雲の上

        【浅井 8】



 強化ガラスを隔てた先にいる国選弁護士はそれほど残念ではなさそうに「力になれなくて申し訳ない」と頭を下げた。鷹のような目つきをした男に浅井は同情する。彼なりに努力はしたのだろうが、敗戦処理を任された投手のようなもので、初めから特別な期待を抱ける仕事ではなかった。


 正方形を二つ繋げたような面会室は清潔というよりは無機質な印象が強く、どうにも居心地が悪かった。床から天井まで染み一つない白に覆われている。浅井の背後には刑務場の職員が立っており、能面のような表情をしていた。

 弁護士は資料を確認し、淡々と告げる。


「浅井くん、きみも覚悟していたとおり、重大犯罪における特例措置が決定した。明日にでも刑が執行されるだろう」


 浅井が中央管制塔のシステムを攻撃してからまだ三日しか経っていない。公職者はこういうときばかり行動が早い、と自分を棚に上げ、それから、もう公職者ではなかったな、と勝手に気恥ずかしくなる。


 犯罪者であっても「情報を得る権利」は保障されているおかげで事の顛末は浅井の耳にも参ってきていた。

 食料供給管封鎖事件の収集がついていない中で起こされた事件に政治家や公職者たちは慌てふためいたという。高校時代の同級生が同時期に大規模な犯罪に手を染めた、というのがセンセーショナルだったらしく、比例するようにマスコミの報道も過熱した。ことあるごとに関連性が指摘され、国家運営への抗議を示唆する計画的な犯行だったのではないか、という噂も飛び交っているようだった。


 浅井と屋代の共通の知人であり、警察が突入したときに椅子に拘束されていた波多野も槍玉に挙げられていた。件のコンピュータウイルスの流出源であることが問題視され、彼は管理責任について追及されている。

 ニュース番組の映像で彼が厳しい扱いを受けている姿を何度も目にした。しかし、波多野は腕に残った手錠の痕を殊更に見せびらかすばかりで被害者であることだけを強調して、堪えた様子を少しも見せなかった。『本当に浅井受刑者は』とまだ刑が執行されていないうちからそう呼ぶ彼は普段の憎たらしさを隠そうともしていない。


『勤務態度も不真面目でろくなやつじゃなかったよ。記録媒体? 俺があんなやつに渡すわけないだろ。厳重に保管してたのに盗んでいったんだ。挙げ句の果てに人を縛り付けやがって、最悪の犯罪者だよな』


 直接反論する方法がないからといってあまりに言いたい放題ではないか、と浅井は憤慨したが、それもほとんどふりではあった。本心ではないことは波多野の表情が何よりも物語っている。うまく顔を背けたり、唇を震わせてごまかしたりしていたが、笑いを堪える動作であることは彼を知る誰にとっても明らかだった。


「浅井くん、これは弁護士としてではなく、私という個人からの質問なんだが」


 今後の流れを説明したあと、弁護士は机の上で手を組み、顔をガラスへと近づけてそう訊ねてきた。浅井は後ろに控える能面の職員を盗み見たが、彼が動く気配はなかった。


「私にはどうにもきみが世間で言われているような、単純な政治犯には見えないんだ」

「政治犯でなければ愉快犯ですかね」おどけたが、弁護士は表情を崩さない。

「崇高、というといささか語弊があるがね、何か私たちには及びもつかない理想を持っているような気がしてならないんだ。きみはなぜこんな罪を犯したんだ?」

「言ったじゃないですか。一方的にファンになったロックバンドを宣伝しようと思ったんですよ。調書にもそう書かれてるはずです」

「そんなことであれだけの事件を起こしたのか」

「そんなことであれだけのことをしちゃったんですよ」


 彼はつまらなさそうに親指と親指を何度か突き合わせ、舐めるように浅井を見つめた。期待に沿わない返答に落胆したのか、背もたれに体重を預けている。


「ただでさえ食料供給管の件で生活が揺れているときにする理由なんてないだろう。きみが流した映像はネットワークを通じて仮想現実の中にすら映し出されているし、いつでもよかったはずだ」

「今じゃなきゃだめだったんですよ」

「なぜだ?」

「弁護士さん、ロックって知ってます?」


 その質問で彼の顔が曇った。何を言っているのだ、と戒めるようでもある。


「人を揺り動かすなら不安定なときに限るじゃないですか」

「ふむ」頷きつつも彼は納得していない。

「屋代の事件はその点、好都合でしたよね。安全な場所にいた人を引っ張り出してくれましたから。そんな状況だとみんなわかりやすいものに縋り付いてくれる」

「本当にそれだけか?」

「本当にそれだけです」


 浅井が答えると、弁護士は深い息を吐いた。


「私は、何と言うか、この科学文明への批判と、それを疑いもせずに飲み込まれていく国家への警鐘があると踏んでいたんだがね」

「考えすぎですよ」浅井は苦笑し、かぶりを振った。「確かに、仮想現実とか、手触りのないものはそれほど好きじゃありません。でも、それを真っ向から否定するのはあまりに危険じゃないですか?」


 仮想現実の中で生きる人間にとって、その世界は確固たる現実なのだ。たとえ物理的な現実でなかったとしても、それは決して崩せない。彼らの生きる場所を外圧的要因で規定するつもりはまるでなかった。

 浅井が変えたかったのはあくまで人の意志だった。

 現実へと出てきたいなら出てくればいい。出たくないのであればそのままでも構わない。ただ、狭い自分の領域の外に美しいものがあると知って欲しかったのだ。たったそれだけで人は変わることができると信じていた。


「きみがそう言うなら、別にそれでも構わないんだがね」


 浅井の意見に穏健で日和見主義的なくだらなさを感じたのだろう、弁護士の表情に滲んでいた仲間意識にも似た親密さはどこかへ消えていた。「それじゃあお元気で」と格式張った挨拶をして、彼は部屋を去っていった。浅井はしばらく開きっぱなしの扉を見つめていたが、足音もなく忍び寄ってきた能面職員に肩を叩かれて仕方なく腰を上げた。

 わざわざ答えを告げる理由はない。自分自身で意味を見出せなければきっと誰も変わることはないだろう。弁護士の反応に少し不安になりながら必要以上に清浄な面会室を退出する。


 面会終了後、浅井には報道を確認する時間が与えられた。

 明確な刑の執行時刻はまだ通達されていなかったが、弁護士の説明では、翌日の早朝に体内に埋め込まれた通信装置や極小型の外部記録装置を除去する手術が行われる、という予定があった。それに従ったならば昼にはこの国から放り出されるはずだ。

 ニュースを目にするのもこれが最後になるかもしれない、と浅井は硬い椅子に座りながら投影された映像を見やる。しかし、目の前で垂れ流される報道番組には関心を惹くものはこれといってなかった。罵倒めいた言葉は並べられていたものの他人に侮蔑されたところで悲痛に暮れる理由はない。なかったことに、気がつく。コメンテーターが深読みも甚だしい意見を神妙に並べていたのがおかしくすらあった。

 儀式に飽きた浅井は映像を早送りにし、後ろに控えていた職員に告げる。


「問題ないでしょう」

「そうか」と男はぶっきらぼうに言い、靴を鳴らして隣まで歩み寄ってくる。「じゃあ房まで戻るぞ」


 促され、浅井は立ち上がる。早送りのままの映像を何の気もなしに一瞥し、そこで、身体が硬直した。「ちょっ」予想もしていなかった映像に舌がもつれる。「ちょっと待ってもらえますか」

 男は不機嫌そうに「どうした」と浅井の肩を掴んだ。痛いくらいの力で揺すられたが、目は映像に釘付けになって離れない。


〈エイブラハムの樹〉だ。


 流れている映像の中には借りてきた猫のように大人しく椅子に座る彼らがいる。慌てて彼らが紹介されるシーンまで戻した。

〈エイブラハムの樹〉も事件の当事者として取り沙汰されている。罪の重さを自覚させるように確認を強いられる報道番組や弁護士の男から何度も聞かされており、その事実は知っていた。活動の自粛を求められているもののなんらかの罪に問われることはないらしい。当然だ。彼らは浅井の犯罪にわずかも加担していない。そのために浅井は何も伝えずに去ったのだ。認可された施設で音楽を演奏していただけの彼らを裁ける法などあるはずがなかった。

 しかし、世論であるとか警察からの追及が数日で収まるはずがないことも、また事実だ。取り調べが連日続いているのだろう、彼らの表情には暗く淀んだ疲弊の色が滲んでいた。


 映像を再生させる。女性が〈エイブラハムの樹〉に質問を投げかけ、彼らがそれに答えるという形式であるようだ。投影された映像にはスタジオをバックに、やや興奮気味に趣旨を説明するインタビュアーが大写しにされていた。


『今、この国にはかつて類を見ないほどの危機が訪れています。今日は事件の渦中にいる〈エイブラハムの樹〉のみなさんに独占インタビューをする機会を得ることができました』そこでカメラが切り替わり、〈エイブラハムの樹〉の面々が映し出される。『皆さんは浅井被告とかなり密接な関係であったようですが、本当に事件に関与していないのですか?』


 彼女の口調は世間の代弁者として糾弾するかのようでもあった。言葉の裏から事件との関連を望むようないやらしさが溢れている。それを知ってか知らずか、桐悟は怒り心頭といった具合できっぱりと否定した。


『当然ですよ、いい迷惑です。あいつが勝手にやったんですよ。深く物事を考えていないんですよ、あいつは』

『いろいろやってくれたけど、あ、くれましたけど、ライブライブうるさかったです』


 画面の端から出てきた隼の姿に口元が緩んでいく。最後の一回は別だが、誰よりも賛同していたのは隼で、さも強制したかのように論うのは心外だった。この期に及んで関係のない悪評を流すなよ、と浅井は心中で反論する。

 反論するが、いやな気分ではなかった。


『浅井被告ともそうですが、屋代受刑者との繋がりも噂されてますよね。なんでも彼の経営していた料理店で働いていたとか』

『え、あの、それは、あの』


 インタビュアーの矛先が向いたのか、滝が狼狽する。彼女はしどろもどろになりながら答えようとしていたがうまくいかず、隣に座る良志に縋るような視線を送った。弱々しく求められた助けを汲み、良志が口を開く。


『面識はありますが、それだけです。店にも頻繁には来ていなかったそうですし』

『狙ったように配給会場で演奏を行っている映像も残されていますが』

 良志はちらりとカメラを覗き、返答する。『さあ、そこまでは』

『自分たちには関係がないと?』

『ええ』

『では、彼らが結託した、ということは考えられますか?』

『それはもう俺たちにはわからないことです』


 彼らの問答は十分ほど続いた。普段の言動であるとか、出会いであるとか、番組側には浅井の凶暴性や反社会性を暴きたがっている節があったが、〈エイブラハムの樹〉から出てきたのは犯罪者への批判と言うより友人への愚痴めいた罵倒ばかりで、期待にはそぐわなかったようだ。不満を漂わせたインタビュアーは『最後に』と投げ遣りな口調で言った。


『最後に窺いますが、皆さんにとって浅井被告はどのような人物でしたか?』


 あまりに漠然とした質問ですぐに声を発する者はいなかった。浅井と出会った日から今日までの出来事を振り返るように、四人が目を瞑り、唸っている。

 インタビュアーは『率直な意見でいいんですよ』と付け加え、それからただ一人、興味がなさそうにそっぽを向いていた美波に目を注いだ。超然とした雰囲気を保ったままの彼女はそれまで一つも質問に答えておらず、それが険悪さの象徴であると判断したのだろうか、『あなたはどうですか?』と促す。


『私?』


 美波の涼しげな声が響く。ぶっきらぼうな物言いを崩しておらず、それがおかしくもあった。


『どんな人物って言われても』

『簡単にでいいんですよ。あなた自身の考えをお聞かせください』

『……浅井と行動していた期間は短いし、一言で言うのはちょっと難しいけど』


 美波はそこで言葉を切って、目を瞑り、ゆっくりと開いた。録画された映像の中にいる彼女と目が合ったかのような錯覚に襲われる。嫋やかな微笑みを浮かべた美波を、浅井はじっと見つめた。


『私たちは浅井に何一つ感謝しておりませんし』


 え、と戸惑い、あ、と声を上げそうになった。

 ――敬語だ。


『犯罪の片棒を担がされたみたいでとても困惑しております。みんな浅井とは二度と会いたくないと考えているでしょう』


 突如として吐き出された暴言にインタビュアーの女がぽかんと口を開け、固まる。

 いちばん早く反応したのは滝だった。彼女は目元を拭い、大げさに頷いて朗らかに追従した。


『そうですね、もう会いたくないです。本当に出会えてなければよかった、ですのに』

『最悪でございますよ』と隼がわざとらしく言い、破顔した良志が桐悟に視線を送る。だが、桐悟は「もう言った」と言いたげに目を逸らした。


「……ずいぶんひどい言われようだな」


〈エイブラハムの樹〉があまりに公然と罵倒したからか、刑務官でさえ同情を示した。頬を掻きながら、浅井は表情を悟られないように顔を背ける。


「会いたくない、って言われちゃいましたね」


 胸の内側で熱い塊が蠢き、むず痒い。静かに息を吐く。ともすれば震えそうになる全身の筋肉を必死に抑えていると『では、ありがとうございました』という声が聞こえた。それからインタビュアーが『〈エイブラハムの樹〉の皆さんには番組の最後で演奏をしてもらう予定となっています。お見逃しなく』とつらつら述べる。慌てて顔を上げると、浅井の目の前から〈エイブラハムの樹〉の姿が掻き消えてしまった。準備された映像が終了したらしく、無機質で滑らかな壁だけが残されていた。


「番組の最後、お見逃しなくって言われたんですけど」

「事件とは関係がないだろう」


 少しくらい許してくれよ、などと要求できるはずもなく、浅井は追い出されるようにして閲覧室から退出した。あのまま座っていれば彼らの音楽が流れ始めるのではないかと未練がましく壁を見やったが、音も鳴く扉は閉じられてしまった。

 心残りはあったが、同時に喜びもあった。非合法な手段を用いずとも彼らは自身の音楽を届けられる場を手に入れている。悲観的になって彼らの今後を憂う必要はない。小さなライブハウスで誰にも届かない音楽を奏でていた彼らはもういないのだ。

 そこでふと、まだこの国には彼らと同じような人間がいるのだろうな、と思った。自己のあり方に苦悩し、鬱屈とした生活を送っている人々に〈エイブラハムの樹〉の音楽が伝わって欲しい、と浅井は密かに願う。


          〇


「重大犯罪における特例措置に基づき、被告人を追放刑に処す」


 感情のない執行官の声が刑務場に反響した。強化ガラス製の透明な扉が開かれ、浅井は黙ったまま足を踏み出した。事前に欠けられていた手錠は冷たく、重い。

 背後に位置を取った二人の護送官に背中を押され、執行官のあとを追う。通信装置や骨伝導装置などの除去手術で麻酔を打たれたせいで、指先には未だ痺れがあり、頭も岩のように重かった。

 塵一つない長い廊下、足音が這うように響いている。

 導かれて到着したのはエレベーターの前だった。同じ中央管制塔のものでも職員用のものとは比較にならないほど扉は小さかった。大人三人が横に並ぶこともできないほどだ。

 護送官に肩を掴まれ、浅井は扉の前に立たされる。音もなく扉が滑り、彼らとともに乗り込む。位置が決まっているのか、執行官と正対するように身体を押された。


「では、何か言い残しておくことはありますか?」

 執行官の過剰なほど事務的な口調に笑いがこみ上げる。「なんか殺し屋みたいな言い方で怖いですね」

「ないんですか?」

「いえ、ありますあります」


 浅井は慌てて返答し、それから言うべきことを考えた。言葉にしたところで臨んだ人に伝えられるとは思えなかったが、気持ちを整理する一つの儀式だ、損があるわけもない。ただ、見知らぬ他人の前で長々と心情を吐露するのも気恥ずかしく、簡潔にまとめることにした。


「……〈エイブラハムの樹〉はどうでした?」


 良心の呵責を感じさせない言葉だったからか、それとも質問に答えようとしたのか、執行官は眉尻をぴくりと震わせる。浅井は返答を待ったが、その沈黙を発言する意図なしと認めたらしく、執行官は「確かに聞き届けました」とだけ静かに言った。

 ゆっくりと扉が閉まる。浅井と護送官二人を乗せたエレベーターは上昇を始めた。


「……いやあ、俺、追放刑なんて初めてだから肩凝っちまったよ」


 内臓を掴むような上昇の感触が身体の奥に染みこんだかと思えば、突然、それまで四角四面な態度だった護送官が砕けた声色で嘆いた。この国の最高刑が執行されているんですよね、と思わず確かめたくなるほどの暢気さで、彼らは雑談を始める。他人を論えるほどほど誠実な職務態度ではなかった浅井も眉を顰めたくなるほどだった。


「あの」

「なんだよ、犯罪者は黙って項垂れてろ」


 辛辣な口調で一喝され、浅井は従うしかない。腑に落ちないやるせなさを感じ、じっと終着点への到着を待つことにする。その間も彼らは場をわきまえない雑談を続けていた。

 やがてエレベーターの上昇が停止し、扉が開く。「下りろ」と短く指示されて、浅井は一歩足を踏み出した。淀んだ生ぬるい空気が肌を包む。咳き込み、周辺を見回す。剥き出しの鉄骨には肉を削いで露わになった骨のような生臭さがあり、埃にまみれた狭い通路は仄暗く、暗鬱とした感情を高める重い雰囲気に満ちていた。霞がかっていると錯覚するほど見通しが悪い。奥に金属の分厚さを感じさせる無骨な扉が設置されてあるのが辛うじて見えた。


「進め」


 左後方にいる護送官に押されて歩を進める。

 扉の前まで辿りつくと彼らは両脇にあるセンサーに手のひらを押し当てた。一瞬の間があり、老人の咳払いを思わせる重苦しい解錠音が身体を揺らした。扉の向こうにも同じような道がある。再び促されて、前へと進んだ。

 それを何度か繰り返したとき、右に控える護送官がとってつけたかのように「そういえば」と言った。不自然な歯切れの悪さがあり、歩行が滞る。


「そういえばお前、〈エイブラハムの樹〉の曲、聴いたか?」


 聞き慣れた名前に顔を上げ、振り向く。右の護送官は窘めるように睨み、「お前は下を向いていろ」とにべもなく言った。

 左の護送官が答える。


「聴いたよ、当たり前だろ。音楽なんて全然聴いてなかったけど、あれはよかったな。音が生きてるみたいで」


 そうなんですよ! と浅井は同意を示しそうになった。勤務態度の割にはわかってるじゃないですか、と声に出さずに賞賛し、気付かれないように彼らの顔を覗き見る。活力に溢れた明るい表情がそこにはあった。


「噂で聞いたときは色物かと思ったけど、本物だったな」

「すごい評判らしいぞ。俺の知り合いが子どもに楽器をねだられたって言ってたし」

「楽器なんてどこで売ってるんだよ」

 左の男は「だよなあ」とぎこちなく応える。「音源も公開されたし、楽器なんて売ってても買えなくなるだろうな」

「音源?」その単語に浅井は思わず立ち止まり、声を上げていた。「音源が公開されたんですか?」

「なんだよ、いきなり」右の男が背中を押す。

「公開されたらなんなんだ」左の男が顎で前進を促す。


 浅井は進みながら、彼らの返答を待った。後ろでは彼らが顔を見合わせているような雰囲気がある。


「公開されたからってお前が外に持って行けるわけないだろ」

「犯罪者にそんな権利があると思うなよ。俯いてろ」

「てことは公開されたんですね」


 彼らは苦々しげに唸りながらぶっきらぼうに肯定した。それから、「お前は会話に参加するな」と戒めるように呟いた。

 音源が公開されているのか。

 抑えきれない衝動が沸き上がる一方、煩悶と無念が胸に注がれる。決して破れない分厚い壁の向こうに何よりも欲しいものがあると思うと未練が燃え上がり、皮膚を炙った。しかし、彼らの言うことも事実だ。音源を手に入れたところで外に持っていく術などない。追放刑に処された浅井には粗末な服と靴しか与えられていなかった。

 護送官をなぎ倒し、どうにかしてあの国に戻れないか、と不穏な閃きが生まれる。だが、見るからに屈強な彼らを卒倒させることなど手を拘束された浅井には不可能な話だった。

 できることは未だ続いている歓談を、歯を食いしばって聞き流すことだけだ。


「いやあ、俺も思わずダウンロードしちゃったんだよな」聞こえよがしに右の男が言う。「外部記録装置にも保存したくらいだ」

「わざわざすることじゃないだろ」

「検索させるよりこっちのほうが早いんだって。持ち歩いてればすぐに渡せるしな」

「ずいぶん当てられてるな」左の男は鼻で笑い、それから台本をなぞるようにして、言った。「もしかして持ってきちゃいないだろうな」

「よくわかったな、このポケットに……あれ、入れてきたはず、なんだが……」


 そのとき、かつん、と床を叩く音が浅井の鼓膜を強かに震わせた。それほど大きな音ではなかったというのに、それがどこで発生したのか、すぐに把握する。

 項垂れながら歩いていた浅井の足下で円柱状の物体が転がっていた。

 記録媒体だ。

 後ろを歩いていた護送官たちが立ち止まっている。右の男がズボンのポケットを大袈裟にひっくり返している。気付いていないはずがない。指一本ほどの大きさである記録媒体が落下した様子が彼の視界に入っていないのはおかしい。

 静かに、心臓が高鳴る。


「あれ、どこかに落としたかな」とわざとらしく嘯く男を横目に浅井はしゃがみ込み、記録媒体をつまみ上げる。彼らは浅井の一挙手一投足を、目を逸らしながらも確かめ、だというのに咎めようとする素振りを一切見せなかった。

「おい、お前、知らないか? ずっと下を見てただろ」


 左の男が抑揚のない声で追及してくる。浅井は彼らの表情が綻ぶ一瞬を見逃さなかった。

 なんだよ、下手くそめ。

 繋がれた両手で記録媒体を握りしめ、快活に応える。


「知りませんよ、そんなの」

「おかしいな、確かに持ってたはずなのに」

「まあ減るもんじゃないからいいだろ。拾ったやつも感謝するだろうし」

「それもそうか」右にいる護送官は気恥ずかしげに笑い、続けた。「ほら、行くぞ」


 それきり彼らの会話は先ほどまでが嘘だったかのようにぴたりと止んだ。沈黙が訪れ、靴音だけが規則正しく鳴っている。その静けさは浅井にとって朝の木漏れ日のような心地よさに溢れていた。暗く、淀んでいたはずの狭い通路が浸りに満たされているかのようだった。

 再び辿りついた扉の前で護送官たちは「これが最後だな」と声を揃える。彼らは鍵を開き、浅井の手錠を外した。


          〇


 背後で扉が閉まる音がした。

 これで本当に〈エイブラハムの樹〉――桐悟や隼、良志、滝、美波であるとか、波多野とは断絶してしまった。きっと彼らと顔を合わせることは二度とないだろう。

 寂しくはあったが、嘆く気もなかった。

 浅井は手の中にある記録媒体を見つめる。外にデータを読み取る機械とスピーカーはあるだろうか。すぐに見つかれば何よりだが、慌てる必要もない。持っていることと持っていないことの果てしない差異と比べたら些細なことだ。

 音楽を落とさないように強く握りしめ、周囲に視線を彷徨わせる。


 今まで歩いていた分岐のない一本道ではない。何かの施設のような趣があった。壁には掠れた文字と矢印がある。何と書いてあるのかは読み取れなかったが、ひとまず矢印に従うことにした。

 進むごとに段々と空気が澄んでいく。どうやら外は近いらしい。右に曲がり、進み、左に折れる。人の気配がしない通路の端に強い光が差し込んでいる扉を見つけた。

 噂を思い出す。

 国の外は毒の空気が蔓延する死の世界である。あるいは、過剰に生長した植物に覆い尽くされた鬱蒼とした密林である――。

 だが、溢れてくる光には噂のような危険な雰囲気は感じられない。むしろ柔らかな暖かさがある。浅井はそっと扉に手をかけて、意を決し、開いた。


 視界に飛び込んできたのは風に吹かれて揺れる緑色の地面と青く輝く湖、そして穏やかに雲が流れる空だった。鳥が群れをなして飛び、息を吸うと草の匂いが肺に満ちる。果てのない風景に浅井は立ち尽くすことしかできなかった。


 空には細く長い雲が平行に五本、並んでいる。歪ではあるが、五線紙のようにも見えた。

 浅井はその雲の名前を知っている。雨の前兆の、雲。

 噛みしめるように空を見つめ、心の中で〈エイブラハムの樹〉に告げる。きみたちの音楽は人を変えたぞ、と。こうして音源を手に入れられたのもそのおかげだった。

 しばらく立ち尽くしたあと、浅井はゆっくりと足を踏み出した。草は柔らかく、雲を踏みしめているような感触がした。この足の下に、今まで自分が操作していた空があるなどとは到底信じられなかった。


 小高い丘の上で、どこまでも広がる自然を眺めていると麓にある小さな家が目についた。遠くて見えづらいが、集落があるようだ。人が動いているのがわかる。そこを目的地として進むことにした。

 底の薄い靴は歩行の衝撃を緩和せずに踵へと伝える。いかに自分が行き届いた生活を享受していたか、身に染みて実感した。下り坂を歩いているせいもあるのだろうが、疲労が蓄積し、ふくらはぎの中で小さな球体が動いているような感触が生まれている。それでも歩き続けると人の輪郭が次第にはっきりとしていった。


 正面で動いていたのは男だった。

 屋代だ、と思い当たるのに、そう時間はかからなかった。

 二日前まであの国の話題の中心にいた、世紀の大犯罪者が呆然と浅井を見つめている。彼は声も出さずにまばたきを繰り返し、間違い探しに熱中する子どものように視線を少しも外さなかった。やがて彼の表情が柔らかくなっていく。驚愕の中に感激が溶けていくのがはっきりと見えた。同時に、疑問の色も強くなる。言葉にはされなかったが、どうしてここにいるのだと問いただすかのような気配があった。


 何から話すべきなのだろうか。何を言っても「弁明にしてはあまりに拙い」と囃される気がした。

 浅井は草を踏みしめて近づいていく。まずは彼が去ったあと自分が何をしたか、それから可能ならば〈エイブラハムの樹〉の音楽を聴かせてやろう。伝えたいことは多く、また、彼に訊きたいこともやはり多かった。そして、この世界の距離であればそれが許されるはずだと思った。決して埋まらないかと思われた断絶はもはや存在しないのだ。


 空は爆破した。

 青春の飛来を妨げる障害物はなにもない。




         『爆弾に夕立を添えてお召し上がりを』〈了〉

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