第二部

一章 新たに生きる前に

第29話 今はその奇跡に溺れて

 見慣れた天井があった。嗅ぎ慣れた臭いがした。落ち着く雰囲気が漂っていた。間違いない、なんて、強い言葉を使うまでもなく、探偵のような推理を張り巡らせる必要もなく、ここが、僕の家だって、すぐに分かった。


「・・・」

僕は何も考えることなく、目が覚めたら体を起こすという本能的なものに従い、目線を天井から壁に変える。右手で頭を抱えた、これも特に理由があったわけではないが、この目覚めが、毎日の朝の習慣的なものではないということは、すぐに分かった。


「・・・一体何が・・・」

声が漏れた。何だか、頭の中がぐるぐる回っている。要領が上手く掴めない。

「お」

びくっ、と、体が反射的に動く。声がした、僕ではない、高い声が。女性の声が。気配はあったろうに、まったく気がつかなかった。

「目覚めたか?ったく、心配させんじゃねぇよ、ばーか」

知っていた。

その口調、少し口が悪い、喋り方を、僕は知っていた。


「か、かえ・・・」

たった三文字の、そして何度も呼んできた名前であるにも関わらず、僕は生まれたての赤子のように、呂律が回らず、言葉が出てこない。

「んだよ。鳩が豆鉄砲喰らったような顔しやがって」

よく聞く例えではあるけれど、実際僕はそれがどんな顔なのか断定できないが、とにかく、今この場面の僕の顔の描写には、きっとこの上なく適したフレーズだろう。

「心配したぜ?何せ急にぶっ倒れやがったん━」

「楓っ!!」

僕はたん、と床を蹴り、崖を飛び越えるような勢いで、がばっと半ば楓を押し倒そうと思ったくらいに強く抱きしめた。


「は、はぁぁぁぁあああああ!?」

楓はまるで空から槍が降ってきたみたいに、金輪際有り得ないだろうといった声をあげる。ちょ、ばか、おまっ、何を・・・。今度は楓の口調があやふやになった。腕の中で子犬みたいにじたばた暴れているのが分かる。それでも僕は、回している腕の力を緩めるつもりは毛頭なかった。

「い、いたいいたいいたい・・・」

「楓・・・っ」

「いたい、ってぇ・・・」

「楓・・・っ!」

「いってんだろうがぁ!!」


 楓は縛られた縄を力づくで解こうとするみたいに、僕の拘束を外す。その勢いで僕は背中から倒れ、思いっきり床に尻餅をついた。痛い、それでも、その痛みさえ、今はたまらなく嬉しかった。

「はっ、はっ、はっ・・・」

てめぇ、何考えてんだっ!楓は僕を周りにも聞こえるくらいに思いっきり怒鳴った。声だけ聞けば怒髪天をつくくらいに怒っていると錯覚されるかもしれないが、その場に相対している僕には、楓の怒鳴り声は怒りだけで構成されていないことはすぐに分かった。

「きゅ、急に・・・、びっくり、しただろ・・・」

顔が真っ赤になっている。かぁ~、といった音が聞こえてきそうだ。今更だが、女の子に急に抱きつくという、ガキ大将が厭わずスカートをめくるぐらいのある種暴挙に出た僕を、単純につっぱねて失望するのではなく、照れてくれているという現実に、僕はほっと安心した。


「悪い、嫌だったよな・・・」

・・・冷静に考えると、何故僕は抱きつくなんてことを・・・?

「べ、別に・・・嫌じゃ・・・」

え、何て?楓がもごもご言っているので、僕は反射的に聞き返してしまったが、どうやらそれは間違った選択肢だったらしく、うるせっ、と僕はまた大きな声でなじられた。

「と、とにかく、突然キャラじゃねぇことしてくんな!」

キャラじゃない。確かにそうだ。思い返してみても、僕は例えそれが旧知の間柄だとしても、手を繋いだり、ましてや抱きつくなんて、良く言えばプレイボーイ、悪く言えば節度がない性格ではなかったはずだ。


 ふー。楓は一先ず深呼吸をして、心を落ち着かせる。まだ若干顔は赤いが、楓は床に座って、で、どうしたんだ、と聞いてきた。

「何で急にあんな真似・・・」

「えっと・・・」

僕は返答に困った。その答えを一番知りたいのは僕であり、どうして自分でも楓の顔を見た途端、抱擁したいほど心の底から嬉しいという感情が泉のように湧き上がってきたかは分かっていなかった。

「・・・おい、ウチをからかう為、だとか言ったらぶん殴るぞ・・・」

あ、いや・・・。僕は楓の圧の押されて、ついおどおどしてしまう。これでは本当にただからかい目的で女子の柔肌をまさぐりにいった最低な男だというレッテルを貼られてしまう。何故そうしたかの理由が把握できていなかったのは事実だが、上手くこの感情を表す言葉が見つからないまま、僕は正直に話すことにした。

「何か、お前と二度と会えなくなった気がして・・・」


 はぁ?楓はなんだそりゃ、と半笑いで言った。そんな夢でも見たのかよ、と聞かれた。夢・・・?楓の話では僕は突然倒れたらしい。その昏睡状態で見た夢だったのだろうか。例えば、楓が死んだ夢でも見たのだろうか。

「・・・」

いや、違う。学生時代の思い出のように、夢とは忘れるものではあるけれど、それでも僕には確信があった。楓に会えない、これは夢なんかではなく、もっと確定的なものだったと。その根拠を説明しろ、と言われたら、残念ながら、僕にその術はないけれど。


「・・・ふぅ」

楓はなかなか答えをはっきりさせない僕を見てため息をつく。だがこれは、自分に過がありいい渋っている政治家のような黙りではなく、本当に何も知らない、分からない、いうなれば記憶喪失者に対する、仕方がない、といった感じのため息だと、僕は直感的に察した。

「まぁいい。とにかく、お前が目を覚まして良かったぜ」

そうだ。まず、根本的なものを忘れていた。

「僕、倒れたんだよな・・・」

ああ、ほんっと急だったから驚いたぜ?楓は僕が倒れたときの状況を詳細に説明してくれた。まったく前兆はなかったらしい。見た目にも普段通りでまるで変わらない、健康優良児、っと、僕は児という齢でもないが、ともかく健全者がそこにはいたらしい。そんな人間が、本当に突然、死火山が噴火するくらい有り得ないほど突然、ぷつんと糸が切れたように倒れたらしい。

「正直狙撃とかも考えたんだぜ?馬鹿らしいと思うだろうが、そう考えたくなるほど急激だった」


 分からない。思い出せない。何故、僕は倒れたのだろうか。何故、僕は楓との出会いを、一生に一度の奇跡のように感じたのだろうか。他にも忘れていることが、まだある気がする。僕は問題の先送りというつもりは無かったが、ともかく疑問を棚上げして、今ぱっと思ったことを楓に言った。

「そういえば、よく僕をここに運べたな」

僕の体重、正確なものは最近測っていないが、50キロはくだらないだろう。

「ああ、それは・・・」

ウチじゃねぇよ。楓は言った。確かに楓の細腕では運べない、もしくは運ぶに苦労するだろうから。

「じゃあ誰が?」

今この部屋には、僕と楓しかいない。

「今、買出しに言っててな、そろそろ帰ってくると思うが」

まぁ、別に、そいつにはサプライズ感もねぇがな、と、楓は付け加えたが、ちょうど良く玄関の扉が開いて、楓が言う僕は運んでくれた人間が僕の前に現れたとき、僕は全身に駆け巡る驚きを抑えることはできなかった━。


「・・・健二・・・!」

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