022 あの人の背中

 「お早う、ございます」


 何時も通りの時間。私は岩場に着いて、ジェイムズさんに挨拶をする。


 「お早う」


 短く、返される。此方は見ないで、ただ岩を眺めながら。


 (集中してる……)


 ジェイムズさんがこういう風になった時は、少し寂しい。けれど、其れ以上に好きだった。


 近くの石に腰掛けて。

 腕を時折動かし、頭のなかで岩を登って。

 眉を潜めながら、視線は岩のフェイスから動かさないで。


 そんなジェイムズさんを見るのが、この三週間、堪らなく好きだった。けれど、それは今日でお終い。だから、普段よりもいっそう寂しい気持ちになってしまう。


 (もし、ジェイムズさんが今日登れなかったら)


 その時は、明日も会える。そんな、邪な期待もしてしまう。




 そんな、色んな感情が、蠢く静寂のあと。ジェイムズが靴紐を縛り始めた。紐を、緩めて。締めて。丁寧に。


 (登るんだ)


 フォクシィは、来るべきときが来た事を察した。掛ける声も無く、黙って、見る。ジェイムズの挙動の、一つ一つを。

 ジェイムズは、紐を締め終えて。足を地面に押し付けて、感触を確かめる。


 「スゥ――」


 深呼吸を一回。そして、岩に向かう。

 岩に触れる。乾いて、悪くない。スタートの、カチを掴んで。


 「――――」


 一手目を出した。




 ああ、登り始めた。フォクシィは、黙ったまま、息を飲む。

 岩肌を突起や欠けに、指を置く度に。筋張るジェイムズさんの前腕が、妙に艶めかしい。


 (きれい、だな)


 彼の顔立ちを見たときも、そう思った。でも、彼の力強い登りは、其れ以上に美しい。

 掴む指の動き。掛ける足先。その一つ一つに、費やした経験と情熱が見て取れた。

 そして――


 (――あそこ)


 次の手。欠けて、より悪くなった、外傾ホールド。このルートの核心。

 両の腕に、一旦体を引き付けて。少しの無重力に体を預けた瞬間に。


 出した。右手。


 一直線に伸ばされた、腕は、指は。正確にホールドを捉えて。

 でも、飛び出した勢いに浮いた足は、そのまま壁を離れて。




 ――離れたまま、止まる。


 丁寧に足を上げ直し、爪先で結晶を捉える。重心を移動して、左手も次の場所に。


 (超えてしまった)


 フォクシィには確信めいたモノがあった。ジェイムズさんは、落ちない。

 実際に、目の前の光景も、その通りで。ジェイムズさんは、リップを取って。


 「――登れたよ」


 何でも無さそうに、ジェイムズさんはこっちを向いて。でも、その顔は満足気で。

 そんなジェイムズさんの目を見て・・・・、私は言う。


 「やりましたね――」


 それに答える様に、ジェイムズさんは拳を挙げて。

 ――笑った。




 「此れで、お別れですね」


 降りてきたジェイムズさんに言った。 


 「うん、暫くはそうなるかも」


 ジェイムズさんはそう返した。暫く。きっとまた、此処には来てくれるんだ。

 でも私は此れで、お終い。会うのも、最後。だから――


 「今度は、私の番だ」


 そう言った。ジェイムズさんは、登ったから。だから、私も登る。

 変なしこりを遺したくないし、後ろ髪を惹かれるのも嫌。


 岩に近づき、触る。もう、此れとも一年の付き合いだ。少しの間だけだったけれど、私の、私としての全てだったモノ。

 裸足になる。此れもまた、いつもの様に。


 「――よし」


 最後は、笑って終われるように。そんな思いを込めて、開始点に飛びついた。

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