第31話 神域の戦い

 カエトスは心の底から安堵した。傷の痛みも疲労も吹き飛ぶ思いだった。いままさにナウリアたちが射殺されそうだったところに間一髪で間に合った。

 しかしそれと同時に、この上なく苦い思いにも襲われる。

 ナウリアと一瞬だけ目が合った。そこあったのは戸惑いや混乱、そして強い怒りと深い悲しみ。

 理由があったとはいえ、レフィーニアたち三姉妹を騙していたことは紛れもない事実。それが彼女たちに与えた衝撃は計り知れなく、それをまざまざと突きつけられた。

 

 今すぐにでも弁明したい。しかしその余裕はない。

 カエトスから見て左側にこの小島へと続く橋がある。そのたもと付近にいるハルンが、カエトスには届かない小声で何かを呟いた。

 彫像のように動きを止めていたナウリアとミエッカの二人が、苦悩の表情を浮かべながらハルンの元へと歩いていき、囚われの身となってしまう。おそらく二人はハルヴァウスの力で体の自由を奪われているのだ。

 レフィーニアはカエトスの視界の右端奥に一人でいるが、その手前、カエトスの正面八ハルトース(約九メートル半)ほど先でヴァルヘイムが油断なく剣を構えている。

 手の出しようがない。

 カエトスが動けないでいると、彼らの主君であるクラウスが、ゆっくりとヴァルヘイムの傍らへと歩み寄り、王者の風格に漲る眼光をカエトスに向けた。

 

「……懸念はしていたが、わざわざ城に戻ってくるとはな。お前を殺そうとしたことへの意趣返しか」


 カエトスは左前腕裏に隠し持つ即席のスティルガルと、ヴァルヘイム、ハルンの動向に意識を向けながら口を開いた。

 

「それも当然ある。俺を殺そうとしやがったあんたは許さない。でも何よりも、俺は王女たちを助けたかった。だから来た」

「助けて何になる。この姉妹がお前になびくことはもう二度とないのだぞ。ゆえにお前は世界に殺されるか、呪い殺されるかどちらかの未来しかない。それなら俺の邪魔をせずに、ひっそりとどこかで死んでもらいたいのだがな」

「あんたの希望など知ったことか。どうせ死ぬなら、好きな女たちを助けるのに命を使う。何もおかしいことはない」


 カエトスはもはや外面を一切取り繕わなかった。ぞんざいな口調と態度で王子に話しかける。

 傍らに控えるヴァルヘイムが目の色を変えるも、それをクラウスが手を上げて制した。


「たち、だと? まさかお前はこの姉妹全員が好きだと、そう言ってるのか?」

「悪いか」

「くくっ。この期に及んで、そのようなことを口走るとはな。やはりお前は面白い」


 短く答えるカエトスに、クラウスは口の端を歪めた。剣呑な光を宿した眼差しで、改めてカエトスを見据える。

 

「最後の機会をやろう。俺の部下になれ。そうすればお前の望み通りの女を用意してやる。年齢も容姿も性格も、お前の思うままに厳選しろ。その中から選べば、お前の呪いを解くことのできる女も出てくるはずだ。わざわざこんな面倒くさい事情を抱えている女に手を出す必要もない。お前は何としても呪いを解きたいはず。悪い話ではなかろう」

「断る。俺はこの三人がいい」


 カエトスは即座に答えた。欠片も迷うことはなかった。


「すでにお前は嫌悪されているどころか、憎悪の対象になっているのだぞ」

「そんなことは知っている。それでも俺の気持ちは変わらない」

「命懸けで助けるところを見せつけて、関係を修復するきっかけにでもしようとしているのか? だとしたら思い違いも甚だしい。信頼を築くには多大な労力が必要だが、それを失うのは一瞬だ。一度悪化した心証など簡単には元に戻らん。口では何と言おうと、お前が王女たちを利用していたのは間違いない事実なのだからな」

「俺への不信が解消するなんて思っちゃいない。俺はあんたの手から王女たちを助けに来ただけだ。それ以外に望んでいることなんてない」


 カエトスは揺るぎない口調で告げると、クラウスとヴァルヘイムの二人を視界に収めたまま、右手奥にいる王女へと目を向けた。


「レフィーニア殿下。そこの王子たちを迂回して、こちらへ来てください。私のことを嫌悪しているのは重々承知していますが、どうかお願いします」


 呼びかけられたレフィーニアが、恐怖や戸惑い、不審、混乱など一言では言い表せない複雑な感情の入り混じった目でカエトスを見つめる。

 三姉妹の様子から、レフィーニアだけは体が自由に動かせるとカエトスは判断していた。だからまず彼女だけでも逃がす。そうすれば事態は大きく改善する。

 カエトスは目で訴えかけながら、さらに言葉を継ごうとした。しかし当然ながらクラウスが黙って見過ごすはずはない。銃槍を持ち上げ、レフィーニアに向ける。


「そんなことを認めると──」

「やめておけ。王女に手を出したら死ぬぞ」


 カエトスは鋭く告げた。クラウスの銃槍がぴたりと動きを止める。


「そこの侍女から聞いたはずだ。俺に女神が取り付いていることをな。あんたがこんなどうでもいい長話をしたのも、本当の目的は女神が手を出すか否かを見極めるためだろう? だから教えてやる。俺はここに来る前に女神と約束をしてきた。王女たちを守ったなら俺の命をやるってな。そしてあの女神は目的を成し遂げるために手加減はしないぞ。お前ならそのことを思い知っているはずだ」


 カエトスが一瞥すると、橋のたもとにいる侍女ハルンの顔があからさまに強張った。彼女の脳裏には、デスティス山山中で邂逅した女神イリヴァールの姿が蘇っていることだろう。そのときに感じた圧倒的な力と恐怖も。

 クラウスが顔を動かさずに視線だけを周りへ向けた。それはいるかどうかもわからない女神に対しての警戒だ。

 カエトスは平静を装いつつ、さらに続けた。

 

「その代わり、あれは俺を守らない。お前たちが俺を瀕死に追い込めば、勝手にとどめを差してここから消えることになっている。ただそれも確実なことは言えないぜ。女神は気まぐれだからな。あんたの侍女が俺を殺そうとしたときみたいに、また手を出すかもな。それでもいいなら、やってみろ」


 これはもちろん出まかせだ。

 イリヴァールがカエトスを助けることはない。

 容赦なく進行する呪いがその証だ。袖口から覗く右手首に紫の模様が見え隠れしている。呪いは左半身だけでなく右半身をも覆い尽くそうとしていた。

 しかし女神の名を使えば、クラウスたちの矛先をレフィーニアたちから逸らせる。

 そしてこのはったりにはもう一つの意味もある。それは時間稼ぎだ。その目的はネイシスの居場所を探し当てること。

 ネイシスは、思念が途絶える直前に、神域に神を捕える檻があったと言っていた。

 これまでの道中、カエトスの呼びかけに応えることはなかったが、同じ神域の中なら届くのではないか。カエトスはそれを期待していた。

 ネイシスさえ解放できれば勝利は揺るがない。

 彼女の力を借りればクラウスたちは容易に始末できるし、またカエトスが死んだとしても、ネイシスがいれば王女たちは助かる。

 逆に言えば、ネイシスを解放できなければカエトスの勝ちは絶望的だ。

 先刻の透明化からの不意打ちは、現状での最善と全力を尽くしたものだったのに、それを防がれてしまったからだ。つまり、いまクラウスが攻勢に出た場合、十中八九そのまま決着がついてしまう。

 カエトスははったりと呪いの進行具合を見破られないように、袖の位置をそれとなく調整しながらレフィーニアへ右手を差し出した。

 

「さあ、殿下。こちらへどうぞ。いま申し上げたように、あなただけではなく姉君にも危害が加えられることはありません」


 カエトスの呼びかけに、レフィーニアが強い警戒の滲む動作でクラウスやナウリアへと目を向けた。

 二人の姉は依然として彫像のように指一本すら動かせないまま。クラウスは険しい表情で押し黙り、腹心の二人はいつでも手中の武器を繰り出す構えを崩さずに、主の意向をじっと窺っている。

 

 レフィーニアが静かに歩き出した。不審が拭えないとはっきりわかる硬い表情で、クラウスとヴァルヘイムを迂回し、カエトスに向かってゆっくりと近づいてくる。

 カエトスは全ての人間の動向に注意を払いながら、もう何度目かわからない女神の名を呼んだ。


(ネイシス! 聞こえたら返事をしてくれ、ネイシス……!)

「……ふん。はったりだな」


 レフィーニアがカエトスまで残り数ハルトースというところに差し掛かったところで、不意にクラウスが不敵な笑みを浮かべた。

 

「神が王女たちを助けるのなら、俺が王女を銃撃しようとしたときに力を行使したはず。しかしそれを妨害したのはお前だ。つまりお前が神と交わしたという約束は全くの虚言」


 クラウスが銃槍を持ち上げた。その狙いはカエトスだ。

 見破られた。思った以上に早い。漂う剣呑な気配にレフィーニアの歩調が鈍る。

 カエトスは急いでこちらに来るようにと視線で訴えた。ネイシスの名を頭の中で繰り返し呼びながら、表向きは平然と答える。

 

「そう思うなら試してみればいい。賭けるのは自分の命だぞ」


 はったりだと言いつつも、クラウスは神による反撃を警戒しているとカエトスは見た。銃槍を王女ではなくカエトスに向けているからだ。

 だがその読みは間違いだった。

 

「よかろう」


 クラウスは即答すると、銃口を右に滑らせた。その狙いはレフィーニア。

 

「ミュルスよ、弾丸を放て」


 何かが弾けるような鋭い音がカエトスの耳を打つ。それは放たれた銃弾が音速を超えたときのもの。


「やはりはったりだったな」


 クラウスが勝利を確信した力強い口調で言った。

 カエトスはそれを左胸を手で押さえながら聞いた。

 指の隙間から少なくない血が地面に滴り落ち、レフィーニアは地面に投げ出されるように転倒していた。

 銃撃される瞬間、カエトスはレフィーニアに駆け寄って突き飛ばし、射線から助け出した。そのとき、クラウスの放った弾丸が背中から入り込み、左胸から抜けていた。

 熱い液体が喉にこみ上げる。傷ついて肺に入り込んだ血液が逆流してきたらしい。

 

「そして女神がお前を守らないこともこれで証明された。ヴァルヘイム、ハルン。この男は殺せる。先に片づけるぞ」


 クラウスが銃槍を向け、ヴァルヘイムが剣を構える。

 形勢は一気にクラウスの側へと傾いてしまっていた。何とかしなければ、ここでカエトスは殺され、そしてレフィーニアたちも命を奪われる。そんなことは断じて容認できない。

 傷は深かった。痛みはなくただ傷口が熱いことが、その深刻さを物語る。鮮血が溢れるほどに力が抜け、視界が霞んでゆく。それでもカエトスは諦めずに、全霊を込めて女神の名を呼んだ。

 

(ネイシス! どこにいる、答えてくれ!)

(──エトス、カエトス! 私はここだ!)


 きた。慣れ親しんだ女の声。ネイシスだ。

 

(……どこに……いる!)

(お前が立っている島だ! 橋から真っ直ぐに進んだところに東屋がある。お前からは見えていないが、そこにある!)


 カエトスはその瞬間、クラウスたちに背を向け駆け出した。こみ上げる液体を強引に嚥下して全力で走る。


「……まずい。ヴァルヘイム、奴を止めろ!」


 左脇腹に衝撃。クラウスの銃撃が命中したのだろう。しかしカエトスの足は止まらない。ミュルスによる行動補助の効果が残っているとはいえ、カエトスが全力を出したときとは比べ物にならないほどに遅かった。それでもひたすら走る。

 カエトスの目に映るのは島の岸辺と、澄んだ水を湛える泉だけだ。ネイシスの話ではそこに不可視の東屋があるはず。

 足を踏み出した。その瞬間景色が変わった。カエトスの目の前に突然建物が出現した。透明化のために展開されている〝場〟を超えたのだ。

 それは柱と屋根だけで作られたような奇妙な建物だった。壁も窓もなく、支えなしに自立する扉が一枚ある。その中に小人のように小さな人影がいた。

 別れてからさほど時間は経過していないのに、美しい金髪と褐色の肌に懐かしさがこみ上げる。

 

「ネイシス!」

(カエトス!)


 ネイシスは間違いなく叫んでいた。なのにカエトスに届いたのは思念のみ。東屋には透明な壁があり、それがネイシスの行動や声などを阻んでいるようだった。

 ネイシスが目を見開いた。次いで顔を辛そうに歪める。

 

(……カエトス、この扉を開けろ! 私が助けてやる!)


 宙を滑るように移動して、自立する扉を小さな拳で殴りつける。

 カエトスは扉に駆け寄った。手を伸ばす。その瞬間、意思とは無関係に体が強張った。


「そこまでだ」


 背後からの低い声。

 カエトスは視線を落とした。右胸の辺りから血塗れの刃の先端が現れていた。

 ヴァルヘイムの剣によって胸を刺し貫かれたのだ。刃が回転し、体の中が抉られる。何かが引き千切れる音が体内に響き、刃が引き抜かれた。全身から力が抜け、膝をつく。傷口から流れ出たおびただしい鮮血でみるみる地面が真っ赤に染まった。

 

「まさか、神の使いを解放しようとするとはな。お前にとって起死回生の一手だったのだろうが、それも失敗に終わった。悪あがきもここまでだ」


 勝ち誇るクラウスの声がカエトスの耳を打つ。こちらへと近づく足音は勝利を微塵も疑っていない尊大さに満ちていた。

 

「失敗かどうか……よく、見てみるんだな……」


 カエトスは途切れかける意識をつなぎ止めながら、声を絞り出した。その瞬間、悠然としていたクラウスの足音が止まる。

 

「ヴァルヘイム、扉を閉めろ!」

「もう遅い!」


 クラウスが叫んだのと同時に、ネイシスの怒声が響いた。

 

「くっ……!」


 俯くカエトスの視界から、扉へと踏み出したヴァルヘイムの足が消え、クラウスの苦鳴が遠ざかる。

 小さな手が息も絶え絶えのカエトスの頬を撫でた。その途端、途切れかけた意識が鮮明になる。顔を上げると、目の前に宙に浮いているネイシスがいた。

 カエトスはヴァルヘイムに刺される寸前に、東屋の扉を開けており、その僅かな隙間からネイシスは脱け出していたのだ。


「……油断した。お前の呪いを進めたくなくて力を使う機を見誤ってしまった。そのせいでこんな怪我をさせてしまって……すまない」


 ネイシスは膝立ちのカエトスの体に手を伸ばしながら謝罪を口にした。

 彼女が確認しているのは胴体の傷だ。濃紺の制服は、体内から流れ出た鮮血により紫に染まっていた。ただ出血は止まり、痛みもない。抜けていくばかりだった力も幾分戻ってきた。

 ネイシスの停滞の力により止血が行われたのだ。痛みを感じないのもその影響だろう。


「謝らないでくれ。俺も油断してたんだ。お前のせいじゃない」


 ネイシスに慰撫の言葉をかけていると、足音が近づいてきた。

 振り返ると、駆け寄るレフィーニアが足を止めたところだった。胸の前で手を組みカエトスを見るその目が茫然と見開かれる。

 その肩越しにミエッカとナウリアの姿が見えた。その傍らにはハルンが、少し離れたところにクラウスとヴァルヘイムが地面に横たわっている。

 東屋から脱出したネイシスが停滞の力を用いて、クラウスたちの心臓を止めたのだろう。離れた場所にいるのは、ネイシスがミュルスに命じて吹き飛ばしたからだ。

 

 ミエッカとナウリアは直立したまま動けずにいたが、ハルヴァウスを使役していたハルンが死んだ以上、やがてその効果も消える。

 戦いは終わった。

 あとはレフィーニアたちを説得できるか否か。それだけだとカエトスは思った。しかしまだ終わっていなかった。

 倒れていたクラウスが起き上がった。ヴァルヘイムとハルンも同じだ。

 彼らはすぐさま反撃に移ろうとしていた。

 クラウスはカエトスと向かい合っているレフィーニアの背中に銃槍を向け、ハルンは何かを口ずさみ、そしてヴァルヘイムは剣を構え直し、今まさに地面を蹴ろうと足をたわめている。

 

 彼らは間違いなく死んだはずだった。カエトスの呪いを抑制しているからとはいえ、ネイシスが人間を殺し損ねるはずがない。なのになぜ起き上がるのか。

 カエトスの疑問に、ネイシスが圧縮された思念を送り込んできた。


(ハルヴァウスだ。雷の力で止まった心臓を動かしたんだ)


 ハルンは港の倉庫街で、ネイシスの力を目にしている。正体はつかんでいなかっただろうが、何らかの力で心臓を止められたと知ったのだろう。そこで心臓が止まったときにそれを再び動かすように、あらかじめハルヴァウスに命令していたというわけだ。

 カエトスはこの瞬間悟った。

 自分の進む道には、もはや先はないことを。

 クラウスたちを完全に殺すためにネイシスが力を使えば、カエトスは死ぬだろう。

 呪いが進行するのもそうだが、何よりも受けた傷が深すぎる。今は傷口からの出血は止まり痛みも発生していないが、それはネイシスの停滞の力で止めているだけであって、傷が治ったわけではない。その効果が少しでも減じればカエトスは死ぬ。

 ならばとカエトス自身がクラウスたちを退けたとしても、戦闘行動を行った時点でおそらく命の灯は消える。根拠はないが自分の体のことだ。生死の瀬戸際にいるとはっきりとわかった。

 

 カエトスは世界がもたらす災厄を逃れてここまでやって来たが、もはやレフィーニアたちとの関係修復のための時間はなく、傷を治療するあてもない。すなわち待ち受けるのは死のみ。

 それならば今できることをやる。

 

「ネイシス! 剣を呼んでくれ!」


 カエトスは叫んだ。

 ネイシスとカエトスはつながっている。思考の全ては彼女に伝わっていた。

 

(……私はお前をまだ諦めてない。だからさっさと片付けろ!)


 ネイシスの檄に背中を押されるように、カエトスは正面のレフィーニアに飛び掛かった。体を抱えて強引に伏せさせると、そのままクラウスたちのもとへ猛然と駆ける。

 そこへ剣を抜いたヴァルヘイムが一瞬で肉薄してきた。鋭い踏み込みととともに刃を横に一閃。ミエッカと同等かそれ以上の凄まじい斬撃がカエトスを襲う。

 

 カエトスはそれを体をさばいて辛うじて回避した。血塗れの制服を切り裂いて通過する刃。それはすぐさま切り返され、雷光の如き一撃となってカエトスの首へと迫る。

 かわせない。このままでは首を刎ねられる。

 そう思った瞬間、大空洞へと通じる横穴から何かが飛び出した。

 それは視認すら難しい速度で泉を超え、カエトスに斬りかかるヴァルヘイムに一直線に向かってきた。

 ヴァルヘイムの視線が横に動く。背中に迫るそれに気付いた。

 攻撃を続行するか回避するか、その迷いがカエトスの首を刎ねんとする刃に生じる。

 カエトスはその一瞬の隙をついて素早く一歩離れた。それと同時に左手を伸ばす。懐かしい感触がそこに飛び込んできた。

 ヴァルヘイムの背後から襲いかかったのはカエトスの愛剣。それが宙を舞い、自らカエトスの手に収まったのだ。

 この剣はネイシスが住む神域から産出された神鉄でできている。つまりこれに宿るのはネイシスの力であり、彼女にとっては体の一部のようなもの。ゆえにネイシスならば、どこにあろうとも呼び寄せられるのだ。


 ヴァルヘイムの目が細まる。そしてすぐさま攻勢に転じた。狙いはカエトスの剣とそれを持つ左腕。

 ヴァルヘイムは知っているのだ。カエトスが剣舞を用いて源霊に指示を出していることを。

 だがヴァルヘイムは知らない。カエトスは剣を打ち合わせた音でも源霊に呼びかけられることを。

 

 カエトスは眼前で翻る銀光に目を凝らし、剣を軌道上にかざす。

 一つ二つと攻撃を受け止める。凄まじい衝撃にびりびりと骨が軋み、圧力さえ伴う金属音が耳朶を打つ。それが六に達したところで大きく体勢を崩された。左方に剣を弾かれ、胴体を無防備にさらす形になる。そこに寸分の遅滞なくヴァルヘイムが踏み込んだ。

 必殺の殺気に漲る斬撃がカエトスに迫る。

 しかしもう遅い。ミュルスへの命令は完了した。

 次の瞬間、ヴァルヘイムの剣がそれを握る右腕ごと消失した。それに対して何か反応するより早くその体が水平に吹き飛び、ほぼ同時に地面に垂直に叩きつけられる。硬い岩盤にひびが生じるほどの衝撃に、ヴァルヘイムは血反吐を吐いて完全に沈黙した。

 瞬前までヴァルヘイムと正対していたカエトスは、仰向けに昏倒する親衛隊長の横に立っていた。その右足は半ば陥没したヴァルヘイムの胸にめり込んでいる。

 

 いまの一瞬カエトスは、ヴァルヘイムの右腕を切断し、回し蹴りを放ち、さらにそのまま空中で前転、勢いを乗せた踵をその胸部に叩き込むという三つの動作をほぼ同時に実行していた。

 カエトスがミュルスに命じたのは『運動エネルギーをカエトスに宿らせよ』の一文だけ。本来なら過剰に力を付与しないように組み込まれる制限の言葉を全て省いたものだ。そのためミュルスは、一歩間違えばその反動でカエトスの肉体を破壊しかねないほどの力をカエトスに与えた。それゆえの超高速攻撃だった。

 

 カエトスは全身の骨と筋肉が発する痛みを噛み殺しながら、次の標的へと顔を向けた。

 クラウスは、己の腹心が一瞬で戦闘不能に追いやられた光景に目を見開いていた。

 カエトスと目が合うと、思い出したように銃槍を持ち上げる。しかし銃口がカエトスに向けられることはなかった。

 クラウスの頭上に銃槍が打ち上げられた。銃把を握ったままの右腕とともに。

 素早く間合いを詰めたカエトスの剣が右前腕を斬り飛ばしていた。


 それが地面に落下するより早くカエトスは刃を幾度か翻し、逆手に持ち替えた。不可視の波動が空洞内を走る。

 その直後、ハルンの顎先に深紅の刃が突きつけられた。それは膨大な熱が封じ込められた灼熱の剣。その主は言うまでもなくミエッカだ。

 カエトスが行ったのは、自分以外の者による源霊への命令無効化。その結果、ミエッカを拘束していたハルヴァウスの干渉が消え去り、自由を取り戻したのだ。

 

「ここで死ぬか、洗いざらい吐いて生き延びるか、選べ」

 

 怒りを押し殺したミエッカが冷たい宣告を突きつける。

 ハルンは唇を噛みながら、持ち上げかけた手を下ろした。源霊術のすべてを封じられたいま、彼女にできることはない。

 同じように拘束から解放されたナウリアが、ハルンの上着をむしり取るように脱がせた。それを使って手際よく両手足を拘束し、口には猿ぐつわを噛ませる。


 カエトスはそれを見届けるとクラウスへと視線を戻した。

 王子は苦痛に顔を歪め、額に脂汗を浮かべながら、切断された右腕の傷口を左手で押さえていた。溢れる鮮血が地面に赤い血溜まりをつくっていく。それでも一切声を漏らさない。王子としての誇りが、無様に悶える様をさらさせないのだろう。

 

 クラウスをどうするべきか。それはカエトスが決めることではない。

 小さな足音がカエトスの横を静かに通った。

 レフィーニアだ。

 彼女は清楚な白服の裾をひらめかせながら進み出ると、クラウスの正面で立ち止まった。

 

「クラウス王子。わたしは姉さまを殺そうとしたあなたを絶対に許さない。だから……ここでいなくなってもらうから」


 静謐に告げるレフィーニアの声は、殺意や怒り、憎悪といった暗い情念に満ちていた。

 右手をクラウスに向け、左手は力ずくで切り裂いた右袖を握り締めている。

 レフィーニアは物質の状態を転嫁させられるという。おそらく、いま左手の中にある右袖の状態をクラウスに転嫁するつもりなのだ。無論そのようなことになれば、クラウスの命はない。

 

「やめろ。俺は王子だぞ。お前ごとき田舎娘とは格が違うのだ!」


 鬼気迫る表情で一歩、また一歩と距離を詰めるレフィーニアに対し、クラウスは苦痛と憤怒のないまぜになった恐ろしい形相でじりじりと後退する。

 

「何もかも他力本願な貴様に、なぜこの俺が負けなければならない……! 俺は王になるのだ! 俺の運命はこんなところで終わるようには定められていない!」

 

 空洞に反響する絶叫を上げながら、クラウスは血塗れの左手で懐から何かを取り出す。

 それは手のひらほどの大きさの一冊の本だった。

 おそらくあれが王子の所有する〝啓示する書物〟イルミストリアだ。カエトスが所持するイルミストリアは濃紺の表紙だが、それは暗い赤色をしていた。左手一つでもどかしげに本を開き、中に目を通す。


「……先がない……だと? 今こそ指針が必要なときだというのに、この役立たずめ!」


 激昂したクラウスは手負いの獣のように吼えると本を叩きつけた。右腕を押さえながら、対岸へと続く橋に向かって駆け出す。

 

「俺は諦めん! 必ずお前から王座を奪って見せる!」

「レフィーニア殿下、お待ちください」


 カエトスは、クラウスを追いかけようとした王女を呼び止めた。


「王子の近くは危険です。ここで待機を」

 

 クラウスはイルミストリアを所有していて、そしてレフィーニアを殺すという目的が達成できない状況に追い込まれた。となるとこれから起こることは想像がつく。

 カエトスは足を止めて振り返るレフィーニアに頷きかけながら地面に腰を下ろした。

 クラウスの姿が横穴に消え、そしてしばらく経った後、重い音が一度轟いた。空洞内の大気と地面がこだまのように何度か振動する。

  

「やっぱり世界が殺しに来たか……」


 カエトスは短く息を漏らすと、仰向けに寝転んだ。

 横穴から響いた音からして、逃げたクラウスは落盤にでも見舞われたのだろう。それを無事に逃れたとしても、世界は執拗にクラウスを追い詰め殺す。もはや王女たちが命を狙われることはない。

 そう考えたカエトスの体から力が一気に抜けて行く。張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったようだった。

 天井を見上げるカエトスの視界に、金髪の女神が躍り込んできた。小さな手で頬を叩きながら呼びかける。

 

「カエトス、しっかりしろ! 寝るな!」

「……悪い。俺はここまでみたいだ。お前に恩返ししたかったけど……」


 心残りは、ある。多すぎるほどにある。呪いを解いて終わりではなく、カエトスにはその先の目的もあったのだ。ティアルクに置いてきた女たちへの謝罪も終わっていない。レフィーニアたちに自分の思いを伝えてもいない。それに目の前の小さな女神に愛というものを思い出させてやるとも言っていた。しかしもう力が入らなかった。

 カエトスの意識は、小さく息をつくとともに闇に呑まれた。

 

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