第3話 俺と野獣先生、再び

 

 翌日も教室で野獣先生と会ったが、昨日の出来事を忘れたように普通だった。何事もなく日常は過ぎていき、ゴールデンウィークを翌週に控えた土曜日を迎えた。


 リビングのソファーの前に置かれたガラスの背の低いテーブルで妹のしずくに算数を教えつつ、一方でおもちゃの車で遊んでいる弟の邦志ほうしの相手をし、そろそろ昼ご飯を作ろうかと考えているときにドアホンが鳴った。備え付けのインターフォンカメラに映った2人の人物。聖和と、なぜか野獣先生がいた。


 聖和はうちの鍵を持っているからいつも勝手に入ってくるのだが、野獣先生が一緒だから俺に心の準備をさせる意味を込めてドアホンを鳴らしたのだろう。そういう気づかいのできる男だ。


 ただ心の準備も何も、野獣先生が来たというだけで否が応でも血圧は上昇した。期待と恐怖が混在している。

 玄関に迎えにいった。



「そろそろお昼でしょ? 作ってあげようと思って、ほら」


 そういって野獣先生がレジ袋を軽く持ち上げた。


「オムライス、私好きなの。あがらせてもらうわね」

「はあ……」



 野獣先生に道を譲り、背中を見送ってから聖和に目を戻した。


 どういうつもりだ━━。視線で問いかけた。聖和は靴を脱ぎながら「そこで会っただけだ」といった。



「聖和が呼んだわけではないのか」

「違う。家の前でうろうろしていたから連れてきた」

「うろうろって……」


 そんなかわいい情報はいらないのだが。


「あれでは不審者だ。通報されて警察に来られても面倒だからな。しょうがなかったんだ」

「それは……しょうがないな」



 野獣先生の内なる獣を知らなければ、美談として俺の心も動いたかもしれないが、どうにも複雑な気分だった。



「ちょうどいい機会だ」


 そういって、聖和は含むように笑った。


「直接先生から情報収集しよう」

「情報?」

「先生の好みのタイプだ。むろん一番いいのは仁が彼女を受け入れてしまうことなんだが……」


 期待のこもった視線を手で追い払った。


「諦めろ」

「わかってはいたが、ただ気が変わっていないかと思ってな」

「変わるわけがないだろ」

「念のために確認しただけだ」



 俺の肩をポンと叩いて聖和が前を行く。後についてリビングに戻った。


 食べるのが好きだからといって、料理が得意とは限らないわけで……。妹たちが、台所で暴れている野獣先生を茫然とした様子で見ていた。


 お世辞にも先生の手際はいいとはいえない。調理器具の場所を知らないのだから仕方がない部分はあるとはいえ、普通ならある程度道具をそろえてから調理を開始するところを、とりあえずまな板に鶏肉や人参などを置くだけ置いて、手狭な場所で肉を切ろうと悪戦苦闘している。その時点でダメな人だということがわかった。


 このままではいつ昼食にありつけるかわからない。


 俺はまだいい。だが妹たちにはちゃんとした食事を摂らせたい。なんといっても雫は小学2年で邦志ほうしに至ってはまだ4歳だ。おかしなものを食べさせたくない。



「いったい先生は何しに来たんですか。俺がやるので座っててください」


 台所に入り、手を洗いながら先生にいった。


「何って、ちゃんと黒尾くんの家庭のことを見ておこうと思ったのよ」

「前に見たじゃないですか」

「あの時は妹さんたちはいなかったでしょ。そのことを教育会議でいったら、ちゃんと見ておくようにって教頭にいわれたのよ。ほら、黒尾くんの家って大人がいないでしょ? だから不良のたまり場になっていないかとか、不純異性交遊の温床になっていないかとか、周りに対する影響も気にしているのよ。まあ保身よね」

「そんなことになるわけないでしょうが。あなたたちの頭はどうかしてますよ」

「そうかしら。普通はそうなる可能性は高いわよ? 黒尾くんに限ってはないでしょうけど」

「ありえないですね。まあでも理由はわかりました。それはいいですけど料理は俺がやるので先生はくつろいでてください」

「大丈夫よ」

「まったく大丈夫そうに見えないからいってるんです。お願いですから大人しくしててください」



 背中を押して、強引に押し出した。台所のカウンター越しに聖和がやってきて、声を潜めていった。



「料理上手な人じゃないとダメみたいだな」



 たしかに、と頷いて同意しておいた。リビングに戻った先生を目で追った。



「あら、お勉強中なのね。偉いわね」



 台所を追い出した後、野獣先生はソファーではなく、その間のガラスのテーブルでお勉強中の雫の横に座った。



「魅惑の高校教師が直々に手ほどきしてあげるわね。えっと、なになに?」



 あんたは何を教えようとしてるんだ。心配で心配で、やめてくれと声を大にしていいたかった。



「『お母さんは午後11時に眠りました。お父さんはお母さんが眠ってから5時間後に帰ってきました。お父さんは何時に帰ってきたでしょう』か。これは、まずお父さんの浮気を疑うべきね」



 思わず持っていた包丁を投げそうになった。



「基本は匂いよね。それから口でしてあげて、量や濃さを確認して━━」

「やめんかっ」



 本当に包丁を投げておけばよかったと後悔した。家庭訪問の時から何かが始めたとしか思えないのだが、そんなことよりも今は雫のほうが心配だ。



「あんたは子どもに何をいってんですか」


 あっ、といって野獣先生はごまかすように雫の頭を撫でた。


「なんでもないのよ。気にしないで」



 この人に雫は任せられない。やつを止めろ、と聖和に目で指示した。聖和がため息をついてソファーに向かった。



「先生は尽くしたいほうなんですか」



 貴様もか、聖和。いったい何を訊いてんだよ。

「意外かしら?」と野獣先生が聖和の向かいに移動しながら訊いた。



「お姫様タイプとは思ってはいませんでしたけど、実は家庭的なのかもと思ったものですから」



 おいおい、聖和くん。君にとって口で奉仕する人はみんな家庭的なのかい? 挟みたい口を閉じて無心を目指して人参の皮を皮むき器ピーラーで剥いていった。



「愛するよりも愛したいというところはあるわね。それに、ダメの男にかれるというのかしら。苦労するとわかってしまうとどうにも放っておけなくなるのよね」

「つまり、仁ということですか」

「そうなのよねえ。毎日うずいちゃって処理に困っていたのよ」

「雫を挟んでそんな会話をするな」



 やむをえず注意した。そもそも教師が生徒にする話ではないし、ましてや雫と邦志がいる場所となればなおさらだ。雫が理解していないようで助かったが、もう先生には退場願いたいところだ。聖和と先生がきょろきょろとしている雫を見て肩をすくめた。



「それが先生のタイプというわけですか」


 雫の頭を撫でながら聖和が訊いた。


「タイプというのとは違う気もするのだけど、あながち間違いでもないわね」

「なるほど。ダメな人が好みってことですか。どうして仁の周りにはそういう人ばかりが集まるのでしょうね」

「少し言い方が気に入らないけど、まあいいわ。それよりそういう人が集まるって、どういう意味かしら」

「不思議と多いんですよ。世話焼きの気質のある人たちが。老若男女問わずです」



 その中に自分は入っていないと聖和は思っているらしい。実に滑稽だ。



「そうなの?」

「仁が昔から世話になっている弁護士先生がいるんですけど、その先生も驚いていましたよ。ついには呆れて仁のことを『ホイホイくん』と呼ぶようになったくらいに多いです」

「ホイホイくん?」

「ゴキブリホイホイのホイホイです。仁が関わると周囲の人が放っておかないから、という意味です。そういう弁護士先生もホイホイされているのに自分では気づいていないんですよね」



 人のことを棚に上げて聖和は朗らかに笑った。野獣先生の意味ありげな笑みにも気づかずに……。


 あわれだ。おまえも自分のことに気づけといってやりたいが、そんなことをいうと俺がホイホイを認めていることになりそうですごく抵抗がある。そんな話を認めてなるものかという気持ちが依然として強くある。


 そもそもホイホイしてるつもりはない。普通だ。断じて普通だ。さらにいうならば、俺はダメな男ではなく出来る男だ。家事だって完ぺきにこなせる。そのへんの新米主婦なんぞに負けはしない。まあベテラン勢には負けるけど、それは経験の差だ。これから経験を積んでいき、ベテランに負けない立派な主婦になってみせる予定でいる。

 意気は高い。だからホイホイなんて呼ばれる筋合いはないのだ。


 燃えよ、主婦魂。人参嫌いの邦志ほうしのために、粉微塵こなみじんを目指して人参の微塵みじんりにとりかかった。


 その弟は床に腹ばいになり塗り絵に熱中している。



「ねえ、赤羽くん?」


 野獣先生が穏やかにいった。聖和が何ですかと楽しそうに聞き返した。


「あなたもモテるのにどうして誰とも付き合わないの?」



 いい質問が飛び出してきた。さあどうする、聖和。人参に続いて玉ねぎの微塵切りにとりかかった。



「まだ入学してひと月にもならないのに、僕にどうしろというのですか」

「でも告白はされたんでしょ? 教師の間でもけっこうな噂になってるわよ。それこそあなたが誰と付き合うか賭けをしてる先生もいるくらいにね」



 何をやってんだ、高校教師は。暇か。暇なのか。俺もひと口乗せて欲しいところだ。


 俺のお勧めはうちのクラスの霞ヶ丘かすみがおか望海のぞみなのだが、はたしてどうだろうか。ちらりと聖和を見た。聖和は大げさに肩をすくめてみせていた。



「今は誰とも付き合うつもりはありません」

「あら、どうして? 右手が恋人で満足なの? それで満足できる年頃ではないわよね」

「おい、こら」



 ちゃんと注意して、大きめの中華鍋を火にかけた。油を引き、しばらく待つ。聖和はまたもや肩をすくめた。



「女性に興味がないといえば嘘になります。でも今は遊んでいる暇はありませんからね」

「黒尾くんのため?」

「そういう気持ちもないわけではありませんが、それよりも家庭の事情ですよ。これは仁にも先生にも関係のないことです」



 家庭の事情ねえ。それは初めて聞く話だ。

 野獣先生は納得した様子はなさそうだが、追求はやめたらしい。お手上げのポーズを取った。


 鍋が温まってきた。鶏肉を投入して、炒めた。じゅうじゅうといい音が鳴っている。



「まあ今はそういうことにしておいてあげる。でも、あまり黒尾くんにかまっちゃだめよ」

「かまっているつもりはありませんが」

「そう? でも黒尾くんのことが好きな人にとって、あなたの存在があまりに大きいみたいよ。そのせいで黒尾くんに近づけずにいるんだって」

「それは僕を言い訳に使っているだけなんじゃないですか。学校でのこいつは暇さえあれば机に向かっているから話しかけたくても話しかけられない。唯一話しかけやすい昼は僕と一緒にいる。だから僕を言い訳に使っている。そういうことでしょう」

「そういうところはあるわね。ねえ黒尾くん? 彼女を作ろうとか思わないの?」

「まったく思いません」



 答えながら中華鍋に野菜を放り込み、軽く火を通して、米を投入した。ここからは火力と時間の勝負だ。味を調えつつケチャップを投入する。



「寂しい青春になるわよ?」

「大いに結構。人のことで悩むなんて、ごめんですよ」



 突き放して、鍋を振り続けた。野獣先生も聖和も黙り込んだ。一応、学校にはうちの事情を話してある。


 話したのは紅葉おばさんらしい。聖和の母親で、俺を生んだ人の実妹じつまいにあたる人だ。が、どうでもいいことだ。


 やっぱり料理はいい。何かを作り上げているという確かな手ごたえを感じることができる。

 手早く炒めて、皿に盛り、軽く中華鍋を洗ってから用意しておいた溶き卵をオムレツを作る要領で楕円形に丸めて、人数分を作り終えた。

 そして最後だ。



「雫は何か描いて欲しいものはあるか」



 勉強を再開していた妹に声をかけた。雫が振り返り、元気に立ち上がった。



「パンダさん」



 そういって駆けてきた。カウンターの向こうから期待に輝いた目を向けている。ただ身長が足りず、背伸びしてようやくカウンターと目線が並んでいるといった感じだ。頑張ってオムライスを覗こうとしているところが実にかわいい。料理中に台所に入った時に何度も叱ったから入ってくることはない。頭がよくてかわいくて無邪気な、俺の天使だ。



「シズクね、パンダさんがいいの」

「パンダさんだな。よしよし。描いてやるぞ。邦志はどうだ?」

「ぼくもパンダさん」



 邦志も駆け寄ってきた。年齢は4歳。姉の真似をしたい年頃だ。舌足らずなしゃべり方が猛烈にかわいい。



「よしよし。じゃあ描いておくから手を洗ってこような。聖和、頼めるか」

「はいはい」



 聖和が笑いながらソファーから立ち上がった。



「ほら、行くよ」



 雫と邦志の手を引いて、リビングを出ていった。妹たちは名残り惜しそうではあるがついていった。俺にしてみたら見慣れた光景なのだが、その光景を眺めて野獣先生がほうっと吐息をついた。



「本当にあなたたちは仲がいいのね」

「そりゃ兄弟ですからね」

「そっちじゃなくて、赤羽くんのことよ。なんだか夫婦生活を見せつけられた気分だわ」

「変なことをいわないでください。あいつは俺の従兄弟いとこで幼馴染で親友なだけです」

「3つも属性がついてるのね。ほんと、男の子っていいわよねえ」

「属性って……。まあ、聖和はほとんど家族みたいなものですからね」



 楕円形に丸めた卵を包丁で真ん中から割っていき、広がった黄色いキャンパスにパンダの顔をケチャップで描いていった。ケーキに文字を書くときに使う絞り器の口金を、ケチャップのキャップに取りつけただけだが、細かい細工ができるので重宝している。ちなみにマヨネーズバージョンの口金もある。


 野獣先生が重たい動きで立ち上がり、カウンターに近づいてきた。



「妹さんと弟さん、2人の面倒を見てるのよね。ねえ、本当に大変じゃないの?」

「まったくです。楽しいくらいですよ」

「楽しいかあ」


 先生がため息をつき、カウンターを回って台所に入ってきた。


「お茶入れるわね」

「ありがとうございます。冷たいのでお願いします。でも氷は抜きで。あいつらがお腹を壊すといけませんから」

「了解しました」



 先生がくすっと笑い、冷蔵庫から麦茶を取り出した。人数分のコップを出して、注いでいく。先生がオムライスを見て、あら、と驚きの声をあげた。俺も、あ、と声を出してしまった。興が乗り、うっかり全員分のオムライスに動物を描いてしまっていた。


 雫と邦志にはパンダを、俺はコアラで聖和はシマウマ、そして野獣先生のは、舌を出し白目を剥いてラリッている変態モンキーだ。


 悪意があってのことではない。ただのうっかりだ。ちなみに白目の部分に半熟卵の白い部分を使っているから妙にリアルだったりする。



「料理だけでなくて絵もうまいのね。でも━━」


 先生が変態モンキーを指さした。


「これはどういう意味かしら?」

「つい先生のことを考えていたら……」

「それはつまり、黒尾くんの目に私はこう見えているってことでいいのかしらね」

「そんな、まさかあ」



 あはは、と笑ったら、先生も「そうよねえ」と笑いながらいった。だけど、目はちっとも笑っちゃいない。



「描き直します」

「そのほうが身のためよ」



 瞬間に先生の表情が氷に変わった。黄色いキャンパスをひっくり返して、先生の細かい要望に応じつつ、ウサギを描かされた。


 どちらかといえば先生はウサギを食らう獣のほうだから、今からこれを食べるとなれば、清く正しく捕食者と被捕食者の関係を表しているのだろうとは思う。だけど、とてもではないがいえる空気ではない。


 先生は満足してるみたいだし、これでいいだろう。

 皿とコップを先生と一緒に食卓に並べた。窓際のほうに置かれてある8人掛けの食卓だ。



「先生にウサギとは……チャレンジャーだな」



 席に着くや否や聖和がいった。その瞬間に、食卓にピリッとした緊張が奔った。


 おまえこそチャレンジャーだよ、と心で聖和をなじり、弱肉強食の関係をはっきりとさせている先生と聖和を無視して、雫にかまいながら邦志の食事の補助と自分の食事を進めた。


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