冴えないリーマンは今日も飯を食う

降川雲

宗一郎の一日


 目覚ましが鳴る。宗一郎は寝惚け眼で目覚まし時計のベルを止めると、もぞもぞと動き出した。今日は午後から、会議が入っていたはずだ。顔を洗ってもいまいちスッキリしない頭で、ぼんやりとワイシャツに袖を通しながら、仕事のことを考えて陰鬱な気分になる。


 だが宗一郎にとって最も重要な問題は、どこの店で朝食をとるか、という事である。食事を全て外食にしている宗一郎は、給料日前の懐事情を思い出して頭を抱えた。今日の会議の陰鬱なことを思えば、朝食もそれに備えて値の張るものにしたかったが、貰えている給料できちんとこの生活を回す方が重要だ。


 それに、たまにはチェーン店の朝食を食べるのも悪くない。どこの店でも一定品質で値段を抑えて食べられるというのは、なかなかに魅力的である。ハンバーガーや麺類は今日の忙しさからすれば、もうすこし味わって食べられるものの方が、食事の充実感があるだろう。支度を済ませる間にそう算段を付けた宗一郎は、家を出たのであった。

 


 宗一郎が会社の最寄りに着くと、まだ朝が早いせいか、人はまばらであった。ここは東京でも有数のオフィス街だから、昼は人の洪水のようにあふれている場所だ。

宗一郎は定食の全国チェーン店に入った。他のこう言う類の店もそうだが、注文を券売機で受け付ける形式だった。都会での人との関係の煩雑さにつかれた宗一郎にとっては、この仕組みも無用に他人と触れ合わない物であるから、とても好ましかった。

朝食のメニューが表示されている券売機のパネルを見ながら、今日は焼き鮭朝食にしようと、ボタンを押したのだった。


 席につくとほどなくして、半券を取りにアルバイトの店員がやってきた。中身のない返事を返し、やる事もなく店内をぼうっと眺めていた。店内の他の客は、何をそんなに急ぐ必要があるのか、妙に慌ただしく飯を掻き込んでいた。もっと味わって食べても罰は当たらないだろうにと、宗一郎は感じた。

「お待たせいたしました。焼き鮭朝食でございます」


 若い女性の声がかけられて、宗一郎は自分の席のテーブルを見た。店員は膳を置いたら自分の仕事は終わったかというように、そそくさと奥の方へ戻ってしまった。このような店は人との関わりが最小限で抑えられるのがありがたい反面、少々寂しさを感じさせると宗一郎は思った。


 焼き鮭朝食は、ご飯とわかめや豆腐や油揚げなどの具が、見ているだけでたくさんだとわかるほどの味噌汁、皮に程よい焼き色のついた鮭、ポテトサラダに生卵と醤油がついていた。醤油には「卵かけ醤油」とあったから、この生卵は卵かけごはんのためのものだろう。卵は見るからに新鮮な卵だとわかる、黄身が大きく盛り上がっているものであった。五百円にも満たない価格でありながら、新鮮な卵をきちんと用意するのは、昨今の食品の安全を重視する消費者意識の表れかもしれない。そんなことを考えながら食事をするなんて、嫌な大人になったものだと自嘲しつつも、味噌汁の椀を手に取った。


 合わせ味噌の香りが、優しく目覚めたての身体に入ってくる。汁を口に含んで飲めば、朝から何も口に入れていなかった、渇いた身体に程良い暖かさの味噌汁が染み渡る。ぎゅるるる、と空腹を訴えていたお腹も、味噌汁を受け入れたことによって食べ物を入れる用意ができたようだった。


 生卵に醤油を数滴たらして、器を手に取って黄身を割る。黄身の膜が破れて、とろりとした中身がじんわりと出る。白身ごと黄身を割るように箸を入れる。箸を入れた感触は、新鮮な卵そのものである。見た目からの第一印象が外れていなかったことに歓喜しつつ、卵を溶く。黄身と白身が程よく溶け合った頃合いで、茶碗に盛られたご飯の真ん中にくぼみを軽く作り、それに目がけて卵を流しいれる。溶き卵とご飯をかきまぜ、ご飯に卵がよく絡むようにする。箸で一口摘まめば、ご飯粒の表面に絡んだ卵が、店内の蛍光灯に照らされて艶やかに見えた。口に卵ご飯を含めば、卵の甘さが口いっぱいに広がった。噛んで味わえば、ご飯の甘さも舌で感じることが出来る。ご飯茶碗を持ったまま、鮭を箸で切り分ける。業務用の鮭らしく身は薄っぺらいが、口に含めば程よい塩加減でパサパサになりすぎておらず、食欲を誘った。ポテトサラダも程よくジャガイモの触感が楽しめるような潰し加減だったので、飽きずに味わえた。


 安い定食だったが満足して食事を終えた。ごちそうさま、と席を立つと店員が口をそろえて、

「ありがとうございました!」

とマニュアル通りの言葉をかけられたのだった。



 満たされた気持ちで出勤すると、直属の上司から、

「時間ぎりぎりじゃないか」

と、睨みつけられた。しかし遅刻はしていない。始業開始の五分前には着いている。その不満を口に出さずに黙っていると、目の前の上司の顔がみるみる不機嫌になる。宗一郎はなぜか、この上司から妙に嫌われているようであった。

 大変申し訳ございません、と宗一郎は頭を下げると、自分のあてがわれたデスクへと移動した。


 昼休憩の時間きっかりに仕事を終わらせ、窮屈なオフィスから足早に去る。待ちに待った昼食の時間だ。午後からの陰鬱な会議を乗り切るには、ここはご飯ものに限るだろう。そう考えた宗一郎は、近場の安くて美味しい店を頭に浮かべるのであった。


 やってきたのは小ぢんまりした食堂である。しかし店の評判がいいのか、食堂が接する路地からは長い行列が伸びている。宗一郎は日に当たりながら、首を長くして待っていた。


 客の周りが速い店なので、行列のわりに宗一郎は早く店に入ることが出来た。店員が先に注文を取っていたので、席に着けば注文したお目当てを待つだけだ。

 かつ丼のお客様、とおばさんの声が宗一郎にかかる。そう、この食堂はカツ丼や天丼などの丼ものの評判が高い。安くてしっかりとしたボリュームがあり、大都会の真ん中で他の店に引けを取らないほど旨い。


 卵でとじられたかつ丼に箸を入れ、そっと割る。炊き立てのご飯の香りと、上品な醤油だれの香りが自然と鼻に入ってくる。宗一郎の腹ペコのお腹が、ぎゅうと鳴る。ご飯とかつを大きく頬張れば、そこは至極の世界だった。かつは卵でとじられているというのに、衣が絶妙にサクサクとした触感を残したまま、卵とよく馴染んでいる。かつと卵はそれぞれの良さを残したまま、不協和音を奏でずにしっかりと割下の味が染みて、白いご飯とよく馴染んでいた。塩辛すぎず薄すぎない、絶妙の加減で味付けされた卵とじかつは、それだけで炊き立てのほかほかご飯と良く合い、箸を進ませた。


 このかつ丼は定食の形式で出されていたから、お新香と味噌汁も一緒だった。お新香は塩辛すぎず絶妙な塩加減で、かつ丼の味を邪魔しない箸休めとして最適だった。味噌汁も良く出汁が効いていて塩辛すぎることのないちょうどいい塩加減だったので、あっという間に飲み干してしまった。


 味の良く染みたご飯粒も一粒残らず掻き込んだ。この店は料理がとても美味しいのだが、店全体の雰囲気がせわしなく、ゆっくり食べる心の余裕がなくなるのが玉に傷だなと感じた。慌ただしく働くおばさんにお代を渡して会計を済ませると、また来てちょうだいねと言われた。宗一郎は後ろに並んでいる会計待ちの人の視線から逃げるように店を出ながら、また来ますとおばさんに言ったのだった。



「君、どうして昼休みになるとさっさと出かけていくかね? 仕事に来るのも遅いし」

 昼食を満喫してから件の上司から言われたことが脳裏によぎる。今は宗一郎が関わっているプロジェクトの会議である。件の上司が新入社員にプレッシャーをかける発言をしているのを、ぼんやりと宗一郎は眺めていた。


 宗一郎も数年前、同じように上司からプレッシャーをかけ続けられた。当時上京したばかりの宗一郎は、見知らぬ土地慣れない環境でのストレスもあったせいか、自分で食事を作るほどの気力もなく、倒れ込むように眠って、エナジードリンクを流し込んで出勤していたのだ。それを見かねた別部署の同僚から食事に誘われ、食事の楽しさを思い出した。それからは外食を楽しむことが一日の楽しみになった。毎食外食するのは決して金銭面では楽ではないが、幸い宗一郎には食事以外の趣味が無いのでなんとか生活は成り立っている。


 部下を叱りつける上司を見ながら、唯一の娯楽が毎日の食事なのだからあまりうるさく言わないで欲しいと心の中でため息を吐くのだった。



 仕事から解放されて、駅前の飲食店が並ぶ通りをぶらぶらと歩く。今日は会議の後、上司から余計に仕事を押し付けられたので、残業することになってしまった。元は新入社員の分の仕事だったようだが、入社間もないのにあの上司は前からいる社員以上に仕事を任せていたのだ。新入社員はといえば申し訳ない顔をしていたのだが、元はあの上司が無能なせいなのだから「気にするな」とは言っておいた。しかし、あの様子では気にしていないわけがないだろう。


 しかし今は自分をねぎらうのが先だ。ふと、焼き鳥のいい匂いが漂っているのを感じた。宗一郎はその匂いにつられるように、表通りから路地裏へと抜けていくのであった。


 辿りついたのは、焼き鳥と暖簾のある居酒屋のようだった。暖簾をくぐると想定以上に繁盛していた様だった。店主は宗一郎を見つけると、カウンター席を案内してきた。店主に聞けば初めての客にはおまかせコースを勧めていると言ったので、宗一郎もそれに倣うことにした。


 お酒は不得手なのでウーロン茶を飲みながら店内を軽く窺う。客の会話を聞く限り、何度も店に来ているリピーターが多いようであった。焼き鳥のたれの焼けるにおいが立ち込める店内は、ただいるだけでお腹が減る。ご飯を追加で注文し、焼き鳥が来るのを待った。


 宗一郎の前に出されたのは、野菜の串と肉の串が混じって合わせて十本ほどの盛り合わせだった。今までまともな焼き鳥専門店で食べてきた経験がなかったから、どういう種類のものかも見当が付かなかった。しかし、たれの塗られた焼き鳥の一つ一つが艶やかで、思わずよだれが出そうになっていた。たれの塗られていないつくねの串から恐る恐る頬張る。外側はカリッと焼きあげられているが、噛めば噛むほど肉汁があふれ出てくる。他の串にもかぶりつく。たれの香ばしい香りが食欲をそそって、夢中で一口大の鶏肉を咀嚼する。プリプリとした噛みごたえでなおかつ、肉汁が噛めば噛むほどにじみ出てくる。


 宗一郎が焼き鳥を満喫していると、追加注文したご飯が届いた。一休の焼き鳥をおかずにして食べる白米は、宗一郎の予想以上に箸が進んであっという間に小ぶりの茶碗の中のご飯が無くなってしまった。迷わず宗一郎はご飯のおかわりを注文した。


 野菜の串も、肉の串の合間に食べていたら、あっという間に最後の一口を食べ終えてしまった。焼いているだけだというのに、しっかりした野菜の甘みと食感が、宗一郎の舌を楽しませた。大都会の真ん中だというのにこんなにも新鮮でおいしい野菜を用意するなんて、どれだけの手間がかかっているのだろう。宗一郎は素直に感嘆するしかなかった。


 見慣れない形をした肉の串も、最初は何に部位だかわからないような物が多く、口に運ぶのも躊躇していた。しかし、店長が気さくに肉の部位について教えてくれることと、食べればそれぞれ違った触感が楽しめたおかげで、箸が進んだ。食べ終わった時にもっと食べたいというようなさびしいような感覚を覚え、またこの店に来ようと固く決意したのであった。勘定を済ませ、また来ますと店長に言えば、人のよさそうな彼は嬉しそうに笑ったのであった。


 

 家に帰りスーツを脱ぐ。明日も陰鬱な仕事が待っている。だが嫌なことばかりが日常ではない。明日の朝食のことに思いを巡らせながら、宗一郎はシャワーを浴びるのだった。

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