第8話 亀井と亀井(後半)

 私には才能がなかった。

 なかった、なんて過去形で言えるほど実力をつけているわけでもないのだけど。

 私が自分の欠陥に気付いた時は小学生の時、母方のおばあちゃんの葬儀の後だった。

 共働きだった我が家で、最も私と長く過ごしたのがおばあちゃんだった。ご飯を食べる時も、夜にテレビを見る時も、寝る時も、いつもそばにおばあちゃんの温かさを感じていた。

 小学生の時の私はまだ「死」というものを正確には理解できていなくて、どこか遠いところに旅に出た、くらいにしか考えられなかった。ただ、おばあちゃんにはもう二度と会えないという事、それが辛くて私も家族と一緒に泣いていた。

 葬儀の後一週間程経った頃だろうか、家の中に見慣れない家具が増えた。


「お母さん、これ何?」

「それはね、おばあちゃんの仏壇だよ」

「仏壇?」

「うん。死んじゃった後のお家……みたいなものかな」

「へぇ……」


 そう言って、母は私と一緒に線香をあげた。

 目を閉じて私は考えた。自分の未来についてだ。といっても具体的な幸福を想像したわけでもなく、漫然とした不幸を想定したわけでもなく、ただ最終的にどこに帰結するかを考えた。

 今にして考えれば、最初から最後を直線で結んだだけの人生観に何の意味があるのだろうと疑問も持てるが、当時の私の頭はお世辞にもそれほど良いとは言えなかった。

 当時の私は、極めて短絡的に悟った。

 どうせ死ぬ、と。

 あくる日に突然目覚めなくなって、焼かれて、灰と煙になって霧散して、最後には腕の中に納まるほどの骨になる。その後に道はなく、声も出せぬまま、ただ仏壇に押し込まれ、忘れられ、やがて何もない無になる。

 体の中に爆弾を埋め込まれた気分だった。

 私は母に抱きついて泣きじゃくった。母は私の頭を撫で続けてくれたが、それでもこの恐怖が和らいだりはしなかった。私は「死ぬことが怖くないの?」と母に尋ねた。

 母は言った。


「そうねぇ……怖いことには怖いけど、でもお母さんには――達がいるから。お母さんが死んじゃった後も、――と陸が生きていてくれるなら……そうね。あんまり怖くはないかもね」


 当時の私には、母の言うことは理解できなかった。自らの死の恐怖を、他者の生存によって上書きする。愛情だとか、親愛だとか、自己犠牲だとか、そういう思考のプロセスを一足飛びに超えて説明されたそれには、私の理解は追い付かなかった。

 それから私は悩んだ。理解は出来ずとも、恐怖から逃れる方法があるのなら知りたかった。母の言ってくれたそれは、私が伴侶を持ち、子を成した前提で出来るものだ。幼い私も、ぼんやりと将来は誰かと結婚しているものと思っていた。

 しかし現実は違う。もし結婚出来なかったら? 相手が見つからなかったら? そんな不確実なものに私の死の恐怖を預けてもいいのか? いや、それ以前に、私はこれから大人になるまで、ずっとこの恐怖を抱えて生きていかなければならないのか?

 それが無理だと悟るまで時間はそれほどいらなかった。なにせ私はこの一晩でさえ耐えられなかったのだから。

 枕を濡らして布団にもぐりこんだところで、眠気は一向にやって来ない。どうにか他の事を考えたくて、いつも読んだりはしない、小難しい活字だらけの本を必死になって読んでいた。

 学校に行って、鶴子ちゃんに会っても、他の友達と話しても、どうしてもこの恐怖が頭を離れることはなかった。それどころか、目の前で授業をしている教師が、どうしても気持ち悪く思えてならなかった。

 友達は良かった。まだ死の恐怖を知らない可能性もあるからだ。しかし教師は違う。大人だ。絶対に知っているに違いない。だというのに、何故あんな表情を出せるのか、気安く笑顔を作れるのか、怖くて仕方がなくなった。

 つまるところ、私は欠陥品なのだと、初めて気づいたのがこの瞬間だ。

 普通の人間にできることができない。あまつさえこのような些事に感情を振り回される愚物だと、少なくとも私はそう感じ取った。


 緊急に、探さなければならなかった。私がこの世に残せる何かを。


 スポーツでもいい。芸術でもいい。賭け事でも、仕事でも、遊びでも、なんでもいい。ただ、この世に私がいたという事実を残さなければ!

 才能が必要だった。どの分野だってそうだ、結果を残すには才能がいる。でも私にはそれが何一つなかった。

 鶴子ちゃんに小説を見せて、初めてほめてもらえて、それで私がどれほど救われたことか! ああ、これで自分の未来を絶ち続ける日々も終わると、喝采を浴びたい気分だった。

 ただ、才能がないことは別の問題だった。小説を書いて、書ききって、ようやくわかった。私に文を書く才能などないことを。

 しかし私は幸運だった。ひとつだけ、本当にこの一つだけだが、私自身が自覚できなかった類稀な才能があったのだ。

 私では才能のある文章を書くことができない。だが、私以外の人間にならどうだろう。いや、としたら、可能性はあるのではないか。そう考えたことから始まった。


 必要なのは、なにがあっても折れない不屈の心。

 必要なのは、自信過剰を通り越した傲慢に近い自信。

 必要なのは、恐怖を上塗りできるほどの傍若無人さ。


 今まで読んできた小説の中、そこに出てきた様々な人物たち。それらを素材として、自分の中の別の人格を肉付けしていく。ゆっくりと慎重に組み立てて、時々表に出しては眺めて、また形を整えて、そうやって完成に近づけていった。

 私と、私の中の彼女が高校生にあがってすぐの頃、ついには完成した。しかし、完成した彼女すらも欠陥品だった。彼女は私の体を十全に扱うことができたが、どういう理屈なのか、口だけはどうしても彼女の思うとおりに動かせなかったのだ。


 そして今だ。私は強いショックを受けると、こうして彼女をしまう。これはもう自分の意志で抑えられるものではなく、これまで明るくふるまってきた分のツケが回ってきたのだと思うことにした。


 今回で二度目だ。自分の作った人格に自分が助けられるなんて、とは思わない。もともと私が恐怖を忘れるために作った人格だ。でも、それでも、私は彼女に謝らなければならない。私が作った娘であり、親友である彼女に対して。


「またひきこもってんのか……亀井」

「うん……ごめんね……亀井さん……」


 苦く笑った口元に、ちょっぴり野性的な歯をのぞかせながら、彼女は私に手を伸ばした。




***




「まだベソかいてんのか……」

「うっう……ごめんなさ……」

「いや、まぁいいけどさぁ」


 二人して棺桶に座って、黒い砂漠を眺めながらぼんやりとした時間を過ごす。私の中の亀井がこうなったことは初めてではない。普段は馬鹿みたいに明るいくせに、こいつは一度落ち込むとひどいのだ。


「で? 今回は何? 新人賞落ちたからか?」


 無言で首肯する彼女は、いまだすんすんと鼻を鳴らしている。私と全く同じ容姿であるため、その姿はやたら様になっている。隣にいるのが普通の男であったなら放ってはおかないだろう。

 ローファーを砂に埋めたり持ち上げたりしながら、私の中の亀井に話しかける。


「大丈夫だって……まだ……何回目だ? 五回? まだ絶望するような段階じゃないだろ。そりゃ今回は結構自信あったけど……はぁ」


 後ろ向きな話をすればこちらも気が滅入ってくる。いくら私が非凡と言っても、人並みに落ち込むし、悲しんだりもするのだ。

 だが、それでも立ち止まらないのはそれ以上に自分を信じているからだ。誰が何と言おうと、私は世界に認められる稀代の小説家だと、自分で確信しているからだ。この願いは私一人の物ではない。元をたどれば私の親たる、私の中の亀井の願いから派生したものだ。

 彼女は弱く、繊細で、それでいて聡かった。苦しく辛い壁の立ちはだかる現実において、自分がこの先生きていけるはずもない、ということがわかってしまったのだ。


 私は架け橋だ。彼女と、辛く苦しい現実とを支える支柱への。

 そのために創られた私が、彼女を見捨てられるはずもなかった。こうして毎回呼び出されるのは正直言えばうっとうしいが、同時に放っておけないとも確かに感じている。

 ため息をついて、腰を上げる。


「ま、悩んでいてもしょうがないでしょ。落ちたのはまだ時期が早かったていうだけだよ。どうせ最後には華々しいデビューが待ってるんだから」

「そうかなぁ……」

「そうだよ。私が嘘ついたことあるか?」

「結構あるよね」

「……あったな」

「でも、私を騙そうとした嘘は、一度もついたことなかったよね」

「……まぁな」

「亀井さんは、強いよね」

「亀井がそういう風に作ったんだろうが」


 少しの沈黙のあと、二人して笑う。


「亀井さん、きっと、出来るよね?」

「任せとけ」


 そういって笑って見せると、彼女も笑顔を返してくれる。

 私は、私達は、笑っていた方が美人なのだ。


 唐突に雲が割れ、隙間から私たちに向けて光が差し込む。黒色の砂漠はその光に照らされると、青々とした草原へと変わり、鉄の匂いを運んできていた風も、薫風へと変化していく。

 だが、その変化も光の差している場所だけだ。少し視線を上げれば、赤黒の砂漠が地平線まで続いている。

 ご都合主義ここに極まれりといった風景だが、不思議と馬鹿にする気も起きない。


 数年後か、数十年後かわからないが、きっとこの世界にも一面の花畑が出来るに違いない。いや、そうしなければならないのだ。

 私は、それを成す為に生まれてきたのだから。


「じゃあまたな。亀井」

「うん。またね、亀井さん」


 この世界に来た時と反対に、自分の体が少しづつ浮き上がっていくのを感じながら、私は目を閉じた。


***


 誰かのビンタで目が覚めるというのは、起床後の不快感を数十倍に膨れ上がらせる行為だということを、私は今日初めて知った。

 コンクリートを枕にして突っ伏していた私は、通りがかった弟にしこたまビンタされ、目覚めた時には両の頬が真っ赤になっていた。

 弟と一緒に下校していた子供が近所の人に助けを求めたらしく、私が目覚めた時にはちょっとした騒ぎになっていた。礼儀として一応病院に行き、医師から問題ないとの太鼓判を押してもらい、家に帰ってきたのは十時過ぎだった。

 自室の椅子に座った瞬間、大きなため息が出る。普段起こりえないことが起きたことで精神的に疲れているのだ。

 今すぐ布団に飛び込みたいのはやまやまだったが、今日はまだ執筆をしていない。

 心は疲れきっているというのに、PCの前に座ったとたん、書くべき文章が頭の中にあふれだす。それらを一つずつ捕まえ、吟味し、書き出して繋いでいく。

 それらが、やがて彼女を現実とつないでくれることを信じて。

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いつかどこかの図書館で 鐘鳴タカカズ @JACCS

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