紅葉賀(もみじのが)


 11月10日過ぎ(旧暦10月)、朱雀院の行幸がある。その試楽(予行演習の会)が宮中で開かれた。

 光源氏は頭の中将とともに「青海波」を舞う。

 立派だという前評判から押すな押すなの大盛況で、見られなかった公達は悔しがる。

 帝も藤壺の女御を離したくなくて、藤壺の女御の前で予行演習を行わせた。



 会の白眉は光源氏の「青海波」だった。

 伴奏も素晴らしい。舞手も抜きんでて美しい。その足踏みの一つ一つの所作の美しさ。ずば抜けている。合間に漢詩の朗詠を行うと、極楽の声かと失神者が出た。

 弘徽殿の女御一派の皇太子妃が、「あまりに美しくて気味が悪いわ。神様が魅入られるかもしれなくてよ。」とくさして、味方からも顰蹙を買った以外は、帝をはじめ、見物の公卿たちは感激の涙をぬぐい、光源氏の名前は高まった。


 女御と二人きりになると帝は言った。

「今日の試楽は青海波に尽きたな。どう思ったね?」

「結構でございました。」

「相方の頭の中将も悪くはなかったね。やはり血筋の良い者の舞は手つきからして違う。舞人の舞はこれほどのなまめかしさはないな。あなたに見せたかったので、今日ここで試楽を行わせたのだ。」

 帝に言われて藤壺の女御は頭を下げたが、内心、彼と過ちを犯したのでなければもっと心置きなく楽しめただろうと思った。翌朝光源氏から感想を聞く手紙が届いたので、帝の許可を得てほめる返事を返すと、「立后されるにふさわしい教養のあるお方だ。」と光源氏はそれをお経のように広げて朝夕眺めている。

 帝は光源氏の美しさが神や仏に持っていかれはすまいかと心配になり、読経をさせている。


 やがて本番の行幸の日、宮中がこぞって参列して紅葉の舞い散る中、光源氏は舞った。真っ赤な紅葉が吹きかかる中、色とりどりの菊の花を頭に挿してこの世のものとは思われぬ姿だった。

 やはり本番の評判も光源氏に尽き、次に評判となったのは10歳の第四皇子の「秋風楽」だった。

 舞が終わるとかかわった公達たちは位が加階し、光源氏も頭の中将もそれぞれ正三位、正四位下に昇進した。



 そのころ藤壺の女御は宮中から宿下がりをした。

 光源氏は毎晩そのお屋敷の周りをうろついてすきをうかがったが、今過ちがばれたら、「評判が悪くなる」ではすまされない。女御が身ごもる御子にあらぬ疑い(事実だが)をかけられて、厳しい処罰は免れない。周りを固める女房達も、女御も、すきがなくて入れてもらえない。手引きしてくれた女房をおどしたりすかしたりしてみてもだめだった。

 だめでも光源氏は藤壺の女御のいる限りお屋敷の周りをうろつき続けた。


 当然ほかの女性たちのもとには一切通わなくなった。

 左大臣の家はその恨みを若紫に向けた。「二条邸に引き取ったという女性が光源氏を引きとめて正妻のもとに通わなくしているに違いない。」

 一緒に寝ているし、若紫が子供だとは、惟光とごくわずかの身近な女房しか知らないのだった。葵の上はますます光源氏に冷たくなった。

「ほかの女性のように軽く聞いてくれれば『身寄りのない子供を引き取って教育しているのだ』と話すのに。

 顔も姿も衣装も教養も、欠点のない人だし、最初に契った女性だから、思い入れも深いというのに。そのうち分かってもらえるだろう。」

 光源氏はもう機嫌を取ろうとは思わなかった。


 二条邸に入れた若紫は、神々しいほど愛くるしく育ち、光源氏はすでに一棟を彼女用にして、専用の家司(けいし=執事)と使用人をつける入れ込みようである。日が暮れたので女性のもとに行こうとすると寂しがる。宮中で宿直をするときでさえ2、3日離れればどうしているか気にかかって仕方なかった。

「子供が気にかかって仕方ない母親のようだな。」

 光源氏は苦笑しながら、一番気にかけるのは、今や藤壺の女御でなければ若紫なのだった。

 姪の忘れ形見がこのように大事にされていると聞いて、僧都も安心して妹の法事を行っている。

 藤壺の女御の周りをうろつくと女御も仕方なく正式な場を設けて女房を同席させたうえで御簾越しに会うこともある。自然と彼女の兄で、若紫の父親である兵部の卿に会う時もあるのだが、この父親に「あなたの行方不明の娘は家で引き取って養育しております。」と、教えることはないのだった。幼女誘拐の世間のそしりをうけたくないので、正式に結婚してから話すつもりである。そして御簾の中に入っていく将来の義父の背中をうらやましく見送るのだった。子供だった頃は彼も自由に入れたのだが。


 「三月たったから」と若紫の祖母の喪服を脱がせ、「しかし母親代わりの人だったから」とあまり派手ではない、紅、紫、山吹色の上着を着せる。そして愛くるしさに目を細めつつ、光源氏が山ほど作らせた小さな人形の家をぎっしりと並べて人形遊びをするのを眺めた。

 光源氏が宮中へ行くのを見送ると、人形にも参内させて遊んだが、乳母にたしなめられた。

「もう10歳をとっくに過ぎたのですよ。もうそんなことは卒業なさるお年です。旦那様がいる人はもっと大人らしくするものです。髪を櫛けずるときでさえ嫌そうな顔をなさって。」

 若紫はその言葉を聞いて、「それではあの方は私の夫なのじゃな。きれいな夫で嬉しいの。他の女房達の夫はみんな年を取っているのに。」と考えた。

 乳母の言葉はそのまま左大臣家に伝わり、「そんな子供っぽい人が光源氏はお好きなのか。ありえない。」とますます怒りを募らせた。

 23歳の葵の上は美しさを増しながらますます冷たくなり、左大臣はますます光源氏の機嫌を取った。女御にばかりかまけていてはまずいと、たまに光源氏が左大臣邸に行けば、左大臣は日頃の恨みをきれいに忘れてしまって、秘蔵していた有名な石帯を光源氏に手ずから締め、靴を履かせんばかりに世話をした。



 2月、藤壺の女御は月満ちて男児を出産した。二月たち、管弦楽の遊びがあり、御簾の内に藤壺の女御がいるとき、帝は赤子を抱いて臣下にお披露目をしたが、光源氏に言った。「お前ばかりを見ていたせいか似ているような気がするね。小さな子供はみんな似ているものなのかな。大きくなれば違うだろう。」事実その男児は生き写しかというほどに光源氏に似ていた。


 さすがの光源氏も冷や汗をかいて自宅へ帰った。

 庭には何度も藤壺の女御へ手紙と一緒に送った撫子の花が咲いている。


「あなたを偲ぼうと思ったのに撫子の花(=子供)を見てかえって涙が増えました。」


 かき乱された思いのまま花につけて手紙を送る。

 よいタイミングがあったのか、手引きする女房は「花びらに書くほどだけでもお返事を」と女御に額をこすりつけるばかりにして頼んだ。女御は人目についてはいけないのでその女房を冷遇はしないが、以前ほど近づけもしなくなっている。しかし今は帝の言葉に心をかき乱されて苦しい思いは同じだった。決して一人になれるときがないだけ、いつも帝にお仕えしなければならない分だけ、彼女の方が苦しいのだった。


「袖を濡らすことになった人のゆかりと思っても、嫌いになれません。撫子の花(=子供)は。」


 光源氏は返事を抱きしめて涙を流して喜んだ。あんなことがあったからこんなにうれしい手紙がもらえるのだと思うと、かえって良かったとさえ思った。いつの時代も結果を引き受けて苦しむのは女の方である。男は気楽にしていられる。



 女御がかかわると光源氏は何日も伏して過ごした。しかしこうしていても良くはないと、同じ屋敷に住まう若紫の様子を見に出かけた。女御に似ている女の子の顔を見れば、気も紛れるに違いない。

 寝乱れた髪、着崩れた部屋着、美男子とは何をやっても様になるもので、いつも以上に色っぽい。笛を軽く吹き鳴らしながらのぞけば、いつものように「源氏の君様!」と言って喜んで駆け寄ってこない。「同じ家の中にいたのに来てくださらなかった」と若紫は光源氏を恨んですねている。

「潮満てば 入りぬる磯の 草なれや 見らく少なく 恋うらくの多き

(古歌:潮が満ちれば 海に入ってしまう 磯の海藻でしょうか お目にかかることが少なく 恋しい時が多いです)」

 袖で口元を押さえて、ついっと横を向く様子は何とも美しく色っぽい。数ある女性の中でも最高点をつけてもよいその美しさ、色っぽさ、愛らしさに光源氏は満足した。

「伊勢の海女の 朝な夕なにかづくてふ みるめに人を 飽くよしもがな

(古今集:伊勢の海女が 朝な夕なに潜って取ると言う「みるめ」(わかめ そして音が同じ 「逢う時」)嫌になるほどあなたに逢う方法がほしい)

 あんまり会うと飽きるんですよ。」

 光源氏は琴を持ってこさせた。

「箏の琴は細弦の中央が切れやすいのが面倒だな。平調にするよ。」

 最初のところだけを弾いて差し出すと、若紫は機嫌が悪かったことも忘れてにっこりし、上手に続きをかき鳴らした。

 小さな左手で弦を押さえて弾く姿を見ながら、光源氏は笛を吹きながら琴を教えた。若紫は賢くて、教えられるとすぐに覚えるのだった。一度教えられただけで難曲を弾きこなし、高麗楽の難曲「ホソログセリ」も調子を外さず、まだ名人の域には達していないかもしれないが、それでも若々しい調べが面白い。光源氏の留守の間に練習を積めば、将来は琴の名手である自分をも満足させてくれるほどの琴の名手になるだろう。光源氏はますます若紫を大事に思った。

 日が傾いて薄暗くなったので、明かりを灯して二人で絵を見ているところに、「お出かけの時間です。」と配下の者が知らせに来た。

 光源氏が出かけてしまうと分かり、若紫は絵を投げ出して突っ伏した。光源氏はうつむいた顔にこぼれかかる美しい髪をかきなでてやった。

「私が行くのが寂しい?」

 若紫は心からうなずいた。

「私も一日でもお前に会えないときは辛いのだ。しかしまだお前は子供だから、嫉妬深いひねくれものの機嫌を損ねないために出歩かなければならないのだよ。お前が大人になったら、一日だって離れはしない。けれどその時のために、人の恨みを買わないでおくようにしたいのだ。私たち二人が幸せに生きるためだ。」

 傍らで乳母の少納言は深くうなずいていた。彼女は光源氏の寵愛は嬉しかったが、正妻にいじめ殺された母親の二の舞にならないか、いつも心配していた。本妻に子供さえできれば追及もひどくはないだろう。

 こまごまと言って聞かせていると、若紫は光源氏の膝に取りついて聞き入ったまま寝てしまった。光源氏はとても立ち上がれない。行く相手が冷たい葵の上だと思うと、こんなにかわいらしい女の子を押しのけてまで行く気になれない。

「今夜は行くのをやめにする。」

 若紫はパッと目を覚まして起き上がった。若紫の機嫌を取りながら、二人で食事をする。若紫はあまり食べずに心配そうに光源氏を見守り、食事が終わると「お休みになりますか?」と聞いた。寝ないでどこかへ行ってしまわないか心配なのだ。光源氏はとても見捨てられないと思った。

幼くても賢い彼女には分かっていた。たとえ大勢の女房にかしずかれていても、祖母亡き今、自分を守ってくれる人はこの世でこの誘拐犯一人しかいない。父親はめったに会わなかったので記憶から消えていた。光源氏がいないと不安でいっぱいになるのだ。


 この噂は左大臣に伝わった。

 左大臣家では「この頃おいでになるとお知らせがあったのに来られないことが多いがその女のせいか。」と若紫を恨む。乳母の心配は現実になりつつあった。

「しかし膝に取りついてお帰りを止めるとは、身分の高い者のすることではない。宮中でご覧になった女房をこっそり連れ帰って住まわせていらっしゃるのだろう。見つかったら咎められるような身分の低い女に違いない。」

 早くも若紫下ろしが始まっている。左大臣ににらまれて、一応帝も注意した。

「お前が半人前のころから真心こめてお世話してくださっている左大臣を無下にしてよいわけはない。それが分からぬお前ではないだろう。なぜそんなことをするのだ。」

 光源氏はかしこまったまま答えない。「世話しているのは子供です。」というわけにいかないのだ。帝の妻の姪を無断で連れ帰ったのだし、いずれ妻にするつもりだから咎められるのも後か先かだけの違いなのだ。帝はその様子を見て、「左大臣の娘が気に入らないのだな」と思った。彼も気に入らない妻を押し付けられて、最愛の女性を殺されても妻にしておかなければならないしがらみのある身なので、気持ちはよく分かった。

「お前は女遊びが激しい方ではないのにな。」

 と、息子を知らない帝はため息をついた。


 帝がそう思うのには理由があった。彼は年をとっても粋な美人が好きだったので、女房や女官もそんな女性が集められていた。光源氏に憧れて歌を詠みかけたり冗談を言いかけたりして口説かれるのを待っている女性は大勢いたが、光源氏は自分から声をかけることはおろか、話しかけられても生真面目に返事をするばかりで応えたことはなかったのである。宮中育ちの彼は政敵の目の届くところで遊ぶような馬鹿な真似はしなかった。だから彼は「かたぶつ人間」ということで通っており、人気は高まる一方だった。時には「つまんなぁい」と言われてもいた。

 帝の身の回りの世話をする典侍(ないしのすけ)に、年を取った女性がいた。源姓なので、「源典侍」と呼ばれていた。身分も卑しくはなく、機知に富んでいたが、年をとっても男遊びがやめられないと物笑いの種になっていた。光源氏は珍しく思って少し言い寄ってみたところ、あっさり乗ってきたので噂は本当だったと分かった。面白くはあったが、こんな年寄りと噂になっては困ると思い、2,3回逢ったきり、袖にしていたが、源典侍は恋しがっていた。彼女は光源氏が忘れられなかったのだ。

 

ある日光源氏が帝のおそばにお仕えした時源典侍は髪結いの当番で、お召し替えの担当に交代すると、ついっと光源氏のそばを通った。

 衣装は華やかで真新しく、光源氏も好感を持った。裳裾をつかんで引きとめると、赤と金色の扇で顔を隠して流し目で見る。まぶたは垂れ下がり、髪は白髪をすべて抜いたためにまばらで、年寄りそのものだが、その扇は派手な若者のものだった。

 光源氏の気を惹くため、彼女は金に糸目を付けぬ装いをこらしたのだ。

 扇は着物と同じくらい高価で、経済力のない女房なら扇を貢いでもらうために愛人を一人作らなければならないほどである。歌を書き付けたり物を乗せて差し出したり顔を隠しつつそっとのぞいたり、適切に使えば強力な恋愛のツールともなった。典侍の扇はあきらかに何かを伝えるためにあつらえたものであったらしいので、彼は自分のと取り換えてとっくりと眺めた。

 赤色は顔が映るほど分厚く塗りこめられていて、その上に小高い森を金色で描いてある。すみに年寄り臭いがなかなかの筆跡で古歌が書き付けてある。


「大荒木の 森の下草 おいぬれば 駒もすさめず 刈る人もなし

(古今集:大荒木の森の下草が生えるので馬も進められず刈る人もない(老いたので殿方も慰めてはくれない)」


「ずいぶんな言いようだ。」

 光源氏はけなしながらも笑った。

「ほととぎす 来鳴くを聞けば 大荒木の 森こそ夏の 宿りなるらし

(信明集:ほととぎすが来て鳴くところを見ると、大荒木の森こそ夏の宿らしい。(=宿ってほしいという事ですね。))」

「あなたが来てくださるなら盛りを過ぎた下葉も刈って馬に食べさせます。」


「笹わけば  笹をかきわけて音を立てれば

人やとがめむ 人に気づかれてとがめられるでしょう

いつとなく  いつも

駒なつくめる 馬が来ているみたいですから

森のこがくれ 森の木陰には」


 はぐらかして逃げようとするも源尚侍は光源氏が笑ったことを見逃さなかった。彼女は立ち去ろうとする光源氏の着物をつかまえて泣きながら恨んだ。ふりほどいてもふりほどいても「こんな扱いを受けたことはありません。恥です。」「思う事 昔ながらの橋柱 ふりぬる身こそ 悲しかりけれ(一条摂政集:思うことは昔ながらの橋柱なのに年を取った我が身が悲しい)」と機知と教養に富んだ文句でとりすがる。他の公卿なら老女をさりげなく蹴倒してそっとあざ笑っただろうが、光源氏はそれができなかったので逃げる一方だったところを帝がのぞいた。

「何だ。女に興味がないと思われているのに。やはり抵抗できなかったか。」

 源典侍は否定しないで恥ずかしがっている。帝が笑ったことで、老人と契ったと、そばに控えていた全員の殿上人に知られることになった。光源氏の恐れていたとおり、「かたぶつの光源氏が男好きの老女と契った」としばらく噂を立てられることになった。そしてそれは思わぬ効果を生んだ。いつも光源氏に対抗意識をもって彼のすることは何でも真似をしたがる頭の中将が感心したのである。「そうか。源典侍か。思い至らなかった。老いても旺盛な好き心、これはぜひ試してみるべきだった。」

 彼はさっそく源典侍と男女の仲になった。ただし誰にも知られないように特別に気を付けていた。


 源典侍は光源氏がいない間は頭の中将を身代わりにしてもよかったが、光源氏が恋しくてならなかった。頭の中将も人より優れた、地位よし血筋よし教養よし顔よしの若い貴公子であるが、光源氏の魅力がなく、源典侍はもう一度光源氏と契る機会をいつも狙っていた。


 ある日光源氏が内侍の詰所のそばを通ると、素晴らしい琵琶の音色が聞こえてきた。源典侍は琵琶の名手で、帝の前で、男性を含めても、琵琶を弾かせて源典侍の右に出る者はいない。寂しい気分の時だったので、光源氏は心惹かれた。源典侍が今でも自分を思ってくれて秋波を送り続けてくることを知っていたので、哀れにも思った。


「山城の 狛のわたりの瓜作り な なよや らいしなや さいしなや 瓜作り 瓜作り はや 瓜作り我をほしと言う いかにせむ な なよや らいしなや さいしなや はれ  いかにせむ なりやしなまし 瓜たつまでに や らいしなや さいしなや 瓜たつま 瓜たつまでに」

 催馬楽の「山城」である。声が若々しいのが気に入らないが、思い悩んでいるのが伝わってくる。歌い終わって部屋はしんと静まった。


「あづまやの まやのあまりの その雨そそぎ 我立ちぬれぬ 殿戸ひらかせ かずがいも 戸ざしも有らばこそ その殿戸 我差さめ 押し開いて来ませ 我や人妻」


 光源氏は催馬楽の「東屋」をそっと歌いながら部屋の横を通り過ぎると、源典侍は「押し開いて来ませ(戸を開けて来てください)」のところを声を合わせて歌う。


(それにしてもはしたない女だ。)

 軽蔑しながらも当意即妙で言いたいところだけを唱和するとは、心憎い。

 光源氏はそっと戸を押し開いて中に入った。


 これを間の悪いことに頭の中将が見ていた。彼は光源氏が遊び歩いているのに「かたぶつ」と思われているのがいつも気に入らなかったので、大喜びした。光源氏を脅かして遊び歩きはいけない、葵の上のもとに通うのがよいと思い知らせる絶好のチャンスである。二人が眠りにつくのを待った。


 冷たい風が吹き、夜が更けたころ、ぬっと源典侍の部屋に入り込むと、光源氏は直衣だけとって屏風の後ろに隠れた。源典侍の相手といえば、身分も高くない年寄りばかりなので、そんな相手に見つけられて馬鹿にされるのは避けたかったのだ。

 頭の中将は入ってまっさきに屏風に目をつけると、笑いをかみ殺しながらがたがた揺さぶった。源典侍は人生で何度も複数人と付き合って修羅場慣れしていたので、落ち着いて頭の中将の袖口をつかまえ、震えながらも光源氏に危害だけは加えられないように控えていた。

 光源氏は自分だと知られないほど素早く走り出ることを考えたが、彼は着物をきちんと着付けず、中でも冠をゆがめて身分の低い者の前に姿をさらすことは耐えがたかったので我慢した。

 頭の中将は「屏風がたがた」を一通り味わったので、次には刀を引き抜いた。

 源典侍はびっくりして、「あなた!あなた!どうか!」とひざまずき、両手をこすり合わせてとめようとする。二十歳の若者二人の間で、老女が自分を取り合っていると思って本気で心配している。頭の中将はさすがにこらえきれずに吹き出した。

 老人ではなく若者の笑い声だったので、のぞくと、頭の中将である。暗くても彼にはすぐに分かった。出て行って刀を握る腕をつねってやると、二人で爆笑した。

「まったく。この直衣だけでも着させてくれ。」

「だめだだめだ。」

「ならばお前も脱げばいい。」

 光源氏が頭の中将の帯を引き抜くと、頭の中将はそうはさせじと転げまわる。結局二人とも衣はびりびりに破けて、(この時代の着物はほどいてから洗うので、もともとそれほどしっかり縫い付けてはいない。簡単にパーツに分かれる。)ズボン(指貫)と上着(直衣)を失ったまま、夜の闇に乗じて二人は部屋と宿直室に帰った。


 朝になって、源典侍が二人の着物を届けてよこした。

(帯の色が違う。これは頭の中将のだな。袖もない。袖をとられたか。)

 反省していると、頭の中将が袖をよこした。

「これ、あなたのでしょう。」

「これは君の帯だろう。」

 なぜか負けたような気になって袖を包んだ紙に戦利品の帯を包んでやり返した。


 昼過ぎに二人とも帝の前に参上し、威儀を正して奏上の任務に就いていたが、目を見交わすと昨夜のことを相手が覚えていることが分かる。にらみ合った後、笑いをこらえている。

 頭の中将は光源氏にそっと近寄った。

「懲りたでしょうね。」

「そんなことあるか。無駄足を踏んで気の毒だったな。」

「犬上の とこの山なる いさや川 いさと答えよ 我が名もらすな。

(古今集:犬上の とこの山にある いさや川 「いさ(=さあねえ?)」と答えよ。私の名前を出すな。)」

「とこの山なる」


 帝は藤壺の女御の子供を次々代の帝にするつもりだったが、女御は皇族なので親戚に後見になれる政治家がいない。彼は光源氏を後見の中心に据えることに決め、彼の地位を進めて「参議」にした。そして、さらに女御の位を上げることにした。「皇后」である。これで二人は政治的に一蓮托生で結ばれることになる。きずなが固ければ多少のことは乗り切っていける。

 弘徽殿の女御とその一派から猛烈な抗議があるのは分かっていたが、「お前の産んだ長子が次の帝ではないか。東宮の母となって20数年、お前の地位が揺るぐわけではない。」と言いくるめた。たしかにその子供が次の帝となったら弘徽殿の女御の時代が来る。しかしその時代はすぐに終わって、藤壺の女御と光源氏の時代が来るのだ。帝はその日が来るのが待ち遠しかった。光源氏が早く力をつけてもらわねば困る。長生きしなければならない。


 皇后となった日、光源氏は宮中に上がる藤壺の女御の輿に付き添った。

 輿の中の美しい方を思うだけで光源氏の心は乱れた。

「私の心は闇のなかで惑うばかりだ。」

 彼はつぶやいた。

 藤壺の女御の子供は成長するにしたがってますます光源氏に似てきたが、誰もそのことに気づかなかった。

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