嘆きの川

八島清聡

Cocytus




 中世ドイツ、宗教改革前――。


 片田舎の畦道には、雪がうっすら積もっていた。

 暦のうえではもう春。しかし北国の大地には、まだ冬の名残りが強情に張りついている。

 村の外れの川は、雪解け水でかさを増し、轟々と音を立てて流れていた。

 ライン川の支流も支流、名もなき川である。村人たちも、ただ川とだけ呼んでいる。


 早朝、エマは水桶を持って川沿いの道を歩いていた。

 今年で十九になる娘で、村はずれの家屋に一人で暮らしている。

 外套はなく、首に申し訳程度のぼろぼろのショールを巻きつけている。

 冷たい風が吹いて、ぶるりと肩を震わせた。水桶を地面に置くと、かじかんだ手にハアと息を吹きかけた。しもやけて赤くなった、美しいとは言いがたい手。

 ざくざくと乱暴な足音が聞こえてきた。顔を上げると、前方から大柄な男が歩いてくるのが見えた。

 村長の息子のウドだった。上機嫌に口笛を吹いている。

 エマは慌てて水桶を抱え、近くの大木の裏に回った。しゃがみこんで、ウドが行き過ぎるのを待つ。

 この道の先は自分の家しかない。ウドの目的はわかっていた。

 朝なら家にいるはずとふんでやって来たのだろう。彼には会いたくなかった。


 エマは一旦、家畜小屋の牛の世話を諦めた。

 野花を探して摘むと、そのまま村の広場に建つ教会へ向かった。

 二十人も入ればいっぱいになる小さな教会である。

 礼拝堂を覗くと、黒の祭服を着たゲオルグが背を向けて、燭台のちびた蝋燭を取り替えていた。彼はローマ・カトリック教会から按手あんしゅを授けられ、半年前に赴任してきた若い司祭だった。 

 エマはしばらくゲオルグの背中を見つめた。それから大きく息を吸った。

「神父様、おはようございます」

 ゲオルグが振り返り、エマに笑いかけた。

「やあ、エマ。熱心だね。いつもきみが一番乗りだよ」

「主に祈りを奉げるのは、信者として当然の務めです」

 エマは恥ずかしそうに俯いた。ゲオルグの前まで行くと、おずおずと野花を差し出した。

「あ、あの。これ、道端に咲いていました。どうかしゅの御前に……」

 ゲオルグは花を受け取ると、顔を近づけて匂いを嗅いだ。

「ありがとう、エマ。土の匂いがする。長いこと雪に閉じ込められていた春の息吹だ」

 エマはゲオルグを眩しそうに見つめた。

 明るい茶色の髪に、短い夏の掃天そうてんのような、清らに澄んだ青の瞳。優しく理性的な声。彼は、ウドのような野卑たる男とは違う。

 祭壇には、十字架にはりつけにされたイエス・キリストの像が掲げられている。

 さあと促され、祭壇の前に進み出ると、跪いて頭を垂れた。

 胸の前で両手を組み、静かに祈りを奉げた。


 祈りが終わると、教会の奥のゲオルグの私室へ入った。

 簡素な木机の前に、二人は椅子を並べて腰かけた。

 ゲオルグは紙に羽根ペンで文字を書き、エマに見せた。

「ほら、これがきみの名前だ。エマだよ。読んでごらん」

 エマは紙を覗きこんだ。習ったとおりに読み上げる。

イーエムエムアー……。こんな風に書くんですね、私の名前」

「他のアルファベートも覚えれば、いずれは本が読めるようになる」

 エマはパッと顔を輝かせた。

「聖書も?」

 ゲオルグは大きく頷いた。

「もちろん。本が読めるようになれば、もっと多くのことが学べる」

 エマは紙面の文字を指先でなぞった。

「ありがとうございます、神父様。一生懸命覚えます」

 当時の庶民は文字が読めなかった。読み書きを教えてくれるところもない。エマも、ゲオルグが教えてくれなければ不文のまま生涯を終えるはずだった。


 エマは声に出しながら、アルファベートを丁寧に書きとっていった。

 紙は細かい字で埋まった。裏面にもびっしりと書いた。書き終えると、手もとを見守っていたゲオルグが口を開いた。

「ところでエマ、一つ聞きたいことがあるんだが」

「なんでしょうか」

「ここに赴任してきて以来、不思議に思っていた。この村は娘……未婚の女性がとても少ない。男はそうでもないのにと思ってね」

「それは……」

 エマはペンを置き、悲しそうに睫毛をしばたかせた。

「五年前、ここいら一帯を飢饉が襲ったんです。作物が全然取れなくて、だけど領主様は戦争のためにお金が必要で。兵隊たちが税の取り立てにきて、種籾まで奪っていきました。それで、冬を越すために娘たちが売られたんです。私の友だちもその姉妹もみんな……。だから、この村に若い女はいません」

「……哀れな。きみの御両親はきみを手放さなかったんだね」

「ええ。けれど無理がたたって、両親とも翌年の冬に亡くなりました。それからは一人です」

「そうか……」

 沈むゲオルグの声に、エマは努めて明るく言った。

「気にしないでください。ここいらでは別に珍しいことじゃありません。どこの村も同じです。貧しくて貧しくて、いつ飢え死んでもおかしくない……。でも、私は怖くありません。こうして教会に来て神父様の、いいえ、主のお傍にいるだけで心が救われます」

 ゲオルグは短く嘆息した。

「まぁ、これで色々合点がいったよ。最近、村の若い衆はきみの噂ばかりしている。きみを取り合っていると言ってもいい。特に村長のところのウドはご執心のようだ。きみをものにすると息巻いている」

「そんな……」

 エマは椅子から勢いよく立ち上がった。

「私は誰とも結婚しません。したくありません」

 ちぎれんばかりに何度も首を横に振った。

「神父様。私はいずれ修道院に入りたいと思っています。あなた様と同じ神に仕える道へ進みたい。主の近くで、清らかな信仰の日々を送りたい……。それが私の望みです。結婚なんて……嫌」

「エマ……」

 エマの緑色の瞳に涙が浮かんだ。

 ゲオルグはエマの肩にそっと手を置き、十字を切った。



 二人が部屋を出ると、礼拝堂に新たな影が入ってきた。

 安っぽい身なりをした赤毛の女と黒衣に身を包んだ老婆である。

 赤毛の女がアンナで、老婆がゼルマだった。村に暮らす数少ない女である。

 アンナは、ゲオルグの姿を見るや、豊満なからだを揺するようにして傍に駆け寄った。無遠慮に肩に触れ、上目遣いで訴えかける。

「ああ、神父様。お会いしたかった。今日もあたしの懺悔を聞いてくださいな」

「わかりました。では懺悔室へ」

 アンナは後ろのエマをちらりと見た。

「あら、エマじゃない。牛の世話は終わったの? あんたの親が家と共に残してくれた大事な財産じゃない。こんなとこにいないで、ちゃんと面倒みなくちゃ」

 何やら敵意めいたものを感じ、エマはからだを竦ませた。

「今から帰ります。アンナさんはこれから告解ですか」

「そうよ。さ、神父様。お願いしますわ」

 アンナはゲオルグの背中を押すようにして、懺悔室へ入っていった。


 二人が消えると、それまで黙っていたゼルマがぼそりと呟いた。

「あの売女。朝から一緒になるなんて、今日はついてないよ」

「えっ、売女って……?」

 老婆はエマを横目で見、軽く舌打ちした。

「あの日替わりアンナのことに決まってるだろ」

「日替わりアンナ?」

「旦那が戦争で死んで以来、男をとっかえひっかえして家に連れ込んでいるからね。そう呼ばれてんのさ。淫売となんら変わらんね。村の恥だよ全く」

 ゼルマは尚もぶつぶつ呟きながら椅子に腰かけた。

「でも、あんたはあの女に感謝するんだね。あれがいなけりゃ到底無事ではいられないよ」

 エマは懺悔室の方を見つめた。中からは何も聞こえてこない。

 教会を出て、とぼとぼと通りを歩いていると幾つもの視線を感じた。村の男たちが値踏みするようにじろじろと見てくる。ゼルマの忠告を思い出し、足を速めた。


 家に帰ると、扉の前にウドが立っていた。エマが戻るのを待っていたようだ。

 エマはウドを見て、怯えたように数歩後ずさった。

 彼は何度求婚を断ってもしつこく迫ってきて、最近では力づくでものにしようとする。エマはそのたびに必死で逃げ回っていた。

 ウドはエマを見て、にやにやと笑った。

「ようエマ。今日こそはいい返事を聞かせてもらうぜ」

 エマはなんとか声を振り絞った。

「何度来ても同じことよ。あなたの妻にはならないから」

 途端、ウドの顔に怒りが浮かんだ。

「あ? なんだと? 痩せっぽっちの売れ残りが偉そうに。選べる立場だと思ってんのか」

「やめて。私はあなたのそういうところが……」

「何が不満なんだ。嫁にくりゃ、お前の親が親父にした借金も全部チャラにしてやるって言ってんのによ!」

 エマはぎゅっと唇を噛みしめた。借金のことを持ち出されると、もう何も言えなかった。両親は亡くなる前に、村長から少なくない額の金を借りていた。

 村長自身は返すのはいつでもいいと言ってくれるが、ウドは弱みにつけこんで結婚を迫ってくる。

 ウドはエマの腕を掴み、強引に引き寄せようとした。

「来いよ。たっぷり可愛がってやるぜ」

「嫌っ! 離して」

 エマはウドの手を振りほどくと、森へ向かって走り出した。

「あ、おい! 待て!」

 背後からウドの怒鳴り声が聞こえた。エマは足を止めなかった。

 あんな野蛮な男の妻になるくらいだったら、死んだ方がましだった。



 数日後の夕方――。

 エマは布巾をかぶせた籠を抱えて、教会へ行った。籠には焼きたてのパンが入っていた。

 礼拝堂にゲオルグの姿はなかった。

 奥の部屋を覗くと、机の前に腰かけている。両手を組んで額に当てたまま、微動だにしない。その背中はいつもよりも小さく見えた。

「神父様?」

 恐る恐る呼びかけると、ゲオルグはびくりと肩を震わせ、勢いよく振り返った。目もとに憔悴の影があった。

「……ああ、エマか」

「すみません、お邪魔でしたか」

「いや、大丈夫だよ。何か用かい」

「あの、パンを焼いたんです。少し焼きすぎてしまったみたいで……もしよかったら」

 そう言いながら、エマの胸はチクリと痛んだ。自分は嘘を言っている。一人暮らしなのに、パンを焼きすぎるなんてことはありえない。

 ゲオルグは軽く微笑んだ。

「ありがとうエマ。きみは優しいね」

「いえ、そんな」

 エマは顔を赤らめた。

「神父様こそ、顔が青いです。具合でも悪いのですか」

「いや、違う」

 少しして、彼は思いつめた顔で尋ねた。

「エマ、きみはダンテの『神曲』を知っているかい?」

 突然の問いにエマは戸惑った。

「いいえ、私は……まだそれほど字が読めませんし」

「ああ、そうだった。すまなかった」

「でも、いつかは読みたいです。神父様がお好きなら」

「……好きというわけでもないんだが」

 ゲオルグは立ち上がると、窓辺に寄って暮れゆく外を見た。

「『神曲』はダンテ自身が地獄を下っていく物語でね。地獄において最も重い罪とされる悪行は『裏切り』なんだ。地獄の最下層の川、コーキュートスでは、生前裏切りの罪を犯した者たちが永遠に氷漬けにされている」

「コーキュートス?」

「ああ、『嘆きの川』という意味だ」

 エマは微かに身を震わせた。

「嘆きの川。なんだか聞いているだけで恐ろしいです」

「私も恐ろしいよ。とても恐ろしい」

 ゲオルグは両手で顔を覆った。

「私は、私がこれまで心の拠りどころとしてきたものを最も醜い形で裏切ろうとしている。清廉なる神の道を、わが求道の全てを。主への裏切り、これは死を以ってしても償えない罪だ。死して尚、地獄の最下層に落ち、嘆きの川に沈められるべき悪徳だ」

「……神父様、何を仰っているのですか」

 エマは激しく動揺した。懊悩するゲオルグを見るのは初めてで、どうしたらいいかわからない。

「すまない。きみにこんなことを言っても仕方なかった」

 エマはゲオルグを見つめ、弱々しく微笑んだ。

「いいえ。無知で無学な私ですが、お話することで神父様の心が晴れるならば、それで」

 充分です、と。

「エマ、ありがとう。でも、もう行ってくれないか。これから客人が来るんだ」

「……はい」

 エマは悄然と呟き、踵を返した。



 教会を出て村の中心を抜けようしたところで、エマは置いてくるはずだったパンを抱えたままであることに気づいた。元々、ゲオルグのために焼いたものである。

 礼拝堂に置いておこうと思い、元来た道を戻った。

 すっかり暗くなった礼拝堂の中へ滑り込む。

 祭壇の前まで行って、籠を置いた。

 奥の部屋からは灯りが漏れている。既に客人が来ているようで、話し声がする。男にしては妙に高い。聞き覚えのある、甲高い女の笑い声。

 エマは吸い寄せられるように部屋の前へ忍び寄った。ドアが少し開いている。いけないと思いながらも中を覗きこんだ。


 部屋にはアンナが立っていた。そして、彼女に寄りそう黒い影。

 ゲオルグは跪くようにして、アンナの豊満な胸に顔を埋めていた。

「アンナ、私は……私はどうしたら」

 女は、男をかき抱きながら、淫靡に、勝ち誇ったように笑った。

「やだねえ、これだから聖職者ってやつは。お堅いんだから」

「私は、生涯……浄身を保たねばならないのに」

「そんなもの守って何になるのさ。大丈夫だって。あたしには贖宥状しょくゆうじょう(免罪符)があるんだから。これさえあればどんな罪だって許されるんだろ? 煉獄れんごくの炎に焼かれずに済むって教会のお墨付きじゃないか」

 アンナは胸元から薄茶色の紙を取り出し、ひらひらと振った。紙には聖人の絵と細かい文字が書かれている。何と書いてあるかはわからない。読めもしない贖宥状を、伝家の宝刀のように振りかざした。彼女が彼女で、教会が乱発する贖宥状で全ての罪が赦されると信じていた。

「くっ……」

 抱きついたまま、ゲオルグは低く呻いた。泣いているのかもしれなかった。


 エマはもう見ていられなかった。

 高潔で理知的で憧れであったゲオルグが、娼婦のような女に屈していた。

 カトリックの司祭は妻帯を許されない。もちろん、女と通じることも。

 彼は神の道を外れ、肉欲に負け、堕落してしまったのだ。

 

(主よ!)


 エマは祭壇の十字架を仰いだ。

 かつて主は、イエスは、地上にひしめく人間たちの罪を背負ってゴルゴダの丘に散ったのに――。


 エマは教会を飛び出し、脱兎のごとく走った。

 雪の残る道を何度も滑りそうになりながら、川の前まで来た。

 何の変哲もない川だ。この世に生まれた時からあって、満々と水を湛えて流れてゆく。

 心の内に、その冷たい川の水すら沸騰させそうな、激烈な怒りがあった。

 ゲオルグを誘惑したアンナが憎かった。悪魔のような女だと思った。

 しかし、アンナが女を買う金すらない村の男たちを引き受けてくれるおかげで、自分はこれまで穢されずに生きてこられた。


 エマは川面かわもを見つめ、震える声で呟いた。

「神父様、告解を。裏切りというなら私だって……」

 裏切りの罪を犯した罪人が氷漬けにされるという嘆きの川。

 それは今、目の前にある。

 エマは両手を組み、目を閉じた。

 大きく息を吸って吐いた。何も怖くなかった。己の中の揺るぎない信仰を信じた。

 宵闇を裂いて、天地がくるりと逆転した。

 懺悔を認めるように、贖罪を受け入れるように、黒い波のうねりが大きな口を開けて面前に迫ってきた。


【了】




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