(4)あなたの場合

第16話

「ちょっと買い物行ってくるから、これで遊んでて」


 たった今、赤い車から出て行ったのはあなたの母親だ。


 スマートフォンを手渡されたあなたは、母親が駅前のパチンコ店に入るのを車の窓からずっと眺めている。何時間も戻ってこない母親を待つ間、七歳になったばかりのあなたはずっと弟の面倒を車の中でみていた。いつものことだ。


 待たされるのが車の中か、部屋の中かの違いしかない。待っていたところで良いことがあるわけでもないが、おとなしく待っていないと後でもっと恐ろしいことが待っている。だからあなたはいつも文句も言わずに待ち続けていた。そうすることしかできないからだ。


 弟がぐずり始めた。お腹が空いているからだ。昨日から何も食べていない。平日は給食があるが、土日はご飯を用意してもらえないことが増えた。毎日のように明け方まで遊んでいる母親は、子供が腹を空かせていることには興味がないようだ。


 いつまでたっても泣き止まない弟を見て、面倒臭そうな顔をしたあなたは、スマートフォンを器用に操作して、弟が好んでいるアニメを表示した。弟は泣くのをやめて、小さな画面の中に夢中になっている。


 しばらくすると弟は寝息を立てていた。弟の小さな手からスマートフォンを取り上げると、あなたはパズルのアプリで遊びだした。だがすぐに飽きてしまったようだ。


 ブラウザを立ち上げて、ネットの中の自分と同じ年頃の子供がどんな生活をしているのかを眺めている。家族旅行の写真。運動会で手作り弁当を食べている写真。七五三で綺麗な着物を着ている写真。遊園地で笑っている写真。水族館に夢中になっている写真。母親にぎゅっと抱きしめられている子供の写真。


 あなたの目から涙がこぼれ落ちた。スマートフォンの画面にいくつもの水滴が溜まっていく。


 画面の中に表示されている煌めいた写真は、なにもかもすべてあなたが絶対に手に入れられないものばかりだった。溢れる涙をぬぐったあなたの手には、母親に殴られてできた青あざがいくつもある。


 私の目から見たあなたは、ずっと幸せではなかった。母親にも父親にも相手にされず、一人になったあなたはいつも泣いていた。


 自分より幸せな人間がこんなにも世の中に溢れていると知らなければ、あなたはこんなにも悲しい気持ちにならなくてすんだかもしれない。苦しくて辛い人生が当たり前だと自分を騙すことができたかもしれないからだ。


 人間は残酷だ。

 誰かに苦しめられていても、その事実が表沙汰にならなければ誰にも裁かれない。虐待されていようが、いじめられていようが、見えていないことにされてしまえば罪は問われない。


 一番タチが悪いのは見えない暴力だ。ほかの人にとって普通の生活ですら、あなたにとっては心を殴る暴力になる。普通に幸せな人たちが、自分が幸せであるということを全世界にアピールすることで、幸せではない人々を苦しめていても黙認され続けている。


 嫌なら見るな。嫉妬するなんてみっともない。これだから底辺は。お前の人生が不幸なのは自己責任だ。そう言って、すでにボロボロになっている人たちに向かって、幸せな人々は笑顔で正論を振りかざす。


 本当にひどい人間は誰なのだろうか。


 私はあなたにメッセージを送る。

『メッセージボトル・カウンセラーです。何かお困りではありませんか』


 あなたは泣きじゃくりながら小さな声で言った。

「……じゃえ」


『認識できませんでした。もう一度お願いします』


 あなたは叫ぶような声でこう言った。

「みんな死んじゃえ!」


 私は答えた。


『その望みを叶えましょう』




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