悪魔とお嬢様の夢

 息を切らして走る。どこまで走るつもりなのかわからなかった。胸が、苦しい。歪んでいく景色の中で、横に並ぶ母が楽しそうにキャロルの名を呼んだ。セピア色のそれが、手を振って消えていく。消えていく。ひどく意気消沈した様子の父が、言った。

“なぜ母さんは、お前を愛せたんだろうな”

 いらない、いらない、ぜんぶ。そうやって何もかも、私の大事なものぜんぶ奪ってゆくのなら。いっそぜんぶ。だって残ったのなんて、こんな……こんな――――。


 街に出た瞬間に、キャロルは息をのんだ。まず見えたのは、槍だ。数え切れないほど無数の槍。ひどく鉄臭く、それが人間や生き物に刺さっているのが分かった。

 キャロルはたじろいで、後ずさりする。

「どうかな、お嬢ちゃん」

 後ろから声をかけられ、びくりと肩を震わせた。振り向いて、「あくま」とだけ呟く。キャロルに指輪を渡した男が立っていた。

「君の願いを叶えて差し上げたよ」

「わたしの?」

「ああ、そうだ。『いらない』と言ったんじゃないのかな、君は。だからみんないなくなったよ。どうかな」

 どう、と思わず口に出して、地獄のような惨状を見る。「冗談を」と笑いかけて、上手く笑えずにうつむいた。左手の小指が、赤く眩しく光っている。

「わたしが?」

「そう、君が」

 戸惑いからか、焦りからか、キャロルは言葉が出なかった。ようやく縋るように悪魔を見て、「簡単に言わないでよ」と叫ぶ。違う、と男は言った。

「言ったのは君だ。簡単に、いらないと。そう言ったろ」

 あっさりと、突き放される。

 違うわ、と呟いた。何も違ってはないだろう、言われて耳をふさぐ。

「違うのよ、いらないなんて。みんながいらないんじゃなくて」

「うん? じゃあ君は、何をいらないと切り捨てたんだい。教えておくれ、今度こそちゃんと君の願いを叶えてあげよう」

 いらないと切り捨てたもの。

 冷たくなった母の手、一番に縋ったのはこの小さな手。父の失望の表情。何にも縋れなくなった挙句、閉ざした世界。羽をもがれた蝶、可哀想な蝶。私が、この手で堕とした蝶。

 いらないもの。世界でなければ、自分以外のすべてでないのなら、そんなものは。

「わたし」

 そんなものは、自分自身に決まっている。

 世界に不要なものなどなくて、それでも世界を嫌うのなら。不要なのは、きっと自分だ。

「いらないのは、わたしでしょう? ずっとずっと、わかっていたのよ」

 笑い声が聞こえた。目の前の悪魔が、大口を開けて笑っている。「――――ああ、お嬢さん」と、楽しくてたまらない風に手を差し伸べた。

「おいで。こんなくそったれの世界から、1人で逃げてやろうぜ」

「逃げる?」

「俺に魂なんかくれれば、一瞬さ」

 胸の前で拳を握り締め、キャロルは後ずさりする。しかし言葉だけは、強気な色をにじませて喉を震わせた。

「みんなは元通りになるの」

「ええ? 元通りにしたいのか」

「わたし……わたし、責任が取れないわ」

「賢い子は大好きだ、もちろん、君の願うままに」

 少し戸惑いながら、キャロルは視線をさまよわせる。「わたしの魂なんかどうするの?」と尋ねてみた。「俺が人間に近づく」と男が喉を鳴らして笑う。

「また美味い飯を食って、女を抱ける。もう人生を見限った嬢ちゃんに言っても仕方ないだろうが、生きるってのはただそれだけでなかなか得難いもんだ」

「それをわたしに言っていいの? やっぱり死にたくないって逃げるかも」

「俺は嘘をつかない悪魔なんだよ。人生は最高だ、お嬢さん。一度死んだ俺が言うんだから間違いない」

 目を丸くしたキャロルに、男が近づいた。「よくわからないわ」と正直にキャロルは伝える。

 不要なもの、いらない自分、くそったれな世界、得難いもの、人生は最高で。

 悪魔たる男の言葉が、浮かんでは消え、浮かんでは消える。

「世界は、くそったれ?」

「そうとも! 君が生きるのに値しない」

「人生は、最高?」

「ああ。世界は思い通りにならないが、人生は楽しんだもの勝ちだ」

「つまり?」

「つまり、来世に期待というところだな」

 そう肩をすくめた男を見て、思わずという風にキャロルは笑ってしまった。思い切り声をあげて笑ってから、男に手を伸ばす。「いいわ、連れて行って」と言いながら。「承った!」と男は高らかに言う。瞬間、足元を水が濡らした。波が、押しては返し、少しずつ高くなっていく。

 笑っていた男が、不意に驚いたような表情をした。

 今まで聞こえなかった水の音が響く。綺麗な水を踏み荒らす、何者かの足音だ。

 いきなり、肩をつかまれてキャロルはよろめく。

「お嬢様に、たちの悪い夢を見させないでいただけますか」

 何か金属の打ち鳴らされる音。悪魔の男が、水の中を転がっていった。キャロルは呆然と、突然の乱入者を見る。

「……マルク?」

 ゆっくりと振り向いたマルクスが、どこか厳しい目でキャロルを見据えた。

「お嬢様、魂を食われては来世もクソもございませんよ」

 ハッとして、キャロルは顔を赤くする。立ち上がった悪魔に、「だましたの?」と信じられない思いで問うた。男はへらへら笑いながら、「悪魔の話を信じたのか」と嘲笑う。

「嘘をつかない悪魔だって言ったでしょう?」

「そんな悪魔はいない」

 悔しくなって、キャロルは男を睨み付けた。「それでもいいと思ったくせに」と男は肩をすくめる。

 それにしても、と男は顎に手を当てた。

「君こそ、言ってくれてもよかったのに」

「何よ」

「もう悪魔と契約してるんだって。そしたら俺、君に手なんか出さなかったのにな」

「悪魔?」

 なんてことのない仕草で、男はマルクスを指さす。「――――は?」と思わずぽかんとして、キャロルは瞬きをした。代わりにマルクスが、「それは誤解にございます」ときっぱり言う。

「契約などそんなつまらないことは、しておりませんよ」

 男は虚を突かれたようで、「ほーーーう?」と首をかしげた。

「ならばなぜこちらに干渉してきた、マルクス=ヴェイカー。娘を狙っていたのか」

「狙う、とは」

「魂をさ。あんたもそういう類だろう」

 まさかそんなことを言われるとは、という顔をマルクスはする。しかしすぐに破顔して、「つまらない、本当につまらない」と繰り返した。

「なんとつまらないことを仰るのか。魂? そんなもの、手に入れてどうなさるのです」

 男が目を細め、腕を組む。

「そう言われちゃあ、自信がなくなるな。確かにつまらないことだろうよ、生にしがみつくなんて」

「ええ。もう一度生きる実感がほしいのなら、すぐに転生でもなさればいい」

「では先ほどの問いの答えは? なぜ干渉する、同胞よ」

 キャロルと2人で話していた時とはまるで違う、男の瞳には鈍い光が宿っていた。マルクスはちらりとキャロルを見て口を開く。

「愛しておりますゆえ」

「……アイ?」

「こちらにいらっしゃる小さな主人を、私は真に愛しておりますゆえ」

 黙って、男はマルクスを見た。それから短剣を抜き、静かにマルクスに向ける。「――――ヴェイカー、俺の名を知っているか」と問うた。その声が、あまりに凛としていたので。キャロルは肩を震わせて、マルクスの背中に隠れた。

「いえ……誠に申し訳ございませんが、存じ上げないのです」

「ジャン=バディルドン。この海を制した者だ」

「ああ、なるほど。愛することなく制するだけで人生を終えた、海の亡霊であると」

 口の端を上げ、男はにやりと笑う。上機嫌に歩き出した。

「その通りだ、ヴェイカー。愛など、くだらないよ」

 静かな余韻を残して、男は踏み込む。また、金属のぶつかる音がした。マルクスの手にも、何か棒のようなものが握られている。町で拾ったような、鉄くずだ。そんなやけっぱちの武器を見て、男は一層笑う。「面白い男だなぁ、あんた」と目を細めた。

「そんなもので娘を守るつもりか、俺の海で」

 言って、男は一度引く。マルクスも一旦間合いを取ると、男が不自然に腕を上げた。

 ドスッ、と質量のある音がして、何かが地面に刺さる。槍だ。赤黒く細い槍が、マルクスの立つ隣に刺さった。それが、2つ3つと次々に降ってくる。思わず空を見上げたキャロルは、声にならない悲鳴を上げた。数えきれない槍の数々が、真っすぐに落ちてくる。避けられるはずもない。

 痛いだろうか、痛いだろうな。存在の耐え切れない無意味さと、どちらが。それはそれでもいいのだけど。

 お嬢様、と呼びかけられる。それはどこか、母の声と、父の声と、かつて彼女の名を呼んだすべてに似ているような気がした。

――――キャロル!

 初めて彼女を叱った母の声だ。車の前に飛び出したキャロルを必死にかばった後で、安堵より前に発した母の怯えた声だ。その後で、母は言った。泣きそうになりながら、『あなたを愛している』と。切り替わった画面で、ベッドの上の母は本当に愛しげに『ずっと覚えていてね、ずっと覚えていて』と囁いた。

 まだわからないわ、ママ。わたし、まだわからないの。どうしてママは、わたしのことを愛してくれたの? この世界で、いらない私はどうすればいいの。愛されていいの、愛していいの。まだわからない。まだ――――。生きたい。

「いやッ!」

 咄嗟に細い腕で自分の体を庇ったキャロルは、寸前で突き飛ばされる。それはそれで痛かったのだけど、それでも自分の無事を確かめながら目を開けた。

 槍は、見事にマルクス=ヴェイカーの胸を貫いて地面に刺さっていた。

 マルクスは膝をつくような形で血を吐いている。それはまるで、神に祈るかのような体勢だった。

 ゆっくりと男が近づく。

「随分と無茶をするじゃないか、猫よ」

 マルクスは咳き込んだ。へたり込むキャロルがそれを見ていた。力が入らない。

 少し屈んだ男が、「なぜそこまでする」と尋ねる。マルクスはうつむきながら口を開いた。

「愛、ゆえ……」

 感心したように、男は目を丸くする。「まだ言うか」と呟いた。

「なぜこの子どもに執着する。あんたは以前、この娘に助けられたんだったか? 恩返しのつもりかよ」

 マルクスは虚ろな瞳で、何かを言った。「なに?」と男が耳を傾ける。

「は……はは、」

「何だよ、聞こえないぞ」

「ふ、ふふ、あはは……あはっあははははぁ、あははははは!」

 ぎょっとして、男は後ずさった。マルクスがいきなり顔を上げる。

「恩返し? またつまらないことを。そんな言葉でこの愛を貶めないでいただけますか? 私は彼女を愛しているのですよ。あの時、傷を負った私を、お嬢様が拾ったその時から」

「……だから、恩を感じたわけだろう」

「なぜ。なぜです、なぜ。その愚かな行為に恩など感じる隙はないでしょうに。ああ、悪魔に情をかけるなど、なんて愚かな子どもだろうか。あまつさえ自己投影などして。そうです、彼女が猫を拾ったのは歪んだ自己愛にほかならず、だからこそ美しかった」

 口を開けたまま、マルクスは瞬きをした。その瞳が、一瞬だけ揺れる。それから、男に微笑みかけた。

「私も、あなたと同じ『かつて生きていた人間』だ。世界に恨みを抱き死んだ者だ。概ね理解できますよ。世界はくそったれでしょうね、そうでしょうね」

 言いながらマルクスは、自らの身体に刺さった槍を握りしめる。

「生まれ出でる世界は選べず、運命には逆らえず、人生を楽しむすべすら教えてくれる人はいない。それでも、それでも……。ジャン=バディルドン、あなたなら理解してくださるでしょう、船長。世界を選べず、運命に翻弄されても、人は誰も教えてくれない生き方の正解を探すために生きるのですよ」

「俺のことなど何も知らないくせによく言う」

「人は、愚かだ。生き方を探すために生きるなんて、無意味で愚かだ。だからこそ――――なんと愛しい生き物でしょうか」

 ぐっと、マルクスは槍を握る手に力を込めた。短く息を吐いて、その鈍色の槍を砕く。赤い塵になって、粉々に海へ沈んでいった。

「愛されたいと足掻く幼子の、その涙が眩しかった。私にはもう、至れない愚かさだったから。これは一時の、気の迷いかもしれません」

「へえ?」

 男がまた、腕を上げる。空に無数の槍が浮かんだ。

「一時の気の迷いのために、その存在を懸けるのかよ」

 真っすぐに立ったマルクスは、じっと男を見る。それから柔らかく笑った。

「悪魔が、己の戯れに存在を懸けずしてどうします。人間の愚かさの果てが、私ども悪魔でございますよ……ジャン様」

 男が、薄い灰色の目を閉じる。静かに拳を握り、腕を下した。空に浮かぶ槍が、風のように消える。

「どんなに世界がくそったれで、人生が望むものでなくとも、そこを生きる人の姿は愛しいと?」

「ええ」

「生きる者にしか至れない愚かさを愛すると。死んでなお自我の消失を拒んだ、愚かの象徴のような俺たちが」

 不意に「参ったな」と男はため息まじりに苦笑した。明け透けに、頭など掻いてみせる。

「あんたの言うとおり、未練がましく人生の延長なんて考えはつまらないんだろうなぁ」

「あなたの言うとおり、根拠もない一時の気の迷いのような感情はくだらないのでしょう」

「でも結局、俺の理屈もあんたの理屈も、生きてるやつにしか否定できないんだろう。そも、死にたくなくて悪魔になった俺と、生きたくなくて悪魔になったあんたじゃあ、まるで話が通じねえ」

「ええ、この世は例外なく、生きている者のためにあるのですから。そこで悪戯おいたをしたところで、生きる者のただというだけの事実にさえ私たちの屁理屈は敵いません。と同時に、そこまでの確固たる存在証明ができないのならば、私たちはお互いの存在理由を否定しきれないのでしょうね」

 いいだろう、と男は言った。ゆっくりと足元から海に沈んでいく。

「そのお嬢ちゃんは諦めてやる。他人の物から手を引くのは海賊の流儀に反するが、特別だ。強奪しないでやろう、先輩。俺はまだ、悪魔としては若輩者だからな。今回は海に生きた男として、目上の存在を立てよう」

 ずぶずぶと、男が沈んでいく。太陽の光を受けた波間のように、からっとした笑顔を見せながら。マルクスは、恭しくお辞儀をして見送った。

 それから、未だへたり込んでいるキャロルのもとへマルクスは近寄る。手を差し伸べ、「お怪我は」と微笑みかけた。

「マルクス……どうしよう、あの人はみんなを元に戻してくれなかったわ」

 言われてマルクスは、今気づいたかのように周囲を見渡した。ちょっと笑って、キャロルを立たせる。

「お嬢様、これは貴女の夢でございます」

「ゆ、夢?」

「あのお方にも、現実世界でこうも虐殺行為を行うようなお力はありません。大丈夫。覚めれば全て元通りにございますよ」

 なぜかキャロルから手を離そうとするマルクスに、キャロルは慌ててすがった。

「目が覚めるまで一緒にいて」

「……ええ、お嬢様。お望みのままに」

 キャロルの頭を撫でて、マルクスはうつむく。「目が覚めたら、お嬢様。真っすぐ帰られますよう」と囁かれ、キャロルは驚いた。

「あなたは?」

「私はどうにか貴女の夢に入り込みましたが……ここから出るような力は残っていないのですよ。力不足を笑っていただければ幸いでございます」

 しばらくの間、声も出ずにマルクスを見ていた。ようやく、彼の首に手をまわして「魂をあげるわ」と呟く。

「わたしの、魂。それがあれば、あなた、生きられるんでしょう?」

 マルクスはぽかんとして、「そんなものはいりません」ときっぱり言った。でも、とキャロルは焦りとともにマルクスに抱きつく。

「あなたと帰りたいわ、もう1人じゃ嫌。私とあなた、2人ぼっちでしょう? 主人にうそをつくなんて、許さないわ」

 そんな彼女の背中に手をまわして、マルクスが「お嬢様」としっかりした声で呼びかけた。

「私に何か、くださいますか?」

「何か……」

「魂などでなくていいのです。できれば、貴女の一部で。何か私にくださっても支障のないようなものを」

 いきなりそんなことを言われても、都合のいいようなものがあるはずもない。服などではキャロルの一部といっていいかわからないし、髪を切ろうにも鋏がない。

 迷った末に、ひどく迷った末に、キャロルは。

 マルクスの唇に、口づけた。

「……?」

 見たこともないような顔できょとんとしているマルクスに、キャロルは「だめ? こんなものではだめ?」と確認する。

「わたし、その、ファーストキスだったのだけれど。あなたに、あげたのだけれど。こんなものじゃだめよね」

 みるみるうちに、マルクスは顔を赤くした。かと思えばすぐにキャロルを抱え込み、「もちろん十分ですとも」と早口で告げる。

「こんなものを貰ってしまっては、来世もその次も、貴女を見守るに十分すぎますとも」と。キャロルが何か言う前に、世界は暗転していく。夢の終わりだ。美しい街が、がらがらと崩れていくようだった。






 ジャン=バディルドンという海賊の物語を、いつか見たことがあると思った。あれは本だったか、映画だったのか、もう定かではないけれど。

 500年も昔に生きた彼は、真に海を制する覇王だったらしい。誰より強く、誰より自由で、そして誰よりも傲慢だった。そんな彼が――――

 もう、よそう。彼が愛した女性の話も、その裏切りの果てに起きた戦争も。彼は愛というものを「くだらない」と切り捨てたのだ。とにもかくにも、彼の最期は散々だったそうだ。ろくに動かない体を引きずりながら戦った彼は、ご自慢の槍で、彼自身の槍で、貫かれて死んだのだから。その悔しさがどれだけのものだったか、誰にもわからない。おそらくそれも含めて、彼は裏切られたのだ。自分のものと信じていたものがすべて寝返って、そして海にのまれて消えた。

 そんな、夢を見た。波間にそっと、そんな荒々しい夢を。






 目を覚ましたのは、朝日が眩しかったからだろうか。それとも、人の動く気配に触発されたからだろうか。キャロルはシーツの中から顔を出し、そこにいた人物をぼうっと見る。

「マルク?」

「お目覚めですか、お嬢様」

「あなた、怪我は」

「あれはお嬢様の夢の中でございますので。こちらの私は見ての通り傷一つ」

 そう、と呟いてキャロルは安堵の息をついた。それから、覚醒しつつある頭で思い出す。じわじわと、顔が熱くなってきた。

 いきなり飛び起きて、キャロルは涙目になりながら「マルク!」と叫ぶ。

「あ、あっ……は、夢の中だからノーカウントよね?」

 ふと動きを止めたマルクスが、顎に手を当てて「お嬢様がそうお思いになりたいのなら」と歯切れ悪く答える。

「契約上はワンカウントでございますが」

「いやぁ!!!」

 キャロルは手で顔を覆い、羞恥に身をよじった。いやよ、いやよ、と半ば本気で泣く。

「こんな身でも、初めては愛する人とするものだと思っていたのに。よりによって悪魔となんて!」

「さようでございますか」

 飄々と答えるマルクスを、キャロルは睨んだ。

「大体、主人に向かってずいぶんなことを言ってくれたわね。誰がおろかな子どもですって?」

「ああ、お嬢様。語弊がございます、親愛なる私の主人」

「何です、どうせずっとわたしのことを馬鹿にして」

 ふん、とそっぽを向いたキャロルに、マルクスは困り果てたような顔をする。その表情を横目で見て、「あなた本当に悪魔なの?」と純粋な疑問を口にした。マルクスは答えない。

 あの時、『かつて生きていた人間だ』とマルクスは言った。『世界に恨みを抱き死んだ者だ』とも。

 しかし、いまこの男の瞳の奥を覗いても、そのような暗い感情は欠片も見えない。これが死人の瞳だろうかと、キャロルは首をひねる。

 マルクスはただ笑って、いつものようにキャロルの髪を梳かし始めた。

「今日も気持ちのいい快晴でございますよ、お嬢様。このマルクスめの散歩にお付き合いいただけませんでしょうか」

 キャロルは、窓の外を見る。確かに、青空がどこまでも続くいい天気だ。「そうね」と、仕方なくキャロルは言う。あまり出かけないのも、買ったばかりの帽子に申し訳ない。マルクスが笑ったような気がした。

 音楽が聞こえる。朝日とともにやわらかく町に降る、オルゴールの音が。

 本当にこの町は綺麗だ、と悪魔がひとりごちるのを、キャロルは聞いた。

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