。俺はその旨を純に伝える。

「純も行く?」

「いや、私、明日ちょっと朝から用事があるから帰るわ」

 しかし、そうなるとこんどは純を送っていかなきゃいけない。純の家はどこだろうか。

「あ、大丈夫よ。私一人で帰れるから」

 俺が言うよりも早く純が先に言った。

「いやいや、そういうわけには……」

「私、強いから」

 説得力があった。

床にめり込んだ工具が頭をかすめる。

「そうか、それじゃあ気をつけてね。あ、東藤さんの電話番号いちおう純も知っておいた方が良いんじゃない」

 純は東藤に敵意を抱いているみたいだったが、東藤も一応警官なので、女の子が夜道を歩くときに知っていても損はないだろう。俺は紙片を差し出した。

 純は紙片をしばらく見つめると、そうね、と言って、ポケットからスマートフォンを取りだして登録した。

「それじゃあ」

 俺は次に久田をどうしようかと思って久田の方を向いたら、久田はすでに姿を消していた。

俺は息を吐いた。

そういえば、カメラは結局警察の手に渡ったわけだが、久田にお咎めはないのだろうか。まあ、いいや、どうでもいいか。俺は久田に対してはあまり思考を働かせる気が無いんだなあと自分で自覚した。

 暗い夜道をしばらく歩いた。事件があったというのに、相変わらず街燈は切れかかっていて、ばちっ……ばち……と瞬くだけだった。

 大学が始まる前の夏休み、まさか自分が警察に捕まるなんて思ってもいなかった。それまで俺は平凡な大学生で自分の身の回りで起きること以外これといってとくになにもなく、平然と暮らしていた。テレビのなかで話されるような事件とか世の中の動きとかそんなものと関係することなんかこれっぽっちもないと思っていたし、これからもそうだと思っていた。

だが実際はテレビで報道されている強姦事件と自分は関係をしていた。

そして、そのせいで警察に拘留されてしまった。

そんなテレビのなかで話される社会だとか世の中の動きのなかに確かに自分はいて、関係して、自分の生活もまたその中にあるのだと、そんな当たり前のことにようやく俺は気がついた。いざ改まって考えれば、一個人と世の中の関係なんてそんな感じのものなんだろうとも思える。テレビの中の出来事は一見するとまるで関係なく、自分の周りとまるで切れているように思える。

だが目の前の出来事は、全てその遠いテレビのなかの世界と繋がっていて、すべて関係して動いている。

母が戦争に行って、それから死んで、それはその頃からずっとそうだったのだ。あの頃も俺はただ、ぼーっとテレビのなかの社会と自分たちの暮らしは何も関係が無い切れたもののような気がしていたけれど、テレビのなかで報道される戦争は確実に俺の母に影響を与えて、命を奪っていったのだ。

どうして、気づかなかったのだろう。

いや、忘れていただけだ。

俺は母が死んで、しばらくずっとテレビばかり見ていたのを思い出す。

俺はあのころ母が死んだ理由をテレビのなかの戦争のニュースのなかにずっと探していた。でも、また日常のなかで、そんなテレビのなかの出来事と自分を切り離して、気づかないふりに戻っていっていた。しかし、そうして日常を過ごすなかでも、テレビのなかの出来事はずっと自分に関係して、動きつづけていたのだ。

そして、テレビのなかで見える社会なんかよりも実際の社会で起きていることはもっと複雑でいまもこうして見えないけれどずっと関係して、動き続けている。

 俺はいまも関係して動き続けている今の状況を思う。

関係して動いている状況。

それは全て偶然で、たまたま集まって発生したもののように思う。

だけど、それは何かの力で、どこかに向かっている。

まるで、偶然のように振る舞いながらも、何かの必然としてそれは動いている。

だが、偶然のように振る舞うそれはやはり、必然として、唐突に、一気に終わりを迎えそうな予感が俺はしていた。

なにかことが起こって、状況はいっきに弾け、まるで街燈の電灯が瞬いて、そして急にふっとヒューズがとんで暗闇が訪れるように、見えかけていた社会の動きはまた見えなくなる。

またテレビのなかの出来事を忘れて、日常に俺は帰っていく。

そして、また裏で知らない間になにかは関係し、動きつづけてゆく。

 って、なに浸ってるんだか。俺はため息を大きく吐いた。

 いや、でもほんと普通に生きてたら、テレビの事件とか流しちゃうもんな。

 俺は自分が小さな公園を横切っていることに気がつく。

 そういえば、純と初めてあったのもこんな公園だった。

 純はときどきよくわからないことを言う。

きっと、純もまた、俺の知らないところでなにかと関係して、動いている。

菊亜が困ったように笑いながらいつも何かを思っているように、純もまた何かを考えている。

純ははじめてあったとき、星を見ていると言った。でも、星なんか見えるわけない。

純はあのとき何と関係して、何を考えていたんだろう。

大丈夫また逢える。

名前はまだない。

やっと逢えたね。

その名前で呼ばないで。

俺はいつか純が口にした言葉を思いかえして並べてみた。

どういう意味なんだろう。

戦争という極限状況そのものが子供を産む。

どういう意味なんだろう。

みんなが話している言葉は、なにと関係して動いているものなんだろう。

 

 ✽                 ✽                ✽


《FRIEDEN》の店の前まで来て、中に入ろうとしたが、扉の前で「クローズ」の札が掛かっていた。

 仕方がないので、俺は結局アパートに帰ろうと思ったが、後ろから声をかけられた。

「きょうはよく会うわね」

 東藤だった。さっきビルで会ったスーツ姿のままだった。

「そうですね。やっぱり、あなたは俺をつけてるんですね」

「そんなことないわよ。いまここで会ったのは偶然」

 いまここで会ったのは、ね。

俺は東藤の言葉から推測する。

やはり、先ほどのビルで現れたのは偶然ではなかったのだ。

「ずいぶん俺のことが気にいったんですね」

 俺は皮肉を込めた。

「ええ、それはもう」

 ネ、と東藤は笑顔でその皮肉を受け止める。

「それで、こんどは何の用ですか」

「だから、偶然だってば。私もこの店に用があったのよ」

 東藤はそう言ってなかに入ろうとする。だが、

「あれ、きょうは閉店? あなた何か知らない?」

「知りません」

 しかし、確かに珍しかった。いつもならこの時間にこの曜日ならマスターはいつも店を開けているのに。また、軍人会の人たちと呑みに行っているのだろうか。

「ふむ、クローズね」

 東藤は顎に手を当て意味深そうに言った。

「ねえ、それじゃあ今から、私といっしょに別の場所で呑まない」

「結構です」

 東藤と話をしていると、いつも取り調べを受けているというか、何かを探られているような気がして、落ち着かないのだ。

「そう言わないで。ちょっとぐらいなら私が知っていること教えてあげるわよ」

 そんな簡単に話していいものなのだろうか。それも、俺は東藤が調べている事件の容疑者の一人というのに。

きっと情報を与えて、その反応で自分も何か情報を得ようという魂胆なのだろう。

まったく、仕事熱心な女刑事さんだ。

「仕事はいいんですか」

「いいって、いいって。だいたい、ふつうこんな夜中は勤務時間外だっての。なんで、私はいつもこんなに事件のことを考えているのやら」

 東藤は最後は自分に向かって話しかけていた。

「仕事だからでしょう」

「仕事だからって勤務時間外は考えなくていいでしょう」

「まあ」

「はい、じゃあ、決まり。行きましょう」

 俺は東藤に従うことにした。

 俺と東藤は腹も減っていたので、チェーンの居酒屋に入ることにした。

 席に座るなり、東藤は適当に食事とビールを頼んだ。

俺も同じように食事とビールにした。

 注文が届くと、東藤は勢いよく、食事を食べ、ビールを飲み干した。

「ああ、ビールなんて久しぶり。こんなまともな食事も嬉しい」

 捜査はよほど忙しいらしい。

俺は仕事中に不健康そうなコンビニの食事をとる、東藤の姿を想像した。

「ほんと、公務員は大変よ。特に刑事なんて。びっくりするくらいまともな食事をとれる機会なんてないんだから」

 そしてまた、ビールと食べ物を追加で頼んだ。

 俺は何となく、東藤のそんな姿を見てすこし気が緩んだ。

「たいへんですね」

「うん。たいへん」

 東藤の仕事では、話し相手もいないのだろうか。随分と嬉しそうに口を開く。

「私ね。これでも首都にある、あの国立大学を出てるの」

 東藤は我が国で一番有名な大学の名前を出した。

「ほんと、月並みな話なんだけどね。若いときは、勉強して、すごい大学出て、適当にバリバリ働いたあと、結婚しようと思ってたの」

「はあ」

「それがねえ。ある日間違えて、警察官僚になろうと思っちゃって、うっかり警察学校なんかいったもんだからこうなっちゃったの。そしたら、仕事は面白いんだけど、結婚する余裕が全然ない!」

 ほんとうに、そのへんのOLみたいな話だった。

ううむ、月並みだ。

「熱心なんですね」

「まあ、けっこうやりがいあるからね、仕事」

「どんなところが?」

「え、そうねえ、いざ聞かれると困るわね。そうねえ、私の仕事、結構難しいのよ。無理難題が多いし。はっきり言ってめちゃくちゃ。方向を間違えると国家レベルで問題が起きるの。でも、そんな難しいことをしてると、自分は選ばれた人間だな、少数派なんだなって嬉しくなるの。世の中には難しい仕事と簡単な仕事があり、さらに重要な仕事とそうでない仕事があるなら、私の仕事は明らかに難しくて重要な仕事。まるで、いつでもラスボスと闘っている気分ね。やりがいもそりゃ感じるでしょう」

 簡単で、重要でない仕事ってなんなんだろうか。

俺は逆に考えてみる。

いや、口に出すと、誰かから殴られそうなので、別にいいか、と俺は考えを捨てる。

「ひどいですね」

 よくわからんエリート意識というか、選民思想というか。

「いやはや」

 しかし、正直ではあるな。

「もしかして、ちょっと軽蔑されたかな。私のこと、仕事にアイデンティティを求めてしがみつく下品な女だと思う?」

「まあ、学生ってのは潔癖ですから」

「ひどい、やっぱりそう思うのね!」

 東藤はわざとらしく大げさに嘆いた。そして、すぐに笑顔で、

「なーんちゃって。こちとら、そんな下品な生き方承知で生きてんのよ。世の中舐めた学生に何言われたってへこたれねーよ」

 俺は東藤のお道化た露悪に好感を感じた。東藤を見ればなんとなく激務であろうと、腐らずに頑張っているのは察せられる。それを東藤が言うように俺みたいなペーペーの学生がどうこう言おうとその切実さが損なわれることはないだろう。むしろ、力強く開き直る東藤の仕事に対する態度は強くて魅力的だと俺は思った。 

それに、と俺は思う。

 この人の仕事のモチベーションはそんな卑賎なアイデンティティだけではないはずだ。

 俺はいつか病院で、精神的に負傷した帰還兵の息子を持つ父に対して、誠実に対応していた東藤の姿を思い出す。東藤の仕事に対するモチベーションは本人が知ってか知らずにいるのかわからないが、アイデンティティなんかよりももっと大事な何かがあるのだと思う。

 アイデンティティか。

 自分が自分であるという自己同一性。今じゃ口に出すのもちょっと恥ずかしいような言葉だ。

そういえば、純は自分という存在も情報というものに過ぎないと言っていた。

今日まで俺がとってきた行動、名前、そしてDNAの塩基配列に代表される身体の情報。

だが、情報というのは常に他人から読み取られるがゆえに存在する。

AがTと、GがCと結合すると決まっているように。

故に自分がどうであるかなんて、悩むのはアホらしい。

大事なのは他人と自分がどうあるかだ。

自分は自分。

その程度に考えておけばいい。

 でもそう言いきれるあなたはそうとう恵まれているわ。

 頭の中の純が言いかえす。

 純は言いきれないのだろうか。

だとしたら、それはなぜなんだろう。

「小川純のことなんだけどさ」

「え、あ、はい!」

 東藤が言った。俺はちょうど純について考えを巡らせているまさにそのときに東藤の口から純の名前が出て慌てた。まるで心のなかを読まれているのかのようだった。

 東藤はそんな俺の過剰な反応にすこし驚いて、

「びっくりした。そんな声出さなくていいじゃない」

「それで、純がどうしたんですか」

「つきあってるの?」

 俺は答えに窮した。俺と純はつきあっているのだろうか。俺と純は、どちらからもお互いが恋人同士だと確認したことはない。なんというか、これまでいろんなことがあったかもしれないが全ては成り行きだった。少なくとも、いちばん最初にキスをしてきたのは純だ。思えば、俺はずっと純に流されるままになっている気がする。

いや、気がするじゃなくてそうだよな。

「どうして、そんなこと訊くんですか」

「え、お姉さん、昔からかっこいい容疑者を好きになっちゃうの」

 東藤は瞳を輝かせて言う。

「え!」

 俺は勘違いして焦ったフリをする。もちろん、冗談だろう。

「冗談よ」

 なに漫才してるんだか。

「好きなの?」

 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………俺は頷いた。

「もう、セックスしたんだよね?」

「な、なに、訊いてるんですかあ」

 俺は顔を真っ赤に羞恥心で照れた。

フリをした。お約束でのりきろうと思ったのだ。

「どうなの」

 しかし、東藤はさっきまでのお道化を捨て、これ以上なく、真剣な目で訊いてきた。

 なんか、怖い。

「……しました」

「そう」

 東藤は極めて冷静に言った。

 実は俺としても、悩ましい話ではあった。いつか、菊亜にフッと鼻で笑われたことがあるが、俺に女性経験はない。

この歳になるまでずっと一人で生きてきた。

というのは、冗談だが、いままで俺は確かに男とも女とも交際したことはない。

 ほんとうに、まるでアホな中学生みたいな話だが、男女関係というのは肉体関係になったら、交際関係と考えていいのだろうか。

え、うっそ、カラダの関係になっただけで、付き合うとかめんどくさい。

キャー、このサイテーヤリチンやろーめ。

というわけでなく、まったく俺としては、純の意思を尊重したいのだが、その肝心の純の意思がいまいちわからなかった。いや、ほんとアホな中学生だ。

バカネ。男がリードをとらないと。この甲斐性なし。

とは東藤は言わなかった。

「もちろん、それはあなたのプライベートなことです。私たち警察が口を挟むようなことではありません。ですが、あなたに小川純さんについて話しておきたいことがあります」

 東藤はいきなり捜査官口調に切り替えた。

俺はまた、あの取調室に戻ったような錯覚がした。

「小川純さんが大学に来られたのは、ちょうど今期からですね」

「ええ、そうですよ。夏休み前に我が国に来られたそうです」

「小川純さんは、二年前から我が国に来られています」

 居酒屋の喧騒が急に静かなものに感じられた。

「確かです。法務省を通して入国管理局に問い合わせました」

「確かお父さんの仕事の都合で子どもの頃から海外を渡り歩いていたって」

 俺は純が行ったことがあると言っていたかつて自由の国と呼ばれていた大国や女王陛下が治めている国の名前を出した。

「ええ、入国管理局の書類にも確かにそのような記録が残っていました。書類上だけでなく、私はその国の伝手を通して小川さんが親しくしていたという人を探して、当時の彼女のことを直接伺いました。ですが、彼の国で彼女と直接面と向かって話して交流をしていたという人間を探すのは困難でした。なぜだか、わかりますか」

 俺は首を振った。

「名前です。彼女は渡航先では、小川純と名乗ってはいなかったようです」

「通称を使っていたということですか」

「ええ、しかしなんのためでしょうか。もちろん、外国人が異国で通称を使うというケースはありえないことではありません。しかし、ふつうはそんなことしないでしょう。何か特殊な事情が無い限りは」

 東藤は、最後の一言を強調した。

「なんとか探しだした彼の国で彼女と会ったという人と私は電話で話をしました。どうやら彼女は、各国の外務官僚や軍事官僚と交際なさっていたようですね」

 純は父親に連れられて、様々な国で過ごしたと言っていたが、そんな人間たちと付き合っていたとは。俺は漠然とふつうに純が海外で学校生活を送っていたのだと思っていた。

「彼女とコミュニケーションを取っていたある方はあなたと同じように彼女から訊いたという彼女の海外渡航歴について話してくださいました。その方が言う彼女が行った国はあなたが今話した国以外の国もありました。ですが、その国名は彼女の入国管理局の記録にはありませんでした」

 東藤はその入国管理局に記録がなかったという国名を挙げる。かつて、革命が起きた二十世紀世界を二分したもうひとつの大国。総統と名乗った男のもとで大量の虐殺がおこなわれた国。かつて非暴力運動が繰り広げられた国。それから……。

「嘘の記録だったっていうことですか」

 しかし、東藤は俺の言葉をあっさり否定する。

「いえ、その記録にない国の入国記録を管轄する部門にも裏取りとして問い合わせましたが、確かにその国にも彼女の入国記録はありませんでした。我が国の入国管理局の記録に間違いはないようです」

「じゃあ、やっぱり話の方が嘘」

 東藤は、あるいは、と続ける。

「入国管理局の方に虚偽がある」

「そんな、入国管理局なんて国の部門でしょう。そこに虚偽があるというのは……」

「ええ、ありえないことです。彼の国の出入国記録と我が国の出入国記録が一致して、なおかつそれが虚偽であるとしたら、それは双方に対して手引きがあったということでしょう」

 俺は東藤の表情を伺った。

「いやいや、やっぱり何か事情があって嘘をついているんでしょう。その純が交際していたという彼の国の人たちも何かを取り違えているんですよ。ただの一般人がそんな大それたこと……」

「ただの一般人ならそうですね」

 そこで、しばらく会話が途切れた。

 小川純。国に記録されている真正な記録として偽られている彼女の行動。小川純という情報は国家間レベルで管理、運営されている。そのうえで、東藤は彼女を疑っている。自らの仕事に関わる何らかの鍵となる存在として。

「どうして、そこまで純を疑うんですか」

「女の勘ですかね」

 東藤はすぐさまニッコリと笑う。お約束で逃れようとしている。

東藤はすぐにその作った笑顔を捨てて言った。

「私の所属する部署のべつの部門を担当する課と共有した情報ですが、近年になって活動を活性化させ、組織力を伸長させている組織があるそうです。その組織はさきの十年前の戦争、南方諸島独立紛争で派遣し、帰還した元自衛官たちの組織です。彼らは表向きは退役軍人たちの扶助や交流、それに海外のNPOなどの平和団体と協力してボランティア活動を行っているようですが、裏では現政権に対してどちらかというと批判的な議員や中央の官僚――それこそ入国管理局にだって――、地方公共団体の一部の役人と結びつきを強めているようです。記録によれば、彼らは独立紛争中、最前線に派兵された部隊が母体となって構成されています」

 俺は東藤の口からその組織の名前を聞かずとも把握していた。

「南方諸島独立紛争退役軍人会」

「そうです。あなたが小川純さん以外と親しくしている人物のなかに、関係者がおられますね」

 俺は目眩がするのを感じた。

暴漢に襲われて店に逃げ込んだとき、純と親しく呼んでいたことを思い出す。

「俺の周りで何が起きているんですか」

 全ては関係して、動いている。一見そうは見えなくても。

「まだ、はっきりしたことは言えません」

「ですが、あなたの周りには偶然とは思えないほどさまざまな要因(ファクター)があります」

 ひとつひとつ謎を深めるという形で何かが明らかになってきている。

それらが一つの線でもう間もなくつながりそうになっている。

 状況の終わりが近いのだろうか。

「八島さん、先ほども申しましたが、あなたがプライベートで誰と会って話そうが、それはあなたの自由です。ですが、あなたの周囲の人があなたに見せる表情はあなたが思っているようなものではないかもしれませんよ」

 お決まりのようなセリフだった。最後に東藤は笑った。

「私があなたのことを気にいっている理由、わかりました?」



  16.

 次の日、俺は朝から学校に行くと、菊亜がいつもいる研究室を訪ねた。あらかじめ、連絡していなかったからか、菊亜はいないようだった。純もいなかった。俺は菊亜に電話した。菊亜は朝から春希の病院に寄っていたようで、昼から学校に顔を出すと言った。俺はそれを訊くと、いつもの研究室や食堂ではなく、違う場所で会おうと言った。菊亜はそれなら昼に自分のアパートに来てくれと言った。俺は了承した。

 菊亜が住んでいるアパートは大学から少し離れたところにある。俺は大学の最寄りの駅から電車を一本だけ乗り継いで、菊亜のアパートに向かった。菊亜のアパートは、アパートというかむしろマンションの一室で、俺や春希が住んでいるようなところとは明らかにグレードが違っている。俺は菊亜の仮住まいのマンションを見上げると、いつも少しその大きさに威圧される。オートロックで、菊亜の部屋の番号を入力したが、生憎まだ菊亜は戻っていなかった。スマートフォンで連絡だけ入れると、近くのコーヒーショップで待つことにした。

 俺はコーヒーショップの席に着くと、昨日の居酒屋の別れ際で、東藤に渡されたメモリー媒体を取りだして眺めた。


――どうぞ、これ、あげます。

――これは?

――さっきあなたが回収してくれたカメラの記録です。もちろん、コピーですけどね。

――早いですね。

――コピーなんて一瞬ですから、ちなみに私はもう確認しましたよ。

――どうでしたか?

――残念ながら、思ってたほど捜査のたしにはならなさそうです。

――俺なんかに渡していいんですか。

――これは冗談でもなんでもなく私の勘ですが、あなたはシロですね。女刑事さんに懲らしめられほど、悪いこともしていない。

――さっき、俺には表通りで素直に判断するなって言ったくせに。

――フフッ。もう少し私の勘を披露すると、あなたは恐らく事態に積極的に関わっていないでしょう。巻き込まれ型人間ですね。だから、すこし応援してあげます。

――巻き込まれ型。わかってて、あんな取り調べやら、尾行やら。

――あなたをつつけば周りが動くんですよ。

――どうして俺なんかに。

――愛されてる証拠ですね。あ、そうそう。小川純から何か受け取っていないですか。

――なんのことですか。

――いえ、身に覚えがないなら良いです。

 

 恐らく、最後の言葉が東藤の狙いだろう。俺を動かして、周りの動きを観察したいのだ。つまり、俺は大魚を得るためにじたばたもがく竿の先の生餌なのだ。まったく、東藤も公的な立場なのに。これでは東藤が日ごろ相手取ってる「仕事」の連中とやりくちが変わらない気がした。きっと、いまも恐らく監視がついているのだろう。

 ため息を吐いて、注文したコーヒーを飲んだ。

俺はメモリー媒体を持ち上げて下から眺める。そろそろ状況に対してなんらかの決着がつきそうな予感が俺にはしていた。それは確かに東藤と同じで一種の直観だったが、不思議と確信があった。

 こうなったら、もう状況は転がるままに転がしてしまえ。

考えずに、進むのみだ。

 俺はポケットから煙草を取りだして一服する。

 血管に化学物質が流れ込むのを感じる。

そして、また別のなにかも。

 もう慣れてきたな。

 俺はここ一ヶ月で、ときおり感じるものが徐々に身体になじんでいっているのを感じた。最初のころはまるで何かに反応するかのように、感覚は俺のなかで激しく躍動した。頭の中が熱くなって、それが血流に乗って、全身の温度をあげて汗が流れる。怒りという本能に一番近いような激情。そして怒りと同時に感じる性的快楽のような懐かしさ。

 まるで、戦場にいるような。

 その感覚は徐々に俺のなかで常駐的なものに移り変わっていた。最初はただの一回で特別だと思っていたそれは、やがて二回三回と繰り返しマグマが噴き出るように訪れ、そしていまでは穏やかなものへと変わり、慢性的なものへと変化していった。そして、感覚はついに全身を覆って、日常のなかへと紛れていっていた。

 ううむ、持病になってしまったのだろうか。

あーあ、なんなんだろうな、これ。

恐らくこれも状況の要因(ファクター)のうちのひとつなんだろう。

 いつも思い浮かぶ、戦場という言葉。

 暴力、戦場、戦争、そして性。

 俺はたぶんそういう回路で連想している。

そして、その連想はただの連想ではなく状況のつながりも意味しているような気がした。

 DNA、性交、小川純、そしてそれらもまた繋がっている。

 小川純。

俺はキーワードの中から取りだしてみる。

 さて、どうなることやら。


✽                  ✽                 ✽


 菊亜が家に戻ったという連絡が入った。俺はコーヒーショップを出てすぐに向かった。

 部屋に入るといつかと同じようにアームチェアにもたれてこちらを見上げる菊亜がいた。俺は挨拶もそこそこに菊亜に昨日廃ビルでカメラを手に入れたこと、そして東藤と話したことを伝えた。菊亜は俺の話に口を挟まず黙って、ときおり眼鏡を持ち上げた。そして、俺が話し終わると菊亜は口を開いた。

「そうか。それで、そのビデオの中身を確認しにきたっていうわけか」

 俺は頷いた。

「そうか。小川さんとマスターも何か一枚かんでるのか」

「あんまり驚いてないな」

「驚いてるよ。でも、やっぱりいまいちよくわからない。なんで、そんな強姦事件が大きな話に繋がるんだ」

「強姦事件だって大きな話だろ」

「まあ、確かに」

 とは言うものの、確かに菊亜の言う通り、俺も俺たちがいま調べている強姦事件と昨日の東藤が話したことのつながりはいまだ明確に把握しきれていなかった。正直に言うと、急に話が広がっていうまくイメージできないというのが本音だった。

「まあいいや、とにかくビデオを確認してみよう」

 菊亜はそう言って、パソコンを立ち上げた。

 俺はすこしメモリー媒体を菊亜に渡すのを躊躇った。

「どうした」

「いいのか」

 確証はないが、恐らくこのビデオに残されている強姦の瞬間は、春希を襲った強姦事件と何らかの関わりがある。俺は昨日ビデオを回収したときに行ったビルを思い出した。春希は犯人に近くのビルに連れ込まれたと言っていた。もしかしたら、春希が襲われて連れ込まれたビルというのはまさしくそこで、このビデオには春希が襲われた瞬間も残されているかもしれなかった。菊亜が見るにはあまりにつらいものではないかと心配になる。

「大丈夫だよ。覚悟はできてるから」

 菊亜は俺の差し出された手から奪うようにメモリー媒体を掴む。

「いまさら、そんなことで怖がってらんないよ」

「そうか」

 パソコンにメモリー媒体をさし、菊亜はファイルをチェックしていた。

「ふむ、動画ファイルが三つか。一つずつ確認していこうか」

 俺はぎゅっとこぶしを握った。ということは、恐らく犯人はあの場所で三回は強姦をした可能性があるということだった。

「あ、その前に」

 と、菊亜は不意を突いて言った。

「これ、渡しとく」

 菊亜はそう言って、データディスクを俺に渡した。

「なんだ、これ」

「夏休み明けに試したやつ」

 俺はディスクを受け取って、

「お前が持ってたのか」

「いや、コピーだよ。最初に春希の家でみようとしたときにデータだけとっといたんだよ。デジタルデータというものはコピーができるんでね。これもたぶん、なんかあるんだろ」

 俺は頷いた。

あのデータディスクはおそらく警察に持っていかれたので、もう手元に戻ってくることはないと思っていた。ありがたい、これでまた状況を掴む手がかりが増えた。

 さてと、菊亜は改めてビデオの映像を確認した。

「一番古いやつから見るか」

 一つ目のファイルは、はっきりって駄目だった。熱検知センサーが上手く働かなかったのか、動画自体は十秒もなかった。天井から地面に向かって、真俯瞰で撮り下ろされてるからか、男と女が絡み合っているのは確認できるが、男は女に対してうつ伏せに覆いかぶさって、後頭部しか確認できなかった。女の顔も男に覆われてみえなかった。

 菊亜はふたつ目のファイルを開いた。

 菊亜は、開いて映像を確認すると、すぐにマウスを強く握って画面を睨みつけるように固まった。

 男と春希が映っていた。

男は相変わらずカメラに背を向けて、顔は確認できなかったが、春希の下腹部に顔を埋めて、春希の性器を舐めていた。春希は薬のせいか呆けた表情をしていた。


 ✽                 ✽                 ✽


「ああぁん、ああ、ああああん、あん、もっと、深く、深く」

 男は春希の性器から徐々に舌を上まで持ち上げて行った。

太もも。

腹。

そして、乳首を避けて乳房全体を。

――はぁん、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ

 脇腹。

 舌が這うごとに、春希が嬌声をあげる。正直、これが強姦の現場だと思えなかった。

 まるで、二人は合意のうえで、行っているように見える。

――ああ

 男が乳首を啜った。

――撃って

 男は舌の動きを止める。

――私に撃って!

 春希が身をくゆらす。

――撃って! 

 男の手が春希の首にかかる。

 男は下半身を持ち上げた。

春希に挿れた。

――ああん、ああ、ああ、ぅん、ぁん、ぅん、ぁん、んぁああああああ


 男と春希の動きが激しくなる。


ああ、ぁぁああぁあっぁああぁxxッァぁあぁぁっぁっぁッぁぁっぁⅩっぁっぁっぁっぁっぁっぁっぁっぁっぁっきぁっぁっぁっぁぁッァあああっぁぁっぁっぁっぁっぁぁっぁっぁっぁぁああああああああああああああきてぁっぁっぁあああああああああxxxxxッァあっぁAAAAAAぁぁっぁァぁっぁっぁああAAAAAAぁッァあああああああああああああああああああさしてああああやめないでああっァッァああああぁああああああああああああああああぁああああああAAAAAAやめてやあああああああああああああッァぁAAAAAAぁぁああああぁあああああああああああああああああッァあああァッァxxⅩっぁっぁぁっぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁっぁっぁぁっぁぁっぁあああいれてああああああああああああああああぁっぁxxっぁっぁぁぁっぁxxっぁみてっぁっぁっぁっぁっぁぁっぁっぁっぁっぁっァッァⅩっぁっぁっぁぁあああああああああああああァッァッァぁあああああああああああああああみないでああああああああああああッァああああああああああああああああああああああああああああああxxxxッァぁぁぁぁっぁあああああああああああああああああああああぁあああああxxxxxxxxxxxxxxxッァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああxxxxxxxxxxxxxッァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxッァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁっぁぁっぁいいよいいよいいといいよいいよいいよおッァぁxxっぁぁぁっぁぁっぁぁァッァッァぁっぁぁっぁぁっぁぁっぁァッァッァっぁやだmやめってええhじ、こないいぢえいdmkどk@;dllこないで、こないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでいこあんいでおおかおおjdじょsこどどこkどぁっぁぁっぁぁぁっぁっぁぁっぁぁぁっぁっぁぁっぁぁぁぁっぁいいよぁいいしぃいすいういぁっぁぁっぁぁxっぁっぁっぁぁぁっぁっぁっぁっぁっぁぁっぁxっ

あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、


















ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ

ああああああああああああああああああぁ、ぁぁぁぁぁ

あああああああああああああああああああああああ

あああああああああああああぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ


あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あああ、あ、、あ、あ、、あ、あ、、あ、、あ、、あ、あ、あ、ああ、、、、あ、あ、、あ、、、、あ、、あ、、、あ、、あ、、あ、、あ、、あ、あ、あ、、あ、、あ、、あ、、あ、、

ああああああああああああああああああああああああああああああ   





――三つ目の動画ファイル

(男の声)

「 精液

精液

   精液

     精液

       精液

       精液

     精液

   精液

精液

   精液

     精液

       精液

    精液

  精液

精液    

  精液

    精液

      精液

        精液

      精液

    精液

  精液

精液

  精液

    精液

      精液

        精液

      精液

    精液

    精液

  精液

精液

  精液

    精液

  精液」


ぴゅぴゅ




  17.

 ビデオを確認したあと、俺たちは流石に少し疲れて、さっき俺が菊亜を待っていたコーヒーショップに休憩をとることにした。

 俺と菊亜は席についても何も言わず、コーヒーが来るのをただ待った。

 そして、コーヒーが来ると、ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて飲み干した。

 菊亜がもう一杯追加で注文し終えると、俺たちはやっと口を開いた。

「疲れたな」

「ああ」

 俺は無理矢理返事をした。

「なんで、俺たちが疲れてるんだよ」

 菊亜は苦笑いした。

「いや、あれは疲れるだろう」

 菊亜は、まあ、そうだな、と頷いた。

「はっきりしたことが一つある」

 菊亜は努めて淡々と話すように努力しているようだ。

「ああ、春希を襲った犯人と廃ビルの犯人は同じ人間だ」

 やはり予想していたとおり春希が連れて行かれたビルというのはあの南平台ビルという廃ビルだったのだ。

「それで、肝心の犯人だが……」

 菊亜は核心に触れる。

「顔はわからなかったな」

 結局、あのビデオに男の顔は映っていなかった。男の姿勢はすべて女性に覆いかぶさるように、俯せていて、俺たちは男の裸の背中しか確認できなかった。

だが、俺は言う。

「いや、わかったよ。顔もわかった。声がちゃんと録音されてて良かった」

 俺は、あの奇妙な、精液、精液と連呼する声を思い出して、また疲労の塊が押し寄せるのを感じた。

「知り合いなのか」

「いや、知り合いじゃないよ」

 若い声だった。どれだけ見積もっても、二十代後半といったところだろう。

 その声にこれといった特徴は何ひとつなかった。とてもありふれて平凡で街で発せられたならすぐにでも掻き消されてしまうような音だった。

「それじゃあ、なんで」

 だが、いやだからこそ、俺はその声に聴き覚えがあった。

 俺は頭の中でここ一ヶ月の記憶すべてを反芻する。

「彼」を見かけたのはいつだったかな。

「男はこの街にいるやつだ。たぶん、そいつは俺たちと何ら変わらない普通の男だ。いまこの場にいて、のんびりコーヒーを飲んでいてもおかしくない。どこにでもいるようなやつだ」

 そうだ、犯人は特定の誰かではない。

特別なやつではない。

 ただ、この社会に生きていて、顔を特別認識することもなく、ただいつも目の前の風景にいるようなやつだ。たとえば、朝起きて大学に行くまでに出会うような、高校生、会社員、改札口にいる駅員、バスの運転手、コンビニの店員、警備のおじさん、大学の事務員、学生、教授、学食の配膳係、生協の本屋の店員、図書館司書、喫茶店の店員、レンタルビデオショップの店員、交番のおまわり、駐輪場のおじさん、そんなどこにでもいるようなやつだった。

 いつも、目に入り、気にも留めず、関係し動いているやつら。

そして、それは俺達自身でもある。

 暴行を起こした「彼」はそこら中にいる。

「彼」は俺たちそのものだ。

「捕まえられるか」

 菊亜が俺に訊く。

俺は頷く。

「街を歩いていたら、偶然会うよ。それくらいのやつなんだ」



  18.

二日後、俺は《FRIEDEN》に来ていた。 

「よう、透、久しぶりだな。菊亜くんから聞いたよ。警察に捕まってたんだって。まあ、若いころに一回くらいそういう経験があってもいいさ」

 扉の前に立つ俺に、マスターはいつものように笑顔で迎えてくれた。

「どうしたんだよ、怖い顔して」

 マスターは、席につかず入り口の前で立ちすくむ俺を心配して言った。

「ははあ、よっぽど警察に絞られたんだな。透、警察に何されたか知らねえけど、気にすんな。あいつら、戦争のころからなんか様子がおかしいんだ。俺の知り合いの官僚が言ってったんだけどな。戦争があった十年前に大規模な組織改革があったらしい。それから、警察はいまじゃ怪しい思想のやつらをどんどんマークしているらしい」

 俺はマスターの言葉と東藤の言葉を天秤にかけた。

「まったく、何だか知らないが、それじゃあ何十年も前の特高と変わりやしない。だいたい、思想を疑うなんて、危ない発想だ。人の考えを疑いだしたら、キリがなくなるってもんだよな」

 結局、俺には判断がつきかねて、おとなしく席に座ることにした。

「透が、うちに来るようになって、もう三年か。あのころは、酒も飲めなかったのにな。まったく、ただの田舎の高校生だったのに。いまじゃあ、ちゃんとボンクラ大学生か。ほんと、俺も時の流れを早く感じる歳になってきたんだな」

「きょうは随分ベタなことばっかり言うね」

「そうか? いや、じつはな。しばらく店を閉めようと思ってな。お前が大学出るまでやろうと思ってたんだが、退役軍人会の仕事が忙しくなりそうなんでね」

 南方諸島独立紛争退役軍人会の「仕事」。

俺は少しだけ東藤の言葉の方に天秤を傾けた。

「いや、しかし、ほんと残念だ。正直に言えば、もしお前が来年就活うまくいかないようだったら、うちで働いてもらおうと思ってたんだがな」

「退役軍人会の仕事って?」

「つまんねえ、仕事だよ。政府の言い訳の手伝いみたいなもんで、なんでも、行政の方針で南方諸島独立紛争の正当性をこれから国際的に大きくキャンペーンするんだと、それのまあ手伝いさ」

「政府側の手伝いなの?」

 それなら、東藤が言っていたことと少し矛盾するような気がする。

また、天秤がもとの水平に戻った。

「ああ、あんまり南方でのことは話したくないんだが」

「そうだね。俺には一度も話してくれたことがない」

「聞きたいか」

 マスターがカウンターから身を乗り出してきた。

「うん」

「お前のお袋さんも南方に行ってたんだろ。もしかしたら、辛い話かもしれないよ」

「むしろ、自分の親が何をしていたか知りたいと思っているかもしれないだろ」

「そうか、それなら話してやろう……」

 マスターは磨いていたグラスをテーブルに伏せおく。

 俺はマスターが口を開くのを待った。

「嘘だ。お前には話さねえって決めてんだ」

「ええ、なんで」

 俺は拍子抜けした。

「なあ、透、俺はお前を始めて見たときから好きだったよ。俺には子供はいないが、もしいたらこんな感じだったかなあ、って思うんだ」

 マスターは嬉しそうに言った。

「なんで?」

「なんでだろうな、自分でもよくわからんな」

 照れ臭かったのだろうか。マスターが珍しく誤魔化したように俺は思った。



  18.

 結局、俺は一週間もしないうちに犯人を見つけた。特別に探したりなんかしていない。俺はただ普通にいつもの生活を送って行動していただけだった。

 俺はそのとき、バイト中だった。

いつか純とあったあのときのように公園で休憩していたのだった。

 俺はブランコをベンチ代わりにしている「彼」に話しかけた。

 公園の植え込みが風で少し揺れた気がした。


✽                 ✽                  ✽


「何やっているんですか、こんな夜遅くに」

「なにって、ぼくは会社員だからね。この近くに会社はあるんだけど、深夜に残ってまで残業をしているのがいやで抜け出してきたのさ」

「休憩中ってわけですね。俺もいまバイトの休憩中です」

「何のバイト?」

「ラブホテルっす。いつでも、利用してくださいよ」

「はは、機会があればね」

「……」

「ええと、君とどこかであったことあるかな」

「そうですね。あ、ほら、あなた《FRIEDEN》に行くでしょう。俺もよく行くんですよ」

「ああ、あそこのお客さんか」

「そうです。マスターともけっこう仲良いんですよ」

「ああ、そうだったんだね。あそこのマスター良い人だよね。気さくだし。知ってる? マスターは元自衛官で南方諸島独立紛争にも行ってたんだって」

「ええ、聞いたことあります」

「それじゃあ、従軍中の話を聞いたことがある?」

「それがマスター、なぜか俺には話してくれないんですよ」

「それは、残念だな。面白いよ、マスターの戦争中の話。まさに、血沸き肉躍るって感じだね」

「へえ」

「あ、それじゃあそろそろ戻らないと。いや、サラリーマンは辛いよ。君もバイト頑張って」

「……」

「……」

「また、誰かを襲うんですか?」

「……」

「警察の捜査、進んでいるみたいですよ」

「……」

「でも、なんか近頃起こってる強姦事件って特殊なんですって。DNA鑑定がぜんぜん役に立たなくて。被害者に残された精液からでも犯人が特定できなくて、証拠にもならないから、ぜんぜん捕まえられないんですって」

「それは、困ったね」

「どうして女の人を襲うんですか」

「……」

「どうして?」

「正直、僕にもわかんないんだよ。なんか、今年の春くらいに病院に入院してたんだけどさ。おかしくなり始めたのは、ちょうど退院してからくらいだった」

「おかしくって、どうなったんですか」

「なんか、ときどき頭ン中で、ジャングルのなかで女の子を襲っているみたいな感じになるんだ。そしたら、全身が熱くなって、とにかく、誰でもいいから、めちゃくちゃにしてやりたくなるんだ」

「わかります。なんか、さいきんテレビとか見てるとムラムラするんですよね」

「そうそう。なんていうかな、暴力が全身から溢れてそれに支配されていく感じ?」

「……」

「俺、思うんだけどさ。たぶん、これ生存本能というか人間そのものなんだよ。十年前に戦争があって、俺、そんとき高校生だったんだけど、そのときのテレビ見てると、なんかこう奥の方から、やべえ、生き残らなきゃ、やべえ、なんか子孫残しとかなきゃみたいな」

「でも、あなたは殺しまでしちゃったじゃないですか」

「うーん。いや、違うナ。前言撤回。なんか、戦争とかが起きて、暴力が溢れたから、生存本能に目覚めたとか、そんなんじゃないな。どっちかっていうと、暴力が先? 生き残るために暴力とか子孫を残すために性交するんじゃなくて、暴力が生きることで、性交することがずっと先にある。あ、それで殺しだけど、あれ殺そうと思って殺したわけじゃないんだ。ただ夢中でヤりまくってたら、自然と死んじゃった。はは」

「事故ってことですか。変な言いかたっすけど」

「うーん、いや、そんな感じもなくはないんだけど。なんていうかね、暴力と性交は一緒なんだよね。暴力って何かを何かに残すことなんだ、植え付けるっていうか、性交もそう。暴力のために植え付けるのね」

「なんで、俺、あなたのいうことがわかるんでしょうね」

「きみも同じだからだろ。みんな一緒、人間なんてそんなに変わんないよ」

「パターンだから?」

「そう、パターン!」

「……」

「それで、ぼくを捕まえるのかい?」

「最初はそのつもりで来たんっすけど……」

「ぼくを捕まえても何の意味もないよ。結局DNAだなんだで、起訴できないんだろ? それにたぶん、もうぼくみたいなやつはそこら中にいるからさ」

「そうなんっすよねー。俺、警察で強姦の容疑者のリストみたいなもん見せてもらったんですけど」

「たぶん、そいつら全員が犯人だよ。はは、警察もつかまえたきゃ覚悟決めて全員捕まえればいいのに。でも、捕まえても、事件は解決しないだろうね。もう暴力はなくならないだろうね」

「そうっすか」

「うん。さっきも言ったけど、ぼくみたいなやつはそこら中にいるし、そのうちと言わず何人もまた出てくるよ。たぶん、昔からいたんだろうね」

「……」

「それじゃあ、またね。君この街に住んでるの」

「ここから電車乗ってすぐっす」

「それじゃあ、またどこかで会うね。じゃ、ま、またどこかで会ったらよろしくね。あ、《FRIEDEN》で会うか」

「マスター、しばらく店閉めるんですって」

「え、そりゃ残念。そうか、じゃあまたこの街のどこかで」

「うっす」

「……」

「……」

「彼」は去っていった。

「……」

「……」

「おーい、純」

「なんだ、気づいてたのか」

「ずっと、そこに隠れてたのか」

「寒かったあ」

「はは、早くアパートに戻ろう」

「え、バイト中でしょ」

「ええい、エスケープだ!」

「いいの?」

「いいの、いいの。たまにはね」

「そう」

「うん」

「それじゃあ、行きましょうか」



  19.

 菊亜は「彼」について問いただしたり、俺が捕まえなかったことを責めるような言葉は言わなかった。

 俺が「彼」と話したことを菊亜に告げると、菊亜は一言、

「そうか」

 と言っただけだった。

 それから、秋がやってきた。

 春希は経過自体は順調に進めているようだった。ただ、ときおり、発作のように不安定になるときがあるようで菊亜はその度に病院に行っていた。俺も協力したかったが、この件に関しては菊亜がきっぱりと、春希に関しては自分が面倒をみさせてほしいと主張し、俺はその意思を尊重することにした。

 マスターは閉める閉めると言ってまだ、相変わらず店を開けていた。もっとも、今週いっぱいでほんとうに閉店するみたいで、そのせいか店のなかも随分物が減っていた。

 けっきょく、俺は《FRIEDEN》で二度と「彼」を見ることはなかった。

 暴行事件は、相変わらず頻発していた。

もはや国中のあらゆるところで暴行は起きていた。

首都で、都会で、郊外で、田舎で、あらゆるところに暴力は溢れていた。

 でも、それは俺たちにあまり変化を感じさせなかった。

結局、暴力が溢れる状況なんてそれ以前からずっとそうだった。

 俺はまた呑気な大学生に戻っていた。

 純は今月の終わりでまたもといた場所に戻ると言った。

研修の成果を菊亜日光グループの海外支社に持ち帰り、また研究を始めるのだという。

 俺が菊亜の研究室に遊びに行ったときのことだ。

――私、これでも会社員だからね。組織の命令には逆らえないのよ

 俺は組織の命令なんていう、ちょっとした陰謀物の話にありそうな単語に反応した。

 東藤が居酒屋で言っていた純の完璧に真正なものとして記録されている渡航歴の話。記

録上では完全に保証されて、東藤の職業病的な妄想の疑念すら感じられる純の過去。一致

しない名前。

 ――見送りは要らないわよ。

――なんで。泣いちゃうから?

――まあ、そういうところね。

――向こうに行っても、連絡くれる?

――どうかな、社に戻ると激務だからね

――それって、じつは毎日無為で自堕落な日々を過ごす大学生を批判している?

――あなたも、菊亜くんくらい頑張って勉強して、うちの社に入社すればいいのよ。

――そうすればいっしょにいられるわよ。

 ――英語も頑張らなきゃね。

 ――待ってるわ。あ、ごめん、ちょっと電話。



「もしもし」

「……」

「あれ、純、どうしたの? ちょうど昨日、飛行機で発つって言ってなかった?」

「……」

「へえ、ああ、そうなんだ」

「……」

「これから? いいけど、またずいぶんと遅い時間だね」

「……」

「話って電話じゃダメなんだね」

「……」

「うん、わかった。南平台ビルだね。すぐ行けると思うよ」

 俺は電話を切った。

コートを取って肩にかけ、マフラーをしていこうか迷ったが、今朝見た天気予報によると例年より早くやって来たシベリア寒気団で早くも真冬並みの寒さになるかもしれず、雪も降る確率が高いとのことだった。俺は結局、マフラーを首に巻いた。

 俺はアパートを出ると、外気で冷え切ったドアノブを閉める。

天気予報を信じて正解だったようだ。

俺の吐く息は白く顕われて、拡散した。

冬がやって来たのだ。

 歩いていると、車が一台俺の横に止まった。詳しくはないので、車種はわからなかなかい。

「小川純のところに行くのね」

「ええ、そうですよ」

 運転手は窓を下げると、あいさつも言わず担当直入に訊いてきた。

「乗って。送ってあげるわ」

「結構ですよ。ちょっと遠いけど、その気になれば歩いていける距離なんで」

 もう深夜なので、終電はとっくに終わっていた。

 運転手は俺をじっと見つめると、あっさりと引いた。

少し意外に感じた。もっと食い下がるかと思ってた。

「そう。それじゃあ、夜道気をつけなさいね」

「東藤さんもね」

 東藤はエンジンを吹かせて、去っていった。

 このタイミングで東藤が現れたということは、まだ俺に対する監視は解かれていないのだろう。東藤は話すまでもなく、俺が純と会うことを把握していた。ということは、純に対する監視もまた継続中なのだ。

 歩きながら考える。

 純はもといた組織に戻るのだと言っていた。それはおそらく俺の近くにいて、彼女が役目として果たさなければならなかった「仕事」に終わりがきているということを意味しているのだろう。純が果たさなければならなかった「仕事」とはなんだったのだろう。俺はなんとなく、純はこれからそのことについて話をしてくれるつもりではないかという気がしていた。

 彼女がこれまで口にした言葉の意味を俺に教えてくれるのだろうか。

 彼女が発した言葉の意味を自分は知りたいだろうか。

 俺は自問する。

 知りたいと、俺は自分に答える。

 ある日、突然俺の前に現れて、みょうに積極的で、ときどき少し謎めいたことを口にする純。俺は彼女の話すことを聞き、そして彼女が見ているものと同じものを見たいと思う。

 純は俺とどんな気持ちで付き合っていたのだろう。

 そういえば、ともう一つ俺は思い出す。

 純は烏龍茶が苦手だったな。



20.

 俺は前回と同じで、階段を使って、ビルのフロアを上がっていった。純は俺たちが前回久田とやりとりをしたフロアで待っていると言っていた。

それはまた「彼」が無理矢理、女性を連れ込んで、襲って、そして殺した場所でもあった。

「久しぶり。でも、ないか」

「そうだね。三日ぶりくらいじゃない」

 俺は前に研究室で話をしたときのことを思い出す。

だが、純が久しぶりと言った気持ちはわかるような気がした。

「寒くなかった?」

「ちょっとね」

 俺は言った。

「何から話せばいいのか迷うわね」

「純の好きなように話せばいい」

 俺は彼女が話を始めやすいように微笑んだ。

 純はそんな俺を見て笑みを返した。

そして、そうね、と言って、「私はね……」と続けた。

「私はね、小川純じゃないのよ」


✽                 ✽                  ✽


「どういうこと?」

 俺はシンプルに尋ねた。

「私の名前は、あなたや春希ちゃんに名乗っていた小川純じゃないのよ。本当の名前は違う。いいえ、名前だけじゃない、年齢や国籍、私が所属しているといっていた組織、生い立ち、すべて嘘だったの、ごめんなさいね」

「どうしてそんな嘘をついたの?」

「私、この国の人間じゃないのよ。ほんとうは、この国から一つ海を挟んで大陸の真ん中にあるあの国の人間なの」

 俺は、最古の文明を持つ国であり、世界的にももっともたくさんの人たちが暮らしている土地の名前を挙げた。

「そう、その国。でも、ほんというと、そこで生まれたかどうかもわからない。私がいちばん最初に覚えている記憶は、小さな農村のなかにある橋の下で暮らしていたときのこと、たしかにそこはあの国のなかにあったし、周りの人たちの話している言葉もその国のものだったけど、父や母だと思える人とあったことはないし、話したこともない。私はその農村から、ある日やって来た大人に橋の下で暮らしていた人たちと一緒に、その国の中心に連れて行かれて、施設に入れられた。私は施設に連れて行かれて、ただ理由もわからずに与えられる食事や教育を受け取るだけだった」

 純は俺の目をじっと見つめていた。

「教育は最初の一年くらいは初歩的な読み書きや計算を教えられて、それから五年間くらいは、一気に高度なことを教えられたわ。母語以外の語学、数学、化学、生物、地理、それに歴史の授業。あなたたちの国で義務教育として課される小学校、中学校から高校生くらいまで十二年くらいで教えられることを私は五年で詰め込んだのよ。すごいでしょ。

もちろん、遊ぶ時間なんて与えられなかった。起きてすぐ授業、同級生なんてかわいらしいものはいなかったし、先生なんてあなたたちみたいな親しい関係じゃなった。先生はまるで私の口にパンを詰め込むようにものを教えたわ。きちんと覚えられないと、当然のごとくちょっとした暴力でお仕置き。朝から晩まで五年間みっちりと詰め込まれたわ。寝るときはね、耳にイヤホンして寝るの、睡眠学習みたいなやつよ。いま思えばあれはちょっと、馬鹿らしいと思うけどね。

休憩は朝起きて二時間だけ、身支度をしながら見せられるなんだかよくわかんない映画だけだった。フランス映画なんて、十歳にもならない子にわかるわけないわ。退屈だったし、ほんと何を考えてたんでしょうね。だから正直言うと、映画は好きじゃない。

基礎教育の五年間が終わるとまたすぐ違うことを叩きこまれたわ。その頃になると、私もそんな環境にすっかり慣れて、教えられたことはすぐ覚えたわ。私ね、エリートなの。英才教育を受けた特別に要請されたスペシャリストってやつね」

 純はなにがおかしいのかわからないが、自分の幼少時代を自嘲するように嗤う。

「私は工作員として育てられのたね。俗っぽくいえば、スパイってやつね」

 俺は、スパイ、と純の言葉を繰り返して呟く。

「ほんと、むちゃくちゃ。十歳の誕生日が終わるとそれまで一度も出されなかった施設から外に連れ出されて、それから何人もの人たちと毎日毎日会話をさせられて、会話から情報を抽出する方法、虚偽の情報を与える方法、相手の望むように、ときに望まないように振る舞う方法。相手が何を望んでいるかを瞬時に把握して、好まれるようにする方法。ありとあらゆる方法論とその実践を教えられた」

 俺はきょうまで話してきた純との会話をひとつひとつ思い返す。純との会話からはそんな型にはまったマニュアルで人を篭絡ような感じは一切なかった。純はあくまで自然に、俺たちと会話を楽しみ、話しているものだと思っていた。けれど、その自然さこそが純のいう教育のたまものなのだろうか。

「体育もあったわ。私が教えられた体育はユニークだったわよ。私ね、十歳でセックスもしたの、教育としてね。ふふ、実践的保健体育ってことかしら。どうすれば、男が悦んで、どうすれば自分が女として魅力的な少女に見えるか、あなたたちが思春期に青春として学ぶようなことまできっちりマニュアル通り教え込まれたってわけ。体育には、セックスだけじゃなくて、野外訓練もあったわ。最初は、モデルガンやおもちゃでの模擬訓練だったけど、すぐに本物で実戦訓練。一カ月に一回はね、実際に人を一人殺すの。そうやって、慣れさせられていくの。正直、この体育は私苦手だったな。体力と筋力はついたけど、根が運動音痴なのかしらね。とにかく、私は十歳から十四歳くらいまでは、授業として、セックスを教えられて、その次の日には人を殺すみたいな生活だった」

 俺は、まるで冗談みたいな純の話に何も言えずにいた。

 繰り返される教育としてのセックスと殺人、そんな生活を受けて、十歳の少女というのはまともでいられるものなのだろうか。いや、純にとって、まともとは何なのだろう。幼いころには外の世界に連れ出されずにさまざまなものを情報として叩きこまれて、頃合いになるとただ生と死に関する事務的な作業だけを伝えられた純は自分に関して何を思っているのだろうか。

「ほんと、いま考えるとお笑いみたいな話よね」

 純は続けた。

「十四歳になると、私の教育は終了。こんどは実際に現場に行って研修といったところかしら。私が初めて、任された「仕事」は戦地だった。私たちの国の隣で徐々に萎んでいって老いた国になっていたあなたたちの国で起きた独立運動。私は南方諸島独立紛争に行ったの」

 純は強調して言う。

「私が工作員として、はじめて「仕事」に行ったのはあなたたちの国だったのよ。とはいっても、いちばん最初はほとんどなにもしなかったけど、戦闘も行わなかったわ。私が潜入したのは、現地の反政府側ゲリラ。そこに、幼くて可憐な娼婦として、情報収集に行ったの。私は戦地で性を売って、男たちがことの間に話す作戦や行動予定なんかを逐一報告していたってわけね」

「でもね、その「仕事」で私はじめて私を教育した大人たち以外の人たちとまともに話したの。もちろん、会話訓練の教育で普通の人がどんな感じに話すとかは知っていたけど、普通に、育って、世の中と関わっている人と実際に話をするのは面白かったわ。ほんと、へええ、ふーん、こういう感じなんだってわかった」

純の言葉は冷酷で、恐ろしいくらいに俺に冷たく聴こえた。

「ほんと、教えられたとおりだって思ったわ。セックスも戦闘も、人との会話も、どんな人間がいて、どんな性格を持っていて、どんな風に考えるのか。全部、教えられたパターンのうちのどれかなんだってすぐわかった。ときどき、わからなくなっても、考えれば絶対どれかの性格類型や行動類型の派生や応用にすぎないってわかった。そして、ある人の欲望――というかまあ好みね――というのもよくわかった。人っていうのは、その人自身の環境を映す鏡なの。つまり、ある人を理解したければその人のこれまでの環境や人間関係、偶発的に生じた出来事を考えれば良い。いちばん手っ取り早いのは人間関係よ。人っていうのは、そのときどきで付き合っている人のモザイクみたいになっていることが殆どなの。その人だけの個性なんてものはその人にはないわ。いいえ、人が感じる個性なんて、限られた類型を基本に、周りの類型との機械的で自動的に起こる単なる連鎖的な反応よ。知りたければ、ひとつひとつ調べて、方程式に当てはめていけばいい。確かに少々ややこしいけど、その複雑系の式を根気よく解いていけば、必ずその人のパターンは把握できる」

 まるで、何かを否定するようにそう言い切る純。

あるいは、俺が否定したいから、そういう風に聴こえるんだろうか。

「俺もそうだった? 俺も、パターンだったの?」

 純は笑った。躊躇いはないように見えた。

「ええ、あなたもそう。菊亜くんの人の良い、困ったようなすこしミステリアスな笑い方、春希ちゃんの元気いっぱいで底抜けに明るいような幼い笑顔、そしてお母さんみたいな優しさ。そんな感じのモザイクで作った小川純であれば、あなたは必ず私に好意を抱く。そして、実際小川純に好意を抱いた。ねえ、私、魅力的だったでしょ」

 すこし、純の表情が曇ったように俺には思えた。そして、その曇りを無理矢理晴らすようにさらにその上に嗤いを重ねた。

「話が途中だったわね。ところで、あなたはマスターの退役軍人会についてどこまで知ってる?」

 純は話を自分の生い立ちから大きく切り替えた。

「退役軍人会は南方諸島独立紛争に派兵されていた人たちの集まりで……」

 問われてはじめて俺は、純の話と退役軍人会を繋ぐ線を見つけた。

 そうか、と俺は把握した。

すべては南方諸島独立紛争に繋がるのか。

「そう。すべては南方で起きた小さな紛争に繋がる」

 純、マスター、そして俺の母、彼ら彼女らはそこで何を見てきたのだろうか。

「退役軍人会は表向きは南方諸島独立紛争において負傷した兵士やその家族に対する支援、及び補助を行い、かつて派兵されていた兵士の間で交流を保つための組織とされているけど、それだけじゃないわ。裏では、戦時中の繋がりをもとに、現在の自衛隊、警察はもちろん、政界、財界にまで網の目をめぐらせ活動しているのよ」

 俺は東藤が居酒屋で話してくれたことを思い出す。

「私も正直に言うと彼らが現状何を目的にして、どういった活動を行っているかは詳しくは知らない。けれど、退役軍人会のなかのある一部分、とくに最も中心的な一部を担う連中はみな紛争中同じ隊に所属していたそうよ。彼らは紛争中、政府から隠語で「検体」と呼ばれていた」

 俺は南方諸島独立紛争がどんなものだったか、イメージする。

だが、うまく思い描けなかった。

俺はそれをテレビでしか知らなかった。

「あなた、ホテルでデータディスクを手に入れたでしょう。そして、それを試してみたはず」

 ホテルに置き去りにされ、俺が持ち帰り菊亜と共に試し、そして、警察に持っていかれたやつだ。菊亜が渡してくれたデータのコピーは俺のアパートの引き出しにしまわれていた。

「あれはね。その南方諸島独立紛争で検体と呼ばれていた部隊の従軍経験をデジタルデータ化したものなの」

 従軍経験をデジタルデータ化。

どういう意味なのだろう。

俺は菊亜がディスクを試した後に言っていたことに思い当たる。

 人間の化学的な身体というのは、原理的にコンピュータと変わらない。

思考や行動、人間が起こす出力というものはある種脳内に書き込まれたプログラム通りだし、それは逆においてもそうだと言える。つまり人間の出力、経験は人間の生体電位である神経細胞の発火の組み合わせによる神経の伝達パターンによる。経験という外界から採取された情報というのは俺たちにそういった神経電位というデジタルデータとして入力され、そして俺たちはその入力された神経電位というプログラムに基づいて反応を起こし、出力としてなんらかの行動を起こす。

「そう。あれは、兵士たちが従軍中、実際に見たり、聞いたり、その他の嗅覚や触覚なんかで受け取った経験を神経電位のパターンとして記録し、それをプログラムコードに置き換えた感覚データ。記憶容量は膨大なものに膨れ上がったけど、デジタルデータだから劣化も少ないし、再現度も高い」

 俺はもうすでに俺の日常となり、俺の全身に溶けこんでいるあの感覚を意識する。

 海岸の見える雨が降りしきるジャングルで泥にまみれて女の子に襲いかかる兵士。

恐怖、怒り、剥き出しになった生に対する本能がさまざまに溶け合い懐かしい性的な官能さをもたらすあの感覚。

まるで戦場にいるような感覚。

 いや、まるで戦場にいるような、ではない。

あれは、戦場そのものだったのだ。

「紛争中、彼らが「検体」と呼ばれていたのは、彼らが、反政府ゲリラが用いたある化学兵器による攻撃対象だったから。化学兵器、端的に言えば毒ガスね。反政府ゲリラは天候の流れを予測してサーモジェネレータによってエアロゾルを空気中に散布させた。それはすぐさま拡散して、風邪に乗り上昇し雲を作ったわ。やがて雨が降り、部隊はその化学物質を全身に浴びた。その化学物質の雨はね、すこし甘い匂いがするのよ。私が、紛争に派遣されて、もっとも最重要視されて回収するように言われたのは、その甘い雨のデータとその影響、後でわかったけど、反政府ゲリラの内部情報なんてただのダミー。私が派遣されたのは、部隊が被験者として「検体」に変わる瞬間を観察しデータを取得するためだった。ある日、私は命令で潜入先で共に娼婦として働いていた現地の少女たちを連れて、政府側部隊の何人かを慰安した。でも、怖がった女の子が一人逃げ出しちゃって、反政府ゲリラに助けを求めに行った。そして、私たちは部隊を誘導するよう指示されたポイントで、若い反政府ゲリラの一部と政府側部隊との衝突に居合わせることになった。

 丁度、私が一人の兵士と繋がって彼を慰安している最中に反政府ゲリラは来たわ。周りで同じように少女たちに慰安されていた兵士たちはすぐさま着るものも着ずに、ゲリラとの戦闘を開始した。でも、私が慰安していたやつは仲間が戦闘を始めて、殺し、殺されている状況の中でも、私と繋がることをやめようとしなかったわ。やがて、雨が降って、銃声がすぐ近くで、ずっと鳴り続けているのに、私と彼は性交し続けた。彼は、これまでにないっていうくらい興奮していた。なんども、なんども、私のなかで果てて、私の中から快感を搾り取った。私は訓練で十歳の頃からあらゆるセックスを覚えさせられて慣れていたけど、あれほど素晴らしかったセックスはないわ。そうよ、私も楽しんでいたの。夢中になって彼と結びついたの。私たちは、雨が降る泥のなかでもずっと交わり続けた。すぐそこで、人が死んでいってもおかまいなしよ。もうほんとどうにかなりそうなくらい気持ち良かった。なぜだか覚えているのは、そのジャングルからは海岸が見えたっていうこと」

 俺は確認する。そして、純が話すその戦場での慰安の光景はまったく俺のあの感覚が見ているものと一致させる。

俺もその場にいたということになるのだろうか。

俺もあのとき戦場にいたことに。

彼と同じように。

いや、「彼」として。

 俺は自分の額に手をやる。

紛争地帯での彼、そして、純と交わっていた自分、そして、強姦を続ける「彼」、すべてが、俺のなかで混じり合い、混乱していた。

純は笑った。

「あなたの頭の中に流し込まれたデータが「検体」のうちのどの人のものだったかはわからないけど、どうやら、あなたもその場にいたようね。いえ、あなたはきっと「彼」だわ。あなたと初めてつながって果てたとき分かったわ。あなたの中にある「彼」の経験が私のなかにも流れてきたの。なんだか不思議な感じだったわ。自分と繋がっているようでね」

 やっと逢えた。

俺は純が口にする言葉の意味がだんだんわかってきたような気がした。

「反政府ゲリラが撒いたそのガスは、神経系に働きかけるタイプのものだった。それは脳のなかで情報伝達を果たす役割をもつ化学物質に対して強引に外部から侵入し、影響を及ぼすのよ。侵入した化学物質は、本来正規に脳内で作られた物質の代わりの役目を果たして、ある特定の化学物質を過剰に引きだす。その過剰に発せられた物質は脳から血流に乗って全身に行き渡り、全身のソマティックマーカーと再び反応し、情動を正のフィードバック回路に乗せる。正のフィードバックに乗せられた彼らは、外界に対して、自身の感覚を全身で開き、取り込む。取り込まれた感覚はフィードバックとして作用し、さらに感覚を鮮明にして開く。そして、彼らの意識は際限のない興奮の渦の中ってわけね。恐らく化学ガスを撒いたのは反政府ゲリラの連中だったけど、その意味するところを彼らが把握してたかどうかは怪しいわ。私たちの工作か、それともあなたたちの国の策謀かはたまた全然違うところかはわからないけど、恐らくそのガスは複雑な思惑のもと散布された。そうでなきゃ、興奮させて、兵士の戦意を異常なまでに高揚させるような神経ガスなんてものをわざわざ敵に向かって撒くわけがない。もしかしたら、紛争自体が、その化学物質に対する大掛かりな実験をおこなうためのものだったのかもしれないって邪推すらしたくなるわ」

 純は吐き捨てるように言った。自嘲気味に嗤ったり、無邪気に笑ったり、憤ったり、困ったような顔を見せたり、俺は正直純がいまどういう思いで話をしているのか掴みかねていた。

「紛争はやがて、終わった。表向きの政治舞台のことなんて些末なことだけど、一応はあなたたちの国の政府の勝利ということで、独立は結局成し遂げられなかった。私はまた組織に戻って報告を終えるとまた違う場所へ工作員として潜入。また、違う経歴、名前をもってね。ほんと、いろんな国にいったけど、労いの言葉なんてひとつも貰ったことはないわね」

 純はお道化たように肩をすくめる。

「そして、南方諸島独立紛争から十年がたった」

 十年.時間の流れがやっと今に追いついた。俺は純がいう十年という言葉と自分の十年を重ね合わせてみた。母親が帰ってきて、死んでからの十年。春希と一緒に、のんびり、中学、高校、大学とふつうの学生として特に考えもなく進学してきた十年。その十年と純の十年とあまりに隔たっていた。

世界中で活動を続ける工作員とただの極東の島国で暮らす平凡な若者。

あまりに遠く離れている。

だが隔たってはいるが、それは戦争というキーワードでまた線として結びつく。

「例の化学兵器がどうなったか、「検体」たちや反政府ゲリラがどうなったかなんてまったく私は知らされてなかったけど。私は再びこの国に戻ってきた。詳しく「仕事内容」を訊けば、私の組織とも繋がりのある退役軍人会の中核に位置し始めた「検体」たちが何かを新たに仕掛けてきているということだった。私は「検体」たちと接触して、情報を探った」

 徐々に話が近づいてきている。

いま、この場にいる純と俺に。

 だが、話はそこで遮られた。

「動かないで!」

 前回と同じく、非常階段口のほうから、スーツ姿の東藤が現れ、純に向かって拳銃の銃口を向けた。

 純は扉が軋んだ瞬間に反応して、俺のもとへ駆け寄り、背後に回り俺の膝を蹴った。俺はバランスを崩して前方に身体を折られたそうになったが、片腕で顎を固定されて拘束された。純の全身を俺は背後で感じた。

 重く硬質な金属がほお骨にあたったのに気がついた。純は東藤に対して、俺を人質にしていた。冷たい銃口は俺のすぐそばで、穴の中を見通せそうだった。

「せっかちね。もう少しであなたが訊きたい話をしてあげるところだったのに」

「もう十分です。あなたを拘束するには十分な証言を得ましたから」

 そう言って東藤は、手元のレコーダーを持ち上げる。

東藤はいつから純の話を聞いていたのだろう。

最初からだ。

おそらく、ここに来るまでに俺と話したとき、いや、純がここに来て俺を電話で呼びているときにはもうすでに、俺たちの行動を把握して、監視していたのだ。俺をつけて、非常階段でじっと隠れて潜入していたのだ。

「あら、私をなんの咎で引っ張るつもり? 旅券法違反かしら」

 東藤は悔しそうな表情を見せる。

「確かに、あなたの書類上の記録は完璧です。戸籍、住民票、大学や関連の団体に提出されている記録に矛盾はない。パスポートも真正なもの。偽造は何ひとつありません。国内はおろか、海外での活動歴とも矛盾が出ないようになっている。こんなことあなた一人でできることではないでしょう。あなたの背後にどんな人間たちがいるのか、ますます気になりましたよ」

「私の背後には、たのしいたのしいお友達がいるだけよ。ね、透」

「まあ、こんな状況になれば、あなたを引っ張る理由はいくらでもあげられる。とりあえず、銃刀法違反の現行犯逮捕ってところで良いんじゃないんですか?」

「私を起訴できるかしら」

「お話を伺わせていただくだけで十分です」

「だから、ここで話してあげるって言ってるのに」

 そう言って純は、俺に押し当てた銃口にこめた力を必要以上に強くした。

「脅かしは止めてください。あなたに八島さんは撃てないでしょう」

「それ、何の根拠があって? 私は彼と一緒に「仕事」していたの、なら、最後まで「仕事仲間」として扱ってあげなくちゃ。ね」

 拳銃を持つ手はさらに強くなる。

 東藤は脅かしと言ったものの、やはり俺を人質に取られて、近づくことができずにいるようだった。

 俺を「仕事仲間」にして、共にした「仕事」。

もちろん、俺は純がこの国で行っていた行動なんて知りもしなかった。「仕事」なんて身に覚えはない。

俺は純と知らず知らず「仕事」させられていたのだ。

 俺は純に利用されて動かされていた。

そのための関係だった。

まったく、俗っぽい言い方だがそういうことだった。

窓の外からサイレンが聞こえてきた。東藤は同じ警官の仲間を呼んでいるようだった。

「どっちにしろ、ここからあなたが行くところは署だけです。それとも、映画みたいに屋上からヘリコプターで逃げるのかしら」

「そうかもね」

 純は嗤って東藤の投降の呼びかけに返した。ヘリコプターなんてありえない話だ。だが、純は苦し紛れに言ったとも思えないほど余裕のある表情だった。

「それで、八島さんを利用して何をしていたの?」

 東藤は時間稼ぎのためか、純に話を促した。

「利用なんてひどいわね。私がやっていたことはあなたたちと変わらないわ。私はただ事態をすこし観察したい方向に向けて、観察してただけ。理論に基づいて現象を起こして、サンプルを取ってデータを見ていただけ。実験と同じよ。むしろ、あなたたちのやり方のほうがよっぽど乱暴だわ。日が落ちてから、可愛い恋人たちを襲うなんて。そこらの非合法組織よりよっぽど無法ね。透、私たちの最初のデートのときに襲ってきた暴漢の女はこの東藤捜査官よ。彼女はあなたを暴力に巻き込むことで、フィードバックの興奮状態において観察したのよ」

東藤は何も言わずに、黙って俺たちに銃口を向けるままだった。

俺もなにも言わなかった。

なんとなく、わかっていたからだ。

警察は取り調べのときに、いくら暴漢女について話してもまるで取りあおうとはしなかった。

通常ならば、その暴漢女がいちばん怪しいのに決まっているのに。

そして、東藤は俺が暴漢女に暴力を振るわれた部分を妙に労わり、心底申し訳なさそうな素振りを見せた。

俺は取り調べの最後のあたりからすでに暴行女については東藤を疑っていた。

「それで、あなたは八島さんをどのように利用したんですか?」

 東藤はもう一度改めて訊く。

 純は再び話し始める。

「透、あのね。さっきも言った通り「検体」たちの実験に使われた化学兵器は対象者たちの脳に働きかけ、神経伝達の物質を増大させ、それを血流によって全身に流すことによって興奮作用をもたらすんだけどね、それだけではなく、副作用ももたらすの。南方諸島独立紛争の「検体」たちの性器内での精液分泌能力には明らかに一般的な人間と比較して有意な低下の傾向が見られるの。皮肉な話よね。興奮して、異常なまでに戦意は高まるっていうのに。精力は落ちて、子どもを残せなくなっちゃうのよ。通常の不妊治療もまったく効果が無い。そこで退役軍人会の「検体」たちは自分たちの経験をデジタルデータに記録したディスクにさらにプログラムを書き加えた。それは、対象者にコピーさせる神経電位パターンに自らの経験だけでなく、生体情報そのものもインプットするように神経電位データを加えたのよ」

 自らの生体情報をインプットさせるパターン。

人間という化学的身体はコンピュータと原理的には変わらない。

コンピュータがもつメモリーという、映像やら、画像やら毎回決まって同じタイミングで同じモニターのピクセルに描画するその組み合わせを指定するプログラムコード、そしてその表示そのものや組み合わせ方を操作するソフトウェアそのものもまたプログラムコードだ。窮極的には0と1、オンとオフという電気信号が発生しているかしていないかという二つの状態の組み合わせパターンなのだ。

それは俺たちが世界を認識し、行動を起こす入出力を司る脳の神経電位のありようと驚く程似通っている。そして、ATGC、という四つが、決まって同じ塩基対しかとらず、AとTの組み合わせかGとCの組み合わせかという二つしかないという事実とも。

話は、こんどは強姦事件のほうに振れてゆく。

「「検体」たちのDNA情報がインプットされた神経電位パターンは主に対象者の視床下部に影響を与えるわ。視床下部は主に下垂体に影響を与え、身体のホルモンバランスに作用する。入力される神経電位パターンは結果的に男性の性器器官において精祖細胞内のDNAの塩基配列を変化させる」

 つまり、と東藤は言葉を引き継ぐ。

「その人物が作りだす精液内の精子のDNAは書き換えられる」

 純は東藤の方に視線をやり嗤う。

「そう。持ち主の残す生命のその種の設計図を無理矢理奪って書き換えちゃうの。「検体」のDNAにね」

 やっとつながった。南方諸島独立紛争、そこで用いられた化学兵器、そしてその「検体」にされた兵士たち、そして、いまこの国で溢れかえる暴力、暴行、強姦事件、それらの犯人たちが被害者女性たちの性器内に残すDNAの奇妙な一致。それらは、皆、暴力のDNAという塩基配列のパターンで繋がっている。残された強姦犯のDNAは実際に行為を行った者たちのもともとのDNAとは一致しない。それは「検体」たちのDNAコードであり、行為をおこなった者たち自身のコードは書き換えられて存在しない。

「正確に言えば、視床下部からのホルモンを経由する細胞のDNAだけ、だけどね。でも、それには血流のなかの血液細胞も含まれる。はっきりいって実質身体の殆どの細胞は書き換えられているでしょうね」

 俺の身体の全身を流れ血流。

どうりで、取り調べのときの血液検査でも、容疑者たちと俺のDNA鑑定の結果が一致したわけだ。

 俺は取り調べ中に東藤が見せてくれたDNA鑑定の結果が一致した人間のリスト顔写真一人一人を思い浮かべる。そしてリストに乗っていなかった「彼」を。あのリストのなかの書き換えられた人間たちの何人が実際に女性を犯し、何人が犯していないのだろう。そして、あのリストには乗らず、警察がまだ認知していないDNAを同じくしている書き換えの対象者は何人いるだろう。また、そのうちの何人が暴行を犯しているのだろうか。

――たぶんそいつら全員が犯人だよ。

俺は「彼」の言葉を思い出す。そして、彼はこうも言っていた。

――さっきも言ったけど、ぼくみたいなやつはそこら中にいるし、そのうちと言わず何人もまた出てくるよ。

 そして、いまも強姦の報道は、この国に暴力が溢れているという報道は、きょうも流れ続けている。

「彼」の言葉は抽象的な意味ではなく、具体的な反応として俺たちの社会を覆い尽くそうとしていた。

「どうして、そんなことをするの。人々のDNAを書き換えて、戦争の疑似経験としての神経電位パターンをばら撒くのにどんな目的があるっていうの?」

「生物がDNAを残すことは自然なことよ。生き物はみんな自分のなかに宿された種を撒き散らし未来にわたって反応させていく。いえ、古い本に言わせれば、種そのものが私たちを操って行為させ行動させていく。反応しているのは私たちの方だわ」

「単なる、本能で人々に女性を襲わせているのに理由は無いってこと?」

 東藤は訊く。

「彼らはけっして人を操って女性たちを襲わせているわけではないわ。「検体」は単に人々の身体に神経電位によって化学反応をおこさせているだけ。彼らの思惑がほんとうのところどこにあるのかは知らないけど。遺伝情報学を学んだ身としては彼らの行為はきわめて合理的で生命の設計図の通り動いている。いえ、それは単なるこの宇宙が始まったときからの単なる物質の連鎖反応よ」

 生命の設計図の命令、それはとてもシンプルで単純だ。

生き残れ、生き残って、自らを増やし、増殖させ、存在し続けよ。

そんな単純な生存という命令だ。

いや、それすら単なる化学反応による物質の振る舞いに過ぎないのだろう。

そうだ、DNAを人間の喩えとして語るのは正確ではない。

DNAに意志などない。

DNAは単にものとして科学的で即物的な反応をしているに過ぎない。

化学反応としての振る舞い。

それが俺たちの暴力だ。

 いつの間にか、他の捜査官がフロアに詰め寄っていた。非常口であるいは、エレベータの横の階段の下で、タイミングをうかがっている。

「追い詰められた犯人は人質を取って誰に頼まれるでもなくおしゃべりを始める」

 お約束ね、と純はニッコリと笑う。

 それもまた即物的な反応の一つであると言うように。

「さて、お約束のおしゃべりもとりあえずここまで」

 純はふいに両手をあげて、俺を解放した。

「あとは東藤さん、あなたのところでお話しましょ」

 そういって、東藤の目の前に拳銃を放り投げる。

 しかし、東藤はいまだに俺たちに銃口を向けて構えを崩そうとしない。

「投降するの」

「ええ、いくら私でもこんな状況から抜け出せる気はしないわね。それに、保護してほしいの。私は本来昨日の便で、国に帰る予定だった。でも、もう工作活動はうんざり。もう、疲れちゃったもん。私も透や春希ちゃんと一緒に、この国で楽しく過ごしたいわ。でも、国の組織は私にそんなこと許さないでしょう。だから、取り引き。これからはあなたたちの国のために、活動するわ。二重スパイね。だから、保護よろしくね。私はあなたたちの国にとってある意味、賓客よ」

「そんな話、信じるわけないじゃない」

 東藤は冷たく言った。

「それじゃあ、捕まえる? 捕まえて、起訴して、国家反逆罪とかそんな三流の映画みたいな罪で死刑にする? できっこないわ。私の身分は、あなたたちの国に残されている私の記録は、あなたたち国自身で私の無実を証明している」

「いままでの証言は何だっていうの?」

「ぜーんぶ、嘘でした。私の作り話、妄想。私、じつは映画の脚本家になるのが夢だったの」

「そんな話が通用するわけないでしょう」

「あら、私が話した妄想の方がよっぽど通用しないわよ。人を興奮させて、女性を襲わせるDNAなんて話。それも、戦争中の軍人のDNAに犯人全員が書き換えられているなんて」

「退役軍人会もあなたの組織もしかるべき調査を行います。そうすれば、あなたの妄想も証明されるでしょう」

「退役軍人会も私の組織もあなたたちの国の中枢と深く結びついている。どこの組織も一枚岩なんてありえない。あなたが所属する公安部にだって、私、仲良くさせてもらっているのよ。あなたたちも、あなたち自身とどこまで戦えるかしら」

 東藤は苦い表情を見せる。

純の言う通り、この国での純に関する記録はすべて国が保証した完全で真正なものだった。それは純の言うとおりこの国にもまた、純に味方するものが数多くいるというなによりもの証拠だろう。そして、純の味方が純の言う通りこの国の中枢にまでいるというのなら、純がことを有利に進めるということは純がその気になればはけっしてありえない話でもないのだろう。

「とりあえず、休憩。あなたたちのところで私は休ませてもらうわ」

 純は自分から東藤に近づいていった。

東藤は諦めて、いまは彼女に従うことにしたらしい。黙って、手錠を取りだした。周囲で様子をうかがっていた他の捜査員も出てきた。純の周りを取り囲むように近づいてくる。

「絶対にあなたの思い通りにさせないわ」

 東藤が純を睨み付けて言う。

純は嗤って応える。

「仲良くしましょ、東藤さん」

 東藤はため息を吐き、銃をおろし、両手を差し出す純に手錠をかける。

 しかし、やはりこのまま終わるわけがなかった。

純は差し出した手をそのまま突き出し、東藤めがけて拳を見舞う。

東藤はその可能性を予測していたのかすぐに手錠を捨て、腕を掴もうとする。

だが、純の拳が東藤の腹に接触する方が速かった。

 東藤はうめき声をあげて、身体を折る。

そして、純は東藤のホルスターから拳銃を奪うと、すぐに周囲の捜査官に向かって何のためらいもなく、銃を向けた。

「撃って!」 

東藤が腹を押さえながらくぐもった声で叫ぶよりも早く純は周囲の捜査官すべての眉間を正確に銃で撃ちぬいた。

あっという間に純の周囲に一つ、二つ、三つと死体が出来上がる。

そして、最後に拳銃のグリップで地面に膝まずく東藤にとどめの一発を後頭部に叩きつけた。

あっという間の出来事だった。

それは純が俺たちと異質な世界で過ごしてきたことを証明するには十分すぎる動作だった。

純は地面に倒れて、辛うじて視線だけ見上げる東藤に冷たく銃口を向けた。

そして、嗤った。

「まだ、すこしだけ透に話したいことがあるの」

 そう言って、俺のほうに駆け寄ると、俺の手を取って、非常口のほうへ走り出した。俺は純に手を引かれ、走りだした。非常口を出るときに、階段下から、銃声を聞きつけた第二陣の捜査官たちが上がってくるのが見えた。

 俺たちは非常階段で、ワンフロアだけ上に上がった。四階は屋上に通じる狭い倉庫のようになっておりで、中央の昇降口から通じておらず、エレベータか非常階段でしか上がってくることはできない。純はフロアに出るとすぐに、拳銃でエレベータの操作パネルを打った。エレベータはたちまちショートを起こして、停止した。そして、非常口の扉は、俺が見たこともない道具を使ってロックした。

 捜査官はすぐに上がってきた。

非常口の扉を叩きつけ、無理矢理侵入を試みてくる。

純はガンガンとうるさい扉めがけて数発また拳銃を放った。そしていきなりフロアに引っ張り込まれて転び、跪く俺の右手を勢いよく踏みつけた。俺は純の突然の行動に対する驚きと痛みのあまり間抜けな叫び声をあげる。

扉を叩く音が静かになった。

扉越しから、捜査官が人を呼ぶ声がする。

「ごめん。痛かった?」

 純は扉の向こうに聞こえないように小声で俺に話かける。俺は純の問いかけを無視して、

「さっきの話、ほんとう?」

 と訊いた。

「もちろん、ほんとう。ぜんぶ、ほんと。嘘は言っていない。私は全てあなたに話した。少なくとも、私が知っていることは」

 俺は純のその言葉の真偽を確かめる余裕はなかった。

代わりにもう一つ訊いた。

「俺が単に「仕事相手」でつきあってたってことも、ほんとう?」

 言いながら、こんなときに女々しいことしか聞けない自分に俺はうんざりした。

 純は俺の質問に答えなかった。

代わりに話し始める。

「私、「仕事」を始めてこれまで、いろんな名前で、いろんな人たちとあなたみたいに付き合ってきた。友達だったり、恋人だったり、家族だったり、いろんな自分で、いろんな仕事をしてきた。こんかいみたいな「仕事」もありふれたものの一つだった。だけど、きょうみたいに「仕事相手」にそのことを話したのはきょうがはじめて」

 純は真っ直ぐ俺を見つめて言った。

「あなたがはじめて」

 俺は純の視線を受け止めて、同じように見つめた。

「どうして、話してくれたの?」

「わからない。でも、あなたといると、そんないろんな名前で過ごしてきた自分が嫌になる。小川純って名前で呼んでほしくなくなる。私、自分が嫌になるなんてはじめて。自分って言葉をなんだかこんな風に使ったのもはじめて。だから、よくわからない。ほんとうに、自分ってのがよくわからない」

 純はしゃがみ込んで、俺のコートの内側に丸い円盤を渡した。

「これは?」

 と、俺は訊く。

「映画。教えてあげるって言ったでしょ。大切に見てね」

 純は微笑んだ。そして、両手で俺の頬を包み込んだ。

純の両手からは拳銃の硝煙の匂いがした。

そして、純は俺に顔を近づけてキスをした。

俺は初めて純をみたときの表情を思い出した。

「もう少し長くあなたといればわかったのかな」

 そして、俺の耳元に近づけて、囁いた。


「ごめんね、産んであげられなくて」


 そして、拳銃に残された最後の一発で彼女は自分の腹を撃った。


 時間が止まったんじゃないか。


 俺はそう思った。


 俺の目の前であおむけに倒れてゆく純。


やがて、彼女の背中が地面に辿りつく。


あ、って思う。


音がしない。


音がしない。


銃声が響いているはずなのに。


音がしない。


なぜなんだろう。


なぜ音がしないんだろう。


非常口の扉が開いて誰か入ってくる。


大声で叫んでる。


音がしない。


聴こえない。


何も聴こえない。


非常口から入ってきた女が俺の肩に手をやる。


俺は振り返らない。


彼女の表情があった虚空を見つめる。


彼女は倒れていた。


なぜなんだろう。


 撃たれた腹から血が出ている。


 血が彼女の太ももを伝いその下に溜りを作っている。


 まるで流産したみたい。


 家に帰って、女の人が首をくくっている。


 女の人の足元に血が溜っている。


 まるで流産したみたい。


 まるで流産したみたい。


 純って俺は呼びたい。


 彼女がもう返事をしないのはわかっている。


 でも、純って呼びたい。


 名前を呼びたい。


 小川純って名前で呼んでほしくなくなる。


 彼女はそういった。


 だから、俺は彼女になんて呼びかければいいのかわからない。


 わからなかった。


✽                 ✽                  ✽


 東藤に連れられてビルの外に出て俺はやっと外界に対する感覚を取り戻し始めた。

 ビルの外は、警察の車両以外に野次馬たちが見物に集まっていた。

 口々に話す人たち。

 俺はその人たちのなかに菊亜の姿を見つけた。

 俺は東藤に口をきいた。

「あの、東藤さん……」

「なに?」

 俺は菊亜を指さして、

「あいつと少しだけ話をさせてくれませんか?」

 東藤は、すこし考えたあと、頷いて了承した。

「少しだけよ」

 東藤は野次馬を制する警官に命じて、菊亜を通すように指示した。

 菊亜は警官の腕を抜けて、俺に駆け寄ってくる。

「大丈夫か、透」

 俺は無理に笑って、頷く。

 菊亜も笑みを返し、

「また、捕まっちまったのかと思ったよ」

「こんどは人質だよ、バカヤロウ」

 まあ、これから警察でまた取り調べを受けるのだろうけど。

こんどは容疑者としてではなく、恐らく、参考人としてだろうけど。

「これ……」

 と、俺は囁いて、死角で東藤に見えないように菊亜に円盤を渡す。

「これは?」

「春希に頼まれてたやつ」

「ああ、映画な。こんどはなんてタイトルだ?」

「見てのお楽しみ」

 俺はそう答えた。



  20.

 それから一週間がたった。

 八島透は東藤をはじめとするたくさんの捜査官から小川純に関するさまざまなことを質問された。いつ出会ったのか。どういう会話をし、どういう風に自身を偽っていたのか。小川純と透の間で交わされた会話は執拗に丹念に繰り返しなんどもなんども事細かく尋ねられた。透はそれらの質問に淡々と、従順に答えていったが、捜査官たちはどうも透の口から話される小川純の像を掴めずにいた。もともと、小川純は虚像であり存在せず、単なる透のまえで工作員が演じた一つの役(キャラクター)に過ぎなかった。捜査官たちはおろか透自身の話がいまいちつじつまが合わず要領を得ないのも当然のことと言えた。それでも透は一生懸命純と一緒にいたときのことを懸命に話した。まるで、それが彼女の実像を作りだすとでも言うかのように。

 警察は結局透に対する取り調べを六日で切り上げた。もちろん、透は参考人として話を聞かれていただけであったから、元から事情聴取は一日数時間程度で、透は毎日アパートに戻れた。前回の取り調べと違い、透はこんかいは容疑者ではないのだ。取り調べは、比較的、事務的に穏やかに進められた。だが、透は警察に参考人として丁重に扱われれば扱われるほど、自分が彼女にとって、じつはそんなにも近い距離になかったのではないかという気になった。自分はけっきょく小川純としての彼女しか知らず、彼女の本当のことは何も知らない。参考人という立場は彼にそのような気分をもたらした。いや、捜査官たちにとっても、彼女に対して明らかになっていた情報は少なすぎた。透は工作員に対する最大の情報源のひとつだったが、それでも彼は彼女の小川純という側面しか明らかにしない。それほどまでに彼女の我が国での振る舞いは見事だった。

 警察は並行して、小川純の証言の検証を始めていた。南方諸島独立紛争退役軍人会の陰謀。政財界を始めとするさまざまな団体に網の目を張り巡らせ暗躍する元自衛官たち。だが、彼らに対する調査は難航を極めた。調査の陣頭指揮は警視庁公安外事第二課所属東藤理恵子警部補がとった。通常、外事第二課は国際情勢それも我が国周辺地方にある国々の裏の動向を主な捜査対象にするため、退役軍人会への調査はむしろ国内の右翼団体を調査する第三課が適任なのではないかとの声もあったが、東藤はそもそもこの公安第三課そのものに対しても疑念を向けていた。小川純が語った退役軍人会の「活動」は密やかに、しかし総じてかなりの規模で進行していることが考えられた。それは一連の強姦事件の被害の拡散のペースが日々増していることからも明らかだった。東藤はこれほど大規模な範囲で「活動」を広げていた退役軍人会に対してこれまで何ひとつ調査を行わなかった第三課に、そして警察庁内でことがかなりの規模で明らかになったこのタイミングでイニシアティブを突如主張してきたことに対して疑念を持った。小川純が語ったこの国の中央が一枚岩ではないという事実、そしてその他の様々な団体のみならず自らの部内においても彼女に便宜を図っていたものがいるという示唆を東藤は懸念したのだった。そして純のある種のその予言めいた言葉と東藤の懸念はあたっていた。こんかいの調査は通常では考えられないような、内外での妨害が早々に向けられたのであった。東藤率いる調査の面々はその初動の段階から暗礁に乗り上げることになった。


✽                 ✽                  ✽


 その日、マスターは時刻にして五時を過ぎるまで、じっと時計を見て待っていた。

紛争から帰ってきて四年後に始めたバー《FRIEDEN》をちょうど六年たったきょうの閉店五時をもって閉めるのだった。店のなかに据えられたかつての同僚から開店祝いにもらった柱時計がその時刻を告げた。

マスターは大きく息を吐いた。

だが、それはこれまでのバー経営に対する区切りがついたという過去に対するものというよりは、これからの活動について思いを巡らして結果のため息だった。

 扉につけられた来客を知らせる鈴の音がなった。

 マスターは来客を一目みやると、そのスーツ姿の女に言った。

「悪いけど閉店だよ。五時で始発が出るから、それで終いにすることにしてるんだ」

「あら、残念。前から来たかったんだけど、来るといつもクローズだったから」

「それは悪かったね。間が悪かったんだろうさ」

「明日もやってる?」

「悪いね。お嬢さん、うちは今日で店を閉めるんだ。だから、明日来ても仕方ないよ」

「ほんと、間が悪いわね、私」

 スーツ姿の女は肩をすくめた。

「まあ、せっかく最後に来てくれたんだ。座ってきなよ、一杯だけなら出すよ」

 そう言って、マスターは女にカウンターを勧める。

「わあ、ありがとう。おじさん親切ね」

 おじさんか、まあ、そりゃそうか、というか、もうおじさんって呼ばれるような歳かあ、なんていうセリフを言う歳すらとっくに過ぎているとマスターは自分で自分に心のなかでぼやいた。そして、マスターは扉の向こうの店の外に目をやって、

「わざわざ寒いのにお外で待ってくれてるボーイフレンドたちも中に入れていいぞ」

 と女に言った。

「ふふ、彼らはおじさんが私に乱暴したら、すぐ助けてくれるよう頼んでるの」

「乱暴なんかするわけないだろう」

「でもいまでも身体は衰えてないじゃない。元自衛官さん」

 女は笑った。

「よく知ってるな」

「私、これでも昼間は刑事さんやってるのよ」

 マスターは終始笑顔の女に言う。

「公安の刑事さんかい」

「あたり。もしかして、おじさんも私に興味持ってくれてたりするの? 嬉しい」

 女はしなをつくってお道化る。

「まあね」

 マスターは返す。

「私たち両想いみたいね。二人で話しましょ」

 女は相変わらずしなを作っていた。

「その、しょうもないお道化はそろそろ止めたらどうだい。お嬢さん、もう、そんな演技が似合う歳でもないぞ」

 女は眉を寄せて顔をしかめる。

「なによ、ひどいわね。でも、お嬢さん呼ばわりなんて矛盾してるわよ」

「まあ、お嬢さん年齢のわりに、若くて綺麗だし、サービスだ」

「ううん、褒められてるのか、けなされてるのかわからないわね」

「もちろん、愛情というのはその両方で表現するのさ」

「わかったわ。真面目に話しましょ。元南方諸島独立紛争陸上作戦部隊部隊長さん」

 女はやっと本題に入る気になったらしい。

「南方諸島独立紛争で「検体」と呼ばれていた部隊はあなたの部隊ね」

「俺たちは自分たちのことを「検体」なんて一度も呼んだことはないがな」

 南方諸島独立紛争。裏の動向はともかく、表向きでの経過は次のようなものだった。

 2020年に我が国の首都で四年ごとに行われる国際的なスポーツ大会が行われた。それは人類の歴史のなかでもっとも争いを繰り広げられてきた地で発祥したもっとも好戦的な人間たちが始めたものだった。そのスポーツの祭典は、古代は人間の肉体と精神でもって神に近づき、その軒昂を称えるという宗教的な儀式であったが、再開されるにあたって、人間の尊厳の保持、調和のとれた発展と平和といったようなヒューマニスティックな理念に移り変わっていった。だが同時に、その理念が神へのものであれ人間中心主義的なものであれ、結局のところ掲げられた理念など近代においてはまたたく間にたんなるお題目と化し、いともたやすく政治が絡んでくるのは当然のことであった。

1936年の総統のもとでおこなわれた大会。

そして同じ国でおこなわれた1972年の大会。

1980年のまだ彼の国が連邦であったときに行われた大会。

その大会はいかなるときでも国際的なあらゆる要因(ファクター)が複雑に絡み合った政治的経済的社会的な闘争の場であった。2020年に我が国で開かれたそんな平和の祭典もその例に漏れることはなかった。

 2020年の我が国の大会では、全国よりその肉体の頂点を極めたものたちが我が国の代表として集まった。その中には我が国の南方の島の出身者も数多く含まれていた。その南方の島の出身者たちは、我が国の本土にある中央と南方での政治的な軋轢という政治的力学をよく熟知していた。つまり、我が国の中央が南方に対して表向きの融和を示すアイコンとしての役割を果たすことが彼らには求められていたのである。その中で南方の選手団のうちのひとりがそのような見え透いた中央の思惑をメディア上で鋭く批判した。そして、そのような中央の思惑とはむしろ逆に、彼は自らの故郷に対する本土の度重なる政治的圧力をアピールし始めた。大会を直接運営する委員会と直接繋がっていた中央は委員会に働きかけ、そのようなアピールをおこなう彼を、そして彼のみならず南方の選手たちに対して政治的な主張を持ち込む者は平和の祭典の参加にはふさわしくないと、まさしく政治的な方法をもって大会の参加から排除をおこなった。

 しかし、この排除が事態をさらに加速させた。南方の島では、このような処置をとった中央に対して過激な抗議のデモがおこなわれ結果的にそれが彼らの民族感情に火を点け、共同体意識を覚醒させた。事態は本土の世論の一部を巻き込みさらに加熱することとなったのだ。

このような経過に対し国際的な非難も高まり、各国で参加辞退が相次ぐ中で、中央は事態収拾をつけるべくデモの鎮圧をはかった。中央は鎮圧のために、現地の機動隊に加え中央からも特別に組織し、南方の島に派遣した。こうして、南方の島では平和の祭典がこの国でおこなわれているそのさなかに、島民たちと本土の一部市民団体勢力たちを含んだ群衆と機動隊による激しい攻防戦が繰り広げられることとなった。

 南方の島に派遣された機動隊員たちの数は日を追うごとに増強され、南方の群衆たちに対する圧力はますます高まった。そして、しだいにデモは鎮静化され事態はこのまま中央の変わらぬ抑圧という形で終わるかに見えた。

 だがここで事態は思いもよらぬ展開を見せる。南方の島で国防にあたっている国内で大規模な予算と戦力を注がれていた南方の島の自衛隊地方協力本部が中央の意思にそむき、突如群衆に味方し、クーデターを起こしたのだ。クーデターを起こした南方の地方協力本部最高司令官は書類上の本籍こそ首都にあり、長年首都で暮らしてきたが、彼自身の幼いころの生まれ育ちは南方の小さな離島であった。

 南方の自衛隊地方協力本部とデモ隊は直ちに連合を図り、南方の自治体が所在し行政事務をおこなう庁舎と各種交通機関を占拠、ついで中世においては南方で為政者が王国として統治を中心的に行っていた今日においては観光名所となっている古来よりの城郭を占拠した。地方協力本部とデモ隊の連合はただちに文書、南方での地方テレビ局、ウェブ上のストリーミング配信などの各種メディア上で我が国からの統治離脱、独立そして抵抗の声明を発した。彼らは独自の政体と有志による自警団に基づく治安維持組織と軍隊を創設し、本土からの介入に対しては独立軍による武力行使をおこなうと述べたのである。

 かくして、南方諸島独立紛争は始まった。

「まったく、ふざけたもんだったね。俺たちは南方に行っている間だけ、「自衛隊」じゃなくて「国防軍」と呼ばれたんだ。同じ国民である同胞たちに銃を向けた俺たちがね。皮肉にもならない。軍隊を持たないはずのこの国で、俺たちはあの間だけは確かに「特別な機関」なんて曖昧なものじゃなくて明確に軍隊と呼ばれたんだ」

 このような事態に中央はすぐさま南方を除く多方面からの自衛隊を結集させ、議会は通さず閣議決定のもと連合を我が国の平和と安寧の秩序に対する挑戦とし、彼らに対する武力行使による排除を決定、すみやかなる戦闘の開始を宣言した。一部専門家からは、かかる事態は「内乱」にあたり内乱罪の適用が望ましく、自衛隊などの軍事組織ではなくあくまで警察による治安維持行為にとどめるべきであるとする意見も現れたが、世論は南方に対する武力行使を容認する見方がほとんで、大規模な反対意見がでることはなかった。

「私はもう少し揉めると思ってたんだけどね」

 東藤がどこか他人事のように言う。

「そんなもん中央の工作があったに決まってるだろ。あんた、そんときなにしてたんだ?」

「私? ちょうど大学にいた最後の年だったわ。官僚目指して猛勉強中、なぜかいまはこんなんだけどね」

「いや、順調に出世しているように見えるけどな」

「そういえば、あの頃うちの大学でも知り合いが何人か急にいなくなったりしたなあ。サークルとか勉強会の先輩とか、あれってそういうことだったのかあ」

「ふん、気づいてないわけないだろう」

 東藤のお道化にマスターは突っ込みを入れる。

 中央はかかる事態に関して表向きは内政不干渉の建前を取り静観の姿勢をとっていた南方諸島に軍隊を置くかつて自由の国と呼ばれた我が国の同盟国に正式に協力を打診し、同盟国はこれをあっさりと了承した。おそらく我が国の中央と同盟国の間では、この間にさまざまな密約が交わされたことが推測されるがそれはいまを持っても明らかにされていない。また、我が国周辺の近隣諸国、とくに「隣のあの国」もこのような事態に乗じてなんらかの動きを見せることが予測されたが、同盟国の牽制もあってか、表向きは不気味なほど反応はなかった。もっとも、裏では様々な思惑のもと、南方には周辺諸国の工作員が入り乱れたとはやはり言われてはいる。

 南方諸島独立紛争における戦闘は比較的短期間で終了した。同盟国を素早く味方につけた中央はそのまま我が国の「国防軍」を圧倒的な物量で展開した。占拠されていた関連施設をあっという間に奪い返すと「反政府ゲリラ」の投降を呼びかけ、地方協力本部の司令官を始めとする指導者層を捕縛し、身柄を本土に送った。

 中央はすぐさま事態の収束宣言を出し、本土に送った指導者層、そして独立軍を除いた南方の島民たちに一定の歩み寄りを見せ宥和をはかった。やがて、島民たちの世論も中央の歩み寄りを受け入れ、島内の情勢は紛争以前とはさすがに言えないまでも一定の落ち着きを見せるようになった。島内では、現在においても半年に一回ほど残存した過激派によるテロリズムが発生するが、市民レベルでの抗議集会やデモは徹底的に抑制されているのであった。

「それであなたの部隊も紛争に行ったのね」

「ああ、俺たちが行ったのは、紛争期間でも丁度中盤から終わりにかけてだ。同盟国が本国からもある程度の人数を派兵してきたくらいの時期に紛れるように現地に入った。まあその頃よりもずっと前から情勢は不安定だったから、俺たちの国でもいつかこういうことが起こるんじゃないかって何となく冗談で話していたものだったが、実際自分の在職中に訓練でなく作戦に参加することになるなんてほんとうのところ思ってなかった。もちろん、上からの派遣命令には従ったが、同じ隊のやつらの何人かは興奮こそないものの少し不安は感じていたらしい。といっても、もちろんそいつらもきちんと南方に行ったがね。俺は隊の連中と現地に着くと、何人かで部隊を組まされた。だいたい、二三十人かそれより少し多いくらいかな。まあ、小隊規模だ。俺たちは現地について最初の一ヶ月は電子兵装を機能させるための設備の設置を任務とした。まあ、マイクロアンテナとか、小型偵察機飛行のための探索ルートの構築とかそんなんだな。なんだか、その間は思ってたのと違って拍子抜けしたよ。どっちかっていうと、軍人っていうか、工事現場のおっさんみたいな気分だった。

状況が変わったのは一ヶ月が過ぎてからだ。俺たちは他の部隊と併せて四グループ合同で野営を張っていたんだが、その野営地が「ゲリラ」に襲われた。それまで、「ゲリラ」側はクーデターを起こした南方の地方協力本部の武器しか所持していないと思われていたから、向こう側からの大規模な襲撃はないと思われていたんだ。「ゲリラ」側は主に防戦がメインだったから、大規模な攻勢を俺たちは予測してなかったんだ。それがあいつら、急に兵装の量も質もけた違いに上げていた。使われていた武器の種類は自衛隊内のものだけでなく、諸外国の部隊が使う兵装も多く含まれていた。諸外国とは言うもの大半は「隣のあの国」の部隊が使う兵装だ。いちおう申し訳程度に中東や北のほうでの兵装を紛れさせて偽装をしていたようだったが、「ゲリラ」側が「隣のあの国」から供与を受けていたことは間違いないだろう。これは帰還後報告したはずだが、機密扱いになっているようだな。もっとも、「隣のあの国」も隠す気は正直全くないように俺には思えるがね。俺は部隊長として部隊の連中にすぐに撤退を命じた。夜間だったし、俺たちは電子設備の設置が主な任務と訊かされていたから、大した武器はもたされていなかったんだ。襲撃で他の部隊とは散りぢりになってしまったが、部隊内でさいわい死者は出なかった。俺たちは逃げてジャングルのなかに身をひそめることにした。無線で本部に連絡をとると、迎えは出せないから指示ルートを辿って、戻って来いとのことだった。負傷者が何人かいて、行軍をどうするかが最大の問題になった。本部が指示するルートと目的地は結構距離があって、しかも俺たちはジープやトラック等の車両は撤退の際に野営地に置いてきてしまっていた。車両等々は野営地ごと「ゲリラ」側に鹵獲されてしまっていたことが容易に予測されたから使えない。だが、俺たちがツイていたのは、野営地に派遣されていた衛生兵や自衛隊看護師の女たちと共に撤退していたことだった。俺は部隊長としてそいつらに負傷者の手当てを命令した。だいたい、一日くらいかけて、負傷者の手当てを済ませると。俺は行軍を指揮した。

本部の指示では海岸沿いのルートを進めということだった。もちろん俺たちはそんな指令は無視した。海岸は見通しが良いから格好の襲撃対象になるからな。俺たちは海岸線がいつでも確認できるていどに距離のあるジャングルの道を進むことにした。

食糧等は案外余裕があったから、そのへんで辛くは無かったが、夏前で、おまけに南方の気候のせいもあってやたら暑かった。それは辛かった。食糧の代わりに飲料水がすぐにつきそうだった。俺は飲料水は衛生兵たちに管理させ熱中症や日射病に気をつけるように指示し、飲料水はその対策に優先的に配分するように指示した。だが、飲料水はすぐに尽きた。それから俺たちの部隊はやばくなっていた。熱中症や日射病、それに肉体の面はもちろん脅威だったが、それと同じくらい暑さによる部隊内での精神の疲弊が問題だった。俺たちは苛立っていたんだ。俺は二十年以上も前に小学校の平和学習とかなんとかで聞かされた戦争の話を思い出した。ガキの頃に訊かされた平和学習ってのは――透たちの世代でもまだあるのかな――大陸の南のほうに従軍した年寄りの戦争体験ってやつだ。その従軍した年寄りたちは大陸の南で捕虜たちに文字通り死ぬほどつらい行進をさせたそうだが、まるでいま自分たちがその捕虜たちの気分だった。

水が尽きて二日目の夜に斥候が女を連れてきた。女たちは戦う意思のある民兵ではなくたんなる民間人だと言った。島では娼婦として働いているのだという。「ゲリラ」たちに連れられていたがはぐれてしまい、しばらく先にいったところで他の娼婦の仲間たちと一緒にいると言う。娼婦は疲弊した俺たちを見ると、自分たちには水の蓄えがあるから分けてやると言ってくれた。部隊の仲間は喜んで、娼婦に従おうとした。だが、俺はそれを制止した。というのも、市街地ならともかく、こんなジャングルでそんなにたくさんの娼婦がたっぷり水をもって、あまりにもこんな都合のいいタイミングで現れるはずはないと思ったからだ。俺は罠の可能性を警戒した。だが、南方の暑さですっかり喉を渇かし疲弊した部隊の仲間は娼婦たちについて行こうと言ってきかなった。俺は部隊長として冷静になるように訴えたが、どうしても仲間たちの渇きを潤そうとする欲求を鎮めることはできなかった。そして、仲間たちは明らかに娼婦を求めていた。仕方がないので、俺は部隊の半分だけ、娼婦のもとに試しで行かせてみることにした。衛生兵と自衛隊看護師、そして負傷した者と一部の仲間は俺と一緒にここで待機することにした。俺は娼婦についていく仲間たちに安全を確認したら、俺たちを呼ぶように言った。仲間たちは夜が明けても戻ってこなかった。そして待機している俺たちは朝日が昇り、昼にならないうちにまた日中の暑さに苦しめられた。一緒に残ってくれた仲間は、ついて行った仲間が水を独占するつもりじゃないかと冗談で言った。だが実のところ、俺たちは半分くらい真剣にその可能性を疑っていた。それくらい、暑さで苛立っていたんだ。正午になっても戻ってこない仲間たちにしびれを切らして、残った一部の者は追加で様子を見るやつを出すべきじゃないかと言った。俺はしかたなくその案を承諾した。追加で様子を見に行くのは、俺ともう一人くじ引きで決めたやつがいくことにした。俺は残していくやつに必ず夕方までに戻ると約束した。

 俺と部下は足跡をたどって何時間か歩くと人の集団を見つけた。さきに様子を見に行かせた部隊の仲間だった。予想はある程度していたが仲間たちは女たちと貪りあっていた。二十人くらいの男女が裸でジャングルの地面に寝そべりセックスをしていた。俺はその光景を見てとくになんとも思わなかった。べつに裏切られたとも思わなかった。仲間は南方に来てまったく楽しみなく過ごしていた。毎日毎日事務的な設備作業に追われていたし、夜襲にあってからは「ゲリラ」と遭遇しないように常に緊張しながらの行軍だったから仲間の精神ももう限界だったのを俺はよく把握していた。俺は女たちと情交に耽る仲間の一人に水はどこかと訊いた。そして、皮肉にもというか、幸運なのかよくわからないが、そこで雨が降ってきやがった。それまでよく晴れていたから、前触れもなにもない雲の接近だった。だが、喉が渇いていた俺たちはそれを全身で浴びた。久しぶりに口にする水はどこか甘いような気がした。

 そして、雨が降ってすぐに「ゲリラ」たちが俺たちのもとへ来た。娼婦の一人だった女が呼んだらしい。そのとき俺はやはり罠だったのだと思った。

 仲間たちは完全に不意を突かれた。女たちとセックスの最中に襲われたんだ。着るものも着ずに立ち向かうことになってしまい襲ってくる「ゲリラ」にすぐさまやられると思った。だが、俺たちは意外なほど力を発揮した。雨を飲んだ俺たちは異常なほどに興奮して戦意を高ぶらせた。

 俺たちは襲撃してきたゲリラを迎え撃った。まったく、傍から見たら裸族が文明人を襲っているみたいだったね。想像したら少し笑える。そういえば、仲間のうち一人は俺たちが「ゲリラ」と戦ってる間もずっと女と楽しんでるようだった。図太い奴だ。そういうやつは生き残る。現にそいつはいまも生きている。俺たちは部隊の半数でゲリラと戦ったが、一人も殺されず「ゲリラ」を全員返り討ちにして皆殺しにした。

 俺はいまでもその戦闘のことをよく覚えている。やつらは銃を持っていて丸腰の俺たちは明らかに不利だった。だが、その「ゲリラ」たちは恐らくまだ戦闘の経験がないやつらだった。あきらかに殺すことに対して躊躇いがあったし、恐怖があった。一つの動作はその恐怖ゆえに遅れ、俺たちの攻撃に対して無防備になった。いまにして思えばあいつらはまだ成人もしてなかったんじゃないか。対する俺たちも怖いといえば怖かったが、一応は訓練されてきたプロだし、その怖さは不思議と快楽と直結していた。化学物質の作用もあったのだろうが、あれほどの感覚はちょっと他では味わえそうにない。

 俺たちは不意の戦闘を終えると待機している仲間のところに戻った。雨はずいぶんと局地的で俺たちの周囲でしか降っていないようだったから、俺たちは止むまでひたすらた手あたり次第にそのへんにあったものを容器にして雨水を貯めこんだ。そして、それから待機している仲間のもとに戻った。娼婦たちは俺たちが「ゲリラ」を夢中になって殺してる間にどこかに逃げていた。

 待機していたはやつらは水を持ち帰った俺たちを大喜びで歓迎した。冗談なのか知らないが、あとで仲間の一人に訊いたら、明日になって俺が戻って来なかったら、待機している連中のなかで負傷した仲間を殺してその血を他のやつらで分けて飲んで、行軍を再開するつもりだったらしい。俺はそんなことにならなくて良かったと心底思った。

 俺は待機していた仲間が水をたっぷり飲んだら行軍を再開しようと思った。再出発の前に俺はあることに気がついた。残していった若い仲間の一人と自衛隊看護師の一人がいないんだ。そいつは腕を負傷していたはずだから、そんなに遠くに行けないはずだ、と俺は思った。そいつは真面目なやつで仲間のうちで娼婦について行くか行かないかという議論のときも罠の可能性があるという俺の意見を冷静に聞き待機することを選択してくれたやつだった。看護師のほうは野営地から逃げるときに俺が手を貸してやった女で、そのことを恩義に感じてくれていたのか行軍中俺を気遣ってくれた。二人は辛い行軍のなかでも疲弊していく他の仲間を明るく励ましていた。俺はこの二人が精神的にタフで気にいっていた。俺はその二人を仲間たちを休憩させている間に探した。俺は二人をすぐに見つけた。仲間たちから離れた茂みの陰にいたので、看護師に手当てでもしてもらっているのかと思ったが、なんのことはないそいつらも二人で楽しんでいたんだ。二人は地面に寝転んでセックスをしていた。俺は不粋なことはすまいと、行為が終わるまで二人に声をかけるのは控えた。そして、終わると仲間が戻ってきたので行軍を再開すると二人に告げた。

 行軍を再開して二日後、俺たちは本部に帰還した。いざ安全なところに戻ってきて振り返ってみれば、俺たちは野営地での襲撃から一人も欠けずに行軍を終えることができた。俺は上官からそのことに対して褒められ、その功績で帰還したら勲章かなにかの賞を与えると言われた。そして、それから俺たちは紛争が終わるまで本部で任務に就いて、終わると全員で帰還した」

 マスターは話を終えた。長い話をしたというのに、水の一滴すら飲まなかった。

「これが俺たちの部隊での従軍経験だ。中央のやつらが「検体」と呼ぶ俺たちの部隊のな。俺たちが娼婦たちのところで飲んで浴びた雨、恐らくそれが俺たちを「検体」にした化学兵器なんだろう」

 東藤は頷いた。小川純が南平台ビルで話したことと一致していた。

 だが、マスターは次の一点で小川純と異なる見解を示す。

「でもな、俺たちがそのときに感じた興奮は決して化学物質によるだけのたんなる反応ではなかったと思う。あれは俺たちのなかにもともとある何かだ。こればっかりは実際に感じてみないとわからない。俺たちのなかで「ゲリラ」を殺すために向けたピストルを撃つときの引き金の感触、重さ、手ごたえ、反動。首を絞めて殺すときの掌いっぱいに感じる咽喉の手触り。ナイフが相手の体に侵入していくときの楽しさ。あれは俺たちそのものなんだよ。俺が待機していた仲間のところに戻ったときに繋がっていたあの二人。あの二人は、雨を直接浴びていないし、まだ飲んでもいなかった。それでも、俺はあの二人が俺たちが「ゲリラ」を殺すときの感覚を知っていたと思う。化学物質は触媒に過ぎない。あいつらはあいつらで極限の状況の中「知った」んだ」

 マスターは夢を見る少年のように顔をほころばせて言った。

「それで、その経験をどうしてこの国にばら撒くの?」

 マスターはまた言う。

「俺たちが帰還して戦争が終わると、この国はまた日常に戻っていった。確かに、あの戦争は俺たちの国の教科書にのり、いまでもことあるごとに語られる。でも、違うんだよ。あの戦争のあいだに本土でのうのうとして暮らしていた「お前たち」はわかってないんだ。「お前たち」は、忘れてしまったんだろうか。いや、違う。「お前たち」は知らないんだ。けっきょく、南方で戦っていたのは「俺たち」だ。「お前たち」は自分たちの国が戦争にあったこと。いや、いまも戦争にあることを知らない。「俺たち」も「お前たち」もいつも戦争の中にいることを「お前たち」は知らないんだ。戦争が終わったあとの中央のやつらによる叙勲式のとき、あのときの「俺たち」の国のトップは、型どおりの言葉と、ご苦労様。それだけだよ。そして、短い間だけ暮らせる僅かな金を俺たちに渡して、「俺たち」のことを無視しようとした。いや、中央のやつらだけじゃない。この国の「お前たち」。「お前たち」全員が紛争中もそしていまも「俺たち」を無視し続けている。気づかないふりをし続けている」

 東藤は言った。

「それが目的? 自分たちの紛争への従軍の事実を蔑ろにしてきた中央政府、そして国民たちに対する復讐?」

 マスターは否定する。

「復讐? そんなくだらないエゴイスティックなものじゃないさ。むしろ、「俺」は「お前たち」のためにやってるんだ。退役軍人会はボランティア組織だからな」

「ボランティア?」

「歴史だよ。それも教科書に乗るようなただの言葉じゃない、「俺たち」の血を、「俺たち」の身体を、「俺たち」の電流が流れる神経が受け継いだ歴史を「俺たち」は「お前たち」に伝えたいのさ」

 東藤は自分で少し考えてみた。だが、まったくマスターのことばを理解できなかった。

「……どういうこと?」

「「俺たち」は、お前たちから見れば純の国の組織に協力しているように見えるかもしれないがほんとうのところは違う。俺は「隣のあの国」と協力してこの国を売ったり、復讐したりするつもりはない。「俺たち」は自分たちのこの国が好きなんだ。心底、愛情と愛着と親しみを持っている。純の国の組織は「俺たち」の経験を我が国の国民全員が経験すると、国民はみな疑似的なPTSDか何かに罹っちまって、すっかり腰抜けになって戦意を失うと予測している。やつらはそれを機にこの国を狙っているようだが間抜けもいいところだ。お前も、「俺たち」の経験のなかにある透を見たろう。やつらが考えていることと実際は逆だ」

 東藤は透に対して自分が振るった暴力を思い出す。そして、ある閾値を超えて、経験を手にした透が見せた目。あまりの豹変ぶりに、思わず「目覚めた」と口にしてしまった自分を思い出す。

「そうだ。逆だ。腰抜けになるなんて、戦意を失うなんてありえない。こんなにも眩暈がしそうで楽しくて素晴らしい感覚はない。まさに生きているという気持ちだ。我が国はいつのころか停滞し、国民は生きる理由をすっかり失い。あまつさえ、若いやつらは子供を作ろうという気さえ失っている。だが、それは決して経済の成長が止まったからでも、イデオロギーを失ったからでもない。歴史を失ったからだ。肉体の歴史をな。俺たちの祖先から、ずっとずっと前から受け継がれてきた歴史から「お前たち」は目を背けている。ただ何の理由もなく生きる。ただ生き残る。生き残って自らの血に、DNAに、神経電位に語りかけて要求する歴史の声を聴け。それはただ、暴力をふるい、よその連中を皆殺しにして、ただ生き続けろ、という声だ。快楽に身を宿して、伝え続けろ。伝え続けるというメッセージを伝え続けろ。受け継いだのは「俺たち」だ。だから、「お前たち」に伝える。「お前たち」は紛争中ただのうのうと暮らし、ときおり流れてくるメディアの映像を見てのんびり酒でも飲みながら議論してたんだろ。戦争は良くないね。いやいや、戦争は必要悪だよと、呆れるくらいの恐怖と興奮を知らずのうのうと飯を食い、クソを垂れ、お喋りし合った。「お前たち」は知らない。「お前たち」は何も知りはしない。あの歴史が受け渡される場所を。あの場所で肉体に直接語られる真実を。人を殺し、人に殺され、人が死んで、肉体が朽ち、生き残った者にただ受けわたされていくあの歴史のほんとうの姿を知らない。だから、「俺たち」が伝える。「お前たち」に、「お前たち」の代わりとして。はるか古来より「俺たち」の祖先が、他人を殺し、伝え合ってきた歴史を伝える。「俺たち」があの場所で手にいれた肉体とともに」

 東藤は何も言えなかった。

マスターの口から語られる言葉の異常ななにかに一切口を開き反応することができなかった。

「「俺たち」はこの国を愛している。この国に伝えられた。だから、伝える。「俺たち」は歴史を伝えるものなんだ」

 マスターはそこまで言い切ると黙った。

 東藤も口を開かずただ黙って俯いていた。

そして、ようやく流れてきた言葉を頭のなかに留め、ほかに訊くべきことを尋ねた。

「八島くんに拘るのはなぜ?」

 マスターは嬉しそうに破顔した。

まるで、愛しい恋人のことを尋ねられたもののようだった。

「そうだ。透はもともと俺たちの計画の対象に入っていなかった。計画は俺たちが南方で経験したあの戦争を歴史として伝えることだった。次の世代に。子供たちに。そして、その子供たちが伝えてくれることを願って。だが、俺たちは子供を作れない。皮肉なことだ。あの化学物質で、歴史を伝えられて、あの物質で伝えることを断たれたんだからな」

 東藤は純の証言を確認する。

「あなたたちは女性に子供を宿すことができない」

「そうだ。俺たちの脳のなかに入ってきた化学物質は血流に乗って俺たちの生殖器の精液を作る能力を奪ってしまった。俺たちの身体は損なわれた。だが、伝える方法がまだ完全に失われたわけじゃない。俺たちの経験は、脳のなかの神経電位として残っている。そして、それはDNAという塩基配列のコードに、プログラムとして人々に書き写すことができる。俺たちは、純と純が紹介してくれた遺伝情報学者、そして、ちょっとした友人である神経化学者に助けてもらって俺たちの経験を円盤に移した。まるで映画をブルーレイディスクに焼くみたいにな。円盤の保存された俺たちの経験のプログラムはデジタルデータとしてコンピュータを媒介にして、人々の神経電位パターンを引き起こし、再生され、血と精液のDNAを書き換える。プログラムで表現された俺たちの経験のデジタルデータを撒くのは、友人の神経化学者に助けてもらった。そいつは若いのに段取りが上手くて、何でもできる。たいしたやつだよ。そいつは自分の父親が経営する企業のグループ系列病院でその経験のデータを撒いてくれた。若年層を対象にした医薬品治験の検査といっしょに脳にデータをインプットさせたのさ」

 東藤はそのマスターがいう彼の友人であり、若い神経化学者であるという人間に心あたりがあった。調査の結果、ある程度その人間に近づけていた。

東藤は思った。

まったく、八島くんってほんと巻き込まれることに関しては天才ね。

 あるいは、彼が巻き込んでいるのかもしれない。

そうでなくては、こんなにたくさんの要因(ファクター)に彼が囲まれるわけがない。

彼が渦の中心なのだ。

「それで、八島くんはどう関係するの?」

「少し話が逸れたな」

 マスターは自分でも少し柄にもなく興奮していることに気がつく。

「透はたしかに治験を受けなかった。当初から計画にも入っていなかった。べつに透を無理に巻き込む理由はないしな。でも、俺は巻き込んだ。そう、俺が無理矢理巻き込んだんだ」

 マスターは心のなかでほくそ笑む。透のホテルにディスクを置き、ここまで狙いどおりになるとは思ってなかった。まあ、透が計画から外れていきそうになるたびにわざわざ修正して導いたのは、純とマスターの友人だったが。二人がこの店に来ていたときのことをマスターは思いかえす。きっと二人も透を計画に巻き込みたかったのだ。

俺たちは事情は少しずつ違っているが、透のことがよほど好きらしい。

「透の母親はな。南方で、俺が部隊の仲間たちと行軍してたときに随伴していた自衛隊看護師なんだ。俺は帰還したあと特別に彼女と連絡をとったり、殊更探ったりはしていないが、何年か経って、この街に来た透を偶然見てすぐピンときたよ。透は彼女の子だとね。俺はすぐに何か運命みたいなものを感じたよ。何かが俺たちを反応させているとね」

「それだけ?」

 マスターは頷いた。

「そうだ、それだけだ。でも、俺はあいつを自分の子どものように思っている。俺の子供を作る能力は奪われたが、もし子供をもうけていたらあんな感じのガキだったのかなあって思うよ。丁度、歳もそれくらい離れているしね」

 マスターは部隊の行軍の際に連れだった自衛官看護師の彼女を思い出す。野営地襲撃のなか彼女を助けたこと、そして過酷な行軍のなかで笑顔を絶やさずに、楽しそうに皆を励ます彼女を。男である部隊の仲間の誰よりも女性である彼女の方が精神的に逞しかった。夜、本土に残してきた息子について嬉しそうに語る彼女が行軍のなかでマスターにとっても励みになった。そして、彼女が自分の部下と繋がっているのをマスターは見た。

 俺はあのときことが終わるまで物陰に隠れていた。それは若い二人に遠慮したというのもあるけど、そうせざるを得なかった。そうでもしなければ、部下を殺し、彼女を襲ってしまいそうだった。俺は物陰に隠れて二人の嬌声を聴いて興奮していたのだ。

 マスターは不動産屋で透を見たときすぐに彼女の面影を感じた。その感覚を信じて自分の店に誘い世話を焼いてやり、あるとき母親の写真を見せてもらい確信した。実家で元気にやってるかと訊くと、透は戦争から帰ると彼女が自ら命を絶ってしまったと言った。 

マスターはその日、一杯だけ透と共に杯を交わした。

東藤は思い出を反芻しているマスターの表情を観察しながら、グラスを口許に運ぶ。勤務中で控えていたし、何よりも安全を考えて、手を付けないようにしていたのだが、うっかり一口舐めてしまっていた。

東藤は頭の中でマスターの話を繰り返し新たに手に入れた情報を整理する。東藤のこれまでの調査、そして純の証言と食い違いは少なかった。マスターの話に嘘は少ないと考えて良さそうだった。

もう一人、マスターの部隊には、キーマンがいるんだけどね。

しかし、それはいずれ調査で明らかにすることができるだろうし、マスターの友人の神経化学者から聞きだすのが一番手っ取り早い。東藤はそろそろここに来た一番の目的を果たそうと思った。もう、日はとっくに昇っていた。

「話してくれて、ありがと、マスターさん」

「いいさ。どうせ、会うのはこれで最後さ。いや、今度会うときはゆっくり話なんてできなさそうだしな」

「いえ、マスターさんには、これからもゆっくり語ってもらうわ」

 そう言って東藤は背後の腰に手をやる。

「俺を捕まえるのか。悪いけど、その気は無いよ。まだすることがあるんでね」

「私のボーイフレンド達から逃げられるかしら」

「これでも、元「国防軍」扱いだった自衛官なんでね」

「そう。それは残念」

 東藤はマスターの軽口を流し、腰のホルスターから取りだした拳銃を構える。

 マスターは手を挙げて、

「おいおい、ほんとうにお嬢さんは物騒だね。純が言ってたとおりだ……」

 苦笑いをした。

 東藤はマスターの言葉に一切反応せず、その引鉄を二度引いた。

 短い破裂音が店内に響き、マスターの後ろに並べられたグラスが震えた。

 そして、銃弾を胸に受けたマスターは倒れる。

 東藤は目的を果たし、すぐに報告を済ませる。スマートフォンを取りだし、着信をかける。2コールで相手は応じた。

「もしもし、東藤です」

「……」

「ええ、「検体」の回収は終了しました。これで三体目です。いつも通り河野先生のところに引き渡します。菊池さんがもう先に着いているはずです」

「……」

「大丈夫です。脳は破壊していません。頭は狙っていませんから」

「……」

「失礼します」

 マスターは店の床に倒れながら、遠のいていく東藤の声をなんとか聴きとろうとする。

 東藤はしゃがんで、まだかろうじて意識の残るマスターの表情を覗き込む。口を動かし声にならない声で東藤に何かを伝えようとしている。東藤は耳を近づけその断末魔の声を聴く。

「……止血……してくれ」

「悪いけど、それは無理ね。でも、あなたの脳は私が引き継ぐわ。あなたの経験と共にね。あなたのいう歴史とやらは私たちが受け継ぐから、安心してね」

 東藤はマスターの口に耳を近づけなおも今際の声を聴く。

「血が勿体無い」

 マスターはそういうと目を閉じた。

「哀れね」

 東藤は立ちあがってマスターの死体を見下ろしていう。



  21.

 俺は《FRIEDEN》の扉の前に立って、クローズの文字を見つめる。扉越しに中を覗きこんだが誰もいなかった。

マスターはどうやら本当に店を締めてどこかに行ってしまったようだ。

 連絡先くらい教えてくれてもよかったのに。

 俺は息を吐く。

呼気は白くなって視界に現れまた消えていった。

 俺は《FRIEDEN》に入るのを諦めて、約束通り《TACTIQUE》に向かった。

《TACTIQUE》の扉を開けると外の乾いた寒さとは対照的に湿度の高い熱気が流れてきた。蒸し暑い真夏のようだった。

俺はコートを脱いで入り口のロッカーにしまった。

 フロアではいつものように大学の軽音サークルの連中が演奏していた。

 俺は激しいロックの演奏を聴いて思い出す。

 純と来たときもこの曲だったな。

  

戦争に行こう! 戦争に行こう! 戦争に行こう! 戦争に行って、証明しよう!


戦争に行こう! 戦争に行こう! 戦争に行こう!


フロアで踊る人はバンドのボーカルにマイクを向けられてレスポンスを返していた。

激しいビートが振動になって身体に伝わって、感覚といっしょに鼓動を撃つのを感じた。


戦争に行こう! 戦争に行こう! 戦争に行こう!


俺は音に酔って、壁に手をつく。

身体じゅうが感覚でどうにかなりそうだった。

俺はバーカウンターで水を貰いなんとか気を落ち着かさせる。

菊亜はまだ来ていなかった。

俺はフロアで踊り狂う人たちを眺める。

俺と同じくらいの歳の浅黒く日焼けした女が目に入る。

少女はフロアの人たちと一緒になって、レスポンスを返す。


戦争に行こう! 戦争に行こう! 戦争に行こう!


 後ろから声をかけられた。

菊亜だった。

 菊亜は二階に行こう、と言って階段を上がった。俺は黙って、その後ろをついて行った。

 席に着くと、喧騒の中菊亜は話し始めた。

「春希元気にしてる?」

「お前にも、連絡来てるだろ?」

 菊亜は頷く。

「毎日ね」

 春希は退院したあと結局大学を辞めた。おばさんに連れられて、実家に帰ったのだった。

 春希はいま家の手伝いをしながら、元気にやってる。少なくとも、俺が帰って様子を見行くとそんな感じだった。春希は元気にしている。たぶん……。

「でも、もうダメだな。俺たち」

 菊亜は困ったように笑う。

「どうして? 俺たちの地元に遊びに来いよ」

「ダメなものはダメさ」

 菊亜はそう言った。

「そうか」

 俺は菊亜の言葉を受け取り、それ以上春希に関しては何も言わなかった。

「これ……」

 そういって、菊亜が俺に円盤を差し出す。純が映画だと言って渡してくれたものだった。

「悪いな。預かってもらってて」

「べつにいいさ」

「中身は?」

菊亜は答えた。

「前のやつとデータ構造は同じだ。アプリケーションファイルが一つ入っているだけたった。前のデータディスクと違ってファイルサイズはそんな馬鹿みたいにでかくなかったけど……」

「そうか、ありがとう」

「たぶん、俺の見たところだと、これも神経電位のパターンがプログラムとして記録されてる。でも、前回のやつみたいに特定の誰かの経験はたぶん入ってない。電位パターンは通常の脳のパターンモデルとかわらないようだった。わかんないけど、これをまた脳に流し込めば、また電位パターンが書きこまれる。おそらくだけど……」

 菊亜は円盤を見つめて言う。

「前回のディスクで書きこまれた電位パターンは消えるだろう」

 ということは、あの感覚をもたらす何かもまた消えるのだろう。

 純は俺に何を思って、このディスクを渡したんだろうか。

 状況に巻き込んだことに対する贖罪? 後始末? 

 わからなかった。

 純はこのディスクで俺の神経電位パターンをもとに戻すことを望んでいるのだろうか。

 もう真意はわからない。

 死んでしまったのだから。

 純は死んでしまったのだから。

 俺は二度繰り返す。

 俺は菊亜に訊く。

「純はこれを使って、経験を埋め込まれた人を解放してほしいのかな。これをばら撒いてほしいのかな」

 もしこれが菊亜の言う通り、埋め込まれた経験を解除して、あのディスクの神経電位パターンを流し込む前に戻すことができるものなら、いまも続いている暴力を鎮めることができるのかもしれない。ばら撒くための具体的な方法はとくにないが、これを人々の脳に流し込めたなら。難しそうだが、東藤に頼めばできそうだった。もっとも俺は東藤にこのディスクを取り上げられたくなくて、菊亜に預けたのだが。

 俺は菊亜の表情を伺う。

 菊亜は正直に自身の考えを話す。

「わからない。でも、少なくとも、このディスクをどうするかはお前に決める権利があると俺は思う。お前が渡されたんだから。なあ、透、俺は……」

 俺は菊亜の続く言葉を待つ。

しかし、菊亜は何も言わなかった。

結局、俺のほうから話を再開する。

「菊亜は今の状況と今回の事件をどう思う?」

 菊亜は何も応えない。

「純は何がしたかったんだと思う?」

 応えない。

「マスターはどこに行ったんだろう?」

 応えない。

 そして、俺は訊く。

「菊亜はどこまで関わっていたの?」

 応えない。

ただし、こんどは視線を上げて、俺を見つめ返した。

その目は弁解も謝罪をするつもりがないことを俺に伝えてきた。

俺はべつにそれで構わないと思っていた。

もう、なんというか、そんなことどうでもいい。

「気づいてたのか。いつから?」

「つい最近だよ。ここ二三日」

 冷静に思い返してみると、菊亜は純やマスターと同じように、俺をさりげなく、状況に誘導していた。俺は春希の見舞いのときに一緒に私的に犯人を捜すのを手伝ってくれと俺に頼んできた菊亜の表情を頭に浮かべる。

 あのとき、菊亜はどんな気持ちで俺に頼んだのだろう。

「春希を「彼」に襲わせたのも菊亜?」

 春希が襲われているカメラの映像を見ているときの怒りに震える菊亜。

俺は未だにどうしてもあれが演技だと思えなかった。

もしかしすると、あれは自分に対する憤りだったのだろうか。

熱心に春希の見舞いにいくことは、菊亜なりの償いのつもりだったのだろうか。

 俺は自分の願望が混じった推測を立てる。

 菊亜は俺の最後の質問に答えなかった。

そして、表情を俺に気取られないように、俺から視線を外し、下のフロアで踊る人たちを見下ろした。

「俺さ。歳の離れた兄貴がいたんだよね。十歳かもう少しくらい離れた兄貴」

 俺は菊亜からそんな話を初めて聞いた。

「兄貴べつに自衛官とかでもなかったんだけど、南方諸島独立紛争に従軍したんだよね。まあ、志願兵なんて制度はなかったと思うんだけど、だからまあ、親父のコネで。でも、それ、親父に反抗するつもりで行ったらしいのに、親父のコネで行くなんて。ちょっと馬鹿みたいだよね。親父反対してたのに、どうして止められなかったんだろ?」

 菊亜は俺のほうに表情を見せない。

ずっと、下のフロアを眺めていた。

「まだ、うちに帰ってきてないんだ。戦争が終わっても、帰って来なかったんだ。戦死報告ってのもなかったから、たぶん本土に帰ってきているとは思うんだけど。なにやってんのかな、そこらでてきとうに会社員でもして働いてんのかなあ。

うちの親父の会社、まあ結構でかい会社だろ。戦争が始まるまえでも国内くらいなら知名度も高かったし。業績もまあ良かったみたい。なんか、もともと江戸時代くらいから続く薬問屋だったらしくて曽祖父さんがそれを会社にしたんだって。それを俺のじいさんが継いで、親父も薬科大で医薬品研究者を何年かやってたし、まあ俺も跡を継ぐのかわかんないけど、けっきょく化学専攻してるし。うーん、家系なのかなあ。親父もじいさんがまだ会社経営してて自分は研究部門で責任者やってたころは普通だったんだけど、俺が幼稚園くらいの頃じいさんが死んで、本格的に会社の経営をやらないといけなくなったみたい。そしたらさ、会社の経営者ってやっぱりいろいろ考えるみたい。俺が小学校に上がってすぐくらいのころに、俺、はじめて政治家ってやつ生で見たよ。それまでも、親父とかじいさんが会社で会ってたみたいだけど、だんだん家にも来るようになってさ。いつのころからか俺と兄貴、ときどき料亭に連れて行かれるようになったんだ。それで、テレビで映っている総理大臣とか与党だか野党だか知らないけど、政調会長とか衆議院議長? だとか、とにかく偉そうな人がズラーって一堂に会してんの。ほほお、壮観ですなあって、感じだよ。でもそういう場って、俺もあんまり得意じゃなったけど、兄貴はもっと苦手だったみたい。いつも俺を連れて中座して、料亭の中庭とかで俺と遊んでんの。いちおう跡取りだから、親父も良い顔しなかったけど、兄貴はどこ吹く風って感じ。俺と遊びながら、親父のことを国策社長、会社のことを国策企業って呼んでた。俺、小さかったからよくわかんなかったけど、俺たちが小学校の高学年くらいのときにオリンピックがあって、戦争が起きて、兄貴がそれに参加して、また議員さんとかがしょっちゅう出入りしたりして、百貨店の袋とかを家から持っていったりして、ああ、やっぱうちの会社も絡んでるんだよなあ、って子ども心に思った。戦争が終わってからはいっぱい電話とか手紙がうちに来たよ。兄貴が言ってたみたいに国策企業とか戦争企業とかそういう批判系。それと同じくらい、感謝の手紙っていうか、そういうのも来た。菊亜日光のおかげで戦争に勝てました。とか、そんなん。左翼の市民団体のおばちゃんは来るし、右翼の街宣車のおっさんも来る。ほんとに、うちは客の多い家だった」

 菊亜は続ける。

「で、まあいろいろ話が飛ぶけど、中学になっても兄貴はぜんぜん帰って来なかった。俺中学になって初めて彼女できた。かわいい子だったよ。いっつも、俺の眼鏡をふざけて取ってさ、度が合わないのに自分にかけて、お道化んの。いや、ほんとかわいかった。喘息持ちでいっつも吸入器持って咳してた。でも俺は中学生らしくその子のこと一生守ってやろうって思ってた。でも、その子、卒業までに転校しちゃった。その子俺の通ってた中学に通ってたから俺と同じで結構ボンボンのお嬢さんだったんだけど、ある日呼び出されて転校するって教えられた。俺一生守るって誓ってたから、二人で家を出て暮らそうとか言ってみたの。そしたら、彼女、バカじゃないって言った。彼女が転校するのは、彼女の父親の企業が倒産したからだった。なんで倒産したかって、親父の会社が事業広げて、いろいろのし上がっちゃったもんだから、競合してた彼女の父親の事業に影響が出ちゃったみたい。俺は彼女からそんな経済新聞に載ってそうな話を聞かされて、フラれた。ほんと、そんときがいちばん親父が憎かった。まあ、親父に罪はないんだけど。でも、咳をしながら彼女が別れ話をしてるときに彼女が使ってた吸入器がうちの会社の製品でなんとも言えない気分になった。あーあ、また会社がらみかよって思ったね」

 また会社がらみ、という言葉を俺は繰り返す。

菊亜は何度そのことでいろんなことを諦めたのだろうか。

菊亜は父親の会社のおかげで何不自由なく欲しいものを手に入れて来れたろう。でも、同じ理由で諦めないといけないものも多かったのかもしれない。

菊亜が、菊亜であるがゆえに、得たものと失ったものはどちらが多いのだろうか。

俺はなんとなく物欲の少ない菊亜のことだから、後者ではないかと思った。

「で、まあ、そんなことが高校に入っても続くと、流石に嫌になるよね。嫌でも、ああ、うちって人の人生左右しちゃうような会社なんだって思うよね。そんな中学、高校のトラウマみたいなもんをちょっとコンプレックスに思って、俺は大学に入った。高校の二年くらいから友達なんて一切作らずに勉強、勉強、勉強。うちの会社が人の人生に影響与えちゃうような会社で、どうせ俺が跡を継ぐならいっそ、突き進んじゃえって開き直ったの。そんで、大学に入って、お前に会いました。ほんと、お前、うるさかった。いっつも、話しかけて来るんだもん。でも、お前、見てると、なんか兄貴思い出すんだよな」

 純が俺と菊亜が兄弟みたいだと言ったことを思い出す。

「で、俺もそんな漫談みたいに話しかけてくるおまえに感化されて、また友達作ろうかなあって思って、ちょっと話すと、お前のお袋さんも南方に行ってたのな」

 菊亜の横顔が歪んだ気がした。

「あ、またかあ、って思った。でも、お前、俺がいくら国策企業やら戦争企業って呼ばれるような会社の息子だからって。俺自身とは関係ないって言ってくれたろ」

 菊亜は歪めた横顔を隠すように笑う。

「ありがたい反面、ぶっちゃけきつかった。だって、お前がいくらそう言ったって、俺の人生の登場人物は俺の会社で人生左右される人ばっかりで、現にお前のお袋さんも俺の親父の会社が関わった戦争で死んでる」

「俺の母親は自殺だったんだよ」

 菊亜はまた困ったように笑う。

「お前、自分で言ってたんじゃん。自分の母親はなんか戦死だったような気がするって。お前の言うとおりだよ。うちの会社が関わった戦争は戦場でたくさんの人を殺しただけじゃなくて。俺たちの社会まで巻き込んで、いろんな人の人生を変えたよ。俺たちのいる今この場所も戦場に変えちゃったよ。でも、お前優しいから、あんまり俺を特別扱いしないようにしてくれたんだよな」

 違う。と、俺は思った。

 そして、俺は菊亜に対して抱いていた自分の気持ちを全て自覚する。

 それは、うんざりするくらい、馬鹿らしいものだった。

菊亜に対して感じていた後ろめたさ、それは俺がどこかで菊亜を憎んでいたからだった。

金のために戦争を起こした企業の息子だと心の隅で憎んで俺は嘲笑してた。

 俺は自分が菊亜を憎んでいたことに気がつく。

そして、春希とつきあうときにも引き留めず、どこか譲ってやったような傲慢な気持さえ抱いていたのだ、と気づいた。

 碌でなしもいいところだった。

 何が青春の一ページだ。

 普通に接しよう。

 そんな風に考えてる時点でとっくに意識してるじゃないか。

 菊亜はとっくに気づいていたのかもしれない。

ことばにはしなかったし、菊亜も明確に認識してなかったのかもしれないけど。

 菊亜はフロアを眺めるのをやめて、俺のほうを向く。

「お前、俺のこと結局ずっと名字で呼ぶよな」

俺は馬鹿だ。

 菊亜はまた横を向いてフロアを眺めた。

「なんで俺が小川純とマスターの計画に関わったのかは正直自分でもよくわからない」

 菊亜はフロアを見ていなかった。

実はずっと空中の虚空を眺めていたのだと俺はようやく気づく。

「良くしてくれたお前に対する感謝のような。当てつけのような。親父の会社とか戦争に対するけじめのようななんというか」

 菊亜は自分の気持ちを言葉にするのを諦め、お道化る。

「複雑なキモチってやつだな」

 だが、俺はお道化た菊亜に一つだけ訊く。

「春希は? 春希は関係ないだろ?」

 菊亜は黙る。

 長い沈黙だった。


 フロアからはさっきの曲がまだ続いていた。


 戦争に行こう! 戦争に行こう! 戦争に行こう!


 戦争に行こう! 戦争に行こう! 戦争に行こう!


 戦争に行って証明しよう。


「春希は……」

 菊亜が言う。

「春希は中学のころに付き合ってた子とちょっと似てたかな」

 菊亜は笑う。

俺は菊亜のそんな笑い方を始めて見た。

困ったようでも、寂しそうでもなく、ほんとうに純粋に心から笑っていた。

でも、俺は菊亜のその笑顔の意味がまったく分からなかった。

「透……」

 菊亜が席を立った。

そして、俺の横を抜けて行った。そして、すれ違いざまに囁いた。

「ごめんな……。何に謝ってんのか俺もよくわかんないけど……」

 そして、菊亜は去っていった。

俺は振り返らなかった。

菊亜を追うべきだったのだろう。

でも、追わなかった。

何か言うべきだったのだろう。

でも、何も言わなかった。

 ただ、俺は純が死んでから初めて涙を流して泣いた。

 声は出さなかった。

 菊亜とはそれから二度と会わなかった。



  22.

 菊亜が《TACTIQUE》を去って俺は何時間もフロアを眺めていた。

入ったときに見かけた健康そうな浅黒い肌の女の子は元気よく踊り続けていた。

 俺はずっと彼女を見ていた。

 やがて、閉店の一時間前になった。

 女の子は流石に疲れたのかフロアのレストスペースで休憩していた。

 俺は菊亜に預けていたディスクを眺めた。

そして、ポケットにしまうと、フロアを降りた。

 俺はレストスペースの女の子に声をかけた。

「もうそろそろここ閉まっちゃうけど、その前に出ない?」

 女の子は突然馬鹿正直に声をかけた俺に嫌がること無く、快活な笑顔で返した。

「いいよ。お兄さんも一人?」

「お兄さんも、ってことは、君も?」

「うん、一人だよ」

「どうして?」

「どうしてって。べつに理由はないけど」

 俺は、その場にいる女の子に声をかけるなんて始めてだった。

こんなにあっさりことが運ぶと思わなくて、拍子抜けした。

「それじゃあ、行こうか」

 恐らく、彼女と俺が望むものは同じだった。

 彼女は妖艶な笑みを浮かべて、

「行きましょう」

 と言った。だが、店を出る前に行った。

「ゴメン、やっぱり待って、最後にこの曲だけ踊りましょ」

 俺は彼女の表情を見つめた。

「いいよ」

 それはいつか、こうして純と一緒に踊ったスローな曲だった。

「うまいね、お兄さん」

 と、彼女は俺のステップを褒めた。

「この曲……」

 と、俺は言った。

「なんて曲か知ってる?」

 俺は女の子に尋ねた。

 彼女は答えた。

「『さよなら2001年』」


✽                 ✽                 ✽ 


 俺は彼女と一時間だけホテルで過ごすと、ちょっと申し訳ないなと思いながらも、まだ服も着ていない彼女をベッドに置いて一人で外に出た。そして、電車にのってアパートに戻った。

 俺は電車に揺られながらついさっきまでしていた彼女との行為の余韻を感じていた。

 電車は揺れていた。

 俺はアパートに戻るといつもと同じようにベッドに倒れ込んだ。

 だが、目が冴えて全く眠れなかった。

 

 戦争に行こう! 戦争に行こう! 戦争に行こう!


 俺はベッドから起き上がると引き出しを開けて、菊亜から貰ったコピーディスクを取りだして眺める。

 溢れて来る感覚を俺はまた感じた。

 目を閉じた。

 そして、再び目を開き俺は昨日菊亜から渡されたディスクを見つめる。

 そのディスクを両手で二つに割った。

 ディスクは、パカン、と軽い音を出して割れた。

 俺はディスクの割れ目で指を切った。

 血が溢れてくる。

 ドクン、ドクン、と心臓の鼓動を感じる。

 血は鼓動に合わせて流れてく。

 俺は手当てをせず、しばらく流れるに、まかせた。

 八時になるとアパートを出た。

 そして、一限が始まる前の大学に来て、菊亜と純が所属していた研究室を訪ねた。

 まだ、誰もいなかった。

 扉は開いていた。

 すでに起動していた。あとは、ディスクを入れるだけのようだった。

 そして、前回と同じようにヘッドギアをつけた。

 ディスクを入れた。

 そして、ディスクは自動で再生されたようだった。

 前回よりも感覚は早く来た。

 白い閃光で目の前が覆われ、目の前の物の輪郭が消える。

 やがて、海岸が見え、ジャングルが目の前に現れる。

 パパン、パパン、という銃声。

 目の前で痛いほど抱きしめてくる少女。

 やっと逢えたね。

 俺は彼女にそう囁いた。

「純」

 俺はそう呼んだ。

                                    〈了〉

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俺たちの大好きな戦争 アドリアーナ @mrhiyoko

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