第2話 再生するアドレッセンス

 「大丈夫? 村瀬さん」

私は後ろを振り向いて訊ねる志藤に少し微笑む。

「大丈夫です。すいません、心配かけて」

バイトが終わったのは二十一時のことだ。

私も志藤も新宿に住んでいるわけではないので、こうして駅に向かっている。

「熱だったら言ってね」

「でも、私休んだら志藤さん一人になっちゃうじゃないですか」

そもそも熱ではないのだから、こんな心配は杞憂なのだ。

それに志藤に会えるのならば私は這ってでも喫茶店まで行く所存だ。

「いや、真尋ちゃんがいるから……」

「真尋ちゃん? って誰です?」

「和泉さん……って知らない?」

「知りませんけど……」

誰ですかその女は。

二話目にして早くもライバル登場でしょうか。

「喫茶店の上に探偵事務所があるのは知ってる?」

「えぇ……確か詩織さんがそんなことを」

探偵事務所を経営している二階の住人は、喫茶店が入っている雑居ビルのオーナーも兼任している。

度々喫茶店にも来るらしいけれど、私は夕方しかシフトが入っていないため会ったことはない。

「そこの探偵事務所の助手の女の子なんだけど、午前中は喫茶店を手伝ってくれてるんだよ。その子がいるから村瀬さんが熱を出しても大丈夫かと……」

「あぁ……そう、なんですか」

そんなことより、私は真尋ちゃんとやらが下の名前呼びな方が気になってるのだけど。

私は村瀬さん、って他人行儀なのに。

まだ見たこともない「真尋ちゃん」に私は無意識に嫉妬している。

探偵事務所の助手ってことは、お姉さんタイプなのかと思ったけれど、ちゃん付けってことはもしかして高校生くらいなのか。

高校生で探偵の助手って、まさか天才少女?

「どうしたの、そんなに難しい顔して」

志藤が逞しい腕を上げて頭を掻く。

その仕草の可愛さで、私の下らない推察はどこか彼方へ飛んで行ってしまった。

「なんでもないです。それに、もう治りましたから大丈夫です」

無い胸を叩いて、元気アピール。

ちょっと子供っぽ過ぎるかな。

「そっか、なら良かった。何事も元気が一番だからね」

爽やか過ぎる笑顔のシャワーを浴びて、私は思わず俯く。

写真撮って良いですか、と言い出しそうになる口元を軽く押さえて。

新宿駅の近くに来ると、人が輪をかけて多くなる。

どこを見ても人、人、人。

私はそれを利用して人を避けるフリをしてしたたかに志藤に近寄る。

本人は汗臭いと卑下するけれど、志藤は暖かい匂いがする。

これが噂の陽だまりの香りというやつなのか。

「汗臭いから」

そう言って申し訳なさそうにする志藤。

「それだけ頑張ってるってことじゃないですか」

そうだ、汗を流すだけ頑張ってるっていう勲章じゃないか。

「んむー。そうなのかな」

「そうなんです」

敵わない、といった表情で困ったように微笑む志藤。

普段からあらゆる人や物にそういう顔をするのだろうか。

そう思うと少しだけ、ほんの少しだけ嫉妬してしまう。

そんな優しい表情、自分だけに向けてくれればいいのに。

なんて。

私達は新宿駅の改札を過ぎると、階段を上ってホームへと至った。

私は総武線、志藤は山手線に乗るため同じホームで別れることとなる。

もしかしたら傍目からはカップルに見えていたりするのかもしれない。

見えていたら、良いんだけど。

「それじゃあ、気を付けて。今日はゆっくり休んでね」

志藤さんは先に来た山手線に乗り込む前にそう言うと、手を軽く振った。

ガタイが良いから、人の多い新宿駅では息苦しそうだ。

そんなことは感じさせない人の良い笑顔で、あの人は最後まで微笑んでいた。

本当に、優しい人。

よこしまな思いを抱く自分が、厭に思えるくらい。



 家に帰って来たのは電車に乗ってから三十分後。

我が家は新宿駅から総武線で五駅目を最寄りにして徒歩十分のところにある。

以前は自転車を使っていたけれど、今はダイエットのために駅からは歩く事にしている。

街灯に照らされている道を歩いていると、太腿に振動が。

電話だ。

しかし、こんな時間に誰が……。

「もしもし」

「あ、紗綾? 今大丈夫?」

麻紀からだった。

「良いけど、何よ……」

「悪かったわね、あの……ほら、琢磨のバカが」

琢磨がデブ専と言ったことを気にしているのか。

結局あの後、私はあの二人の前に姿を現さなかった。

傷付いていたわけではないけど、少し昔のことを思い出していたからだ。

「気にしてないから、大丈夫」

「そう? でもあの人……志藤さん? 良い人そうだったじゃない。及第点」

なんで麻紀が採点しているのか分からないのだけど、及第点なら良いか。

志藤という名前は恐らく名札を見て知ったのだろう。

「実際良い人よ。本当に良い人……」

そんな良い人が、私の今のこんな思いをしったら引いてしまうだろうか。

幻滅してしまうだろうか。

距離を置かれてしまうだろうか。

ならば、今のまま気持ちを抑えていた方が賢明なのか。

「何卑屈になってるのよ」

「卑屈になんて……」

見透かすような言葉に、思わず狼狽えてしまう。

なんで、いつも私は誰かに恋慕するたびに卑屈になってしまうのだろう。

いつから、そんな

「まだあのこと、引きずってるの?」

「引きずって……」

無いと言えば、嘘になる。

今日だって思わず、厨房の中で思いにふけってしまったのだから――。




 なぜか、神様はいつも私に実りの果実をくれなかった。

前世で悪いことをしたのか、はたまた日頃の行いのせいか分からないけれど。

とにかく、今まで一度だって私の思いは成就した試しがない。

父親は、少しだけ有名なスポーツ選手だった。

オリンピックに出る程ではないけど、その道の人であれば大抵は知っている程度の。

今でもそうだが、父の肉体は衰えることをしらず、筋骨隆々としている。

俗に言えば、細マッチョというやつなのか。

なんだかよく分からないけど、父は家ではいつでも上半身裸だった。

父の学生時代の友人や教えに行っているクラブの子達が家に来た時もそうだ。

変態とか露出狂、とは少しベクトルが違うと思う。

多分だけど、父は自分の肉体に誇りを持っていて、アピールしたいのだ。

自分の肉体美を誰かに誇示したくて、称賛されたくてたまらないんだと思う。

そこを抜きにすれば父は自慢できる良いお父さんなのだけれど。

私は小さい頃からその父の肉体を見て育ったせいか、それに魅力を感じなくなっていた。

食傷気味というか、飽食というか、とにかくああいった筋肉に慣れ過ぎてしまったのだ。

そのせいで私は肉の付いた、可愛く言えばマシュマロのような体系の男性に惹かれるようになった。

中学の時に、一度凄く好きになった人がいた。

それまでにも好きになった人は何人かいたけれど、皆揃って彼女がいたり彼氏がいたりして、告白にまでは行き着かなかった。

その人は柔道部の同級生で、私は部活が終わった後に呼び出してそこで告白した。

結果は、まぁ、ダメだったんだけど。

そこは別に問題では無かった。

だってそれは縁が無かっただけだから。

問題はその後だった。

私が好きになった同級生はいわばクラスの階級で言う、いじられキャラみたいな立場の子で、誰が密告したのかは知らないけどすぐにクラス中に私がその子に告白したことが拡散してしまったのだ。

その子は元々デブっていじられていたこともあって、私は「デブが好きな女」という烙印をクラスの男子から押されることになった。

「デブが好きとか、気持ち悪いな。つか変態だろ、お前」

「デブ専とか初めて見たわ、つーかサインください、みたいな」

「おいおい止めろよ、デブ専がいるから世の中のデブは救われてるんだからさ」

嘲笑、嘲笑、更に嘲笑。

まぁ、その男子たちは全員もれなく麻紀にボコボコにされてしまったのだけれど。

「誰かを好きになれるってだけで、幸せなことじゃん。ていうかそんなこと言い出したら世の中の女子は皆顔専だし。だから気にすんなよ、あんな童貞達のひがみなんて」

当時ヤンキー街道まっしぐらだった麻紀は、そう言って私と友達になってくれた。

それで今の今までこういった関係が続いている。

麻紀はそう言ってくれたけれど、それでもやはりその経験は頭に残響している。

だからどうしても、告白という一歩が踏み出せない。

それどころか、好きであることを意思表示することすら難しいのだ。

断られることが怖い訳じゃない。

そのことで周りから後ろ指を指されることが、怖いのだ。



 「これから、どうするつもりなの?」

麻紀が電話越しに訊ねてくる。

「どうするって……どうするもこうするもないわよ。いつも通り……」

「いつも通り、何もせずに傍観して妄想するだけ?」

「…………」

ぐうの音も出ない。

「そんなことしてたら、いつまでも実らないわよ。自分から動かないと」

「そうだけど……」

「怖いのは分かるわよ? でもアンタが常々欲しがってる実りの果実ってのはさ、そういう所にしかないのよ、虎穴に入らずんばなんとやらって言うじゃない。まぁ、何か言うヤツがいたら前みたいにボコしてやるから安心しなさいって」

「麻紀……」

「ほら、しおらしい顔しないの。幸せが逃げて行くわよ」

まるで目の前にいるかのように、麻紀が笑う。

「今日みたいに仮眠しないように、今日は早く寝なさいよ」

母親かよ。

「分かったわよ。はぁ……」

溜息を一つこぼして、星の無い空を見る。

「ありがとうね、私、ちょっと頑張ってみる」

「その意気よ。アンタそれなりに美人なんだから大丈夫よ。私ほどじゃないけど」

「なによ、私の方が美人じゃない」

「なに、やる気? ケンカなら負けないわよ」

そう言い終えると、私達は二人して笑った。

周りの目なんか気にならないくらい、大きな声で。

もう家に着いてしまう。

暗い空から、小さな雨粒が少しずつ降り始めていた。





 「おはようございます」

今日はなんとか仮眠せずに済んだ。

私は大学から直接喫茶店に至ると、昨日と同じように挨拶をする。

確か今日も志藤と一緒だったはずだ。

なんて素敵な日なのだろう。

「あ、おはようございます」

喫茶店にはエプロンを巻いた可愛らしい子がいた。

多分まだ十代だと思う。

肩くらいまで伸びた黒い髪を揺らしながら、その子はぺこりと頭を下げる。

「えっと……」

和泉真尋いずみまひろです。ここでお手伝いをさせていただいてて……」

考えあぐねていた私に、真尋は自己紹介をする。

ん? 待てよ。

和泉真尋……真尋……真尋ちゃん……

これが噂の真尋ちゃん?

「村瀬さん、ですよね? まだ慣れてないところもあると思いますけど、よろしくお願いしますね」

可愛い。

変な意味では無く、単純に可愛い。

「あぁ……よろしくね、和泉さん」

というか、志藤の話を鑑みるにあの子は探偵の助手なのか。

あんなに可愛くて頭も良いとか、人類最終兵器リーサルウエポンかよ。

神様ってなんて不公平なのかしら。

私はそんなことを思いながら更衣室へ入っていく。

すると既にそこには

「あぁ、おはようございます。村瀬さん」

志藤がお着替え中で。

とはいえエプロンを巻くだけなんだけど。

「お、おはようございます」

水色のシャツが皺ひとつなく張っている。

服とか選ぶの大変なんだろうな。

出来れば私が選んであげたいけれど。

「どうしたの? ボーッとして」

「いや、なんでも……」

しまった、見惚れてしまった。

私はそそくさとエプロンを巻くと、志藤と一緒に更衣室を出た。


「さて、今日は週末でちょっと忙しくなるだろうから、ピンチヒッターで真尋ちゃんも入れて四人体制で行くわよ。あれ、紗綾ちゃんは初めてだっけ? 真尋ちゃんとシフト入るの」

「えぇ。あ、でもさっきちょっとだけ……」

「そう、良かったわ。あ、でも真尋ちゃんを怒らせちゃダメよ。ここのオーナーの血筋なんだからねー」

詩織さんが冗談めかしてニヤリと笑う。

「やめてくださいよ」

真尋が遠慮がちに苦笑いする。

「あれ、オーナーって上の探偵さんなんじゃ?」

志藤が不思議そうに目を丸くしている。

しかし真尋の横に立つと慎重さが凄絶なことになっている。

「そのオーナーの従妹だから、真尋ちゃん」

え、そうなの。

てっきり上の探偵と付き合ってるのかと適当に勘繰ってたけれど。

待て待て、じゃあオーナーの血筋の権限を利用して志藤に近付いたりして……。

とんだ強敵の登場だわ。

「あの、そんなことありませんから、冗談ですから」

必死に両手を振る真尋の挙動が、やっぱり可愛らしかった。




 「ねぇ、真尋ちゃん」

時刻は八時過ぎ、やっと人が少なくなってくる時間帯。

私はモップをかけながら机を拭いている真尋に声をかけた。

「なんですか?」

「あのさぁ……真尋ちゃんって」

「はい」

「そのさ……」

「はい」

「…………」

「どうか、されましたか?」

「…………好きな人とかいるわけ?」

「へ?」

真尋は豆鉄砲を食らった鳩のように驚くと、拭いていた手を止めた。

「んー……気になってる人、っていう意味ですよね?」

「まぁ、そうだけど……」

「いますよ」

え、え、え。

「いるの?」

そりゃこんなに可愛い子だったら気になってる男の一人や二人はいるか。

「どんな人?」

「えーっと……仕事で会った人なんですけど、大きくて、真面目そうで優しい人で……」

「うんうん……。大きいって、身体が?」

「そうなんですよ、車に乗っても運転席がいっぱいいっぱいになって……」

あれ?

待てよ待てよ。

仕事で出会って、身体が大きくて優しい人。

あれ、志藤さんじゃないの? それ。

しかも車に乗って、ってことは志藤さんの車に乗ってってこと?

ちょっと待て、ちょっと待って紗綾。それ以上はいけないわ。

「そ、そうなんだぁー」

それって志藤さん? とは流石に訊けなかった。

「そういう村瀬さんは、いらっしゃるんですか?」

私は、私は……。

「い、いないわよ。現れないかなぁ、良い人」

目を逸らすと、冷たい汗が額を伝っていった。



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