第3話 緑の瞳の王女

「カエトス、起きろ。もうすぐ着くぞ」

 耳元で涼やかな少女の声が聞こえた。頬を小さく柔らかい物体が無遠慮に何度か叩く。

 カエトスが目を開けると、煌びやかな装飾品を纏った金髪の小人ネイシスが空中に浮いたまま、髪と同色の瞳でカエトスの顔を覗き込んでいた。

 

「……寝ちまってたか」


 頭上と側面を覆う白い布越しに光が差し込み、ネイシスの長い金髪を一層美しく輝かせている。鼻孔を爽やかな柑橘系の匂いがくすぐり、背中にはごつごつとした感触、尻からは不規則な振動が伝わってくる。

 

 カエトスは腕に抱えていた革製の背嚢と鞘に収まった小剣を脇に置くと、上着の左ポケットの中から神が作ったとされる小型の時計を取り出した。

 黒い盤面に光る数字が浮かび上がっている。時刻は四エルト二十七ルフス(午前八時五十分頃)。夜が明けて一キルト半(約三時間)が経過していた。

 

「無理もない。休みなしで走って来たんだからな」


 ネイシスは宙を滑るように移動すると、いつもの定位置、カエトスの右肩にちょこんと小さな尻を乗せた。

 

「体力は回復したか?」

「ああ。いい感じだ。これに拾ってもらえて運がよかった」


 カエトスが乗っているのは幌付きの荷車だった。漂う爽やかな香気は木箱に詰め込まれた蜜柑からのもの。

 ティアルクの街を深夜に出発して走り続けること四キルト(約八時間)。空が白み始めた頃に王都へ向かう途中のこの荷車に出会い、荷台の空いている場所に乗せてもらったのだ。

 車輪が道路の凹凸を乗り越えるたびに発生する振動が心地よくて、いつの間にか眠っていたらしい。おかげで十分とまではいかなくても、行動に支障をきたさない程度には睡眠できた。

 

 カエトスは背中を預けていた木箱から体を起こして、荷車の進行方向に目を向けた。

 御車台には三十代ほどの男が座っており、舵輪のような円形の取っ手に手をかけて、それを細かく操作している。

 カエトスが身じろぎする音を聞きつけたのか、御者が肩越しに振り返った。日焼けした顔に人のよさそうな笑みを浮かべている。

 

「おや、起きたのかい? あんた、よく寝てたなあ。俺にはとてもじゃねえが真似できねえや。尻が痛くなってそれどころじゃなくなるぜ」

「そうか? あんたの運転ならまだまだ寝てられるぞ」


 カエトスが答える間に、右肩に座っていたネイシスの姿が掻き消えた。御者に見られそうになったために、姿を消したのだ。


「ははっ、嬉しいこと言ってくれるねえ。俺はミュルスさんにでかい力を出してもらうのは苦手だけどよ、こう細かく力を加減してもらうのは得意なのよ。おかげでこの仕事についてから一度も事故っちゃいねえのが、俺の自慢さ」


 視線を前に戻した御者が得意げに操舵輪をぽんと叩く。

 御者が口にしたミュルスとは、世界にあまねく存在する五種の源霊アルヴィランのうちの一つのことだ。源霊は各々が一つの力を司っており、ミュルスは物体を動かす力そのもの──すなわち運動エネルギーを支配している。

 

 御者の前方には、馬や牛といった荷車を牽引する生き物はおらず、後ろから誰かに押されているわけでもない。なのに荷車はゆっくりと一定の速度で前進し続けている。これは御者がミュルスに呼びかけて、この荷車そのものに前方へ向かう力を作用させているからだ。

 

 ただ道路は常に直線とは限らない。そのままではいずれ道を踏み外してしまう。そこで役に立つのが御者が手にしている操舵輪だ。これは左右の前輪をつなぐ軸に接続されていて、回転させる動きに連動して前輪の向きが変わる仕組みになっている。

 このように可動式の前輪を持ち、御者がミュルスの力を借りて動かす荷車は動力車と呼ばれている。

 

 他国の人間がこのシルベリア王国に来て最初に驚くのが、この自走する荷車だという。

 カエトスが初めてこれを目にしたときも、正直驚いたものだ。もちろん、それは動力車の動く仕組みにではなく、どこにでもいそうな中年の男や若い女が普通に源霊の力を行使しているからだ。

 

 ここアルヴィマノーサ大陸にある国々では、様々な源霊を扱う技術が知れ渡っている。しかしそれは誰にでも扱えるものではなく、特別な教育を受けた者のみが使えるものとして受け止められている。なのにこの国では誰でも、とまではいかないが、それでもあちこちで源霊を使う人間を見かけるのだ。

 

 昨日、酒場でカエトスに抱きしめるように迫ったマイニもその一人だ。

 彼女があのとき命じた源霊の名はリヤーラ。熱を支配する能力を持つ源霊だ。彼女はその力を使って鉄を精錬し鍛造する。昨晩はその力が若干暴走気味だったために、酒場のテーブルや床板を燃やそうとしていたが、普段はあのようなことは一切起きない。マイニはリヤーラの扱いに長けているからだ。


 昨晩の出来事を思い出してしまったカエトスは俯きそうになる顔を上げた。いまは落ち込んでいるときではない。やらなければならないことがあると頭を切り替え、御者に声をかけた。

 

「乗せてもらって助かったよ。おかげでずいぶん休めた」

「ははっ、あんなに必死に走ってる姿を見たら、さすがにそのまま放置はできねーよ。王都に行くついでだったしな」

「その王都まではまだかかりそうか?」

「いや、もう見えてきたぞ。ほらあそこ」


 御者が指差す先に目を向けると、整然と石板を敷き詰めた道路が緩やかに下っていた。それが向かう先は、山と湖に挟まれた土地に築かれた巨大な街。

 

「あれか」

「おう。湖畔の都なんて二つ名もある我が国の王都シルベスタンさ」


 御者がまるで自分のことのように自慢げに言う。

 カエトスから見て左側には、対岸が見えないほどに広大な湖が広がっている。王都の二つ名の由来となったビルター湖だ。

 この湖からは、はるか南方の海に至るオルケア川が流れていて、王都はそれを利用した水運が盛んなのだ。

 陽光をきらきらと反射する湖面には、様々な大きさの帆船が浮かんでいて、それらは今まさに王都へ到着したものや、これから長い旅に出るものとが入り混じっているのだろう。

 

 視線を右に転じれば、黒や茶の瓦を葺いた街並みが広がり、垣間見える道路には大勢の人々や、行き来する動力車で賑わっている。

 それを見守るように王都の北にそびえるのが、初夏の新緑が目にまぶしいデスティス山だ。

 王都シルベスタンは、諸都市や外国との交易で発展した都市であり、今も盛んにそれらが行われている活気に満ちた街だった。


「あんた、王都のことに詳しいのか?」

「まあそれなりにな。運送の仕事でしょっちゅう行き来してるからよ」

「じゃあ一つ教えて欲しいんだけど、ユリストア神殿ってどこにあるか、知ってるか?」

「ははあ。やっぱりあんた参拝客か」

「やっぱり?」

「おう。百年ぶりに神官さまが王様になるって噂でよ、そういうときってのはシルト様の加護が強くなるって話なのよ。だからそのご利益にあやかろうって奴らが大勢神殿に押し寄せてきてるんだぜ。あんたもそうなんだろ?」


 シルトとは、ここシルベリア王国の守護神とされている神の名だ。

 御者の口振りからして、カエトスがイルミストリアに向かえと指示されたユリストア神殿とは、シルト由来の建造物らしい。

 百年ぶりに神官が国王になるといった、事情の判然としない言葉があったものの、いまはそれは脇に置く。どうやら御者はカエトスの望む情報を持っている。それを引き出すために、適当に相槌を打ちつつさらに尋ねた。

 

「まあ、俺もそんなところだ。それで──」

「ユリストア神殿だろ? もちろん知ってるぜ。ただ、あんたじゃそこには行けないぜ。シルト様の本殿だからな」


 御者はそう言うと、王都を見下ろ山を指差した。

 

「いいか、街の北側のあれがデスティス山で、その斜面に白い建物があるだろ? そこが王様の住んでる城アレスノイツ。ユリストア神殿はその一番奥だぜ」

「奥?」


 カエトスは御者台に身を乗り出して目を凝らした。

 御者の人差し指は、デスティス山の中腹から麓にかけて建てられている建造物を指している。

 それが王城アレスノイツのようだが、そこは幾つもの棟からなっていて、御者の言う奥がどこを指しているのかがよくわからない。

 

「そうだ。あそこの土地は階段状になってるだろ? 一番下の段はでかい庭園になってて、真ん中の段にずらっと並んでるのが役所。その上が王様が暮らす宮殿で、神殿はそのさらに奥にあるんだが……ここからだとよく見えねーな。もうちょい湖のほうに移動すれば見えるんだがな」


 カエトスたちは、王都の北東の門につながる道路を走行していた。王城は王都の北にあるため、王城を真横から見る形になっているのだ。

 動力車は御者と会話をする間もゆっくりと道路を進む。王城との位置関係が変化し、デスティス山に茂る緑の合間に、御者が言っていると思しき建物が見えた。

 

「あれか? あの丸い屋根の建物」

「おうおう、あれだあれ。あれが神殿だ」


 指を差すカエトスに、御者が何度も相槌を返す。

 そのときカエトスの右肩にいるネイシスが不意に呟いた。


「ふむ、あそこが目的地か。一筋縄にはいかなさそうだな」


 御者が弾かれたようにカエトスに顔を向ける。


「いまの声……あんたか?」

「何のことだ?」

「いや……女の声がしたと思ったんだが」

「俺には聞こえなかったが?」


 きょろきょろ頭を振る御者に、カエトスは適当に言葉を濁した。

 御者はおかしいなと首を傾げながら、視線を前に戻す。

 カエトスは内心息をついた。

 ネイシスのような小人を連れ回していることが露見しては目立ってしまう。これから王城に潜入しようというのだ。可能な限り騒動は控えたい。

 

(ネイシス、慎重に頼むぞ。騒ぎは御免だ)

(すまんな。つい声が出てしまったんだ)


 カエトスが言葉を思い浮かべると、すぐにネイシスの謝罪の声が頭の中に響いた。

 カエトスとネイシスは声を発することなく会話ができる。詳しい仕組みは知らないが、ネイシスいわく、カエトスはネイシスと目に見えない部分でつながっているため、意思疎通が可能なのだそうだ。


(それはともかく、なかなか難しそうだな。いけそうか?)


 ことの重大さを認識しているとは思えない平板な声でネイシスが言う。しかしカエトスはネイシスとの付き合いは長いからわかる。彼女はこれでも本当にカエトスのことを案じて言っているのだ。

 

(できなくても、何とかするしかないさ。いざというときは力を借りるかもしれないから、そのときは頼むぞ)

(うむ、任せておけ。そうならないことを願っているがな)

(俺もだ)


 頭の中でのネイシスとの会話が終わるのを見計らったかのように、御者が続けた。

 

「もうわかったと思うが、あそこは俺たちみたいな一般人は行けないぞ? 入れるのは王族と役人の中でも偉い人だけさ」

「そうみたいだな」


 王城の最奥に立ち入れる者が限定されていることは、想像に難くなかった。つまりカエトスがユリストア神殿に行くための正規の手段はないということだ。

 

「ま、参拝するだけなら、街中にある拝殿で済ませりゃいい。そっちはあそこ、城の近くのでかい建物で、一般人はみんなそこに行ってるぜ」


 御者の腕が少し左へと移動する。王城から少し離れた街中に周囲よりも一際高い三角形の白い屋根が見えた。あれが一般参拝客用の拝殿らしい。


「なるほど、よくわかった。何から何まで助かったよ」

「いいってことよ。困ったときはお互いさまだ」


 カエトスが礼を言うと、御者が朗らかな笑みを返した。


 動力車は石畳の道路を緩やかに下り、王都を囲む城壁に近づいていく。

 目に見えて道路を往来する動力車の数が増えてきた。

 カエトスが乗っている動力車のように果物や野菜、木材、石材などを積んだ荷車を牽引しているものが半分ほど、残りは荷台の部分が屋根付きの客車となっていて、そこに老若男女が大勢乗車している。これは王都とシルベリア各地の地方都市を結ぶ旅客用の動力車だ。客のいずれも小奇麗な服装していることから、シルトを祭る神殿への参拝が目的なのだろう。

 

 巨岩を積み重ねた、高さ十ハルトース(約十ニメートル)はあろうかという城壁に、それに相応しい巨大な門が大きな口を開けていた。夜には閉められる門も、昼間は開放されていて往来は自由だ。

 門の脇には門衛が動力車の群れは監視してはいるが、特に呼び止められることもなく、次々と王都の門をくぐる。カエトスが便乗する動力車もそれらに続いて王都へと入った。

 街中の道は、動力車が二台並んでも余裕をもって通過できるほどに広く、道路脇には木造家屋が立ち並んでいる。

 

「──ミュルスさん、その調子で減速して、そのままそのまま……よし、そこで停止」


 操舵輪を操る御者が、源霊に指示を出しながら動力車を道路の端に寄せた。がたんと小さく揺れて停車する。


「ここでいいかい? 俺は市場のほうに行かなきゃならねえんだ」

「ああ、十分だ。乗せてもらって助かったよ」


 カエトスは荷台に置いていた背嚢と剣をまとめてつかむと、御者台から飛び降りた。ポケットに入れていた巾着から銀貨を取り出し、御者に差し出す。表面に気品ある女の肖像が刻印されたシルベリアの通貨の一つ、ロウス銀貨だ。

 

「これはここまでの運賃」

「あんた、律儀な奴だな。ま、ありがたく頂戴してって……おいおい、こんなにもらえねーよ」


 御者が、手の中の銀貨を数えるなり動揺した声を上げる。カエトスが渡したロウス銀貨は十五枚。ティアルクから王都までの定期便の運賃は銀貨三十枚だから、その半分だ。

 礼としては妥当と考えて渡したのだが、御者は過分と受け取ったらしい。

 ちなみに銀貨一枚で、それなりの外食が六回ほど食べられる。それが十五枚で九十食分。食事だけでいえば、三か月は困らない金額になる。

 

「ここまで運んでくれたのと、色々教えてくれた礼だよ。遠慮しないでくれ。じゃあな」

「お、おいっ。……こいつを持ってけ。お釣りだっ」


 背嚢を担ぎ、腰のベルトに小剣をくくりつけながら歩き出したカエトスに、御者は荷台に積んだ蜜柑を一つ放り投げた。

 

「帰るときに俺を見つけたら、また乗せてやるぜ」


 蜜柑を空中で受け取ったカエトスは左手を上げて答えつつ、右のポケットの中から時計を取り出した。時刻は四エルト五十二ルフス(午前九時四十四分頃)と表示されていた。

 啓示する書物イルミストリアが、シルベリア王国の王女アルティスティン・レフィーニアを押し倒せと指示した時刻は『大陸暦二七〇七年五月十三日、五エルト十三ルフス』だ。

 

「ふむ。期限の時間まであと二十ルフス(約四十分)ほどか。急がないと間に合わないな」


 いつの間に忍び込んだのか、カエトスが背負った背嚢からネイシスがちょこんと頭を出しながら話しかけてくる。

 カエトスの視界には、石畳上をひっきりなしに往来する動力車と、道路の端を歩く大勢の歩行者がいた。

 ティアルクは鉱工業の町であるため、色合いが茶色や黒、灰色といった風に地味で、どこか男臭い雰囲気が漂っている。

 対する王都は、道行く通行人、特に女の服装が華やかだった。赤や青、黄色に緑などの色彩豊かな布で作られたスカーフや帽子を上手く衣類に合わせていて、ティアルクの雰囲気に慣れていたカエトスの目に眩しく映る。

 決してティアルクの女が魅力的ではないなどというわけではない。向こうは過酷な環境で力強く咲く野生の花で、こちらは人工的な環境で育成された愛でるための花、ということだ。


「まずは移動だな。ここからじゃ建物が邪魔で城が見えない」


 カエトスは時計を握り締めると、道路を渡り、往来する大小様々の動力車と通行人を避けながら、北を目指して駆け出した。


 カエトスの現在地は、王都の北東付近。歴史を感じさせる二階建ての木造家屋が立ち並ぶ区画だ。

 軒先にぶら下がる看板には樽と垂れ下がる稲穂のような図柄が刻まれていた。これは宿を表すもので、カエトスがいる城門付近のこの通りは宿屋街のようだ。

 

 旅行客と思しき人の群れの中を縫うように走ること数ルフス、左右に走る道路にぶつかった。

 正面には、木々の葉の一枚一枚を視認できるほどに近いデスティス山の威容がある。

 山と街区は麓に沿うように東西に走る深い堀によって隔てられていた。水を湛えた堀の幅はおよそ二十ハルトース(約二十四メートル)、山への侵入を制限するために設けられているらしい。


 ここを西に向かえば王城にたどり着く。

 カエトスはさらに駆けた。木造建築しかなかった街並みが石造建築へと変化してくる。王城に近づいたことで、貴族の暮らす邸宅が増えてきた。

 これは、屋敷の建材に石材を使用するには神に近しい立場になければならないというシルベリアの風習があるからだ。石材は木材と違って腐ることがないために神の住居に使われるのが相応しいというのがその理由だ。

 

 シルベリア王国の王は、神に仕える神官としての役目も持っている。すなわち国王がこの国で最も神に近しい存在となるため、国王の居城にはふんだんに石材が使用されている。

 一方、貴族は神に仕えているわけではなく、国王の臣下だ。神との直接のかかわりはない。しかし国王の臣下ということは、すなわち神にとっては陪臣であり、全くの無関係とまでは言えない。このような解釈のもと、貴族も一定程度神との接点があると見なされ、住居への石材の使用許可が下りているというわけだ。

 ティアルクの建物にも同じ特徴があったのを思い出しつつ、カエトスはさらに走った。

 

 優美でありながらそれほど派手ではない外套を羽織った何組かの男女とすれ違う。身なりがいいことから、この付近の邸宅に住む貴族だろう。いずれも胡乱な目をカエトスに向けている。怪しげな人間が走っていると思っているに違いない。小奇麗な街並みに反して、カエトスの服装はお世辞にも合っているとは言い難いほどに薄汚れているのだ。それも致し方ない。

 衛兵を呼ばれる前に何とかしなければ。

 

 貴族の邸宅街に入ってしばらく走ったカエトスは、屋敷の合間を走る細い路地に身を潜めた。弾んだ息を整えつつ、堀の対岸を見上げる。街を囲むものとほぼ同じ高さの白い壁があった。水面からは十二ハルトース(約十八メートル)はある。

 王城アレスノイツの城壁だ。

 壁の向こうに、幾つもの立派な建物が立ち並ぶ姿が見えた。王城は、山の斜面を階段状に造成した土地に建てられているため、城壁があってもその内部の様子がわかる。

 

 手前に見えている十棟ほどの建物が行政機能を司る役所。石材で作られていることを除けば、大まかな構造は一般家屋と大差はない。ガラスのはまった窓があり、三角形を基本とした屋根が上に乗っかっている。

 ただ造りは細かい。遠くて詳細は定かではないが、幾何学模様や円形を基調とした模様が随所に施されている。屋根も単純な形状ではなく、台形や半円形の突出部がいくつも設置されていて、見る者を飽きさせない。

 

 行政庁舎の後ろには石を積み重ねて補強した斜面があり、その上にあるのが王族の住まう宮殿だ。高低差がかなりあるため、今の位置からでは建物の上部しか見えない。

 カエトスが目指すのは宮殿のさらに奥、現在地からは見えないユリストア神殿だ。

 姿を現したネイシスが、カエトスの右耳をつかみながら目を細める。


「どうする、カエトス。正面も側面も人目につかずに侵入できそうな場所がないぞ」

「……まさか、城の側面もこんなに厳重だとはな」


 カエトスは嘆息しながら王城を見上げた。

 王城を囲む壁は正面だけではなく側面にも階段状に連なっていた。しかもご丁寧に正面と同じく堀が造成されていて、幅も深さも同規模、きちんと水も湛えている。

 

 山の斜面をこれほど大規模に掘削して堀を設ける城など、カエトスは初めて見た。それが遥か山頂付近にまで延々と続いているのだ。おそらく、山の一角を外界と完全に隔離するためのものなのだろう。一体どれだけの労力と時間をかけたのか、考えるだけで気が遠くなりそうだ。

 そして城壁の上には、当然のごとく歩哨が立っている。等間隔に配置された彼らの目をごまかすのは難しい。怪しい行動を見せた時点で捕まること必至だ。

 

「あそこから山を登って城の北側を目指すか? それなら、城内を通らずに外から直接神殿を狙えそうだぞ」


 ネイシスの小さな腕が指しているのは、斜面に造成された堀の対岸だ。

 そこは四十ハルトース(約四十八メートル)ほどの幅で木々が切り倒され見通しがよくなっている以外は、野山のままだ。おそらく城壁に近づくものを発見しやすくするための処置だろう。

 麓と街区は堀によって隔てられてはいるが、それさえ超えれば普通に山を登って城の北側に回り込めそうだった。

 

「それが一番よさそうだな。林に紛れて頂上を目指そう」


 方針は決まった。

 カエトスは右手の中の時計に目を落とした。時刻は五エルト四ルフス(午前十時八分頃)。残り時間は八ルフス強(約十六分)だ。

 

「ネイシス、これ持っててくれ。時間の確認を頼む」

「任せろ」


 カエトスはネイシスに時計を渡しつつ、御者からもらった蜜柑の皮を手早くむいて、橙色の果肉を口の中に放り込んだ。爽やかな甘みと酸味が口内に広がり、果汁が喉を潤す。ティアルクを出発してほとんど飲まず食わずで来た体に活力が蘇る。

 

「無事に乗り切ったら片づけるってことで、許してもらおう」


 言い訳めいたことを口にしつつ、蜜柑の皮を道路の片隅の目立たない場所に置くと、カエトスは右手で左腰の鞘から剣を抜いた。

 現れたのは片刃の直刀だ。刃渡り四十レイトース(約四十八センチメートル)、全長五十八レイトース(約七十センチメートル)ほどで刀身は切っ先に向かうにつれて滑らかに細くなっている。

 戦いを生業にする者が主兵装とするにはやや小振りだが、密着してからの近接戦闘に用いる短剣としては少々長いという微妙な剣だ。ただこの剣の特筆すべき点は長さではなく鍔にある。

 

 シルベリアで一般的な刀剣の鍔は、剣本体と直交する金属棒のような形状をしている。しかしカエトスの持つ短剣の鍔は円盤状だ。その中心を貫くようにして刃と柄が取り付けられていて、鍔には歪な形状の角穴や丸穴、三角の穴が五つあいている。

 

 カエトスは鍔に右親指を当ててぐるりと回転させた。がちっという短い金属音とともに、五つの穴のうちの四つが塞がる。

 鍔は二つの金属板を上下に重ね合わせた構造になっていて、上部に五つ、下部に六つの穴があいている。下部の回転式の円盤を回すことで、上部の穴が全て塞がったり、いずれか一つ、もしくは全てが開放状態になるという仕組みだ。

 

 カエトスは左手に剣を持ち替えた。周囲に人がいないことを確認して、刃を前方の空間に走らせる。

 ささやかな風切り音が耳を打つ。それは刃が空気を切る音と、鍔に開いた穴を空気が通過する音。

 右薙ぎ、左薙ぎの後に、手の中で柄を回転させる。素早く突き出し、円を描くように刃を一回転させる。それらの動作をさらに数回繰り返し、そして最後に順手から逆手へと持ち替え、ぴたりと動きを止める。

 カエトスを包む空気が真冬の冷気のようにぴんと張り詰めたものへと変わった。実際に温度が下がったわけではない。しかし確実に変質していた。

 世界に普遍的に存在する源霊が、人間の呼びかけに応えたときに起こる現象だ。

 さきほどの御者のように、適性のある人間の声にしか反応しない源霊が、カエトスの剣の鍔が生み出した音に呼応したのだ。


「相変わらず見事なものだ。剣舞を使って源霊に命じるとは、人間の知恵もなかなかどうして侮れない」

「これしか取り柄がないからな。よし、行くぞ」

 

 カエトスは突き出した左手に持った剣を、腕ごと下方に向けて振った。膝をぐっと曲げて石畳を蹴る。その瞬間、急激な加速度がカエトスを襲った。

 

「ぐっ……!」


 強い負荷に声が漏れる。視界が急速に開けた。眼下に王城と街並みが広がる。

 カエトスの体は、投石器で射出された岩石のように空中に放り出されていた。その高度は三十ハルトース(約三十六メートル)以上。

 山を取り囲むように造成された堀をやすやすと飛び越え、林の上空に到達したところで上昇が緩まり、そして下降が始まる。

 カエトスは順手に持ち替えた剣を空中で三度振った。緑茂る枝葉の合間を通過し、地面まであと二ハルトース(約二メートル半)というところで、素早く逆手に持ち替える。すると下降がぴたりと止まった。残る距離を自由落下し、両足で着地する。

 

「……ふぅ」


 失敗すれば怪我では済まない工程を無事に終えたカエトスは、軽く息をついた。

 

 カエトスが剣舞によって呼びかけたのは源霊ミュルスだ。彼ら源霊は世界に満ちる真気アトスと呼ばれる力を、己が司る力へと変換することができ、そしてそれは可逆的なものでもある。つまり真気を運動エネルギーに変換することも、運動エネルギーを真気に変換することも可能なのだ。

 

 カエトスはこの性質を利用して、まずは『真気を変換し生み出した力を、我が体に付与しろ』と命じた。その力がカエトスの跳躍を後押しし、堀を飛び越えるほどの飛距離と高度を生み出した。

 続いて下降時に出した命令は『我が体にある力を真気に再変換しろ』だ。

 それによりカエトスの体を落下させていた運動エネルギーは再び真気へと戻り、力を失ったカエトスの体は落下を停止したのだ。

 

 これがミュルスを扱う上で基本となる、加速と減速の操作だ。先刻世話になった御者が、動力車を動かしていた仕組みと理屈は全く同じ。これを使えば、生身の人間も高速で移動することが可能だ。

 現にティアルクからこの王都シルベスタンまでの行程でそれを用いれば、もっと早く到着できた。カエトスがそれをしなかったのは、肝心の人間の体が、強力な加速度や高速で移動し続けることに耐えられないからだ。

 今の堀を飛び越えた大跳躍も、加速度が強すぎると失神する危険があり、また減速の手順を間違えたり、源霊への命令が遅れてしまうと地面に叩きつけられる。

 一人で飛び上がり、一人で落下死するという、笑い話にもならない悲惨な結末を迎えることになってしまうというわけだ。

 

 カエトスは近くの木の陰に隠れながら、密生した低木の合間から城壁を覗き見た。


「歩哨に気付かれなかったか?」

「反応してない。大丈夫だ」


 右の耳元からのネイシスの返答を聞きながら、カエトスは逆手に持った左手の剣を順手に持ち替えた。肘と手首、五指を用いて刃を宙に走らせるとともに、手の中で剣自体を器用に回転させる。動作が二十を越えたところで勢いよく逆手に持ち替えた。再び周囲の空気が張り詰める。

 

 ミュルスに下した命令は、先刻よりも微量なエネルギーを体に付与せよというものだ。少量であれば、自身の対処能力を超えて加速することもなく、行動補助として申し分ない働きをしてくれる。

 

 カエトスは地面を蹴った。体が軽い。斜面を駆けのぼる速度は、一般的な登山のそれとは比較にならないほどに速い。

 緩やかな斜面は言わずもがな、普通なら迂回するような急斜面もお構いなしにカエトスは真っ直ぐに突き進む。

 敵の侵攻を阻むという目的からか、山はほとんど手入れされていない。低木が木々の合間を埋めるように密生していて、突き出た小枝が服に何度も引っかかる。登るには全く向いていない環境だ。

 カエトスは地表に飛び出た木の根をつかんで体を引っ張り上げ、ふかふかの腐葉土に足を滑らせながらも踏ん張って持ちこたえ、よじ登れない斜面は跳躍して乗り越え、ただひたすら上を目指した。

 

「はぁっ! はぁっ!」


 規則正しく強い呼吸を繰り返しながら左に目を向ける。先刻まで見上げていた王城内の行政庁舎がカエトスの目線よりも下になった。ようやく半分ほどだ。

 カエトスはさらに駆けた。

 庁舎が視界の後方に去っていき、別の光景が現れる。高い崖によって隔てられた半円状の土地だ。円の中心にあたる位置に一際大きな石造建築があり、扇状に延びた柱廊によって周囲の建物と結ばれている。

 これらが王族の住まう宮殿なのだろう。

 柱や壁には、植物や水や風、炎などを想起させる複雑な紋様が彫刻されており、宮殿を取り巻く庭園には、手入れの行き届いた色とりどりの鮮やかな花々が咲き誇っている。離れていても庶民の住居とはかけ離れた壮麗さがひしひしと伝わってくる。

 その中に宮殿と柱廊によって接続されていない建物が土地の最北部にあった。

 デスティス山山頂を背後に鎮座するそれがユリストア神殿だ。半球状の屋根はカエトスが王都に入る前に視認したものと同じ。間違いない。

 

 カエトスは神殿を東側から望む位置で足を止めた。木に体を預けて呼吸を整えながら視線を走らせる。

 城を取り囲む城壁と堀はまだ北へと続いていた。そのまま稜線の向こう側に消えている。

 どうやらこの城は、デスティス山の山頂部分を丸ごと城壁と堀で隔離する構造になっているらしい。王城の背後を突こうと山を乗り越えてきても、深い堀と聳える外壁が行く手を阻む。この堅牢さは他に類を見ないことだろう。そしてそれは今のカエトスにとって不利にしか働かない。

 

「ネイシス、時間っ……!」

「あと三ルフス(約六分)弱だ。急がないとまずそうだな」


 ネイシスの口調は、その内容とは裏腹に焦燥が感じられない。しかしカエトスはとても楽観はしていられない。残る時間で禊の間がどこかを突き止めて侵入しなければならないのだ。

 日ごろの鍛錬の成果により、すぐに普段通りの呼吸に戻ったカエトスはじっと目を凝らした。

 神殿までの距離はかなりある。およそ三百ハルトース(約三百六十メートル)といったところか。

 城壁の上には、槍を携え等間隔に立つ歩哨の姿がある。そこを越えると神殿まで建物はない。あるのは手入れの行き届いた緑鮮やかな樹木と、規則正しく植えられた様々な色合いの花々、そして陽光を反射してきらきらと光る小川と池だ。


「周りに人がいるな。何かの儀式か?」


 カエトスは額に浮かぶ汗を拭いながら呟いた。

 華美な装飾が一切ない質素な神殿は、石を組み合わせた堅牢な土台に建てられている。その正面側に揃いの紺色の服を着た集団が二十人ほどいた。腰に剣を帯びていることから城内の警備隊らしい。


「あの本には禊の間で王女を押し倒せとあった。何らかの神事が行われていると考えるのが妥当だな」

「あんなとこに行かなきゃならないのか……。仮に王女を押し倒せたとして、その後はどうすりゃいいんだ」


 逃げればいいのか、そのままとどまるのか、隠れるのか。どうやったところで明るい未来像がまるで見えてこない。


「やってみるしかないだろう。さあ行け。あと二ルフス(約四分)を切ったぞ」

「あまり急かさないでくれ。禊の間がどこか目星をつけなきゃならない」


 落ち着き払ったネイシスに、焦りの滲む声で答える。いよいよ時間が差し迫って来た。緊張のため心臓の鼓動が早まる。

 

「どこだ……!」


 禊というからには、水が関係しているはず。庭園には池といくつかの小川が流れていた。水の流れがどこから来るのか目で追う。

 神殿には東側に突出した部分があった。円形のその建物の土台付近から水路が出ている。それが小川の源流だった。

 

「多分あそこだな。よし……!」


 カエトスは一度大きく息を吐くと、左手の剣を順手に持ち替えた。正面に直線と曲線を複雑に組み合わせた図柄があると想定して、それをなぞるように切っ先を素早く走らせる。思い通りの音が発生しているのを確認しつつ、左に振り抜いた。剣を手の中でくるりと回して逆手に持ち替える。ミュルスが応え、空気が張り詰めた。

 

「行くぞ」

「待て」

「……っと。どうした……!」


 膝をたわめて、今まさに地面を蹴ろうとしたカエトスは、ネイシスの一言にすんでのところで動作を停止させた。

 

「神殿の裏のほうに何かいるぞ。あれは……イルーシオの力で透明化しているな」

「透明だと?」


 ネイシスが口にしたイルーシオとは光を司る源霊の名だ。その力を使い光を操れば姿を消すことができる。彼女もこれを用いて人間の目に映らないようにしているのだ。

 カエトスは自分の右耳をつかみながら身を乗り出すネイシスに倣って目を凝らしたが、見えるのは神殿と庭園と警備の人間たちだけだ。

 

「ネイシス、時間っ!」

「あと一ルフス(約二分)強だ」

「もう行くしかない。それは無視するっ!」

「わかった」


 カエトスは宣言と同時に地面を蹴った。猛烈な加速度が全身にかかり、一瞬ののちには遥か上空にいた。地面からの高度はさきほど堀を飛び越えたときよりもさらに高く、四十ハルトース(約四十八メートル)に迫るほど。城壁も堀も軽々と飛び越える。しかしさすがに一度の跳躍では神殿までは届かない。

 放物線の頂点を通過したカエトスの体は、徐々に加速しながら王城内の庭園へと落下する。華麗な花々と光を乱反射する水面がみるみる迫る。

 カエトスは左手の剣を素早く翻した。地面の直前で落下が完全に止まり、そして自由落下。その間も剣は止まらず動き続ける。衝撃を吸収するために膝をたわめて着地し、間髪入れずに再度跳躍する。再びカエトスの体は宙に放たれた。

 二度目の跳躍は一度目とは違い、地面と平行に近い軌道を描く。目指す場所は神殿東側の丸屋根に取り付けられた小さな窓だ。侵入経路はそこしかない。

 

 空中で体を反転させて、足を屋根に向ける。そして激突。命じる余裕がなかったため、カエトスはミュルスの力は使わずに、自身の脚力で衝撃を全て吸収した。骨が軋む音と痺れるような痛みが体に走る。顔をしかめながら、窓べりに手をかけて体を固定、ガラス窓から神殿内部を覗き込む。眼下に光を反射してゆらめく水面が見えた。

 ここが禊の間に違いない。

 

 カエトスはすぐさま窓を開けようとした。しかし取っ手がない。屋根自体が一枚岩を加工したかのような継ぎ目のない石でできていて、円形にくり抜かれた穴に直接ガラスがはめ込まれている。

 

「後で謝る……!」


 カエトスは誰にともなく宣言すると、ガラスを蹴りつけた。呆気なく砕け散り破片が内側に降り注ぐ。真下に誰もいないことを祈りつつ、窓から体を滑り込ませた。

 短い浮遊感がカエトスを襲う。水面までの高さは五ハルトース(約六メートル)ほど。体勢を整え、激しい水しぶきを上げて着地。ズボンだけでなく上半身まで水を浴びる。膝下あたりまで水に浸かりながら、素早く視線を走らせた。

 

 中は薄暗く、石造りの円形の泉が室内の大半を占めていた。壁際に女の立像があり、両手に抱えた壺から泉へと静かに水が流れ込んでいる。

 ぱしゃりと水の跳ねる音がした。源は左。顔を向けると黒髪の少女がいた。白い肌が透けて見えるほどの薄い衣を羽織っている。 

 まだ若い。十五歳くらいだろうか。

 幼さの残る少し丸みを帯びた顔立ちの少女は、天井から差し込む淡い光を浴びながら驚きに目を丸くしていた。

 薄衣の下には、細身ながら大人の女を思わせる豊かな膨らみが存在を主張していて、それが彼女の清楚で幼い風貌と相まって怪しい魅力を醸し出している。陽光のもとで着飾ればきっと大勢の目を引くことだろう。しかしカエトスが彼女を目にしてまず思ったのは、木陰にひっそりと咲く花だった。

 室内にいるのは、どこか地味な雰囲気を持つ彼女ひとり。イルミストリアの記述を信用し、かつここがユリストア神殿禊の間であるならば、彼女がシルベリア王女アルティスティン・レフィーニアだ。

 

(カエトス、三十ヴァイン(約一分)を切ったぞ。急げ)


 頭の中に、この期に及んでもまだ落ち着き払っているようにしか聞こえないネイシスの声が響く。

 カエトスは小さく息を吸うと、少女に問いかけた。

 

「突然失礼します。あなたがレフィーニア王女ですか?」


 少女は泉に浸かったまま、カエトスを凝視していた。瞳からは驚きが消え、代わりに強い警戒が滲み出る。自分を守るように両腕を胸の前に引き寄せて、ゆっくりと体重を後ろにかける。隙をついて逃げようとしているように見えたが、少女はそれをしなかった。カエトスの問いに小さく頷きながら、微かに震える声で逆に聞き返してくる。

 

「あなたが……私を殺すの?」

(あなたが……?)


 カエトスは左手に持った剣を鞘に納めつつ、王女の言葉を頭の中で繰り返した。まるで誰かが来ることを知っていたような口振りだ。だが詮索は後回し。カエトスは両腕を左右に広げて、害意がないことを示しながら答えた。


「いいえ、違います。私は王女殿下を押し倒しに参りました」

「…………は?」


 完全に想像外の言葉だったのだろう。王女は、一瞬だけ表情も動きも完全に硬直させると、気の抜けた声を上げた。

 

「大丈夫、痛くはしません。終わったらすぐに退散します」

「ま、待って。何を言っているの……!」

「説明している時間がないんです。どうか抵抗なさらぬようお願い申し上げます」


 カエトスは慇懃な口調で話しかけながら、ざぶざぶと水を蹴立て距離を縮めた。

 動揺も露わな表情と動作で後ずさる王女。

 

(カエトス!)

(わかってる、無理にでも押し倒すっ!)


 ネイシスの緊迫した呼びかけに答えながら、さらに王女に近づく。しかし返ってきたのは警告だった。

 

(違う、すぐに泉から上がれっ!)

(何?)

(いいから急げ、源霊が騒いでいる。ここは危険だ!)


 ネイシスがこれほどに焦るのは珍しかった。つまりそれだけ切羽詰まっているということ。

 カエトスはそう判断すると、王女に飛び掛かった。

 

「失礼します!」

「きゃっ!」


 カエトスは、王女の小柄な体を正面から抱き締めるように抱えた。泉の外に向かって走るも、水が邪魔で全く思うように進まない。

 

「カエトス、跳べっ! 水から離れろっ!」


 ネイシスが思念ではなく声で鋭く命じる。

 カエトスはすぐさまそれに反応して跳躍、床に体を投げ出すようにして泉から脱出した。王女を抱えたまま床を転がり、泉から可能な限り距離を取る。

 その直後、室内に光が走った。数百本の鞭で岩を打ち据えたような鋭い破裂音が轟く。

 カエトスは床に転がったまま泉へと顔を向けた。光は一瞬にして消えていた。水面が波立っているものの目立った変化はない。


(……今のは、何だ?)

(ハルヴァウスが生み出した雷だ。おそらく、外にいた者の仕業だろう。今はもうどこかに消えたが。どうやらその娘を狙っていたようだ)


 ハルヴァウスもミュルスやリヤーラと同じく源霊の一つだ。そしてこれの司るものは雷。つまり今の光は泉、もしくは泉へと通じる水路に落ちた雷が原因ということだ。


(暗殺か?)

(状況からして、それしかないだろうな。そしてあの本は、それを見越してお前をここに寄越したということなのだろう)


 つまりカエトスがやって来なければ、王女は死んでいたということだ。

 一体何が起きている。

 思考を巡らせるカエトスに、ネイシスがそこはかとなく嬉しそうな口調で告げる。


(それはともかく、上手い具合に試練の一つを無事に済ませたな。さすがカエトスだ)

(……ん?)


 ネイシスに言われて、カエトスは気づいた。今まさに王女を押し倒していることに。

 右手は王女の豊かな胸の膨らみを押し潰すように鷲づかみにしていた。しかも彼女が着ている衣は肌が透けて見えそうなほどに薄い。というか、実際に胸の先端の桜色の蕾が透けて見えていて、右手からは体温がはっきりと伝わってくる。

 

「す、すまない。ここまでするつもりは──」


 口調に気を払うのも忘れて、カエトスは王女の上からどこうとした。

 しかしその動きが止まる。柔らかく温かい感触が名残惜しくて手放せなかったというわけでは、断じてない。

 外見に反して王女の胸は想像以上に豊かであり、触れ続けたい衝動が湧いたのは事実だったが、さすがにこのような状況下で劣情を催すほど節操なくはない。

 カエトスを止めたのは王女自身だった。まるで自分の胸を触らせようとしているかのように、カエトスの右手首をしっかりとつかんだのだ。


「逃がさないから。あなたは、わたしのもの……!」


 王女がほんのりと頬を赤く染めながらカエトスを真正面から見つめる。

 カエトスは混乱しかけていた。王女の行動と言葉の意味がまるでわからなかった。しかしそれを考える余裕はなかった。

 カエトスは至近距離にある王女の瞳に見惚れてしまっていた。

 

 右の瞳はシルベリアでは一般的な黒だが、左の瞳が翠玉のような鮮やかな緑色だった。宝石を液体にして封入したかのように、一瞬ごとに濃淡が微妙に変化する様は、一度視線を合わせてしまうと離すのが惜しくなるほどに神秘的でカエトスの心を強烈に惹きつける。


 不意に王女が膝を立てた。緑の瞳に見入るカエトスの体を横に押しのけると、うつ伏せに転がし、つかんだままの手首を背中に回して組み伏せようとする。

 カエトスは反射的に抗おうとした。すると耳元で王女が強い語調で囁いた。

 

「抵抗しないで。このままだとあなたは姉さまに殺される」


 王女がそう言った瞬間、室内に鋭い声が反響する。

 

「レフィ!」


 紺色の制服を着た女が、入口の鉄扉を押し開いて入って来た。

 王女に組み伏せられたカエトスを認めるや否や、女の切れ長の目が一気に険しくなった。目にも止まらぬ鮮やかな手つきで腰に差した剣を抜き放つ。

 

「貴様ぁっ! レフィに何を──」

「待って。もう大丈夫。取り押さえたから」


 王女の静かな制止の声に、女の足が止まる。そのつま先はうつ伏せに転がされたカエトスの視界に一瞬にして出現していた。凄まじい速度の踏み込みだった。しかも足の位置からして、女は剣を頭上に振りかぶっている。王女が止めなければカエトスは頭をかち割られていたに違いない。

 カエトスが背中に冷や汗が滲むのを感じていると、鉄扉の合間から制服姿の女たちが次々と入って来た。


「その男を拘束しろっ!」


 指示を受けた女たちがカエトスのもとに駆け寄る。

 カエトスは為すがままに両腕を拘束された。背嚢と腰の剣も力任せに奪い取られる。


「貴様、よくもレフィをっ! ここでその首刎ねてやるっ!」

「ミエッカ姉さま、待ってっ。ここは神殿の中。剣を納めて」


 王女にミエッカと呼ばれた女は、肩を押さえつけるように跪かされたカエトスの正面に立ち、整った美貌を怒りに染めながら剣を振りかぶった。それを王女が間に割って入って止める。

 

「レフィ、いえ王女殿下。それはできません。この男はこともあろうに神聖な儀式を妨害し、殿下に襲い掛かったのです。しかも私の見間違いじゃなければ、殿下を押し倒して──」

「神殿を血に染めるの?」

「……ぐ」


 王女の冷静な指摘にミエッカが唇を噛む。王女はその隙にさらに言葉を継いだ。

 

「この男は何か事情があるみたい。それを聞き出すまで殺しては駄目。これは神官としての命令です」

 

 怒りに顔を歪めたミエッカがぎろりとカエトスを睨み付ける。振りかぶった剣が小刻みに揺れ、そしてゆっくりと下ろされた。そのまま流麗な動作で腰の鞘に納める。

 

「そいつを連れて来い。私が直々に尋問してやるっ!」

 

 殺気に塗れた声で女たちに命じて、王女を守るように肩に手を回しながら、部屋の出口へと向かう。

 ミエッカの部下と思われる女に両腕を拘束されたカエトスは、敵意に満ちた眼差しを浴びながら引きずられるがままにその後について行った。


 禊の間の鉄扉をくぐると広い廊下になっていた。

 一体どうやって建造したのか、継ぎ目の全くない自然石そのままのような表面の石壁と、弧状に湾曲した天井が続いている。目を引くものと言えば、採光用の窓から差し込む日光だけという殺風景な空間だ。しかし単純だからだろうか、不思議な威圧感のようなものに満ちているような気がした。少なくとも人が常駐する場所ではない。それだけは確かだ。


(何とかしのいだな。この本は、王女がかばうことを予見していたということか)


 廊下を連行されるカエトスの頭の中にネイシスの声が響く。

 肩にあった彼女の感触は、カエトスが女たちに取り押さえられたときから消えている。姿が見えないとはいっても普通に触れるため、下手をすると捕まってしまう。それを避けるためにどこかに退避したのだ。

 

(安心するのは、俺が解放されてからにしてくれ。下手したら俺はここで殺されるんだぞ)


 憎たらしいほど平板な声に、カエトスは自分の危機的状況を訴える。

 王族に不埒な行為を働いた事実を鑑みると、少なく見積もっても極刑は免れない。しかもミエッカは『神聖な儀式』という言葉を口にしていた。つまり何らかの神事が行われていて、カエトスはそれを妨害してしまったというわけだ。

 焦燥と不安に苛まれるカエトスとは裏腹に、ネイシスはのほほんとした声を返してくる。

 

(王女が味方っぽいから大丈夫じゃないか?)

(たしかにそういう感じはしたけど、それは楽観的すぎる。あの女の殺気は本物だぞ。殺されなかったのが不思議なくらいだ。それに次の試練もある。捕まったまま時間が過ぎたなんてことになりかねない)

(では確認してやろう。少し待て)

 

 前を歩く女の手にカエトスの背嚢がある。厚手の布を筒形に縫い合わせたもので、上部の開口部に紐が通してあり、それを締めたり緩めたりすることで口が開閉する構造だ。

 それが誰も触れていないのにじわじわと開いた。背嚢が不自然に揺れて、女が視線を下に向ける。その瞬間、すっと口が閉じた。ネイシスが忍び込んだのだ。

 

(どれどれ。……うむ、次の文章が現れているな。『大陸暦二七〇七年五月十三日、七エルト三ルフスの刻、シルベリア王都シルベスタン王城アレスノイツ、兵部省内練武場において、カシトユライネン・ミエッカと決闘を行いこれに勝利し、その後アルティスティン・レフィーニアの提案に従え』だと。ミエッカといえば、いまカエトスを殺そうとした女じゃないか。探す手間が省けてよかったな)


 見つかりはしないかと内心冷や汗ものだったカエトスに対し、ネイシスは全く動揺していない声で告げた。

 その内容にカエトスの焦りはさらに増す。本の課した試練は、無理難題としか思えなかったからだ。

 

(いや、よくない。この状況で何をどうやったら決闘にできるんだよ……)

(それを考えるのがお前の仕事だろう? 幸い時間はまだある。私も協力するから、ゆっくり知恵を絞ろうじゃないか)

(……その前に殺されなきゃいいんだけどな)


 王女を押し倒すには押し倒した。しかしこれはまだまだ序の口らしい。

 カエトスは待ち受ける未知の試練を思うと、暗澹たる気分になるのだった。

 

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