第21話

 移動中は、僕たちは大した危険に巻き込まれることはなかった。食事中のティラノサウルスの横を、匍匐前進で通過した以外は。先輩がまたスケッチを始めようとしたので、僕は先輩を肩で小突く必要があった。


「何をするのかね、竜太くん!」

「先輩、先輩の腕が頼りなんですからね、余計なことは考えないでくださいよ!」


 そうして密林を歩むこと、約二十分。僕は気づいた。獣道に傾斜がかかっていることに。僕たちは、ごくごく緩やかな坂を登っている。

 すると、銀色の球体に姿を変えていた祖父が歓声を上げた。


(着いたぞ、皆の衆!)

「着いた、って……?」


 僕が顔を上げると、そこには大海原が広がっていた。断崖絶壁だ。ざあざあという波の砕ける音が、涼し気な空気と共にやって来る。

 崖に至る手前では、両脇から大木の枝がアーチを描くようにしなっている。そこには、色とりどりの花や果実が輝いていた。なるほど、祖父が気に入るわけだ。潮と木々、両方の香りが混ざり合い、中間霊域でありながら『自然』を感じさせてくれる。


「うわぁ……」


 感嘆の声を上げたのは里香だ。空の青と海の藍、それに彩を添える木々。こんな景色を直に見られれば、多くの人がその虜になることだろう。

 それを、祖父は絵画という形であの世まで持っていきたいようだ。


「すごいね、爺ちゃん……」

(気に入ってくれたか、竜太!)

「うん!」


 僕は大きく頷いた。


「先輩、今回は本気で描いてくださ――」


 と言いかけて、僕は絶句した。


「とおりゃあああッ!!」

「って何やってるんすか!!」


 カンバスを前に、先輩は例の大きな絵筆を振るっていた。しかも、とんでもなく鮮やかな紅色を叩きつけるように。


 しまった。この人は抽象画を描く人だ。風景画を描くのにどれほどの実力があるのかは、サッパリ未知数だった。それに、もはや現在の時点でカンバスは真っ赤っか。これを没にして描き直す……はずがないだろうな、この先輩のことだから。

 先輩とは今日で二回しか会っていない。しかし、芯を曲げない頑固な芸術家であろうことは僕にも察せられた。


「ね、ねえ、爺ちゃん?」

(何だ、竜太?)

「ちょっとこっちに……」


 さり気なーく祖父を先輩から離した。

『こんなわけの分からんもんを描いてくれと頼んだ覚えはない!!』という怒声が聞こえてくるようだ。


 するとちょうどいいことに、里香がこちらに駆けてくるところだった。その手には、木々の枝から摘んできた果実がいっぱいに載せられている。


「竜蔵さん、これ、食べられますか?」

(ふむ。大丈夫だろう! 万が一毒でも、死んでから元の世界に戻るだけだからな!)


 おいおい、そんな物言いがあっていいのかよ。

 とは思ったものの、里香の嬉しそうな表情に、僕は言葉を飲み込んだ。


「あ、これブドウみたいな味がするよ! 竜太も、ほら!」

「お、おう!」


 里香から差し出されたのは、一見リンゴのような、丸々とした果物だった。

 僕は里香の歯形のついたその果実を手に取り、じろじろと眺めながらゆっくりと噛りついた。皮は柔らかく、確かにブドウのような味わいだ。

 喉が渇いていた僕は、あっという間にジューシーなその実を食べきってしまった。


「あー、美味しかった!」

(おお、お前もそう思うか、竜太!)

「ああ! いくつでも食べられそう――」


 と言った直後、僕は自らの過ちに気づいた。今食べきった果物は、里香が齧ったものだった。早い話、これは――。


(なにちゃっかり間接キスをしとるんだ、竜太?)


 僕は思わず噴き出した。


「なっ、何を……!?」

(客観的な事実の陳述だ、竜太。よかったな)

「よ、よかったって……」


 つと里香の方を見ると、こちらに背を向けて何かを齧っていた。が、しかし。


「~~~!!」


 声にならない悲鳴を上げていた。やたら酸っぱい果実を口にしてしまったらしい。

 そのショックで、今の僕と祖父との会話を忘れてくれればいいのだが。


 などという僕らの茶番劇を終わらせたのは、『ひゃっほううううううう!!』というサルのような叫び声だった。

 慌てて振り返ると、先輩がじっと自分の作品に見入っていた。


「できた! できたぞ諸君! これは我輩の最高傑作だ!!」

(おお! 完成したのか、岡倉殿!)

「あ、爺ちゃん!」


 僕が止める間もなく、祖父はふわふわと先輩の方に引き寄せられていく。先輩の作品から祖父を遠ざけておこうと努力したが、もう引き留めるだけの材料がない。


(どれどれ、一体どんな――)


 僕は眉間に手を遣った。

 あちゃあ、あの抽象画が爺ちゃんの目に入ってしまったか。いや、今の球体のような姿の爺ちゃんに目があるのかどうか分からないけど。


(こ、これは……)

「ふっふん!」


 ない胸を張って得意気に鼻を鳴らす先輩。駄目だこりゃ、人選を誤った。


(……)

「爺ちゃん、ごめん、この先輩は抽象画を描く人だから、爺ちゃんが望むような絵は――」

(貴様!!)


 すると祖父は、球体のまま先輩に体当たりを始めた。


(貴様! 貴様! 貴様―!!)

「ちょ、何をする! 痛っ、ま、待ちたまえ!」

「爺ちゃん落ち着いて! この人のせいじゃないんだ、僕が――」

(貴様、なんてことをしてくれた!! これほどの傑作とは、全く想定外だったぞ!!)

「そう、だから傑作になったのは――って、え?」


 祖父は興奮冷めやらぬ様子で、僕と先輩の肩を小突くようにぶつかってきた。


「待ってよ爺ちゃん! 一体どんな絵が――」


 と言いながら、僕はカンバスを覗き込んだ。

 パッと目に入るのは、何といっても鮮やかな赤。下地が全部、赤に塗り固められている。

 上半分は大胆に紺色で上塗りされ、横から一文字に筆が振るわれている。

 アーチ状の木はどこへやら、黄色い斑点が紺色の上に点々と配置され、早い話、情景を留めていない。


 にもかかわらず、祖父はご満悦にして大興奮。


「じ、爺ちゃん……」

(あ? どうした?)

「この絵のどこがいいの?」

(いいも何も、素晴らしいじゃないか、竜太! これぞ抽象画、芸術の極地!)


 祖父の歓喜の言葉が聞こえたのか、里香も恐る恐るカンバスを覗き込んだ。

 数秒間の後、こくり、と首を傾げ、僕と目を合わせた。僕たちに抽象画は早すぎたらしい。


(女神さん、これをあの世に送っておいてくれい! ちゃんとワレモノ注意で梱包してくれよ!)


 するとカンバスは淡い緑色の光に包まれて、ふわり、と浮き上がった。それからポン、と軽い音を立て、この場から消え去った。


「ふう……」


 しばしの沈黙の後、僕はため息をついた。憂鬱だったわけではない。逆だ。一種の達成感からだ。


「じゃ、帰ろうか、里香」

「うん」

「って、我輩の存在を忘れてもらっては困るな!」

「あ、すいません、先輩」


 ぼんやり視線を巡らせると、外は既に真っ暗だった。

 僕は夜空を見上げながら声を張り上げた。


「女神様、ここから現実世界へ帰れますか?」

(大丈夫ですよ~。三人ですね。それでは)


 僕と里香、それに先輩の姿が淡い光に包まれる。あの絵画と同様、ふわっと浮かび上がる感覚と共に、僕たちの足が地面から離れた。


「また来るよ、爺ちゃん!」

(おう! 明日もよろしく頼むぞ!)


 そして、僕たちの意識は穏やかに途切れていった。


         ※


「よっと」


 僕はバランスを取りながら、祖父の書斎に足を着けた。里香も慣れた調子で絨毯を踏みしめる。先輩はと言えば、


「あっ、とっ、おっ!?」

「ああ、先輩!」


 僕は里香と二人掛かりで、先輩を安全に立たせた。


「すまない、二人共」

「いえ。それよりも、今日は付き合ってくれてありがとうございました! 抽象画のことはよく分かりませんが、祖父が喜んでくれたので結果オーライということで!」

「何!? あの絵の魅力が伝わらんだと!? 君は本当にあの竜蔵氏の孫なのか?」


 いやいや、そう言って迫られても。


「それより、早くお開きにしましょう。もう午後九時半を回ってますし」

「む……」


 先輩は顔をしかめながらも書斎から出た。僕と里香が続く。

 

 その後、僕たちは一旦僕の実家の前まで来た。里香と先輩は家が同じ方向だということで、その場で解散。


「お構いもしませんで、どうも……」


 お辞儀をする僕に向かい、先輩は


「なあに、我輩も貴重な経験ができた! また呼んでくれたまえ!」


 僕は先輩に頷きながら、視線を里香に向けた。


「それじゃあ里香、また明日」

「うん! また明日!」


 先輩にからかわれるのも癪だったので、僕は素っ気ない返事をした。でも、振り返りざまに里香が僕にウィンクしてくれたのを僕は見逃さなかった。

 僕は無言でガッツポーズし、家の玄関を開いた。

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