-12- 街の守護者を八つ裂きにせよ!


 交易都市にして、帝都に繋がる航路の中継港のある湾岸都市フォルクス。


 質素堅実な飾り気のない市長室で筆を執っていたセリスティアは、ソファーに腰かけるアクネロから聞かされた情報に驚き、唖然した顔で万年筆を指から離した。


 書類の上に墨汁が飛び散り、筆は机の下に落ちていく。


「えっ、あのリンネ殿下がいらっしゃるんですか……? ほんとに? 歴代でもっとも、お美しい王族とまでうたわれたお方が?」


「うっとうしければ、追い返してもいい」


 務めて、興味はなく、気だるそうに告げる。


 業務連絡というわけではないが、要人の訪問は伝えておかなければ警備に差しつかえる――それは表向きの理由であり、狙いは別にあるのだが。


「やめてください。絶対にそういうことはやめてください。わかりました。市をあげて歓迎の準備を――」


「しなくてもいいよ」


「します! 将来の皇帝陛下なのですよっ! ご無礼があってはなりませんし、御姿を拝見できるだけで、万民は拍手喝采なのですっ! まっこと雲の上にいらっしゃるお方……あの、私って会えるんですか? パーティーに出席したいのですが、というか、させてくれてください」


「会わせてもいいけど、コレが必要だ」


 期待感をふくらませ、夢見る乙女と化したセレスティアは押し黙った。

 アクネロに指の輪っかを見せられたせいだ。

 しかし、顔のかげりはすぐに去った。ひとつの決意を固め、深々と首肯しゅこうする。


「公金からいくらでも出します。私は王子様に会いたいです」


 ――まあ、そう言うと思ったよ。


 偶像化されたリンネ・サウードスタッドの魅力は世間に周知されている。


 王子様をダシにし、セリスティアから資金を出されるのは悪くない考えだった。


 仮にリンネが嫌いだとしても、堅物らしく体面を気にして、無視することはできないと踏んでいた。


 なんといっても、ファンバード家には金はないのだ。

 市に出させるしかない。


「なんだ。私費じゃねぇーのかよ」


「ファンバード様。市民の代表としてお会いするのです。公金を使うのは不自然ではありません」


「……そんな前置きを置く時点で不自然じゃねーか」


「ああ、私の麗しの王子様……散々、政敵を葬って若くして登りつめたかいがありました。あなたのセリスティアは清いままでございます」


 胸に手を当てて熱に浮かされたセレスティアは不穏なことを口走ったが、全身から多幸感を溢れさせていた。


 そのおかげで。


 コックの手配や高級食材、パーティーの設営機材や給仕などは市の補助費で賄われることになり、アクネロの絵図通りにコトは運んだ。


 金食い虫の貴族の晩餐会などで、私費を投じるほど馬鹿らしいことはない。


 気が変わらないうちに市長室から脱出し、アクネロは作戦の成功を喜びはしたが、浮かない顔でつぶやく。


「将来の皇帝陛下ね……あいつが継ぐときはもめると思うんだけどなぁ」


「あれあれーっ……もしかして、ご主人様は王子様の人気に嫉妬してるんですか?」


 ぼやきに反応したミスリルが、嬉しそうに追及した。


 傲慢不遜な貴族がより高位の者に嫉妬し、すねている構図が面白おかしくてたまらないといった具合だ。


「嫉妬なんかしてねーよ。どの角度で見ても俺の方がイケてるし、ハンサムだ。そうだろルルシー?」


「はい」


「おぉいッ! 顔を背けて言うんじゃねえーよっ! 今、確かに俺の繊細な心が傷ついたからなッ! ちっきっしょうっ! クッソ! クッソッ! こうなったら奴をぶっ殺して帝位簒奪してやっろかな!」


「まあまあ、お坊ちゃま、お友達に牙を剥いてはなりません。それにお坊ちゃまはこの世で唯一の私の愛しい君。心の底からお慕い申し上げます」


 地団駄じたんだを踏むアクネロの腕を取り、手の甲を両手で持ち上げて可憐な唇を押し付けるルルシー。


 それが、なだめるためであろうとも。


 一点の曇りなき琥珀色の瞳は真剣そのものだ。


 動揺しながら自らの碧眼で見つめ返し、アクネロはついぞ悲しげに首を振った。


「ルルシー……俺は大勢の女にちやほやされたいんだ。そうして慕ってくる女に報いてやるつもりは一切ないんだけど、とにかく手当り次第に面白半分で女心をもてあそびたい。すまない。お前の無償の愛だけじゃ物足りないんだ」


「お坊ちゃま、本気で殴ってもよろしいでしょうか?」


 わなわなと唇を震わせたルルシーからひょいと離れ、アクネロは石階段を滑り降りる。


 停車している幌付き馬車の御者台に飛び乗り、手綱を握った。


 幾分か機嫌を取り戻したのか、豪快に手を斜めに切って促す。


「よし、サラマンダーを食いに行くぞ。予定通り、我らの名産品を探しに行こうぜっ! ぐずぐずすんなよっ!」




 ∞ ∞ ∞



 フォルクスから馬車を走らせて約半日ほど。


 豊かな密林に囲まれた山岳都市アイグーンは、三万人の人口を有するファンバード地方の衛星都市のひとつである。


 主要な産業は繊維、木材、鉄鉱石、銅、化粧品、ワインなど。


 霊峰ローツの大山脈から流れる支流一つを生活用水とし、低い崖の上に都市を建設している。


 大陸の細道を辿る旅人や、他方からやってきた異民族が交わる土地となり、文化的な洗練さからは遠いが活気に溢れ、多様な民族衣装を身にまとった人々が生活している。


 市長ではなく、族長と呼ばれる者が自治をしているのだが、族長とは名ばかりの帝都から流れてきた都会人が市政を担っていた。


 元は狩猟で生計を立てていた部族の出身だったが、英才教育を受けて育てられたせいだと語った。


「領主様、心より歓迎致します。市の宿泊施設ならば、どちらでも自由にご使用ください。飲食に関しましても、こちらの私の名刺でツケにしてください。観光ガイドもお付けしましょう。住民の揉め事の多い血気盛んな風土ですので、どうか人通りの少ないところなどにお気をつけてくださいませ」


 物分りのよすぎる物腰の柔らかい族長は、柔和なほほえみでアクネロを歓迎した。


 実際はサラマンダーの肉を買い付けに来ただけではあるが、経費を浮かせるために公的な視察と言い張った。


 二階建ての市役所に唐突に訪問したアクネロに対して歓待の意を示し、腰を低くして名刺を差し出す。


 アクネロはつまらなそうに名刺を受け取り、後ろのルルシーにそのまま渡しつつ、話を続けた。


「ディタン族長だったか。ここはルーツバルト公国との折衝地点であり、要となる防衛地だ。警備はしっかりやってるんだろうな?」


「古き長城と勇敢な兵士たち、それに守護者のドラゴンが我々を護っています。と、お決まりの言葉を申し上げたいところなのですが、ドラゴンの方は少しばかり災いの種になっていますね」


「どういうことだ?」


「彼は国家指定の保護霊獣であり、人語を解する幻想種。人間に多分の理解がある素晴らしい方なのですが、理解がありすぎるようになってしまったのです」


「ほう、話してみろ」


 苦渋の顔を浮かべたディタンは市長室の窓辺に寄り、後ろで手を組み合わせて階下に通る街道の方を眩しそうに見つめる。


「これは内密な話なのですが……ここ最近、宝石のたっぷりついたアクセサリーや高級革のハンドバッグ、女物の靴や凝った衣服を欲しがるようになったのです。もっとも、巨大なドラゴン専用の物ではなく、人間サイズの物ですがね」


「待てよ、奴はオスだろ」


「はい。言い分としましては『アンタたちを護ってやってるのだからぁ、もっとゴージャスな献上物を寄越しなさいよぉ』とのことです」


 部分的に声真似をするディタンは見事にドラゴンのウザさを表現していたので、アクネロは目つきを剣呑なものに変えた。


「つまり、薄汚いカマ野郎になったってことだな」


「性格は実に薄汚くなりましたね」


「俺はそういう生ゴミは大嫌いだ。その話が真実であれば、我が辺境伯の権限において国家の保護を解く。速やかに殺せ」


「ドラゴンスレイヤーの名誉よりも、私は街で生きる人々の生活を護りたいのです。大竜と争えば大勢の血が大地に流れましょう。何よりも平和のためならば無能のそしりも受け入れましょう。金品も惜しくはございません」


「つまらねえ奴だな。男なのに流血を恐れるなんてよ……まあ、軟弱な帝都者らしいか」


 怒りを誘う呼び水。

 帝国の本土は未だかつて攻め入られたことがない。

 ゆえにそこで育った者は軟弱者とされる風潮がある。


 若きディタンに流れる血は山岳部族のものであり、誇りが傷つけられてもおかしくない発言だったが。


 変わらず――落ち着いた物腰で、折り目正しく低頭した。


「ご理解頂いて幸いです。領主様の滞在が快いものになりますように、心から願っております」


 談笑が終わるとアクネロは市役所から出た。

 往来には頭に果物の籠を乗せた女や、毛皮を詰め込んだリアカーを引く配達人ばなどが歩き、誰もがゆったりとした体に巻きつけるタイプの薄手の衣装をまとっている。


 ターバンを頭に巻いているのは陽光の強いせいか。

 草鞋を履いている子供たちが、平べったい米粉パンを齧りながら棒遊びに夢中になっていた。


「ご主人様、ガイドブックによると氷冷魔術師さんがやってるお店が一番人気らしいですよ。紅茶アイスがおいしいらしいです。紅茶アイスが。おごってください」


「ガイドが来るらしいから、待て。先にサラマンダーを仕入れにいくぞ。是が非でも、俺の同志である豚どもに上等な羊肉と偽り、食わせてみたいんだ」


「お坊ちゃま、ほどほどにしてください。勅任式はファンバード家の名誉に関わることですから。ちなみに私は買い物がしたいです」


 和気あいあいとだべっていると、小さな影が市役所の脇道から現れた。


 ピンク色のウサギの着ぐるみにすっぽり全身を包み、頭の上にぴょこんと長耳を伸ばしている少女だ。


 顔の上部から茶色の前髪がはみ出てしまっているが、可愛らしい顔つきをしており、体型もちんまりとしている。


「初めましての萌え萌えキューン! ガイドのうさぴょんだよぉーっ! 領主様をご案内できるだなんて、うさぴょんはかなりウサってるよー!」


 ぴょんぴょんっと陽気な少女は片手を伸ばしながら、片足ジャンプをした。


 年齢は十二か十三か。

 ラリッた口調で自分の存在をアピールしている。


 ふっとアクネロは真顔になり、二人のメイドに交互に顔を向けた。


「ガイドは来なかった。そういうことでいいな、二人とも」

「はい」

「はい」


「何をぉー! ウサぁーッ! ストロングパーァンチ!」


 ぽこん、と肉球でアクネロの腹部を叩く少女はたいそうへぼかったが、どうやら相手しなければ逃れられないようだ。


 アクネロは目線を合わせるために両手を膝に当てて前向きに屈んだ。


「おい」

「はい」


 凄味のある恫喝にうさぴょんはおふざけを瞬時に消した。


 哀れにも――正面から恐ろしい人殺しにガンをつけられている。長耳はむんずとひとくくりにつかまれ、幼げな顔に脂汗がだらだらと流れ始めた。


「お前がガイドなのはわかった。それで、なんでそんなに馬鹿なんだ?」


「うさぴょんのキャラは人をなごませると思いました。うさぴょんはこのピエロ芸で無職のお兄ちゃんと、腰の弱いお母さんと、酒飲みのお父さんを食べさせていかないといけないので、どうかガイドをさせてください」


 明かされたうさぴょんの重すぎる家庭の事情に嘘がないかどうか、アクネロは顎を撫でながら、じろじろと少女を目踏みする。


 やがて、ふぅと息を吐くとぴょこんと伸びた長耳から手を放し、疲れた顔で承諾した。


「ま、いいだろう。サラマンダーが食えるところに案内しろ」


「へぇ? サラマンダー? なんでそんなのがいーの☆ もっといいのあるよぉ♡」


「うるせえ殺すぞ」


「ふぁっ!? はぁーい☆ 領主様ご一行のお通りだぁー! うさぴょん、はりきっちゃうぞぉー!! ぴょんぴょーんっ!」


 大物っぽく肩をぐいぐいと振って動かし、うさぴょんは往来を突き進もうとしたが、途中で何かに気付いたのか急に立ち止まり、暗い影を放ちながら深刻な様子でUターンした。


「すいません、お客様の料理が余ったらでいいんですが……残飯を自前の箱に詰めていいですか? うちの家族、昨日から何も食べてないんで」


「おい、やるならキャラを演じきれ。突然、素に戻るんじゃね-よ」


「お坊ちゃま。まだお昼前ですし、食事よりも先に時間潰しの買い物でもどうでしょうか。アイグーンは色よい口紅や豊富な香水を販売してるのです」


 執拗な要求にアクネロは眉をひそめた。


 でしゃばらぬように身を引き、一歩下がって主人に付き従う貞淑さを持つルルシーのわがままは珍しい。


「わぁ。綺麗なお姉さん。おなかぺっこぺこのうさぴょんを前にして、れいたーん☆」


「ルルシーさん。化粧品ってどんなのがあるんですか? あ、これどうぞ」


 話題に食いついたミスリルは手持ちのバッグから、クッキーを取り出して腹ペコ娘に与えた。


 うさぴょんは小さな口を猛烈な勢いで動かし、痩せ細ったリスの如くガリガリとクッキーを胃の中へ収めにかかる。


 結局、ルルシーの推しに根負けしたアクネロは土産物売り場に向かい、三人娘の長時間の買い物を遠くのベンチで見るはめになった。


 街道にずらりと並ぶ店子は、どれも女性向けの商品を専門とするだけあって小奇麗であり、旅行者向けの派手な商品を棚に陳列している。


 香水瓶を楽しげに摘まむ若い娘が集まる場所は、謎のバリアが張り巡らされ、さしもアクネロも逃げの手を打つしかなかった。


「お坊ちゃま。どうでしょう、このリップ」


 つやつやに光る下唇に指を当て、どこか自慢げに見せに来たので、ベンチに座って死んだ目をしていたアクネロは首をかくんと落とした。


「なぁ、ルルシー。俺たちはいつから旅行に来たんだ。俺はトカゲ肉をさっさと入手して、パーティの出し物を考えないといけないんだが」


 珍しいルルシーの自己主張は面白くも感じていたが、その一方で思い通りにならないことへの嫌気が差していた。


 そのままの気持ちで皮肉をぶつけると、ルルシーは姿勢を正して両手を下腹に持っていき、いつも通り事務的に答えた。


「紳士の開催するパーティーとは、女性同伴でなければなりません。でなければ品格が問われます。それは主催者であっても逃れられぬ事柄。美しく着飾った女性がお坊ちゃまには必要ですが、目下候補者は私とミスリルさんのみ。二人とも高貴な生まれではないので、せめて化粧の力をお借りしたいのです」


 合理的な理由に得心いき、アクネロは頷いた。

 女性の同伴者は失念していたことでもある。


 実際のところルルシーは接客をする立場であるが、主人に恥をかかすことを恐れているし、ささやかな期待もあるようだった。


 ならば、たまには報いてやろうという情も湧いてくる。


「そういうことか。俺の心配はしなくていいし、お前も何も心配しなくていい。今の俺たちはベストなコンビだからな。しかし、それはいいリップグロスだ。頬紅も買っとけよ」


「はい、


 いつもと異なる呼び名にアクネロは何か言おうとしたが、悪戯っぽく片目を閉じ、ルルシーは踵を返して店先へと戻っていく。


「……まあいいか」


 喧噪のなかに身を浸らすべく、アクネロはベンチの背もたれに体重を預けかけたが、急に聞こえてきた叫び声に顔を向けざるを得なかった。


「うきゃあああああああ! ちょっ、はっ、放してくださいっ!」


「待ってくれ! 頼むっ! 少しでいいから!」


 視界の隅、裏路地から伸びる浮浪者の手に腕をつかまれているミスリルを発見し、アクネロは首を回して気だるそうな立ちあがった。


 女が誘拐されるのはそう珍しいことはでないが、真昼間では珍事だ。


「今度はなんだよ……おい! そこのタコ助!  俺の召使に何してやがる」


 アクネロは肩を怒らせてツカツカと歩み寄り、ミスリルをつかむ浮浪者に向けてハイキックを放った。

 顔面に蹴りが直撃した男は哀れにも弾け飛び、壁にぶつかった。


「うべぇっ!」


「こ、怖かったですぅっ……ふぎゃっ!」


「邪魔だ。よぉーしトドメを刺してやるからな」


 傍に寄ろうとしたミスリルを払いのけ、アクネロは追撃を加えようとしたが、浮浪者を怯えた顔で手の平を突き出し、待ったをかける。


「ちょっと待ってくれっ! 誤解だ! 俺はただその娘さんの手にメイクしたかっただけなんだ。特にその娘さん自体には興味がない!」


「うるせえッ!  俺だってこいつのケツにしか興味はねえよ!」


「これはミスリルさんが男性二人に好かれているのか、微妙な判断になりますね」


「ぅう、非常にムカッ腹が立ちます」


 騒動を聞きつけたルルシーは顎先に手の甲を当てて悩み、被害者のミスリルはぶすっとして腰に両手を当てた。


 浮浪者の胸ぐらをつかみ取ったアクネロは凄みを利かせつつ、拳を振り上げると、その間にするりと小柄な影が割り込んだ。


「ちょーっと待ってぇ☆」

「なんだ。婦女暴行の現行犯で死刑だぞ」


「ご主人様がそれを言いますか」


 ジト目でミスリルは主人を責める。

 今までの蛮行を省みれば無理からぬ言だ。


 うさぴょんは両手を合わせて屈みながら、上体をゆらゆらと左右に振る。


「許してくだぁさい♡ お兄ちゃんは無職で暇でどうしようもなくて、幸せな人が憎いんですぅ☆」


 うさぴょんはフォローを入れたが、あまりにも救いがなかった。


 発覚した事実として、浮浪者は偶然にもうさぴょんの実兄のようであり、アクネロは交互に二人の顔を見たが、確かに目鼻立ちは共通して微妙に似通っている。


「マジか?」

「大マジですぅ☆」


 なるほど浮浪者のように埃と泥まみれだが、若者っぽく硬革のズボンと襟なしの明るい色の青ベストを身に着けている。


「ほんとーにお前の兄貴か? 慈悲心じゃねえだろうな?」

「はい、さっき話した無職のダメ兄です☆」


 空気にどんよりとした倦怠感が入り混じる。

 誰の顔からも憐れみによる寛容が滲み始めたが。


「待ってくれ、俺は無職じゃない。ネイルアーティストとして営業活動をしてただけなんだ。ほらっ、仕事道具だってある」


 使い込まれた木製の道具箱の取っ手をつかみ、上蓋を開くとパレットやら筆箱が丁寧に敷き詰められていた。着色料と思われる絵具の小瓶がずらりと並び、男は穂先の細い面相筆を引き抜き、手もとに掲げた。


「メイドさんの指に絵を描きたいんだ。指といっても、爪なんだけどね。最初だから、お金はいらないよ」


 自信ありげに筆を一回転させたが、女性陣の反応は思わしくなかった。


 ミスリルは困ったようにルルシーに視線を寄せる。


 彼女は静かに首を横に振った。不許可の印だ。


 そもそもメイドの仕事とは、炊事洗濯などの水仕事が多い。

 痛みやすい爪に何かを塗りつけることに対する抵抗もある。


 薬効の成分でも混じっていれば話は変わったかもしれないが、最終的にはミスリルはぺこりと謝罪してその場から離れ、雑貨店の方へと逃げた。


「お兄ちゃん、元の陶芸絵師に戻りなよ☆ 女の子の爪に細工する仕事なんて絶対に流行らないから。じゃあねー♪」


 三人の女たちに冷たくあしらわれた路地裏の芸術家はがっくりとうなだれ、失望で両手を地面につけた。


 アクネロは後ろ首に手をやり、男の涙を見ないようにしながら声をかけた。


「どうやら……お前は波打ち際の絵描きのようだな。女を相手にする商売をするのなら、もっと身だしなみに気を付けて、口先の技術を高めることだ。声をかけるときも毎回こう言え。『素晴らしいっ! こんなところに美人がいるぞ』ってな。たとえそいつがダチョウみたいなツラでも、ダチョウの中で一番美人だと思えるようになる。俺はこの手で俺好みのサファリパークを帝都で作ったことがある」


「うぅう……なんで俺はいつも、うまくいかないんだ」


 ぶつぶつとした独り言は、正気を失っているようでもある。


 軽口の反応がなくて、つまらなくなったアクネロは興味を失い、元陶芸絵師から背を向けた。 





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