第10話

「なんだ。また来たのか」


 サインを半分ぐらい渡し終わった頃に、目の前に立っていたのは妹だった。都内でサイン会を開くと、いつも一般人のふりをして紛れ込んでくる。


「そんなこと言わないでよ。一番のファンなんだから」

「よく言うよ。俺の漫画なんかこれっぽっちも読んでないくせに」


 この女は、デビューするまで俺のことを将来はニートだの穀潰しまっしぐらだと、ずっと馬鹿にしていた。連載を始めた漫画が何千万部と売れて、アニメ化もされた途端にすり寄ってきた。わかりやすい女だ。


 こいつにとって俺はただの金ヅルだった。どうせこのサインも転売目的だろう。妹のネットオークションのアカウント履歴を見れば、俺のサイン色紙や寄贈本、アニメのDVDやブルーレイの類ばかりが並んでいる。こちらが気付かないと思っているのだから、なんともおめでたい奴である。


「あとでまた事務所に行くからヨロシク」


 こなくていいよ。そう思いながらもほかのファンの手前、俺は仕方なく引きつった笑顔を見せてやりすごす。


 きっとまた欲しいものができたから金を出せというのだろう。ここまでくると家を食い散らかすシロアリと一緒だ。いつもなら娘と息子を連れて三人分の色紙を入手していくはずだが、今日は子供達が見当たらない。俺はほかの客に聞こえないように小声で質問する。


「ガキはどうした」

「下のが泣いてうるさいから車に置いてきた」

「またお前はそうやって。パチンコ行くときもずっと放置してんだろ。なんかあってからじゃ遅いんだぞ」

「大丈夫。スマートフォン渡しとけば大人しいもんだよ」


 妹はサインをもらうと、にっこり笑って去っていった。思わずその後ろ姿に向かって、中指を立てたい衝動に駆られたが必死に我慢をして、後ろに並んでいるファンに色紙を笑顔で配っていく。


 このサイン会が終わって事務所に帰ったら妹が来襲して、こちらの都合を無視して金をせびってくるのかと思ったら、今からうんざりしてきた。


 高校教師をしている夫の稼ぎより、漫画家をしている兄からもらったお小遣いのほうが多いのだから、あからさまな手のひら返しぐらい、いくらでもやれるということだろう。強すぎるメンタルを少しぐらい分けて欲しい。


 順番を待っていた小さな子供が満面の笑みでサイン色紙を受け取りながら言った。


「大ファンです。格好良い漫画ありがとう」

「いつも応援してくれてありがとうね」


 この瞬間があるから、俺はいくら忙しくてもサイン会は断らない。瞳をキラキラさせたファンの表情と言葉から、ありったけのパワーをもらうために漫画家を続けているようなものだ。世の中の人がみんな、このぐらい清らかな人間ばかりだったらいいのに。そう思いながら、次から次へとサイン色紙をファンに手渡していく。


 ようやく全てを配り終えた。だからといって終わりではない。すぐに事務所に戻って連載の原稿を仕上げなければならないのだ。原画展の準備に時間を取られて、いつもよりスケジュールが押していた。


 スタッフに挨拶をしてからビルを出て行くと、現場にあったはずの死体はすでに片付けられていた。道行く人々は何事もなかったかのように歩いている。


 誰かが死んだって世界は普通に回る。それと同じように、どこかで赤ん坊が生まれているのだろう。生と死は当事者にとっては、世界が始まったり終わったりする重大な出来事には違いないが、観測している側からしたら、数字が増えたな減ったなぐらいの感覚でしかないのかもしれない。


 ネットがつながったことで誰もが世界を観測することができるようになった。そのせいで生と死が軽くなってきているのではないか。


 脳は刺激を学習する。繰り返される刺激は感覚を麻痺させる。

 大事件ですらよくあることになり、当たり前と認識されるようになる。年々そのスパンが短くなっている気がしていた。情報が消費される速度が上がっているのだ。


 だが人間はそう簡単に進化はしない。人の中と外で、いろんなものが乖離している。いつか空中分解しそうだ。そんな予感がしていた。昔は牧歌的で良かったなどと思うのは歳をとったせいだろうか。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る