第32話 解呪

 カエトスの胸元に降り立ったネイシスは、人間の十分の一程度しかない小さな手で制服の襟を鷲づかみにすると、元が濃紺色だったとは思えない血塗れの服をむしるように脱がせた。現れた光景に顔をしかめる。

 慌ただしい足音がいくつも近づいてきた。レフィーニアとナウリア、ミエッカだ。その足がぴたりと止まった。三人とも、剥き出しになったカエトスの上半身を目にして息を呑んでいた。

 

 カエトスが負った傷は、想像よりも遥かに深刻な状況だった。

 真っ赤な口を開けている傷がいくつもある。右胸には剣で刺し貫かれた大穴が、左胸下部には弾丸が貫通した痕がある。銃創は脇腹にも二つあり、そのうちの一方は傷口の周りが黒く焼け焦げていた。

 どの傷をとっても、内臓機能を著しく損なう致命傷であり、それ以外にも肩や腕など体のあちこちに大小の裂傷、擦過傷などがある。

 それは何よりも雄弁にカエトスが辿った道程の過酷さを物語っていたが、それら無残な傷の数々が霞んでしまうほどの異変がカエトスの体に起きていた。

 

 上半身の大半が紫の網目模様に覆われていた。侵食を免れているのは首から上と、ズボンで隠れている下半身の一部のみだ。

 木の根のようなそれは、左上腕に近づくほどに密度が濃くなっている。源はそこに刻まれた紫色の薔薇。

 女神イリヴァールの呪いが全身を侵し尽くそうとしていた。

 

「これはいったい……」


 三姉妹がカエトスを取り囲むように膝をついた。ナウリアが茫然と呟きつつカエトスの体に触れようとするも、寸前で手が止まる。カエトスの傷が応急処置など意味を成さないほどに重いことと、女神の呪いが放つ禍々しさが原因だ。

 二人の妹も伸ばした手を止めたが、末妹のレフィーニアだけは僅かな逡巡の後、決死の形相で傷口に右手を当てた。左手を地面に当てて、眉間にしわを寄せながらきつく目を閉じる。

 シルベリアの守護神シルトの力を用いて、カエトスの体から傷を転嫁させるつもりだ。

 妹にすがるような眼差しを向けながらナウリアが、次いで片膝をついたミエッカが険しい表情でそれぞれネイシスを見やる。

 

「あなたがネイシス殿ですね」

「この紫の模様は……何なんだ?」


 ネイシスは自分を見下ろす姉妹の視線を受け止めながら答えた。

 

「ある女神がかけた致死の呪いだ。これが全身に広がったとき、カエトスは死ぬ。これを解くには他人の愛情が必要で、カエトスはそのために本の力を借りてお前たちに近づいたんだ。でもお前たちを利用することだけが目的じゃなかったんだぞ。カエトスはお前たち三人を、呪いとか関係なく助けたいと考えていた。昨日カエトスがお前たちに告げたことも、ハルンに操られて言わされたことなんだ」


 ネイシスがカエトスの事情を告げると、ナウリアとミエッカが戸惑ったように顔を見合わせる。すぐに理解するのは無理と知りつつ、ネイシスはさらに言葉を継いだ。

 

「頼む。助けられるのはお前たちの愛情だけなんだ。私がカエトスの命をつなぎ止めておけるのも、もう長くはない」

「でも……レフィは傷を移動させられるから、それさえなくなれば──」

「何で……何で移せないの……!」


 期待を込めて呟くナウリアを、レフィーニアの悲痛な声が遮った。王女は右手をカエトスの血に染めながら必死に念じていたが、左手が触れる地面には何の変化もない。

 ネイシスにはその理由は一目瞭然だった。カエトスの左上腕の薔薇を睨み付ける。 


「この呪いのせいだ。これは女神の支配下になったという証で、同格以上の神じゃないと干渉できないんだ。忌々しいが……神格としては私より奴が上だから、私の力では呪いの進行を遅らせることしかできない。でも呪いが解ければ王女の力で傷は塞げる。そうすればカエトスを助けられる」

 

 ネイシスは姉妹一人ひとりを見上げながら、もう一度訴えかけた。


「一人の男が複数の女に好意を寄せるのが好ましくないというのは知っている。お前たちがそれを忌避していることも。でも、呪いを解けるのはお前たちしかいない。頼む、カエトスを助けてくれ」

「諦めろ。もう全ては手遅れじゃ」


 不意に女の声が響いた。

 横たわるカエトスの頭上に、人の形をしたものが水底から浮かび上がるように急速に像を結ぶ。

 何枚も重ね着した色彩鮮やかな衣服の裾と、ときとともに紫から黒、黒から紫へと変化する長髪が、水中にあるかのようにゆらゆらと揺らめく。

 カエトスに呪いをかけた張本人、女神イリヴァールだ。

 女神は宙に浮いたまま膝立ちの姿勢になると、カエトスの顔を頭頂部側から覗き込んだ。両手をそっと伸ばし、血痕が残る頬を愛おしそうに撫でながら囁きかける。


「……だから言ったであろう。女たちの愛情を得ることはできぬし、呪いも解けぬと。素直に私の言うことを聞いておれば、このような辛い目に遭わずに済んだものを……」

「あなたが……彼に呪いをかけた神ですか……?」


 女神出現と同時に、地面に置いた剣を拾い上げて身構えるミエッカに対し、ナウリアはカエトスの傍らに留まったまま色濃い畏怖の滲む声音で尋ねた。

 

 イリヴァールはゆっくり顔を上げると、紫光放つ瞳でナウリアを見据える。そこにあるのは侮蔑と少なくない怒気の入り混じった明確な拒絶。人間風情に答える気はないと、口よりも雄弁に語っていた。

 体を強張らせるナウリアに代わって、レフィーニアが立ち上がった。握り締めた拳を小さく震わせながら、女神を見下ろす形で詰問する。

 

「何で……何でカエトスにこんな呪いをかけたの……!」

「……ふん、神に選ばれし者か。邪険には扱えぬな」


 イリヴァールは面倒くさそうに言うと、威嚇するように放っていた瞳の輝きを僅かに抑えた。カエトスの頬に指を這わせながら語りだす。


「私が呪いをかけたのは、伴侶殿が私の愛は歪だと批判し、そして歪みのない純粋な愛情が人の中にあると言ったからじゃ。確かに私の愛は歪かもしれぬ。伴侶殿以外の命にはさらさら興味はないからの。だが伴侶殿にとってそれは許し難いことだったらしく、言ったのじゃ。人の愛情を知り、私の愛の在りようを正すようにとな。私はそんなものはないと説得した。そして私の愛に応えてくれてと懇願した。しかし伴侶殿は、愚かにもそんなものがあると信じて聞き入れなかった。だから私は呪いをかけたのじゃ。あるはずのない純粋な愛情によってのみ解ける呪いを、見つからなければ、未来永劫私のものになるとの約束を交わして。結果はわかっておったが……やはりこうなったの」


 女神の声には、待ち望んだ願いが成就する歓喜ではなく、むしろ怒りが滲んでいた。再び輝きを増した紫の瞳で三姉妹を順に見据える。


「私が指摘したとおり、我欲に塗れた人の中に純粋な愛などあるはずがなかったのじゃ。現にこの女どもは取るに足りぬことで真実を見誤り、見失った。伴侶殿がお前たちにどれだけ尽くしたのか考えもせずに、偽りの言葉に踊らされて恩義を忘却の彼方に押しやった。なぜ伴侶殿がこのような愚かな女どもに執着したのか、私にはまるで理解できぬわ」


 イリヴァールの髪が感情に呼応するようにざわりと持ち上がり、その体から不可視の力が滲み出る。

 女神の本気からは果てしなく遠く控えめな力の発露だったが、それでも普通の人間を恐慌状態に落としかねない凶悪な殺気の奔流だった。だが三姉妹はぐっと歯を食いしばりその場に留まった。

 両拳をきつく握り締めたナウリアが唇を戦慄かせながら口を開く。

 

「ネイシス殿。さっきもそのようなことを言われましたが、もしかしてあのときのカエトス殿は……」

「そうだ。そこのハルンという女に体を操られていた。お前たちと取調室で対面したときの言葉は、カエトスの本心じゃない」


 ネイシスの返答に、ナウリアの目に理解と後悔の色が滲む。それは二人の妹も同様だった。しかしミエッカだけはそれをかなぐり捨ててイリヴァールに噛みつく。

 

「でも……この男が姉さんとレフィを口説こうとしていたのは事実じゃない……!」

「たわけ。だからお前たちの中に真の愛がないと言っておるのじゃ」


 ミエッカの反論をイリヴァールは鋭い一言で切って捨てた。そして侮蔑に満ちた視線をぶつけながら滔々と語る。

 

「よいか。伴侶殿がおらねば、お前も王女もとっくに死んでいるのじゃ。王女の命運は二日前の禊の間で尽きておったし、姉二人も王女と運命を共にしておったからな。これは王女自身が誰よりも理解しているはずじゃ」


 女神に紫瞳を向けられたレフィーニアがぎゅっと唇を引き結ぶ。イリヴァールが指しているのはおそらく王女が授かっていたという神託のことだろう。


「その後お前たち姉妹は、王子に命を狙われた伴侶殿の巻き添えという形で危機に見舞われたが、あれはお前たち姉妹を襲うはずだった危機が形を変えて顕在化しただけのこと。つまりはお前たちが伴侶殿を巻き込んだようなものなのじゃ。そして慈悲深い伴侶殿はその全てに関わり、お前たちを助けた。これだけのことをされておきながら、他の女に手を出していたなどという些末な一事をもって全てなかったことにするというその神経がまったく理解できぬ。お前たち姉妹にとって大切なものは、姉であり妹なのであろう? それを身を挺して守った者に対する仕打ちがこれか?」


 女神の辛辣な言葉に、三姉妹は顔を俯けて唇をかむ。だがここでもすぐにミエッカだけは女神に反論した。

 

「……私たちは神じゃない。ちゃんと説明されなければ、カエトスが何をしていたかなんてわからない。だから……そんなの仕方ないじゃないかっ!」

「さすがは人間じゃ。自分の愚かさを棚に上げてよくのたまえるものよ。お前の頭は、伴侶殿に何度助けられたのか、それすら数えられぬのか?」


 抗弁するミエッカに容赦のない言葉を浴びせながら、イリヴァールは視線を手元に戻した。


「だがこのような愚者どもとの関わりも今日このときをもって終わりじゃ。我が祝福が間もなく伴侶殿の全身を覆い尽くす。約定に従い、伴侶殿は私のものじゃ。傷ついた心と体は私がゆっくりと癒してやろうぞ」

 

 女神が宙に浮いたまま立ち上がった。その動作に呼応してカエトスの体がゆっくりと浮き上がり始める。

 

「やめろ。呪いはまだ全身を覆ってないっ」

「もはや時間の問題じゃ。お主の力では、伴侶殿の命をつなぎ止めることと呪いの抑制は両立できぬ。現に浸食は目に見える速さで進行しているではないか。ここから挽回する術はない。お主は負けたのじゃ。潔く手を引くがいい」


 ネイシスはイリヴァールを止めようとしたが、女神の指摘通り余力がなかった。カエトスの服をつかんで力任せに引き寄せようとするも、まるで抵抗できない。一か八か呪いの抑制から一度手を引き、カエトスを奪還するかと考えたとき、カエトスの体ががくんと停止した。

 

「……何の真似じゃ」


 イリヴァールが低い声を漏らす。

 宙に浮いたカエトスの左右の腕をレフィーニアとナウリアが、そして両足をミエッカがそれぞれ抱え込んでいた。

 

「人は神のように賢くも、何もかも見通す目も持っていないのです。だからこそ、わかり合い信頼を築くまでに時間がかかるんです。どうか……どうか猶予をください」

「カエトスを取り巻く話は、全てカエトス以外の口から語られた。私は直接本人から事実と本心を聞きたい。だから、どうかそれまで待っていただきたい」


 ナウリアがまず女神に懇願し、次いでミエッカが挑みかかるように告げた。それをイリヴァールが冷徹に見下ろす。

 

「ようやく我が伴侶殿の献身を理解したか。しかし時すでに遅しじゃ。そのようにほいほい考えを変えるような者を伴侶殿に関わらせるわけにはいかぬ。またいつ心変わりするかわかったものではない。よってお前たちの願いは却下じゃ」

「──ないじゃない」

「……神官よ。何か言ったか?」


 掠れた声で呟いたレフィーニアが勢いよく顔を上げた。涙ぐんだ目で女神を睨み付ける。

 

「しょうがないでしょ! 知らなかったんだから! 神さまの言う通り、さっきまでカエトスは裏切り者だと思ってたし、もう顔も見たくない、死んでしまえって思ってた。でも今は違う。色んな話を聞いて知らなかったことを知った。また変わったの! だからカエトスは渡せない、神さまでもそれは駄目……!」

「勝手なことをのたまう口じゃな。ころころと変節するような者など伴侶殿に相応しいわけがなかろう。愚か者め」

「そうよ。私は愚かだもん。誰かの力を借りないと何もできないし、すぐに心変わりもする。でもしょうがないじゃない、人間なんだから……! そんなに強い人ばかりじゃないの!」


 レフィーニアは白服がカエトスの血で汚れるのも構わずに全身を使ってその腕を抱え込んだ。

 ナウリアもカエトスを女神に渡すまいと必死に体を押さえつけながら、同じようにカエトスの服をつかむネイシスに問いかけた。

 

「ネイシス殿。カエトス殿が交わした約束というのは、全身にこの呪いが及んだときに女神が連れ去るというもので間違いないですか?」

「そうだ」

「それならまだ時間はあります。いまここでカエトス殿の呪いを解けば、あなたは連れて行けないはずです」

「やれるものならやってみよ。成功したならば、今は伴侶殿を連れて行くのはやめてやろう。お前たちの根無し草のような愛情では解けるはずもないがな」


 ナウリアの要求に対し、女神は何の動揺も見せることなく超然と言い放った。そこには絶対の自信が窺える。

 ナウリアはぐっと唇を引き結ぶと、再びネイシスに目をやった。

 

「どうすればいいのですか?」

「左腕のその薔薇に触ればいい」

「……ミエッカ、レフィ。二人とも色々思うことがあるでしょうけど、今は彼を助けることを考えましょう。文句や感謝をぶつけるのはそれからです」

 

 ナウリアの言葉に三姉妹は互いに頷き合った。順にカエトスの左上腕に手を伸ばす。それぞれの指が紫の薔薇に触れた瞬間、カエトスの全身を覆っている紫の模様が急速に色を失い始めた。呪いが解けるのかとの期待にナウリアたちの顔に笑みが浮かぶ。しかし一定の濃度まで減少したあと変化は止まってしまった。それどころか、色が薄まっているにもかかわらず、模様自体はカエトスの体表をじわじわと広がり続け、ついに顔の下半分を覆い尽くした。

 女神の嘲笑が空洞内に響き渡る。

 

「多少の愛情は混じっておったか。だがその呪いは、一切の雑念を含まず、それでいて私の愛情よりも強いものをぶつけなければ絶対に消えることはない。つまり、お前たちが抱いている愛情など、強さも質も取るに足りぬものということじゃ。身の程を知ったのならそこを退け」

 

 イリヴァールの宣告とともにカエトスの体が再び浮き上がりだした。それにすがりつきながらナウリアが訴えかける。

 

「待ってください。もう少し時間を下さい……!」

「ならぬ。もう時は来たのじゃ」


 姉の懇願を無慈悲に切り捨てる女神。しかし妹たちは諦めることなく食い下がった。

 

「私たちはカエトスと出会ってまだ何日も経っていないんだ。それとあなたとを比較するのは不公平だぞ!」

「そうよ。それに神さまは私たちと違って寿命がないんでしょ。少しくらい待ってくれてもいいじゃない!」

「確かに寿命はない。しかし時間の長さを感じないわけではない。そう、伴侶殿を愛してしまったあのときから、私の時間はとてつもなく長い。この二百年は、先の千年よりも遥かに長く感じた。ゆえに、もうこれ以上は待てぬ。お前たちは己の選択と浅はかさを一生悔いながら生きてゆくがいい」


 イリヴァールは三姉妹の言葉に何ら心を動かされることはなかった。

 冷酷に告げてカエトスへと及ぼしている力を徐々に強めていく。

 それでも姉妹は諦めなかった。ナウリアとレフィーニアが全身を使ってカエトスの体に抱き着いて、女神の手に渡すまいと抗う。ミエッカはカエトスから手を離し、地面に放り投げていた剣を拾い上げると、静かに膝をたわめてイリヴァールを睨み付ける。相手が神と知りつつ斬りかかる気だ。

 

「……諦めの悪い人間どもじゃ。少し痛い目を見なければわからぬようじゃの」


 苛立たし気に目を細めた女神がゆらりと右腕を上げた。手のひらの先の空気が陽炎のように揺らめく。神の力を行使するつもりだ。

 ネイシスはすぐさま宙に舞い上がると女神の正面に立ちはだかった。

 

「やめろ。お前はカエトス以外の者に危害を加えないと約束したはずだ」

「これはただの躾けじゃ。死にはしない。それ以外は保証せぬがな」

「だからやめろと言っている。カエトスが好きだと言った人間に手を出すのは、私が許さない」


 ネイシスは金色の瞳でイリヴァールを睨み付けた。それを真っ向から紫瞳が受け止める。

 

「余力など何もないくせによく言う。では小娘、そなたから先に──」


 女神が唐突に言葉を切った。その視線が足元へと向けられる。

 

「……なんじゃ、これは」


 僅かに浮いているイリヴァールの足元を、小さな生き物が頼りない足取りで駆け抜けた。ネイシスはそれに見覚えがあった。

 

「お前は……ラスクか?」

 

 二柱の神と三姉妹が視線を注ぐ中、茶色い毛並みの子犬ラスクはカエトスの頭頂部側から近づき、後肢で立ち上がりながら、左肩口に短い前肢を伸ばした。何度か叩くも、当然ながらカエトスは一切反応を示さない。

 悲し気な鳴き声を上げて、なおもカエトスに目覚めるように促すラスクをナウリアが止めようとしたそのとき、劇的な変化が起きた。

 カエトスの全身に広がっていた模様が急速に薄れて、きれいさっぱりと消えてしまったのだ。

 突然のことに目を丸くした三姉妹が顔を見合わせて、子犬へと視線を落とす。

 カエトスへと伸ばしていたラスクの前肢が、左上腕に刻まれた紫の薔薇に触れていた。

 どうやら、ラスクが呪いを一気に後退させてしまったようだった。

 

「くっくっく。これは傑作じゃ。この犬ころが伴侶殿に向ける愛情は、私には遠く及ばぬが、お前たち三姉妹全員の愛情を集めたよりも強いようじゃな。すなわちお前たちは犬ころ以下というわけじゃ」

「喜んでていいのか、イリヴァール。呪いが後退したんだ。これでお前はカエトスを連れて行けなくなったぞ」


 ここぞとばかりに三姉妹を嘲弄するイリヴァールに、ネイシスが語気鋭く告げた。

 はっと表情を一変させた女神が忌々し気にネイシスを睨み付ける。

 

「……呪いを退けたのはこの女どもではなく、その犬ころじゃ。私が提示した条件は満たされてはおらぬ。ゆえに伴侶殿はこのまま連れて行く」

「カエトスとの約束はどうするつもりだ。呪いが全身を覆ったときにお前のものになるという条件を破るつもりか?」


 追及を緩めないネイシスだが、イリヴァールも負けてはいなかった。


「お主は知らぬだろうが、私と伴侶殿は新たな約束を交わしておる。それは伴侶殿が死に瀕したときにも、私のものになるというものじゃ。そして今がまさにそのとき。私の行為に何も問題はないし、当然伴侶殿も理解してくれる」


 イリヴァールはそう言うと、改めて三姉妹に宣告した。

 

「退け、人間ども。人の手で死ぬくらいなら私の手で殺して、私のものにする。退かぬと言うのなら力づくで連れて行くまでじゃ……!」

「そんなことさせない!」


 レフィーニアがそう叫ぶと同時に、地面に当てた左手から鋭い破砕音が生じた。

 カエトスの胸に当てた右手を上げると、そこにあったはずの赤黒い傷口がきれいさっぱりと消失しており、その代わりに地面に深々と穴があいていた。

 カエトスの全身を覆い尽くそうとしていた女神の呪いが後退したことで、レフィーニアの転嫁の力が効果を及ぼせるようになったのだ。

 王女は次々とカエトスの傷を地面へと移し、そのたびに発生する破砕音が空洞内に反響しては消えていく。生死にかかわりそうな大きな負傷は、あっという間に消えた。

 レフィーニアが血痕の残る袖で額の汗を拭って、女神を見上げる。

 

「これでカエトスは死なない。あなたがカエトスを連れて行く理由は全部なくなったでしょ」


 イリヴァールの目がすっと細まった。瞳が放つ紫の光が増大し、鮮やかな衣服の裾と足元まである長髪がざわざわと蠢く。

 このまま実力行使に及びそうな気配を察したネイシスは、イリヴァールの視線上に素早く割り込んだ。持ち上げかけた女神の右腕がぴたりと止まり、僅かな逡巡の後、ゆっくりと下ろされる。

 

「……言っておくが、私はお前たち人間にしてやられたから退くのではない。その犬ころの示した愛情とシルトの力のせいで退くのじゃ。そこを勘違いするな」

「いいから失せろ。お前の出番はもうおしまいだ」

「……呪いが解けたわけではない。次はないぞ……!」

 

 イリヴァールは地底の底から響くような声を残して、煙のように姿を消した。持ち去られようとしていたカエトスの体がゆっくりと地面に戻る。

 ネイシスは剥き出しのカエトスの胸元に降り立つと、膝をつきながらそこに手を這わせた。心臓は規則正しく鼓動を刻み、呼吸もまだ力強さに乏しいものの止まる気配はなかった。

 

「ネイシス殿、カエトス殿は──」


 間髪を入れずに尋ねるナウリアに、ネイシスは頷きかけた。

 

「大丈夫だ。ちゃんと生きている。王女が傷を塞いだし、呪いもかなり前の段階まで戻った。死なないように私が注意してれば、じきに回復する」

「よかった……」

「お前にお礼を言わなきゃいけないみたいだな。すごく複雑だけど……」


 額に汗を浮かべたレフィーニアがほっと息をついて微笑を浮かべた。ナウリアと手を取り合って喜びを分かち合い、傍らに膝をついたミエッカは、カエトスの頬に前肢をかけて顔を覗き込もうとするラスクの頭を撫でる。

 

「カエトスとそこの二人は私が監視しておくから、お前たちはこの事態を収拾してこい。今はまだのんびりしているわけにはいかないだろう?」

「そうですね。クラウス王子の消息も確認しなければ……」


 ネイシスの指示に、表情を引き締めたナウリアが立ち上がった。ミエッカとレフィーニアもそれに続く。

 去り際に姉妹たちがそろってネイシスに目を向け、三人を代表してミエッカが口を開いた。


「後で全部聞かせてもらうからな」

「うむ。全部話そう」


 レフィーニアたち姉妹は何度か振り返りながら、橋の上を小走りに駆けて行った。

 足音が横穴の中へと去り、残ったのはネイシスにカエトス、そして厳重に拘束された侍女ハルンと瀕死の状態で昏倒しているヴァルヘイム、そしてラスクだけとなった。


「しかし、お前に助けられるとは思いもしなかった。イルミストリアは、これを見越していたのか……。まあ、それはともかくだ」

 

 カエトスの頬に顔を摺り寄せる子犬を見下ろしながら、ネイシスはふわりと浮き上がった。

 静かに呼吸するカエトスの額に腰を下ろし、目覚めない程度の強さで額を小突く。

 

「私を置いて死のうとしたお前は後で説教だからな。この馬鹿者が」

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