第28話 女神の願い

 不規則な振動が体を揺らす。背中には固い感触。視界に映るのは黒くて平らな物体。

 カエトスがいるのは棺の中だった。

 すでに死んでいて、消滅せずに残った魂の視点でそれを見ているわけではない。取調室で体を操られ、意に沿わない証言を強要された後、人目につかないように棺に押し込められて、どこかに運ばれているだけだ。

 ただこのままでは確実に死ぬだろう。

 いま向かっているのはおそらくはデスティス山だ。

 取調室を出てからしばらく平行に移動し、その後常に体のどちらかが傾斜したまま振動が続いているというのがその根拠だ。そこでカエトスを殺し、埋めるなどして始末するつもりだと思われた。

 一刻も早く逃げ出さなければならなかった。

 しかしカエトスは手首と足首を厳重に縛られ、猿ぐつわをされた上に体全体もがんじがらめに拘束されている。それはまるで指一本自由にさせまいとする執念が結実したような徹底ぶりだ。しかも取調室のときのように、そもそも体を動かすこと自体ができない。

 源霊ハルヴァウスによる干渉だ。そのせいでカエトスは拘束云々ではなく、指一本すら動かせない状況に追い込まれているのだ。

 棺の内部を叩いたり引っかいたりできれば、音を発生させられる。そうすれば源霊に呼びかけて抜け出す機会を作り出せたのだが、それすらもできない。

 

(ネイシス、聞こえるか。ネイシス……!)


 カエトスはこれまで常に共に在った金髪の女神に呼びかけてみた。

 しかし答えはない。取調室でネイシスの思念が途絶えてから何度も名を呼ぶも、一切の反応がないままだった。

 クラウスはネイシスを厳重に封印すると言っていた。おそらくそれが実行されたことで、ネイシスの力がカエトスに届かなくなったのだ。

 

 状況は最悪だ。明るい材料が何一つない。

 だがこのまま殺されはしない。レフィーニアたちに事実を告げず、助けることもできないまま死ねない。死ぬわけにはいかないのだ。

 カエトスは必死に足掻いた。無駄だろうが何だろうが、ひたすら全身に力を込めて反攻の糸口を死に物狂いで探し続ける。

 強く激しい思いとは裏腹に、体は彫像のように固まったまま時は過ぎ、そして上下の振動が止まった。続いて軽い衝撃があり、軋み音の後にひんやりとした空気が流れ込んできた。棺が地面に置かれ、ふたが開けられたのだ。

 草木の放つ独特の香気が鼻をつく。淡い月明かりに照らし出された無数の枝葉が、漆黒の夜闇の中に青白く浮かび上がっていた。

 カエトスの推測通り、現在地は山中だ。

 ここまで棺を運んだと思われる男が三人がかりで、後ろ手に縛られたカエトスの上半身と足を抱えて持ち上げた。雑草の生えた地面に無造作に放り出す。

 

「ご苦労さま。しばらくそこで待機していて。すぐに済ませるから」

 

 女の声がカエトスの耳を打つ。雑草によって半ば塞がれた視界に、山登りに適した足首までを保護する革靴が現れた。辛うじて自由になる眼球を動かして視線だけを上に向ける。黒を基調とした動きやすい服を着た王子の侍女ハルンが見下ろしていた。

 

「さて、あなたにはここで死んでもらうわ。いつもなら遺言の一つでも聞いてあげるんだけど、あなたは危険過ぎるから、それもなし。ごめんなさいね」


 謝罪を口にしていながらハルンの口調には申し訳なさの欠片もない。右手をカエトスに向けて静かに躊躇なく宣言する。


「ハルヴァウスよ、我が指し示し人の内に雷撃を放て」

 

 その瞬間、カエトスの体が自分の意思に反してのけ反った。

 カエトスの体には、経験したことのない激痛が走っていた。まるで体の内側を数万本に及ぶ針で突き刺されているような感覚。それだけでも耐えがたいのに、さらに質の異なる痛みにも襲われていた。

 全身の骨がみしみしと軋んでいるのだ。

 関節には腕を曲げ伸ばしするための一対の筋肉が備わっている。それらは普段は、互いの動きを阻害しないように一方が収縮するときは一方が弛緩しているが、いまはそのどちらもが凄まじい力を発揮しながら縮もうとしていた。つまり腕や足、胴体が、全力で曲がろうとすると同時に伸ばそうとしている。

 本来なら起こるはずのない現象にカエトスの喉から苦鳴が絞り出される。

 

「が……! ぐ……あぁぁ……っ!!」

「ふふ。苦しい? このまま放っておくと、自分の筋肉の力で自分の関節を壊していくの。でも勘違いしないで欲しいのは、それは目的じゃないということ」


 そう言いながらハルンが屈んだ。苦悶の声を上げるカエトスの顔を覗き込む。

 

「私の目的は、あなたの体の中を破壊すること。体内の雷が走る経路を全部壊すのよ。その後は全身を切り刻んでから、リヤーラの力で灰になるまで焼いてあげる。何しろ、神の関係者はなかなか死なないということで有名だから、これくらいしないといけないのよ。でも大丈夫。いまは悶絶するほど痛いと思うけど、それも死ぬまでの我慢。ばらばらにされる苦痛も、焼かれる痛みも感じないで済むわ」


 ハルンの口角が吊り上がった。妖艶な笑みを浮かべるその顔は、人が苦しむさまを見るのがこの上なく好きだと、何よりも雄弁に語っていた。

 

「ハルヴァウスよ、さらに雷撃を強くせよ」


 ハルンの命令とともに、カエトスの体に走る痛みがさらに増した。口も首も腕も、足も胸も腹も背中も、いずれの筋肉も全力で収縮し、体内に響く骨格の軋み音はさらに強くなる。

 そしてそんな状態すら把握できなくなるほどの激痛が全身を駆け巡る。体をくまなく引き裂かれているような逃げ場のない痛み。声すら出せなくなり、呼吸をしているのかもわからなくなる。

 

(負け……るか……!!)


 カエトスは心中で吠えた。

 レフィーニアたちに嫌われようが憎悪されようが、自分の本心だけは知らせたい。その後に拒絶されてもいいから、それだけは言いたかった。そしてティアルクにいる三人の女たちにも謝罪しなければならない。それを成し遂げないうちに死ぬことなど断じてできないのだ。

 カエトスはそう念じながら、途切れかける意識を必死につなぎ止めた。

 しかしその努力を嘲笑うかのように、津波のような痛みの奔流がカエトスの意識を押し流していく。

 体の感覚はもはや消え失せ、残るのは止むことのない激痛のみ。それを感じなくなったときに、カエトスは死ぬのだ。

 

「まだ生きているなんて、やはり常人とは違うようね。仕方ありません。雷撃を強化して一気に殺します。光が漏れないように対処を──」

「そこまでじゃ」


 どこか遠くで聞こえていたハルンの声が唐突に遮られた。

 

「人間風情が調子に乗りおって。それ以上の狼藉は許さぬ」


 カエトスの頬に冷たい何かが触れる。その瞬間、薄れる意識が一瞬で覚醒し、痛みの全てが消失した。目を開けるとそこには心配そうに眉を寄せる人間離れした美貌があった。

 一度目にしたら二度と忘れることのない神々しい美の主は女神イリヴァール。瑞々しい紫の薔薇が刺繍された色鮮やかな着物を幾重にも纏う彼女は、カエトスの意識が覚醒したのを見て取り、紫の瞳を心の底から嬉しそうに細めた。

 

「もしやあなたは……その男に呪いをかけた神……?」

 

 ハルンが動揺を隠し切れない震える声で尋ねた。

 その途端、カエトスの頬を愛しそうに撫でていたイリヴァールが不愉快そうに眉をひそめた。音もなく体を起こし、宙に浮いたままハルンを睨み付ける。

 

「我が伴侶殿との得難いひとときに割り込むとは、よい度胸をしておるな、女」


 女神の言葉には、途方もない殺意が込められていた。どれだけ鈍い人間であろうとも、即座に理解できるほどに強力な殺気。まともな思考の人間であれば裸足で逃げ出す凄惨な気配。

 ハルンの部下たちは皆一様に後ずさっていた。今すぐにでもここを離れたいと体が言っている。しかし踏みとどまる。それをつなぎ止めているのは、女の身でありながら一歩も退かなかったハルンだ。彼女は顔を引きつらせながらもさらにイリヴァールに問いかけた。

 

「……あなたはその男を殺そうとしているのでしょう。私の行動はあなたを助けるもののはずです。なのに、なぜ守るのですか」

「私の機嫌が良いうちに失せろ。それとも……ここで死ぬか?」


 イリヴァールの返答は完全なる拒絶だった。

 紫の瞳が怪しく輝き出し、月光を浴びる夜気が陽炎のように揺らめく。紫の髪が敵を威嚇する蛇のようにざわざわと蠢き、着物の裾がゆらりと広がる。女神の秘めたる力が外に溢れ出していた。

 

「ひ、ひぃっ……!」


 男たちは短い悲鳴を漏らすと、脱兎のごとく逃げ出した。極寒の冷気よりも冷たく、刺し貫くほどに鋭い殺意の奔流に耐えられなくなったのだ。その中にあってハルンだけは胆力を見せつけた。じりじりと正対したまま下がると、ゆっくりと背を向けて早足で立ち去る。

 

 イリヴァールはそれには目もくれずに重さを感じさせない動作で膝をつくと、地面に横たわったままのカエトスに手を伸ばした。カエトスの全身に優しく手を這わせ、縛り付ける縄の全てを一瞬で断ち切っていく。

 

「これでよい。伴侶殿、あの女が操っていたハルヴァウスの干渉は打ち消したが……どこか痛いところは?」


 たったいま放っていた殺気を跡形もなく消し去ったイリヴァールが、カエトスの二の腕や肩に手を伸ばす。

 カエトスは体を起こして腕に力を入れてみた。ぐっと拳を握り締めて、立ち上がる。問題なく体は動いた。

 

「……ああ。大丈夫だ」


 カエトスの答えに、女神はほっと表情を緩めて穏やかな微笑を浮かべた。次いで眉を寄せながら遠慮がちに口を開く。

  

「本当は手を出さぬつもりであったのに、そなたを人間どもに殺されたくなくて手を出してしまった。あの小娘がやってくるかと待っていたのに一向に来ぬものじゃから……」

 

 イリヴァールの言う小娘とはネイシスのことだ。

 カエトスは拳を握り締め、歯を食いしばった。その様子に女神が遠慮がちに尋ねる。


「伴侶殿。もしかして……助けたことを怒っておるのか?」

「そんなことはない。あのままじゃ俺は死んでいただろうから」

「しかし……そなたは不機嫌そうじゃ……」


 何も恐れるもののない神でありながら、まるで上位者の機嫌を窺うようにおずおずと言う女神に、カエトスは首を振った。

 

「これは俺に向けたものだよ。完全にあのときは油断してた。……くそっ」

 

 カエトスの脳裏に蘇るのは、宿舎でヴァルヘイムに拘束されたときのことだった。

 あのとき、ヴァルヘイムたちの接近に気付かなかった時点で、警戒を緩め過ぎていたと言わざるを得ない。その結果があのざまだ。

 カエトスだけではなく、ネイシスまで捕えられてしまい、そのうえ逃げ出す隙を見出せないまま殺されるところだったのだ。イリヴァールがいなければまさにそうなっていた。ゆえに彼女を忌むつもりはない。それが例えカエトスに呪いをかけ、一連の出来事の発端を作り出した女神であっても。それにカエトスには単純にイリヴァールを憎むことのできない事情もあった。

 

 カエトスは言いようのない混然とした感情を胸の奥深くに押し込めると、女神に背を向けて草むらの中を歩き出した。

 地面にあいた大穴が目に飛び込んでくる。底の部分に先端を尖らせた杭が埋め込まれていた。穴の縁には木を網目状に組んだ蓋のようなものが置いてある。どうやらこの大穴は、山に侵入した者を撃退するための落とし穴らしい。ハルンたちはここにカエトスの死体を投げ込んで、始末しようとしていたのだろう。

 

 カエトスは落とし穴を一瞥し、さらに数歩進んだところで足元に手を伸ばした。草をかき分けるとすぐに目当てのものが見つかる。短剣だ。これは先刻逃げ出した男たちの所持品だ。突然出現したイリヴァールに対抗しようとして抜いたものの、結局使うことなく放り出して逃げて行ったのを、カエトスは横になった視界の中で確認していた。

 

 月明かりを弱々しく反射する鈍色の刃の調子を確認しながら、手近な低木に近づき短剣を一閃させた。枝を切り落とし、前腕と同じ程度の長さに切ってから、表面の樹皮を剥がして、木の棒に仕立てあげる。

 黙々と作業を進めるカエトスの傍らにイリヴァールが音もなく近づいた。

 

「伴侶殿。もしや、あの女どものもとへ向かうつもりか?」

「このまま放っておいたら、王女たちは王子に殺される。そんなのは許さない。絶対に止める……!」


 女神に力強く答えながら、カエトスは木の棒に短剣の刃を入れた。それを引き抜き別の角度からも食い込ませて、鋭利な窪みを作り出す。


 カエトスは剣舞を行使するための剣を奪われており、源霊に呼びかけられない。そこで木の枝を加工してその代用品を作ろうとしていた。カエトスが王城にやって来た当日の夜、ユリストア神殿とクラウスの住む別殿の様子を見に行ったときに椅子の脚を加工したが、働きとしてはあれと同じものだ。

 

「そなたが助けに行ったところで、女どもはそなたに愛情を向けることはないのじゃぞ。あれらも以前の町の女どもと一緒じゃ。たかが他の女に声をかけていた、それだけのことでそなたが操られていたことにも気付かず、そなたを見捨てた。あれにこれ以上関わったところで、呪いは解けぬ」

 

 カエトスを諭すように言う女神の声には、ほのかに怒りと嫌悪が滲んでいた。それは言うまでもなくレフィーニアたちに向けられたものだ。


「王女たちを責めるのはやめろ。悪いのはこっちなんだ。それに俺は呪いを解きたいから行くわけじゃない。俺自身がそうしたいから助けに行くだけだ。ネイシスも捕まってるし、放っておけるか」


 カエトスは女神に抗弁しながら、迷いなく木の棒に刃を突き立てていく。

 イリヴァールが流れる水のように宙を移動して、カエトスの正面に回り込んだ。カエトスを見つめながら懇々と言葉を紡ぐ。


「伴侶殿、考え直さぬか? そなたの敵は人間だけではなくなっているのじゃぞ。そなたは、イルミストリアの課した試練を達成し損ねてしまった。その影響で世界が敵に回っておるのじゃ」

「……世界?」

「そうじゃ。世界とは人の運命を司る神のようなもの。彼奴が一度定めた運命は、多少の変動はあるものの大きく変わることはなく、人はそれに従い生きて死ぬ。そんな彼奴が最も嫌うのは、己が定めた運命を変えられることじゃ。伴侶殿が手にしたイルミストリアは、まさにそれを為すための道具。あれには、本来なら歩めないはずの運命を強引に手繰り寄せる力があって、それを使えば運命を変えることができる。でもそれは世界にとってあってはならぬことであり、容認できぬこと。ゆえに彼奴はそれを見つけ次第、速やかに排除するのじゃ」

「……それが災厄ってことか。でもその言い方だと、俺はもう災厄に襲われてなきゃならないんじゃないか?」


 カエトスはイルミストリアの指示によって王城への侵入を実行しており、王女たちと接触している。これは普通ならば決して実行しなかったことだ。つまりすでに定められた運命を変えていることになるはずだ。

 

「それは、あの本がそなたを世界の目から隠していたからじゃ。そうやって所有者を守りつつ、別の運命との橋渡しをするのがあれの役目。でもそなたは本の課した試練を成就できなかった。それゆえいまのそなたは、イルミストリアの用意した別の運命へと至る道を踏み外し、本の加護の及ばない領域に踏み込んでしまっている。世界はじきにそなたを見つけ出し、あらゆる因果律を収束させて、そなたを排除するよう定めた人や物、事象を寄越してくることじゃろう」


 カエトスは災厄と聞いて、勝手に地震や竜巻などの災害を想像していた。しかしその実態はより過酷なもののようだった。控えめに見て人の身で抗えるように思えない。

 

「それは……止められないのか?」


 カエトスは、イルミストリアについて詳しいイリヴァールなら何か知っているはずと思い尋ねた。

 呪いを解かせたくない彼女にとっては、答える意味がないどころか無視してもおかしくはない問いだが、女神は何ら隠し立てすることなく丁寧に説明を続けた。

 

「奪われた本を取り戻せば、何らかの指針を示すかもしれぬ。でも確証はない。伴侶殿の本は、王子の持つ本との争いに敗れたようじゃから」


 木の棒を加工するカエトスの手が止まった。

 

「……敗れた? それはどういうことだ?」

「王子が書物を持っていると、そなたは推測しておったじゃろう? それは正しい。あやつも同じくイルミストリアの所有者じゃ。それはそなたの持つ本と、完全に目的が相反しておった。伴侶殿の本は王女を生かそうとし、王子の本は王女を殺そうとしておったから。そしてそなたの本は、運命を手繰り寄せる争いに敗れた。ゆえにそなたはあやつに出し抜かれたのじゃ。小娘と一緒に宿舎にいたときに、突然本の内容が変わったじゃろう? それが証。そなたの本は、運命を引き寄せきれなかったのじゃ」


 イリヴァールの言葉はカエトスにとって思いも寄らないことであると同時に、これまでに起きた様々な現象を的確に説明してもいた。

 白く美しい女神の手が、作業を止めたカエトスの手に重なる。


「わかったであろう? もう何をしても無理なのじゃ。女たちの愛情を得ることはできぬし、呪いも解けぬ。このままではそなたは世界に殺されてしまう。でも私はそなたを失いたくないのじゃ。だから……私を受け入れてくれぬか? さすれば、私がそなたを助けてみせよう。人としての生は終わるが、そなたの存在は残る」


 憂いを湛えたイリヴァールの紫の瞳がカエトスの目をじっと見つめ、これ以上作業を進めまいとするように、短剣を握るカエトスの手を両手で包み込む。女神の仕草と声には、どうか願いを聞き入れて欲しいとの思いで溢れていた。

 カエトスはそれを振り払うように一歩後ろへ下がった。

 

「……それはできない。たしかに最初は利用しようとしていた面はあったけど、今は違う。俺は王女たちを助けたいんだ。どんなに嫌われても憎まれても、この気持ちは抑えられない。幸い、完全に行き止まりに追い込まれたわけじゃないことは、あなたが教えてくれた。要は、本を回収して抜け道を見つけ出して王女を助ければいいってことだろう? 何とかしてみせるさ」


 言うほど容易くはないということは重々承知している。しかし光明が見えたのもまた事実。カエトスは決意を新たに手元に目を落とすと、枝の加工を再開した。が、それをすぐに止める。

 

「また俺を眠らせるのか?」


 カエトスの一言に女神の動きが止まった。彼女は静かに両腕を広げてカエトスへと近づいていた。まるで抱き締めようとするように。


「まだ呪いは発動してない。俺があなたのものになるまでの時間はあるはずだ」


 ゆっくりと持ち上げたカエトスの視線に抗うように、イリヴァールがじりっと距離を縮める。

 

「……そなたの言っていることは実現できぬ。あのような下賤な人間どものために、そなたの命が失われるのを座して見過ごすことなどできぬ。それならばいっそのこと、ここでそなたを我がものに──」

「やめろ。俺はあなたを憎みたくはない」


 イリヴァールが再び動きを止めた。その目は驚きに見開かれていた。

 カエトスは自分を憎んでいると、そう思い込んでいたところに、思いがけない言葉をぶつけられた。それが伝わってくるほどに女神は感情を露わにしていた。


「あなたのやったことは、今でも受け入れられない。俺から姉を助ける機会を奪ったことは。でも俺のためにやってくれたことは理解している。それをなかったことにはできないし、したくない」

「伴侶殿……」

「俺は生き延びる。王女たちを助けて、ネイシスを解放する。絶対に。イリヴァールはそこで見てろ」

 

 目を逸らすことなく言い切ったカエトスの宣言に、女神は切なそうに顔を歪めた。縮めた距離を名残惜しそうに離してゆく。


「……伴侶殿。私は呪いは解かぬぞ。それが交わした約定であるから。そして……そなたの命が尽きようとしたならば、呪いとは関係なく、私はそなたを我が手で殺すじゃろう。世界にも人の手にもそなたを渡す気はないから。そなたがそれを望まぬというのなら……どうか、無事に切り抜けておくれ……」


 苦悩と葛藤に満ちた声を残しながら、女神の姿は夜闇に溶けて消えた。

 カエトスは心中に去来する、愛情とも憎悪ともつかない思いを胸にそれを見届けると、作業を再開した。

 月明かりを頼りに、慎重にそれでいて大胆に刃を走らせ、立て続けに二本の棒を剣舞用の道具スティルガルへと加工する。それぞれが運動エネルギーを司るミュルスと、光を司るイルーシオに対応したものだ。

 カエトスは短剣を腰帯に挟み、棒を青白い月光に照らして、刻み付けた凹凸へと目を凝らす。

 どちらも鍵状の溝があったり、一部分だけが角柱状になっていたり、おろし金のようなぎざぎざ模様が入っていたりと、様々な形状を複雑に刻み付けてある。

 外見は問題なしと見て、カエトスは二本の即席のスティルガルを交互に振り回した。

 

「……これでやるしかないな」


 空を切る音は一応、源霊に呼びかける音になっていた。しかし応える源霊が少ない。多くの源霊が反応した場合、空気がぴんと張り詰めたような感覚を覚えるのだが、それがないのだ。

 この短時間でただの枝を加工したにしては十分すぎる出来だったが、やはりどうしても使い慣れた剣と比べてしまう。正直、頼りないが今はこれで切り抜けるしかない。

 カエトスは頭を切り替えると、早速左手に持った棒を闇夜に縦横に舞わせた。

 まず命じる源霊はミュルス。命令内容は、行動補助のための『汝が生みし力を我が体に宿せ』と『汝司りし力を奪取せよ』の二種と、防御に用いる『動体減衰場を展開せよ』だ。

 

 実際に一度命令を下して、垂直に跳んでみる。

 カエトスの愛剣ならば、数十ハルトースを優に超える大跳躍が可能だが、即席のスティルガルでは三ハルトース(三メートル強)程度しか跳べなかった。

 このことから動体遮断場の強度もさほど期待はできない。銃弾を一度か二度防ぐのが精いっぱいというところだろう。引き出せる力の上限が低い分、上手に加減しろという命令動作が必要ないことがせめてもの救いか。

 

 カエトスは源霊が発揮する力を正確に記憶しながら、霊獣との戦闘前にやったように、三種類の指示をあと一動作で発動させられる待機状態にした。

 

 棒を持ち替え、次いでイルーシオへの命令を出す。こちらは透明化するためのもので、概要としては『周囲に場を展開し、そこに差し込む光を素通りさせるとともに内側にも届け、内から外への光は全て遮断せよ』となる。

 

 光を素通りさせろという指示で、場に差し込んだ光は角度や強さを変えることなくそのまま突き抜ける。こうすることで、実質的に光が物体を透過した形となり、周りからは透明になったように見えるのだ。

 ただそれだけでは場の中に届く光がなくなり、そこに留まる者は暗闇に包まれてしまう。それを回避するための指示が、光を内側にも届けろだ。そして最後の指示で、その光が外部に漏れるのを防ぎ、透明化は完成する。

 

 カエトスは棒を振るってイルーシオに命令を下してみたが、しっかりと透明化しているのか自分では確認ができない。イルーシオが応えた気配と、景色が若干薄暗く見えるようになったことから、成功しているのだろう。

 

 カエトスはイルーシオへの透明化の指示もミュルスと同じように待機状態にすると周りを見渡した。

 現在地は、デスティス山の北側斜面のどこかのはずだった。

 王城アレスノイツから最も近い山といえばデスティス山であり、仮に南側の斜面にいたとすれば、王都の街並みとビルター湖が見えるが、それがない。

 そこから考えると王城に向かう最短の道のりは、山頂を目指して進みそのままそれを超えてしまうことだ。しかしデスティス山山頂は、王城アレスノイツを守る城壁とともに囲まれている。そしてそこは今、明日の儀式に備えて厳重な警備体制が敷かれているために、見つかる危険が高い。

 他の選択肢といえば、王城の東西どちらかに回り込んでからの侵入となる。そちらのほうが警備が緩いかもしれないが、その確証はない。

 

 レフィーニアたちは、儀式の締めくくりとしてユリストア神殿地下の神域に向かうと言っていた。できればその前までに接触したかった。今の時刻は不明だが、夜明けまで遠くはない。おそらくもう儀式の当日になっているはずだ。時間が惜しい。となればおのずと選ぶべき道は決まる。最短距離だ。

 カエトスが決意とともに行動に移ろうとしたそのとき、森の中にざわめきが響いた。

 

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