第29話 降りかかる災厄

 カエトスは素早く手近な木陰に移動し、姿勢を低くした。イルーシオの力で透明化しているのだから、そこまで焦る必要はなかったと思いつつ、夜闇に覆われた森の中へと目を凝らす。

 聞こえてきたざわめきは風の音かと思ったが違う。木々の合間に揺れるいくつかの光があった。

 

 松明、もしくは源霊イルーシオの力による明かりだ。ゆっくりだが確実にカエトスへと近づいている。どうやら王城を守る兵士らしい。先ほど撤収したハルンが差し向けたものと思われた。

 彼女は自分の手でカエトスを抹殺するつもりだったが、女神イリヴァールという想定外の存在に阻まれたために、代わりの刺客を放ったということなのだろう。

 

 兵士たちがやって来る方角は山頂方面からだ。

 カエトスは山頂を経由して王城アレスノイツに向かおうと考えていたが、まともな武器が短剣しかない現状で敵の集団の中に突っ込むのは愚の骨頂。最短距離で城を目指す方針は修正せざるを得ない。

 

 カエトスの現在地はデスティス山の北側斜面。兵士たちは山頂側からやって来ているはずだから、それを右に見ればカエトスは東に向くことになる。そのまま兵士を迂回するように東進し、徐々に南へと進路を変え、デスティス山の南面に出る。回り道になるがこれが最も確実だろう。

 カエトスはたった今、木の枝から切り出したミュルス用のスティルガルを一振りすると、松明の明かりを右に見ながら駆け出した。

 

 ミュルスによる機動力の補助は好調だった。斜面を疾走し、藪を飛び越え、常人では到底出し得ない速度でひたすら走る。

 周りが闇に包まれていることと、カエトスが透明化していることもあって、兵士たちに発見される可能性は非常に低いはず。このまま何事もなく城にまで到達できそうだ。

 しかしカエトスがそう思った矢先、兵士の声が森の中にこだました。

 

「いたぞ!」

 

 それは明らかにカエトスを視認しているとわかる声だった。

 たしかにカエトスの周りは背後からの弱々しい光に照らされている。しかしカエトスはいまイルーシオの力で透明化している。光が投射されたところで、それはカエトスには届かずそのまま透過するはずなのだ。

 透明化に失敗していたのかと思ったが、すぐに真の原因に気付く。視界が僅かに明るくなっていた。イルーシオによって作り出された場が消失し、光への干渉効果が消えていた。

 

「無効化か……!」


 カエトスは走る勢いはそのままに、歯軋りしながら唸った。

 無効化とは、源霊による干渉を同種の源霊の力を持って打ち消すことだ。

 今の場合は、カエトスを照らす光を生成した源霊イルーシオが、カエトスの指示で動いていたイルーシオに働きかけて活動を停止させたことになる。

 

 カエトスが持つ神鉄の剣によって源霊に命じていれば、他からの干渉で無効化されることなどまず起きない。神鉄製の剣による命令は非常に強力だからだ。しかしカエトスがいま使っているのはどこにでもある木の棒を加工したもの。源霊への強制力が圧倒的に足りないため、他の源霊による説得になびいてしまったのだ。

 それにしても夜の森の中で、百ハルトース(約百二十メートル)は距離が開いているにもかかわらず発見するとは、相当に勘と運のいい兵士がいるらしい。

 

「こんなところで運を使うなよ……!」


 カエトスは悪態をつきながら、さらに山中を駆けた。

 その直後、カエトスの斜め後ろで破裂音が響いた。カエトスの展開している動体減衰場に銃弾が着弾した音だ。幸い、貫通するほどの威力ではなかったため無傷だ。

 しかしカエトスは驚きを隠せなかった。見つかりはしたものの光からはすぐに逃れたうえに、足は一切止めていないのだ。いきなり命中させられる距離と状況ではない。

 とてつもない手練の狙撃手でも混じっているのだろうか。

 

 カエトスは左手を翻し、木の棒を小刻みに振りながらミュルスに動減衰断場の再展開と行動補助の追加を命じた。その棒を口にくわえて、イルーシオ用のスティルガルに持ち替えて、透明化も再度命じる。

 木々を避ける必要性からカエトスの進路は直線にはならない。そして再び姿を消しもした。いかに腕が立とうとも、次はもう捉えられないはず。


 だがカエトスの期待は呆気なく裏切られた。再び命中弾。減衰しきれなかった衝撃波がカエトスの体に波及する。それも一つではない。次々と体のあちこちに殴られたような衝撃がかかる。かすめたものを含めれば十発以上がカエトスを捉えていた。

 異常な命中率だった。

 直進しているときに当たるならまだわかる。しかしカエトスが進路を変えた直後にまで銃弾は捉えるのだ。しかも兵士たちからは見えていないはずなのに。

 カエトスはすでに気付いていた。異常としか思えないこの現象の原因に。

 

「これが災厄ってわけか……!」


 夜の森の中を姿を消して激しく動き回る者に対し、その気配だけを頼りに立て続けに銃弾を命中させられる人間はいるのかもしれない。しかしそれほどの才を持った者が、何人も居合わせることなどあるだろうか。何らかの意図が作用していると、そう考えるのが自然だ。

 そしてそれを手引きしているのが〝世界〟。

 

 イリヴァールの話によれば〝世界〟は人の運命を司るという。そしてそれは前もって定められていて、人はそれに従うものだと。

 その〝世界〟が、兵士たちの運命に干渉できるとしたら、彼らにカエトスを殺す定めを刻み込むことで、あらゆる行動がそれに向かって集束していく。だから彼らの攻撃の全てがカエトスに命中する。

 おそらくこれが今起きていることだ。

 しかし仮説を導き出したところで、カエトスには対処の方法がない。急激に進路を変えてもそのまま直進しても、必ず銃弾がカエトスの体を捉えるのだ。できることといえば、防御と移動の補助を絶やさずに続けることのみ。

 口にくわえたイルーシオ用のスティルガルに持ち替えている余裕はない。減衰場の維持が滞った瞬間、銃弾はカエトスの体を貫くからだ。

 カエトスは左手で木の棒を翻し、ミュルスへの命令を出し続けながらひたすら夜の森の中を駆けた。

 藪を飛び越え、跳躍中に大木を蹴って軌道を変え、木々を流麗な足さばきで回避する。

 〝世界〟の干渉により、放たれた銃弾が必ず当たるとはいえ、それは射手本人にはわからない。対象を完全に見失えば銃撃そのものを停止させるはずだ。そしてその目論見は成功した。体への衝撃が減り、ついには止む。

 

 走り続けたカエトスは、前方に見えた巨岩の陰に身を寄せた。

 すぐに二本のスティルガルを左手でまとめて持ち、新鮮な空気を貪るように吸い込む。ここまでの道中、棒を口にくわえていたためにまともに呼吸ができなかったのだ。

 足を止めたことで急激に噴き出した汗が顎を伝ってぽたぽたと地面に落ちる。それを右手で拭いながら耳を澄ませた。虫の音と草木のざわめきが聞こえる。追手の気配はない。ひとまず追跡から逃れたようだ。

 

 速やかに呼吸を落ち着かせたカエトスは、体の様子を確認した。背中に鈍痛はあるが、出血を伴う負傷はなかった。

 手の棒を翻してミュルスへ減衰場の再展開を命じつつ、周囲に目を向ける。

 正面は急激に下る斜面になっており、開けた視界の先には橙色の明かりが点々と灯る街並みが見える。その向こうには黒々とした湖面に黄色い半月を映すビルター湖があり、左手に見える山の稜線は白み始めていた。

 デスティス山の尾根を越えて、南側斜面に達していた。ここから街並みを左手に見ながら西に進めば、王城アレスノイツに辿り着く。

 儀式が始まる正確な時間は聞いていないが、夜明け前までに辿り着けばレフィーニアが神域に向かう前に会えるはず。そのためにも兵士たちに追いつかれる前に城に侵入しなければならない。

 

 カエトスは移動を再開しようとした。とそのとき、繊維質の何かが千切れるような音が耳に飛び込んできた。

 それは地面からのものだ。目を向ける。暗くて定かではなかったが、地面に亀裂が走っているように見えた。

 

 カエトスは聞いたことがあった。崖崩れの前兆に今のような音がするということを。崩落しようとする土砂の重さに耐えきれずに、地中の根が切断されるのがその理由だ。

 

 カエトスはすぐに飛び退いた。が、一瞬遅かった。カエトスが蹴った地面はそのまま斜面下方に向かって滑り落ち始める。蹴るべき地面が移動してしまったことで、カエトスの跳躍が殺された。期待通りの移動距離を稼げずに、もう一度地面に着地する。

 そのときには斜面全体が本格的な崩落を始めていた。山中に地鳴りが轟く。

 

 カエトスの足元もぐずぐずに崩れ出し、土中に足が呑まれる。それを強引に引き抜き、カエトスは走った。斜面を横切るように移動することで、崩落範囲から逃れられるはず。

 しかし行けども行けども固い地面に行きつかない。足が触れる先から土が崩壊していき、下半身が土に埋もれそうになってしまう。

 生き埋めになったらもう助かる見込みはない。それだけは絶対に避けるべく、両手足を駆使して土砂をかき分けながら、がむしゃらに進んだ。

 どれくらい土砂に翻弄され続けたのだろうか。永遠のような一瞬の時間が過ぎ、崩落は止んだ。

 

 カエトスはかなりの高さを転がり落ちていた。下半身は半ば土砂に埋もれており、体のあちこちが痛みを訴える。だが全力で抵抗した甲斐あってどうにか生き埋めだけは回避できた。負傷の確認は後回しにして、とにかく足を引き抜こうとした。しかし崩落はまだ終わってはいなかった。カエトスの頭上で一際大きな音が響く。

  

「嘘だろ……!」


 崖上を仰いだカエトスは思わず呻いた。

 巨大な物体が斜面を転げ落ちていた。

 それはついさっきまでカエトスが背中を預けていた巨岩に違いなく、カエトス目掛けて加速しながら迫っていた。

 カエトスは動体減衰場を展開していたが、そんなものは土砂の崩落に巻き込まれたことでほとんど消え去っている。そもそも仮に減衰場が残っていたとしても、あの大岩を防ぐのは無理だ。何しろちょっとした屋敷ほどの大きさがあるのだ。受け止めたとしてもそれは一瞬のこと。その直後に押し潰されておしまいだ。

 

 カエトスは、ぐずぐずの地面に足を取られながら這うようにして落石の軌道から逃げた。手に触れたものは何でもいいから手がかりにして体を移動させ、中腰の状態から地面を全力で蹴った。体を投げ出すように跳び、前転して受け身を取る。

 その直後、巨岩はカエトスが今までいた場所を凄まじい速度で通過し、大木を薙ぎ倒しながら斜面を転げ落ちて行った。木材が引き裂かれる音が段々と遠ざかり、やがて消える。


 まさに九死に一生を得るとはこのことだった。あとほんの僅かでも気付くのが遅れていれば岩に押し潰されていた。崩落が収まり、土砂の残滓が断続的に落下する音だけがカエトスの耳に届く。

 しかしカエトスには息をつく暇もなかった。膝立ちの体が光に照らし出され、それと同時に左肩口を激しい衝撃が襲う。光源は崩落した斜面の上。そこから銃撃されていた。

 

 追手の兵士たちはよほど勤勉なのか、職務に命を賭けているのか、はたまた王家に忠誠を誓っているのか、崩落した斜面には目もくれずに、さらなら攻撃を加えてくる。

 カエトスは左手の木の棒を一振りしてミュルスへ動体減衰場の展開を命じた。鈍い痛みが左肩に走る。銃弾が命中したところだ。骨にひびが入っているかもしれない。しかしこの程度で済んでよかった。辛うじて残っていた動体減衰場がなければ、銃弾はカエトスの体を貫いていただろう。できれば透明化もしておきたかったが、イルーシオ用のスティルガルは崖崩れから逃げる過程でどこかへいってしまっていた。ないものはないと諦めて、カエトスは王城を目指して走り出した。

 

 その矢先、再び命中弾。右の肩甲骨辺りに大きな衝撃。体内に軋み音が響き、体勢が崩される。たったいま動体減衰場を展開させたばかりにしては明らかに伝わって来る威力が大きい。 

 

 その理由は明らかだ。崖の崩落に巻き込まれたことでスティルガルの調律が狂い、ミュルスに正確な指示が通っていないのだ。そのために減衰場の防御能力が低下していた。

 どこにでもある木の枝で作ったのだから無理はない。むしろ、ここまでよく働いた。しかしもう少し頑張ってもらわねば。


 何度も命中弾を浴び、その都度動体減衰場の補強を繰り返しながら山中を疾走していると、ようやく見えてきた。群れなす木々の先が橙色に染まっている。あれは城壁の上に焚かれた篝火。王城アレスノイツに辿り着いたのだ。

 現在の標高からして、ここで城壁を飛び越えれば、王城の内郭付近に出られるはずだ。 

 問題はどうやって忍び込むかだ。神鉄製の剣があれば、城壁を跳び越えられるが、いまはそんなものはない。ならば取り得る手段はひとつ。

 

 カエトスの目の前にそびえ立つ城壁と、大きく口を開けた堀が現れた。

 カエトスは左手のスティルガルを口にくわえ、走る速度を緩めないまま跳躍した。およそ二十ハルトース(約二十四メートル)ほどの堀を飛び越え、壁面に張り付くと同時に、すぐさま凹凸を探し当てて落水を防ぐ。

 

 壁面そのものには光源が設置されておらず、篝火の明かりも届かない。

 カエトスは壁面の僅かな凹凸を頼りに体を持ち上げ、焦らずに急いで城壁の上に向かった。


 幸いにも追手が来る前に終わりが見えた。伸ばした左手で体を引き上げれば、次の右手が壁の上端に届く。

 カエトスは岩の隙間にねじ込んだ左手指に力を込めた。その瞬間、指が滑った。手がかりにした人間の頭ほどの岩がまるごと外れたのだ。それは壁面に何度か接触しながら堀へと落下し、決して小さくはない水音を響かせる。

 

「……何だ?」


 男の声が聞こえた。足音が近づいてくる。見張りの兵士だ。

 カエトスは咄嗟に伸ばした右手で壁の上端にぶら下がっている状態だった。このままでは確実に見つかってしまう。少し下がってやり過ごすか、それとも乗り込んで兵士を力づくで黙らせるか。

 だがその選択肢はすぐに消えた。


「そこに不審者がいるぞ!」


 男の叫び声がこだまし、光に照らされる。追手に見つかった。もう進むしかない。

 カエトスは右手で体を引き上げた。

 

「……っ!」


 不意に右脇腹に衝撃。銃撃だ。しかも今までと感触が違う。体の中に何かが潜り込む気配とともに、熱を持ったように熱くなる。

 カエトスは苦鳴を飲み込むと城壁に降り立った。すぐ傍に兵士がいた。銃槍の切っ先をカエトスに向けて口を開く。

 

「動くな! 動けば──」


 カエトスは言い終わるのを待たなかった。すぐに城内に向かって城壁から飛び降りる。高さは一般家屋の三階相当。口にくわえていた木の棒を素早く左手に持ち替え、落下エネルギーを奪取しろとミュルスに命じる。しかしいつもの剣であれば完全に止まる落下も、今回はそうはいかなかった。速度は落ちたものの半分程度まで。着地と同時に前転して衝撃を逃がし、すぐに駆け出そうとする。が、足を止める。

 正面に銃槍を構えた兵士がいた。突然現れたカエトスに驚き、体が固まっている。と思ったのも束の間、兵士が銃槍を突き出しながら突進してきた。その顔は恐怖に強張っている。恐慌状態に陥って冷静さを完全に失っていた。

 カエトスは体をさばいて切っ先をかわした。攻撃を空振りした兵士が勢い余って転倒する。

 

「ああぁぁっ!」


 兵士のが絶叫が響き渡った。銃創が左腕に突き刺さっている。転倒した拍子に自分を刺してしまったらしい。

 声を聞きつけた兵士たちがたちどころに集まって来た。カエトスと血塗れの腕を抱えてうずくまる兵士を目にして、途端に殺気立つ。

 

「何事だ!」

「侵入者だ! 包囲しろ!」


 いくつもの銃口がカエトスに向けられる。

 迸る殺意からして、彼らはカエトスを捕縛するのではなく殺す気だ。血塗れの兵士が彼らの感情を大きく刺激していた。

 カエトスは城壁から飛び降りただけで何もしていない。ゆえにこういった場面ではまず不審者は捕縛するのが定石だというのに、兵士たちの感情が最初から極めて敵対的となってしまった。

 

 兵士がただ転倒しただけならば、このようなことにはなっていない。おそらくこれも〝世界〟の干渉。少しでも多くの人間がカエトスを敵視するように仕組んでいるのだ。一刻も早く神殿に向かい、決着をつけなければ遠からず〝世界〟に殺されてしまう。

 カエトスは包囲が完成する前に、兵士の一人に狙いを定めた。懐に飛び込んで胸を突き飛ばすとそのまま脇目も振らずに走る。

 

「止まれ!」


 怒声を浴びせられるがそれを無視して疾走。素早く進路を右へ変える。その直後、カエトスがいた空間を凄まじい速度の物体が射抜く。銃撃だ。まったく躊躇がない。

 

 カエトスは左手の即席スティルガルを絶えず翻し、動体減衰場の補強をしながら視線を走らせた。右手には崖がそびえ立ち、その麓に各省庁の建物がずらりと立ち並んでいる。

 ここは王城の内郭東側で、カエトスは庁舎前の広い通りを走っていた。

 遮蔽物が一切なく、銃撃のいい的だ。進路を頻繁に変えるものの、それを見透かしたかのように銃弾が絶え間なくカエトスを襲う。明らかに森の中よりも被弾が多い。


 カエトスはそれから逃れるために、庁舎の合間の通りに飛び込んだ。進む先は崖になっていて行き止まりだ。迷わず左側の庁舎を囲む石塀に飛びつき、そのまま跳び越える。下は柔らかい地面だった。暗がりの中でも、堆積している腐葉土の柔らかさがわかる。

 

 カエトスは顔を上げた。見覚えのある光景が飛び込んできた。林立する巨岩と大樹の群れに大きな池。その向こうには典薬寮別棟が見える。宮内省内の庭だ。

 

 塀の外から大勢の足音が聞こえた。カエトスは激痛を放つ右脇腹を押さえながら、巨石と大樹の合間を縫うように進んだ。その途上で地面に落ちていた枝を三本拾い、大岩と巨木が折り重なる隙間へと体を滑り込ませた。何度か折り返しながら進み、その先の小さな円形の空間に足を踏み入れる。


 薄暮に佇む台座のような石を目にしたカエトスの胸が、傷からのものとは違う痛みにずきんと痛んだ。そこはレフィーニアに膝枕をされた場所だった。そのときの感触と温もりと彼女の言葉が蘇る。

 あのときレフィーニアはカエトスに対して、おずおずと好意を伝えながら抱き締めてくれた。しかしそれはもう二度と手の届かないところに行ってしまった。

 

 カエトスは込み上げる後悔を呑み込みながら、台座に腰を下ろした。額に浮かぶ汗を拭い、ここまでの激しい動きにも腰帯から脱落することのなかった短剣を手に、拾った木の棒に刃を入れる。

 

 まず作るのは熱を司る源霊リヤーラに命令を出すスティルガルだ。手早く加工して、空を切らせて音を確認する。問題ないと見てカエトスは上着とシャツを脱いだ。露わになった自身の上半身を目にした瞬間、思わず顔をしかめる。

 

 左上腕と前腕、そして肩のあたりが紫の網目模様に覆われていた。それの源は上腕部の紫の薔薇。女神イリヴァールがかけた呪いだ。

 そこから木の根のようなものが四方へと延び、複雑な模様を作り出している。それはカエトスが見ている間にも、じわじわとその領域を広げていた。ネイシスがいなくなったことで、女神の呪いが本格的にカエトスの全身を侵し始めたのだ。

 

 不意に走った激痛にカエトスは顔をしかめた。いまはどうにもできない呪いは後回しだ。

 カエトスは紫に染まりつつある左半身から目を引き剥がし、右脇腹へと向けた。そちらは紫ではなく赤に染まっていた。これは城壁に取りついたときに受けた銃弾が貫通した痕だ。そこから流れ出た血が太もも辺りまで濡らしている。

 

 カエトスは傷口に右手を当てると、左手の木の棒を翻した。脇腹が徐々に熱を持ち、すぐに耐えがたいほどの熱さになった。肉の焦げる匂いが漂う中、カエトスは歯を食いしばってそれに耐える。

 カエトスがやっているのは、リヤーラが生み出した熱で傷口を焼くこと。こうすればひとまず血は止まる。後々の傷の治りに悪影響を及ぼすだろうが、それも死んでしまえば元も子もない。とにかく今を生き延びることが最優先だった。

 

 腹側と背中側から傷口を焼いて血が止まったのを確認したカエトスは、棒を投げ捨てつつ額の脂汗を拭った。脇に置いたシャツを短剣で割いて即席の包帯を作り、黒く焦げた傷口を覆うように腹に巻く。

 上着を着て、二本の木の棒をミュルスとイルーシオに対応したスティルガルへと急いで、かつ丁寧に加工していく。


 それが起きたのは、二本ともに加工を終えて音を確認しようと棒切れを振り上げたときだった。

 鋭い破砕音が響いた。

 カエトスは咄嗟に上を見た。天を衝く石柱の一つに亀裂が走っていた。見る間に先端部分が傾斜し、カエトス目掛けて真っ逆さまに落下してくる。


「またか……!」


 〝世界〟というのは、カエトスが最も気を緩めた一瞬をついて何かを仕掛けてくる趣味があるらしい。

 先刻は休憩しようと岩陰に身を潜めたとき。今はスティルガルの調律に意識が向いた瞬間だ。

 

 カエトスは急いで石柱が重なり合う隙間に体を潜り込ませた。しかし入って来るときよりも狭い。いまの衝撃で石柱の傾きが強くなっていた。地面に腹ばいになって、もっとも隙間の大きい部分を蛇のように這って進む。肩が抜けたところで、石柱の根元に手をかけて体全体を引っ張り出す。すぐさま地面を蹴って跳躍。直後に大地を震動させる轟音が庭園に響き渡った。

 

 受け身をったカエトスは振り返った。折り重なる石柱と巨木の合間から噴き出した土煙が木の葉を舞い上げる。

 レフィーニアのお気に入りだったであろう隠れ家は、完全に破壊されてしまった。彼女が膝枕をしてくれた石も粉々になってしまったに違いない。それはまるで、レフィーニアとのつながりを完全に断ち切られたようにカエトスには思えた


「今の音は何だ──」

「庭園の中──」


 破壊の余韻が去る間もなく、ざわめきが急速に接近してくる。

 カエトスは無残な姿をさらす石柱の群れから目を引き剥がすと、加工したばかりの木の棒を翻した。普段よりは弱いがイルーシオの応える気配が伝わってくる。透明化に成功したものと判断し、石柱と巨木の群れなす庭園を走り出す。

 

 傷口を焼いて止血したことで脇腹が引きつれるように痛む。しかし力が抜けて行くような感覚はなくなった。当面は動けるとして、カエトスは傷のことを頭の中から締め出すと、中郭へ向かう方法を思い浮かべた。

 

 経路は二つ。ミュルスの力を用いた連続跳躍で崖上まで行くか、階段を使うかだ。

 カエトスは一瞬だけ迷うと後者を選択した。

 実際にカエトスは椅子の脚を加工したスティルガルを使って中郭に行ったわけだが、あれは時間をかけて作り上げたもので、たったいま大急ぎで加工したスティルガルとは精度が全く違う。しかも崖の高さは八十ハルトース(約九十六メートル)はあり、ミュルスが答えなかった瞬間、カエトスを待ち受けるのは墜死だ。万が一のときのネイシスの助けもない今、時間よりも確実性を取らざるを得ない。

 

 中郭へと至る階段は、この宮内省の隣りに位置する中務省敷地内にある。典薬寮別棟の出口から宮内省本庁舎前を通ってそのまま西に向かえば辿り着く。

 

 迷路のような庭園を抜けて別棟の敷地外に向かって進む。

 その途中、石畳上をこちらに向かって来る兵士の集団と遭遇した。いずれも殺気立っていて、庭園の中を指差しながら大声を張り上げている。ただ誰もカエトスには目を向けていない。透明化は上手く機能していた。

 

 カエトスは足音に注意しながら彼らの脇を駆け抜けた。

 宮内省の敷地を横断し、石塀に接近したところでスティルガルを一振りしてミュルスへの行動補助を命令。速度を落とさないまま跳躍した。宮内省と中務省を囲む石塀をまとめて跳び越え着地、衝撃を吸収した低い姿勢のまま周りを見渡す。

  

 中務省内は、夜が明けてもいないのに多くの兵士がいた。中郭の警備を命じられたり、その役目を終えてこれから休息する者たちだ。

 彼らは一様に立ち止まりカエトスへと顔を向けていた。

 一瞬透明化が失敗したのかと思ったが違う。視線は斜め上を見ている。

 たった今起きた石柱崩落が原因だ。同僚たちと会話を交わしながら、左に見える正門から駆け出す者や、右手の中務省庁舎内に駆け込む者などで騒然としている。

 

 兵士たちの注意が逸れているいまは好機。

 中郭へと至る階段は中務省庁舎の横だ。宮内省を指差す警備兵たちの合間を走り抜け、庁舎の角を曲がる。

 見えた。何度も折り返しながらそびえ立つ崖上へと続く階段だ。それは麓の石造りの建物の中に消えている。あそこは中郭へと向かう人間の身元確認を行う警備兵が常駐している検問所で、階段の入口はあの中だ。

 

 今のカエトスの跳躍力では、検問所を飛び越えて直接階段に辿り着くことはできない。そこでカエトスは扉に素早く接近した。壁に背をつけて息を潜める。そして扉が開いた瞬間、中から出てきた四人の集団と入れ替わるように内部に侵入した。

 

 左に男女の警備兵が並んだ受付があり、テーブルの上の帳面に兵士たちが名前を書いている。それを照合することで、中郭に向かった人間を把握するのだ。

 

 誰もこちらに目を向けていないのを確認すると、カエトスは室内を素通りして入り口の対面にある扉をくぐった。その先は、石壁に囲まれた階段が左上へと続いていた。それを二段飛ばしで駆け上がる。

 階段は広くはない。ぎりぎり三人が横に並んで歩けるかという程度だ。幸いにも下りてくる人間はいない。

 何度か折り返しながら百段ほど上ると、構造材が石材から木材へと変わった。四方を覆っていた壁もなくなり、手すりと屋根だけという開放的なものになる。そこから朝の冷たい空気が入り込んできた。それとともに朝日を浴びて輝き始めたビルター湖が目に入る。

 夜が明けていた。

 募る焦燥を押し殺し、カエトスはひたすら階段を上った。


 呼吸が激しくなる。肌寒い早朝だというのに、汗が滝のように流れる。透明化しているとはいえ、音は外部に漏れる。周りに人間がいたら、呼吸音で存在を悟られてしまっていただろう。

 誰も利用していない今のうちに中郭まで上りきる。そう思った矢先、階段の中腹辺りで、上から降りてくる兵士の集団に遭遇した。


 彼らはカエトスの目前にある踊り場を折り返すところだった。二列縦隊で二十人ほどだ。横いっぱいに広がっているためこのままではぶつかってしまう。下の踊り場まで戻ればやり過ごせるが、そのような時間的余裕はない。

 カエトスは右へ視線を走らせると、木の棒を腰に差した。落下防止用の手すりをつかんで、迷うことなく外へと身を躍らせた。両手でぶら下がり、階下へと向かう兵士を手すり越しに見ながら、腕を交互に動かして上に進む。

 兵士たちは誰も手すりにぶら下がるカエトスに気付かなかった。ほっと息をつきつつ、それをやり過ごして踊場へと差し掛かる。

 不意にカエトスは記憶を呼び起こされた。

 この踊り場は昨日の早朝、霊獣討伐前にミエッカと会話を交わした場所だった。

 彼女の見せた初々しい少女のような態度や、階段につまずいて転びそうになったときの頬を染めた顔、そして取調室で見せた悲しい怒りに満ちた表情と、立て続けに脳裏に蘇る。

 ミエッカが、あの恥じらいと高揚の入り混じった笑顔を見せてくれることはもう二度とない。それを思うと胸の奥がどうしようもなく苦しくなる。

 

 カエトスはそれを振り払うように頭を振った。止まりかけた腕に力を込めて手すりをよじ登る。

 そのときふとカエトスを嫌な予感が襲った。

 いまの一瞬、カエトスは僅かではあったが気を抜いてしまっていた。となると次に起こるのは──。

 カエトスは上を見た。

 予感は的中した。

 その瞬間、木製の屋根が激しく砕け散った。木片に混じって猛烈な速度で石塊が飛び込んでくる。落石だ。大きさは一抱えほど。直撃すれば間違いなく死ぬ。

 カエトスは咄嗟に右手を放した。体が左に振られると同時に石塊は手すりを破壊し、凄まじい勢いで体側を通過。そして息つく間もなく第二波が襲来する。

 第一波と同じく屋根を破壊したそれは、確実にカエトスに衝突する軌道をとっていた。

 カエトスは体が左に振られた反動を利用して右へ飛んだ。ぎりぎりのところで落石を回避。しかしそれで終わらない。飛散する木片を弾き飛ばしながら第三波が迫る。

 カエトスの体はまだ宙にあり、伸ばした手は手すりに届かず、次の行動に移れない。このままでは石塊が直撃して死ぬ。

 

(くそ……! こんなところで死ねるか!)


 そう強く念じるカエトスの視界に、第一波で破壊され飛び散った手すりの破片が飛び込んできた。カエトスはそれを鷲づかみにして後方へ投げた。反動で体が崖側に動く。その直後、石塊はカエトスの体をかすめ、大気を唸らせながら落下していった。

 

 カエトスは崖から突き出た柱につかまった。それは階段を支える構造材だ。階段の下部に避難する形になったカエトスは、頭上を含めた全周囲に視線を走らせる。危険な匂いは感じ取れなかった。止めていた息を吐くと、背中に冷や汗が溢れた。

 

 今の一瞬、カエトスは間近で石塊の気配を感じた。外見は何の変哲もないただの石でしかなかった。しかしそこには視認できそうなほどの尋常ならざる殺意が漲っていた。

 これが運命を正そうとする〝世界〟の意思。

 

 カエトスは頭上に手を伸ばした。崖から突き出した柱を手掛かりに急いで踊り場によじ登る。そこは屋根や手すりだけではなく、床までも無残に破壊されていた。

 〝世界〟は、カエトスとナウリアたち三姉妹との関係そのものを断ち切ろうとしている。そう思えてならなかった。そしてこのままでは本当にそうなってしまう。カエトスの死という結末となって。

 

 カエトスはいまの落石で混乱に陥っている兵士たちを尻目に階段を駆け上がった。異常を察知して下りてきた兵士たちの合間をすり抜け、何度も踊り場を折り返して、ようやくのことで頂上に辿り着く。

 

 そこは崖下と違い簡素な──とはいっても王族の住まう場所に相応しい装飾を施された──石造の詰め所の中だった。その役割は崖下のものと同じく、階段利用者の監視と管理だ。左の机に二人、正面の扉のところに二人の兵士が立っている。

 そして彼らとは異なる雰囲気を纏う者もいた。いずれも暗赤色の制服姿で数は四人。胸元には見覚えのある三枚の鷲の羽根をあしらった記章がある。王子クラウスの親衛隊イーグレベットの隊員たちだ。

 彼らはカエトスから見て右前方に固まり、たったいま階段下で発生した音について話をしていた。その目は階段を駆け上がってきたカエトスに向けられていない。

 

 透明化は維持されている。カエトスはそう判断し、正面の扉に向かって歩き出した。音で気付かれないように呼吸を最低限にまで絞り、全身から噴き出す汗が床に落ちないように細心の注意を払う。

 

 詰め所の半ばに達したところで突然、会話を交わしていた隊員たちがカエトスへと顔を向けた。その視線は完全にカエトスに焦点を合わせていた。

 透明化が破られた。どうやらここにイルーシオの働きを妨害する場が展開されていたらしい。

 一瞬、詰め所内の全員を打ち倒すという選択肢が浮かぶが、カエトスは即座にそれを捨てた。


 〝世界〟を敵に回している今、一兵卒でさえ、才ある者が何十年と研鑚を積むことでようやく成し遂げられそうな夜間の狙撃を幾度となく命中させてくるのだ。手練の親衛隊とやり合ったらどうなるか、火を見るよりも明らかだ。となると、取り得る手段は逃げることのみ。

 

 カエトスは相手が動くよりも先に走り出した。詰め所の扉を蹴破り、外に躍り出る。

 正面には正殿アルアサークスと別殿とを結ぶ柱廊があり、柱の合間からは、差し込み始めた朝日を浴びるユリストア神殿が見えた。その方角の兵士の密度が凄まじい。軽く見積もっても数百人以上の人間がいた。このまま神殿に直行できればと思ったが無理だ。

 カエトスは柱廊を横切り、そのまま庭園へと入った。


「待て!」


 背後から猛烈な速度で迫る気配。速い。

 カエトスはすでに木の棒を使って、ミュルスへ行動補助を命じていたが、それでも走る速度は相手の方が上だった。じきに追いつかれてしまう。

 

 焦るカエトスの進む先に別殿の一つがあった。裏手へ回るとそこは大きな池になっており、それを囲むように木々が茂っている。

 別殿の陰に入ったことで、カエトスの姿は追手の視界から外れた。この僅かな隙をついてカエトスは一番近くの木の幹に足をかけて跳躍。頭上の枝を片手でつかんで一気に体を引き上げた。さらに枝を蹴って上を目指し、ぴたりと動きを止める。

 

「どこに行った!」


 カエトスの眼下で足を止めた隊員たちが怒声を上げた。清々しい朝の空気の中、殺気立った気配が満ちる。

 樹上で息を潜めるカエトスはそれを見下ろしながら念じた。上を見るなと。しかし見つかるのは時間の問題だった。騒動のことが伝わったのか、ぞくぞくと兵士たちが集まってきているのだ。当初は数人だった追手が、見る間に数十人という規模に膨れ上がる。

 

 絶体絶命だった。

 〝世界〟を敵に回している以上強行突破は不可能。姿を消しても見破られる。まさに八方手詰まり。そしてさらに悪いことが起きた。

 カエトスが木によじ登った振動で、葉っぱが数枚ひらひらと舞い落ちていた。しかもそれは木の下で身振り手振りを交えて指示を出している隊員の真上。間もなく気付かれてしまう。

 カエトスは次の逃走先を急いで探した。だがどこもかしこも兵士だらけで、そのようなものはなかった。

 力づくで押し通るしかない。

 カエトスがそう決断し、眼下の隊員に躍りかかろうとしたそのとき、予想外のことが起きた。

 隊員の頭に葉が触れるその直前、少年のような声が響いた。


「こっちにいたぞ!」

「どこだ!」


 隊員たちが声の方向へと弾かれたように走り出す。木の葉は隊員に触れることなく、かき乱された空気の流れに乗って池に落ちた。

 水面にささやかな波紋が広がる中、カエトスは安堵よりも警戒心をかき立てられた。別の何かとカエトスを見誤るなどという偶然が、こう都合よく起きるとは思えなかったからだ。

 これは〝世界〟が仕掛けた狡猾な罠であり、油断を誘った後に破滅的な災厄をもたらそうとしているのではないだろうか。しかし本当にこれが偶然起きたことであるならば、神殿へ向かうまたとない好機だ。見逃せば二度と訪れることはない。

 進むべきか否か。

 カエトスが激しく迷っていると、頭上の枝葉が微かに揺れた。

 また落石かと思ったが、ここは中郭であり上には空が広がるばかり。いかに運命を司る世界と言えど、ないものは用意できないはず。が、カエトスは思い出した。天からは時折石が降ってくることを。夜空を漂う星の一部が地上に落ちてくるのだ。まさか世界がそれを用いてカエトスを殺しに来たのか。

 カエトスは覚悟を決めて枝から飛び降りようとした。

 

「待て。私だ」


 鞭のように鋭い声に足を止められる。それは聞き覚えのある声だった。

 振り返る。幹を挟んだ反対側の枝に、男と見紛うすらりとした立ち姿の人物がいた。神殿の警備に当たっているはずのアネッテだ。

 

 カエトスは渡りに船とばかりに声をかけようとして、すぐさま思い直した。

 不意をつかずに声をかけてきたことから、敵意がないと判断してしまっていたが、彼女が味方という保証はどこにもない。アネッテならばミエッカからことの顛末を聞いているはずだからだ。

 

「そう身構えるな。お前を捕まえに来たわけじゃない。話を聞きに来たんだ」


 警戒を緩めないカエトスに、アネッテは両手を耳の高さに上げて見せた。そして親指で背後を指す。

 

「私は神殿のところにいたんだが、あそこは少し高くなっているだろう? お前が木に登るところが偶然見えたんだ。そこでヨハンナに頼んで下の奴らを引きつけてもらった」

 

 隊員たちを誘導したのはアネッテの指示というわけか。人を呼ぶ素振りもないことから、本当にアネッテは話を聞くためだけに来たらしい。

 彼女が味方なのかはわからない。しかし追い詰められているこの現状を打破するには、彼女の手を借りるしかない。

 カエトスはそう決意すると一か八か、幹を挟んで対峙するアネッテに訴えかけた。


「アネッテ殿、クラウス王子はレフィーニア殿下を亡き者にするつもりです。早くこのことを知らせなければ」

「何? いったい何があったんだ。詳しく話せ」


 唐突に切り出された不穏な話題に、アネッテが目を剥いた。次いで潜めた声で問いただす。 

 悠長に説明する時間が惜しかった。しかしこれだけでアネッテが納得するはずもない。カエトスは急いで言葉をまとめるとこれまでの経緯を伝えた。


「出身地を詐称した罪で拘束された私の取調べは役人ではなく、ハルンとヴァルヘイム、そしてクラウス王子が行ったんです。そこで私は城にやって来た真の目的を聞かれて、それを話す過程で、王子が自らレフィーニア王女暗殺の意思を暴露しました。私はそれを知ったため始末されそうになり、こうして逃げてきたというわけです」


 カエトスはそこまで一気に話すと、一拍置いて語気を強めた。


「アネッテ殿。私は何としてでも殿下たちを助けたいんです。どうか神殿まで案内していただきたい」


 瞬きもせずにカエトスの視線を正面から受け止めていたアネッテは、険しい表情を崩さないまま口を開いた。

 

「私はミエッカから全部聞いている。お前が捕まった理由も不可思議な本のことも全部。だから正直に答えろ。ミエッカたちを騙していたのは事実なのか?」

「……三股をかけていたことは事実です。でも動機は違う。呪いを解くために必要だったんです。これがその証です」


 カエトスは顔を歪ませながら声を絞り出すと、左袖をまくり上げた。露わになった前腕部を目にしたミエッカが息を呑む。そこは紫の網目模様で埋め尽くされており、手の甲にまで及んでいた。先刻、典薬寮の庭園で見たときよりもさらに進んでいる。おそらく左半身はほとんど覆われてしまっていることだろう。

 

「これはある女神の呪いで、この模様が全身に広がったとき私は死にます。それを解くためには愛情が必要で、それを手に入れるためにあの本の力を借りたんです」


 脈動するように一定周期で明度を変える紫の模様に、アネッテが小さく唾を飲み込む。それは呪いが放つ異様な雰囲気に気圧されているように見えた。


「……なぜそれを伝えなかったんだ? ミエッカはそんな呪いのことなど一言も言っていなかったぞ」

「隊長殿と対面したとき、私はハルンに体を操られていたからです。そこで本心とは全然違う証言をさせられた挙句、出身地についても事実を伝えられませんでした」

「その事実とは?」

「私は本当にリターム出身で、そして二百年前の人間だということです。あそこは現在無人の荒野になっていますが、私が生まれた二百年前には町があったんです。ですが、この呪いをかけた神に眠らされてしまって、目が覚めたら二百年経っていた」

「それはまた……突拍子もない話だな」


 面食らったように言うアネッテの様子からして、まだまだ言葉を重ねなければ理解は得られない。

 カエトスは焦燥とともに更なる説得の言葉を模索しようとしたがそれは無駄に終わった。

 

「いいだろう。神殿まで案内してやる」


 予想に反して、アネッテは拍子抜けするほどあっさりと答えた。冗談でも何でもなく、それは本心から言っているようだった。

 

「……私の話を信じるんですか?」


 余りに意外過ぎるアネッテの反応に、カエトスは思わず疑問を口にしてしまっていた。そのまま礼を言って受け入れておけばいいものをと思ったがもはや後の祭りだ。

 それが表情に出てしまったのか、アネッテはふっと表情を緩めた。

 

「お前は誠実なのかそうでないのか、判断に苦しむ男だな」


 アネッテは冗談めかして言うと続けた。


「私はミエッカにお前の本性を聞かされても、ずっと腑に落ちなかったんだ。私が持つお前の印象と余りにもかけ離れていたからな。くずすぎて、まるで別人の話をしているようだった。それが操られていたからだとすれば納得できる。リューリの転落事故という前例があるし、あれもきっとハルンが操って引き起こしたことなんだろう。お前が過去の人間だというのも、失伝したはずの剣技を知っていることを考えれば頷ける話だ。神々は我々人間には想像もつかない力を持つと言うし、若さを保ったまま長い間眠らせることもできるんだろう」

 

 アネッテの解釈は、考えられる限りの好意的なものだった。

 孤立無援のカエトスにとって、彼女はこれ以上ないほどに心強い人物だ。だからこそ、カエトスはもう一つのことについても、自らの首を絞めると知りつつも尋ねずにはいられなかった。

 

「ですが……私は三股をかけていたんです。それはいいんですか?」


 アネッテの眉間にしわが寄った。不審そうに尋ねる。

 

「一応聞くが……もしかして、ミエッカたちのことは好きでも何でもなくて、ただ利用するつもりだったのか?」

「違います……! アネッテ殿には受け入れられないことかもしれませんが……俺は三人とも好きだ。この気持ちは嘘じゃない」

「何だ、一瞬とんでもない勘違いしたのかと思ったじゃないか」


 押し殺した声で猛然と反論したカエトスに、アネッテはほっと息をついた。

 

「ミエッカが聞いたら間違いなく激怒すると思うが、私はそういうことはあまり気にしないんだ。男というのはそういうものだと知っているし、命を張る覚悟を持ってやっているのなら、むしろ相当ましな部類だとすら思う。その点、お前はウルトスで狙撃されたミエッカを助けた。しかも霊獣とも一対一で対峙して。あれを見せられた後で、気を引くためにやっていたと言われても私なら怒らないぞ。まあ……少し釘を刺したりはするだろうが。だから私はお前の言葉を信じてやろう。本物のハーレムというものも実際に見てみたいしな」


 持論を展開しながら、最後にいたずらっぽい笑みを浮かべるアネッテに、カエトスはこみ上げる感情を呑み込みながら目を伏せた。

 

「……助かります。この恩は忘れません」

「礼は決着をつけてからにしろ。さあ行くぞ。ついて来い」


 アネッテは足元に誰もいないことを確認すると、枝から飛び降りた。

 カエトスもそれに続いた。まくり上げた左袖を戻しながら、それとなく周囲に目を向けるアネッテの隣りに並びつつ小声で尋ねる。

 

「神殿にはどの経路で向かいますか」

「正面からだ。こそこそしているから怪しまれるのであって、堂々としていれば誰も気に留めない。幸いお前の服は、多少薄汚れているものの親衛隊の服のままだ。問題ない」


 そう言ってアネッテは歩き出した。

 カエトスは自分の服装を見回した。薄汚れているという範囲を超えているように見えた。何しろ山中を走り回り土砂崩れに巻き込まれて、銃弾を受けた穴とそれに伴う出血の跡もある。よく見なくとも、異常を感じ取られるだろう。だが今更着替えている暇も服もない。カエトスはこびりついた泥や草きれをできる限り払い落とすと、手に持った木の棒を腰帯に差してアネッテの後に続いた。

 

 別殿の裏手から表に回り、まずは正殿アルアサークスへ向かう。別殿と神殿とを直接結ぶ通路がないため、いったん中郭中央にある正殿に向かわなければならなかった。

 中郭に立ち込める空気は騒然としたままだ。

 カエトスを探していると思われる兵士は、百人以上に膨れ上がっているようだった。至るところで周りに注意深く目を向けながら歩き回ったり、生垣の陰などを覗き込む姿を見かける。

 そのような中でもアネッテは肝が据わっていた。罪人の立場にあるカエトスを伴いながら、胸を張って歩く姿に不安はない。

 

「殿下はいまどちらに?」

「すでに禊を終えて、ミエッカとナウリア殿の二人と一緒に神域に向かった。あの中で事に及ばれては、外からではわからない」

 

 その一言に、カエトスの中で危機感が膨れ上がる。

 できることなら神域に向かう前に王女と接触したかった。なぜなら、神域には限られた人間しか立ち入れないことになっているからだ。王女を暗殺する場所としてこれ以上の場所はない。

 隣を歩くアネッテが拳をぐっと握り締める。その仕草から彼女も強い危機感を覚えているのがはっきりとわかる。

 歩調を速めたアネッテにぴったりと追従し、厳戒態勢が敷かれた庭園内を進む。

 通路の両脇には燃え尽きかけた薪をくべた篝火がいくつも並んでいた。その間に兵士が並んでいるが、彼らの視線は並んで歩くカエトスたちにではなく、園内の芝生や木陰、生垣に向けられている。アネッテの言った通り、堂々と通路を歩いている二人を誰何する者はいなかった。

 

 正殿に着いたところで通路を左へと曲がり、ユリストア神殿を目指す。

 このまま何事もなくたどり着けるかとカエトスが思った矢先、通路の先にイーグレベットの隊員が目に止まった。人数は二人。カエトスを探し回る者とは別に独自に神殿の周囲を警備しているらしい。何かを探すように巡らせていた顔が、アネッテとカエトスを捉えたところで止まる。

 

「アネッテ殿」

「気付かれたな。でもしらを切り通す」


 カエトスが注意を促してもアネッテの歩調は緩まなかった。そのまま通路を進む。

 

「アネッテ殿、お待ちを」


 目礼しつつ隊員の脇を通過しようとしたアネッテの前に腕が差し出された。

 

「何か?」

「後ろにいる者なのだが、それは拘束されているはずの男ではないのか?」

「気のせいだ。失礼する」


 誰何する隊員へのアネッテの返答はにべもない。カエトスの背中に腕を回すと、押しやるようにして歩みを再開する。その前にもう一人の隊員が素早く回り込んだ。

 

「待て。気のせいと言うのなら、身分を明らかにしてもらおう。貴隊に男は一人しかいないはず。そしてその人物は逃亡中だ。それがこの男ではないのか?」

「実はこう見えて、これは女なのだ。名はカトレアという」


 全く予期していなかった言い訳に、カエトスは思わずアネッテを見てしまった。二人の隊員も目を丸くしてカエトスの顔を覗き込む。


「ほ、本当なのか?」

「冗談だ。こんなごつい女がいてたまるか」


 アネッテは微笑を浮かべるとすぐに表情を改めた。


「普段は事務仕事を任せていたから、貴殿が知らないのも無理はない。少々人手が足りなくなったので急遽来てもらったんだ。ちなみに名はマティアスという。さあ、これでいいか? 私が長い時間持ち場を離れているのはよくないのだ」


 すらすらと架空の身分を告げると、顔を見合わせる隊員をよそにアネッテは歩き出した。

 そこへ背後から近づく足音。それは駆け足でやって来ると、カエトスの横で立ち止まり顔を覗き込んできた。


「やっぱりお前か……!」


 声を上げるその男の顔にカエトスは見覚えがあった。一昨日の朝にレフィーニアを侮辱し、カエトスが恫喝した隊員だ。腰の剣に手をかけながら叫ぶ。


「こいつが何と言ったかはわからないが、こいつが脱走した奴だ!」

「アネッテ殿。これは一体どういうことですか?」


 カエトスたちを呼び止めた隊員たちが一歩離れて僅かに姿勢を低くした。殺気だった気配が立ち上る。少しでも妙な真似をすれば、即座に剣を抜かれかねない。

 アネッテは小さく舌打ちすると、カエトスにだけ聞こえる程度の声で囁いた。

 

「一人で何とかできるか?」


 これは神域に単独で侵入して王女たちを助けられるか、という意味だ。

 不安はいくらでもある。というか、懸念材料しかない。しかしカエトスは即答した。

 

「やります」

「では隙を作る。お前は神殿に行け」


 アネッテの両腕から力が抜けて自然体になる。ここで隊員たちに何かを仕掛けるつもりなのだ。

 カエトスはいつでも動けるように身構えた。目の前の隊員たちに注意を向けつつ、全方位に意識を集中する。災厄を引き起こしている〝世界〟のことも忘れてはならないのだ。


「アネッテ殿。その男の肩を持つというのなら、あなたも拘束させていただきますが、よろしいか」

「それは困る。私には大事な仕事がある」

「では引き渡していただこう」

「それもできないな」

 

 非協力的なアネッテの返答に、隊員が苦虫を噛み潰したような顔になる。意見を交わすように視線が同僚へと向けられた。その隙を突くようにアネッテが右腕を持ち上げる。おそらく徒手にて相手を組み伏せるつもりだ。

 カエトスがそれに反応して動きだそうとしたそのとき、天空に甲高い鳴き声が響き渡った。

 一つの存在がカエトスの頭にひらめく。弾かれたように天を仰いだ。

 

 東からの朝日を受けて飛翔する巨大な影。予想は当たった。ウルトスで戦った猛禽型の霊獣だ。それは一度上空で旋回すると急降下してきた。

 もう驚きはしない。

 霊獣の眼光は確実にカエトスを捉えていた。これも世界がもたらした災厄に違いなかった。

 

 カエトスは左手を腰に持っていった。が、空を切る。剣は奪われたままだった。手元にあるのは腰に差した手製のスティルガルと山中で拾った短剣のみ。これだけで霊獣と渡り合うのは不可能だ。

 

 カエトスは石畳を蹴った。生垣を飛び越え、芝生の上に体を投げ出す。直後に轟音と衝撃波がカエトスの体を叩いた。受け身をとって素早く体を起こす。

 霊獣の鉤爪は地面を大きく抉って、すり鉢状に陥没させていた。鋭い眼光でカエトスをぎろりと見据えると、すぐさま地を蹴って飛び立つ。

 一瞬の静寂を置いて、中郭に怒号が響き渡った。

 

「れ、霊獣だ!」

「何でこんなところに……!」

「昨日倒したはずじゃなかったのかよ!」

「む、迎え撃て! いや、まずは隊長に報告──」


 逃げ出す者に、果敢に空を舞う霊獣に銃槍を向ける者と様々だが、共通しているのはいずれも混乱と恐怖を顔に張り付けていること。

 空を猛速で飛翔する霊獣は、円を描いて進路を変えると再び中郭へと向かってきた。

 

 カエトスの脳裏に、このまま神殿に逃げ込むという選択肢がよぎる。しかし霊獣を放って行くわけにはいかない。あれはカエトスが呼び込んだ災厄だからだ。そのために無関係な人間を、そしてアネッテを危機にさらせない。だがここで時間を浪費してしまっては、レフィーニアたちを助けられない。

 どうする。どうすればいい。

 

「カエトス、ちょうどいい具合に混乱している。今のうちに行け」


 カエトスと同じく霊獣の攻撃を回避したアネッテは隣で片膝をついていた。右腕を持ち上げ神殿を指差す。

 

「……そんな顔をされるとは、侮られたものだ」


 アネッテが苦笑した。どうやら不安が顔に現れてしまっていたらしい。

 カエトスは彼女の実力を侮ったわけではない。中郭には大勢の兵士がいるが、彼らに霊獣と戦えるほどの実力が備わっているように見えなかったのだ。


 アネッテがおもむろに立ち上がった。右手で腰の剣を抜き、それを逆手に持ち替え大きく振りかぶる。左手を低空で侵入する霊獣に向け、鋭い踏み込みとともに流麗な動作で剣を投擲した。

 赤い閃光が大気を切り裂く。それは霊獣の頭部目掛けて一直線に走り、その眼前で砕けた。

 赤光は刀身が熔解した鉄。それが霊獣の展開する動体減衰場に激突し、火花となって飛び散ったのだ。


 アネッテの剣の一撃は、銃槍から放たれた弾丸に匹敵するほどの速度だったが、それを持ってしても霊獣の防御を貫けなかったと、そう見えた。しかしカエトスの目は捉えていた。砕けた赤い光の一部が、霊獣の翼に穴を穿つのを。

 次の瞬間、霊獣が甲高い苦鳴を上げて、巨大な翼を羽ばたかせた。低空飛行を中止し、空高くへと舞い上がる。

 想像以上の威力に驚くカエトスに、アネッテが控えめな笑みを向けて見せた。

 

「私はミエッカほどじゃないがリヤーラの扱いなら慣れている。そしてミュルスの扱いならミエッカにも負けない。昨日はお前に全部封じられて披露できなかったが、伊達にあのミエッカ率いるヴァルスティンの副隊長をやっていない」


 そう言うと、表情を引き締め、改めて神殿を指差した。

 

「ここは任せて早く行け。そしてあの姉妹を口説き落として来い」

「……ご無事で!」


 自分が招いた災厄を他人に押し付けることへの抵抗はあった。しかしカエトスはそれを振り払うと、短く告げて駆け出した。


「ま、待て──」

「待つのは貴公だ!」


 カエトスを呼び止める隊員をアネッテが鋭く制する。


「ここは王族の住まう中郭。そこに霊獣が現れた今、出自を偽っただけの男の詮索などよりも、速やかにあれを討伐することこそが我らの使命だろう! イーグレベットの諸君は、神殿の警備を担当してはいない。すなわち現状で動ける最大の戦力は貴公たちだ。ここで霊獣を討てば、クラウス殿下の名も上がることだろう。シルベリア最高の剣であり盾でもあるその力を、是非ともここで披露してもらいたい!」

「そ、そのようなこと、言われるまでもない!」

「お、おう! あんな獣風情、我らの手にかかれば容易く討てる。その目で余すことなく見届けろ!」


 功名心や忠誠心を巧みにくすぐるアネッテの檄に、イーグレベットの隊員たちが次々と威勢のいい声で応じる。

 

 クラウスは、カエトスを止める真の理由、すなわちレフィーニアを殺す舞台である神域に近づけたくないことを隊員たちに伝えていないのだろう。そしてそんなことは言えるわけもない。ゆえに、隊員たちはカエトスの追跡よりも霊獣の討伐を優先したのだ。


 運気はどん底ではない。現にまだ生きており、心強い人物の協力もあった。望みは絶たれてはいない。

 カエトスは自分に言い聞かせると、慌てふためく兵士たちで大混乱に陥っている中郭をひたすら走った。誰にも見咎められることなく神殿へ続く短い階段を駆け上がる。

 

 神殿の周りはヴァルスティンの面々が護衛していた。指示すべき人物がいないためか、彼女たちは明らかに浮足立っている。その中でも同僚を落ち着かせようと声を張り上げていた女が一人、神殿入口に向かうカエトスに気付いた。目の色を変えて詰め寄る。


「お、お前はカエトス! 捕まったはずでは──」

「緊急事態です! アネッテ殿の許可はもらっています!」

「……副隊長が?」

「あなた方はあの霊獣から神殿を守ってください。では!」


 カエトスは女隊員を牽制しながら神殿の鉄扉を力任せに押し開いた。わずかに生じた隙間から体を潜り込ませる。

 神殿内部は以前やって来たときと変わることのない荘厳さと威圧感に満ちていた。

 壁際に並ぶ銀の燭台が淡い光を放つ中、カエトスは巨人のために作られたような巨大な廊下を奥に向かって駆けた。

 やがて十字路に差し掛かる。そこには身長の倍ほどもある棒を持った衛兵が四人、横一列に並んでいた。如何なるものも通さないとの気迫に漲る彼らは、おそらく神祇庁の役人なのだろう。動きやすさよりも儀礼的な装飾を優先させたと思しき白い皮鎧を纏っている。

 そのうちの一人が、カエトスに背を向けていた。華美な装飾を施された白ローブ姿の中年の男と言葉を交わしている。男は奥で行われている儀式を執り行う神祇官の一人のようだ。

 

「君、君。何があったんだね。凄い音に、動物の鳴き声のようなものが聞こえてきたんだが」

「申し訳ありません。自分にはわかりかねます。何か起きた場合は、外からの連絡が来ることに──」

「それについて、ご報告があります。外に霊獣が出現しました」


 カエトスは二人に素早く接近すると会話に割り込んだ。

 カエトスを誰何しようとした神祇官が、ひっと短く悲鳴のような声を上げる。

 

「れ、霊獣!? な、何でこんなところにっ? 昨日討伐したはずではないのか!?」

「詳細は不明ですが、昨日のものとは別の個体のようです。昨日の霊獣は完全に死んでいましたから」

「う、うぅむ、そうなのか? だとしても、なぜこのようなときに立て続けに厄介ごとが──ちょ、ちょっと君、どこへ行くのかね」

 

 しれっと脇をすり抜けて廊下の奥へと進むカエトスに、神祇官が声をかけてきた。

 カエトスは背中に近づく足音に意識を向けつつ、足を止めないまま答える。

 

「王女殿下にも、この件をお伝えするようにと命じられています。殿下はあの扉の向こうですか?」


 廊下の奥は全体が白かった。

 天井からつり下げられた幾重もの白布が無機質で武骨な壁を覆い隠し、無数に並べられた銀の燭台の明かりが幻想的な空間に仕立てあげている。そこには白の礼装をまとった数十人の神祇官が何人かの集団に分かれて不安そうに言葉を交わしていた。

 その先に同じく白布で覆われた祭壇があり、燭台の光を反射する宝物と思しき品物が整然と置かれている。王冠や王笏などの、王の権威を示す装身具の類だ。

 カエトスが口にした扉は祭壇の奥にあった。

 

「そうだ。殿下はすでに神域に向かわれた。だから君は戻りたまえ。そもそも、そのような命令を誰が出したのだ。それに君のその身なりは親衛隊のようだが、なぜそんなに汚れて──こら、戻れと言っているだろう。止まりなさい。戻れと言っている……! 衛兵、その男を止めてくれ!」


 カエトスは肩をつかもうとする手を避けるように走り出した。

 廊下に反響する警告に、祭壇前の神祇官たちが一斉に目を向けた。それを守るように棒を携えた衛兵が立ちはだかる。

 カエトスは腰に差した即席のスティルガルを左手で抜いた。それを翻し、ミュルスへ指示を出しながら速度を緩めることなく衛兵に接近。

 

「止まれ! 止まらんと──」


 衛兵が木の棒を薙ぎ払った。

 カエトスはそれを跳躍して回避。衛兵と神祇官たち、そして祭壇とをまとめ飛び越えて、鉄扉の前に着地した。

 

「待て、そこから先に立ち入ってはならん! そこは選ばれた者のみが──」

「止めたければ俺を追って来い!」


 カエトスは制止する声に怒鳴り返しながら扉を押し開き、その中に体を滑り込ませた。

 扉の先は床以外は自然のままの洞窟になっていた。天井までの高さも幅も、神殿と同じかそれ以上に広い。

 奥へと続く通路の先に淡い青光が見えた。カエトスは急いで奥に向かった。そこは広大な円形の空間になっていて、中央に巨大な穴があいている。

 駆け寄って見下ろす。青い光は穴の底からのもので、壁面に打ち込まれた鉄板が螺旋状に底へと続く様子が見て取れた。

 神域は神殿の地下にあるという話だった。つまりレフィーニアたちはこの穴の先にいる。

 カエトスは木の棒を握り締めると躊躇なく穴へと身を躍らせた。

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