Extra 2『手紙』/見えぬ糸の先

 ミーランヤには兄がいる。ふたつ年上だがこれが本当に手が掛かる。

 腰紐は必ず縦結びだし靴もよく脱げる。農具をしまわせれば泥の着いたまま放り込み、洗濯を任せれば灰汁も使わず絞りが甘いまま紐にかける。兄の中の及第点はとても低い。結局ミーランヤが後から泥を落とし刃を研ぎダラリと垂れる洗濯物の取れぬ汚れを薄目でやり過ごしぱんと伸ばして干し直すことになる。

 兄弟だというのに、兄と自分はあまりに違う。似ているのは夕方を染める黄赤色の瞳だけ。

 父と母の甘やかしが因果だが、その報いが弟にくるのは業腹である。であるのだが、なんだかもう長いことこうなのでミーランヤも諦めの境地にいる。無だ。怒りなど腹が減るだけで不毛。できることだけ頼み、それ以上は自分が手出しすればいいのだ。やり直させるなどもってのほか。旅の中で臨時雇いに就くときは、兄には数少ない技能の野菜の皮むきを見繕い、自分は力仕事を引き受けた。兄のぼんやりは今始まったことではない。母の言葉を信じるなら生まれたときからぼんやりなのだ。そんなミーランヤが11歳にして兄を連れ村から出奔したのは、兄が村民たちの暴力を無抵抗に受け入れた時だ。


 両親は流行病でポックリ逝った。寝付いて2日で水も飲めずに泡を吹いて腐れた。伝染病対策で家に火をつけられる前にと、僅かなものを運び出す。その年の処暑は村全体で何軒もその様な次第になった。発症を恐れ、ずいぶん疑心暗鬼に過ごしたが、木の葉が色を変える頃には終息した。

 ミーランヤは疲れていた。家を失った者同士身を寄せるべく建てた簡易な小屋で、兄を抱えこれからを考えるのはミーランヤの仕事になった。畑は残っているが農具は小物しか持ち出せなかったし、収穫まで食いつなぐ案もない。村主は藩主に救済を求めたが、すぐに助けがくるとも思えない。

 そして、兄が暴行に遭った。

「ザガヴァーリヤがいた」

 それは瞬く間に村を駆け巡り、畑でぼんやり雑草を摘んでいた兄は囲まれ、育成途中の作物と共に足蹴にされた。

「その髪、濃色髪の」

「小細工を。隠していたのか」

「お前がいたから」

「死んだ妻を返せ」

 ―――父と母は、あまりに急に死に刈られたから、ミーランヤに伝え損ねたのだ。兄の髪を、眉を、色を見せるなと。知ってはいたのだ、母が定期的に兄の髪を整えていたのを。使う薬草は毒性も強く、兄の頑固な髪色を脱くと同時に肌を痛めて、いつも数日「頭も眉も脇も痛痒い」と不平を零すのを聞き流していた。

 伸びた根元は黒茶だった。

 ザガヴァーリヤだったのか。

 ザガヴァーリヤ、破壊者、穢れた者。ザガヴァルを使い破滅を齎す殺戮者。

 ミーランヤは動揺したが、同時にこのぼんやりした兄にそんな大層な力があるとも思えなかった。だからされるまま流れる兄を庇おうと覆い被さり、止めてくれと叫んだ。当然聞き入れられず、ミーランヤの背にも複数の暴力が落とされた。


 それはまさしくザガヴァーリヤの所業だろう。村人たちは呻き声を上げて転がっていた。バチバチと空気が揺れ、閉じた瞼の向こうから光が届いたあとの惨事。

 兄が奮った力は、しかし、辛うじて死を回避したようだ。だがここには居られない。家族で耕した畑には未練もあったが兄と共に逃げ出した。

 ザガヴァーリヤだった。

 破壊など程遠いぼんやりした兄。何も言いつけられないときは小枝で地面になにかしら描いていた。それは花であり水であり木であり鳥であり、アナグマであり地ウサギであり赤狐であった。描いては消しまた描く。

 そんな兄が、洗濯物すらまともに絞れない兄が。

 混乱はなかなか治まらなかった。だが父と母が色を秘匿してでも育てた兄だ。いまやたったひとりの家族だ。あまりにもあっさりと両親を失って、兄まで失うのはミーランヤには耐え難かった。

 それからずっと放浪している。若さだけが支えだった。無理を前提にカツカツで生き延びる。定住は諦めた。兄の髪色を誤魔化す薬草を定期的に贖うのにも時間を取られた。


 ある年、立ち寄った市場で鮮やかな水菓子を見た。それは粗い布にふっくらと盛られた刺繍だった。まるで本物のペアのように瑞々しく、同じく刺された林檎は艶やかで甘い香りまで漂ってきそうだ。秋の実りは布地の上で美しく讃えられていた。

 それに気を取られたのは、兄が足を止めたからだった。もはやミーランヤには美しいものを美しいと鑑賞する余力はなかった。だが兄は違ったらしい。食い入るように見つめ、店主が追い払おうとするのにも気づかぬ様だ。

「おれも欲しい」

 兄の、初めての欲求に耳を疑った。こんな贅沢品を買える金などない。兄もわかっているはずだ。これを? と視線を向けると違うと首を振られた。

「『刺繍』がしたい」

 絵を描くのが好きなのではなかったか。

「そうだったと思う。だが今はこれが描きたい」

 端切れとくすんだ色の安い刺繍糸を買い与えると、兄はあやすように撫でた。つくろい物すら満足に仕上げない兄になにができるのか甚だ疑問だが、足取りの軽い兄の姿は微笑ましかった。

 それから皮むきの他に縫い子の仕事を担い始めた。見よう見まねの運針ではなく、手法を増やそうと意欲を見せたからだ。興味と実益を兼ねた仕事は思いのほか評価され、手は磨かれていった。移動中も針は止まず、布と糸に投資すれば割のいい返りも入った。


 放浪も15年を越えただろうか。ミーランヤたちは港町に逗留していた。しばらく稼いだら海を渡ろうと話していた。

 身体の空いた夕刻、桟橋に並んで海に映る夕日を眺める。黄赤色と朱色が揺れ混じったお揃いの瞳と同じ景色は、ミーランヤの心を和ませる。

「もし。そちらはザガヴァーリヤと見受けられる。ああ、恐れずともよい、私のザガヴァルが見えるだろう」

 背後から突然かけられた言葉に身が竦んだ。だが隣に立つ兄は僅かに目を瞬いて頷いた。

 15年、出会わなかった。それくらいザガヴァーリヤは少ないのだ。見つかれば逐われる身だから。

 だが、現れた。


 普段は大部屋で雑魚寝だが、今日は二人部屋を取り、桟橋で出会った男を招く。ミーランヤは初めてザガヴァーリヤ特有の黒髪を目にした。豊かな闇紺色はとろりと異彩を放つ。

「あなたはザガヴァーリヤの扱いが上手い。なんの訓練も受けないザガヴァーリヤが力を使わずにここまで生きるとは。一族を代表して御礼申し上げる」

「俺はなにもしていない。両親が何を思って誤魔化し続けたのかも知らんのだ。だがあの力を使いこなして身を守る方法があるなら学ばせて欲しい」

 ミーランヤは頭を下げる男の意図をあえて探らず応えた。兄はにこにこと糸を刺し、久方の茶菓子を摘まんでいる。

「確かに訓練は必要だ。だがそれよりも、我等のさとに迎え入れたい。ザガヴァーリヤは漂流の民と呼ばれるが、実は小さな郷ならいくつかある。そこなら怯える日々とは無縁。刺繍が好きなのだな、ザガヴァーリヤらしい執着だ。日がな刺し続ける生活ができるぞ」

 最後の言葉だけ兄に向けられた。兄の目がきょろりと光る。興味を引かれたのだなとミーランヤにも男にもわかる光だ。

「微々たるものだが交易もしている。お前のそれも喜ばれよう。どうだ、我等とこないか」

「ミーランヤは」

「……それは駄目だ。人間との共生は難しい。恨み辛みを長く抱える者は少ないが、害を為しては申し訳ない」

 ミーランヤは衝撃と同時にまあそうだろうと得心した。

 だが、目を逸らし続けていた感情が噴き上げて胸が詰まる。

 兄の面倒をもうみなくていい。男の言葉は柔らかな潤いを纏い、ミーランヤの心に沁みた。気づいてしまう。自分がいかに疲弊していたか。

 だが、それでも、それでもだ。兄は兄で、ミーランヤは弟だ。分かたれたくない。ミーランヤにはもう兄しかいないのだ。

 言葉が出てこず、兄と男を交互に眺入ながめいる。

「答えは明後日までに欲しい。我々は5日後にここを出る」

 男は存外気の毒げな表情で頭を下げ、部屋を出て行った。

 夕食の喧騒が階下から漂う。食欲はわかなかったが明日も力仕事だ、食わねば支障が出る。そうした諸々を無のまま済ませて床に着く。兄は珍しく思案していた。ミーランヤは待った。

 翌朝は部屋を引き払って仕事に出向き、兄とは夕刻に桟橋で合流した。ふたりの目の色をした海はやがて濃藍になり、光の残滓が消えた頃には真黒に沈んだ。

「ミーランヤ、おれは行くよ」

「……そうか」

 兄弟の会話はそれだけだった。

 翌日、だいぶん遅くなってから戻ってきた兄は、明日も男と会うと呟いた。口振りから男以外にもザガヴァーリヤがいると感じたものの、ミーランヤは問わなかった。

 あの男はミーランヤを『人間』と言った。兄と自分は同じ血を継いだ兄弟なのに、隔てられてしまった。

 そうして別れの日を迎えた。かなり早い時間に男のおとないを受け、兄と共に宿を出る。街道へ向かう通りに、フードを深く被った集団がいた。気づけば隣の兄も同じクロークを着ている。髪はまだ白茶けていたが、フードの下でやがて黒茶になるだろう。

「ミーランヤ」

 呼びかけに視線を向ける。兄はミーランヤの左手を掬い、小指に金属の輪を嵌めた。黒光りする無骨な指輪。なんだろうかと首を傾げる。

「お前には見えないだろうが、ここから」

 と、兄は自身の左手小指の先を右人差指で示す。その指先をひょいと動かし指輪へコツンと当てる。

「こう、糸が繋がっている。お前は見えなくても、おれは見える。ずっと繋がってる。もう会えないだろうが、ずっと繋がっているんだ、兄弟。おれは兄なのになにもしてやれず、お前にばかり苦労させてしまった。おれはいつだって死んでよかった。生きるのは面倒だ。ミーランヤおまえが望めばいつでも手を離すつもりでいた」

 そうか、と嘆息した。兄は常にぼんやりしていたが、そもそも生きる気力が薄かったのだ。ではこの放浪は辛いばかりだったのか。

「それなのに、お前はおれに刺繍をくれた。生きる証を見つけられたのはお前のおかげだ。

 ミーランヤ、お前は働き者で調子も良い。真面目に務めればすぐに大事にされるだろう」

 男と兄は歩を進める。ミーランヤは留まった。数歩先でまたふたりが振り返る。男がこちらを見据える。

「我らザガヴァーリヤ。あなたは同胞を今まで生かしてくれた。感謝する。彼は連れて行くが、我らの心はあなたと共にある」

 幸あれかしと言祝がれたミーランヤは街道に向かう彼らの影を見送り、踵を返していつもの仕事に向かった。 


 ミーランヤは港で荷卸しの日雇いを続けたのち、とある船に雇われた。ミーランヤの実直な仕事ぶりを船主に見初められたのだ。兄と別れた港から小島をいくつか周り、別の大きな港に入り、また小島を巡る。既に妻を娶る歳は過ぎ、船に乗り続けた。肌は焼け、赤かった髪は脱色し、皺は深く血管はみっしりと浮き、厳つい顔には兄弟の面影はない。ただ剃刀を当てるべく覗く小鏡の瞳は変わらない。

 そして時折、ひとときの安寧に雑酒を傾けていると、フードを深く被った某がひっそりと隣へ座り、手巾大の布を置いていく。労いに奢る1杯を空けると彼らはまた密やかに姿を眩ます。

 仮宿で広げると、ミーランヤが持つにはいささか上等な、豊潤な暖色が鮮やかに現れる。力強い火尾鳥ガランダ。今まで届いた布はすべてガランダが刺されていた。ふたりの瞳の色と重ねた赤や橙の奔流を、荒れて乾いた指で辿り、胸が埋まるまで撫でたあとは丁寧に畳む。そして数少ないミーランヤの荷物の中の、竹組籠にそれを重ねる。

 ミーランヤがどこへいこうと、どの季節であろうと、かれらは黒びた指輪を辿って運んでくる。

 繋がっているんだ。

 兄は慰めですら嘘をつかなかった。

 見えぬ糸のその先で、兄はほがらに笑っている。

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