-14- 街の守護者を八つ裂きにせよ!

 


 ローツ霊峰は標高四千メートルを超える険しい山である。


 登山道が確保されておらず、山小屋などの助けもない。急峻きゅうしゅんな山道は登山者の試練となる。


 ろくな装備なしで挑む一行は、無謀な崖昇りも強行した。


 森林限界を越え、岩と砂利だらけの高山エリアまで進むと、疲労困憊したミスリルは顔面からどさりと倒れた。


 元々、それほど鍛えていない女の足には厳しい行程だ。


 メイド服が土まみれになるのもいとわず、虚ろな目をして身動きひとつしなくなる。


 全身疲労は限界に達し、精神がやられたのだ。


「チッ、一人死んだか。先を急ぐぞルルシー」

「お坊ちゃま」


「ルルシーィッ! 俺たちは死んだ奴に構ってる時間なんかねーんだっ! いいか、戦場では過去を振り返った奴からくたばることになる……気の毒だが、そいつは適正がなかった。ソルジャーになれなかったんだ。早く忘れろ」


「お坊ちゃま、ミスリルさんは我々の仲間です。せめて遺体を埋葬しましょう」


「うぅ、死んでません……」


 小芝居が終わると、へばきったミスリルのために休憩を取ることとなった。


 ルルシーが敷物をぱっぱと広げて冷茶の準備をし始めた。


 彼女に疲労の色はなく、少なくとも表面上は取り澄ましたままだ。


 辺り一面に背の高い木はなくなり、低木や茂みばかりがまばらに生えている岩だらけの荒涼とした土地に変化している。


 ひゅううと突風が吹く。

 衣服がはためきスカートの裾が波打って上向く、ちらりとルルシーの股下があらわになったのでアクネロはわざとらしく上体を傾けた。


 黒絹の下着を穿いたルルシーは紅茶をたしなみつつ、好色な視線を露ほども気にしていなかったので、アクネロは眉間にしわを寄せ、つまらなそうにかくんっと首を曲げた。


 季節は初夏を迎えているが、山上の空気は冷たく乾燥している。

 茶を飲む音がやけに静かに響いた。


「かの者は随分と派手な日常生活を送っているようですね」


「そうだな。クラーレの野郎、ついに頭がイカレちまってるようだ」


「えっ……なんですか?」


 不穏な会話を聞き逃せず、靴を脱いで仰向けに寝そべりつつ、額を濡らしたタオルで冷やしているミスリルが疑問を投げかけた。


「……生き物の姿がない。足跡も声もねえ。クラーレは肉食だが、野鹿や大熊といった大型動物しか狙わない。そうじゃないと腹が満たされないからな。本来ならウサギや鳥は狙わないはずなのに、ここら一帯の動物を全滅させてる。火炎をまき散らしたどす黒い痕跡もあるし、かなりヒステリックになってるようだ」


「うえっ……」


 炭化した樹木の残骸と、焼け焦げた地面がアクネロの指した親指の先にあった。


 犯人の巨大な足跡も残されていた。

 岩石の硬い地面が陥没している。並々ならぬ重量の生き物がいた証だ。


「滅ぼしたのはネズミだけではないということでしょう。守護者のドラゴンの名が泣きますね」


 ルルシーが焦げた花弁を摘まみ、ふっと息を吹きかけるとパラパラの黒い砂塵となった。自らの棲み家を荒し回るほど、気が立っているのは間違いない。


 休憩が終わり、一同は再び出発した。


 歩けるような状態ではなかったミスリルは立ち上がると同時によろついたため、アクネロが背負うことにした。


 重荷となる旅の荷物を岩陰に隠すことで身軽になったこともある。


「すいません……というか、ドラゴンと戦うなら是非とも置いていって欲しいのですが」


「心配するな。お前もきっちり死の淵へ招待してやる」


「降ろしてください! お願いします!」


 背中を押して突っ張り、イヤイヤしながら逃れようと健闘したががっちりと両脚を脇に挟まれているので離れられない。


 挙句の果てはどうどう、と馬扱いで揺すられる。

 

「まあまあ、落ち着けや。考えてみろ。ドラゴンの肉って食ってみたくねーか? サラマンダーの肉があんなにうまかったんだ。上位種の肉だぞ。極上の味がするに決まってる。お前ら貧民が逆立ちしたって食えないし、王侯貴族だってほとんど食ったことがないはずだ。特別にどんな部位でもお前に選ばせて食わせてやる」


「えっ……うぅうん、と……おいしいんですかね?」


「保護動物を食えるんだ。二度とない経験だぞ。きっと甘美な味がする」


 そそのかされたミスリルは食いしん坊ということもあり、脂肪たっぷりのサーロインステーキを想像し、ごくりと唾を飲んだ。


 疲労しきっているところでの美味な誘い。


 完全に懐柔されて夢見心地のとろけた顔つきになり、ちた。


「ミスリルさん。あの辺りまで行ったら次は私の番です」

「あ、はい」


 樹木がなくなり、道幅は広くなっている。

 横並びで歩いていたルルシーが百メートル先の尖った岩を指差すと、一時的に正気に戻ったミスリルはこくりと頷く。


「おい、待て。いつの間に順番制になったんだ。俺が好きで荷運びロバになってると思ってんのか? 仕方なくやってんだぞ」


「お坊ちゃま、そんな苦しい言い訳はいりません。さもないとミスリルさんのふとももを撫で回したくておんぶしてるとバラしますよ」


「それって既にバラしてんじゃねーの?」


「うわっ、降ろしてください!」


 雑談をしながら、道なき道を進む一行。


 ところかしこに岩盤がせり出しているので高低差が酷く、回り道をすることもある。その上、山肌を滑るように打ち下ろしの強風が吹いてくる。


 火口から香ってきた硫黄の臭気がぷんと鼻孔を突き刺す。

 目的地となる巣までほど近い。


 地表からは下草が消え、褐色の地肌を晒し始めた。


 流出した溶岩によって死滅した大地にほぼ生命の影はない。

 ところどころ苔むしているのは、雨水が貯まりやすいくぼみだけだ。


 巣のある洞穴まで近くまで来ると<都市指定特別警戒区域>の錆びた標識と出くわした。


「ご主人様、そろそろ本当に降ろしてください」

「ああ」


 静かな怒りの波動が感じられる声。

 とはいえ、引け目もあったのか強気でもない。


「もう……」

「さぁってと、行くか」


 洞穴の道は曲がっていたが、短距離なのか向こう側からの光が届いていた。


 細道を抜け、辿り着いた先は火口だった。

 だが、地表には煮えたマグマの姿はカケラもない。分厚い岩盤で蓋をされているように思える。


 辺りは円状のフロアとなり、壁は反り返った岩壁となっている。


 あるのは竜のねぐらという性質のせいか。

 奥には竜の所有物と思われる藁の寝床があり、あろうことか、その上の岩棚は収納棚のように扱われていた。


 中身は服飾品がほとんど。人里から巻き上げたものものか。一種の大規模な衣服棚の様相となっていた。

 ミスリルはそれに気付くと、黄色い声を上げた。


「うわっ、あれって全部、高級服ですよ。しかも、有名な仕立て屋さんのブランド品ばかりです。装飾品付きのパーティドレスにモーニング! ああ、あんなに可愛らしい靴まである! どれも広告でしか見たことなくて、いつか買ってやろうと思っていたものばかり……宝の山ですぅ!」


 額に水平にした手を当て、ミスリルはぴょんぴょんとはしゃいだ。


 衣服ばかりでなく、貴金属の装身具も多数あるようで、用意された銅像やマネキンに飾り付けられている。


「俗物的だな。ゴミの山だろ」


「お坊ちゃま。身に着けるものにお金がかかっていれば、庶民は虚栄心を満たすことができるのです」


「ふーん。俺のダンディズムからすると、完全にノンな感性だな」


「そこぉっ! 私の夢を壊さないでください! ええと、ご主人様、あれ拾って帰りましょう! いいですよね! いいですよね!?」


 宝物に目がくらんだミスリルは勢い込んで念を押してきたが、アクネロは斜め上を向きながら応えた。


「俺は別にいいけど、あいつがなんて言うか」


 ばさりっと岩崖だった灰色のものが羽ばたいた。

 何かが岩肌の縁にしがみついている。

 周囲の岩石と同化していたその生物の体表は徐々に色づき、黒さが増して漆黒になっていく。


 すべての線が浮かび上がると、姿は劇的に鮮明になった。


 体長にして――三十メートルは越える黒竜。


 ぐぅーっと前脚に力を入れ、一行の目の前に降り立った。


 足もとが揺れ動き、重苦しい地響きが空気を揺らした。


 長い首を回し、巨大な上体を揺らして来訪者を睥睨する。

 凶暴な顔には刃傷痕が走っていた。


「ひっ」


 幻想種として、最高峰の威圧感にミスリルは歯の根を鳴らした。


 竜麟で覆われた巨躯は野生の美しさを感じさせる。腹部の下膨れは目立つが、その敏捷さを損なっているようでもない。


 熱を帯びた蒸気が尖った口先から放たれ、青白い炎となる。


 しかしその自声が発せられると、まとっていた一種の神秘的な雰囲気はかき消えた。


「あらぁん、貢物じゃないのかしら……ってちっちゃい方のファンバードちゃんじゃない? お久しぶりねぇん」


 鼻につく流暢な人語に、アクネロは額に血管を浮かべた。


 普通にしゃべっているにせよ、巨体のせいか発声量も大きい。

 ビリビリとした音波となって、三人に伸し掛かる。


「しばらく見ないうちに……てめえはおかしくなったようだな」


「もうっ、ご挨拶ね。それでぇー、なんの用なのよぉん」


「お前がグリーンネズミを殺しまくったせいで、俺が買い付けにきたサラマンダー肉が思いっきり希少になっちまったし、近場の動物を殺しまくったのにも苛ついてる。なおかつアイグーンの人間にも貢物を要求してるって聞いて、様子を見に来た。何か弁明はあるか?」


 強風となる鼻息をぶほぉと飛ばし、もったいぶってクラーレは首を低くした。

 顎先をアクネロに近づける。

 

「ネズミは不潔だもん。抹殺してとーぜんよぉ。縄張りの生き物にしても、ここら一帯はあたしの土地なわけだし、何しようが勝手。貢物は今までの人間への貸しを回収してるだけよぉ。いわば今までしてこなかった自分へのご褒美よ」


「あぁん? わけがわかんないこと言ってんじゃねえぞ。大体、なんで人間の女の服やアクセサリなんて欲しがってんだよ。そのカマ言葉もいちいち腹立つだが」


 ふいっと、クラーレは顔を逸らした。


「深いわけがあるのよ……そう、あたしは女子力を上げる必要があったの」


「あ?」


「ほらぁ、あたしって結構、歳じゃない? 勿論そう見えないだろうけど、もう六千歳なのよ。でも、他のドラゴンよりも全然若く見えるし、顔だって童顔よ。もちろん、いつでも二千歳くらいのつもりだけどね。けど、やっぱり鱗が曲がり角になってきちゃったし、アンチエイジングする必要が出てきたのよ」


 ――やべえ、すげえどうでもいい話だ。


 退屈さへの恐怖で息呑んだアクネロの心は急速に萎えていったが、クラーレは実践している美容法について聞いてもいないのに一方的に語り出した。時折、脱線しながらも続く気だるい長話だ。


「でね、でね、あたしは野牛じゃなくて、オリーブと生魚を食べることにしたの。遠征しなきゃいけなかったけど、脂肪分の摂り過ぎってやっぱり怖いじゃない? まず、健康が美しさを作るのよ。それで――」


 古来よりも美はすべての女性の夢だ。


 より美しく、できるなら永久に美しく在りたいと願う気持ちは古きも新しきも変わらない。


 五分ほど辛抱して耳を傾けていたアクネロはいい加減にげんなりし、話題が途切れた隙を狙って、言葉の槍を突き刺した。


「てゆーか、お前オスだろ」


「ふぁっ!? な、な、な、何言ってんのよぉー! あっ、あっ、ああああたしがオスなわけないじゃない! やーねー! し、失礼しちゃうわぁ、もぉおおおんっ!」


 動揺のあまりぶんぶんと巨頭を振り、翼をばさばさと上下させる。


 指摘されたくないところを突かれた様子が、ありありとしていた。


「でも、タマついてるじゃねえか。お前は絶対に女子にはなれねえから、諦めて死ね」


 股間部の睾丸は下腹に内包されているのか、外界には露出しておらず、薄暗くて誰にも確認できなかったが、クラーレは口汚い罵倒の衝撃でよろよろと後ずさりした。


 こんな無礼なことを言う奴がこの世にいるのが信じられない、という表情を浮かべたあと、段々と目つきが鋭角なものとなり、不規則に牙をがちがちと鳴らし、獰猛な形相へと変化した。


「なっ! なっ! ゆ、ゆゆ……ゆっ、許せねえ! てめえぇ、こんのクソガキの分際で、あたしをオスだなんて言う野郎は絶対に許さないわあぁっ! アンタは今まさに、あたしの逆鱗に触れてしまったのよぉおおおおおおおおおおおおお!」


 たたんでいた両翼を大きく広げたクラーレは咆哮ほうこうした。


 音波と羽ばたきの風圧は、今までとは段違いの旋風を巻き起こす。


 戦いの剣呑な気配を察してメイド二人はそそくさと洞穴の奥へと消え、残されたアクネロだけが迎え入れるように両手を広げた。


「おっ、やるか? あ? 腐れ野郎の分際で、俺と遊ぼうってか?」


「てめえみたいなぁあああああああ! ちっちぇシャバい小僧があたしと戦えると思ってんのぉおおおおお? 今すぐ土下座して地べたに頭を擦りつけなさぁいいいいいいいいいいい!」


「嫌だね。てめえはしょせん、空飛ぶトカゲだ。なんで人間様が爬虫類に意見されなきゃならねーんだよ。目障りだし、俺がてめえの伝説にピリオドを打ってやるよ」


 ――我が七番目の従属たる駿馬の紋章剣よ。


 詠唱によって頭上に魔剣が顕現する。


 刀身が砕け、無数のピースに分解されされていく。


 アクネロは後方へステップし、羽虫の群れと化した魔剣に向けて宙返すると、両脚には銀色が輝く『アレキウスの具足剣』が装着されていた。


 体重を限りなくゼロに近づける特性を持つ高機動の装着型魔剣。


 天駆ける騎馬の像がカカトに彫り込まれている。


 開いた左手に丸めた右手をパチンッと叩きつけた。

 準備運動をするために肩をほぐし、首を鳴らす。

 口許に――残忍な笑いが貼りつかせた。


「お前の六千年、すべて無駄にしてやる」





 ∞ ∞ ∞




「ご主人様はどうして無駄に好戦的なのですか?」


「男性の方ですし、昔からやんちゃでしたから」


 壁に潜んでいる二人のメイドの視線の先では、アクネロがクラーレの体躯を足蹴にし、鼻面に蹴りを入れていた――カウンターの大炎吐息ファイアブレスが衣服をかすめ、強化スーツに焦げ目ができる。


 喧嘩を売ったものの、戦況は芳しくない。


 アクネロの愛剣である『アレキウスの具足剣』の蹴撃は、自重と装甲の重みがブレンドされた強力なものだが、ドラゴンの硬すぎる鱗と皮下筋肉によって有効打になっていない。


 まだクラーレが飛行しないため、地上戦となっている。

 アクネロはちょこまかと噛みつき攻撃やブレスを避け、クラーレの首もとや側頭部、横っ腹などの柔らかい部分を狙っているが、苦しい。


「やんちゃでは済まない行動してますけど……ルルシーさんは昔から、ご主人様と「ご一緒だったんですか?」


「ええ、私たちは幼馴染で姉弟のように育ちまして、ちなみに純だった頃のお坊ちゃまの初恋の相手もなんと私なのですよ。あれですっごく、はにかみ屋さんだったんですよ」


「まあ! 詳しいお話をお願いします」


「おぉいっ! てめえら今まさに俺がドラゴンと戦ってるところなのに世間話してんじゃねーぞ! ってぉおおおおおお!」


 長い首を伸ばしての噛みつき攻撃をかわしたものの、ドラゴンが反転した際、死角から襲ってきた尾撃をよけきなかった。

 まともに打撃を食らったアクネロは跳ね飛ばされ、壁へと吹っ飛ぶ。


 壁と衝突する寸前。

 身体を捻って岩盤に足先を向け、衝撃に耐えはしたが、壁にクレーターができた。全身を駆け巡る振動に膝が落ちて、痺れる痛みに歯を食い縛る。


 歯の隙間からあふれた血が飛び散った。


「うっ、ぐぐぐ……こ、殺す! この、クソ、ボケ、カスがぁっ!」


 戦闘中だ。立ちどまりはしない。アクネロは壁を蹴飛ばした。そのままダッダッダッと壁に沿って真横に駆けだす。


 弧円を描くように回り込む。


 急角度の壁走りは人外魔境の妙技であったが、クラーレに動揺はなかった。縦に割れた黄瞳でその姿を追い、自身もまた壁に爪を食いこませ、のそのそと岩壁に昇る。


 そうして、アクネロの正面に立ち塞がった。


 長細い喉がどくんと波打った。

 大炎吐息ファイアブレスの予備動作。


「我が五番目の従属たる羽虫の紋章剣よっ!」


 不利を悟って『卵鞘らんしょう魔剣ガリヴァー』を召喚すると、アクネロは吐き出された炎柱を地面に飛ぶことで回避した。


 渦を巻いた灼熱の熱波が、アクネロの頭髪の毛先を焦がした。弾けた水のように壁にぶつかり、岩肌を黒く染めていく。


 手に持った魔剣、その柄から先――半透明の刀身から小虫たちが羽化する。


「さぁ、食っちまえよっ!」


 生まれたばかりの異界の羽虫たちは、インプリティング効果によって親と定めた者の命令に従う。


 相手が巨体をしていようが、彼らにとっては巨大な肉でしかない。


 寄ってきた羽虫にクラーレはぎょっとした。驚いたせいで反応が遅れた。それでも大顎を動かし、小虫をブチブチと歯で噛み潰すそうとしたが、防ぎきれる量ではない。


 その尖った鼻面から喉まで、びっしりと黒い霧が覆い尽くす。


 派手で不愉快な羽音は、食欲を満たすことの歓喜の歌だった。


 羽虫の複眼が竜の皮膚と鱗を捉えている。

 数えきれない小さな顎が、極小の牙が突き立てる。

 ガリガリと残酷な捕食の音が響く。


 ――だが。


「なっ……」


 地面に着地しているアクネロは驚愕した。


 クラーレは顎を引いて笑ったからだ。

 余裕の表情で、首をかしげた。


「うぅん。ダメねぇん。ドクターフィッシュみたいに古い角質を食べてくれるかと思ったけど、やっぱりこういう下品なのはあたしに必要ないわ」


 群がった羽虫の黒霧に覆われたクラーレのまぶたが開かれ、にやりと細まった。

 嘲笑は何一つダメージを受けていないことを示している。


 クラーレの黒かった体色が急速に赤熱していく。


 ぶわっと蒸気が発生した。張りついていた羽虫たちは焼け爛れ、ボロボロと垢のごとく落ちていく。


 焼け焦げた虫たちは腹を見せて無残に転がった。


 老練した火竜は溶岩並に体温を操ることができる。

 そもそもが神秘の最高位たるモノなのだ。


「ジュニアちゃんの<怪奇ソード・オブ十剣・ストレンジ>はしょせんは古代の骨董品――いわくつきの代物ばかりじゃない。そんな縁起の悪くて古臭いゴミみたいな魔法武器マジックアイテムで、あたしの美肌を破壊できるはずないわぁ」


 嘲弄ちょうろうは冷静さを失わせる狙いがあったが、アクネロは俯きながら防刃ジャケットをばさりと脱ぎ捨てた。


 襟高のクレリックシャツだけとなる。

 首もとの飾り布を解き、開いた両手両指にごきりと鳴らした。


「上等だぜ。我が家の秘宝の真の力、見て驚くなよ」


 不穏な雰囲気を醸し出しながら、闘気を燃やす。


 ――我が二番目の従属たる歯刃の紋章剣よ。


 召喚の文言により、細身の剣が中空に出現した。


 それは赤く、骨っぽい質感を持っていたが、またも剣の形は崩れる。


 ぐねぐねと粘土のように蠢動し、アクネロの顔にへばりついていく。


「ふはっ……はははっ……」


 顔が持ち上がる。

 そのおぞましさにクラーレは瞠目して息を呑んだ。


 剣の形はなく、犬を模した仮面だった。


 笑い声を上げるアクネロは、大口を開いた。

 裂肉歯をむき出しにしてガチガチと噛み合わせる。


 仮面はおどろおどろしい狂犬の表情のまま、固定されている。


「我が魔剣『赤狼の原初剣レッド・フラット』に噛み砕けねえものはない。お前は俺のエサにしてやる」


 劇的に肉体性能が上昇したのが、誰の目にも明らかとなった。


 なぜならば、駆け出した速度が人間の動きとはまったく違っていた。


 煙のように姿はかき消え、対応できなかったクラーレの前脚をへばりつくと、頭を後ろにふりかぶって勢いよく噛みちぎった。


 血煙が舞った。鱗がバラバラに砕けて剥がれ落ち、鮮血が散っていく。


 大量の返り血を浴びながらも、アクネロは奪い取った肉の塊をぐちゃぐちゃと咀嚼する。


「うめえぇぇぇええええええ! いいぜ、ああっ、ドラゴンの肉もいいよなぁ!」


「気持ち悪いのよぉおっ!」


 クラーレは苦痛に耐えかね、前脚を激しく振った。


 もくろみ通りアクネロを弾き飛ばすと、すぐさま翼をはためかせて後方に飛び、その場から離れた。


 反撃も忘れたわけではない。滞空しながら火球を吐き出す。


 しかし。


 そこには誰もいなかった。


 クラーレは翼から不審な音が漏れ出しているのに気付いた。


 顔を向けるとアクネロは翼を噛みちぎっていた。いや、肉を噛み捨てているといったところか。

 部位を選ばず、次々に肉片をこそぎ、虫食い穴が広がっていく。


 人間とて、髪の毛サイズの針に刺されれば苦痛で飛び上がるものだ。

 鱗のない硬皮膜で覆われた両翼は神経が集まっており、激痛が電流のように竜の身体を駆け巡る。


 顎を大きく開け、苦しむクラーレは竜種として外敵に傷を受けた経験が乏しい。


 がくんっと身体が揺れ、飛行が危うくなるが、苦痛の種を取り払おうと瞳を燃えがらせた。


「アンタ……燃えなさいぃいいいいいい!」


 翼の一部の皮膚が赤く染まる。竜の肉体を灼熱に変える技だ。


 さすがにアクネロは危機を察知して飛び退いた。


 翼に打撃を与えたことで、クラーレは苦しみのあまり巨体を地面に落下させた。


 尖った裂肉歯はどの剣よりも鋭利だ。

 上昇した咬筋力を上乗せすることで、竜麟すら苦にしない力強さとなっている。


 体躯が地面へと激突した。

 大音量で地割れが巻き起こり、巣に大きくヒビが入って周囲の岩盤までも裂け目ができた。


 アクネロは優位を悟り、身体を前に倒しながら血色に染まる牙を自慢するように首を回し、ケダモノのように唸った。


「くっ……うぅ……や、やるじゃないの」


「まだまだ、始まったばかりだぜ。たっぷりと自分の身が食われていく恐怖を味わえよ。それはきっとお前が味わったことのない深い絶望となるだろうぜ。ヒャアッハッハッハーーーーーーーーッ!!」


 形勢は逆転している。


 すばしっこく、危険をものともしないアクネロは粘り強く立ち回った。


 防戦一方になり、体中を部分的に剥ぎ取られていくクラーレは無残な血だるまとなっていく。


 死の恐怖に塗り潰された嘆きの遠吠えが響き、飛行して逃げようとするものの片翼は傷み、宙に少し浮かぶ程度で終わり、飛びきれなくて尻もちをついた。


「無様だなぁ! トドメを刺してやるよ! んん……」


 動きが鈍ったクラーレは既に敵ではなくなった。


 その余裕からか、今まさに首筋にしがみつき、喉を食い破ろうとしたアクネロはふっとあることに気付いた。


 血まみれの身体の一部分だけが流血していないのだ。

 下腹だけが真っ黒のまま、血筋が垂れるものの裂傷の跡はない。


 そこだけを庇っている。


「お前、まさか」


 今までの不審な行動への謎解き――想像が加速した。

 まさか。馬鹿な。

 前提が間違っていたのか?

 全身が無駄のない筋肉に覆われているくせに膨らんだ下腹は何重にも庇護されている。

 無敵に等しいドラゴンの身体にある弱点。

 アクネロは呪いの言葉をぐっと堪え、泣きたくなるような気持ちで問うた。


「冗談だろ? 身ごもってんのか……?」



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