腐敗

        【屋代 4】



 七月に入り、梅雨が明けたことで週間天気予定も晴天が続いていた。波多野がまた遊んでいるのだろうか、気温は三十度を超えていて、街を歩くと運動する市民たちの喘ぎがひっきりなしに聞こえた。

 久しぶりの休日だった。

 計画をつつがなく進行させるためには精力的に仕事を入れなければならず、休みを取る暇がない日々が続いていたが、それも一段落しており、屋代は波多野の忠告に従うことにした。虱潰しといっても、会うべき人間は片手の指を余すほどだ。一瞬、浅井の存在が頭を思い浮かんだが、彼は高校時代を過ぎ去った思い出として記憶の奥底へ追いやっているに違いなく、候補からは外れた。


 浅井は今、どうしているだろうか。会ってみたいとは思ったものの連絡する勇気はなかった。彼が社会に迎合し、人生を謳歌していたとき、かけるべき言葉が見つからない。何より、そんな彼を目にしたくはなかった。

「友人」が単なる「知人」へと変貌するのはどんな理由があるだろうか。これほどまでに人と人が繋がりやすい時代だというのに、遊離症の罹患者であるというだけで明瞭な断絶が生じる。

 そのせいか、屋代が会っておくべきだと考えた人間は島田と波多野、あとは義務感から両親の顔が想起されたくらいだった。消去法で人間を選別するのは傲慢かもしれないが、数えるたびに折る指が左手に届くことはなかった。


 屋代は今、両親の住む集合住宅へと向かっている。

 彼らの家を訪ねるのは十数年ぶりで、それを自覚すると、足取りが覚束なくなった。舗装された道は泥濘に満ちた沼のように足を掴み、ときにゴムのように強く弾き返した。一歩踏みしめるたびに足下で複雑な感情が蠢くのを感じた。


 中心街から離れていくとともに人通りは目に見えて少なくなっていく。環境保全課によってくすみ一つなく磨かれた公園の遊具が虚しく光を反射していた。風に吹かれて揺らめく木々の葉は人の吐く二酸化炭素を探し求めるかのように、さざめく。

 大規模な区画整理など行われていないというのに、周囲の風景には郷愁の痕跡すら残っていない。軒を連ねる集合住宅はどれもが同じようなくすんだ鼠色をしており、区別するのが困難で、ともすれば迷いそうにもなった。

 周囲一帯に屹立する高層マンションは低所得世帯向けに建築された公営住宅だ。当初はその賃貸料の安さから入居者が多かったらしいが、人口の減少とともに利用者はめっきり減っている。利便性や景観の美しさよりも均一性を重視して作られた街並みには重苦しさばかりが目立っていた。


 今や無料同然で借りられるマンションの森を縫うように進み、屋代は足を止める。

 視覚補助デバイスによるガイドに「目的地到着」の表示が明滅していた。しかし、その外壁にも自動ドアにも記憶を刺激するものはない。

 気まぐれに道を流すタクシーがかたわらを通り過ぎていく。車の中には乗客の姿はない。屋代は両親が住んでいる棟に正対し、その特別感のなさに呆然とし、自身がここで暮らしていた日々を疑い、人の出入りがないエントランスをしばらく眺めた。家、という言葉の持つ暖かみはまるでない。巣だ。ヒトの巣。得体の知れない無機質さが発せられており、筋肉の奥、骨の表面に痒みが走った。


 意を決し、足を踏み出す。自動ドアが開き、エントランスに入ると耳元で機械音が鳴った。出した足を地面につける前に個人認証が終わり、正面に鎮座していた扉が誘うかのように横へと滑る。まだ個人認識票は生きているらしい。

 エレベーターに乗り込み、脇にあるセンサーの一つに指を近づけるとドアが閉まり、上昇を開始する。両親の部屋があるフロアの「9」が赤く点り、回数表示を示すクリーム色の光が数字を数えていく。一つ増えるたびに、口の渇きが強くなっていった。


「おかえり、よく帰ってきたね」などと迎えられると思っているのか? 自問自答する。最低限の食事と排泄行為でしか肉体を操作することがない両親はまさに社会病理を濾過した際に生まれる残滓そのものだ。痩せ細り、食器を持つのも不十分なほど仮想現実に没頭している彼らが別離した息子を暖かく歓迎するはずがない。

 機械音が響き、扉が開く。息を吸うべきか吐くべきか混濁し、喉元で鉄の塊が往復した。なんとかエレベーターから出ると音もなく扉が閉まった。


 ここまで来ると道案内アプリケーションの誘導はいらなかった。突き当たりを右に折れ、再び真っ直ぐ進む。奥から二つ目、九〇八号室。表札もない、冷たい扉。

 チャイムを鳴らすべく指を掲げ、ボタンに触れる前に逡巡し、屋代は結局押さないまま腕を降ろした。ドアノブを握る。再び個人認証が実行され、錠が外れる感触が手のひらを舐めた。ノブを捻り、引くとなんの抵抗もなくドアが開いた。

 稼働する空気清浄機の低い唸りが床を這っている。そのせいか、淀んだ空気の埃っぽさは感じられなかった。正面にある居間では全自動掃除機が滑っているのが垣間見えた。


「……ただいま」


 義務感と一抹の心当てから漏れた呟きは流動する空気に希釈され、宙に染みこむ。

 人の気配は感じられなかったが、両親が在宅している確信はあった。三和土たたきに投げ出されている汚れた靴、没入機の駆動音、何より彼らが外に出るはずがない。居間の手前にある部屋で医療カプセルじみた箱の中に横たわっている、その両親の姿が現実的なイメージとして浮上する。

 防犯システムの作動により両親は屋代の帰宅を認知しているはずだったが、彼らが姿を現す気配はなかった。屋代は靴を脱ぎ、廊下を進む。没入機が設置されている部屋の前まで来たところで勝手に部屋を開けて激怒された思い出が甦り、正面にある居間を覗くことにした。予期してはいたが、誰もいない。


 少し懊悩したものの、屋代は唾を飲み、両親の部屋へと踵を返した。幼少の頃にしたように扉に耳をつける。肉体的な反応からか、呻くような声が二人分、小さく聞こえた。両親の生命が保全されているという安堵にティースプーン一杯ほどの落胆が溶けていく。

 ノックする。返答はない。

 扉を開ける。

 両親はベッドを覆ったカプセルの中に横たわっていた。


 胃が爛れるように熱くなる。瞼を下ろし、浅く上下する胸からは寝ているようにしか見えない。だが、意識があることはわかった。かたわらに備えられた画面では仮想空間に創造された二人が動いている。

 画面の中に広がっているのは二十世紀、あるいは二十一世紀初頭と思われる風景だった。技術の発展こそが至上の幸福であると信じられていた時代、豊かさが溢れ始めた時代。かつて映画やフォトブックで目にした光景、科学に蝕まれる前の日本。牧歌的な景色の中、彼らは仲睦まじく歩調を揃えて歩いていた。

 元気そうだ、と屋代は冷笑する。

 現実の姿はまるで違うのに。


 並んで横たわる彼らは長らく外出していないせいか、肌が病的なほど青白く、腕や脚は枯れ枝のように細かった。皮膚は皺とひび割れで老樹じみていて、触ると砕けそうでもある。年相応以上に老化した顔からは水分が失われ、髪には雲脂ふけが付着していた。風呂にも入っていないのだろう、狼狽物の饐えた臭いが、空気清浄機が作動しているにも関わらず、かすかに漂っている。


「なあ、気付いてるんだろう?」


 屋代は外界への反応を示さない両親へと向かって、弱々しく呟いた。声はカプセル型没入機に付属したマイクに拾われ、音声媒体、もしくは文字媒体に変換されて彼らへと伝わっているはずだった。

 彼らは普段、どんな世界で生きているのだろうか。

 仮想現実はあらゆる制限から自由だ。技術が発達する過程にある亜現代で運動や芸術に傾倒することも、現代で現実とリンクした労働に勤しみ電子化された金銭を獲得することも、そうしてあらゆる人と物理的距離を越えてコミュニケーションを取ることも、できる。

 なんて素晴らしい、と屋代は歯ぎしりした。

 校舎裏の風景が去来する。浅井との会話が耳元で反復される。あの会話が記憶の捏造ではない真実だとしたら訊ねたくなった。なあ、浅井、これが進化かよ。今にも生命活動が停止しそうな現実の両親をじっと睨む。


 ――その瞬間、母親と目が合った。

 鼓動が高く跳ねる。屋代は飛び退きそうになる身体を必死に抑えた。彼女は物言わず、据わった目を向けてきている。長い眠りから目覚めたかのような気怠げな表情だった。


「……久しぶりだな」


 長年顔を合わせていなかった親に対しての第一声としては乾燥していたかもしれない。母は屋代の言葉に眉一つ動かさず、反芻しているのかのようにしばらく黙っていた。

 空気の流動が肌を引っ掻き、喉を絞める。機械の静かな唸りがやけに大きく聞こえた。

 しばらく待つと、やがて母親は「ねえ」と乾いた唇を動かした。不明瞭な発音だった。それがもどかしかったのか、彼女は舌で唇を舐めて、続けた。


「勝手に入ってこないで、って言ったでしょう」


 それきり母親は目を瞑り、声を発しなかった。動きを止めていたアバターが画面の中で再び躍動を始める。不揃いなビルが建ち並ぶ亜現代の道を、唯一無二の居場所のように闊歩し、彼女は隣にいる父へと寄り添う。父親は屋代への興味などまるでないかのような穏やかな表情をしていた。現実に横たわる、物質としての彼は呼吸すら煩わしそうに顔を顰め、小さく、緩慢な生命活動を行っている。

 屋代は呻きを漏らす。

 こんな仕打ちがあるのか、と歯を食いしばる。

 両親はどんな会話をしているのだろう。十数年ぶりに会った息子のことを話しているのか? そうであって欲しいとは願ったが、親しげに言葉を交わす彼らの横顔は屋代の期待をあまりにも軽々しく打ち砕いた。彼らの笑顔には屋代が見たこともない開放感が溢れていた。


「どうしたら」


 頭の奥が冷えていく。拳を握りしめようとするが、うまくいかない。


「どうしたら、俺を前にそんな顔ができるんだ」


 失望と怒りの混じった声が部屋の中に響いても両親の表情は変わらなかった。彼らを包む透明なケースが分厚い壁になっているのかようだ。どうすることもできない隔絶に空恐ろしいほどの寂寞を感じ、屋代は身を捩らせる。


「なあ、そこにどれだけの価値があるんだ? お前らが俺を作ったんだろうが。俺を捨てるほどの理由がそこにあるのか? ……教えてくれよ、そうしてる間にもお前らの身体は生きたまま腐っていってるんだぞ? 恐ろしくはないのか!」


 それまで背中を向けていた彼らの顔がこちらを向く。届いたのか? 屋代は知らず、一歩前へと脚を踏み出していた。

 今さら変わることは望んでいない。謝罪も求めない。ただ、行動を悔やみ、苦い記憶としてでもいい、自分の存在を刻みつけて欲しかった。

 何か言わなければならない――そう思って息を吸ったところで、言葉を失った。


 彼らの間に割って入るかのように、腰ほどの大きさの塊が突っ込んでいく。男児であると気付くのにそう時間はかからなかった。男児は小動物然としたあどけない表情で笑い、両隣にいる屋代の両親を見上げる。それから両手を肩ほどまでに上げ、二人の指を掴んだ。彼らは気恥ずかしそうにしながらもその手を強く握りしめる。親子はいちように満面の笑みを浮かべ、幸福の只中にあることを確認するように、互いに顔を見合わせた。

 男児はもっとも安価で手に入る、孤独老人向けの人工知能だった。

 不完全な人工知能は彼らにとって非常に都合がよいに違いない。あれは両親を楽しませるためだけに形成されているはずだった。人間の感情を完全に再現するに至っていない人工知能は、気味が悪いほどひたすらに、貼りついたような笑みを浮かべていた。


「……ふざけるなよ」


 声が震える。自分の中に存在するあらゆる負の感情が噴出し、肌が粟立った。


「気に入らなかったら作り直しか……必要じゃなくなったら切り捨てるのか! 俺は、データじゃない、お前らの遊び道具じゃないんだ。お前らは……」


 なぜ、俺を作ったのだ。その叫びは声にならなかった。子どもを産めば公的扶助を得られる、成長すれば金を稼いでくる、それだけだったのか? 陣痛に苦しみ、育児に汗を流し、俺を生かしたのは自分たちが贅沢をするための手段だったのか?


「お前らは人間じゃない!」


 ようやく声になった屋代の言葉にも、彼らはやはり反応を示さなかった。

 息苦しさに喘ぎながら画面に目をやる。そこには「外部からの音声を伝達していません」という決別の意思表示が極めて機械的になされていた。


          〇


 屋代は全身を強張らせ、部屋を飛び出した。燃えるような憤慨が内臓を突いている。めちゃくちゃに拳を振るい、声が続く限り叫んで発散しなければ身体がばらばらになりそうだった。

 粘性の強い唾が溜まり、喉が詰まる。近くにあった居間の扉を、思い切り、蹴り飛ばした。扉は壁に衝突し、鈍い音を立て、震えた。蝶番が軋んでいる。

 それでも気分は収まらなかった。この部屋で幼少期を過ごしたという事実に震えが止まらない。この空間から自身の痕跡を消さなければ壊れてしまうのではないか、という荒唐無稽な予感が神経を引っ掻いている。


 どうするべきが答えが浮かばず、立ち尽くしていると、忙しなく動く全自動掃除機が足にぶつかった。

 感情にまかせて蹴り上げようとして、身体が固まる。確認しづらかったが、絵ともマークとも言えない歪んだ模様が視界に入った。正方形の隅に描かれたその模様が記憶を刺激する。紛れもなく、幼少の頃、屋代が印したものだ。

 この場所で生きていた証左。

 血液が沸騰する。屋代は全自動掃除機を拾い上げ、あらん限りの力で床へと叩き付けた。プラスチックの割れる音が肌にぶつかり、破片が周囲に飛び散った。ひっくり返った機械はのたうち回るかのように車輪を動かしていたが、全力で踏みつけると重要な回路が遮断されたのか、一切の挙動を止めた。


「くそっ」


 こみ上げる吐き気を堪えきれず、奥に設置された台所まで近づく。使われた形跡のないシンクには水垢がこびりついていた。それすらも気味が悪く、屋代は嘔吐する。食道を逆流した酸味が舌を削り、黄色がかった液体がぶちまけられた。水を飲む気にもなれず、胃液と唾液が混ざり合ったものを何度か吐き出してから口元を拭った。

 視界の端には銀色の食料供給機が存在している。

 これがなければ何かが変わったのか?

 そう考えると居ても立ってもいられず、立方体の機械にしがみつき、引き剥がすべく腕に力を込めた。しかし、接地面に強く固定された供給機はびくともせず、殴りつけても拳の皮が剥けるだけで、衝動に任せたあらゆる行動が徒労に終わった。

 ああ、俺には、取るべき道なんて一つしかなかったんだな、と誰にともなく、呟く。迷うに値する選択肢などなかったのだと気付くと、不思議と気分は澄んでいった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る