深海紳士録 ①クジラの骨はオアシス

亡霊葬稿ゴーストライターマスタード』で紹介した通り、深海にはクジラの骨を頼りに生活している生物たちがいます。彼等は「鯨骨げいこつ生物せいぶつ群集ぐんしゅう」と呼ばれ、独自の生態系を築き上げています。


 海面に降り注いだ太陽光は、水深100㍍ほどで99㌫吸収されてしまいます。光合成でエネルギーを生み出す植物プランクトンは、深海では生きることが出来ません。


 海において植物プランクトンは、食物連鎖の基盤です。

 そして彼等のいない深海は、慢性的にエサの足りない状況にあります。


 この苦しい環境で生き抜くために、深海の生物たちは独特の進化をげました。


 例えばカイコウオオソコエビは、木を食べている可能性が指摘されています。

 彼等は体長4㌢ほどの甲殻こうかくるいで、水深6000㍍以深いしんに棲息しています。マリアナ海溝かいこうの最深部からも発見されており、2017年現在、世界一深い場所に住む生物の一つに数えられています。


 マリアナ海溝かいこうの最深部であるチャレンジャー海淵かいえんは、水深1万㍍もの深さを誇ります。カイコウオオソコエビが見付かるまで、生物などいないと考えられていた場所で、栄養になるようなものはほとんど存在しません。


 カイコウオオソコエビが何を食べているのかは、長年大きな謎でした。しかし近年の研究で、彼等が木を分解する酵素を持つことが明らかになりました。


 このことから彼等は、海底に沈んだ流木を食べていると考えられています。仮説を裏付けるように、チャレンジャー海淵かいえんからは流木の一部も発見されています。


 勿論もちろん、人間も木を食べることは出来ます。

 しかし、食べた木を分解し、エネルギーを取り出すことは不可能です。


 一方、カイコウオオソコエビは口にした木を分解し、エネルギー源となるブドウ糖を得ることが出来ます。


 ただ同時に、彼等は動物や植物を分解する酵素も持ち合わせています。

 どうやら木ばかりを食べているわけではなく、海底に沈んできた動物や植物の死骸も口にしているようです。


 海底に沈んだクジラの死骸も、多くの生物を助けています。深海に棲む生物の中には、クジラの骨がなければ生きていけない変わり種まで存在します。


 しかし、ここで一つ疑問が生じます。


 いくら海の中とは言え、そうほいほいクジラの死骸が転がっているものなのでしょうか。


 陸上に住む我々には、クジラの死骸=レアなイメージがあります。事実、砂浜にクジラの亡骸が打ち上げられると、必ずテレビで報道されます。


 確かに、クジラの死体が漂着することはまれです。しかしそれは同時に、多くのクジラが海の中で死んでいることを物語っています。


 またクジラの死体は、10年以上も海中に残ります。場合によっては、100年以上残ることもあるとか。


 計算上、20㌔×20㌔の海域には、大型のクジラの死体が二頭は沈んでいると言います。小型のクジラに至っては、20㌔×20㌔の海域に22頭も転がっているそうです。仮にクジラの死体だけをエサにしていたとしても、問題はないでしょう。


 更に近年では、人間がクジラの死体を海に沈めることもあります。こういった死体は貴重な観察対象となり、鯨骨げいこつ生物せいぶつ群集ぐんしゅうの研究に役立っています。


 海底に沈んだクジラは、段階を踏んで消費されていきます。

 真っ先に群がるのは、死体の肉を食べる生き物たちです。彼等が集まる時期は「腐肉ふにくしょく」と呼ばれ、数ヶ月から数年間続きます。


腐肉ふにくしょく」の代表的な生き物は、サメや大型の甲殻こうかくるいなどです。人間によって相模さがみわんに沈められたマッコウクジラには、大量のコンゴウアナゴが集まりました。


 コンゴウアナゴはウナギもくホラアナゴ科に属する深海魚で、水深370㍍から2600㍍の間に棲息しています。体長は40㌢前後で、外見はウナギに瓜二つです。所謂いわゆる「海の掃除屋」で、他の生物の死骸をエサにしています。


 一部で有名なヌタウナギるいも、クジラの死骸に群がる生物です。


 ヌタウナギるいは最も原始的と呼ばれる魚たちで、「無顎むがくるい」と言うグループに属しています。


 名前は勿論もちろん、姿形もウナギに似ていますが、ウナギとは全く別の生き物です。彼等と近い関係にあるのは、ウナギはウナギでも「ヤツメウナギ」です。


 そもそも「無顎むがくるい」とは、顎を持たない脊椎動物を指します。


 我々人類を含む脊椎動物は、ほぼ100㌫顎を持っています。しかし極めて原始的な脊椎動物は、ヌタウナギのように顎を持っていませんでした。


顎口がっこうるい」と呼ばれる現在の脊椎動物は、無顎むがくるいから進化したものたちです。この点を考慮するなら、ヌタウナギるいは我々のご先祖様と言えるかも知れません。


 時が進むにつれ、無顎むがくるいの生物は姿を消していきました。現在、地球上に残っているのは、ヤツメウナギるいとヌタウナギるいだけです。


 ヤツメウナギやヌタウナギは、無顎むがくるいの中でも円口えんこうるいと呼ばれます。その名の通り円状の口を持つのが特徴で、歯を持ちません。


 代わりにヌタウナギの仲間は、舌の上に歯のような突起を持っています。

 食事の際にはエサに吸い付き、舌の突起で相手の肉を剥ぎ取ります。


 一見すると不気味な無顎むがくるいですが、ヤツメウナギは古くから食用にされています。同様にヌタウナギも、韓国では食材として利用されています。


 またヌタウナギの革は、高級バッグや財布の素材としても珍重されています。彼等の革は牛革以上に強く、柔らかいそうです。


 更にヌタウナギは、産業の分野でも注目を集めています。


 彼等には敵に攻撃を受けると、粘液を分泌する習性があります。

 この粘液には水を吸う性質があり、周囲の海水をゲル状に固めてしまいます。


 固まった水は、鼻水や納豆のように粘り気を帯びます。

 人間が引っ張っても、なかなか引きちぎることは出来ません。


 ましてや、魚たちは手先が不器用です。

 一度固まった水に絡め取られたら、簡単に引き剥がすことは出来ません。それどころか、呼吸に不可欠なエラを覆われ、窒息死してしまったケースも報告されています。


 絶命した捕食者は、逆にヌタウナギのエサになってしまいます。見た目こそひ弱な彼等ですが、なかなかたくましい生き物のようです。


 彼等の虎の子である粘液は、人類にとっても様々な可能性を秘めています。


 ヌルヌルネバネバと美少女の親和しんわせいは、今更語る必要もありません。絵師たちがヌタウナギに興味を持てば、作者の……ゴホン、我々の渇いた心を潤す作品が生まれることでしょう。


 はい、悪ふざけはここまで。


 本当に注目されているのは、粘液の吸水力です。


 彼等の粘液は、吸水材として非常に優れています。事実、一匹のヌタウナギが出す量で、バケツ一杯分の水をゲルにすることが可能です。


 しかも粘液の主成分は、ムチンと呼ばれるタンパク質です。

 ムチンは納豆や山芋にも含まれる物質で、粘り気のもとになっています。


 また人間の胃や鼻と言った粘膜は、ムチンによって保護されています。

 唾液や涙にも含まれており、我々にとっては身近な物質です。


 ヌタウナギの粘液を研究すれば、優秀な吸水剤を作れるかも知れません。


 おむつや医療用品にも使われる吸水剤には、安全性も求められます。その点、元々人体に含まれるムチンなら、赤ちゃんや病人に悪影響を及ぼす可能性はありません。広く自然界に存在する以上、環境への優しさもお墨付きです。


 長くなったので、今回はここまで。

 次回は更に、鯨骨げいこつ生物せいぶつ群集ぐんしゅうを掘り下げていきます。


 参考資料:絶滅したふしぎな巨大生物

           川崎悟司著 (株)PHP研究所刊

      深海魚 暗黒街のモンスターたち

           尼岡邦夫著 (株)ブックマン社刊

      しんかいの奇妙ないきもの

           太田秀著 (株)G.B.刊

      カラー図鑑 深海の生きもの

           クリエイティブ・スイート著 (株)宝島社刊

    〝世界唯一の深海水族館〟館長が初めて明かす

     深海生物 捕った、育てた、判った!

           石垣幸二著 (株)小学館刊

     深海魚 摩訶ふしぎ図鑑

           北村雄一著 (株)保育社刊

     特別展「深海 ―挑戦の歩みと驚異の生きものたち―

                         公式図録

          国立科学博物館 海洋研究機構

                   東京大学執筆

           読売新聞社 NHK NHKプロモーション発行

 サイエンスZERO 「独占密着! 深海探査 巨大白骨の謎に迫れ」

           2014年1月4日放送 放送局:NHKEテレ

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