15センチ/ガラス越し/27

夏鎖芽羽

15センチ/ガラス越し/27

×   ×   ×   ×   ×   


 19○○年。夏。東京都武蔵野市にある吉祥寺と呼ばれるエリア。

 

 君と僕


 人間とハーピー


 厚さ15センチのガラス越し


 どうしようもなく違っていて、どうしようもなく同じでいたかった。

 これはそんな僕と君のお話。


×   ×   ×   ×   ×


 両親が深夜に僕の進路のことで喧嘩を始めて、いや僕の進路なんだからほっておいて。国立とか私立とか行きたい方行くからお金だけ出して。なんてどうでもよくてどうでもよくないことを頭の中でグルグル回転させながら深夜二十三時四十分に家を飛び出した。


 行く当ては特になかったのでそのまま井之頭公園へ向かった。夏休み中の井之頭公園なんてヤンキーども花火散らしてが大騒ぎ。なんてイメージがあるけど、湖(というか泥沼)のせいで大量の蚊が湧くここにそんな需要はない。

 ぼけーっと熱帯夜に溶けるように公園を徘徊した僕はなんとなく動物園の方へ。そういえば小学校以来行ってないなーなんて思って近づくと、入り口が開いていた。


「あれ?」


 分園通用口とかいう資材搬入用とかそんな感じの出入り口が拳一つ分のスペースを残してキュラキュラ夜風に揺れていた。

 両親の喧嘩でなんとなくストレスを感じていた僕は、夜の動物園という異世界にぴょんと入ってしまう。


「動物はいないよな……」


 しばらく適当に歩いて気づいた。獣はみんな檻の中で寝ていて展示場には雀一匹いない。夜闇も合わさって寂しい光景が広がっていた。

 そんな中、僕は奇妙な展示を発見する。

 高さ十メートルくらいの全部ガラス張りの檻。一本の木と膝くらいの高さまで水が入れられたそこには真っ白な鳥がいた。


「なんの鳥だろう……?」


 近づいて覗き込んでみる。

 それは鳥ではなかった。

 白鳥の体に美しい少女の顔を持つ異形だった。


「う、うわぁああああああ!!!」


 思わず尻餅をついて後ずさる。


 琥珀の瞳で不思議そうに僕を覗き込むのは確かに人間の顔、しかし体は鳥そのもの。その矛盾に僕の認識が追いつかない。

 僕の悲鳴に気づいたのか、琥珀の球が僕を捉える。


『こんばんは……人間さん』


 不器用に少女の顔が微笑みの形を作る。


「こ、こんばんは……」


 そう口にするのが精いっぱいだった。こんな生き物現実で見たことなんてない。友達がやってたゲームにこんなモンスターが登場したと思うけど……


(夢じゃないしな……)


 尻餅をついた時の痛みはある、彼女の声? テレパシーもきちんと聞こえる。


「動物園にこんな生き物がいたのか……?」


『あなたが見ているのは幻ですよ。きっと』


 なんとか現実だと納得しようとしたところで彼女がそんなことを言うものだから、僕はどうすればいいのかわからなくなる。


「えっと、君の名前は?」


 だからこんな今聞く必要があってなさそうなことを聞いてしまう。


『私はハル。美しい声で惑わす鳥』


「ハル……ね。僕はトオル。よろしく」


『はい、よろしく。トオル』


 彼女はまた不器用に笑って見せる。その笑顔がどこか魅惑的だ。


「君は……動物? それとも人?」


『まぁ、人に見えるの?』


 ハルがほほ笑むと同時に心臓が飛び上がるように脈を打つ。今まで見てきた女の子笑顔の、そのどれにも当てはまらないような、形容し難いその笑みに心がどこかに行ってしまいそうだった。


「えっと……そう、だね。可愛い女の子に見えるよ」


『そうなんだ……ふふっ、嬉しい』


 僕の浮かれた気持ちを振り払うようにハルは大きく翼を広げて止まり木に飛び移る。


「君は――」


『名前』


「えっ?」


『名前を教えたのだからそれで呼んでほしいの』


「そ、そうだね。えっと……ハル」


『はい。なんでしょう?』


「ハルはここに展示されているの?」


 こんな奇妙な、いや美しい動物がいるなんて聞いたこともなかった。というか、鳥の体に人の頭なんて動物本当に実在するだろうか……


『そうといえばそうでしょうし、違うといえば違うでしょう』


 はぐらかすような、真実を消してしまうような。そんな口調で言われてしまうと、それ以上追求する気をなくしてしまう。


『トオルはこんな夜中にどうしたの?』


「両親が喧嘩していて……なんとなく家に居づらくて飛び出してきちゃいました」


 深刻そうで、そうでもないことを、おどけるように言ってみる。


『喧嘩?』


「僕の進路のことだよ。国立に行くか私立に行くかっていう」


『トオルはどちらに行きたいの?』


「志望校は……私立かな? でも私立はお金がかかるから」


『ご両親に迷惑がかかるということね』


「そうだね。でも、僕のことで父親と母親が喧嘩をしているのは……ね」


『自分のことで他人が喧嘩をするのは見ていて気持ちのいいものではない。ということね?』


「うん、ハルの言う通りだよ」


 それからハルに自分の進路のことを長々と話した。人間ではないと思うけれど、可愛くて、僕の話をしっかり聞いてくれる彼女には自分の全てが出せるような気がした。


『ふぁ……』


 どれだけ時間が経っただろう。ハルがあくびをして、すっかり話し込んでしまったことに気づいた。


「あっ、ごめんね。夜も遅いのにこんなに話し込んで……」


『いいよ。私も楽しかった』


 ハルがほほ笑んで、それにまたドキっとした。彼女の笑顔は怖いほどに僕の心を鷲掴みにする。


「それじゃ、もう行くね」


『トオル。帰る前にちょっとこっちに来て』


 白鳥の翼に誘われ、ガラスの檻に近づく。

 

 ハルがガラスに優しく口づけた。


『また、来てくれると嬉しいな』


 その瞬間、僕の頭は沸騰するように燃え上がり、体の内から羞恥となんとも言えない《熱さ》が沸き上がってきた。

 焦燥感に駆られるように僕は駆け出した。ハルはそんな僕をうっすら笑いながら見つめているような気がした。



 翌日。夏期講習が終わった僕はハルに会うために小走りで井之頭公園に向かった。

 しかし、講習が終わったのが十七時。動物園の閉園時間も十七時のため中に入ることは叶わなかった。昨日の夜開いていた通用口も今は固く閉ざされていて開きそうにない。しかたなく動物園のパンフレットをもらって帰路に着く。

 自分の部屋でパンフレットを開くが、園内地図にハルのいたガラスの檻は存在していなかった。


(それじゃあ、昨日見たのは幻か……)


 ハルの笑顔を思い出す。それだけで心臓は壊れてしまいそうなほどに高鳴った。

 その一方で気味悪さのようなものも感じていた。ハルは人間ではない。人間ではないものに心臓を高鳴らせている男子高校生というのはおかしいのではないだろうか。きっと普通の人はハルを見て可愛いなんて思ったりしない。体は白鳥の女の子の笑顔に惹かれたりしない。

 でも、彼女のことが忘れられなかった。透明を隔てたキスは舌で感じなくても甘すぎた。


「今日も……行こう……」


 そのあとは悶々としすぎて夏期講習の課題もロクに手につかなかった。



 長針と短針が頂点で重なる少し前、僕は足音を立てないように部屋を出た。

 両親はすでに寝ていた。僕が外に出たことすら気づいていないだろう。

 バッシュでコンクリートを叩きながら井之頭公園を目指す。虫よけスプレーをしてきたので蚊の心配をすることもない。

 今日の夜も通用口が開いていた。昼間は開いていなかったのに――でも僕はなぜここが開いているのかなんて考えている余裕はなかった。

 

 心臓が狂ったように胸の内側を叩く。動いてもいない、走ってもない、何もしていない。ただ歩いているだけなのに。

 

 ガラスの檻の中には今宵も白鳥の体を持つ少女がいた。

 

 ゴクリと唾を飲み、一歩、また一歩と彼女に近づく。僕の気配に気づいたのかハルの頭がクルリとこちらを向く。

 

『こんばんは、トオル。またあえて嬉しい』


 花が咲くような笑みで迎えられ、僕はどんな反応をしいたらいいか迷い「こんばんは」となんの変哲もない挨拶を返すことしかできなかった。


『今夜も会いに来てくれたけど――両親はどう?』


「昨日喧嘩した反動か、もう寝てるよ」


『そう。なら帰るのが遅くなっても大丈夫ね』


 細い足でぴょんと跳ねるように一歩僕に近づいた。


『今日はあなたの学校の話が聞いてみたいな』


「学校のこと?」


『うん。友達のこととか、好きな女の子のこととか』


「友達は僕と同じでみんな夏期講習に忙しいよ。受験前だからね。好きな女の子は……今はいない」


『今は?』


「うん。その女の子死んじゃったんだ」


 ここで。


『ここって……井之頭公園?』


「そうだよ」


『どうして――って、これは聞いても大丈夫?』


 ハルが不安そうな顔をする。僕は短く大丈夫と言って、事件の詳細を話し始めた。


「殺されて、バラバラにされたみたい」


『殺されて……バラバラ……」


「うん。詳しいことは警察も知らないみたい。ただ、合計26個にバラされた人間の――女子高生の死体が見つかっただけ。詳しいことは何もわからない」


『そうなんだ……ごめんね。そんなこと訊いて……』


「ううん、大丈夫。もう1年も前のことだから」


 クラスでよく話す女の子。特別容姿が優れているわけでも、運動ができたり、勉強ができたりするわけじゃなかった。決して社交的ではなく、男子とも女子ともよく衝突した。

 でも、そんな彼女のきちんとお礼が言えたり、しっかり挨拶ができるところに惹かれた。おはようと言えば笑顔でおはようと言うし、消しゴムを拾ってあげると丁寧に頭を上げてありがとうと言った。

 でも、あの時目に焼き付いた、ドクりと心臓が脈を打ったあの瞬間、あの時の笑顔は、事件の真相とともに汚い湖の底に沈んだ。もう二度と見ることはできない。

 

 恋人じゃなかった。友達でも――きっとなかった。ただクラスが同じだけの男子と女子。それくらいの関係。でも忘れられない。忘れることができない。


『その子のこと、好きだった?』


「好き……うん、好きだった。好きになってすぐに二度と会えなくなったけど」


『そっか』


「…………」


 ぷつりと、指先に針を刺して血の雫ができていくような、そんな形で感情が広がった。

 

 だって、ハルと話していると好きだった女の子を忘れそうになる。


「もっと明るい話しようか?」


 といってもすぐに出てくる面白い話題はない。迷った挙句、僕は動物園のパンフレットにこの展示がなかったことを伝える。


『最近ここにきたの。この夏に初めてお披露目になったからパンフレットの方が間に合わなかったんだね』


「そっか」


 確かにパンフレットなんてすぐにはなくならないだろうし、修正するのも面倒だからしばらくの間そのままになっていたのだろう。


「でもいつ頃ここに来たの? 近所に住んでるけど、全然知らなかった」


『一か月くらい前かな?』


「結構前だね」


『うん。でも、聞いてたとしても男子高校生なんて動物園に新しい動物が入ったことなんてすぐに忘れちゃうでしょ?』


 いたずらっぽくハルが笑う。


「そうだね」


 僕は苦笑いで答える。おとといの晩御飯のおかずすら思い出せないのに、動物園に新しい動物がやってきたことを聞いたとして覚えていられるだろうか。


「ハルはなんていう種類の動物なの?」


『私はハーピー。白鳥の体と人間の頭を持つ不思議な動物。アマゾンの奥にいるみたい』


「アマゾンからきたの……?」


『そうみたい』


「わからないの?」


『だって、あそこにいたときは世界のことなんて知らなかったもの』


 確かにアマゾンなんかにいたら外の世界のことなんて知ることはできないのかもしれない。


「この声? みたいなのはハーピーの特徴なの?」


『そうだね。これは声というより《心 》と伝えるものなの』


「心?」


『動物に《言葉 》は必要ないの。《心》が通じればいいの』


「それじゃ、ハルの声は言葉じゃないんだ」


『説明は難しいけど私がこう思っているのを伝えるのがハーピーの特徴かな?』


 それからハーピーは声帯がなくて《声》がないから《言葉》を得られなかったこと、僕と話せるのは念波と呼ばれるものであることを教えてもらった。


「やっぱり人間じゃないんだね……」


『トオルは私が人間じゃないと……いや?』


「そ、そんなことないよ! こうして話せるし人間と変わらないよ!」


『ふふっ、ありがと』


 ハルが笑う。なぜだがハルが笑っていればそれだけでいい、という不思議な感情が芽生えた。

 それがなぜだか背徳的なもののような気がして、僕はもう帰ると行って透明に閉じ込められるハルに背を向けた。

 今日はキスがなかった。


×   ×   ×   ×   ×


 一年と少し前。夏休みに入る直前。

 教室には不穏な空気が流れていた。

 期末テストが返されていた時のこと。僕の好きな女の子が怒っていた。


「謝ってよ!」


「い、いや、だから冗談じゃん……」


 自分より頭二つ分低い女子にグイグイ迫られて男子生徒は困惑を浮かべた顔で後ずさる。

 女の子はテストの点数が悪かった。赤点だった。それを男子生徒が目撃し「○○赤点じゃん!」とからかった。教室は一瞬さざめきのような笑いが起こったあと固まった。

 女の子が三十五点のテストを叩きつける。うるさい。低い声で鈍い音の風鈴を鳴らす。


「冗談、冗談、悪かったよ」


 男子生徒の軽いあしらいを女の子は許さない。男子生徒のアブラゼミ色の腕を捕まえて引き寄せると鋭い眼光を放った。


「謝ってよ!」


 彼女に間違いはなかった。男子生徒のにも間違いはなかった。

 テストの点数を馬鹿にされたから謝ってほしい。クラスでちょっと笑いを取るためにテストの点数をからかった。

 事実と事実が喧嘩を始めて、ビリビリ雷の後のように空気を揺らした。

 

「ごめん……」


 男子が女の子の白くしなやかな手を振り払って席に戻る。タイミングを見計らったかのように先生がテスト返却を再開し、教室は元通りに戻る。

 女の子がテストを拾って席に戻る。感情のままに机にテストを叩きつける。すると、消しゴムがコロリと僕の方に転がってくる。

 吸い寄せられるように消しゴムを拾い、女の子に渡す。


「ありがとう」


 くやしさなんて微塵も感じさせない笑顔でそう言って頭を下げた。

 こんな素敵な笑顔があるんだと思った。


×   ×   ×   ×   ×


 目を開ける前に感じたのは体にべたっと張り付くTシャツの不快感だった。

 それから逃れるようにじたばたと四肢を動かしベッドから起きる。

 時計は八時半を指していた。夏期講習は十時から。九時半に家を出れば間に合う。朝ご飯を食べて、開始早々行われるテスト対策をする時間は十分ある。


「久しぶりに夢見たな……」


 僕の好きだった女の子の夢。女々しい気もするけど、夢の中でも会えてよかった。


仁奈にな


 女の子の名前をつぶやいて部屋を出た。



 夏期講習を終えて帰路につく。今日もハルに会いに行こうかと思ったが、想像以上の課題が出て断念せざるを得なかった。

 夕飯を食べ、ブラウン管のテレビをしばらく眺めた後、部屋で勉強を始めると電話がなった。母親が「あんたに電話」と子機を渡してくる。


「もしもし?」


『やっほー、久しぶりだなトオル』


「阿久津か。なんか用?」


『明後日、塾休みだろ? クラスの連中と遊びに行くんだけど一緒にどう?』


「遊びに行くってどこに?」


『立川のプール。デカイとこ』


「あぁ、あそこか。行く行く」


『うっし、それじゃ参加な。九時に南口で』


『了解』


 通話終了ボタンを押し、子機をリビングに戻す。


(夜はハルに会いに行くか……)


 根拠もないのに通用口が開いてる夜を願っていた。そんな自分に苦笑いして、ハルに会いに行くのが楽しみになっている自分に気づいた。



 両親が寝静まってから家を出た。時刻は深夜一時前とこれまでで最も遅い時間だ。虫よけスプレーを吹きかけ、バッシュに足を突っ込んで静かに家を出る。

 夜の井之頭公園は虫の声と時々魚が池をはねる音以外は何も聞こえなかった。静寂の世界を歩き、なぜか開いている通用口を抜け、ガラスに閉じ込められたハルの元へ。


「ハル――」


 呼びかけた声はしぼんだ。ハルは横顔を見せるように寝息を立てていた。

 白鳥の体を横たえ、自らの無垢な羽毛に少女の顔が半分沈んでいる。まるで宗教画のような光景に、自分の立っている場所がすべて溶けてなくなってしまうようだった。


『トオル?』


 ハルが目を開ける。鳥のまま立ち上がって、境界ギリギリまで近づいて淡く微笑む。


『昨日は来なかったから今日も来ないと思った』


「昨日は課題が忙しかったんだ。ごめん」


『いいよ。気にしないで』


 そんなやりとりの後、僕らはおとといの会話を忘れてしまったように黙り込んでしまう。

 

『ねぇ、昨日来なかったのって本当は――』


 私がキスしなかったから?


「ち、違うよ。そんな現金な奴じゃない」


『本当?』


「本当だよ」


『ごめん、ごめん。冗談だって』


 片目をつぶって見せる。琥珀が弾けて眩しく僕にぶつかる。そんな茶目っ気ある仕草に思わず笑って、タンタンと石畳を叩くリズムで会話を始める。


「明日――いや、もう日付が変わったから今日か。みんなでプールに行くことになったんだ」


『プール?』


「あっ、えっと、泳ぐために作られた施設……池とか湖みたいに自然と作られたものじゃないところ?」


 ハルはきっとプールを知らないのだろう。そんな風に説明してみたがどこか不器用だった。でも、プールを知らない人にどうやってプールを説明すればいいだろう? 泳ぐために作られた施設という以外の言葉は見つからない。


『そう。女の子もくるの?』


「うん。来るとか言ってた」


『ふーん……』


「なに? 嫉妬?」


 先ほどからかわれたお返しにとからかい返してみる。


『そうかもね』


 なんてちょっと拗ねた表情で言われ、ハルには敵わないと手をあげてる。


『む、少しは本気だよ?』


「はいはい。プールにはウォータースライダーがあるんだ。水を使った滑り台。高いところから水の力も借りて滑り降りる遊具」


『へぇ、普通に水浴びするより楽しそう』


「そうだね。水浴びしないからわからないけど」


 僕は鳥じゃない。ハルも頭は人間でも感覚は鳥なのだろう。


「だいたいこの辺に住んでいる子は毎夏遊びに行くんだよ。広いから結構楽しめるし」


『へぇー、感想楽しみにしてるね』


「うん、了解」


 そうして少しの会話を終えて、僕は家に帰ることを伝える。寝坊して遅刻したらみんなに迷惑をかけてしまう。


「それじゃまた」


『待って、トオル』


「どうかした?」


『こっちに来て屈んで』


「屈む……?」


 訝しみつつも、言われた通り分厚いガラスの檻の前で片膝をつく。

 同じ高さで目が合って、彼女はふわりと優雅に翼を広げる。


『キス、してあげる。』


 ガラス越しでいいなら


「えっ――」


『する? しない?』


 ハルの笑顔はまるで甘い蜜を持った花だった。引き寄せられるようにガラスに唇を当てると同時に十五センチ先の熱が伝わった。


『明日も絶対来てね』


 熱が体中をかき回すなか、なんとか頷くことができた。



 翌日、クラスの男女五人で立川にあるプールにやってきた。西立川なんて半端な名前の駅で降りて、公園の中にあるプールへ向かう。高校生料金で入場券を買い、男女で分かれて更衣室へ。


「女子たちの水着楽しみだな!」


「ノリノリだな阿久津」


 僕に電話をかけてきた阿久津が意気揚々と僕ともう一人の男子花岡に言う。


「なんだよ、トオルは楽しみじゃないのかよ?」


「もちろん楽しみだけど――」


 ハルの白鳥の体が思い浮かぶ。


「含みのある言い方だな」


 阿久津が軽く僕を笑い飛ばす。


「けどよく丸山と只埜誘えたよな」


 花岡が一緒にプールに来た女子の名前をあげる。


「俺が頑張ったからな!」


「お手柄。お手柄。二人の水着姿を見れるだけでこの夏生きていける」


 高校の水泳は男女別々に行われる。女子の水着はおしゃれな水着どころかスク水さえみたことがないのが男子の共通見解だ。


「確かにあの二人スタイルいいよね」


 丸山は胸が大きくて全体的にむちっとした印象でいかにも男受けしそうな体。只埜は胸こそ丸山に劣るが足が綺麗で細い。


「なんだよ! 結局トオルも興味あるじゃん!」


「興味ないなんて言ってないよ」


 苦笑いで返して、着替え終わった僕たちは更衣室を出た。女子を待つ間に適当なスペースにレジャーシートを広げて、場所を確保する。

 阿久津と花岡が浮足立つのを横目に見ながら、嬌声を上げながら流れるプールで遊ぶ小学生たちを見つめる。


(女子の体なんて久しぶりに意識した……)


 ハルは人間ではない。だから、毎夜あっても性的な意識はしない。

 おかしいだろうか。男子高校生が顔と心で、顔しか人間ではない存在に惹かれるなんて。


 あの高鳴る胸の音は、偽りなのだろうか。


「おーい、お待たせ!」


 弾ける笑顔で丸山と只埜がやってきた。


「おっ、二人とも可愛いじゃん!」


「サンキュ!」「そうかな……?」


 丸山は胸元の主張が激しいオーシャンブルーの布面積が多めのビキニ。只埜は裾のフリルが控えめな白のワンピースタイプの水着だった。胸と足。それぞれのセクシャルポイントがこれでもかと強調された水着だった。


「うしっ、それじゃ行くか。花岡、お前は荷物番な」


「なんでだよ!」


 阿久津のボケに花岡が軽快にツッコミを入れて女子二人に笑いが咲く。先頭の阿久津に花岡と丸山がついていく。


「僕たちも行こうか?」


「う、うん」


 水着が恥ずかしいのかうつむきがちの只埜に声をかけて二人の後を追った。



 それから僕たちはウォータースライダーに乗ったり、波のプールで水をかけあったり、花岡をからかう阿久津を見て笑ったり、楽しい時間を過ごした。


「そろそろ飯にするか」


 荷物を置いてあるレジャーシートに戻ってきた阿久津がおなかをさすりながら言う。その姿がどこかおかしくてみんなで笑う。


「んじゃ、じゃんけんで誰が買い出し行くか決めるか。全員で行っても仕方ないしな」


「そうだね」


 確かにこの人だかりの中、全員で買い出しにいく必要はないだろう。

 じゃんけんをして買い出しメンバーを決める。結果は阿久津と丸山だった。


「それじゃあたしと阿久津でなんか買ってくるね。なんでもいいよね?」


 みんなそれぞれ適当な返事をして二人を見送る。


「俺はちょっとトイレ行ってくるわ」


 花岡がトイレに向かう。


「二人に……なっちゃたね」


「そうだね」


 只埜が控えめに話しかけてくる。


「プール、阿久津に誘われたんだよね?」


「う、うん。そうだよ」


「楽しい?」


「へ?」


「なんかうつむきがちだから」


 只埜は水着に着替えてからあんまり顔を上げようとしなかった。


「そんなこと……ないよ。楽しいよ。阿久津君面白いし」


「確かにあいつは面白いよな」


 クスッと笑う只埜の可愛らしい姿がなんだか新鮮だった。


「……ちょっと波のプールにいかない?」


「そうだね。ここにいても暑いだけだし」


 真夏の日差しは容赦なく僕の背中を突き刺していた。最近はクーラーの効いた塾に籠っていたから、余計に夏の日差しが暑く感じる。

 拳二つ分の距離で並んで座る。ここからなら荷物を置いてある場所も見える。誰かが帰ってきたらもどればいいだろう。

 水につかっているのはわずかな部分だけ。波が時々いたずらをするようにぴしゃりと水をかける。


「あ、あの!」


「ど、どうしたの?」


 いきなり大きな声を出した只埜に驚きながら僕は問う。


「きょ、今日の私……か、可愛い、かな……?」


「えっ?」


「ご、ごめんっ! い、今のは忘れて……」


 一瞬だけ合わせた目は緊張と羞恥と――何か甘いものが見えた。


「水着、似合ってるよ」


 若干の気恥ずかしさを抑えて言う。


「ほ、本当……?」


 恐る恐る顔をこちらに向けた只埜に真っすぐぶつける。


「うん。可愛いよ」


 すると、只埜は真っ赤になって、立ち上がって、波のプールの深い方へ走り出す。途中、バランスを崩して転ぶように水中へ消える。そんな姿に驚いて腰を浮かせる。でも、次の瞬間には人魚になって飛び跳ねて、飛沫を煌めかせて、とびっきりの笑顔で笑った。



 日付が変わる少し前。僕はいつも通り井之頭公園にやってきた。


『こんばんは』


 見えない境界線の先、ハルが笑って微笑みかける。


「こんばんは」


『プール、楽しかった?』


「うん……そうだね……」


『どうしたの? 喧嘩でもした?』


「そういうわけじゃないけど……」


『あっ、私のキスが忘れられなくて女の子の水着どころじゃなかった?』


 半分くらい当たっていて、半分くらい間違っていた。


「ねぇ、ハル」


『なに?』


「僕がハルを好きなのって……どういう好きかな?」


『どういう好き……?』


「これは恋? それとも動物を可愛いと思うような、ペットに向ける好き?」


 太陽の下で輝く只埜の笑顔を思い出す。

 熟れた酸味の少し強いオレンジが弾けるような、素敵で、綺麗な、女の子の魔法。

 ハルに出会う前の僕だったらきっと心まで奪われていた。好きだった女の子のことも忘れて。

 

 でも、今はハルがいる。


 この感情は何? 触れ合わなかったキスの甘さは本物?

 誰も答えてくれない。教えてくれない。自分の中に答えはない。


『……トオルは私が白鳥の体じゃ……いや? 言葉がないのは、いや? 私のことを好きな自分自身は嫌い?』


「…………」


『ねぇ、トオル。どうしたいか……教えて?』


 ハルと話をしたい。ハルことを知りたい。ハルとキスしたい。

 欲望は、嵐を迎える海のように荒らぶって、制御できなくなる。

 

 ドンッ――握った拳が鈍くガラスを叩く。


「ハルに……触れたい……」


『…………』


「もっと……もっとハルと――」


『ありがとう』


 心の距離がゼロになって、二人を隔てるガラスは消えた。

 ハルの唇が僕の唇を啄む。舌が絡み合う愛は熱かった。

 ハルの唇が惜しむように僕の唇から離れて、首筋をなぞって、肩に頭を乗せた。

 恋に落ちて世界は赤く染まった。



「えっ――」


 首から血があふれ出した。ハルが僕の首の血管をかみちぎったと気づくまで、永遠にも似た時間がかかった。


「ねぇ、知ってる?」

 

 その声は僕がよく知っている声で――


「死体はね、26個じゃないんだよ。まだ見つかっていない――二十七にな


 血が、止まらなくて――


「ひとりぼっちは寂しいでしょ?」


「…………」


「だからね、死んだ後も付き合ってくれる人を探してたんだ」


 首から空気いのちがこぼれる音がする。


「私のことを好きだった人なら、私に殺されて、一緒にいることは幸せだよね?」


 意識が途切れた。


×   ×   ×   ×   ×


 バラバラにされた女子高生の死体。

 ガラスの容器に入れられた頭部は今も井之頭公園のどこかに。


 そして誰も知らない。


 事件が起きたあの日、動物園の白鳥が首を切り落とされて死んでいたことなんて。

                              <了> 

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