月虹—GEKKOH—

せてぃ

月虹—GEKKOH—


 あれは、なんだったのだろう。

 齢三十近くになっても、まだ忘れることのない、あの時、あの瞬間の感情。想い。そして、あれ。

 あれはいったい、なんだったのだろう。



 思えば、そんなことをする必要はなかったはずなのだ。

『炎夏』という言葉を初めて知った中学三年の夏。確かに、あの夏は炎夏と呼ぶにふさわしい暑さで、テレビのニュース番組でも、毎朝最高気温の更新と、熱中症への注意を呼び掛けていた。確かにそうだ。あの夏は特に暑かった。炎夏と呼ばれていた。だが、だからといって、高校受験を控えた夏休みの最中、受験対策の夏期講習を終えたわたしたちが、その帰り道、コンビニに集まり、その後、あんなことをした理由にはならない。

 だいたい、単なる暑さしのぎ、暑気払いならば、そのコンビニの店内でクーラーの風に当たり、アイスクリームでも買って、イートインコーナーで駄弁りながら食べるだけでも十分だったはずなのだ。それはたぶん、あの場に居た五人全員が、わかっていた。

 それでもあんなことをしたのは、アイツがいたからだ。アイツがいたから、わたしたちは何か特別な、記憶に強く刻まれるような特別なことをしよう、そう考えたのだろう、といまは思う。

 わたしたち五人、男子三人女子二人は、中学に入学してからずっと一緒だった。何かにつけてこの五人で出かけ、遊び、悩みを打ち明け合って過ごしてきた。当時、そういう言葉を想像したことはなかったと思うが、いまにして思うときっと、わたしたちはお互いのことを自分の身体の一部のように思っていた。だからその関係はずっと変わることはないし、来年、高校に進んだとしても、違う学校に通うことになったとしても、皆ここにいる、この街にいるのだから、永遠に続いて行くのだろう、と無邪気に考えていた。


 親の仕事の都合で、海外へ行くことになった。


 アイツがわたしたちにそう言ったのは、夏休みを間近に控えた教室でのことだった。

 その頃にはもう、夏は炎の間近にいるような熱を、教室の中まで満たしていた。机の上に座り、第二ボタンまで開けたワイシャツの胸元へ、うちわで風を送り込んでいたわたしは、その瞬間、まるで安っぽいドラマの演出のように、そのうちわを手から取り落としたのを覚えている。それからドラマで似たようなシーンを見ても、いかにも作られた、安っぽい演出とは思わなくなった。人は、驚くと、本当に手足の先から力が失われるものなのだ。そして同時に、一瞬前まで感じていたはずの灼熱も、まるで感じなくなった。それどころか寒ささえ感じ、ワイシャツに張り付く汗が、氷を背中に押し当てられているかのようだった。

 震え、焦点が定まらない目で、わたしは信じられない言葉を言い放ったアイツの姿を見た。

 セーラー服の上で、少し俯いた睫毛が光っているように見えた。ポニーテールに結われた黒髪が、窓から差し込む夏の閃光を受けて、きらきらと輝いている。その光が強いせいで、紛れてしまうほど微かな光だったが、それは、彼女の白い肌の上で強く、言葉以上にはっきりと、彼女の想いをその場にいたわたしたち四人に伝えているように思えた。

 

 生まれ育ったこの街から遠く離れてしまったら、わたしたちの関係はどうなるのだろう。


 ……これも、いま思えば、大人になってしまえば、たとえそこが海外の知らない国、街であったとしても、会いに行きたいと思いさえすれば、地球上、どこへでも行けるわけで、わたしたち五人の関係を、未来永劫続けることなど、決して不可能ではなかったはずなのだ。確かにこれまで通りとはいかなくても、決して絶望するほどのことではなく、それを続けたいと願うこと、その願いに向かって日々を積み重ねることで、いくらでも、どうとでもできることだったはずなのだ。

 だが、生まれた街を離れて暮らしたことも、自ら収入を得て暮らした事もない、あの日のわたしたちには、それは、永遠の別れの言葉に等しく聞こえた。


 時間がない。


 誰もそんなことは口にしなかった。それでも全員が同じことを考えていた、と思う。

 少なくともわたしは、凍えた身体でそれを強く思っていた。時間がない。彼女に自分の想いを伝える時間が、ない。

 彼女のことを女性として、好きだ、と感じるようになったのはいつだったのか。それは、はっきりとは、わからない。思春期の中で起こる異性への意識の変化が、どこかであったのか、それともずっと以前から、本当は心のどこかで彼女のことを特別な存在と想い、ずっと一緒にいたいと思っていたから、毎日傍にいたのか。それは、いまとなってはわからない。もしかしたら、あの頃のわたしにも、わからなかったかもしれない。

 とにかく、わたしはあの時、あの言葉を告げられた時、アイツ、いや彼女、広沢未来のことが好きだった。毎夜夢に見るほど想っていた。それでも何も伝えずにいたのは、わたしたち五人は、永遠に一緒にいられるものと、何の根拠もなく思っていたからだ。好きだ、と伝えることを急ぐこともないし、毎日こうして一緒にいれば、いずれ伝わってしまうだろう、そうなってからでもいい、いや、自然とそうなってくれればいい、そんな風に考えて、気持ちを伝えることの大切さを考えず、時間という根拠のないものに甘えていたのだ。


 時間がない。


 彼女が離れて行ってしまう。


 わたしは慌てた。慌てふためき、言葉を探し、どうすればいいかを考え、そして、結局何も見つけられなかった。

 彼女が海外へ行ってしまうことを止めることなどできはしないし、かといって、この想いをどんな言葉にして伝えたらいいのか、それすら考えることができなかった。できないうちに、わたしがそれまで甘えて来た時間は、わたしを見捨てたかのように高速で過ぎて行った。夏休みになり、高校受験を控えた学習塾では夏期講習が始まった。海外で来年からどんな学校に通うのか、知りようもなかったが、彼女も受験対策の夏期講習に参加していた。いつもの五人、全員一緒に同じ学習塾に通っていたから、学校に通っている時と同じように、わたしたちは一緒にいることができた。にもかかわらず、わたしは彼女に何もできず、時間だけが、わたしの甘えを二度と許すことなく、過ぎて行った。



 そしてあの夜だ。

 夏期講習が夜七時過ぎまでかかったあの夜。

 わたしたち五人は塾を出て、自転車を走らせていた。未来がわたしの前を走っていた。夏の熱気の中、頬をなぜて過ぎる風に、何か甘いような香りを感じたのを覚えている。

 コンビニ寄って帰ろうぜ、と言ったのは誰だったか。わたしだったかもしれないが、覚えていない。とにかく全員が二つ返事で寄り道を決めた。未来もはしゃぎ声を上げながら頷き、笑っていた。

 そしてコンビニで飲み物や菓子などを買い、すんなり外に出たわたしたちに、特別何かをしよう、というところはなかった。夏期講習の帰り道、暗くなった中でコンビニに立ち寄り、買い物をしている時点で、去年までの自分たちでは考えられないほど大人びた行為に感じたし、どこかいけない事をしているような背徳感が、細い平均台の上を歩いているような、不安定さを呼んでいた。それだけで、その時のわたしたちには十分思い出に残る行為だと思った。そこまでで十分だったのだ。わたしがそのコンビニの裏手に、ある建物があることに気づくまでは。


「プール、入りたくないか」


 別に本気で言ったわけではなかった。確かに暑かったし、汗もかいていた。全身べたべたで、家に帰ったらすぐに風呂に入りたい気分だった。だからといって、もう誰もいない、夜のプールに忍び込んで、泳ごうなどと、本気で思ったりはしていなかったと思う。

 コンビニの裏手には公園があり、そこに公営のプールがあった。わたしはなんとなくそのことを思い出し、思い出したまま、そのまま口にした。ただそれだけだったように思う。


「いま?」

「公園の?」

「え、もうやってないでしょ」


 皆が口々に言った。しかし笑いと共に紡がれるその言葉にも、すでにどこか、わくわくとしているような、そんな、何かに期待する感情が含まれていた。これはいまになっても間違いなくそうだった、と言える。誰一人として、否定はしなかったし、わたしの考えを嗤いもしなかった。


「入るなら、忍び込むしかないな」

「西側の柵、壊れてるところあるの、知ってる?」


 わたしが一言も話さない間に、最後に未来がそう言った。その時までのわたしが知る限り、未来はそんな提案に乗るような女の子ではなかったし、まして率先して提案するような女の子ではなかった。だからその一言は、稲妻のようにわたしの耳から頭へ、頭から背骨へ、感じたことのない衝撃となって全身を駆け抜けていった。冗談で言った、ちょっとした悪さを、彼女が望んでいる。未来が望んでいる。望んでいるのなら、叶えなければ。その想いが行為の善悪を超えて、行動の力をわたしに与えた。

 わたしたちは自転車で、未来の言った柵の壊れたところまで向かった。そこは公園内の道に面したところで、明るければすぐに気づかれてしまうような場所だったが、夜の闇の中、ひと気のない公園ではそんな心配もなかった。

 自転車を乗り捨てるように倒して止め、わたしたちは壊れた柵に近づいて行った。公営プールは全体に高い鉄柵で囲まれていたが、そこは古くなった鉄柵の棒が折れ、ちょうど人一人が通れるほどの隙間が空いていた。

 無言でうなずき合い、まずわたしから中に入った。

 それまで全く意識していなかった静けさが、プールの敷地に入った瞬間、虫の音と共に訪れた。広い、と感じたこともない公営プールがやけに広く見えた。監視員も、泳ぎ騒ぐ子どもたちの姿もまるでないプールは広く、静かで、揺れていない水面には明るい満月が反射して、足下からプール全体を照らしていた。地面の方が明るい、闇と光が反転した光景は幻想的で、外から見ているプールと同じものとは思えなかった。


「……すごいね」


 息を呑む気配が隣にあった。いつの間にか未来が、わたしの隣に立っていた。わたしは未来と少しの間見つめあって、そして駆け出した。それに合わせるように、全員が走り出した。

 向かう先には二十五メートルのプールがあり、わたしたちは迷うことなくプールサイドを飛び越えて、服を着たまま、力の限り、おもいっきり跳んだ。一歩でも遠くへ、一歩でも先へ。わたしたちは競い合うように、プールへ飛び込んだ。

 昼間、監視員のいる時には絶対にできない飛び込みを、平然とやってのけ、飛び込んだ水は、想像していたよりも冷たかった。清涼感は一瞬で、後は叫び声を上げるほどの冷たさだった。実際叫び声を上げていたが、それは笑い声と一緒になって、宵闇の中を立ち上って行った。

 しばらく、水を掛け合ったり、潜って足を引っ張ったりして、じゃれ合っていたが、誰かが近づいてくる様子もなく、わたしたちが忍び込んだことが悟られる様子はまるでなかった。

 実際、この夜、わたしたちがこのプールに忍び込んだことが誰かに見つかり、咎められることはなかったし、その痕跡が後々問題になることもなかった。各々家に帰った時、すぐに風呂に入る様子を、両親に疑問に思われた、などと話し合ったくらいで、わたしたちの冒険は、大成功に終わったのだった。


「ねえ、大輔くん」


 いつの間にかはしゃぐのにも疲れ、わたしはプールの水面に身体を浮かべて、空に静かに輝く満月を見上げていた。未来の声が少し曇って聞こえたのは、耳の半分が水中にあったからだ。それでも彼女の声は、はっきりと、綺麗にわたしの心に残っている。


「……ありがとう、ね」


 何が、ありがとう、なのか、わたしにはわからなかった。いまも、それはわからない。彼女がなぜ急に、感謝を口にしたのか。この大胆なひと夏の冒険を誘発したことに対してなのか、それとも、もっと別の何かだったのか。ただ、その声が、何か息詰まっているように聞き取れたのが、わたしの胸の、奥の方を掴み上げた。どう答えたらいいのだろう。何を話したらいいのだろう。考えるほどに言葉が浮かばず、彼女を視界に入れることもできず、ただ月を見ていた。次第にその月の光が滲み、星のような輝きが増していくのを感じた。それが水によって光が滲んでいるのだ、と気づいたのはしばらく経ってからで、その水がプールの水ではないことに気づいたのは、もっと経ってからだった。

 月の光が大きく滲み、歪み、七色に光っているように見えた。その周りの星の光は緑色に見え、虹がかかったように見える月光の周りを飛び回っているように見えた。それは帯を引いて飛ぶ蛍のようで、夜の空にかかる幻想の虹の儚さを際立たせていた。

 この夏はもう来ない。彼女のいる夏は、もう来ない。わかっているはずなのに、何もできない自分への不甲斐なさ。不甲斐ない、と思いながら、やはり何もできない不甲斐なさ。いくら回っても不甲斐ない、なにもできない、しようとしない自分に苛立ち、言葉を探し、見つけたと思っては、飲み込んでしまい、彼女を見つめることもできず……


「はあ、なんなんでしょうね、この不甲斐ない男は。こんなもののために遣わされたと思うと、激しく残念になるのねす」


 ……ねす?


「でもまあ、虹を見つけたことは確かなわけで、強い想いがあることは認めざるを得ないわけねすが、なんなんでしょうかね」


 え、なに。


「だいたい、そんなに強く想ってるなら、どんな状況になっても貫き通すのが男、ってもんだべさ。それを悶々と何を諦めて……」


 だべさ?


 わたしは慌てて水面から身を起こした。

 そして見た。

 プールサイド。

 そこに、わたしたち五人とは違う人影があった。奇妙な訛りのある、声の主。


「……なんだ、お前」


 そう言う他なかった。いや、そういう部分があまりにも多すぎた。

 二、三頭身の人間、というのは、アニメや漫画では珍しくない。珍しくないが、実際、現実に、目の前にいると、これほど奇妙なものなのかと思った。まるで赤ちゃんが足を組んでプールサイドに座っているような。いや、そんなことは絶対にないわけで、ましてそれが訛りの強い言葉で話すなど、絶対に、ない。


「わたし?」


 わたしが頷くと、二、三頭身の、子どもかどうかもわからない、いや、もう、なんだ、人間かどうかもわからない、赤ちゃんに似たそれは、気持ち胸を張って答えた。


「ナガレ、ボシです」

「は?」

「だから、ナガレ、ボシ」

「ナガレ?」

「そうボシ。ああ、ナガレとボシの間には白抜きの星を入れてほしいのねす」


 意味が分からない。

 もはや意味が分からない。

 いったい何を言っているのか。

 いや、言ってることは分かるが、この容姿と口調と名前はふざけ過ぎているだろう。

 混乱したわたしを無視し、ナガレ☆ボシなる赤ちゃんは一方的に話し始めた。


「はあ…… まあ、いいねす。あなた、このまま後悔していいねすか? そうは思わないのでしょう? なら伝えればいいのねす。相手に。想いを」


 それができれば、こんなに悶々とは……


「できます!」


 まるでわたしの心内をわかったように、ナガレ☆ボシは叫んだ。


「弱き心を打ち払うのねす。一歩踏み出すだけでいいのねす。先のことは先のこと。やりようはいくらでもある!」



 ……それがあの夜、わたしが見たもの、感じたことのすべてだ。

 彼女への想いと、塩素の強い夏の香り。七色に滲む月明り。飛び回る緑の星。不甲斐ない自分への悔しさ、そして、あれ。

 赤ん坊のような、あれ。

 プールサイドに座って、訛りの強い言葉で話していた、あれ。

 あれは、なんだったのだろう。

 ナガレ☆ボシ。

 どう考えてもふざけ過ぎだ。

 あれはいったい、なんだったのだろう。


「どうしたの、ぼっとして」

「ん、いや、ああ……」


 いつの間にか、傍らには妻がいた。病院で支給された入院着は大きく、肩が落ちていて、在りし日のセーラー服姿の様に、しゃんとはしていない。その上にある顔にも、陣痛から出産まで約一日かかった疲労の色は、二日経ったいまも抜けていなかった。しかし、それでも彼女は微笑んでいた。達成感と、目の前に現れた生命への愛おしさが滲み出たその表情。それはまさしく、未来への希望にあふれた表情だった。彼女の名前と同じ、まだ来ない先への期待に胸を奮わせる表情だった。

 彼女のこんな顔をこうして、それも、自分の妻として見ることができるとは、あの夏の夜には想いもしなかったことだ。あの得体の知れない、いったいなんだったのかもわからない、記憶に混じり込む非現実的な存在の言葉に後押しされなければ、あの場で未来に告白することもなかっただろうし、その先の未来にもまた、繋がることはなかっただろう。繋がるために努力し、日々を積み上げることもしなかったはずだ。何もかもを諦め、仕方なかったと口にして、不甲斐ない日々を過ごしていたはずだ。

 で、いま。

 こうしてわたしと未来の間に生まれた、新しい生命を、新生児室の大きなガラス越しに見ているわたしが、なぜそれを思い出しているのかと言えば。


「名前、考えてあるんだよね」

「おれも、いちおう」


 まだ名前もつけられていない、三千グラム前後の男の子として産まれた、小さな、くしゃくしゃの顔をした生命。赤ちゃん。その、顔が。


「……いや、まさかね」


 やりようは、いくらでもあったんべ? だからいったねす。


 ふいに笑い、いまにもそう口を開きそうなほど。


 あの夏の、七色を帯びた幻に。


 ……似ている気が、するんだよなあ。

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