第4話 ほんの一瞬のこと

 僕が家へと戻って来たのは、真紀の料理を食べるためではなく、ある物を取るためだった。真紀が作ってくれた肉じゃがを食べ、空いた食器を水で洗った後、僕は戸棚の引き出しを開き、中から小さなお守りを取り出す。恋愛成就とか、学業祈願とか、そういった神社で買えるタイプのものではなく、昔からずっと持っている、手作りのものだ。僕はそれをポケットにしまい、玄関で靴を履いて、家の電気を消し、外へ出た。


 公園とは逆方向の道を、一人静寂の中歩いていた。等間隔に並べられている街頭の光を感じながら進む。その街頭を何本か過ぎた時、僕は足を止めた。

「渚」

「よっ」

彼女は気さくに声を出し、少し歩かない?と聞いてきた。

「こんな夜遅くに、待っていたのか?」

「アタシは夜行性だからね」

僕は渚の歩幅に合せ、ゆっくりとしたペースで歩いた。

「いよいよ、か。早かったね」

渚は大晦日に今年一年を振り返るようにしみじみと言った。そうだな、と僕は渚の姿を見ながら言う。

「アタシの姿も、だいぶ見慣れたでしょ」

「・・・」

僕は思わず押し黙った。渚は自分の体を、僕のせいですっかり変わってしまった自分の体を、敢えて苦難を楽しむかのように、笑って受け入れているかのように見えた。

「・・・悪かった」

そんな彼女を見て、僕は謝るしかなかった。

「謝りなさんなよ」

渚は、耳をぴろぴろと動かしながら言った。

「意外と悪いことばっかりじゃないよ?この体も。それに、アンタも男だ。アタシの一糸纏わぬ姿を見て、興奮しているんじゃないの?」

渚は、僕に気を遣ってか、普段は言わない、らしくないことを言ってきた。

「ふん、僕はそんなにマニアじゃない」

「だね」

渚はやはり少し恥ずかしかったのか、それ以上は何も言わなかった。


 しばらくして、渚が口を開いた。

「どう?勝算は」

僕は、さぁ、とどっちつかずな返事をした。でも、渚は、ならいい、と、数学のような完全な答えを求めなかった。

「ある、って言われたら、それはそれで不安になる。過剰な自信は油断を産むし。かといって、無いってんなら話にならない。やっぱり、少しくらいは保障がないとさ」

きっと、渚は僕が何と言おうと、僕のフォローを言うつもりだったんだろう。そういった、さりげない優しさを垣間見せながら、渚は続けた。

「心配しないで。アタシたちの想いは、アンタに託すから」


 渚といっしょに歩いて、話して、もう少しこのままいっしょにいたいと感じた僕は、好きなのにその想いを伝えられない少女が、何かあっという間だったなと、男子との帰路の終焉を惜しむように、渚がぴたっと足を止めたことに、残念ながら気づいた。

「ここまで、かな」

その想いは、どうやら渚もいっしょのようだと、声の口調から分かった。

「これ以上いたら、アタシ、多分耐えられないし」

渚は僕の顔を、切なく、子が巣立つ親のように見た。

「あのさ」

最後に、抱っこしてもらっていい?と、渚は言った。僕は何も言わず、四足で歩く小さな渚の体を持ち上げ、腕の中に納めた。暖かかった。春の日差しのように、安らかだった。

「こうしてもらうとね、落ち着くんだ」

渚は意図的か無意識か、喉をぐるぐると鳴らしながら、気持ちよさそうに目を閉じた。僕も、とても安心して、落ち着いた気持ちになる。

「・・・大丈夫」

渚は、脈略もなく言った。

「アタシのこの体も、千尋の件も、楓の状況も、あなたのせいじゃないから」

「・・・優しいな、相変わらず」

僕はいつも、渚の優しさに救われている。

「ま、楓は僕のせいだって言うよ、絶対」

はは、確かにね、渚は笑って言った。そう、楓だけじゃない。全部、僕のせいだ。


 渚は満足したのか、僕の腕からぴょんと飛び出し、体操選手のように綺麗に着地を決めた。

「ありがと。最後に会えて、嬉しかった」

「僕もだ」

「じゃあね」

渚は振り向かなかった。僕が向かう方向とは逆に、つまり、今歩いてきた道を遡って行った。僕も、そのまま振り向かずに進もうと思ったが、最後にもう一回だけ、と、人間が誰しも持つしつこさに身を預け、後ろを向く。

「あ」

そして、僕は小さな小さな声を出し、また、今までの道を進む。最後、渚の姿が、ほんの一瞬だけ、彼女がまだ人間だったころのものに映った気がした。

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