第14話 逃げたくて、判らなくて

「・・・」

お互い、すぐには声は出なかった。病室の前、いつよりもあたりが暗いと感じさせる廊下に、僕と楓は立っていた。

「・・・さっきまで」

楓が口を開く。放心状態になっていた僕の心に、すーっと彼女の声が入ってきた。

「さっきまで、生きてたんだ。あいつ、最後の力、振り絞って・・・っ」

何か言いたげな楓だったが、自分で“最後”なんて言ったものだから、涙が溢れ声を詰まらせる。いつも強気で男勝りな楓の涙は、余計に僕に悲しみを与えた。

「振り絞って、言ったんだよ・・・っ。あいつに、琴音に、一言、伝えてくれって・・・」

「・・・!」

僕は目を見開き、そして茫然とする。思い出した。本来、忘れることすら許されないことではあるけれど、ほんの一瞬ですら、忘れてはいけないことだけれど、琴音が死んだという事実を、二人とも、もうこの世にはいないという絶望な現実を、僕は思い出した。

「・・・なんで、なんでだよ・・・っ」

楓がまた泣き崩れる。そんな姿を見て、僕は居たたまれなくなる。こんなことを言ったら情けなくて、いや、情けないを通り越して最低かもしれないけれど、僕はもう、この空間にいたくなかった。

「・・・ちょっと、トイレに行ってくる」


 楓からしてみれば、急に僕が目の前から消えたことになったかもしれない。聞こえるか聞こえないかで囁いた僕の呟きは、聞こえていなかったかもしれないから。僕は逃げた。本当は、琴音のことも楓には伝えるべきだっただろう。親しい人間の死が重なる。これがどれほど辛いことか、僕はまじまじと味わった。だから、楓にまでそんな重みを与えたくなかった。こんな風に言えば少しは弁明の余地があるかもしれないけれど、単純に、僕は逃げたかった。


 どこへ行こうか。まだ雨は降っている。涙みたいだ。僕は特に考えぬまま、また雨の中、濡れながら進む。もう濡れていて、そして汚れている。今更、何も気にならない。

「・・・おい」

そんな折だった。僕は雨の中、気のせいかもしれない声を感じて、後ろを振り返る。すると、そこには楓が、怒っているのか悲しんでいるのか、どちらか分からない微妙な顔で佇んでいた。

「・・・トイレなら中だろうが」

「・・・」

聞こえていたのか。そんな思いは一瞬で消えた。楓の声を聞いて分かった。怒ってる。

「どこにいくつもりだ」

「・・・」

僕は黙る。何だか、よく分からなくなってきた。僕が次に何をするべきなのか。

「戻れよ」

「・・・どうするんだよ、戻って」

だから、今から言う僕の台詞も、どういう意図があって言うのか、良く分からない。

「・・・もう死んだ奴のところに戻って、どうするんだよ」


 反射、だったのだろう。僕が何を言ってもそうするつもりだった、なんてことは考えにくい。きっと楓は、思わず行動に走った。

「・・・って・・・」

僕は土砂降りの雨の中、尻餅をつき地面に倒れる。

「・・・もう一回言ってみろよ・・・。おい!もう一回言ってみろ!!」

僕を殴り、僕を見下げる楓は、今までに無い大きな声で怒鳴った。

「・・・何でも言ってやるさ・・・。健二はもう死んだ。僕たちがどうこうできるものじゃない。無駄なことはもういいだろ」

「てめぇ・・・」

楓は僕の胸倉を掴んだ。きっと、楓も初めての経験だと思う。

「だからって、逃げるのかよ!?健二の死から目を逸らして、自分だけ逃げるのかよ!?」

「・・・悪いか?」

「・・・!」

楓はもう一度僕を殴った。だが不思議だった。痛くない。楓は全力で殴って、僕の頬も赤く腫れているだろうに、それでも、痛くない。

「・・・んだよ、お前、そんな奴じゃねぇだろ・・・。千尋のときだって、最後までしっかりあいつの側にいてやったじゃねぇか・・・。千尋がお前にとって特別な存在でも、それが健二を放っておく理由にはならねぇだろ・・・」

ざーっと降る雨を見上げ、僕は仰向けになって背を地面につけながら、一言つぶやいた。

「・・・死んだんだよ」

「え・・・?」

「・・・琴音が、死んだんだ」


 いっそう雨の勢いが増した気がした。僕はゆっくりと体を起こし、両腕をぶらんとさせて放心状態になっている楓を眺める。悪いな。そう言って僕は楓に背を向けた。

「もう、僕は耐えられないんだ」

僕は楓の存在を無視し、その場を後にした。

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