第19話 世話の焼ける先輩ですこと!

 結論から言えば社会人というものは何とも自己犠牲の上に成り立っており、所属する会社に全てを捧げなくてはならない存在なのだろう。


 はっきり言おう、……残業した。


 それもかなりの時間。


「あァー……疲れた……」


 会社を後にしたのは昨日とそう変わらないような時間帯だ。恐らく柚乃はもう電車に乗って帰っただろうし、藍沢にも「先に帰ってくれ」とメールしておいた。


 あれだけはっきりと自分で話があると言っておきながらこれではまるでわざと残業したようにも思えるが、そうではない。課長の責任だ。無能にもほどがあると嘆くのは部下の仕事で、そのけつを拭いてやるのも部下の役目だ。


 これじゃまるで介護だな……。


 仕様変更を見落としていただけならまだしも、その変更にかかるスケジュールを全く考慮していたなかった点に関してはぶん殴ってやりたくなった。殴ったところで時が巻き戻るなら喜んでぶん殴ってやるのだが、生憎そういうわけにもいかず。ただ黙ってこの時間までパソコンと向かい合っていたのだ。


「……だりぃ」


 今日は木曜日。まだ後一日ある。

 何とか目処のつくあたりまでは進められたので明日一日あれば休日出勤は回避できるだろう。否、回避したい。


「はー……」


 足取りも重く、駅へと向かっているとちょんちょんっと肩をつつかれた。

 何だ何だと気だるげに振り返ってみれば藍沢だ。


「何っすか、その顔」

「女子高生の方じゃなくて心底良かったと思ってな……」

「んー……それはそれで複雑な……。まぁっ、いいんですけどっ」

「待ってたのか」

「はいっ」


 ちょんっと指をさされた先は珈琲チェーン店だ。

 店員が看板を片付け始めていた。


「帰るならここを通るなーって思って張ってたんですけど、追い出されちゃいましたっ。……けど、結果オーライっすね?」

「いや、ダメだろ」


 帰って寝ろよとは思ったが口には出さなかった。

 話があると切り出したのは俺の方だ。


「……悪りぃ」

「いえいえっ」


 どちらからともなく駅とは反対側の方向へと足を向け、自然と居酒屋の並ぶ繁華街へと向かおうとする。が、そうじゃないと足を止めた。


「先輩?」


 少し先を行ってしまった藍沢が足を止め、振り返る。

 普段とは違う様子に気づいているのかいないのか、いつも通りの藍沢だった。


「……少し歩くか」

「はいっ」


 生憎、今日の夜は随分と涼しかった。

 喉が渇いたのと手持ち無沙汰なのを解消すべくコンビニで珈琲を買い、藍沢はバニラアイスを所望した。しかもハーゲンダッツの板状のやつ。無駄に高いのだ。


「こーいうのって人に奢って貰わないと勿体なくって買えないんっすよねー」

「薄い本は散々買うのにか」

「それはそれ、これはこれじゃないですかー」


 なるほど、食べ歩くにはちょうど良いらしく手に持ってパクリと齧り付くと美味しそうに目を細める。


「食べますかっ?」


 はい、あーんなんて差し出してくるが流石に遠慮する。


「甘いものは苦手なんだ」

「知っててやってるんすよ〜?」


 ニマニマからかわれるのは苦手だ。


「ふん」

「あっ、ちょっとー。待ってくださいよー」


 主導権を取り戻したくて一人勝手に先をゆく。

 オフィス街を抜け、あかりの少ない公園が見えてきた。

 あまり利用したことはないが都心部にしては広い公園で場所によってはホームレスの寝床になっているらしい。所々にブルーシートの影が見え隠れしていた。


「なんてゆーか、ワクワクしません?」

「そういうもんか?」

「はいっ」


 夜の散歩をしている人は案外にも少なくはなく、また俺たちと同じように仕事終わりに公園の中を抜けていく人も見かけた。

 このままだと機会を失ったまま終電ということになってしまえば、話すべきことを話さないまま帰ることにもなりかねない。

 何の脈絡もないままに、何となく、人通りが消えたタイミングを狙って口を開いた。


「悪かったな、何の説明もなく別れようなんて言い出して」


 振り返れば藍沢の足が止まり、驚いた表情でこちらを見つめていた。


「嫉妬してたなんてダサくていなかったんだ」


 学生時代。俺は藍沢に一方的に別れを切り出し、まともに話もし無いままに先輩後輩の関係に戻った。

 藍沢も藍沢で「何で」とか「どうして」なんて聞いてこなかったのをいいことに、俺は自分勝手に関係を終わらせて。……そのことがどうにも未だに引っかかっているように感じたから。


「悪かった」


 とりあえず、謝るべきことは謝っておく。

 そんな俺をどう思ったのか珍しく言葉が出てこない様子の藍沢はぽかーんとこちらを見つめたままで、何も言おうとはしない。


「…………?」


 しばらくそんな空白の時間が続き、不思議そうにサラリーマンが俺たちを眺めながら通り過ぎていくと氷が徐々に溶け出すように、絵の具が水の中で広がって逝くかのようにじわじわと藍沢の表情が変わり始める。

 泣き出しそうな、ーーけれどへにゃっとした笑顔を作ろうとして、……けれどどうにもできずに諦め、表情が消えて行く。


「……告白されるのかと思ってました」


 ちょこん、と近くにあったベンチに腰掛けると藍沢はぽつりとつぶやき。俯く。

 手に持っていたアイスはとっくになくなり、ゴミを手の中で弄んでいた。


「あー……いや……なんというかそれは……だな……?」

「いいんスいいんス! 先輩が私のこと、どう思ってるかなんてそんな……気にして頂くようなことじゃないってゆーか、わかってたっていうか……。……柚乃ちゃんと一緒にいる先輩見て、なんか諦めついてたんで。……だって先輩……あの頃私に向けてくれてたような顔してたから、きっとそーなんだろうなーって……」


 今にも泣き出してしまいそうな藍沢を前にしてうまく言葉が出てこない。

 やっぱり女の涙は苦手だッ……。


「……あの頃……?」


 ようやく絞り出した先は藍沢の苦笑だった。

 涙を浮かべつつも笑って「私と付き合ってた頃っス」藍沢ははにかんだ。


 そんな光景がかつて「好きだ」と言った後の記憶に重なり、急に息ができなくなった。

 誰もいない部室。

 当たり障りのない会話が途切れ、居心地がいいような、妙に落ち着かないような甘い空気に「俺たち付き合おうか」と切り出したあのときの記憶。

 急に黙り込んでしまった藍沢を心配して覗き込むとこいつは同じような顔をしていた。

 うれしいような悲しいような、複雑に感情が入り乱れた様子で俺を見つめ、同じようにはにかんでいた。


 人一倍察しがいいというのは時に面倒なんだな、なんて漠然と感じたのを覚えている。

 わかっていても憶測でしかなく、確証を得るには踏み出す他ない。

 藍沢のことを「可愛い」と感じたのはあのときが初めてだったかも知れない。


「いいんスよ、私は。……未練がましくなんか、スミマセんっした」


 ボロボロになりながらも告げられる言葉にザラザラと胸の内を削られるようだ。

 違う、そうじゃないんだと言ってやりたいのにうまく言葉が出てこない。


「はーあ……、……そば粉うどんとの仲がまだそれほどでもないってならワンチャンあると思ったんすけどねー。しゃーないっすよ、柚乃ちゃん可愛いし。若い方がいいっしょ?」

「いや、お前もまだ随分若いし」

「なら、なんで私じゃなかったんです?」


 ズキリと、今度こそ面と向かってナイフを差し込まれたような気がした。

 喉の奥で息が引っかかり、バクバクと心臓が口から飛び出しそうになる。

 平然を装いつつもその瞳の裏側に感情を押し殺しているのは明白で、……そんな顔をさせてしまっている自分自身が情けないやらなんやらで耐えられなかった。


「違うぞ……?」


 だから、耐えられなかったから。


「俺が言いたいのはだな……だから……その……」


 流されてしまって、これでは元も子もないと解っているのだが、それでも、藍沢のそんな顔を見ていられなかった。


「俺は彼奴のことなんてこれっぽっちもそんな風に見ていない……」


 いや、違う。そうじゃなくてと一人で迷子になってしまう俺を見て藍沢は肩をすくめる。子供のように足をぶらぶらと揺らしながら、そんな様子が柚乃にそっくりだと何処か冷静な俺もいて。だから少しだけ楽に言葉が浮かんで。


「今日はお前とやり直したいって伝えたかったんだ……」


 ようやく言いたかった言葉を言うことができた。


 訪れた沈黙をどう受け取ればいいのか俺には分からなかった。


 ただ伝えることができたと言う達成感と、しかしそれにどう返答が戻ってくるのか分からないと言う不安と、それこそ大人になったと言うのにあの頃と全く変わらない「緊張感」を味わい。ぶらぶらと揺らしていた足が落ち着いていく様子をただ見ていることしかできなかった。


 藍沢の表情は変わらず、ただ、寂しげに自分のつま先を見つめては黙り込んでいる。

 何を考えているのか、何を言えばいいのか、考えたところで答えもいい案も浮かんでこない。


 ただ藍沢の静まり返った姿を見つめ、


「藍沢……?」


 名前を呼ぶことしかできなかった。


「……ダメっすよ、センパイ。それは……ダメっす」


 ぽつりぽつりと紡ぎ出された言葉は痛みを伴っていて、


「嬉しくて笑っちゃうそうになるんですけどーー……やっぱそれって、ダメっすよ……?」


 ボロボロ泣き始めた藍沢はそれでも笑顔を浮かべようとしていた。


「い……いやいや、おかしくないか……? なんでーー、」

「なんでって、そりゃぁ……先輩は私のこと、好きでもなんでもないじゃないっすか」

「ーーーー…………」

「だったら……ダメっすよぉ……?」


 ボロボロになって、それでも俺の裾を掴んでくる藍沢を突き放すことなどできず。

 かと言って、「そんなことない」と即座に否定できなかった時点で俺に何か言うを資格はなかった。


「悪りぃ……」


 ただその後輩の頭を撫でてやり、泣き止むまでそばにいてやることぐらいしか出来なかった。


 こいつのことを大切に思う気持ちは変わっていないと分っているはずなのにーー……愛おしいとこれほどにまで感じているのに。

 俺は抱きしめてやることすら出来ずにいた。


「っとにもぉー……先輩なんだからぁ……」


 そんな俺を藍沢は苦笑して、涙を塗りつけてくる。やはり子供のようだと、案外人間ってもんは早々成長するもんでもないのだと、思い知らされた。


「その……なんだ……? ……こんな風に言うのはおかしいの分ってんだけど……、……また次の機会を待ってもらってもいいか……? なんつーか……その……、……お前が他の奴に取られるのは何か釈然としねーんだよ」


 虫のいい、なんて自分勝手な話だとは思うのだが、俺にはそんな言葉しか浮かばず。そんな俺を知ってか察してか、藍沢も笑って手を握ってくる。


「仮抑えってことなら承りますけど、都合のいい女にはなりませんからね?」

「……わーってるよ」


 流石に俺も、そこまで腐り切っちゃいねぇ。……と思いたい。


 今はまだ、正直こいつのことをどうしたいのか測りかねているのが事実だ。だからと言って柚乃との関係を勘違いされたまま妙に距離を取られてしまうのが気に入らなかった。

 思い返してみればなんとも自分本位な話かとは思うのだが、誤解を解くには正直に話す他なかったのだろうとも思う。だからこんなこと言う必要もないとは思ったのだが、念のために言っておくことにする。


「あいつのことは別段、なんとも思っちゃいねーから。……余計な真似はやめろ」


 元々はこの話をするつもりで今日時間を作ってもらったわけだし。二股かけようとしていると思われては本末転倒だ。


「俺は今んとこ、……ガキには興味ねーから」


 率直な意見を言ったつもりだったが、裏返してみればなんとも恥ずかしいセリフだと口が尖った。

 いつもと違う雰囲気に完全に流されてしまっている。明日の朝には悶絶ものだとじわじわと冷静な自分も戻りつつある。


「……どうかしたか?」


 黙り込んだままの藍沢の顔は伺うことはできず、しかし眠ってしまったわけでもなさそうなのでしゃがみこんで顔を覗き込むと口先を尖がらせて言うべきか言うまいか悩んでいるような顔で固まっていた。プルプルと唇が震え、言葉を紡ぎ出そうとしては閉ざしてを繰り返す。


「なんだ」


 じれったくなって促すとようやくあって藍沢は立ち上がり、


「うんにゃっ、この件に関しては私も負けたくないって思ったので言わないっス!」


 いつもの元気を取り戻さんと体を伸ばして見せた。

 手に持っていたゴミをクズカゴに放り投げ、それは曲線を描いて綺麗に入り込む。

 イェーイと指でピースを作り、微笑む姿はいつもの藍沢だった。


「っとに……恐れ入るよ、お前にゃ」

「そっすか?」


 そう言うところが好きだったんだと今なら言えそうな気もしたが、余計なことだと黙っていることにした。

 それこそ朝になれば後悔以外の何物にもならないだろう。


 さて帰るかと俺もクズカゴに空になったプラスチックの容器を放り込み駅へと向かうが、思わず腕を掴まれて足を止めた。ぐいっと引き戻され、くるりと前に回り込んで来たのは当然ながら藍沢だ。

 ニヤニヤと、意地の悪い笑みを浮かべながらも藍沢は俺に近づき、キスでもするのかと言わんばかりの距離感で首をかしげる。


「終電、終わっちゃったんですけど。私」


 悪魔のような天使の笑みとはまさにこのことかと女の怖さを思い知った。


「……休めるところをご所望か」

「はいっ」


 こうして深みに嵌って行くんだろうなーと、やはり何処かで冷静な俺が俺を見ていた。


 ーー流石にこれでカラオケなんて話になるのは学生だけだよなぁ……?


 近場に、ましてや出てくるところを知り合いに見られないような場所に、良い物件はあったかなぁ……? と足をそちらの方へと向けながらに思う。

 明日はなかなかの激務になりそうだ。

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