「これはお兄さんの妄想であり想像ですっ feat.女子高生」

葵依幸

第1話 満員電車の女子高生

「(助けて……助けてくださいっ……)」

「ん……?」


 その声を聞いたのは身動き一つ取るにも咳払いされるような満員電車の中だった。

 耳にはイヤホンをつけ、通勤時間を利用して趣味時間を楽しんでいた俺にしてみれば晴天の霹靂。むしろ「音楽ファイルになんか変な音声が混じってる」って感じだ。

 しかし、


「(誰かっ……)」


 何処からともなく聞こえてくるそれはどうやらイヤホンではなく、外側、この車内の誰かが言っているようであり、まだ若い女の子の声らしい。


「(なんだ……?)」


 意識に引っかかった囁くような声に首を捻るが、カナルタイプと呼ばれる耳栓型のイヤホン越しには電車の揺れる感覚は伝わってきていても人の話し声など聞こえるはずもない。ましてや俺のはノイズキャンセリング機能つきのそこそこ値の張る奴だ。幻聴ーー、何かの勘違いかと思った矢先、それに気づいた。


 なんとかかんとかつま先でバランスをとり、必死に右手でカバンを、左手で吊り輪をつかんでいるような満員電車だ。無論身動きは取れず、思うように体勢を変えることもできない。


 だからこそ、誰も気がついていないらしく、俺もいま気がついたのだ。


 扉の前の座席横、ちょうど俺の体を壁にするようにしておっさんが女子高生を押さえ込んでいるように見える。


「(……このおっさん……)」


 最近よく電車で一緒になるおっさんだった。若干禿げてて奥の方に行けばいいのにいつも扉前をキープしようとぶつかってくるから欝陶しいと苛立ってた奴だ。

 そしてそんなおっさんは目の前の女子高生に視線を合わせようとはせず、車内の中吊りを見上げている。不自然なほどじっと。


「(痴漢か……?)」


 確証はなかった。女の子の方は満員電車が窮屈で俯いているようにも見えるし、おっさんの右腕が何処にあるのかは俺の位置から確認することはできない。まして冤罪なんて話になれば俺だって男だ。昨今の痴漢冤罪問題については頭を抱えているわけで、つまるところ明日は我が身だ。


「うぉっ?!」


 そんなことを考えているうちに電車が大きく揺れた。

 と同時にカバンが手元を離れてしまい、慌てて持ち手を掴み直す。

 掴み直したつもりだった。


「ぁ……」


 当然、その感触が俺のカバンのものではないことは明確で、揺れた衝撃でおっさんと俺の位置関係がズレ、まさにいま冤罪ではなくガチの痴漢行為に俺は加担していて「すっすみませんっ!!!」慌てて手を引き戻し、肘がおっさんの脇にめり込んで思いっきり睨まれる。


「すみません……」


 動けないなりに首だけで会釈し、恐る恐る女子高生の反応を伺う。

 俺が割って入るような形になり、さっきのおっさんよりも距離はかなり近い。おかげで表情は一切見えなかった。


「んぅ……」


 やばい、これはなんだかやばい気がする。

 ドキドキと嫌な汗が額に浮かび、椅子と体の隙間に挟まって浮いていたカバンを掴み直す。

 減速する車両。見えてくる駅のホーム。


「とととっ」


 開いた扉から吐き出されるようにして俺は最寄駅に降り立ち、振り返る。

 そこにあの女子高生の姿はなく、そしておっさんは忌々しげに俺を睨んでは閉まる扉の向こう側へと消えて行く。


「はァ……助かった……」


 一時は本気で人生終了かと思った。


 最近そういうニュース多いし、この前も目の前で「痴漢です!」て叫ばれたおっさんが慌てて線路に降りて逃げていくのを見ていた。


 人の良さそうな、それこそ左手薬指に指輪が光っているような普通のおっさんだったから気の毒というか本当にこの人が痴漢したのか? ってちょっと疑問に思ったり(お世辞にも魅力的だとは思えなかったから、その女性が)。だからマジでなんてゆーか、……助かった。


 今の仕事には何の未練もないけど、未練は無いなりにこれまで我慢してきたこととかがパァってのもムカつくし、何よりも前科者になるのはゴメンだ。田舎においてきた両親にも示しがつかない。示談金を払うような金もないし。


「っと……明日もはえーんだよなぁ……」


 いつまでも自由を噛み締めているわけにもいかない。

 明日は明日で同じような満員電車に揺られて会社に向かわなければならない。就職してからはや5年。慣れたといえば慣れたけど、それでも許容できる程に俺の心は広くもない。明日のことを考えると憂鬱だ。


「仕事終わりにゃそんなこと忘れて生きたいもんだけどなー」


 忘れていた疲れに肩を落とし、何とか足を踏み出した矢先、ぐいっと体が後ろに引っ張られた。

 引っ張られたというよりも、スーツの裾を誰かが掴んでいてそれで体が置き去りになったという方が正しい。


「ぉ……?」


 若干喉元が締まって苦しみながらも振り返ると視線より少し下に頭があった。

 見覚えのある容姿にひやりと背筋を汗が流れ落ち、顔が引きつる。

 黒髪の、少しだけ茶髪が混じったような整った顔立ちをした制服をきた女の子が、電車で俺の目の前に立っていたあの女子高生が、そこにいた。


「あの……」

「はい……」


 声をかけられ、聞きかえす。遠慮がちに俯向いていた彼女はゆっくりと俺を見上げ、その顔は仄かに赤く染まっている。


「(なんだなんだなんだっ……!!」)」


 脳内で発せられるエマージェンシー。鳴り響く警告音と「何なんだ」という問いかけに関しては自身でも答えは出ている。そうだ、この子が俺を引き止める理由なんてたった一つで、その子は今にも泣き出しそうな瞳で見つめてーー、


「私のお尻……触りましたよね……?」

「(いっ……、)」


 俺の呼吸を止めに来た。

 いや、俺の人生を、止めに来た。


「触りましたよね……?」


 繰り返される死刑宣告。

 ガッシリと鷲掴みにされる俺の心臓。

 やばい、オワタ。俺の人生、マジオワタ。


 繰り返される鐘の音。脳内で崩れゆくこれまでの思い出、走馬灯ーー……。駅員と警官に連れて行かれる俺の後ろ姿がふんわりと浮かんで消えて行った。


「あのっ……えっと……」


 くいっくいっと放心気味だった俺を引き戻すようスーツの裾を再び引っ張られる。高揚した頬は妙に色っぽい。ガキに欲情する趣味はないが自然とゴクリと喉がなり、慌てて首を振る。これでは本当に犯罪者だ。諦めるにはまだ早い。最近よくある冤罪ってやつで完全に事故だったってことを説明、納得してもらう他ないッ……!


「っ……」


 心を決めた。


 どうでもいい人生だが棒に振るにはまだ早すぎる。諦めるのはやれるべきことを全てやってからだっ。

 しかし、俺が何かを言い出す前に躊躇いがちに見つめていたそいつは吐息交じりにこう言ったのだった。


「お尻触った感想、詳しく教えてもらっていいですか」


 と。


 世界が、時間が止まるとはこういうことを指すのだと思った。


「……は……?」


 ガタンゴトンと音を立てて反対側のホームに電車が入り込んでくる。下り電車とは違いそれほど多くはない人が降り、そのまま改札へ向かう流れが生まれた。

 頭の中で言われたことを反復する。


 私ノお尻ノ感想デスカ……?


「…………」


 どれほどの時間が流れたのだろう。

 俺とこいつの間でだけ空間が固定されていて自然と呼吸ができるようになる頃には電車は遥か彼方だった。


「教えて下さいっ……! お願いしますッ……!」


 透き通るような、夜の明かりを反射させた大きな瞳で再びそう告げるとますます顔は近くなる。意味がわからない。何かのひっかけか? ここで何と答えるかによって今後の展開が変わる? 牢屋にぶち込まれる? 冤罪じゃなく有罪になる……!?


 加速する思考。

 迫ってくる女子高生。


「お願いします!!」


 前のめりに、それこそ「何か良い匂いがする」とか思っちゃうぐらいに近付かれて俺は何と言えばいいのかわからず、ただ促されるがままに、そして押し出されるがままに、


「こ……小ぶりで柔らかかったです……」


 率直な感想を告げてしまった。

 完全にアウトだ、セクハラだ。

 自ら「触った」と言ったようなものだ、これでは現行犯で逮捕されてもおかしくない。しかし、


「ほっ……ほほーっ!」


 その子は満足げに笑ったのだった。


「なるほどなるほど」


 赤らんだ頬は羞恥心からくるものではなく、単純な知的好奇心による高揚で、制服の胸元にしまってあったメモ等を取り出してボールペンで走り書きをする姿は「奇妙な学生」という他なく。またそれは通過して行った特急列車の光もあいまって美しく写りーー、


「ぁ……」


 柄にもなく俺は、見惚れてしまった。

 それが篠崎しのざき柚乃ゆのとの出会いであり、


「お兄さんはえっちですねっ?」


 手錠代わりの手綱を、括り付けられた瞬間だった。

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