冷たい太陽

阿古耶 南

冷たい太陽

 かつて極東の島国が直面した、延命と出生率の低下による社会福祉の崩壊は、実にシンプルな答えで解決した。大規模な太陽フレアの影響で著しく変化した地上の生態系。その中で進化を遂げた微生物から発見された活性化細胞が、人間の老衰を駆逐した。人は福祉に頼る必要なく食い扶持を自ら稼ぎ続け、「死の恐怖」の消滅により犯罪は減少し、人は自らの望むままに生き続けられるようになった。一方で、死を克服した人間は一つの権利を得た。自らの望む時に死ぬことができるその権限は、自らの遺伝子データを元に作られた一粒の錠剤と共に平等に与えられている。




 東向きの窓から差し込む淡い朝の光が、私にとって一番の目覚ましだった。瞼越しに網膜にちらつく赤白色の輝きが、深い眠りからまどろみの現実へと意識を揺り動かす。すっきりとは言い難いが、少なくとも疲れは感じない身体を起こして、覆いかぶさるシーツを払う。それを見計らうようにして、枕元の電子時計がけたたましいアラームを鳴り響かせた。目もくれずに片手を時計に伸ばすと、ウラに備えられた停止ボタンに軽く触れ、脳漿を揺らすような煩わしい音を掻き消す。毎朝毎朝、本当に五月蠅い音だ。それでも時計は、私が起きた事を家中に知らせるために無くてはならない存在であった。

 洗面台で冷たい水を顔いっぱいに浴びると、緑色のマウスウォッシュで口内を洗い流す。そうしている間に傍らのエア・ディスプレイでは、今朝のメディカルチェックの結果が抽出されている所であった。ダイニングに向かいながらそれに目を通すと、ロボット巡回に集めさせたニュースの中から気になったトピックだけブックマークを差し込んで、それ以外を全てダストボックスへと放り込む。情報は興味のあるものだけでいい。余計な知識は、長生きには毒だ。


「おはよう、今日はシリアルで良い?」


 私が現れるのを見計らったかのようにキッチンから顔を覗かせた妻が、ミルクのボトルを片手に微笑みかけてくれた。


「ああ」


 私は短くそう返事をすると、テーブルのいつもの位置に腰を下ろす。そして合図を送るでもなく、シリアルのボウルとマグに入ったコーヒーが私の前へと差し出された。


「お米もパンも切らしてたの。帰りに買ってくるわ」

「頼む」


 向かいに腰を下ろした彼女を傍目に、スプーンをボウルの中へとかき入れる。真っ白な海の中から小麦色の麦粒がひと匙、掬い出された。シリアルは嫌いではない。毎日それでも良いくらいだが、メディカルチェックがそれを許してくれない。


「ところであなた、明日ちゃんと休み取ってくれた?」


 心地よい食感をミルクが急かすように喉へ流し込むそれを楽しんでいると、妻がそんなことを口にした。私はスケジュールを表示すると、明日の予定にカーソルを合わせる。「有給」の2文字が、そこには記されていた。


「取ってあるな。明日、何かあったか?」


 娘の誕生日なら先週、彼女が好きな表のレストランで普段頼まないコースを奮発した。ようやく旅立った父の回忌も夏に済ませたはずだ。


「休みなら安心したわ」

「何の用事だったかな」

「先週やったでしょ、誕生日、あの子の。十八になったのよ」

「十八――ああ」


 《C-plant》の移植か。


「予約は何時だったかな」

「9時から説明があって、10時に施術」

「分かった」


 ポップアップ音と共に、明日の予定に『9時 セントラル』の文字が追加される。十八か、早いものだ。娘が生まれたのがついこの間この事のように思える。長い尺度で見てしまえば、ついこの間の事に間違いは無いのだが。スケジューリングを終えて匙の中身を口に煽った。ミルクを吸って多少ふやけたシリアルが、嚙みしめた奥歯に張りついてねばついた。


「リーナはどうしてる?」

「まだ、寝てるわ」

「そうでなくて、最近は学校には行っているのか?」

「ええ、まあ、ちゃんと通ってはいるみたい」

「出る時間はおまえと一緒だったよな」

「エレベーターには乗ってるわよ」

「なら、良いんだ」


 最後にボウルに残ったミルクを流し込むと、シンクの中へとそれを放る。もう一度マウスウォッシュで口を濯いで、後ろ手にジャケットを羽織る。室内用の靴から履き替えて、最近少しくたびれて来た黒の革靴に踵を収めると、妻が玄関先で鞄を手渡してくれた。


「じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」


 にこやかに手を振ってくれた妻を背に、私は硬質感のドアを開け放った。




 外は晴れていた。この世界の天気はいつも晴れだ。雲の切れ間から覗く人工的な太陽の輝きが、ここの唯一の空だ。降り注ぐ熱は無い、光だけの太陽。日の出と日没の時間は常に一定で、今や私の生活リズムの一環だ。気温は街中の地面に植え込まれた空調システムで、温度から湿度、酸素濃度、空気清浄まで季節に合わせて、それでも過ごしやすい程度に、一挙に管理されている。

 タイル張りの街道をステーションの方角へと歩く。始発のエレベーターに間に合うこの時間では、道行く車の通りも多くない。そもそも居住区・保養区としての機能しか備えていないこの街で、個人車の需要はそれほど高くはない。地表へと出るステーションは街の中央にあるし、公共の車両も数分置きに出ている。それでも、この街で職を持っている者達にとっては無くてはならない存在である事は確かだ。端から端まで車で一時間は掛かるこの街で、例えば重い空調コンデンサーを台車に乗せて歩きたくはない。やがてステーションのゲートが目に入って来る。無人の改札を手の甲のパーソナルチップで潜ると、ホームには既に目当ての車両が出発を待っているところだった。モノレールタイプの「地上―地下」直通エレベーター。流線形の列車を縦にしたような独特のフォルムは、かつて地上を走っていた特急車両にインスピレーションを得た、わが社の看板デザインだ。とは言え、私の所属は営業部の一端に過ぎないが。席は自由だが、始発はある程度決まった顔ぶれが乗車するため、自然と暗黙の了解が生まれてくるものだ。車両内の通用エレベーターでいつもの号車、いつもの席へと腰を下ろしベルトを装着する。隣では、いつものエンジニアが、いつも通りのひどいクマの浮き出た顔で、窓際に頭を預けて静かに眠っていた。落ちる前に開いていたのだろう彼のエア・ウインドウの端に、メディカルチェックの警告が赤く点滅しているのが目についた。しばらくして、下方向に掛かるGを腹の底に感じながらエレベーターは動き出す。下がっていく住宅街の景色を尻目に、速度に乗った車両は空のトンネルを目指す。私はブックマークを指しておいたニューストピックを開いて、地上のステーションへの到着を待った。

 そう長くない時間を経て、わずかばかりの浮遊感と共に車両は駅へと到着した。ベルトを外し、足元の鞄を手に取る。隣のエンジニアはまだ眠っているようだった。私は鼻から大きく息を吐きだすと、そっと彼の肩を掴んでゆすり起こす。このエレベーターは自動で往復する仕様だ。乗ったままでは次の客に迷惑が掛かるし、それを私が黙認するわけにもいかない。相変わらず彼のエア・ディスプレイには警告ランプが点滅している。よほど疲れているのか――否。揺り動かした彼の手の中から、小さなカプセルのケースが小さな音と共に足元に転がった時、私はその理解に至った。肩に置いた手をどけて、代わりに霊柩サポートへと連絡を入れる。音声ガイダンスに従って処理を終えると、改めてエンジニアに視線を移した。眠っていると言われれば分からないかのようなその安らかな表情を前に、作法に則って控えめに手を叩く。


「おめでとう、良い旅立ちを」


 拍手を終えると私は彼を置いて、通用エレベーターへと乗り込んだ。改札を出る途中、霊柩ロボットが人ごみの中を潜り抜けていくのを見た。




 午後になって仕事がひと段落し、自分のデスクで一息ついていると、ステーションで事件があったと言う話が同僚つてに回って来た。なんでも技術部が大慌てになっているらしいが、我々の部署にしわ寄せが来ない事を願いたい。コーヒーのカップを傾けながら、ステーションの方角を眺めていた。

 地上の太陽は青白い。昔は黄だとか赤だとか、暖色系の色合いをしていたという。この変化は100年ほど前のフレアで大気の構成が変化してしまったためだと言う者や、太陽の温度が変質してしまったのだと言う者も居るが、本当の所は良く分からない。人類が再び宇宙へと手を伸ばすには、まだ時間が足りなかった。空を覆う透明な遮断壁に囲まれた限られた地域の中でしか、人は地上で満足に生活する事ができない。一度だけ、エレベーター開発の一環で重機に乗って壁の外から街を見た事がある。ガラスのボウルで覆われたこの街は、朝食のシリアルに似てどこか滑稽だった。

 不意にデスクのコール音が鳴って、私は我に帰った。呼び出しに応じると、受付のシステマチックなトーンの声が耳に届いた。


『ゴトウ様、霊柩サービスの方から外線です』

「分かりました。ありがとうございます」


 霊柩サービスが何の用事だろうか。ふと思い至ったのは、今朝のエンジニアの寝顔だった。対応に不備があっただろうが。胸に引っかかりを覚えながら、接続を外線に切り替えた。


「はい、ゴトウです」

『お世話になっております。わたくし、霊柩サービスのシモヤマと申しますが』


 シモヤマと名乗った、多少舌っ足らずでハスキーな男の声が、鼓膜にねばりつくように響く。


「ご用件は何でしょうか」

『ええとですね、ゴトウ様、リーナさんのお父様でお間違い無いでしょうかね?』


 何やら時間に追われているのか、彼の物言いはどこかあくせくとした様子だった。


「はい、リーナは私の娘ですが」

『そうですか! いや良かった、身元がついて!』

「娘が何か?」

『いやですね、娘さん。リーナさんですがね、つい一時間ほど前に旅立たれましたのを確認いたしましたのでね、そのご連絡でした』

「そうですか、わざわざありがとうございます」


 返事を返した所でふと、先ほどの違和感が具体的な疑問になって喉の奥に閊えた。


『ご遺体は地下の方のサービスセンターにお預かりしておりますので、お引き取りの上、ご家族の作法に則ってお見送りをよろしくお願いいたします。それでは』


 事務的に語られて、何かに急かされているかのように一方的に通信を切られた。今の連絡はどういう事だろう。旅立った――つまり、生物学的には、亡くなったと言う事だ。娘は18だ。《C-plant》の移植は明日だ。という事は、まだリーナはカプセルを貰っていない。では、なぜ「旅立った」?

 疑問を飲み込めないまま上司に回線を繋ぎ、娘の見送りに行くために早退する旨を伝える。身支度を整え岐路に着く際、オフィスの同僚達の祝福と拍手が背中に響いていた。




 霊柩サービスのセンターは、地下街の比較的外れの方にある。ステーションから公共交通機関に乗り換え揺られる事、約20分。長方形の質素な佇まいをした白い建物がそれだ。受付にパーソナルチップを通すと、しばらくしてからくびれたシャツとぶかぶかのスラックスを身に着けた男が、額に汗を浮かべながら出迎えてくれた。


「ゴトウ様、どうも御足労いただきまして。連絡させていただきました、シモヤマです」


 シモヤマ氏は汗をハンカチで拭いながら、にこやかに会釈をする。私も会釈を返した。


「ずいぶん、お忙しそうですね」

「ああ、いえいえ、今日は少々旅立たれる方が多くてですね」


 彼は困ったような笑顔を浮かべながら、再びにじみ出た汗を丹念に拭い取る。


「ゴトウ様は、お身内の方が旅立たれました経験は?」

「昨年、父が」

「そうですか、それはおめでとうございます。では、手続きに関しては既にご存知でしょう。先にご面会なさりますか? それとも旅立ちの様子をご説明いたしますか?」


 面会を――そう口に出しかけて、言い淀んだ。先ほど通話中に抱いていた疑問が、思い出したように脳裏を過っていた。


「詳細を聞かせてください」


 言い換えて口にすると、シモヤマ氏に連れられてセンターの一室へと通されていった。

 相談室と書かれた部屋の扉を潜って、そこに設えられた黒いソファーに促される。合皮張りの、見るからに安そうな固いそれに腰かけ、一息つく。壁際のラックに並べられた数々の旅立ちに関するパンフレットや、大安吉日に加えて有名人の旅立ちの日等の情報が書き込まれたカレンダー。逆に、家族が旅立った時の手続き方法が記された冊子。そういったものが、飾り気の無い部屋の中に賑やかに鎮座していた。こんな部屋に通されるのは、生まれて初めての事だ。私が座ったのを確認して、シモヤマ氏は一度部屋を後にした。時計の針の音が静寂の中に響き、窓からは冷たい太陽の輝きが差し込んでいた。


「――あなた!」


 数分の時が経って、私を呼ぶ声にぼんやりと視線を向ける。部屋の入口に、血相を変えた妻が立ちすくんでいた。


「来たのか」

「それはもちろん……だって!」


 詰め寄る妻を落ち着かせ、何はともあれソファーに座らせる。そして面会はまだという事。これから先に詳細を聞くのだという事を、言い聞かせるように語った。


「あの子まだカプセル持ってないし、それに――」


 上ずった声の妻の言い分はもっともだが、そんな妻を宥める前にシモヤマ氏が部屋へと戻って来た。彼は受付で見せたような笑顔を向けてぺこりと会釈すると、部屋の隅からパイプ椅子を引っ張り出してきて、私たちの対岸に座った。


「奥さんも揃われましたね。では、ご説明させて頂きます」


 彼の説明は以下の通りだ。

 リーナは転落死だった。遺体の発見場所は地下のステーションのホームで、時間はちょうど学校が昼休みに入っている頃だと言う。その損傷状況と、発見された位置関係から、彼女は「地上」から落ちてきたものと診断されている。つまるところ地上のステーションから、地盤のトンネルを越えて、地下の地面に叩きつけられたのだ。摘出されたパーソナルチップも著しく損壊しており、データ復旧で辛うじて読み取れた指名と住所から私のもとへ繋がったという経緯であったらしい。そこまで聞いて、妻が嘔吐きながら足早に部屋を飛び出していった。


「奥さん、大丈夫ですか?」

「お気遣いありがとうございます」


 額にハンカチを当てながら眉をひそめたシモヤマ氏に、変に気を使わせないようそう言い添える。


「それで、事故なんですか?」

「はぁ、それがですね……」


 事故はそう起きるものではない。それを私はよく知っている。シモヤマ氏は非常に困惑した様子で、頬まで垂れてきた汗を丹念に、かつ忙しなく拭い取る。拭っても、拭っても、その汗が引くことは無かった。


「実はですね……娘さんだけでは無いんです」

「どういうことですか?」

「具体的な名前は控えさせて頂きますが……娘さんの他に、十数名の子供達が同じように亡くなっています。時間や場所こそ違いはありますが」

「……自殺ですか?」

「それは分かりません。ですが、その、一つだけ言い添えさせて頂きますと……皆さん、娘さんと同じ年代の方という事でした。学校はてんでバラバラですが、17~18の、《C-plant》移植が済んでいない子供達のようで」


 プラントの移植は早すぎても遅すぎてもならない。一般的に身体の発育がひと段落する18という年齢の誕生日、その前後1週間以内で行うよう定められている。それを受けていない、それも一年以内に控えた子供達ばかり、と言う状況は確かに不可解だ。そこに何らかの力や意志が働いているように、考えざるを得ない。


「リーナは自殺だって言うんですか……?」


 そんな話をしている内に、妻が部屋に戻ってきていた。扉の音は聞こえなかった。しかし、そこで我々の話が聞こえたのだろう。気分の優れない顔を一層青ざめさせて、震える紫の唇で、そう声を絞り出していた。


「おまえはもう帰った方がいい」

「でも、まだ面会が――」

「話を聞く限りでは、おまえは見ない方が良い」


 言い含めるように、妻を諭す。おそらく、面会するリーナは人の形をしていないことだろう。


「手続きは私が行っておくから、おまえは家で納棺の準備をしておきなさい。お気に入りの服とか、旅支度に棺に入れるものがあるだろう」


 反論する間を与えず、そこまで言い切る。仕事を与えれば、彼女も家に帰る言い訳になるだろう。妻は私の言葉に何度か小さく頷くと、ふらりとした足取りで部屋を後にしていった。


「奥さん、大丈夫ですか?」

「すみません。引き取りは明日、棺の準備が整い次第で良いでしょうか」

「はいはい、構いませんよ」


 それでは、と言いながらシモヤマ氏はエア・ディスプレイに安置と引き取りの書類を呼び起こす。私は指でそれにサインすると、取引先にするように、深く、頭を下げていた。


「では、リーナをお願いします」


 それから一度、娘と面会を行って、父の時に受けたのと同じ、引き取りの手順を確認して、その日の打ち合わせは終わった。面会に関しては、やはり妻を同伴させなくて良かったと思っている。霊安室は、多くのストッカーが「使用中」の表示を点灯していた。これだけの対応しなければならないのであれば、職員総出であったとしても、シモヤマ氏があんな状態だったのが頷けた。




 センターを後にする頃には、空は夕焼けに染まっていた。空調も多少涼し気に、秋の夜を演出している。何となく交通機関を利用する気分にならず、私は徒歩で帰路につくことにした。途中、ステーションの前で足を止める。センターとマンションは、ステーションを挟んで丁度対角にある。歩けば必然的に、ステーションを通る事になる。ぼんやりと改札を眺めた後に、その視線を空へと向けた。ホームから延びる巨大なレール。今はゲートが閉じられているためトンネルが見えないが、代わりにまるでレールが空に刺さっているかのような、そんな景色がそこにはあった。地上までのトンネルの長さは約3500m。この地下都市の天井盤までの高さが約1500m。合わせて5000m分の旅路をリーナは経た事になる。時間にしてどのくらいだろうか。エア・ディスプレイの演算に掛けてみると、六分ほどとの結果が出た。六分の落下の間、彼女はいったい何を考えていたのだろう。私には到底理解できない何かが、そこにあるような気がした。

 マンションについて、玄関のカギを開ける。歩いている間に陽はとっぷり暮れてしまったにも関わらず、家の中は真っ暗だった。電気を点けて、リビングへ向かう。


「ただいま」


 返事は無かった。おかしい。妻が先に帰っているハズだが、その姿は見当たらなかった。

 寝室、いない。

 書斎、いない。

 トイレも一応声を掛けたが、やはり返事は無かった。

 そこまで探して、ふと思い出す。そうだ、私は納棺の準備をするように言ったじゃないか。なら、リーナの部屋に居るはずだ。娘の部屋の前まで足を運ぶと、ドアが半開きになっているのが目に入った。驚かせないよう、静かにドアを開け放つ。妻はそこにいた。


「ただいま」


 声を掛けるが、返事はない。妻は、リーナのベッドにもたれるようにして眠っていた。部屋に明かりは付いていない。少なくとも、陽が暮れる前からそうしているようだった。脚元にはタンスをひっくり返したように服が散乱している。机の引き出しも、かなり物色したようだ。秋の気候調整で夜は多少寒気を覚えるようになっている。このままでは風邪をひいてしまうだろう。私は彼女を起こすべく肩に手を掛けた所で、不意に朝のエンジニアの姿が網膜に思い起こされた。いや、厳密には、彼女の足元に転がったカプセルのケースを見たことで、朝の事がこの部屋の状景に重なって見えたのだ。

 妻は旅立っていた。

 私は揺り起こそうとした手を止めて、妻を見下ろすようにその場に立ちすくんだ。反射的に、手はゆっくりと拍子を打つ。


「おめでとう、良い旅立ちを」


 これまた咄嗟に口から出た言葉だったが、その言葉を口にした途端、すくみ上っていたはずの身体の隅々にゆっくりと血液が流れていくのを感じていた。強張っていた手も足も、ほんのりとした温かみと共に私の支配下に戻って来た。

 妻の身体をリーナのベッドに横たえさせ、霊柩サービスに連絡を入れる。また職員の仕事を増やしてしまった。シモヤマ氏はおそらく、今日は家に帰る事ができないだろう。ロボットが到着するまでに、部屋に散乱しているものをもう一度見渡した。下着や肌着は、小分けの袋に詰め込もうとした跡があった。半ば普段着になっている制服や、休日によく着ていたお気に入りらしい服も、まとめて畳んで準備がしてあった。服以外は小物品が多く見受けられた。手鏡やポーチ。ポーチの中には様々なメイクセットが詰め込まれていた。いつの間にこういったものに手を伸ばしていたのだろう。妻はこの事を知っていたのだろうか。化粧品の中に妻が愛用しているブランドのものがいくつか混じっているのを見た。なるほど、知らぬ間に親の手ほどきは受けているようだった。

 ざっと見て、準備がしてあるのはここまでだった。妻が「ここ」で旅立った事がその様子から伝わって来た。リーナの旅支度を引き継ぐつもりで、まだ手が付けられて居ない様子であった机の上へと視線を移した。部屋の惨状と違って整頓されたままのそこには、リーナが使っていた辞書や読みかけの本、教科書、そういったものが積み上げられていた。その中に目を引く一

1冊があった。他のものと比べて明らかに装丁の違う、宝石箱でも忍ばせてあったかのようなその本を手に取ると、躊躇なく表紙をめくる。

 リーナの日記だった。

 エア・ディスプレイがありながらも、手書きに拘っていた娘の日記。ここには、リーナのすべてが書かれているのかもしれない。そう思って開いた表紙のすぐ裏に、整った字で短い言葉が書かれていた。


 ――この日記を読むくらいなら、そのまま燃やすか棺に入れてください


 ドクンと、思わず心臓が高鳴った。娘の秘密を垣間見る、そんな父親の背徳感に浸ったのではない。私のこの行動を、既に旅立ったはずの、ここにはいない、霊安室に居るはずのリーナに、遠い昔から見透かされていたような、そんな恥ずかしさ――いや、素直に言おう、恐怖、私は、娘の日記を見るのが、怖くなった。きっと、六分間の間に彼女が至った世界が、彼女が見透かした世界が、私をそうさせたのだろうと思う。地下へと落ちる無重力の中で、彼女は何を思っただろう。もしくは何も思わなかっただろうか。表紙を閉じ、もう一度だけそれを眺める。肉塊と化したあの子の代わりに、その姿を目に焼き付けるように。そして妻がまとめたリーナの旅支度の中にその日記を混ぜると、私は静かに部屋を後にした。




 東向きの窓から差し込む淡い朝の光が、私の目を覚まさせる。今日、アラームはならない。私が起きた事伝える人間は、もう誰も居ないからだ。いつものように顔を洗い、マウスウォッシュで口を濯ぐ。妻の居ない台所でボウルにシリアルを盛り、ミルクを注ぎ込む。簡素な食事の中で、エア・ディスプレイで今日のニュースにブックマークを刺す。そのままスケジュールを開くと、今日の予定に『有給 9時 セントラル』の文字がポップアップで点滅していた。それをダストボックスへと投げ入れると、代わりに『有給 9時 サービスセンター』と書き添えた。

 空になったボウルを流しへと持っていき、洗浄機へと立てかける。蓋をしてスイッチを入れると、高温のミストが大して汚れていないボウルを隅々まで磨き上げていく。透明な窓からその様子を眺め、戦場完了のブザーと同時に蓋を開いて、ボウルを棚へとしまう。そして再び蓋を閉めかけたその手を、私は止めていた。もう片方の手で、携帯を義務とされたケースを取り出す。この中に入っているのは、私の旅立ちの切符だ。いつでも乗る事ができる、エレベーターへのフリーパスだ。たった1枚きりのそれをケースの中から取り出すと、無造作に洗浄機の中に放り込み、蓋をする。そしてスイッチを入れ、リビングを後にした。




 ダンボールに入った2人分の旅支度を抱え、アパートの玄関を出る。棺桶は直接センターへ届くように手配をしている。後はその中に、二人と荷物を詰めるだけだ。既に陽は高く、日陰から出ると思わず目をしかめてしまう。この世界の空はいつでも青空だ。曇る事も、雨が降る事も無い。一晩経って朝になっても、6分間の答えは見つかる事は無かった。ただ、仮に私がリーナの代わりにそれを体験していたら、きっとそこにあったのは「自由」なのだろうと、そう結論付ける事にした。この大荷物を持って、ステーションの対岸へは歩きたくない。近くのバス停へ向かって、私は歩きはじめる。冷たい太陽の、その下で。



                   了

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