凍土ゆく!-赤い髪のウルブスキィと愉快な仲間たち-

南河 十喜子

一章 サスツルギの稜線

第1話

 乾燥した空気に、ウルブスキィは軽く……囁く程度の軽さで咳払いをした。

 コンテナの室内温度計の数値は、マイナス三十五度。壁のあちこちには霜がびっしりと張り付いているが、外気よりもずっと温かい。

 とはいえ、数字上は温かくとも人体に対しては冷酷な温度だ。体を丸めてがちがちと歯の根を鳴らしながら、ウルブスキィは毛糸のマスクにこびりついた霜をバリバリと剥がす。

 すぐに呼気が固まり霜となるが、何かしていないと凍り付いてしまいそうだった。

『ウルブスキィ、生きているか? 駄賃にもならない冷凍鳥と我慢比べは、人のみでは辛いだろう。一攫千金は諦めて、さっさと帰ろう』

 ゆったりとした男の声が、頭の中に響いた。

 ウルブスキィが身を隠しているコンテナを牽引している雪上車で、ぬくぬくと暖を取っているだろう相棒のジャコウだ。

 こめかみ付近に移植してある極薄の通信回路、多面的回路エリ・クシールを通しての会話は、肉声よりも、声がより近くに感じる。

 声を出さないで会話ができる多面的回路は、極寒の地での意思疎通に効力を発揮するシステムだ。

『俺がどうして凍死しそうになっているのか、忘れたとは言わせないからな』

『かつての人類の言葉に〝罪を憎んで人を憎まず〟とある。つまりは、そういうことだ』

『謝って済むような問題なら、俺だって洟水垂らして冷凍庫の中に立ってないさ』

『不凍タンパクFTP剤の効力は、あと二十四時間もある。突っ立っていて寒いのなら、足踏みでもしていたらどうだね?』

「てめえの、脳みそかち割ってやるぞ!」

 思わず肉声で怒鳴り、ウルブスキィは咳き込んだ。思いっきり吸い込んだ冷気に、喉の粘膜が焼かれたのだ。

『こっちは腹も減っているが、財布の中身はもっと空っ欠だ。野営四日目にして、ようやくの正念場なんだぜ。気合いを入れないで、どうするよ?』

『とりあえず、路頭に迷うなんてオチだけは、避けたいと。なに、いざとなれば体の一つや二つ、売り飛ばしてしまえ。人間は高く付くからな』

『色気がねえって、門前払い喰らってんだよ』

 強ばってきた目の粘膜に観念して、ウルブスキィはしかたなく、首に提げていたゴーグルを装着した。見た目は普通なのだが、バッテリーを乗せているせいで重くて長くは着けていられないのだ。

『私の愛で、腹は満たされないのかね?』

『知ってるか、ジャコウ? 世の中にはな、金を放り込まなきゃ動いてくれないものが沢山あるんだ。残念ながら、愛は万能じゃない。氷床を渡る雪上船の燃料、整備。食料品に衣料品、町の滞在費等々、出て行く金を数えてゆけば、際限がない!』

『口を開けば、金の話か。おまえが、そんなにセコイ男とは知らなかったぞ』

『現実的だと、言って欲しいね。何をするにも、資金は必要だ。なのに、オマエ達と来たらなんだ! まとまった金が入ればすぐ酒だ、賭博だの。もっと、真っ当に生きてみたらどうなんだよ! 毎度毎度、帳尻を合わせるオレの身になってみたことはあるのか? 綺麗な顔だけじゃ、喰っていけないんだってこと、いい加減に分かれよ馬鹿! 外でひと踊りして、生まれ変わって出直してこい!』

 ジャコウからの通信を、緊急時以外は弾く設定にして遮断し、ウルブスキィは装備の最終チェックを始めることにした。

 迷彩も兼ねている白いロングコートの下に着込んでいるのは、新調したばかりの軽装甲付き防寒ウェアだ。

 マイナス四十度から、五十度。つまりはこのあたりに地域に生息している巨鳥、氷床毛長鳥をたっぷりと三頭分使っただけはあって、具合は上々だった。

 氷床毛長鳥の背面の羽毛を織り込んだ生地は撥水効果が高く、僅かな光沢を持つ。そのままでも柔らかい腹の毛を使用した内側は、保温効果がとても高い。だからこそ、この劣悪な環境にあっても生きていけるのだ。

ウルブスキィは倉庫の隅にぶら下がる、薄ピンク色の巨大な肉塊に視線を向けた。

 今回の狩で仕留めた氷床毛長鳥だ。厳つい鳥足を纏めて縛り、張り出したパイプに四頭並べて逆さに吊ってある。むろん、がちがちの冷凍肉だ。コンテナが揺れるたび、楽器のように賑やかな音を立てる。

 氷床毛長鳥は、ついでだった。需要はあるが、市場の方はむしろ飽和気味とあって、手間の割には、あまり高く売れない。子供の駄賃程度のはした金じゃ、切羽詰まった状況を切り開くことなどできっこない。

 ウルブスキィが狙っているのは、もっと大物だった。

『残念だが、睦言もそろそろ終りにしなければならないようだ。餌に近づく熱源を感知した。うむ、大きいな』

『……真打ち登場、ってやつか?』

氷床毛長鳥を仕留めたのは、売るためではない。このところ頻繁に目撃されている、白い羆……絶対領羆イオマンテをおびき寄せるための罠だった。

 生きたまま捕獲した氷床毛長鳥は、雪上車から離れた場所にある岩にくくりつけてある。ギャアギャアと鳴いて、闇の中に潜む獣をまんまとおびき出してくれたようだ。

ウルブスキィはマスクの下でしてやったりとほくそ笑み、ウェアと同じ素材の手袋をはめ直した。

 スナイパー・ライフルを手にとって、ざっと問題がないか見回してから、ストラップを肩に掛ける。

自由電子レーザーF.E.Lスナイパー・ライフル〈タロ〉。ずっしりとした重みはそのまま、己の命の重さに比例する。

 ウルブスキィは、コートに付いているフードを被り、生死の境を隔てる隔壁の前まで歩いて行く。近づけば近づくほど、凍てついた空気に肌がざわめいた。

『ジャコウ、扉を開けてくれ』

『了解だ。幸運を祈る。君に我らが星の籠があらんことを』

 格納庫が大きく震え、外装にこびり付いた氷塊をぱりぱりと強引に引き剥がしながら、大きな扉がゆっくりとスライドしてゆく。

 軋んだ金属音がやけに耳に障り、眉を顰めるウルブスキィは、間髪を入れずに吹き込んでくる風に、反射的に息を飲んだ。

 触れるものを瞬時に殺す、悪魔の息吹だ。

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