第5話 門をくぐり旅立ちへと

 僕は、決めていたことが一つあった。門をくぐる前に、これだけはしておこうと決めていたことが一つだけ。だから、皆に会うつもりなんてなかったし、会わずに行くことが一番ふさわしいとも考えていた。でも、そんな僕の覚悟は、大人があざ笑う子供の決意のような安っぽさで、実際に会ってみると、やっぱり嬉しかった。話せて楽しかった。しかし、そんな嬉しさや、楽しさは、愛と憎悪が表裏一体のように、悲しみに繋がった。ああ、もう少し、あと少し、いっしょに過ごせていられたらと、そんな切なさが芽生えてきた。僕はポケットから煙草を取り出して、ライターで火をつける。煙の臭いと、肌にまとわりつく感触が、僕の心を落ち着かせた。


 道中。僕が門へ向かう道中に、僕が決めていたことはある。一人だけ、会いに行こうとしていた人がいる。そういえば、彼女は煙草が嫌いだった。僕は吸った後で思い出す。まったく、礼儀がなっていないと、自分で呆れて、僕は煙草を吸うのを止めた。そして、暗闇の中の、小奇麗な建物についた。窓がなく、入口と出口がいっしょの、閉鎖的な建物についた。僕はその建物の、両手を使わないと開かない大きな扉を開けて、中に入った。つかつかと、一番奥の部屋に向かって、僕は歩いた。

「よぉ」

その部屋は、中からは開かない。外からしか開けられない、顔が出せるような小さな窓がついている扉越しに僕は話しかけた。


「まったく、どの面さげてここに来たんだか」

そう言いながら、彼女は僕の顔を確認しようともせずに、声だけで誰が来たかを把握したようだった。

「よくもまぁ、ウチの前に顔出せたもんだ」

彼女は、楓は、僕に嫌気がさすような言葉を吐いたが、その口調は存外落ち着いていた。

「・・・ん」

楓は何かに気づいたような声を出した。

「・・・煙草くさい。まだ吸ってんだ」

犬並みの嗅覚、実際は比較にならないが、ともかく鋭い感性で、彼女は苦言を呈した。やっぱり吸わなきゃ良かったと、今更になって後悔する。

「・・・座んなよ。折角来て門前払いっていうのも、何かヤだし」

僕は扉に背中をつけて座った。ドラマのワンシーンみたいだな、と楓は言った。壁を隔てて男女が背中越しというのは、確かにそうかもしれないが、見えていないのに的確にその場を描写する楓に、僕は少し可笑しくなった。


「ここに来たってことは、もう行くってことなんだろ?」

「ああ」

僕は答えた。

「他のみんなには会ったのか?」

「全員じゃないが」

「そ」

ウチだけに会いに来たわけじゃないんだ。楓は少しすねながら言った。向こうから会いに来た、って説明しようとも思ったが、結局会ったという事実は変わらないので、うだうだした釈明はせず、悪い、と一言言った。

「・・・渚にも、か?」

楓は思うところがあるかのように訊いた。僕がそうだと答えると、なんて言ってた、と加えてきた。

「僕は悪くない、そうだ」

「は」

その答えに、楓は鼻で笑った。

「お前は悪いだろ」

「ああ、僕もそう思う」

予想通り、楓は僕を悪いと言った。でも、楓が変わっていなかったから安心した。

「ったく、渚も人が・・・っと、もう人じゃねぇか。性格がいいな。ウチはあいつみたいに大人にはなれねぇよ」

楓は続けた。

「お前のせいで、渚は猫、ウチは死刑囚になっちまった。まったく、何が起こるかわからねぇや、人生って」

「・・・すまなかったな、本当に」

「は」

僕の謝罪も、楓は軽くあしらった。

「謝るだけで問題が全部解決すんなら、ホント楽だよな」

そうだ。詰まるところ、言葉ではなく、行動で示さなければ、何も進展しない。これは楓からの忠告のように思えた。

「ああ、分かってる」

僕は強く頷いた。


 本当なんだろうな。楓は尋ねた。本当に、渚は人間に戻れて、自分は自由になれるんだろうな。そう質問されると思っていた僕は、ああ、と答えようとした。

「本当に、お前が帰ってくる可能性は、ほんの少しでもあるんだな?」

「・・・!」

ところが、僕の予想はあさっての方向へと空をきり、楓は自分のことなど触れず、僕について聞いていた。

「これはウチの勘だけど、お前、ハナから帰ってくる気なんて、ねぇんじゃねぇのか」

僕がした説明はこうだった。僕はもう、ほぼ帰って来れない。楓は逆説的に、ほんの少しはまだ希望があると捉え、それを今ここで確認してきた。

「・・・あるさ」

僕は少し間を開けて言った。

「・・・そうか」

楓も返事には少し時間がかかった。

「・・・ま、いいや。もし、お前が帰って来れなかったら、ウチは先に待ってるから」

楓は優しく言った。

「心配すんな。お前は一人じゃねぇ、少なくとも、それだけは確かだ」

「・・・」

返事ができなかった。扉越しで良かったと、顔を見られないで良かったと思った。僕は体を少し震わせていた。


「・・・行ってくる」

そろそろ時間だ。僕は立ち上がった。

「・・・ああ、行ってこい」

楓の言葉が、重く鋭く、僕の心に突き刺さった。


 僕は楓のもとを後にして、後少しで着く目的地に向かう中途、物思いにふけっていた。短いようで、長いようで、やっぱり短かったこの世界に、僕は別れを告げよう。とてつもない大惨事の原因が、ほんの小さな小さな食い違いの集積のように、始まりは些細なことだった。ほんの一秒先の未来でさえ、誰にも予想できないように、僕はあの時、その瞬間しか見えていなかった。今、いくら後悔したところで、どうにも、どうしようも、ならない。


 僕は歩いてきた足を止め、門の前で立ち止まる。ここをくぐればもう、後戻りはできない。そもそも、する気も、する資格も、僕にはないけれど。僕は右手をその門に添え、軽く押した。ぎぃと、何メートルもあるその門は、ゆっくりと開いた。目の前には闇が広がり、火山の火口のように、来る者を拒む様子を見せていたけれど、僕はためらいも無く、足を踏み入れた。


 行こう。この世界に訪れる、終焉を防ぎに。

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