第7話 矜持

 託宣を受けた大王おおきみはすぐ、水を清浄に保つようみことのりを出した。

 糞便は絶対に川へ流さないようにし、村の周りを囲う環濠もきれいにさせ、導水路も配備した。三輪山の井戸から出る水を特に「薬水」として、粥と共に民に配った。


 その甲斐あって、国を脅かしていた疫病えやみは、ようやく終息した。

 異常気象も起こらず、五穀は豊作となり、民の暮らしも落ち着きを取り戻した。


 大田田根子おおたたねこの名声は、絶大なものとなった。


 今では神社の巫女たちも、百襲姫ももそひめではなく彼に伺いをたてる。以前、「姫以外の祭主に仕えるのは嫌だ」と言っていた若い巫女も、すっかり大田田根子おおたたねこに心酔し、祭祀の作法や占いについての指導を熱心に受けている。


 大田田根子おおたたねこは、他の者には笑みすら浮かべて接するのに、姫にだけは棘のある態度をやめなかった。大王おおきみ一族は彼らにとって、三輪の地を奪った敵だから当然とはいえ、腹立たしいことに変わりはない。


 百襲姫ももそひめは、窓の外を見ながらため息をついた。

 夕暮れ空の下に、大和平野が広がっている。住居が集まるあたりに、飯を炊く煙がのぼっているのが幾筋も見えた。昨年には見られなかった光景だ。


「姫、少し早いですが、お食事をお持ちしました」

 侍女の芙吹ふふきが入ってくる。今日は月の障りがあるので、神社に出仕できなかった。血の穢れが気になって、薬草の選り分けやころもを縫うこともできず、一日をぼんやりすごしていると、自分が役立たずに成り下がった気分になる。


 芙吹ふふきが置いてくれた食事を見やる。台には、炊いた玄米と、野菜の煮物、川魚の串焼きが載せられている。木の匙を見て、これは人間の食事だ、と思う。


 神に供える食物は、直接手で触れず、祭祀用具である箸で盛りつける。

 弾力のある細い木を真ん中で折り曲げたもので、両端で食べ物をつまむのが案外難しい。百襲姫ももそひめは幼いころから巫女としての教育を受けており、箸を使い慣れている。そのことが誇りでもあったのに、今では巫女としての自信が持てなくなってしまった。

 皆が自分を「霊力の衰えた巫女」と蔑んだり憐れんだりしている気になり、出仕するのがつらかった。いっそこのまま血が流れ続けて、神社へ行けなくなればいいのに、と思う。


「姫、最近あまり召し上がってらっしゃいませんが、無理にでもお口に入れて体力をつけませんと」

 心配そうに言う芙吹ふふきに、百襲姫ももそひめは窓の外を見ながら言った。

「いいのよ、吾は病気になっても。大田田根子おおたたねこがいれば、国は安泰なのだから」


 投げやりにつぶやいた言葉を聞き咎め、芙吹ふふきが向かいに正座をして眉を吊り上げる。

「まあ、なんてことを仰いますやら。……姫はいつも、心をこめて神々にお仕えされていました。幼いころにお母さまの元から離され、どんなに不安だったでしょう。それでも、甘えたい気持ちを抑えて修行を重ねられ、巫女頭になられました。他の娘が、着飾ったり男女のことにうつつを抜かしたりしているときも、姫は民の暮らしがよくなるよう、朝に夕に欠かすことなく、神に祈りを捧げておられました。この芙吹ふふきが、よく存じております」


 小さいころから風や木々の声を聴くことができた百襲姫ももそひめは、母親や弟妹と離され、巫女集団の中で育てられた。長時間滝に入って水垢離みずごりをしたり、暗い山に籠ったりと、つらいぎょうも多々あった。覚えなければならない薬草の種類は多く、寝る時間を削って必死に学んだ。


 祭祀をつかさどるおさになれるのは、大王おおきみ家の姫に限られていた。

 託宣をするヒメとそれを伝えるヒコが、共同で政治を執っていた名残なのだ。現在も、形の上とはいえ、倭迹迹日百襲大王おおきみ・御間城入は共同統治者だ。

 家族とも自由に会えず、他の女たちとは違う道を進まざるを得なかった姫にとって、その自尊心が支えになっていた。だが、今は。


「吾は、三輪山の神を正しく祀れず、疫病えやみを鎮められなかった」

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