飲食店の救世主

 屋代の行動は早かった。両親の住むマンションを出るとすぐにタクシーを捕まえ、そのまま〈ヤーン〉へと向かった。開店までは時間があったが鍵は開いており、中に入ると酒を飲みながら豪勢な賄いを食べる島田がテーブル席にいた。


「あれ、なんで」泡を食いながら、島田は口に詰めていた料理を飲み込む。「屋代さん、何してんの」


 その声に屋代は不思議な安心を感じ、息を吐く。これまでの優柔不断が嘘のように、滑らかに言葉が出た。


「島田、下克上だ」

「は?」

「下克上だよ、お前、話してただろ。下克上したいって」

「記憶にはあるけど」島田は当惑を露わにする。「いや、何言ってんの?」

「お前にこの店を譲るって言ってるんだよ」

「ちょっと屋代さん、急になんなの? ついて行けないんだけど」


 苦笑を漏らした島田は唐突さからか、真剣に取り合っている気配はなく、質の悪い冗談だと決めつけているようだった。


「島田」


 もう一度力強く、彼を呼ぶ。するとアルコールの弱い酒を飲んでいた島田も次第に冗談ではないと気付き始めたのか、表情から軽薄さが消えた。屋代は息を吸い、静かに続ける。


「この店を、お前に譲る」

「もしかして」と島田はグラスを置いた。「もしかしなくても、本気、だよね」

「ああ、本気だ」

「あのさあ、屋代さん。一つだけ言わせてもらうけど、屋代さんが店を譲るって言っちゃうと下克上にはならないよ」


 戸惑いを滲ませながら言葉尻を捉える島田に、屋代は相好を崩した。確かにそうだ。下克上と言うからには島田が決め台詞を発し、屋代は項垂れていなければならない。闇討ちがごとく店へと飛び込み、食事をしている人間に命令するのはどちらかと言えば左遷に近かった。

 屋代が伝えるべき言葉を考えていると、島田は頭を掻く。彼は大きな息を漏らしたあと、姿勢を正して言った。


「屋代さん、俺は馬鹿だけどさ、さすがに理由を聞かなきゃ収まりがつかないよ。確かに最近は屋代さん店に来てなくて俺が好き勝手にやってたけど、それとは話が違うじゃん」

「理由が必要か?」

「この世でいちばん大事なものは理由だよ。理由のない行動が人を堕落させるんだ」


 彼は真剣な眼差しで明瞭に断言した。果たしてその言葉が正しいのか、屋代には咄嗟に判断できなかったが、潔さは感じた。理由のなさの塊とも言える両親の姿を目の当たりにしてきたから、余計にその思いは強度を増している。理由なく子どもを捨て仮想現実に没頭する両親がこの世でもっとも堕落した存在にも思えた。


「そうだな……実は――」

「あ、屋代さん」と島田は屋代の言葉を遮る。「どうせばれないと思って口から出任せ言ったら俺も黙ってないからね。愚弄されていると看做して激怒するから」

「……それは怖いな」


 屋代は溜息を吐き、改めて真実を言うべきかどうか、悩む。

 だが、それも一瞬だけだった。

 真実を告げない理由がない。

「実はな」と言いつつ、屋代は島田の正面に腰を下ろし、説明を始める。頼むから賛同してくれよ、と願うが、島田には伝わらない。早くしてくれよ、と彼は配膳を待つ客のように屋代を急かした。


          〇


「そうだな、島田、お前が仕事をせずに仮想現実の中で暮らしているとするだろ」

「日々労働に勤しむ俺が、仕事もせず、仮想現実の中で暮らしてると仮定するんですね」


 島田の皮肉めいた語調に「余計な口を挟むな」と一喝する。


「余計な口を挟まない俺がいる、としましょう。わかりました」


 じろりと睨むと島田は眉を上げ、すみませんちゃんと聞きます、と繰り返した。屋代は咳払いをして、続ける。


「極論、今の世の中ではそれでも生きていける。科学技術の人体実験場みたいな国だからな。他の国にフィードバックして莫大な金銭が入ってくる。そして、多くの国民はその恩恵を享受して機械で自動生産されるメシを食い、仮想現実空間の中で遊んでいる」

「実際にただ遊んでいるだけ、のやつはその半分くらいだったっけ」



 そのうちの二人が、彼らだ。両親を、今や両親めいた存在に成り下がった男女の例を挙げることに迷いはなかった。


「俺の親がそうだった。働きもせず、仮想現実の中で漫然と過ごして、俺をほったらかし、挙げ句の果てにその世界で介護用のAIと戯れていた」

「なに、それ」


 島田は表情を歪め、それからまるで自分のことのように激昂し、テーブルを叩いた。グラスの中の液体がぐらりと揺れる。屋代は島田の怒りに思わず目を細めた。


「事実だ。今日確認してきたよ。まあ、そこまでとはいかないとしても、お前もそういった存在だと想像してくれ」

「首を吊るね」自身の首を絞める真似をして、島田は吐き捨てた。「そうでなくても自尊心で窒息死する」

「そういった奴らが生きるのに必要なのは栄養と関係性だけだ」

「まあ、うん、一理はあるかも」

「俺はそれを脅かすんだ」


 それを伝えた瞬間、店の中から音が消えた。飲み込めなかったのだろう、島田は、オビヤカス、と異国の単語のように、おうむ返しにした。


「オビヤカスって……どういうことかよくわからないんだけど、屋代さん」

「関係性は無理だとしても、食は簡単だ」

「ごめん、何言ってんの? 一軒一軒訪問して供給機を壊していくつもり?」


 島田の口ぶりから、住人を押しのけて供給機へとにじり寄り、鉄の棒を振り下ろす自分の姿が浮かんだ。滑稽な想像に噴き出しそうになる。


「そんなことはしない」

「じゃあ、屋代さん、食料工場でも襲おうとしてるの?」

「そんなこともしない。俺が壊すのは、その途中だ」

「途中」と口にし、理解したのか、島田の視線が床へと、あるいはそのさらに下にある食料供給管へと向けられた。「屋代さん、まさか」

「お前がどんなことを考えたかはわからないが、そう違わないだろうな」


 屋代は大きく息を吐き、背もたれに体重を預ける。


「……俺は、食料供給管に爆弾を仕掛けたんだ」


 島田には既に土建業が本職であると説明してある。それだけに荒唐無稽だという指摘は飛んでこなかった。むしろ現実味を帯びたらしく、島田は明らかに狼狽し、泣きそうな顔になっていた。


「仕掛けたって、待ってくれよ、屋代さん! ……もう、やった、ってこと?」

「そうだ」

「そんなことしたら!」と彼は立ち上がる。「……追放刑ものじゃんか」

「だろうな」

「国の外がどうなってるのか、知ってるのかよ」必死の形相で彼は捲し立てる。「一息吸えば死ぬほど汚染されてるとか言うだろ。水を飲んだら死ぬまでのたうち回るって聞いたこともある!」

「あのなあ、島田。一息吸えば死ぬほど空気が汚染されてるなら、どうやって水を飲むんだ? ただの噂だ。だいたい、他の国はこの国みたいに閉じこもっているわけじゃない」

「そうかもしれないけど、わからないじゃん。情報統制とかで外の情報は入ってこないし」


 非現実が蔓延するこの国の住人はここでしか生きていけないと頻りに吹聴するが、確証のない流言飛語だ。だが、それを伝えても島田は使い古された不安要素を、まるで自分の発想であるかのように列挙した。


「環境汚染とかさ、新しい病原菌とかさ、そういうの屋代さんだって知ってるでしょ?」

「概念は知ってる。けど、外がそうなってるとは信じていない」

「じゃあ百歩譲ってそうだったとしてもそれでどうなるんだよ……なんで屋代さんがそんなことをするのか、理由を聞かせてくれよ!」


 落ち着け、と屋代は島田に座るように促した。落ち着いていられるかよ、と島田は鼻を膨らませたが、見つめているうちにやがて腰を下ろした。


「初めは……ただの衝動だったのかもしれないな」

「衝動で他の人の生活を妨げるのは理由のない暴力だよ。俺がいちばん嫌いなやつだ」

「ただ、この計画を考えたとき、面白くなったんだよ」

「面白いことなんか何もないよ」と島田は切り捨てる。「自分勝手に他人を困らせるなんて同情するほど頭が悪い。そりゃ俺だってこの国はおかしいとは思ってるけどさ」

「生活を妨げることじゃなくてな」


 怪訝な顔をしている島田に向けて、屋代は訊ねる。


「さっき、自分を仮想現実に入り浸っていると想像してくれ、と言ったな? それでメシが食えなくなったとき、お前ならどうする?」

「暴動を起こすよ」


 島田は米騒動だ、一揆だ、と拳を掲げた。食に困った人間が残る気力を振り絞ってする行動はいつの時代も自分たちを困窮させている存在への暴力的抵抗だ。だから、島田の言葉は正しい。


「暴動、かはともかく、部屋に閉じこもったままではいられないだろうな」

「俺なら犯人を出せって喚き散らすね。中央管制塔の前でシュプレヒコールだ」

「そうするやつもいるだろう」


 そこで屋代は頷き、それからゆっくりと破顔した。


「その後でな、不満を空っぽになるまでぶちまけた後、そいつらはどうなる? そういうやつらは決まって腹の中も空っぽになっていることを知るんだ。だが、家に帰ったところでメシは食えない」

「それがどうしたって言うんだよ」

「なら、どこで食えばいいんだ?」


 そこまで言うと彼にも屋代の考えが伝わったようだった。

 島田はしばらく沈黙し、それから「あ」と素っ頓狂な声を上げる。「馬鹿じゃねえの」と嬉しそうに噴き出し、「家でメシが食えないなら外で食うしかないね」と頷いた。


「そいつらはその場で会ったやつらと俺のことを罵りながらこう言うんだ。『屋代とかいうやつは許せねえけどとりあえず腹拵えしなきゃどうにもなんねえな』」

「きっと、そうだ」

「で、どっかの、被害を免れたレストランだとか食堂だとかに入っていく。大抵は金がないから安い店だろうが」

「大いに盛り上がるよ」その騒ぎが明確に頭に浮かんだのか、島田は目を輝かせた。「店内が『屋代死ね』の大合唱だ」

「そいつらは普段一人でメシを食ってる。どんなものを食うかはしらないが、そこで意気投合しながら食うメシの美味さに気付くはずだ。人間はそういうふうにできている」

「大半は不満を漏らしながら家に帰って仮想現実に引きこもるんだろうけど……もしかしたらそうやってメシを食うのも悪くないって感じるやつもいるかもね」

「俺はそれを期待してるんだ」


 屋代はその姿を想像し、穏やかに笑う。


「一人で静かに食事をするのは悪いことではない。ただ、馬鹿騒ぎしながら腹一杯になるまで詰め込むってのはずっと続いていたはずの営みじゃないか」

「それは間違いないよ、屋代さん」

「ここにも人が大勢来るかもしれない」

「待ちきれないやつも出てくるかもね。うちは全部手作りだし」

「そいつらはきっと驚くだろ。食事ってこんないいものだったのかって仰天する」

「メシ屋の陰謀、ここに極まれりだよ」


 そう言って、島田は一際大きな笑い声を上げた。最低だよ、と腹を抱えながら屋代を詰り、屋代は「最高だろ」とおどける。すると島田は呆れの混じった顔で「最低で、最高だよ」と呟き、「メシ屋とメシアって似てるね」とくだらない駄洒落を楽しそうに言った。飲食店の救世主だ、と。


「もちろん、すべてが俺の想像通りになるはずもないだろうけどな。どうせ追放刑になるから結果は見られない」


 その言葉を聞いて島田の表情に影が差した。そっか、と彼は寂しげに俯く。実際に「寂しくなるね」とも口にした。


「……悪いな」


 屋代は小さく頭を下げる。

 計画を実行する決意を鈍らせたのは偶然雇うことになった島田の存在が強かった。学があるわけでもなく、美人を目にするとすぐやに下がる彼は自由奔放で目が離せず、いつだって人の中心にいる。それだけにこれから彼を蔑ろにするのは後ろめたくもあった。

 屋代はもう一度謝ろうと顔を上げる。正面にいる島田と視線がぶつかり、そこで言葉が出なくなった。


「ねえ、屋代さん」島田はすべてを納得したかのように清々しい表情を浮かべていた。「俺はさ、屋代さんのすることが決していいことだとは思えないんだけど……でも、悪いことだとも思えないんだよね」


 彼の善悪の基準は真理に近い場所から与えられている――以前からそう信じていただけにその言葉だけでだいぶ救われたような気持ちになった。たった一つ、自分を許す何かがあれば心は楽になる。免罪符を手に入れたようにも感じられた。


「じゃあ、島田、後は頼む。そのときが来たら前みたいに『家で好きなもの食える』とか嘆くこともできないからな」

「それは困るなあ」と島田は苦虫を噛みつぶしたかのような顔で伸びをして、わざとらしく「面倒だ」と舌を出した。それから、ぽつりと言葉を溢す。「……屋代さん、もうこの店に来ないんだね」

「そうなるな」

「いろいろ大変になるなあ」

「がんばれよ」屋代はその一言に万感の思いを込める。

「他人事みたいに」

「他人事だからな」

「爆弾魔のくせによく言うよ」


 その口ぶりに波多野とこの店で食事したときのことを思い出した。彼に計画を教えていてよかったと本心からそう思う。

 重要なのはきちんと人に伝えることなのだ。他の誰かによってではなく、自分の意志で伝えれば、何かが変わる。結果に落胆や失望を覚えるかもしれない。だが、少なくとも伝えないままでいるよりずっと気分が晴れやかだった。

「屋代さん、がんばってね」と島田が柔らかく微笑む。

 話せてよかった、と屋代は満足感を胸に立ち上がった。じゃあな、と別れを告げ、出口へと歩く。島田は「またね」と言いかけたあとで「じゃあね、屋代さん」と言い直した。その言葉の暗い寂寞が胸をつつく。


 また、と言い合える関係性が他ならぬ自分の手で切れてしまった。自分が本当に欲していたものを捨てる悲しさに顔を顰める。これでさよならか、と屋代は振り返り、少しでも目に焼き付けておこうと〈ヤーン〉の店内を眺めた。

 木製のテーブル席が三つ、窓ガラスを彩る手作りのロゴ、壁に掛けられて愛嬌のあるオーナメント、ずいぶん昔に消えた曲を流したスピーカー、悪戯書きにも似たトイレを示すピクトグラム、壁に書かれた人気メニュー、厨房と客席を分けるスイングドア、四脚の椅子が等間隔に並んだカウンター、その上にあるさまざまな酒、瓶の隙間から垣間見える狭苦しい厨房、調味料と調理器具。

 身体に埋め込まれたあらゆる装置は追放刑の際に取り除かれる。そうなってもこの風景を覚えておきたかった。


「どうかした?」


 今さら怖じ気づいたの、と島田がからかうように呟く。急かしたわけではないだろうが、屋代は曖昧に首を横に振って、店を後にした。からんからん、とドアベルが軽妙な音を立てて揺れた。

 熱気に温められた外の空気を吸い、空を見上げる。

 ビルに隠された空は青く澄み切っていて、その先にある新天地を思うと胸が高鳴った。身体の中に強く残る寂しさを押し殺し、最後の準備をするために自宅へと歩を進める。


 島田の声が路地に響いたのはそのときだった。

 振り向くと彼が〈ヤーン〉から飛び出してきている。「屋代さん!」と息を巻いて、彼は屋代へと詰め寄ってきた。肉薄し、方を掴まれて屋代は大いに戸惑う。


「なんだ、きっちり別れたのに台無しだろうが」

「でも、気になったんだよ」

「何がだ」


 まだ何かあるのか、と呆れながら島田の腕を振りほどく。もう伝えるべきことは伝え、目に収めるべきものは収めていた。これ以上の会話は蛇足だ、と諭すと島田は「蛇の足なんかじゃねえよ」と鼻息を荒くした。むしろ龍の眼だよ、と不満を露わにして、彼は地面を強く踏む。


「屋代さんがいなくなったらさ、店長になった俺がぼろくそに言われるんじゃねえの?」

「ああ」伝え忘れていたことを思い出し、屋代はごまかすように島田の肩を叩く。「気付くなよ」

「前言撤回だよ、あんた、最低じゃん!」と島田は笑いながら天を仰いだ。

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