第7話 Mortal illness

 細胞が破壊と再生を繰り返すようにして、季節は日々移り変わる。赤と緑の月を超え、正月を過ごし、あっという間に2月になる。氷をそのまま落とした気温は徐々に暖かくなっていき、薄い雲の間から暖かい太陽が顔を出した。

 2年最後の期末テストを終えた日に、俺はコンビニでとある雑誌に気が付く。

 それは、10月のあの日、青森が俺の前に提示をした音楽雑誌で拍子にピンクのクマが書かれているわかりやすい代物だ。

 スナック菓子と共にそれを購入をした俺は、エビせんを食いながらぺらりぺらりとページを捲った。

(なんてコンテストだったっけ……確か、高校生……)

 おぼろげな記憶を頼りに探す、青森の名前。隅から隅まで探してみるが、見知った名前は見当たらない。

 1回目と2回目は必死で探し、3回目で俺は疲れて、4回目で読むことを放棄した。

(ああ)

 俺は閉じた表紙の上で笑うピンクのクマの鼻を撫で、悟る。



 その日は朝から気温が低くて、風がとても強かった。灰色の空には厚い雲が覆っていて、真っ赤なはずの太陽を隠していた。

 天に一番近いはずの屋上だって例外ではなくて、いつ雨が降るかもわからぬようなその場所に、青森響子は存在していた。

 フェンスから街を見渡すように立ちすくんでいる小さな体は、紺色とマフラーに包まれて、細さと華奢さを際立てていた。

 青森の周りには、あの日のようにたくさんの紙切れが散らばっていて、俺はそれを拾い上げる。

「もうすぐ、雨が降るって」

 俺が言うと、青森は知っているとばかりに首を小さく動かした。

「コンテスト」

「うん」

「落ちちゃった」

 そう、と俺は呟いて、散らばった紙切れを拾い集める。

「頑張ったんだけど」

「うん」

「でも、やっぱり駄目で」

「そう」

「わたし」

 青森はぶかぶかの裾をゆっくり伸ばし、カシャンとフェンスに指を絡めた。

「頑張って、頑張ったけど、なんか、駄目で……頑張れば、なにか変ると思ってやったのに、でも、うまくいかなくて」

 駄目じゃないよと俺は言う。

 けれど青森は、マフラーに首を埋めたままふるふるふると首を振った。

「わたしは、暗くて、友達も少なくて、人に誇れるものが、何もなくて……だから、なにか踏み出せばって、ずっと思ってて」

 綺麗に整えられていた紙切れには、皺も折り目もついていた。点々と水を垂らしたような跡も残っていた。

「どんな難しいことも、頑張れば叶うかもしれないってそう思って……もしかして、ほんとになるかもってそう思って……」

「……まだ、たった一回だけじゃん」

「藤堂くんにはわからない!」

 青森の小さな手は雷のようにフェンスを揺らし、甲高い声は稲妻のように響き渡った。

「藤堂くんは、恵まれた人だから……頭もよくて、友達もいて……悩みなんて何にもなくて、今も、昔も、これからもずっと……」






(空を飛ぶ夢ばかり見る私)

(美しい世界に憧れているの)

(もしも願いが叶うなら鳥になりたい)

(そうすればあなたの元まで行けるでしょう?)






「……そんなわけねーだろ」

 俺は集めた紙切れを脇に抱えて、青森の隣に背を凭れた。嫌な空気を吸い込んだフェンスはコート越しでも十分寒くて、肺の底まで侵されそうだ。

「別に、今回だけが賞じゃねーし。これからまた努力してけば、いつだって……」

 マフラーに顔半分を埋めた青森は、ぐずぐずぐずと鼻を鳴らしながら首を振った。

「他の人の作品は……もっときれいで、そうだいで……」






(この広い青空に羽搏いて 私はきっと風になるの)

(涙は乾いて真珠になり きらきら地上に降り注ぐわ)





「痛いほど、実力差を見せつけられた……わたしには、手が届かないっていうくらいの……」





(そんな夢を見ながら胸を焦がすの)

(馬鹿だと空から笑って見せてよ)

(それでもお願い)

(ねぇ神様 どこかにいると信じさせて)





「わたしの存在は、こんなにちっぽけで……とても無力……誰もわたしのことなんて、何にも必要としていない……」

 暗い空からぽつぽつと雨が降ってきて、コンクリートに模様を作った。遠いビルの向こうではうっすらと光が走っていて、天候の荒れを予想させた。

「……んだよ、それ」

 ぼろぼろと涙を零す青森は小さな子供のようでとても庇護欲をそそるのに、どこまでもネガティブな青森の言葉は心底俺を苛立たせた。雨の音も風の声もイラついた俺の気分を刺激して、決して優しく包み込んだり慰めてくれたりはしなかった。

「終わったこといつまでもぐじぐじ泣いてんじゃねぇよ。お前が精一杯やってでたのがこの結果なんだろうが。ふて腐れんのもいい加減にしろよ。お前が努力してたって、他のやつらはその何倍も努力を重ねてきてんじゃねーか」

 思わず声を荒げると、真っ赤に目を腫らせた青森がびくんと体を跳ねあがらせた。ひどい顔だと俺は思う。

 青森はぼたぼたと両目から涙を溢れさせながら、ぐっ、と下唇を噛んだ。

「……ごめ、な、さ……」

 俺はそこで、いつぞやのクラスメイトとの会話を思い出す。

 藤堂は威圧感があるんだよ。だからちょっと話かけにくいし、何考えてるかもよくわかんないんだ。

 俺は青森の髪の毛が雨に濡れていく様を眺めながら、嫌われたかもしれないと予感をする。その途端に、洋服の下に存在をしている俺の皮膚が一気に体温を下げていくのを感じ取り、体内で呼吸をしているはずの細胞たちが一気に生命を失っていくことを知った。

 俺は俺の中にいる生命が雨と共に流されていくことを実感しつつ、心臓が止まっていることもわかっていた。

 俺は無意識のうちに青森の右腕を掴みとった。コートの袖は、雨水と涙でとてつもなく湿っていて、掴んだところから青森の緊張と震えがダイレクトに伝わった。

「……神様なんて、いるのかいないのかわかんないもんに縋るんじゃねーよ」

 俺は腹を立てていた。どんなに努力を施したって簡単に願いを聞き入れてくれない神様にも、頼りない神様に祈りを捧げるあの歌にもムカついていた。青森の頭の中がコンテストで一杯になっていることも嫌だったし、あの大きな目玉に俺の姿が映らないことだって不満だった。今目の前で青森が濡れているのも嫌だったし、どうしようもなく脅えているのも嫌だった。

「ごめっ、なさっ……」

 青白くなった青森の唇が謝罪の言葉を言い切る前に、俺は体ごと引き寄せてその唇を塞いでしまう。初めて触れた唇は雨で濡れて冷たくて、おまけにぶるぶると震えていた。コートの上から抱えた腰は予想よりもずっと細くて、柔らかい。

(60兆個、だっけ)

 人の体は60兆という細胞でできていて、一日15兆個の細胞が死んで、生まれ変わる。

 小さな死。こうして、呼吸を間に挟みながら唇を合わせているその間にも、細胞は次々死んで新しい命を産みだしているのだ。

 どんどん強くなる風と雨の激しさを全身で感じながら、もしかして俺は、このまま死んでしまうかのかもしれないなどと思い始める。そんなことあるはずがないとわかっていても、そう思ってしまう俺が体のどこかに存在をしていた。例え俺が死んでしまったとそうしても、俺の一部は延々とどこかで生き続けるんだ。

 かき集めたはずの紙切れ達はとっくの昔に散らばって、雨を吸い込み靴に潰されぐしゃぐしゃになっている。綺麗に書かれていたはずのオタマジャクシはインクで滲んで黒くなり、何が書かれていたのかすでに原型は消えていた。

 死に至る病。

 嵐が近づいていることを感じながら、俺は俺の腕の中で起こりつつある小さな死を実感していた。

 


fin.




2010.10.20 完結

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死に至る病  シメサバ @sabamiso616

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