第6話 母


 長い沈黙のあとで、やっと口を開いたのはしのりんのお父さんだった。


「まあ、それはいいじゃないか。なんだかうまく言えないが、厳密なことを言えば、和馬は別に嘘をついていたともいえないわけだし」

「いえ……でも」


 僕は自分の膝に目を落とした。

 そうか。あのスマホに届いていた写真をこの人たちが見たからには、もうこの人たちだって、しのりんが長年必死に隠してきていた彼女の秘密をもう知っていることになるのだ。

 しのりんが、身体はたとえ男の子でも、心の中はそうではない人だったんだということを。



 そこから、お父さんは簡単にここまでの状況を僕らに説明してくれた。

 しのりんはその日、まえまえから予定していた通りに近くのお寺へ親戚一同と連れ立って墓参りに行ったあと、家族と一緒にこの家に戻ってきていたのだという。

 田舎ではよくある話だけれど、そのときもやっぱりご多分にれず、親戚たちは大勢集まってこの家で盛大に食事をすることになっていた。それでしのりんも、妹の真響まゆらちゃんもお母さんと一緒にその準備を手伝っていたのだと。

 そうこうするうち、ふと手を休めてポケットのスマホを取り出し、その画面を見たあたりから、しのりんの様子がおかしくなった。


 話しかければ返事はするし、ちゃんと笑ってもいたらしいんだけど、どこか心ここにあらずといった様子で、しのりんはぼんやりしているようだった。そうしてその数時間後、夜になって酒も回ってきた親戚連中がにぎやかに談笑する中、ふらりと縁側から庭の方へ出て行ったのを、真響まゆらちゃんは見ていたのだという。


「お兄ちゃん、『ゆのぽん』さんと電話やLINEするの、すっごく好きだったみたいだし。『あ、またか』なんて思って、あたし……」


 真響ちゃんはそう言いかけて、押し黙った。

 いま、彼女は女の子らしいひらひらした袖のTシャツにホットパンツという軽装で、癖のない黒髪をポニーテールにしている。運動部に入っているのか、よく日焼けした、なんだか見るからに活発そうなお嬢さんだ。


 その後、あまり兄の戻ってくるのが遅いことを不審に思って彼女が庭に出てみたところ、そこには誰もいなかった。

 家の中にも周辺にも、その時にはもうしのりんの姿はまったく見えなくなっていたのだと。

 大人たちが慌てはじめて、みんなでもっと細かく探してみたところ、庭の片隅に投げつけられたような状態でしのりんのスマホだけが落ちていた。

 はじめのうちこそ勝手にその中を見ることをためらっていたお母さんも、やがてとうとう、そっとその中を覗いてみたのだそうだ。「ごめんなさい」と、しのりんに謝りながら。


 ……そして、慄然とした。


 そこに届いている、山ほどのメール。

 もちろんそこには、あの写真も含まれていた。

 その文面のほとんどは、しのりんの「性癖」を面白がり、揶揄しておとしめようとするものだった。

 そのほかにも、SNSで匿名のまま叩きつけられている、悪意と蔑みに満ちた暴力的な言葉の数々。


『なんだ、あいつやっぱりか』

『女顔ってだけじゃなかったのね〜。うける〜』

『そのとか、ねえわ〜!』

『いやいや、逆に意外性なさすぎっしょ?』

『で、そいつとどこまでヤッてんの〜?』

『って、どっちよ? れるほう? 挿れられるほう?』

『クッソわろた』

『でも、結構かわいいじゃん。好みよ? 俺。挿れてあげてもええよ〜』

『うっわマジ? きもっ!』


 汚らしい哄笑。

 無責任で下卑た文言の羅列、羅列、羅列。


 僕は拳をにぎりしめた。

 できることなら今すぐこいつらのもとに走っていって、顔面をぼこぼこにしてやりたかった。

 思いは茅野も同じであるらしく、彼の目にはこれまでで最も危ない感じの殺気が宿っているようだった。


 と、突然、鋭い声が僕を打った。

「でも、やっぱり結局、この人のせいじゃない!」


 真響まゆらちゃんだった。

 彼女の瞳はらんらんと光っていて、まっすぐに僕を睨みつけていた。


「この人がお兄ちゃんと、パパやママに嘘をついてあんなイベントに行ってなかったら、みんなにこんな写真を回されることなんてなかったんでしょ? お兄ちゃんがあんな格好をして出かける人だなんて、あたしはもう、友達にまで知られちゃったんだよ。お兄ちゃんの学校には、うちの先輩だっていっぱいいるし。同じ中学に、その妹や弟の子だっているんだからね!」

 彼女の声が、どうしようもない怒りに震えた。

「まゆちゃん……」

 彼女の隣から、青白い顔をしたお母さんが止めに入ろうとしたようだったが、彼女はそれには構わずに叫んだ。

「あたし、二学期から学校にもいけない……! いったい、どうしてくれるのよっ……!」


 ばちんと、その可愛らしい手が大きな卓を打ち据えた。

 僕はびくりと身体を固くした。


 その通りだ。一言いちごんもなかった。

 僕がもっと、もっと慎重に行動して、イベントのあと、しのりんが着替えるときに、じゅうぶん周囲に気を配っていれば――。


「……あのよ。ちょっと言わせてもらうけど」

 と、隣から落ち着いた低い声がした。茅野だ。

 茅野は胡坐あぐらをかいたまま自分の片膝に肘をつくようにして、じっと彼女を見つめている。

「別にシノは――」

 と言いかけて、茅野は「ああ、これはカズマのことな」と言い置いた。

「シノはなにも、こいつにだまされてイベントとか行ったわけじゃねえだろ。誘ったのはこいつってことでもねえし。もともと女の格好をするのだって、誰かに強要されたわけじゃねえ。あいつが自分で、そうしたいからしたことだ。それでなんで、こいつが責められることになんだよ」

 真響ちゃんが、うぐ、と言葉につまった。

「だ、……だって。お兄ちゃんは――」

 茅野は相手に構わず言葉を続ける。


「俺、知ってんよ? シノはこいつに会うずっと前から、ああいう格好するのが好きな奴だった。いや、格好がどうこうっていうのは、ちょっと違うな。つまり、そう……ここんとこがよ」

 言って、茅野は自分の胸を軽く拳でたたくようにした。

「こっちが男じゃなかったんだろ。……結構いるって言うからな、そういう奴」

 実を言えば、彼のお兄さんだってそういう人だったということは、僕はもう聞かされて知っている。

 僕の視線の意味に気づいたのか、茅野はちらっとこちらを見て苦笑した。そして、ごく当たり前のことを言うような声でこう言った。


「……ま、俺の兄貴もそうだし」

「…………」


 しのりんのご家族が、三人とも唖然とするのがわかった。


「……あの。いや、でも……」


 僕は、からからになった喉を励ましてやっと声をしぼり出した。

 僕らは出されていた藺草いぐさの座布団は敷かずに直接畳の上に座っていたけれど、まさにその場が針のむしろのような気がした。


「やっぱり、僕が迂闊うかつだったんだと……思います。しのりん……いや、和馬くんだって、みんなにこのこと知られるのは困るからって、一生懸命隠してたのに。あんな写真を撮って、悪意をもって回したのも多分、僕のほうの知り合いだと思うので」

「え? 心当たりがあるのかい?」

 お父さんが驚いた目でこちらを見た。

「はい。間違いないとまでは言えないんですけど、恐らく、っていう子がひとりいて。……多分、和馬くんは僕の巻き添えに過ぎなくて。理由はよくわからないんですが、その子は単に、僕にいやがらせがしたかっただけだと思うので――」

「そう、なのか……」


 と、その時、少しぼんやりしたような声でしのりんのお母さんが呟いた。

「隠してた……」

 そして、お母さんは僕のほうをそっと見た。

 その赤くなった目尻は、お母さんがずっとずっと、しのりんの事を心配して涙を流していたことを明らかに伝えている。

「やっぱり、隠していたんですね……あの子。私たちに……」

 そして両手で口元を覆うと、こらえきれずに嗚咽を漏らした。

「昔、もしかして……とは思ったことが何度もあって。でも、『男の子でもそういうことに興味を持つ時期はあるから』って主人に言われて、『ああ、そういうものかしら』なんて。わたし……」


 そこで声をつまらせて、お母さんは顔全体を両手で覆った。

 その声はもう、完全にすすり泣きと一緒になる。

 お父さんが鎮痛な顔になった。


「私たちを、心配させまいとしたんだと……思うの。だって、カズ君は優しい子だもの。女の子のしたがるようなことを少しでもしたいって言ったら、私たちが心配して変な顔になるのを、ちゃんとあの子、わかっていたのよ。……まゆちゃんにだって、心配掛けまいと思って、だから――」

 あとの声はもう、嗚咽にまぎれてよく聞き取れなくなった。

「ママ……」

 隣に座っている真響ちゃんがお母さんに近づき、反対側からはお父さんが肩を抱くようにした。


「つらかったでしょうに。本当は……ほんとうなら私たちが背負わなくちゃいけなかったものまで、小さなカズ君がひとりで背負ってきたんだわ。それは、どんなに――」

 お母さんの最後の声はもう、ただ泣き声でしかなかった。

「ちゃんと向き合ってあげなかった、私がいけなかったのよ……」


 僕もとうとう、そちらから目をそむけた。喉の奥がぎゅうっと痛くなって、歯をくいしばって必死にこらえていないとあふれてしまいそうになるものがあった。

 茅野も少しそっぽを向くような様子で腕組みをし、機嫌の悪そうな顔のまま、黙って応接間に面した庭の植え込みのほうをじっと見ていた。 


 茜色に染まった空のどこか遠くで、寂しげなひぐらしの声がしていた。

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