第4話 俺と薄影のきみ

 

 昼食後に少ししてから野獣先生が帰っていき、雫と邦志を昼寝している。リラックスタイムに突入した。


 聖和が優雅にコーヒーをすすっている。ただしミルクと砂糖がないとコーヒーも紅茶も飲まない。今回もしっかりと砂糖2杯とミルクをたっぷり入れて、カプチーノふうにしている。もちろん作ったのは俺だ。こいつの味と好みを把握している自分がちょっと怖い。



「そうだな」


 聖和が唐突にいった。


「近くに良い人がいる」

「誰のことだ?」

利樹としきさんだよ。覚えてるだろ?」



 赤羽俊樹さんが俺たちの母方の祖父の兄の孫にあたる人だ。曾祖父母から家系図をたどれば、俺や聖和と同列のところにいる人だ。ただし年齢は28歳と俺たちとは一回り離れている。


 利樹さんを一言でいうなら、流される男だ。母方の家系といったらそれまでだが、利樹さんは女性受けする甘いマスクをお持ちで、しかも温厚で優しく、仕事も役所勤めの公務員と手堅いところに就職している。ただしノーとはいえない人で、いつも女性問題を抱えている人でもある。


 困ったことに、本人に女性を泣かせている自覚はない。「付き合ってっていわれたからさ。断るのも面倒だし別にいいじゃない」とあっけらかんと言い放つような人なのだ。二股・三股の自覚は一切ない。本当に告白されたから受けただけなのだ。そこに好きとか嫌いとかそういう感情はない。ましてや性欲などあろうか。とにかく考えることが大嫌いな出不精で面倒くさがりな人なのだ。そんな利樹さんと野獣先生……。圧倒的な草食動物と獰猛な肉食獣。想像してみたら、なんかぴったり来た。



「でも利樹さんって付き合ってる人いないのか」

「さあ、どうだろう」


 聖和が首を傾げた。


「いつも女性問題を抱えてる人だからいるかもしれないけど、どうせいつもの流し彼女だろうし、問題ないと思うがな」

「流し彼女か。言い得て妙だな。あとは先生次第ってことになるが」

「しかし、相手はあの利樹さんだ。引き合わせるだけでも大変だろう」



 たしかに大変そうだ。考えるだけで面倒くさい。しかしこれ以上ないマッチング率だ。問題は、二人とも家事ができないということだが、利樹さんは食事も面倒くさがる人だから味が悪くても問題ないだろう。



「まあ、付き合ってしまえば先生が尻に敷くだろうさ」

「それはいいな。利樹さんが片付けば、残す問題児は仁のみってことになるわけだが」

「俺は問題児かよ」

「十分な問題児だろ?」

「そういう聖和はどうなんだよ。この前も告白されたとか噂になってたけどさ」

「だから、僕は誰とも付き合うつもりないといったろう?」

「なんだろうな。俺にはおまえが、自分はいつでも付き合えると自慢しているように聞こえないんだが……」



 さあな、と聖和は含みにある笑みを浮かべ、優雅に足なんぞを組んで甘々のコーヒーを飲んだ。



「それで、仁はこれといった子はいないのか」

「いないな。というかそういう目で見ていないからわかんね。女子の名前の半分も覚えてないし」

「仲良くなったのは富永くんだけか」

「仲良くというか、正樹が巻き込んでるだけで、あいつと二人でしゃべったことはねえぞ」

「そうなのか。富永くんもお姉さん受けしてるらしいから仁と話が合うと思うんだがな」

「俺のことはほうっとけ」



 手を払い、ブラックコーヒーをすすった。苦みの中にただよう香りが心を落ち着けてくれるようだった。



「でも、たしかに富永は上級生に好かれそうなタイプだよな」



 いわゆる可愛い系男子というやつだ。人懐っこいところもウケると思う。だが、告白されたとかそういう噂は聞かない。といっても俺はまったくそういった噂には興味がない。それなのに普通の男子よりも情報通なのには理由がある。


 何を隠そう、そういう噂に敏感なのが、俺の前で甘いコーヒーをすすっているこの男なのだ。わざわざ噂を運んでくるから知らなくていいことまで耳に入ってしまって困っている。


 コーヒーカップをテーブルに置いた。



「話を戻すが、利樹さんと先生の件だが具体的にどうするつもりなんだ」

「まずは利樹さんだ。母さんにそれとなく探りを入れてみよう。婚約者とか、そういう人がいなければ先生に直接交渉する」

「えらく張り切ってるな」

「こういうのはタイミングがすべてだ。少し出会うのが遅かっただけで正妻と愛人の関係が決まってしまうこともあるんだからな」

「いいたいことはわかるが愛人はねえだろ」

「おまえは昼ドラを見てないのか」


 なぜか呆れられてしまった。


「そんなもの見るか。だいたい学校に行ってるのにいつ見るんだよ」

「録画できるだろ」

「誰がんなことするか」

「何?」



 何、じゃねえよ。おまえはどこを突き抜けようとしてんだよ。ちょっと聖和の将来が心配になってきた。


 いくつもの脱線を経て話がまとまり、聖和は勢い込んで帰っていった。何が聖和を駆り立てているのかは知らないが、おそらくただの野次馬根性だろう。普段はやる気の欠片も見えないやつだが、聖和にはそういうミーハーな一面がある。そういうところがギャップになってモテるのだろうけど、幼馴染で従兄弟で親友である俺にも、あいつのそういうところだけは理解できないでいる。


 聖和が帰ってから雫の勉強に付き合い、おやつを挟んで、夕方に買い物がてら雫と邦志ほうしを連れて地元の南鴨井かもい商店街に買い物に出かけた。


 今日が土曜で明日は日曜。もう5月も間近だ。ゴールデンウイーク前に動物園にでも出かけるかな。そんな思い付きの提案を妹たちにして、ついでにゴールデンウイークの過ごし方についても話しながら歩いて商店街に向かった。


 近所には大型のスーパーはなく、そのためこのアーケード付きの商店街はいつも主婦でにぎわっている。観光客など望むべくもない立地でありながら、シャッターを下ろしている店は2軒という少なさだ。


 地元の住人の献身で支えられている今時珍しい昔懐かしの商店街である。しかもゲームセンターなどの若者を誘う場所はないため、滅多に同年代の人に会うことはない。ただし同級生の母親には頻繁に会う。



「晩御飯は何にするかな」

「オムライス」


 雫が元気にいうと、邦志ほうしも「オムライス」と真似た。


「昼もオムライスで夜もオムライスか。それはちょっとな。ハンバーグはどうだ?」

「うん。ハンバーグがいい」

「ハンバーグ」



 たぶん邦志はハンバーグをわかっていない。とにかく雫の真似をしたいだけなのだろうが、些細なことだ。



「そっかそっか。じゃあハンバーグだな」

「シズクも手伝うの」

「ぼくも」

「よし。なら一緒に作るか」



 ハンバーグなら全員で作れる。さすがに焼くのは任せられないが、まあいい。



「後はニンジンさんだな」

「ヤっ。ニンジンさん、ヤっ」



 邦志が立ち止まり、自らの意思で発言した。雫は好き嫌いなく何でも食べるが、邦志はどうしても人参がダメらしい。きっと色が苦手なのだろう。昼は細かく刻んで卵で包んだから気づかなったようだが、物を見ると食べてくれない。



「邦志はニンジンさんは嫌か」

「ヤっ」

「それは困ったな」



 いかにも困った顔をして邦志を見たら、うーんうーんと唸り、足をもじもじさせて「食べる」と本当に小さい声でいった。



「食べるてくれるか」

「にーちゃがヤなら食べる。でも、ヤっ」



 泣きそうな顔になっている。今にも逃げ出しそうなほど及び腰だが、それでも俺のために食べるといってくれた。それだけで幸せの絶頂だ。抱っこして頬釣りしたら、邦志がきゃっきゃと笑った。


 すると、雫がきゅっと服を掴んできた。



「シズクも食べるの」

「そっか。雫も食べてくれるか」

「食べる」



 もう片手で雫を抱っこして、同じように頬釣りした。

 ここは商店街のど真ん中だ。ほとんどは顔見知りという、いわば俺のホームグラウンドだ。



「おっ。坊主どもはハンバーグか」



 魚屋のオヤジさんがばかでかい声を張り上げて表に出てきた。雫と邦志も慣れたものだ。下ろしたらオヤジさんのところに駆けていった。



「ほれ。飴だ」



 しっかりと餌付けもされている。雫たちが飴玉を受け取り、満面の笑みを浮かべた。



「いつもすみません」

「飴ひとつでお得意さんができんなら安いもんだ」



 あからさまにいわれると苦笑するしかないが、実際にはいつも提示価格より安く売ってくれるから店のほうが損をしているのではないかと心配している。

 そもそもうちはそんなにお金がないわけではない。家は持ち家だから家賃はかからず、妹と弟を私立大学に入れてやれるくらいの資金はプールしてある。もっとも毎年固定資産税とかでいろいろと持っていかれるから贅沢はできないが、そのへんのことは信用できる弁護士先生にお任せしている。というより、丸投げしている。


 雫と邦志が次の餌づけ先へと駆けていった。あっちこっちの店先でなんやかんやともらっているようだ。みんな祖父母の代から付き合いのある人たちだから、うちの家の事情にも通じている。


 それに、俺にとっては師匠ばかりなのだ。

 このオヤジさんには魚のさばき方の手ほどきを受けた。八百屋のおかみさんには子どもに野菜を食べさせる工夫を教えてもらった。肉屋の主人にはコロッケなどの揚げ物のコツを教えてもらった。電器屋のおっちゃんにも長く使う秘訣を教えてもらったり、おばんちゃん連中には手を抜いて、かつ綺麗に掃除するコツなんかも伝授してもらっている。


 この商店街は俺にとって特別な意味がある。



「なあ坊主……」


 オヤジさんが妹たちをまぶしそうに見つめながら神妙な声でいった。


「おめえはよくやってると思うぜ。だがよ、ひとりでやるにも限界ってもんがあらあな」

「ええ。わかってます」



 いわれるまでもない。自覚している。雫はもう小学生だ。


 遠足の弁当作りはまだいい。キャラ弁当だって作れるようになった。だが運動会や授業参観ではどうしたって妹には寂しい思いをさせることになる。


 俺だって小学生のときはそうだった。それでも俺には聖和たちがいたからまだいいのかもしれない。まあ俺としてはあまり聖和の家族とは付き合いたくないのだが、雫と邦志には俺しかいない。これで邦志も小学生になったら本当に俺では手に負えなくなるだろう。そんなことはわかっていたことだ。



「でも約束しましたからね。やるしかないんですよ」

「ったく、めそめそ泣いてたクソ坊主が一丁前なこといいやがって」


 オヤジさんが明るくいった。


「ちょっと、それは昔のことでしょうが」

「あん? ほんの昨日のことじゃねえか。クソ坊主が生意気いうんじゃねえ」

「ちょっと、あんた」オカミさんが店の奥から声をかけてきた。「なに仁に絡んでんだい。お客さんだよ」

「おう。今行く」

「まったくあの人は……」



 オヤジさんと入れ替わりに、オカミさんが現れた。いかにも肝っ玉母ちゃんといった恰幅の良い、元気な人だ。



「あの人も悪気はないんだよ。ただねえ、仁もまだ高校生になったばかりだろ。商店街の集まりでも話したんだけどね、あんた、頼るのが下手だからみんな心配してんだよ」

「大丈夫ですよ、俺は」

「馬鹿だねえ。そういうところを直せといってんだよ。まったく、なんであんなガラクタからあんたみたいなしっかりした子が生まれたのかねえ。ほんとに……なんであんたばかりこんな目に遭わないといけないんだろうねえ。ほんとにさ……」



 ほら、また始まった。心配性のオヤジさんに、泣き上戸のオカミさん。似たもの夫婦だ。



「大丈夫ですよ。何とかなりますって」

「何ともならなくなる前に相談しなっていってんだよっ」



 オカミさんの怒声に合わせるように、顔見知りの面々が表に出てきた。一様に笑っている。つまり、誰しもがいつものあれが始まったと思っているということだ。



「わかりましたから、勘弁してくださいよ」

「あんた、そんなこといって一度でも相談しに来たことがあるかい? ないじゃないか」



 泣いていたかと思ったら怒りだす。間違いない。更年期障害だ。



「あれだけいったのに、あんた、雫ちゃんの運動会の時だって一言も相談しなかっただろ。これで邦志ちゃんが小学生になったらどうすんだい。あんたひとりでどうこうできる話じゃなくなるんだよ」

「ちょっと、オヤジさん。オカミさんがいつものあれになってますよ」


 仁ッ、と叫び、オカミさんが売り物のサンマを手にした。


「この馬鹿たれ」


 サンマで頭を叩いてきた。



「ちょっ、やめてくださいって。それ商品でしょうが」

「サンマだよっ」

「いや、それは知ってますって」

「見てみな、この口。下あごのところが黄色いだろう? 新鮮な証拠だよ。わかってるのかい」



 だからなんだ。怒る方向がずれてきている。これは退散が吉だな。


 ご近所さんたちが笑いながらオカミさんを止めにやってきた。通る人々も慣れたものだ。笑いながら通っていく。なんやかんやとあり、ガヤガヤし始めたが、これもここならではの光景だ。


 一度は大手スーパーができるとかいって商店街が騒然としたこともあるらしいが、一丸となって反対し、以来この商店街には手を出してはならないと一部の業者の間で噂になっているとかいないとか……。


 そして、その事件で活躍したのが設楽祇しだらぎ押田おしだ法律事務所なのだという。大手企業の顧問弁護士団vs設楽祇しだらぎ・押田法律事務所。そして商店街で働く人たち。結局大手スーパーが建設される予定だった場所にはマンションが建ち、住人が増えて商店街は潤ったと、まあそういうことだ。


 サンマの攻撃から逃れて、妹たちを追った。ふたりがどこに行ったのかは店の人が声で、あるいは接客中なら指をさして教えてくれるから探す必要はない。


 どうやらふたりは乾物屋で世話になっているらしい。店をのぞいたら、雫と邦志が黒っぽい小さくて細い棒をしゃぶっていた。



「こんちは。いつもお世話になってます」



 店内にお邪魔して、主人にあいさつした。日向ぼっこが似合いそうなじいちゃんだ。雫と邦志を前に、相好を崩している。



「妹たちがくわえてるのって何なんですか」

「なんじゃ、仁は知らんのか。きさまは何年この街に住んどるんじゃ」

「そんなこといわれても……で、何なんですか」

「かつお節の削り粕じゃ」

「かつお節? え? かつお節って、出汁だしで使うあれですか」

「そうじゃ。昔はおやつ代わりにこうして舐めたもんじゃ」



 じいちゃんが雫たちの真似をして、小指くらいの長さのかつお節をしゃぶった。


 俺もひとつもらい舐めてみたが、なるほど、かつお節だった。それに、ずっとしゃぶっていたいというか、癖になる味だ。


 この味をそのまま味噌汁に生かしたいのだが、それがなかなか難しいんだよな。この偏屈じいさんに訊いても、自分で試行錯誤して、それでもできないときに聞きに来いといわれるのがオチだし、そのためにはどれだけ試したのかを記録しておく必要がある。そうしないとこのじいちゃんは納得しない。


 こう見えても昔はかつお節を作る職人だったらしく、とにかく昔気質むかしかたぎの人なのだ。今はかつお節作りのほうは息子さんが跡を継いでおり、じいちゃんは以前に趣味を兼ねてこの店をやっているといっていた。


 どうにか楽してコツを聞き出す方法はないものか。ちらちらとじいちゃんを見ながら思案していたら、あっという間に時間が過ぎていった。店にかかっている時計を見たら19時をとっくに回って半になろうとしている。


 店は20時に閉まる。これは商店街の集まりで決めたものらしい。



「あっと、買い物だ。店が閉まっちまう」



 うっかり長居してしまった。たまにならこういうのんびりした時間を楽しむのもいいが、先に買い物を済ませないと、遠くまで買いに行く羽目になる。



「じいちゃん、ごめん。また来るから」

「まったく騒々しいやつじゃの。気ぃつけてな」

「かつお節、ありがと。今度、といってもじいちゃんが成仏じょうぶつする前に買いに来るから、削り粕が残ったらとっといて」

「バカもんッ。まだくたばってたまるか」



 ケケッと笑いかけて通りに戻った。ちらほらと店じまいをしているところが目立つ。



「しまったな」



 全部かつお節がうまいのが悪いんだ。

 憎し、かつお節。



「急いで回らないと。ほら、行くぞ」



 かつお節をポケットに入れて、二人と手をつないだ。雫たちはまだかつお節に夢中だ。そのへんのお菓子を与えるより、よっぽど体にいいんだよな。おやつはかつお節を追加しようと心に決めて、肉屋を目指して歩き出そうとしたときだった。



「黒尾くん?」



 向かいから来た少女が足を止めて声をかけてきた。天王寺高校の制服を着ている。


 顔は見たことがある……ような気はするのだが、名前が思い出せない。ただ、ここまで影の薄い女の子となるとある意味貴重だから覚えている。まあ、顔をはっきり思い出せないからはっきりとしたことはいえないけど、同じクラスの人のはずだ。でも入学してまだひと月だし、うちのクラスには飛び切りにまばゆいオーラを放っている女の子がいるのだから、覚えていないのも無理はないと自分に言い聞かせた。



「えっと……」

「あー。わたしよく忘れられるから」



 のんびりした口調だった。やはりか、と思ったが、それはいわないでおいてあげた。



「あ、いや。なんかごめん」

「ううん」


 笑みを浮かべた。透明感のある笑みだった。


「ここは、初めまして、のほうがいいのかな?」


 薄影の君がいった。


「そんなことはないけど……えっと……」

「佐藤つゆみ。つゆみは平仮名だよ」



 名前を聞いてもまだピンとこないという異常事態が発生した。どこの席だ。誰と仲がよかったっけ。なんにもわからんぞ、薄影の君よ。



「佐藤さんか。そうだった」



 とりあえず適当に愛想笑いで誤魔化そうとしたが、どうやら見抜かれたらしい。子どもが怒ってますと伝えるときにそうするように、佐藤はむっと口を結び、上目遣いで睨んできた。



「黒尾くん、絶対わかってないよね」

「そんなことはないけど……」


 思わず目を逸らしてしまった。


「別にいいんだけど。どうせ影が薄いからね」

「そんなことないって。うん。佐藤さんね。ほら、覚えた」

「どうせありきたりな苗字だとか思ってるんだよね。全国で一番多い苗字だもん、仕方ないよね」

「そんなことはないって。でも覚えやすくていいと思うぞ」

「でも覚えてなかったんだよね、わたしのこと」

「それは……」



 意外と執念深い人なのかもしれない。

 あっと、こんなことをしてる場合じゃなかった。



「ごめん。ちょっと買い物があって」

「うん?」



 佐藤が首をかしげて、俺の両手の先にいる2人を交互に見た後で俺に目を戻してきた。



「もしかして黒尾くんが作るのかなあ」

「あ、ああ」

「今日はね、ハンバーグなの」


 雫がいわなくていいことをいった。まったく。時間がないってのに。


「そうなんだ。楽しみだね」


 雫に笑いかけた後で、佐藤はのんびりと商店街を見回した。


「もう閉まっちゃうね」



 だから急いでんだ。そういえたらどれだけいいことか。だがいったが最後。店の連中が出てきて、女性に対する言葉使いがどうのこうのと説教をされるに決まっている。たとえば、今乾物屋の店の奥から興味深そうにこっちを見ている、くたばりかけのじいちゃんとか。



「よかったら、妹さんたちのこと見ててあげようか?」



 突然の申し出に面食らった。正直、佐藤を天女と疑ったくらい驚いている。



「マジで? いいの?」


 くすくす笑いながら佐藤は頷いた。


「すまん。マジで助かる。ひとっ走りしてくるからちょっとだけ頼んでいいかな」

「うん、いいよ。━━じゃあ、お姉ちゃんと待ってようか」



 佐藤がしゃがみ、雫と邦志に声をかけた。邦志は照れているのか俺の後ろに隠れた。ここはお姉さんの出番だ。


 かつお節をしゃぶっている雫は俺と佐藤を何度も見て、前に出た。

「はい」といって、さっきまでしゃぶっていたかつお節を佐藤に向かって突き出した。舐めろということだろうか。さすがにそれはどうかと思い止めようとしたが、佐藤はうれしそうに笑い、顔を突き出してパクリと口に含んだ。


 唖然あぜん呆然ぼうぜんだ。いかに子どもが相手といっても躊躇ちゅうちょしそうなものだが、そんな素振りは微塵も見せず、いとも簡単にやりやがった。



「あ、あの、佐藤さん? 一応確認させてもらうけど、虫歯とかないよね?」

「……それって今いうことかなあ」


 むっと見上げながら睨んできた。


「あ、ごめん。つい気になって。でもほら、口移しとかって虫歯が移るっていうだろ。雫は虫歯はないから大丈夫だと思うんだけど、雫も舐めるわけだし……」

「だからね、それ、今いうことなのかなあ」

「だ、だよな」



 たしかに何も今聞く必要はないよな。これは反省しておこう。

 佐藤が雫に目を戻した。



「雫ちゃん、だよね? ありがとうね」

「おいしい?」

「うん、おいしかったよお」


 佐藤が雫の頭を撫でた。ほんわかしてて実にいい。


「ねえ、黒尾くん? 買い物はいいのかなあ」

「あっ。すまん、佐藤さん。少しだけ頼む」



 なごんでる場合じゃないんだ。俺の後ろに隠れている邦志を引っぺがして佐藤に預け、商店街を駆け抜けた。


 結果的にいえば、焦る必要はなかった。最初に魚屋のオヤジさんが「ハンバーグか」とバカでかい声でいってくれたおかげで、かかわりのある店の方々が用意を整えて待ってくれていたのだ。


 最初に向かった肉屋で、乾物屋でかつお節の塊を舐めていたら遅くなったと説明したら大笑いされて、笑い声に釣られたのか、食材のほうが集まってきた。


 食材を抱えて集まってくるおじさんおばさん。すんませんすんませんと謝りながらお金を払ったものの、肉屋のおばさんがかつお節の一件を話したがために、おじさんおばさんが俄然乗ってきて、昔はどんなおもちゃで遊んだとか、どんなお菓子を食べたとか、俺の兄心をくすぐるような話ばかりが続き、みんなが三々五々と散ったときにはほとんどの店は閉まっていた。


 俺の手には食材のほかに、タッパに詰められたいろいろな産物が土産としてついている。大半は俺の弁当となって消える運命にある者たちだ。


 閑散とし始めている商店街を見回してみたが、佐藤の姿は見当たらなかった。

「こっちじゃ」と乾物屋のじいちゃんが店先から手招きした。


 店に入ると、背もたれのないすのこ・・・ベンチで、佐藤の膝を枕にして邦志がすやすやと寝息を立てていた。雫もベンチに座っており、手をつながれて舟を漕いでいる。すっかり懐かれている様子だが、その佐藤もうとうととしている。


 しかし、さすがにこれは俺一人じゃ無理だな。今こそ商店街の皆々様のお力を拝借したいところなのだが……。



「なんか、ごめん」

「ううん。しょうがないよ。子どもだもん」

「……ほんと、ごめん」



 雫は俺が背負い、佐藤には邦志を背負ってついてきてもらった。なぜか佐藤になら家を見られても大丈夫なような気がした。こんなことは俺の人生で初めてのことだった。


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