末摘花(すえつむはな)

 空蝉、夕顔に心惹かれた後、若紫を手に入れる前の話である。

 どの女性のもとへ行っても隔てのある対応で、一心に光源氏を頼って疑うことも自分をよく見せようとすることもなかった夕顔を思い起こし、「もう一度あのような女性を探し出したい」と望み、少しでも評判のたった女性には一行だけでも片っ端から手紙を出した。そうすると、なびかない者はない。

 あまりにもあっさりとほとんど誰もがなびくので、そうなると今度は気強く光源氏を拒み通した空蝉のつつましさが思い返されて悔しかった。断るものは頑なで身の程も知らなければ情趣もない。そして身分相応の結婚をするので口説いた途中でやめることになった。どの女性にもあの細やかさ、情の深さを感じることはない。

 一度契れば忘れることはないので、空蝉と間違えて手を出した「荻の葉」(義理の娘に萩の葉の歌を贈ったので彼女はこう呼ばれるようになった)のことも時々は思い出した。のぞき見をしてろうそくにゆらゆら浮かび上がった姿が若々しかったこと。夫がいるが、手紙をやれば光源氏になびくのだ。愛情がないからといって忘れるわけではない。

 光源氏は愛する女性がいなくてふらふらしていた。それこそ見境なしに女性に手を出しながら藤壺の女御の代わりになってくれる女性を探していた。効果的な避妊法もない時代に性病にかからなかったことが不思議だが、まだ梅毒は上陸していない。また、女遊びをする割に子供もできなかった。



 頼れる惟光の母親のほかにも、光源氏には乳母がいる。二番目に大事に思っているのは「左衛門の乳母」で、乳母子は女官をしている「大輔の命婦」である。父親は皇族の血をひく兵部省次官の「大輔(たいふ)」であり、母親は筑紫の守と再婚して一緒に筑紫の国に下っていったので父親のもとで生活しながら宮中に仕えている。当人はあだっぽい女官である。光源氏も気に入っていて時々呼び出しては用事を言いつけたりしていた。


 この大輔の命婦が女性のうわさ話をした。光源氏の耳にとまったようだったので、それからも折に触れては光源氏の耳に吹き込んだ。

「今は亡き常陸の親王が遅くなってからできた子供で、たいそう可愛がっていた姫君がいる。今は頼れる人もなしに心細く暮らしている。」


大輔の命婦の父親の家には血のつながらない後妻がいて、居づらいので命婦は常陸宮の姫君の屋敷を根城にしていた。生前、常陸の親王は多くの部下を厳しく従え、荘園からは容赦なく貢物を徴収し、しきたりを頑なまでに守る厳格な人だった。だからこそ、死後彼に従うものはなく、荘園は一切の貢物を出さず、部下たちは離れていき、ただ行き場のない女房やその縁者が、残された姫君のまわりに寄り集まって貧しさに耐えている。常陸宮の決めた数々の細かい習慣をきっちりと後生大事に守り続けながらいつ飢え死にするのか分からないありさまである。命婦も父親の関係で縁があり、「女房」の名目で部屋をもらっている。女官といえども、髪洗いや、病気・物忌みで、宮中から下がらなければならないときはあり、父親の家に気軽に帰れない命婦にとって、とても便利な住まいなのだ。主の姫君は、ひきこもって歯がゆいほど世間知らずだが悪意もないので、苛烈な宮中社会を生きている命婦にはほっとする相手だ。だから光源氏の愛人になって、豊かな暮らしを送れるようになってほしいのだ。他の貴族とは違い、彼は女を使い捨てにするところは同じだが、最後まで生活の立つようにするという、奇特な甲斐性があったので、頼みにできる。


「お顔立ちははっきりとは見ていません。人付き合いをなさらない方なので評判にもなっていません。私も真夜中に隔てた物越しに話をさせていただくだけなのです。

 ただ、琴が大変お好きで友と思っていらっしゃるようです。」

「ふうん。琴をね。」

 光源氏は琴の名手なので聞くのも好きである。

「父親の常陸の親王は音楽に造詣が深かった。娘も並の弾き手ではないだろう。一度聞かせてもらおう。」

「そんなお聞きになるほどのものではございませんですよ。」

 と、謙遜しながらも命婦は光源氏の興味をかきたてようとがんばって気をひくような言い方をした。

「ずいぶんと思わせぶりな言い方だな。朧月夜の晩に行こう。」

 そんなロマンチックな指定をされても宮仕えの身で勝手には休めないのではあるが、宮中が落ち着いて忙しくない春のある日にそっと里下がりをして、光源氏を案内できるようにした。



 光源氏は自分でも言っていたように十六夜月の美しく見えたころに、屋敷に現れた。

「今日は琴の音が澄んで聞こえるか分かりませんですよ。」

「一曲だけでも弾いてくださるようにお勧めしてきてくれ。」

 とりちらかした自分の部屋にお待たせすることに気兼ねしながら姫君の住処へ行くと、姫君は格子を上げたまま庭の咲き匂う梅を眺めていた。梅の香は夜強くなるという。抜群の雰囲気だ。今日契るというわけでなくても、今日光源氏の心をとらえて通っていただけるようになるように、と大輔の命婦は願った。

「姫様。今夜は琴が美しく聞こえると存じます。最近お聞かせいただいていないので残念でございます。」

「聞く耳のある人がいるのですから弾きましょう。宮中に出入りする方がどんなふうにお聞きになるか分かりませんが。」

 姫君が琴を引き寄せるのを見ながら、大輔の命婦は胸をどきどきさせた。光源氏が気に入ってくださいますように。

 軽く搔き鳴らすのを、光源氏は離れた部屋で聞いていた。深みのある音というわけではない。しかし琴の音は深みがあるのがよいというものでもないので、悪いとも思わなかった。見渡せば屋敷は荒れ果てている。常陸宮が仰々しく盛り立てていたという昔の姿は影も形もなく、ただ往来の豪華さがかえってみじめさを増していた。姫君は悩みも多いことだろう。昔話にある恋愛が始められそうな舞台だ。

 今夜言い寄ろうかな、と思い浮かんでみるが、浅い心と思われそうでやめにしたまま命婦の個室でのんびりしていた。

 命婦は人の心の機微にたけた宮中の女官だった。「もっと聞きたい」と思わせるところで取り上げた方が光源氏がまた来ると思い、姫君の演奏を止めた。

「曇ってきました。実は客が来ることになっているのですが、戻らないと嫌な顔をしていると思われますでしょう。また続きをお聞かせください。戸締りしますね。」

 命婦は格子を下ろして光源氏のもとに帰ってきた。

「いいところでやめたな。演奏がうまいかどうか聞き分ける暇もなかった。残念だ。」

 名残惜しそうな光源氏に、よっしゃと命婦は心の中でガッツポーズをした。

「同じことならもっと間近で聞きたい。」

 知りたがっている、しめしめと思いながら、こいつ姫君を軽く見ていると、命婦は警戒心を募らせた。

「とんでもない。あまりにもみすぼらしいご様子を心苦しく思われてます。垣間見などおさせしたら、申し訳ない。」

 命婦は婉曲に断りながら、同時に姫君に援助してくれとほのめかした。

「そうだな。急にきて急に親しくなる人間の身分など知れている。」

 姫君のことは気の毒に思うし気にかかるので、「引き続き私のことを申し上げるように。」と命じて光源氏は帰り支度をしたが、ひどく人目につかないようにしている。

 どこかに約束している女性がいるのだろうと、命婦はあたりをつけた。

「陛下が源氏の君がまじめすぎると悩んでおいでなのが時々笑いたくなります。こんなお忍びの姿をご覧にいれたいです。」

 光源氏はわざわざ道を戻ってきて、命婦に色っぽくほほ笑んだ。

「私のことを言いふらすなよ。これが浮気者だというのなら、同じ振る舞いは女でも見苦しいぞ。」

 私のことを浮気者だと思っていらっしゃる、と命婦は恥ずかしくなって、何も返事をしなかった。光源氏はよくこう言うし、確かに男関係は派手な方かもしれないが、それは相手がすぐに捨ててくれるからで、自分は一途なのだ。浮気者だと思われたくない。



 光源氏は帰ったわけではない。他の女性のもとへは行くかもしれないが今行くわけではない。姫君の姿を垣間見したくて、外から母屋をうかがうために外に出たのである。(命婦はそんなことがあってはいけないとすでに格子を閉めておいたが。)

 そうすると、崩れかけた竹垣の合間から、なかを覗いている人影がある。

(私だけではなかったのか。)

 知られたくなくてそのままそ知らぬふりで通り過ぎようとすると、その男は光源氏の袖を引いた。

「宮中からお後を慕ってきましたよ。」

 頭の中将だった。ご丁寧に粗末な服を着て変装までしているのでわからなかった。

「こんなところまであとをつけるものがあるものか。」

 光源氏は苦笑した。

「お屋敷にも我が家にもお越しにならない様子でしたからね。もちろん私も予定があるのですが、気になりまして。

 こんなお忍び歩きもお供次第でひどいことも起こりますよ。声をかけてくださればいつでも私がお供しましょう。」

 光源氏はこれは重いぞと思ったが、夕顔のことを思い出して怒ることはできなかった。今も彼は探していることだろう。「撫子の君」のことを。子供のことを。夕顔は彼が連れ出したために死んでしまった。子供の行方も分からない。それを思うと、何も言えなかった。

 仕方なく同じ牛車に乗って、左大臣邸に向かうことになった。



 月夜の京の街を、牛車は進んでいく。

 興が乗った二人は笛を取り出して合奏した。

 知らせるというでもなくそのまま左大臣邸に入り、直衣(簡略服)を持ってこさせて廊下で着替えてから、再び合奏を続けると、左大臣は高麗笛を取り出してきて、二人の音色に合わせた。左大臣の高麗笛は名人級である。

 御簾の内でも女たちが、心得のある女房に琴などを弾かせる。

 一人琵琶の上手な「中務の君」という女房がいるが、光源氏が来たことに心を乱されて弾かずに突っ伏していた。頭の中将に言い寄られているのに答えず、ひたすら光源氏を慕って待っているのだが、それが「公達と関係を持っても愛されていると思わない。高望みをしない。」という、女房の規範を越えていたので、女主人(葵の上と頭の中将の母親)からひどく冷たい扱いを受けていた。奉公先を変えればよいのだが、変えられずにいた。光源氏に会えないことを思うと、思い切れないのだ。貴公子の優しさなどあてにならないということが、高貴な男性からひどい扱いを受けたことも、そんな女房を間近で見たこともない彼女には、分からないのだった。

 

そのころ頭の中将は、琴の音色に、常陸宮の姫君のことを思い出していた。

 長い年月、あばら家でひっそりと暮らす(願わくば美しい)姫君。性格が優しければ噂になるほど入れ込んで通うだろう。

 しかしながらこの源氏の君があれほどうろついているのでは、手に入れられるかどうか分かったものではない。

 彼はその日から手紙攻勢を開始した。



 ところがいくら手紙をやっても返事は来ない。返事がないというのはおかしい。身寄りのない、あばら家に住まう女性なら、頭の中将のような殿方との恋愛は渡りに船のはずだ。普通なら、「断りの手紙」をよこす。そしてそれが雅やかな恋愛のはじまりである。歌のやり取り、季節の情感のこもったはねつけ方に相手の人柄を推し量るのは、恋愛の醍醐味である。それが全くないのは、気がない証拠で、他に通う男性がいるとしか思えない。もし単に奥手なだけだとしたら、都の基準からしたら最悪である。


 隠し立てということができない都人らしからぬ気のいいところのある人なので、彼は直接光源氏に尋ねた。

「常陸宮の姫君ですが、ずいぶん手紙を出すのに、全く返事がないのですよ。あなたには返事が来ましたか?」

 光源氏はそっとほほ笑んだ。その意味は不明である。

「返事ですか?見たような見ないような。」

 おのれ光源氏には返事を出したのか、と、頭の中将はファイトを燃やした。


 一方の光源氏にも返事は来ていない。もともとそれほど興味のあったわけでもないし、返事が全くないというやり方が気に入らなかったので、このままフェードアウトしようかと思っていたのだが、頭の中将に持っていかれるのは面白くなかった。


「このまま頭の中将が熱心だから姫君もなびくかもしれないが、そのあと私を袖にしたのだと言いふらすかもしれない。」

 彼は仲立ちをした命婦を呼びつけた。

「常陸宮の姫君だが、返事が全くない。返事がないのは私が遊び人だと思って信用していないからか?親兄弟のない姫君は気が楽でいいと思っていたのだが、信用してくれる姫君なら可愛いのだがな。」

「いえいえ。そんな公達が何人も出入りなさるような、打ち解けた方ではございませんのです。ただただ引きこもって暮らしていらっしゃる方で、その点では近頃珍しい方でございますよ。」

 命婦は普段見ているままの事実を語った。

「浮気っぽいところはないようだな。子供のような信じやすい方なら、かわいらしいだろう。」

 光源氏は夕顔を思い起こして、めげずに手紙を送り続けた。途中病気になり、寺へ祈祷をしてもらいに行って若紫を見出したり、継母と密会の上不義の子をもうけてしまったりしたこともありながら、春と夏は過ぎてやがて秋になった。


 去年の秋は夕顔の家で砧の音がやかましかった、という事さえ懐かしく思い出しながら常陸宮の姫君に手紙を送る。この姫君も生活に困っているのだから、夕顔に似通うところがあるかもしれないと思うからである。しかしあいかわらず返事がなく、意地になった光源氏は返事が来るのを待たずに関係を持つところに進むことにして、命婦を責め立てた。


「返事が来ないのだが、あまりに情け知らずなやり方だな。」

「本当に世間知らずで何事にも物怖じなさる方なのです。たぶんそれで手紙の返事も書けないでいらっしゃるのです。」

「こんな扱われ方はしたことがない。心細いなら心細いと一言返事を書いてくれれば私も打ち解けるのに、世慣れないにもほどがある。心得のない姫君のようだ。私を姫君の部屋に入れるように。間近でお話がしたいのだ。お前はまさか私をそんな扱いはするまいな。」

 命婦はこれほどの執心であるとは思わず困ってしまった。間近で接した彼女は知っている。姫君は男心を引き回す才覚も色気もないのだ。ただただ素直なだけ、人が好いだけで、才気はない。程よく引き付けて突き放すような微妙な真似ができるわけがない。光源氏を入れたら、そのまま愛人にされてしまうに決まっている。

返事さえ出してくれればいいのに、心得のある女房がいれば、姫君にどうすればよいのかを教えたり、姫君の代わりによい返事をしたためたりするのだが、今は他に行き場のない出来の悪い女房しか残っていない。そんな女房でさえ光源氏の手紙にはうっとりして、しきりに姫君に返事を書くように勧めるのだが、姫君は父親から「男を近づけてはならない」と言われた言いつけをひたすら守って、手紙を見さえしていなかった。

かといってここで断ったら、光源氏は気を悪くしてあきらめてしまうだろう。常陸宮のいた時代でさえ、常陸宮の、やたらルールが多くて一緒にいると息苦しくなる性格が災いして人の出入りの少ないお邸だった。常陸宮亡き今、誰も寄り付かないと言ってもいい家に、この先婿になりたいという貴公子が出てくるわけない。

 命婦は決心した。周りの女房の一存で姫君の運命は決まってしまうものなのである。

「それではふすま越しに。少しお話しなさるだけですよ。」

(気に入らなかったらそこであきらめるでしょ。通われるにしたって、光源氏を正式な婿にしようと騒ぐような人は誰もいないのだし。)

 姫君は傷つくかもしれないが、命婦にとっては男が忍んできてその後捨てられるくらい、たいしたことでもなかった。



 9月20日、月が遅く出るのでまだ星しか見えず、松の梢に寂しい音をさせて風が吹き抜けていた。姫君は在りし日の思い出を語って、泣いたりしている。

程よく人恋しくなっている、ちょうどいいと思って、命婦が光源氏に知らせを送ると、光源氏はお忍び姿でやってきた。

命婦は姫君に琴を弾くようにそそのかした。間遠に琴をかき鳴らす感じは悪くない。ただ、もう少し流行を取り入れて光源氏の審美眼にもかなうようにならないものかと、命婦はやきもきしていた。光源氏は勝手知ったる他人の家、命婦の部屋に入り込み、命婦に着いたという知らせを送った。命婦は驚いたふりをして言った。

「困りました。前から姫君にお会いしたい、お話ししたいとおっしゃっていた源氏の君ですよ。お断りしていたら直接申し上げたいそうで、今いらっしゃってます。どうなさいますか?このままお返しできるような方ではありませんよ。そんなことできるわけありません。なみなみでないご身分なのですから。どんな報復をされるか分かりません。

 ふすま越しに、お話しなさることだけでもお聞きくださいませ。」

「お話の仕方を教わったことがないわ。」

 姫君は奥へいざって恥ずかしそうである。初々しい様子に命婦は笑った。

「そんな娘みたいな真似は、親がいて、しっかり後見をしてもらっている人がやることですよ。こんなに心細い有様なのに、男が話をしたいと言っているのを断れるものじゃないです。しかも相手は源氏の君なんですから。さあ。ふすま越しに話を聞くだけでしょう。」

 教えられるとそうかと思う性分で、姫君は嫌だと言えなかった。

「聞くだけなら。返事はしないわ。格子に錠をさして、簀の子(縁側)なら。」

「簀の子なんてだめです。何かなさるわけでもなし。」

 うまく言いくるめて、二間続きの部屋をふすまで区切り、命婦自らがしっかりと錠をさしてあることを確認し、ついでに光源氏がその気になったら入れるように錠も外しておいて、座布団を敷いてもてなしの準備を整えた。

 言いくるめられているとも分からない世間知らずなので、姫君はそんなものかと命婦の言葉を信じ、もしかしたら止めに入ったかもしれない年寄りの乳母は夜が早くてすでに寝ており、2,3人いる若い女房は光源氏のかっこよさに憧れていたので止めなかった。


 光源氏は楽しみにしてやってきた。父親の常陸宮は皇族で姫君も皇族の端くれ。これは彼の基準から言っても人間に入る。女房風情と遊ぶのとはわけが違う。

 女房達にさんざんうながされて膝を進める姫君のふすま越しの様子、漂うえび香、奥ゆかしさは期待通りである。さっそく口説き始めたが、うんともすんとも返事がない。

「長年お慕いしてきたのですよ。お返事がないとは。返事がないとだけでもおっしゃってください。」

全くの無言とは、愛想がないにもほどがある。光源氏があきれると、乳母子の「侍従」という女房が、見かねて代わりに返事をした。

「八講論議の鐘の後は無言の行をいたします。答えないのは当然のことです。」

 教養をのぞかせる返事だが、若々しい声で身分にふさわしい気品もない。直接答えるのもおかしい。姫君の身分なら取次がいるはずだ。光源氏は怪しんだ。

「お返事があるのは嬉しいですが、そんなお返事では苦しくなりますな。」

 光源氏はふすまを開けて中に入り込んだ。命婦は犯人扱いされるのが分かっていたので(事実彼女のせいだが)、責められないようにすっと席を外して知らないふりで自分の部屋に帰ってしまった。

 女房達は突然の事態に驚いたが光源氏が高貴で類ない美しい貴公子なのでとめ立てはしなかった。姫君がちゃんとお相手を勤められるかどうか、心配になっただけである。姫君はただただ恥ずかしく、どうしていいか分からない。

「今はこんなでもしょうがない。世間知らずの姫君なのだから。」

 光源氏は大目に見ようと思うが、どうにも理想とかけ離れておかしいと思った。失望のあまりまだ夜も更けないうちに早々に屋敷を出た。命婦は光源氏の帰る音を聞いて、満足していないことを知ったが、自分は知らなかったことにしようと思い、見送らせる段取りもしなかった。



 自邸に帰るも、返す返すもろくでもない姫君を口説いてしまったことが残念でならない。よくある話なのだ。高貴な女性は引きこもって顔も見られないので、この時代、恋は評判だけでするものなのである。しかし皇族の由緒正しい姫君を、ポイ捨てしていいものでもない。値打ちもない女性のために、背負わなくてもよい重たい責任を背負いこんでしまった。

 面白くなくてごろごろしていると、頭の中将がやってきた。

「朝寝ですか。うらやましいですね。昨日はどちらでお過ごしでしたか。」

「心のどかな一人寝です。宮中から知らせですか?」

「はい。宮中から直接参りました。帝が今日、楽人と舞人の名簿を決めるようにと仰せです。これから大臣にも伝えますが、帝はあなたに、すぐに参内するようにとお命じになりました。」

「じゃあ、一緒に朝食を食べよう。」

 光源氏はおかゆとおこわ、そして高坏にのったおかずを持ってこさせて、頭の中将にも同じものをふるまった。牛車は二台あるが一台に同乗して、「眠そうですね。」「本当はどこに行っていらしたんです。」などという義理の兄の恨み言をかわしながら宮中に乗り込み、命じられた仕事に就いた。



 後朝(きぬぎぬ)の文を送らなければならないが、そんな気持ちになれない。夕方になると雨が降り出し、これなら行かないでいい言い訳ができたので、気持ち軽く手紙を書いた。

 姫君は翌朝に手紙があるはずだという予備知識もなかったので、その手紙をありがたく受け取った。


「あなたのお気持ちが晴れてくる間もないうちに今日の雨です。まったく雲間の見える間が待ち遠しいです。」


 「今日は来られないんだわ。」と周りの女房達はその意味を正しく汲み取ってがっかりしているが、姫君は返歌でお心をつなぎとめようという頭もない。夜が更けてきたので、乳母子の侍従が、(彼女だけは歌も詠めて才覚があったので、他家にも仕えて収入を得ながら姫君にも仕えていた)どう書けばいいのかを教えて書かせた。


「晴れる間の月を待つ家の気持ちをお考え下さい。同じ心で月をご覧にならないのでしょうが。

『恋しさは 同じ心に あらずとも 今宵の月を 君見ざらめや 

(拾遺集:恋しさは同じではなくとも 今夜の月を あなたはご覧にならないのでしょうか。ご覧になったでしょう。)』」


 受け取った光源氏はますます幻滅した。歌の文句はそれなりだが、古くなって色あせた紫の紙に(紙を買う経済力も残っていないので古い紙を使うしかないのである)、太い筆でどの文字も同じ大きさでかっちりと書いてあり、心躍らせるセンスの良さも、面白さも何もない。美しい筆文字は、細い線で大きさをバランスよく配置するものなのである。文字で人柄が見えるのだが、今光源氏には、彼がぞっとするほど程度の低い女性であることが見えた。

「悔しいが最後までお世話するほかない。」

 彼がほかの色男と違うのは、こうして生活の面倒を見ようとしてくれるところだ。

 その夜、彼は左大臣とともに退出して、左大臣邸に泊まった。


 その秋は行幸の楽人に選ばれた貴族たちがプライベートでも何かというと大篳篥、尺八、太鼓を持ち出し、吹き鳴らすことで明け暮れた。管弦楽の遊びもない。

忙しさに紛れて光源氏は常陸宮の姫君のところにも、それきり行かなかったが、責任を忘れたわけではない。本音を言えば、その間に姫君が別の男性と関係を持ってくれたら自分は何も責任を持たなくていいのだが、そうはならなかった。

命婦がやってくると、恨み言を述べたのである。


「こんなふうにお捨てになるとはあんまりです。おそばの女房が気の毒になるほどの落ち込まれようです。」

 泣きながら恨むので光源氏は同情した。手引きした彼女の身にもなってやらねばならない。

「行きたいが暇がないのだよ。それに、あの冷たい方を懲らしめて差し上げようと思ってね。」

 光源氏に色っぽくにっこりとほほ笑まれると、命婦は許してしまった。

 光源氏は面白くもなんともない、しかし皇族の姫君のところへ、忙しさの合間を縫って時々は通うようにした。今彼が一番力を入れて通うのは、自邸の二条邸である。養育している若紫が可愛いのだ。愛人の筆頭は六条の御息所だが、そこにもあまり行かないようになっていた。面白くない姫君は見捨てられても仕方がない。


 ある冬の夜、光源氏はのぞき見をした。寝殿の格子の間から、姫君の顔を見たいと思ったのである。関係を持っても、一度も顔をちゃんと見たことはないのだ。しかし見えてきたのはとてつもない貧しさだった。

 常陸宮の生きていた時代から、一度も取り換えていないのだろう、古い几帳をきっちりと立てて、姫君の姿が見えないようにしてある。女房達は4,5人いて、外国物の脚付きの膳、青磁の椀に、おかゆだけのおかずのない食事を食べている。姫君のおさがりなのだ。この時代、貴人の食べ残しを、使用人たちは食べるものなのだが、それにしても貧しい。冬なのに服もないらしい。隅の方には、白い上着が黒ずんでいるものを作法通り腰にきっちりと巻き付け、額にずれながらも櫛をさしている女房がいた。宮中にいられなくなった老女官が流れ着いてここに住まわせてもらっているのだろう。

「ああ、なんて寒い年だろう。長生きしたからこんな目にあうのだよ。」「どうして常陸宮のいらっしゃったときに文句を言ったりしたんだろうね。」と嘆くものもいれば、「収入がなくても暮らしていけるものですね。」とがたがた身を震わせながら言うものもある。

 聞いていられなくなって光源氏は正門から入ってきたばかりのように戸をたたいた。

 屋敷の様子は今まで以上に寒々しく思われた。姫君さえとりえがあるなら、こんな家に通うのは楽しいことだろう。夕顔が取り殺された屋敷に似通うところがある。しかし姫君は女性に目の肥えた彼には到底満足のいく女性ではなかった。



 その日、光源氏は夜が明けるまで姫君のところにいた。庭の前妻には雪が積もり、人の踏んだ跡もない。彼は自分の手で格子を上げた。彼には思惑があった。朝まで一緒にいれば姫君を太陽のもとで見られる。薄暗い部屋の灯など、ほとんど見えないに等しいのだ。この時代、太陽が最大の照明なのである。

「空がきれいだよ。出てきてみなさい。姿を見せておくれ。」

 雪に映えて光源氏が一層美しいのを、老いた女房達はにこにこと笑いながら見て、出たがらない姫君を急き立てた。

「早くお出ください。なんでも言われた通りにしなければなりません。」

 姫君は何とか服を着て、いざって縁側に出た。光源氏は見ないふりをして横目で姫君の様子をとらえた。彼は横目でも何も見逃さない。

(さあ、これで少しでも美点が見つかるとよいな。)

 まず胴長である。「やはりか。」光源氏は胸のつぶれる思いがした。

 次に目につくのは大きな鼻だった。例えるなら普賢菩薩の乗り物にしている「象」という生き物に近い。大きくて垂れ下がり、先の方が赤いのがとどめをさしている。

 肌はとても白い。雪のようで青白い。

 しかし額がかなりの大きさなので、扇で口を隠しているその顔の下半分はおそらくもっと長いだろう。

 そして顔は異常なほど大きいのに、体はたいそうやせていた。長年つつましく食べてきた結果なのだ。使用人におさがりを回さなければならないので、遠慮して食べなければならない。飢えの結果、肩が骨ばって着物の上からも分かるほどである。

 髪はとても美しい。髪の肩にかかるラインは、数ある女性の中でトップレベルに位置すると言ってもいいだろう。座っていても長い髪が上着の裾にたまり、床に長く30㎝ほど引きずっている。

 衣装は古びている。濃い紅は禁色で帝の許可なくして着られないが、薄い紅は着てもよい。その薄い紅がさらに色あせて白っぽくなった単衣に、もはや何色かもわからない黒い上着を重ね、その上からクロテンの毛皮に香をたきしめたのを羽織っていた。

 毛皮は儀式のときは晴れがましい立派な衣装かもしれないが、若い娘らしくはない。

(しかしクロテンの毛皮でもなければ寒いだろう。)

 光源氏が無言好きの姫君にならって何も言わずにいると、儀式の作法にのっとって自然なところが何もない、なぜ今そんなことをするのか光源氏には全く理解できない身振りで光源氏を振り返ってほほ笑んだ。

 思わず光源氏は家に帰ることにして言った。

「頼りの少ない人と契ったからには心も許していただきたいものですよ。どうにも隔てがある。」

 姫君は「むむ。」とほほ笑むばかりでほかにできないようなので、あきれて帰ってきた。

 車を回させた門はゆがんで今にも倒れそうである。日の光の下で見ると、夜よりも貧しさが目につく。

(こんなところにものすごく可愛い方が住んでいたら恋しくてならないだろうに。藤壺の女御をお慕いするこの気持ちも少しは鎮まるだろうに。)

 しかしこうも思った。

(私以外の人間があの姫君の姿を見たら見捨てるだろう。私が関係を持つことになったのも、亡き常陸宮のお導きかもしれない。)

 門を開けさせようと門番を呼んだが、これが老女で薄い着物を着て、袖に何か温石のようなものを入れて震えるばかりで、鍵もなければ門を開けることもできない。ここに仕えているのは、よそで働けない高齢者が姫君にお仕えしつつ、若い娘や孫はよそで奉公して収入を得、住まいはここにおいている、そういう者ばかりなのである。

結局お供が総出で門を開けて光源氏は車に乗った。門番は寒さで鼻の頭を真っ赤にしていた。その時光源氏は肝心なことを思い出した。姫君には頭の中将も言い寄っていることを。自分が離れたら頭の中将が言い寄り、姫君の姿を見、そして言いふらすだろう。「光源氏はひどい女と関係を持った。」絶対に見捨てるわけにはいかない。


 彼はそののち細やかに物を送り続けた。上は姫君に年齢に似つかわしい衣装から、下は門番の老女の衣装に至るまで、絹・綾・綿布を送り続け、生活に困らないようにした。布地はこの時代お金と同じ値打ちがあり、人々は財産を着ているので、脱いで食べ物や生活物資にすることもできる。常陸宮の姫君は、そうして援助してもらうことをみっともないとは思わず、あきれるほど素直に受け取っていた。その点は美点だった。

「こうしてお世話することだけを考えたら気楽なものかもしれないな。」

 以前よりも気楽に好きになれる気がして、光源氏は姫君と付き合い続けた。

「空蝉は容貌は美しくなかったが、身のこなしに隠されて気に障ることはなかった。常陸宮の姫君は血筋は高貴だが空蝉に及ばない。やはり空蝉は素晴らしかった。身分によらないものだな。」

 付き合い続けながら今度は夕顔ではなく空蝉のことを思い起こし続けることになった。



 年明け、宮中に宿直をしていると、命婦がやってきた。本来女房は光源氏に気軽に会いには来られないし、会いに来ても会えないものであるが、(呼びつけられるときか、貴人のお使いのある時のみ行ってもよいのだ)この乳母子は惟光と並んで特別扱いであったし、光源氏がちょいちょい呼び出して召し使っている女房でもあった。

「申し上げなければならないことがあるのですが、言いたくないのです。」

「何だ。」

「あの姫君様からお手紙です。」

 

「唐ころも    からころも

 君が心の    あなたのお心が

 つらければ   辛いので

 袂はかくぞ   袖はこのように

 そぼちつつのみ 濡れております」


 光源氏は歌がひどい点、強く焚き染めてある分厚い紙に書かれている点は触れずにおくことにした。

「『このように』ってどういうことだ。」

「出さずにいようと思っていたんですが。これです。」

 命婦は古めかしい衣装箱を差し出した。

「これを恥ずかしいと思わずにいられますか?だけど正月に夫の衣装を準備するのは妻の務めだからとおっしゃって、特に言づけられたのを、突っ返せません。それに私が持ったまま出さずにいたのでは姫君のお心を無下にすることになるし、とりあえずご覧にだけはいれようと思いまして。」

 衣装は紅梅色で、恐ろしく古めかしい布地を、下手な大きな針目で縫ってあった。直衣(簡略服)だが、表と裏が全く同じ色合いで、センスもない。

「なんであんな花に手を付けたのかな。末摘花(すえつむはな:真っ赤な紅花)だ。」

「情は薄くとも評判はお汚し下さいますな。」

 命婦は独り言のようにして言った。末摘花にこの程度の機知でもあればよいのだがと、光源氏は思った。以降姫君は末摘花と呼ばれることになる。



 光源氏は同じ衣装箱に、紅と薄紫で織り出した綾織の上着、朽葉色と山吹色の重ねの下着、そのほか女衣装一式を「姫君の衣装に」と言って大みそかに送り届けた。そして、一月十四日には「男踏歌」という催馬楽をうたいながら練り歩く行事があるので準備で大騒ぎしている合間を縫って、7日の夜遅くに末摘花のもとに行った。末摘花は相変わらず無口でろくな口の利き方も知らないが、光源氏が贈った衣装をそのまま身に着けており、それほどおかしくはない。見送った扇の端から赤い鼻が飛び出してのぞいているのは興ざめだが、どうにか光源氏が付き合っても嫌な気がしないところが見えてきた。この人は光源氏がすることを何でもそのまま受け入れるのだ。そこだけは美点だった。



 二条邸に帰ると、同じ紅の上着でもこうも違うのかと思うほどかわいらしい若紫がいた。白と赤の桜重ねの下着を着て、お歯黒もお化粧もきちんとさせるようにしたので、見違えるほど美しい。そして藤壺の女御に似通っている。

「こんな美しい人をなおざりにしてよその女性のもとに行くなんて、愚かなことをしたものだ。」

ただしまだ幼く、人形遊びをしたがるので、光源氏も喜んで付き合った。

次には絵を描く。若紫がいろんな絵を描いてはきれいに色をつける横で、光源氏も手すさびに絵を描いた。

 髪がとても長い女性を描き、鼻の真ん中に赤をつけてみる。絵で描いてさえ変である。鏡を見て自分の鼻に赤い色を付けてみると、美しい顔でさえ見苦しくなる。若紫はそれを見て笑った。

「私がこんなふうになったらどう思う?」

「いやでございます。」

 言いながら若紫は、赤い色が染みついたらどうしようと、不安気になった。光源氏は懐紙で拭う真似をした。

「白くならない。馬鹿な真似をしたものだ。宮中でのお勤めで何て言おう。」

 若紫は赤い色をとろうと真剣に光源氏の鼻をぬぐった。二人は笑い出した。若紫といると、とても楽しくて心が和む。これこそが夫婦というものだと、光源氏は思った。


 庭先に紅梅が咲いている。梅だけが雪の中、他の花に先だって咲くのである。光源氏は赤い鼻を思い出してうめいた。


「紅の      紅の

 花ぞあやなく  花を理由もなしに

 うとまるる   嫌いになる

 梅の立枝は   梅の立枝は」

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