第3話

 三月が終わり、もうすぐ始業式という頃になっても僕はまだ飽きもせず喫茶店に通っていた。することと言えば宿題、読書、あとはぼーっと夏凜さんや友田さんの仕事を眺めているだけだったが毎日が充実しているような気分だった。


「鮎川くんは彼女とかいたことないの?」

唐突に夏凜さんが聞いてくる。

「え、あ…、そ、そうですね。いたことないです」

どもりながら僕は答える。夏凜さんはいつも自由奔放で、僕はいつも咄嗟に答えられず詰まってしまう。

「そっかー、なんか可愛いね!」

そう言って鼻歌を歌いながら仕事に戻る夏凜さんの背中を見ながら僕は、

「なんか調子狂うよなぁ」

と毎日のように思うのだ。

 今日はとりわけご機嫌なようで、何かにつけてこちらを見て笑いかけてきたり、話しかけてきたりする。テラス席から海を眺めている姿はまるで本人が輝いている様に見える。

「今日はなんだか楽しそうですね」

僕がそう声をかけると

「何があったわけでもないんだけど、起きたときから気分よくて!」

爽やかな笑顔で返事をする。


 その日は午前で仕事を終えた夏凜さんが、私服に着替えて僕の席の向かいに座った。何か用があるのかと顔を上げると、鼻の先が触れそうな距離に夏凜さんの顔がある。僕は驚きと恥ずかしさで赤くなりながら、

「わっ、なんですか夏凜さんっ」

と思わず声を上げた。すると彼女は

「何読んでるのかなーって」

とにこにこと笑いながら答える。屈託のなさとフレンドリーに距離を詰めるところに彼女の良さがあるのだが、女性に対する免疫の薄い男子校生には少し刺激が強すぎる。耐えきれなくなった僕は少し身を引くと、

「この間話した作家さんの作品を…」

とドキドキと鳴り続ける心臓を落ち着けつつ答える。夏凜さんは

「あーっ、それまだ読んでないやつだ」

と言って物欲しげに小説を見る。

「もうすぐ読み終わるのでお貸ししましょうか?」

僕がそう提案すると夏凜さんの表情はあかりがつくようにぱっと輝き、

「本当?なるべく早く読み終えて、来てくれた時に返すね!」

と声まで明るくなる。こんな表情が見れるなら本なんて何冊でも貸すのにな、と思いつつ

「ゆっくりでいいですよ。他に貸したりする人もいませんから」

と笑って言うと彼女は

「そう?あ、邪魔しちゃったね。続きをどうぞ、静かにしてるから」

と僕に続きを促す。貸す約束をしてしまった手前読み終えないわけには行かず、再び僕は本に没入する。


 日が傾いた頃に読み終え、声をかけようと向かいを見ると夏凜さんは机に突っ伏して寝ていた。

 すーすーと気持ちの良さそうに寝息を立てている夏凜さんを眺めているながら寝顔も綺麗だな、などと考えていると突然ビクっと夏凜さんの体が震え、ハッと目を覚ました。目を瞬かせながら起き上がった口元からつ、と涎が落ちる。僕は見てはいけないものを見たような罪悪感にかられ、さり気なくティッシュを差し出した。夏凜さんは恥ずかしそうに少し慌ただしく口元とテーブルを拭い、

「今のは忘れてね。」

そう下から伺うように僕を見て言う。そんな表情が僕の悪戯心に触れ、僕は意地悪く

「いいものが見れたのでしっかりしまっておきます」

と言って笑った。すると彼女は頬を少し膨らますようにして

「そんな意地悪なこという人は嫌いだよ」

それからぷいっと横を向いてしまう。機嫌を損ねたかと慌てた僕は

「今見たことはもう全部忘れますっ!可愛かったのでつい……。すみません!」

などと拉致もないことを口走ってしまった。彼女は堪えきれずに吹き出すように笑って言う。

「あははっ。素直だなぁ。そこが鮎川くんのいい所なんだけど」

笑顔に戻った夏凜さんを見てほっとしたのも束の間、可愛かったなどと口走ったことを思い出し顔が火照る。恥ずかしさで少しの間俯いていた顔をゆっくり上げ夏凜さんを見ると、彼女はじっと窓の外を見ていた。その頬と耳は寝起きの恥ずかしさで赤くなっていたときよりも少し濃い赤みを帯びていた。


 その時、その表情を見た僕の中で何かが吹っ切れた。

「夏凜さん」

そう呼びかけて「ん?」とこちらを向いた彼女の顔を見つめる。表情から僕の思いを計り兼ねてか、彼女は少し困ったような顔をする。

僕は少しだけ息を吸いこんで吐き出す。少し気分を落ち着かせた僕は口を開き、

「僕、あなたのことが好き……です」

と言った。なんの脈絡もない告白に夏凜さんは驚いた表情をする。それはそうだろう、自分の中でも、なぜ今なのかと問いかける声が聞こえる。それでも言ってしまったものは仕方が無い。ままよと、迷いを振り切り言葉を紡ぐ。

「初めてお会いした時から、それから会うたびにもっと」

「仕草も表情も、僕にくれるどんな言葉も、全部、全部、好きです」

「好きな方がいるのはわかってるんです。でも、それでも…」

つまらない、本当にただありのまま思った言葉をまっすぐ、そのまま口に出す。今度は夏凜さんが俯きがちになり、じっと黙っている。

 長い時間沈黙が続いたような気がする。夏凜さんがさっきの僕のように息をすっと吸った。そしてゆっくりと言葉を吐き出す。

「私ね、好きな人がいる。ココロの距離はわからないけど実際には近くにね」

そう言って、つと顔をあげカウンターの中を見つめる。カウンターの中にはコーヒーを淹れている友田さんの姿があった。それだけで鈍い僕でも察する。

「初めてこの店に来た時ね、嫌なことがあってた後ですっごい気分悪くて、多分顔色とかも凄い悪かったと思うんだけど。その時にその人と会ったの。最初見たときは勿論なんとも思わなくて、気分悪いままだったんだけど」

「でもね、その人が話しかけてくれたときにね、何にも中身のない会話なのに、なのに嫌だったこと全部、本当に全部、忘れられたんだ。ただの世間話だったのにね」

「そのとき思ったの、この人とならずっと幸せでいられる、って」

「ただ話すだけで全部忘れて幸せになれる人なんて居ないもの。それからはキミが私に言ってくれたみたいに、会うたびにその人のこと好きになった」

そこまで一息に言うとふぅ、と息を吐いた。何度も念を押すように繰り返された言葉は、彼女が友田さんの言葉に救われたことを僕に教えた。それから僕は同じだと思った。始めて僕が友田さんに出会った時と同じだと。だから分かった。彼女の気持ちも、僕に勝ち目がないことも。それから夏凜さんはもう一度口を開く。

「だからキミの気持ちには……答えられない。でもね、その気持ちはすごく嬉しい。ありがとう」

夏凜さんはそう言ってとびきりの笑顔で笑った。その笑顔を見て僕は泣きそうになる。下がろうとする口角を無理やり上げて精一杯笑い、

「また、会いに来てもいいですか」

さらに精一杯平気そうな声でそう聞く。夏凜さんは何度も頷いてくれた。何度も。

「うん、うん。また来て、一緒に話そ?」



 それから僕は店を出て、いつかのようにまた海岸を歩いた。夏凜さんの笑顔が浮かんでくる。まだ好きだな、と未練がましく思った。それから数日前にこの海岸で片思いも悪くないなどと思ったことを思い出す。結局初恋にして初めての一目惚れは勢い余って飛び出した自分のせいで儚く散ってしまったけど。

 石を拾って投げる。ドボンと沈む。何度投げてもそのまま沈む。目を閉じるとおかしいなぁ、とフォームを確かめる夏凜さんが瞼の裏に浮かんでくる。

 また石を投げる。跳ね返った海水が目に入って視界が滲む。目に入った潮水はそのまま流れ落ちていく。入ったのは一滴のはずなのにどんどん流れ落ちていく。滲んだ視界のまま石を投げる。石を投げながら涙がとめどなく流れるのに任せた。



 一通り感情が流れ、後に残った気だるさを感じながら、自分が後悔をしていないことに気がつく。僕は少し熟れたココロに加わった甘味を感じながら明日から始まる学校に思いを巡らせた。

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